2019年5月31日金曜日

病理の話(328) 病理医は細胞の何をみているか

今日のは熱心に病理学を勉強している医学生向けだよ。よろしくね。なお、後半ではちょっとエッチな人妻が登場するよ。



顕微鏡で病気の細胞をみるとき、ぼくら病理医はいったい何をみているのか。

よく「細胞の顔つき」などと表現される。これはいかにも主観的だ。

細胞が癌かどうかは、病理医の気分によって決められている! なんて、したり顔でつぶやく人もあらわれてしまう。

けれども実際にはもう少し客観的で、根拠がしっかりとある観察をしている。今日は、そのへんの話をしよう。あと1000文字くらい書いたら、エッチな人妻を登場させるから待っててね!





すべての細胞は、あるべきタイミングに、あるべき場所で、決まった働きをすることが望まれている。

配置。周囲との関係・量比。機能。そして活動している時間の長さ。

これらは、すべて細胞ごとにコントロールされていなければいけない。そうしないと、人体という複雑なシステムは自己を保っていられない。

逆にいえば、これらのどれかが狂っている細胞は、「がん細胞」かもしれない。正常の細胞からかけ離れた何かを示している細胞を探す。それが、病理医の仕事だ。



一例をあげよう。



細胞の「配置」は、細胞同士のくっつき方とか、細胞が作り上げる構造の形をみることで、わかる。

細胞がしっかりと手を繋ぎながら並んで、試験管のような構造を作っているならばよし。

細胞どうしの手の繋ぎ方がおかしく、細胞と細胞の距離が一定せず、試験管であるはずのものが丸底フラスコみたいになったり、三角フラスコみたいになったり、あるいは枝分かれする”しびん”のようになっていたら、異常だと判断する。

これらのうち、特に、枝分かれはやばい。

試験管を作るはずの構造が枝分かれしているときには、どこかに必ず、「本来の細胞どうしの手の繋ぎ方では達成できない、分岐」がある。

手が2つしかない人は、両隣の人としか手をつなげない。人が手を繋いで並んでいる限り、「分岐」なんて起こりようがないのだ。

それなのに、人の列が「分岐」しているとしたら、誰かが手を3本以上持っているということになる。

わかるかな? 分岐がないはずの構造が分岐する、というのは、「圧倒的な構造の異常」なのである。




手が2本あるか3本あるか、というのは、「主観的」に決めるものではなく、「客観的」に判断できる。

「なんとなく正常の構造からかけ離れている細胞集団を探せ」というと、えらく主観的な作業に感じられてしまうけれどね。

病理医は、「なんとなくかけ離れを探す」のではなく、「根拠をもって、客観的に、かけ離れを意味する像を探す」のだ。それが職能である。





ごめんね800文字ちょっとしか書かなかったわ。1000文字に達しなかったので、エッチな人妻はまた今度にします。残念ですね。

2019年5月30日木曜日

山口さんちのツトムくんこの頃少し

ソニーの、首にかけるタイプのBluetoothワイヤレスイヤホンを使っている。

特に不満はない。

仕事中、イヤホンからメールの着信音やSlackのアラートが鳴るのがべんりだ。

顕微鏡をみていても連絡にすぐ対応できる(デスクの周りにいれば)。




強いて言うならば、意外と充電がもたない点は不満かも。

午前中に充電して、午後使い始めると、夜にバッテリーが切れてしまう。

だから、有線のイヤホンも未だに使っている。ワイヤレスの充電が終わったら有線に切り替える。




有線イヤホンはゼンハイザーという会社のやつを使っている。

一番安いやつではない。

それなりに高い。

けれどもバカみたいに高いものではない。高級イヤホンとまではいえない。




ぼくはイヤホンから流す音量をかなり小さく絞っている。業務中に話しかけられることもあるし、電話だってかかってくる。

そうなると、あまり高価なイヤホンを買っても、その音質は十分には享受できない。

あまり強力にノイズキャンセルするのもまずい。

そういうあれこれがあって、選んだ。




ゼンハイザー、5年ほど使ったろうか。

今日、とうとう、左側から音声が出なくなった。断線したのだろう。

まあよくもったほうだと思う。毎日使っているのだ。

車なら2回は車検に入っている。

いちどもメンテナンスせずに5年持つ道具なんて、もう、この世の中には少なくなってきている。




イヤホンを買い換えようと思ってAmazonを開いた。われながらだいぶ横着になったなあと思う。

「本は書店で買う、アマゾンは使わない」

と、あれだけ普段からアピールしているわりに、本以外のものについてはアマゾンを便利使いしている。




さまざまなイヤホンを探して画面を右往左往する。

おすすめが表示されても、それをなぜおすすめされているのか、理由がわからない。

先日ピエール中野氏が紹介していたAVIOTのワイヤレスイヤホンを以前に買ったから(職場では使わないのだ)、AVIOTがちらちらと目の端にうつる。

でもぼくがほしいのはあくまで有線のイヤホンだ。

だって無線のはもうあるんだから。




いったん、アマゾンをはなれて、Googleで、「イヤホン 有線 おすすめ」と検索する。知らない有名人や手練れの記者達が、ぼくにイヤホンをすすめてくれる。

ぼくは結局何がいいのかよくわからず、今まで使っていたゼンハイザーの同じモノを、アマゾンで探し当て、クリックして、買った。色すらも前と同じにした。





ぼくはネットの買い物を便利で使いこなしているつもりでいる。

けれども実際、よく考えてみると、AIがどれだけ高度なおすすめをしてくれても、結局はAIのいうことを無視して、今までと何も変わらないものを買ってしまう。

AIが進歩しても、使う方の脳が保守的だから、恩恵を十分に受け取っていないのだ。




性格的な問題がある。

3杯目はビール以外の飲み物にしようかなと思っても結局ビールを飲んでしまう。

今週の土曜日はラーメンを食おうかと思っていても結局うどんを食ってしまう。

白のTシャツはGUで買ってしまう。

行動変容の加速度が限りなくゼロに近い。

慣性が強すぎる。





そういえば、ぼくはそもそも5年前に、なぜゼンハイザーのイヤホンを買ったのだったか?

たしか、おそらく、ツイッターで、少し仲の良い人が、ゼンハイザーいいですよ、とすすめてくれたのではなかったか。

ぼくの根本のところにある、一番変容しない部分というのは、「なんかプロっぽい人が、自分より詳しい人が、にこっと笑ってすすめたものは、ひとまずそのまま使ってみる」というものだ。

だからきっと5年前も、だれか、ぼくよりはるかにイヤホンに詳しい人のいうことをそのまま聞いたんだ。

そこは変わっていないと思う。

今後、AIを使いこなすためには、この、「人のよさそうな先達にたずねた結果を盲信する」という行動を変容する必要がある。




なかなかしんどいのではないかという気がする。地球上での等速度運動は摩擦に負けるから、知らず知らずのうちにそっと減速していく。ぼくはもう減速し始めているはずなので、そろそろ、変容しないといけないと、わかっているはずなのに。

2019年5月29日水曜日

病理の話(327) 医者は顕微鏡をみて何がしたいのか

サッと病院言ったらパッと病名がついて、ガッと治療方針が決まってパッと治る。

これが理想なんだけど、いろいろと障壁がある。




想像してみるといい。




たとえば同じ「かぜ」であっても、

「かぜです! よかったですね」というシチュエーションと、

「かぜです! おつらいですね」というシチュエーションがあるだろう。

ないかな? ぼくにはあるよ。




この2つは単純にとらえ方の違いだろうか?

気の持ちようでどちらかに決まる、という類いのものだろうか?




違うのだ。みなさんもよくご存じかと思う。

ひとことで「かぜ」と言ってもいろいろな「かぜ」がある。

1.ただ鼻水だけが出ているかぜ。

2.ちょっとノドが腫れたかな、くらいのかぜ。

3.なんど鼻をかんでもくしゃみがとまらず、熱があって目のまわりがむくんで、全身がだるくてヘンな音のせきが出る、かぜ。

これらをぜんぶ「かぜ」と呼ぶのは乱暴ではないか? という話だ。




まあ病気の名前はなんでもいいんだけれども、病気を相手にする上では、

・どこが具合悪いのか? 【場所】

・どれくらい具合悪いのか? 【程度】

を考えないと治療なんてしようがない。

同じ「かぜ」だって、程度が軽ければ放置して治るのを待てばいいし、鼻がグズグズしている人に胃薬を使ってもだめだろうさ。





そしてこの「場所」や「程度」を考えるとき、医者は患者を目で見たり、脈を取ったり、胸の音を聞いたり、血液検査をしたりするんだけれど、CTとかMRIまで駆使してもどうしてもわからない、確認しきれない情報というのがいくつかある。

それをみるのに、ときおり、顕微鏡が役に立つわけだ。




たとえばある臓器に棲み着いた「へんな細胞」が、すごく活動性が高くて、周りをぶちこわす力も強くて、ばんばん体のあちこちに飛び散っていきそうな悪いタイプのやつなのか、それとも、しばらく放っておいても別に増えもしないし周りを壊しもしない、良いタイプのやつなのか。

「細胞レベルで、病気の本質が良いか悪いか」を決めた方が治療方針が立てやすいとき。

ぼくらは顕微鏡で、病気の内部にひそむ細胞を見極める。




活動性が高い細胞というのは、正常の細胞に比べると、細胞の形状に違いがある。

具体的には、「いっぱい細胞分裂をして早く増えたい細胞」はおしなべてDNAの入れ物である「核」がでかい。ちょっとでかい、とかじゃなくて、あきらかにでかい。「核」のカタチもおかしい。円形でなくぎざぎざとしていたり、妙な切れ込みが入っていたりする。

「核」以外の部分にも変化が出る。細胞のエネルギーを生み出すミトコンドリアの量が異常に多くなっていたりすると、細胞質の色合いが変わってくる。細胞の本来の挙動である「となりどうし、なかよくくっついておとなしくしていること」が崩れてくると、細胞間の接着度合いがみだれて、細胞がばらばらと離れてきたりする。

細胞は基本的に組み体操をしている。細胞1個で何か仕事をするのではなく、複数の細胞がある程度決まったカタチでフォーメーションを組む。「悪い細胞」はこのフォーメーションをきちんと作らない。不良の学生は運動会で組み体操には参加しないのだ。

これらの細胞が「悪い奴だ」とわかったら、次は、そいつらの配置をきちんと読む。

臓器の表面にちょろっとだけ存在する、っていうのと、臓器の内部に深々と突き刺さっている、というのとでは対処が違うからだ。




病理医の仕事を、「黙って座ればピタリとあたる、安楽椅子型探偵」みたいなものかと想像される方がいる。灰色の脳細胞を存分に使って推測を重ねていく仕事。まあそれも一面の真実ではある。

でも、顕微鏡診断というのは、どちらかというと、「現場に残された手がかり」をきちんと探して、その場で何が起こっているのかを多面的に見極める、「現場型」の仕事に近い。

これをよく、ポワロってよりコナン君に近いよ、と説明している。ときどきキック力増強シューズを使うとなおいい。

2019年5月28日火曜日

WWWの最後のひともじはウェーブではないです

今日は何も予定がないから早く帰ろうと決めていた日に、Facebook経由でメッセージが届いた。そこには、

「今日の研究会には参加されますか? そこでちょっと見て頂きたいプレパラートがあるのですが」

とあった。

なんということだ、今日は研究会があったのだ。完全に忘れていた。できればそのまま忘れていたかった。カラッと忘れて帰宅してビールを飲んで寝て、翌日になってメールが3通くらい入って、

「昨日の研究会はご欠席だったようですのでこちらでご相談をいたしますが」

みたいなことが書いてあって、あっイッケネ、忘れてた、テヘ、みたいな感じで人生をうまいことスルーしていたかった。



もうだめだ。知ってしまったからには出なければならない。Facebookはクソである。




人類ってのはいつから「寄り合い」をやるようになったのかな。

集まって、お互いに助け合う。

自分の肩にいっぱい荷物が載っている場合には少しラクになるかもしれない。

自分が今ヒマだという場合にはかえって忙しくなるかもしれないけれど。

あっ、昔は、生存競争に忙しくて、「ヒマ」という概念自体がなかったりして。

孤立して孤独で自由であるというのは、安全が保証されている今だから言えることで、むきだしの大自然に一人で立ち向かったら、ヒマなんて全く存在しなかったのかもしれない。

みんな孤独だと両肩にいっぱい荷物が載っていたのかも。

生まれたての人類(?)は、きっと、そうだったのかも。

だから寄り合ってスクラムを組んで、お互いの荷物をきちんと減らそうとしたのかも。

多くの人が集まると、言葉だけでは会話が進められない(うるさくなって仕事にならない)から、目線とか顔色だけで考えていることがわかるように、顔認識のための脳システムが高度に進化したのかも。





ご先祖様の苦闘の末にたどり着いた今、大自然は見事にパッキングされ、ぼくらは一人で、ヒマをもてあましながら暮らしていけるようになった……。

だから群れなくてもよくなった……。

群れるのめんどくさいな……。

なーんてことを、無責任に、脳天気に、今まさに考えている。




今なんとなく思ったのだけれど、石器時代の人類も、内心、「群れるのめんどくせぇな」って思っていたんじゃなかろうか。

「あー今この瞬間に都合良くマンモスの頭の上に隕石が落ちてきて、俺の目の前にほどよくボイルされた肉がごろんとおちてこねぇかな、それを一人で、誰もこない見晴らしのいい高台で、ひなたぼっこしながらのんびり食って昼寝でもしてぇな」

って思ってたんじゃなかろうか。

いやいや群れていたんじゃなかろうか。

そのときの記憶が、進化の末に、適者生存して、ぼくの脳に残っているからこそ、「群れるのめんどくせえな」という感情が出力されてくるのではなかろうか。





ぜんぜん関係ないことをいうけど「感情の波が押し寄せる」みたいなフレーズ。あれ、「寄せては引く」から波なのだろうか。それとも、定期的に強くなったり弱くなったりを繰り返すから波なのだろうか。

ぼくは感情が強くなったり弱くなったりするのは波というよりもむしろ、バッファにかかるタイムラグなんじゃないの、と思うことがある。脳ほど高性能なコンピュータであっても、すべての感情をノータイムではじき出せるわけじゃないように感じる。リングみたいなポインタがぐるぐると回って脳がカリカリやっている間、感情が出力されない待ち時間があって、そのあと一斉に放出されて、また読み込んで……。性能の悪いWi-Fi環境下で動画をみるように、ぼくらの脳は感情をつっかえつっかえ吐き出している。それは波というよりも……。




まあネットサーフィンっていうくらいだから波でいいのか。じゃあ波でいいです。

2019年5月27日月曜日

病理の話(326) 病理の話を延々と書き続けている理由というかネタバレ

病理の話というのはつまるところ「病気のりくつ」もしくは「ヤマイのことわり」のことなので、えー、ちょっとだいそれたことを言うならば、

「生きている人はみんな興味を持つ」

と思う。



いや、ま、「みんな」って言葉を使うと反発がくるんだけどね。

「みんなってことないだろう」ってね。

「俺はそこまで興味ねぇよ」なんつってね。

確かに、今とっても元気で、若くはつらつとしていて、自分が病気になるなんて信じられない、みたいな人は、自分が具合悪くなったときのことなんて考えたくもないだろうし、リアルに想像もできないし想像するつもりもないだろう。

でも、そういう人もいずれ年を取り、病気のことが気になる日がくる。

一生のどこかでは、多かれ少なかれ「病気のおはなし」に興味が出る。

だからぼくが書いている「病理の話」という連載はずるいんだ。

基本的に病気についてどうこう書けば、それはもうまちがいなく「みんな(いつかは)興味を持つ話題」なわけだから。

ごめんねこんなにアクセス数稼いじゃって。

でもしょうがない。みんな興味があるんだもの。



ただ、ぼくが書いている「病理の話」は必ずしもビョーキそのものについてだけ書いているわけではなくて、実はもうひとつ、大きな柱がある。

こっちのほうは、必ずしも読む人みんなが興味をもつわけではない……。

というか大多数の人はほとんど興味がないんじゃないか、と言われている。

それはいったい何かというと、「病理医というレアな職業人が病院の中でなにをやっているか」ということだ。



こんなことを書くと「いやー私はそういう話興味ありますよ!」というリプライが来るのだけれど、それはあなたがこのブログに対してたまたま適性があるからであって、ぶっちゃけ同じ内容を朝日新聞の朝刊で連載しても連載は2か月ともたないだろうし、報道ステーションのワンコーナーで視聴者に向かって語りかけても「好きな人は好きな話題でした、次です」とか言われてしまうだろう。




「病理医の話」はつまるところ職人と職人芸の話だ。

だから受け取り手を選ぶと思う。

ただし、病院で働いている人々のうち、ごく一部の人だけは、この「病理医の話」をとても熱望する。

このブログの読者であるあなたがちょっとひくくらいのレベルで、病理医の話を聞きたがる人が、病院にも少数だがいるのだ。

それは誰かというと……。




内視鏡医、肝臓内科医、腎臓内科医、血液内科医、腫瘍内科医、放射線科医……。

そう、医者だ。

それも、主に「がんを扱う医者」。

あるいは、がんに限らずとも、医者に限定せずとも、「病理医と日常的に付き合っていく必要がある医療人」である。




病院には看護師がいっぱいいる。栄養士も理学療法士もソーシャルワーカーも、医療事務を担当する人も、清掃やリネンを担当する人も、食堂とか理髪店とか売店で働く人もいる。その大半が病理医のやっている仕事そのものには興味がない。

そして、医者だけをとりあげてみても、医者の7割程度は病理医のことを知ろうとは思っていない。必要に迫られていない。そこまで興味をかきたてられていない。

糖尿病や高血圧をしっかり管理していくタイプの医者は病理医のことを知る必要がない。

救急車から転がり出てくる患者の生きるか死ぬかに直面する救急医は病理医のことを知る必要がない。

大半の外科医も、病理医のことを別に知らなくても食っていける。やっていける。





けれども、限られた一部の医者は、病理医のやっていることに興味が有る。

病理医が、顕微鏡を用いて細胞を観察し、そこから何かを導き出すプロセス。

結果だけではなく、途中経過……思考の筋道そのものを、知りたがっている。





かつてある内科医が、ぼくにこう言った。

「細胞を直接みられるんだから病理医ってのはラクな仕事だよなあ。直接みられないものを推理しているぼくらからすると、犯行現場を直接みて考える探偵みたいなもんで、ずるいなあって思うよ。」

この内科医は、病理医の出す結果には興味があるのだが、「思考のプロセス」に興味がない。

病理医が何をみて、どう考えて、レポートにまとめているのかを「ラクで、ずるい」とまでしか評価していない。

この内科医だけが特に薄情なのだろうか? ぼくはそうは思わない。

大半の医者は……病院ではたらくほとんどの人は、同じ意見だと思う。

あるいはそこまでの意見すら持っていないだろう。「病理医? 別に知らんでもいいわ。知らんけど普通にしっかり働いてくれとったら、それでいいわ」。




ぼくらはみな、究極的には、他人の仕事の「結果」には興味をもつのだけれど、「それが生み出されるプロセス」に興味をもつのはずっと後回しになる。

テレビがなぜ映るのか。

飛行機がなぜ飛ぶのか。

興味はもったことがあるだろう。でも、それを最後まで追究した人が世の中にどれだけいるだろうか?

「なんか難しいことがあるんだな」だけで、まあよしとして、得られる結果だけを享受するのが、普通の人間だ。





病理診断という仕事もこれといっしょなのである。

「病理ってどうやって診断出してるんだろうなあ」と、「テレビってどうやって映ってるんだろうなあ」みたいなノリで、くびをつっこんでいろいろ調べてみても、ほとんどの人は、「うん、なんか難しそうなことやってるってのはわかったよ。」と言って、プロセスを理解することをあきらめる。

それが健全だし普通だと思う。




けれどもぼくらは、職人的な人間は、いつか誰か、ニッチでマニアな、ぼくらの仕事のプロセスにとても興味をもつ人が激レアなタイミングで出現したときに備えて、

「病理医ってのはこういうことをやってます」

と、書き記しておく必要がある。

だって少なくとも、病院の中の、3割くらいの医者は、ぼくらがやっている仕事に興味がある、さらにいえばその思考プロセスとかメカニズム自体にも興味があって、これらを直接仕事に活かそうとしているのだ。

たいした数じゃない。

少ない。

マニアだ。オタクといってもいい。

けれども、「世界の誰が読むんだろうこんなもの」という文章に、心を踊らせる人がいると知ってしまうと、ぼくらはそれを用意しておかなければという義憤に駆られる。





病理の話はかれこれ300回以上書いているのだけれど、その半分くらいは、世界の片隅でじっと病理医に興味を持ち続けているレアキャラのために書かれたものだ。

あなた方、普通の読者のみなさまが、そうと気づかずに、オタク向けの文章を、つい読んでしまっている、という構造をつくるために、ぼくはツイッターというシステムを悪用している。

あなた方、の中にひそむ本物のマニアがよろこんでくれることを目指しつつ、あなた方、ぜんぶが「悔しいけどオタクの心意気を感じちゃう」くらいに育ってくれるように、ぼくはずっと悪巧みをしている。





実をいうとぼくはお気軽な推測をしていて、それは、

「たぶんほとんどの人は丁寧にお膳立てをすると、テレビがなぜ映るのかを完全に理解してよろこぶようなマニアックな性癖を隠しもっている」

ということだ。この見通しは甘いかもしれないが、あながち外れたモノでもないんじゃないかな、という、仄暗い確信のようなものがある。

2019年5月24日金曜日

なにみてはねる

外食が難しくなってきた。あぶらモノが腹に来る。

とくにカツ丼がどすんと来る。なかなか頼めない。

かつて、椎名誠がカツ丼の話を書いていた。無尽蔵の体力の持ち主も最近はカツ丼がちょっとしんどくなってきているようだ。

そういえば嬉野さんもカツ丼の話を書いていた。山形のとある宿のとなりにある食堂のごはんがとてもおいしい、特にカツ丼が絶品だ、という話で読んでいるだけで腹が減るような名文だった。



ものを書く人はどこかのタイミングでエッセイの中にカツ丼のことを書く。

これはぼくが今までの40年間で見つけた数少ない物理学的な真理だ。

世の中には2種類のもの書きがいる。

何かにカツ丼についての話を書いたことがあるもの書きと、これからカツ丼についての話を書く予定のもの書きだ。




なおぼくはいわゆるもの書きを自称するつもりはない。だからカツ丼についての話は以上でおしまいにする。だいいち、ぼくはもともとカツ丼をそう頻繁に食べない。しょっちゅう食べるのは牛丼のほうだ。今日は牛丼の話をしようと思う。

ぼくが牛丼を食べに行く店はある程度決まっている。

5割は吉野家である。

2割がすき家

2割が松屋

そして残りの1割はなか卯だ。




なか卯、と書くと、とたんに昔のことを思い出す。




ぼくは12年前に、築地のあたりでうろうろとしていた。もう干支が一回りしてしまったんだなあ。でも未だに一部の記憶はきちんと残っている。国立がんセンター中央病院(当時)の病理に朝から晩までいりびたり、標本そっちのけで臨床医達と画像・病理対比にいそしみ、論文を読みまくっていたころのこと。

勉強していたって腹は減る。ただしあまり時間はない。築地市場も銀座も目の前だったがそういうシャレオツなザ・トーキョー的飯を食ったことはほぼない。昼は大抵コンビニで買っておいた飯を食った。これが現実である。

がんセンター時代にぼくはあくまで「お客さん」だった。任意研修生というやつである。自分の診断しなければいけないルーチンは少ない。だから1日中勉強ばかりしていたが、仕事もせずに勉強できる集中力の限界はだいたい12時間くらいだった。夕方も6時を越えると少し疲れてくる。7時過ぎにはおひらきにすることが多かった。

慣れない東京生活で疲れたぼくは、夜にあえてどこかに繰り出すようなことはしなかった。札幌においてきた家族のことが気になって、はしゃぐ気持ちにもならなかった。だから結局、毎日毎日、がんセンターのどでかいビルのそばにあったなか卯か、フレッシュネスバーガーのどちらかで晩飯を食った。それ以上遠出できなかったのである。

なか卯、フレッシュネス、なか卯、フレッシュネス。

ぼくはあそこで一生分のなか卯とフレッシュネスを食い終わった。




最近は、なか卯の看板をみても痙攣しなくなったし発疹も出ない。

けれども一時期はなか卯をみるだけで体調が悪化した。なか卯アレルギーだったのだと思う。

長い「なか卯断ち」のすえに、今では10回に1回程度、なか卯に入るようになった。とはいっても、今はそもそも牛丼自体を食べる頻度が減っている。せいぜい月に1度のペース。となるとなか卯に入るのは年に1度くらいだ。

うまいこと減感作療法が決まり、ぼくのなか卯アレルギーは2年ほど前に根治した。

でも、根治したというのはあくまで「生活に支障の出るレベルの症状が出なくなった」というだけであって、まったく症状が消えたわけではない。

カウンターに座って、濁りきったあの冷たいお茶を一口すする。

すると、今でも必ず、当時のことがものすごいスピードで思い出される。





当時ぼくはがんセンター横のなか卯で、インド人っぽい名前の店員とよく顔をあわせた。食券を置くと半分をちぎって持っていくのだが、そのちぎり方がいつも、点線を無視した雑なもぎり方だった。彼はいつもいうのだ、「ぎゅうどんおまちしました」と。お待たせしました、と、お持ちしました、のハイブリッドだ。ぼくは彼のものまねが得意である。けれども誰にも見せたことはない。ぼくはいくつかものまねができる。その大半は人前で披露したことがある。けれどもなか卯の店員のまねだけは見せたことがない。

当時ぼくはがんセンターに通うのに、東銀座という駅で降りて歩いていた。駅からがんセンターに向かう途中には早朝からやっているタリーズコーヒーがあって、ぼくはそこで毎朝、「本日のコーヒー」を一杯飲んだ。タリーズにはとてもかわいらしい店員がいたのだが、2か月くらいでいなくなった。別にその店員のために通っていたわけではなかったけれど、その店員がいなくなってからのタリーズは少しつまらなかった。でもそのことに気づいたのは札幌に帰ってきてからしばらくして、サッポロファクトリーの中に突然タリーズコーヒーができたときのこと。へえ、あのタリーズがこんなところにね、と思って中を覗いた瞬間、「その店員」がいたような気がして、ぼくは東京にいたときのつらい毎日をフルセットで思い出し、手足の毛細血管がいっせいに縮んでこごえてしまった。

当時ぼくは馬込駅そばのクソみたいなレオパレスに住んでいた。まわりには爬虫類が経営しているのではないかと思われるほどにまずいラーメン屋が1軒あった。なぜかぼくは1週間に1度、日曜の昼に、そのラーメン屋に通った。あらゆるメニューが均質にまずかった。でもぼくはそれをまずいと思うだけの味覚を失っていた。何の問題もなかった。札幌に帰ってからとある普通のラーメン屋に入ったときに、急に舌の上に味覚が戻ってきて、なんだ、あの店は激烈にまずかったんだな、と、ようやく気づいた。ぼくは東京で五感のいくつかを失っていた。



築地にいたころのぼくは後から振り返れば激しく人生を転換させていた。

大学院時代、研究に対してはとにかくあらゆることがうまくいかず、絶望に絶望が積み重なっていくだけのがっかりミルフィーユみたいな状態だった。天才だと思い込んでいたまぼろしの自分と決別し、家庭を大事にして遊びを嗜む、地に足の付いた実存としての人間になる必要があった。けれども、ぼくはまだ、自分の頭脳に未練があった。X軸Y軸Z軸それぞれに独立する価値観が配置された空間上で、ぼくはいつも非線形に飛び回りながら、ほんとうにいるべき座標を見失っていた。別のラボからの誘いを断り、大学に残る道もあきらめ、そうそうに市中病院で常勤病理医となることを決めるも、直後に築地での研修が決まったことで、ぼくは自分が「何年目の何」になるべきなのかがわからなくなってしまっていた。



ものすごいスピードで思い出すのは、わからなかったころのこと。

かつてのぼくが「わからない存在」だったことを俯瞰しながら、「わからないままだ」と感じる。





なか卯の牛丼は「和風牛丼」という。

洋風牛丼や中華風牛丼を定義せずに和風を名乗るなか卯の姿勢は卑劣だ。

玉ねぎをつかわずに普通のねぎを使う。

だしの味が「ほら、これで和風になったじゃろう」とばかりに効いている。

だから和風牛丼。安易である。

牛丼というよりも「家庭ですき焼きをやった翌日に、あまった汁とネギを肉に絡めなおしてご飯にかけた丼」だと思って食っていた。

ねぎの中から、ねぎの芯みたいなものがときどきピヨッと出てくる。こいつには味がしみていないことがある。

ねぎは玉ねぎに比べると剛性が高いのか、箸で持ち上げるとしばしば汁がはねてぼくのワイシャツの一部を小さく汚した。

ぼくは築地のなか卯で隔日ペースで、これはなかなかうまいな、と思いながら和風牛丼を食っていたけれど、馬込のラーメン屋で週に一度ラーメンを食えるくらいには舌がばかだった時期の話である、ほんとうはなか卯の牛丼はまずかったのだと思う。ぼくには時間がなかったし余裕もなかった。敗北に満ちあふれた大学院を通り過ぎ、深々と全身に刻まれた無数の傷から血を流しながら、生まれて初めて津軽海峡よりも南で暮らすことになり、燃焼した油脂と蛋白質のにおいがするような焦げた生活の中で、なか卯の牛丼を60回食った。




ぼくはなか卯の牛丼はもう一生分食った。今、1年に1度のペースで、すっかり回復した舌がなか卯の牛丼をうまいうまいと味わうことがあるが、ぼくはそのときに必ずあの頃の、味覚を失っていた頃の苦悶を思い返している。ぼくは一生分のなか卯を食ったあのころに一生を終え、今、一生のその先にある場所で当時のぼくをときおり眺める。なか卯は年に一度食えば十分だ。そういえばなか卯の「卯」とはうさぎという意味ではなかったか。

2019年5月23日木曜日

病理の話(325) 遠隔診断という概念が我々からまだ遠く隔たりがある

実際に患者のそばで行わなければいけない「医術」というものは、どんどん少なくなっている。

たとえば、放射線科の用いる画像診断は、遠隔で行うことが可能だ。直接患者のそばにいなくても、画像だけをネットで飛ばせばいいからだ。

北米では、20年くらい前からすでに、CT, MRI画像を「地球の裏側にいる放射線科医」に読影してもらう遠隔放射線診断システムが本稼働している。

遠隔で放射線画像診断をする医者が登録する会社があるのだ。病院は会社と契約して、撮った画像の評価を「外注する」。

記憶によればナイトホークという名前の会社があった。地球の裏側にいる放射線科医だから、読影はいつも(北米時間の)夜中に行われる。なかなかキマった名前だなと感じた。

むかし、スーパーファミコンという古典的なハードにF-ZEROというレースゲームがあった。その中には「ナイトオウル」という名前のコースがあった。

ぼくはナイトホークという名前を聞いたときにまずこの「ナイトオウル」が頭の中で混線してしまった。それ以来、遠隔画像診断の話をするときには、頭の中に、F-ZEROのメタリックな画面とイカしたBGMが思い浮かぶようになった。脳が軽くバグって接続がイカれたのだ。

F-ZEROというゲームはレースゲームなのだが、本編に生きている人間が出てこない。その意味では、遠隔診断のイメージとも完全に離れているわけではない。まあ、その後、スマブラでキャプテンファルコンが信じられないようなパンチを打つようになり、イメージはゆがんでしまったのだが……。




話を変えよう、ダヴィンチという手術システムをご存じだろうか。

https://www.mitsuihosp.or.jp/davinci/

知る人ぞ知る、というにはもうずいぶん普及したシステムだ。

いわゆる「マニピュレーション・システム」である。ロボット手術というと正確ではない。ロボットが自動で手術をしてくれるわけではないからだ。

このシステムには執刀医が必須である。人の役割は失われていない。

執刀医の手の動きに応じて、「千手観音の手のようなロボットっぽくみえる機械」が患者のお腹の中を切って縫ってくれる。




ただ、人の役割は失われていないが、人のいるべき場所については微妙に変化している、ということに気づく。

冷静に考えると、ダヴィンチを使って手術をするならば、執刀医が患者の側にいる意味はないのである。





こういうと絶対に怒られる。

「何かあったときにすぐ対処しなければいけないだろ! 外科手術は放射線画像の読影とは違う! 執刀医は患者の横にいないとだめに決まってる!」

けれども頭を柔らかくして考えれば、「執刀する人」と、「そばにいて対処する人」をイコールで結ぶ必要はないのだ。

そばにいて対処する人は、執刀医とは違ったシフトで、違った給料体系で、より最適化した状態で待機すればいい。経営者であればそこからいくつかの「給料を抑えるためのヒント」を見いだすだろう。

(経営視点のない医者は、めぐりめぐって医療の効果を下げる。)





ちょっと想像するとほかにもいいことがある。

ブラック・ジャックのような「神の手をもつ外科医」というのは最近聞かなくなったが、レアな手術を、すでに何例か経験したことのある外科医がもっぱら担当する、いうことは、今でもよくある。神の手までは必要ないにしても、世の中のほとんどの医者が経験していない手術を先駆的に行う人はやはり神様扱いされる。

この場合、神様を遠方から呼んでくるよりも、遠隔でダヴィンチ的にやってもらうほうが圧倒的にラクだろう。交通費かかんないし。

まあ実際にダヴィンチがそのように用いられているケースはたぶんまだほとんどないと思う(いろいろ倫理とか制度的な障壁があるし、ダヴィンチを使えるケースもまだまだ限られている)。けれど、将来的に、ダヴィンチの適応がもっと広がれば、「遠隔の外科医に介入してもらう」という話も出てきそうだな、とは思う。

何度もいうが外科医は「それはむり!」と言う。

けれども経営者が「それ魅力!」と言ったとき、外科医は反論できるのだろうか?

少なくともぼくは反論できない。






さて病理診断だ。病理診断こそは患者のそばにいる意味が無い。

だからもうどんどん遠隔化していいと思う。

こういうと「切り出し(臓器を直接目でみて、どこをプレパラートにするか決める技術)は、遠隔ではできないだろう。直接臓器を手で触れなければ!」と反論される。

一流病理医ほど、そう言う。

けれども外科医の反論といっしょだ。

「切り出しをする人と、組織診断を遠隔でする人を、分けて考えてシステム構築してみたら、何かいいことが起こらないかな?」

この柔軟な発想こそが医療現場では大切なのではないか、と思う。





今までの医療を担ってきた人たちは、自分たちが理想的な医療環境を作ったと自負しているだろう。

ぼくは今が一番いいと思う。医療は確かに、どんどんよくなっている。

よくぞここまでのシステムを作ってくれた、と、尊敬を払う。

その上でなお、人間のやれることには限界があることも十分承知だ。

都会と地方とで医者は偏在し、患者と医療者の言いたいことは微妙にすれ違い続け、8割の満足はあるけれども、決して10割の満足には達しない。





ぼくはあらゆる医療を遠隔システムを用いて再構築すべきだと思う。

「医療者は患者に寄り添わなければだめだ」という誰もが認めるヒューマニズムを残したまま、一部の「遠隔向きの医療」をどんどん遠隔システムに切り替える。

そうして、浮いた分のコスト……金銭もそうだが、特に、頭脳労働をさまたげる手間の部分を、医療に還元しないと、医療はこれ以上に上がっていかない。





誰かが患者のそばで、患者に寄り添い続けるために、誰かは患者のそばを離れて頭脳労働に特化した方がいいのではないか。

病理医は頭がいい。すぐに気づいてくれるだろう。

ぼくらは知恵の側にこそいるべきだ。

2019年5月22日水曜日

食べる前に飲むように読む前に買う

猛烈な頻度で届く本を(読まずに)眺めていた。どさっ、どさっとデスクに積み上がった。

この中に、書店で選んだものが、半分。

残りはネットで買った。

あからさまに書店で選んだ本のほうに愛着がある。

Amazonは積ん読を増やす装置なのではないか? ぼくはため息をつきながら、そうつぶやいた。




”そうつぶやいた”というフレーズを目にすると、まるでツイートしたように思えてしまなあ。




本来、”つぶやいた”という言葉は、やさしく聴覚に訴えかけるはたらきがあったように思う。

目で読んでも、耳に入り込むようなフレーズだ。

耳の中にある謎の触覚点を通じて、ノドがざわざわと刺激されるような。すこしだけ複雑な、大人の言葉だったはずだ。

けれども、今は、ツイッターのせいで。

すっかり、「目で読んで、視覚が理解するだけの言葉」になりさがってしまった。

まったく残念だ。




たとえば、読書を「視覚的な体験である」と言い切ることはできないように思う。

文字を目で追い、視覚野に記号的な入力を行うことと、その情報が導火線に次々火を付けて、ぼくの脳が同時多発的に燃え上がって、なんらかの情のシルエットがゆらめくことの間には、飛躍としかいいようのない、不思議な変換があるように思える。

読書は、目だけで楽しむ趣味ではない。

ああ、うん、朗読する声が聞こえてくることもある。けれども、聴覚だけ加えたら完成するというものでもない。

五感全てに訴えかけるもの。

かつ、五感だけではたどり着けない、脳の隘路の先にある何かに触れるもの。





ぼくがかつて持っていたあらゆる趣味は、在庫消尽とともに脳内マスタから削除された。

残ったのは本だけだ。

ネットすらツールになってしまった。

残ったのは本だけだ。





強いて言うならば、ぼくであることだけが、本に対抗しうる。

なぜならばぼくを読むことができる読者はぼくしかいないからだ。

もっとも、「ぼくが一番、ぼくのことをよくわからない」という幸福なリミテーションについて、ぼくが自説を曲げることはないのだけれど。

2019年5月21日火曜日

病理の話(324) AIを擬人化するとこうなるだろうなという話

メドメイン( https://medmain.net/ )という会社と協力することになった。

この会社はなかなか有名なのでご存じの方もいるだろう。

かんたんにいうと病理診断を支援するAIを作っている企業だ。CEOは九州大学の学生である。すでに多くのスタッフを抱えて働いている。プログラマーには優秀な外国人が並ぶ。

ぼくは彼らの一員にはならない。相変わらず、札幌の農協の病院に勤め続けて、JAから給料をもらう。顧問料とかもとらない。かわりに、「科学広報」に利用させてもらおうと思う。ふところにお金は入らないが、本気で科学のことを人々に伝えようと思ったら出て行くはずだった出費がだいぶ減る。その意味でぼくはとても大きく得をする。




病理AIは、将来的には今ある病理医の仕事を奪うだろう。しかしそうなれば病理医はまた違う仕事をすればいいだけの話だ。若い病理医は、積極的にAIのやることを手伝い、AIのために働いた方がいいと思う。これは、もしかすると、今までの病理医の働き方よりももっとおもしろいことになるかもしれない。





家事の苦手な人は、パートナーにこう怒られることがある。

「ちょっとは手伝ってよ。」

にがにがしい顔をして、こう答えよう。

「何を手伝っていいのかわかんないよ。料理も掃除も、そっちの方が得意だし、ぼくがやる前に、うれしそうに全部やっちゃうじゃないか。」

そしたらパートナーはさらに怒る。

「できることを見つけて働いてよ。」



今のたとえの、「家事の苦手な人」が、ニンゲン。

「家事全般を取り仕切るパートナー」が、AIだ。

さあ、ニンゲンが、AIと離婚せずにうまくやっていくにはどうしたらいいか?

(蛇足だけど、AIがいないところでがんばる、とか、AIなんて嫌いだからひとりで生きる、という選択肢は、たぶんもう我々には残されていない。AIと前向きな離婚はできない。離婚すれば破滅である

えっ? と思う人もいるかもしれないが、そもそもあなたはこの記事をスマホで読んでいるはずだ。パソコンかもしれない。これらはとっくにAIのカタマリだ。AIと離婚すれば文字通り路頭に迷うだろう。生きてはいける。楽しむこともできる。けれども、ふつうに、路頭で、迷うだろう。)




ニンゲンはAIよりもさまざまなことがヘタクソだ。

でも、ニンゲンはニンゲンなりに、できることを探し、はたらこうとする。

ニンゲンは、何かをして、役に立っていると思われたい。

理想的には、「そこにいるだけで」役に立っていると思われるのがいい。

「ただ、いる、だけ」で家庭の安心となれるような存在感を出せたら、最高かもしれない。そういう仕事も世の中にはいっぱいあるので、そういう仕事においては、AIはニンゲンには全くかなわない。

でも、「ただ、いる、だけ」は思ったより難しいので注意が必要である(名著「居るのはつらいよ」を参照)。

あと、AIと一緒に何かをしようと思ったら、「ただ、いる、だけ」では通用しない。

ちょっとは何かをしようじゃないか。そのほうが、AIだって悪い気はしないはずだ。




ぼくがメドメインでやることは、まさにこの、「AIと仲良くやっていくために、AIの役に立つ」ことだと思っている。

積極的にAIというグッドパートナーを手助けすることで、ぼくらニンゲンは、かえって良く生き残ることができるんじゃないか、と思っている。




手始めに、「病変の部分をマッピングしてAIに覚えさせる」という前時代の方法を改良しようと思う。

ディープラーニングによるスパーステクスチャ解析がようやく実臨床で使えそうな雰囲気がある。ぼくはこのことを感覚ではわかっていたが、観念がきちんと脳に入って、言語化できたのはついこの間のことだ。本当に優秀な人は世界のあちこちで「ディープテクスチャ」を解析している。ルイージが笑顔でこっちを見ている( https://luigi-pathology.com/ )。アーキテクチャを回転させながら、かりそめの機械学習をすすめて、ニンゲンを越えられない程度のAIを開発するのをやめさせなければいけない。日本中で行われている、「AIの足をひっぱるような家事」を、そっとたしなめていく。




AIというパートナーほど有能ではないけれど、AIと一緒にごはんを食べていたら、「やっぱりあなたがいないと、私はだめです///」と、AIがつぶやく日がくる。

ぼくはそういうニンゲンでいたい。ニンゲンはそういう存在であればいいなと願う。

これはあくまで病理の話だ。とてもまじめな、病理の話だ。

2019年5月20日月曜日

ともだちのゆくえ

嬉野さんと「友達」の話をした1日ほど前に、ぼくは自分の半分くらいの年齢の優秀な男と、友人になった。

こちらからお願いした。願いが叶って良かった。

彼はぼくに「報酬をどうすればよいでしょうか」と尋ねてきたのだ。

そこでぼくは少し考えて、

「報酬というか、そうですね、友達になってください。お仕事については、友達としていろいろアドバイスさせていただきます。それ以外の報酬は必要ないです」

と言った。

そして、すぐに、付け加えた。

「ぼくは病理学会の、社会への情報発信委員会に所属しています。
ですから、御社の技術が進歩して、優れた病理技術が生まれていく様子を、みなさんの迷惑にならない程度に発信させて頂ければ、それが公的な利益になります。
ぼくは公的な利益を追究することで役目が果たせます。
役目が果たせればそれが報酬になります」




新しい友人と別れてから、ぼくは、「報酬として友達になってくれ」と言った自分を、おもしろく感じていた。

その翌日、嬉野さんと全く違う話をしていたはずなのに、「友達」の話になって、なんだかつながっているなあ、と感じた。

なお嬉野さんのところの若い夫婦とも友達になった。

ぼくは出張している間に、複数の友達ができたのだ。





ぼくは友達を労働で買っている。

「言い方~」とつっこまれて、アハハと笑って終わりにする程度の話であるが。





藤やん・うれしーとの対談を見た犬は、「20代のヤンデルが成仏しているようだ」と言った。

「青春の蹉跌をこれほど見事に成仏させることはなかなかできない」と言った。

しかし、ぼくはそもそも、前日に成仏していたのだと思う。

あくまで、仏に成ってもゲラゲラ笑える、ということを証明したに過ぎない。

2019年5月17日金曜日

病理の話(323) 医者はマイナスをゼロに戻す仕事だと思われて久しい

体の具合が悪くなると、病院に行く。

普段はあまり行きたくない場所、それが病院。

ぼくらはたいてい、自分がいつも通りにしているときには、病院に行かない。行く必要がないし、行きたくもない。

何か、不都合が生じたときに、仕方なく病院に行く。

普段、100点満点で過ごしている、ぼくら。

あるいは、あなたの体感的には自分の体調を80点と採点するかもしれない。50点かもしれない。別に具体的な数字はどうでもいいのだ。

とりあえず今は、「平常を100点」として考えよう。

この100点が、90点とか、80点、さらにいえば40点とか30点になると、ぼくらは病院に行く。

普段よりもマイナス方向に偏ったときに、それをゼロに戻すのが、病院の仕事だからだ。





……クリエイティブな仕事をしている人は、「ゼロから何かを生み出す」などという。

だからぼくらはときどき、自重気味にいう。自嘲気味に、かな?

「ぼくらはマイナスをゼロに戻すだけの仕事だからさあ」





ただこのマイナスをゼロに持っていく仕事というのを、本気で考えていった場合に、実は思ったよりも奥が深いということに、ある程度中年になった医療者たちは気づいていく。





たとえば20点を100点に戻すのはとてもたいへんなので、できれば50点とか80点くらいのときに、早めに病院に来て欲しいな、みたいなことを言う。

これは「早期発見」というアイディアだ。





次に、100点が90点になり、80点になっても、本人が問題なく暮らしていけるやり方を探そう、みたいなアプローチもある。

これは「ケア」の一種である。介護やバリアフリーもそうだが、がんを抱えたまま生きることもそうだし、腰痛とどう付き合っていくか、みたいな話もこの視点で考えることになる。

無理に100点を目指さなくても満足度はあげられるのではないか、という考え方。






100点を120点にすることができるんじゃないか、というアイディアも、あるにはある。

人工知能の研究というのはここに含まれるような気がする。

AIというと、「人間の代わりになるか、ならないか」みたいな話ばかり取り沙汰されるけれど、局所的には人間の100点を超えていく可能性がある。これだって立派な医療なんだけれどな。






人間の行動・活動を点数に例えて、100点満点を定めておいて、そこを増減させるという考え方自体が、やや雑な例え話でしかないのかもしれない。

満点ってどういうことなんだろうな……と、意識変容を促すこともまた医療かな、と思う。

こういうことをじっくり、ゆっくり、考えていると、医療の根本には「自分のどういう状態をよしとするか」という、ほんとうの意味での

”自意識”

みたいなものがあるのではないかな、と思う。自分の体や人生を考えていく上で、何を健康ととらえ、何が起こったらどう対処するかと考えておくことは、立派な医療だ。

そこまで考えると、どうも医療というのは「マイナスをゼロに戻す仕事とは限らない」んだろうな、っていう結論が浮き上がってくる。じわりじわりと。

2019年5月16日木曜日

イングラム派なのでアルフォンスというともにょる

連休明けはちょっと集中して仕事をしすぎて、”封印が解かれた直後に猛烈な力を持て余して暴れる伝説の幻獣”みたいになってしまった。いっぱいカタが付いたので、その意味ではよかった。

……今、何に驚いたって、ぼくのATOKが「猛烈な力を持て余して暴れる伝説の幻獣」を一発で変換したことに驚いた。ふつうの成人のパソコンだったら、「げんじゅう」→「厳重」と変換するだろう。まったく、日頃、どういう入力をしているんだねキミは。

なお、今の一文にしても、「ふつうの成人」のところは「ふつうの星人」と変換された。まったく、いやになる。まあ、一貫性はある間違え方だけれど。



「肝生検」と入力しようと思ったら「管制圏」が出てきた、なんてのはよくある。

「非特異的所見」の序盤が「人喰い」と変換されるとアワワワってなる。

なーんてことを考えていて、ふと、思った。

キーボードを通じての「あるあるネタ」は、昭和の頃にはほとんど存在しなかったんだよなあ。

だってそのころ、変換ソフトがどうとかいう概念、いまほどはっきりしてなかったはずだよなあ。

じゃあ、今日の日記は、たかだか30年前には、絶対に書けなかった内容なんだろうなあ。

……書くほどの価値があるかどうかは、ともかく……。







今ぼくが当たり前のように動かしている神経や筋肉は、日常のさまざまな行動に対して、完全に最適化されてしまっている。

体のあちこちが、無意識下に連動している。

「機動警察パトレイバー」の中で、泉野明の操縦するイングラムが前方を指さすとき、腕を振り上げるのと同時に重心移動がなされているのをみて、シゲさんや遊馬が「動作が最適化されている」と感心する場所がある。

ロボットやレイバーがそれをやったら驚くわけだが、実際、人間はそういう「最適化」ばかりしている。

たとえば、ご飯を食べながら息を吸うことができるだろう。

しゃべりながらご飯を食べても舌を噛まないだろう(下品だけれど)。

誰かに呼ばれて後ろを振り向くときにどれだけ多くの筋肉がいっぺんに動いているか、ご存じか?

知らないというならば、どこでもいい、体のどこか一部分に、セロハンテープをはってみるといい。できれば、筋肉に沿って。

ただ後ろを振り向く、というだけの動作なのに、体中のどこにテープを貼っても、たいていそのテープが「つっぱったり、たるんだり」することに驚くはずだ。

人間は無数の機械の寄せ集めであり、それらは常に「連動」して、ひとつのものごとを成し遂げている。







ぼくのパソコンはぼくの入力スタイルに最適化している。

ぼくはパソコンを使って文字を打つ暮らしに最適化している。

ぼくは変換ミスをブログの記事に仕立て上げるくらいには最適化した生活を送っている。

ぼくは最適な暮らしをしている。健康であろうがなかろうが、文化的であろうがなかろうが、生きているだけで最適化している。

明石家さんまは次の娘に「いさい」と名付けるといい。ぼくらはもう最適なのだから。





最適でこれかよ。

やはり休日は、脳のリミッターを少しずらしてしまうようだ。

2019年5月15日水曜日

病理の話(322) 趣味や愛と一緒にされてもなあと怒られそうな話

自分が学生だったときもずっと考えていたし、自分が先輩になってからは後輩とその話題で盛り上がったりもした、いわゆる鉄板ネタというのがこの業界にはあって、それは何かというと、

「自分に向いているスキルは何か」

「自分が進むべき科はどこか」

「自分は何科の医者向きなのか」

というトークである。





医者といってもさまざまな仕事がある。

ぼくは医療者の仕事をおおきく3つにわけた。「診断」「治療」「維持」。医療の世界で働く人間は、このどれか、あるいは複数の性質をもつ仕事を日々行っている。

たとえば、循環器外科という場所で仕事をしている医者のもとには、「心臓の血管が詰まって明日には死んでしまうかもしれない患者」がやってくる。文字通り明日をも知れない命の人々だ。彼らに手術をほどこして、ケロリとなおすのが仕事である。

”救急車でやってきた患者が歩いて帰っていく。”

この「治療」に生きがいを見いだす人がいる。

ただ、医療者の仕事というのは必ずしも「治療」だけでは終わらない。

たとえば、ドラマ「ラジエーションハウス」に出てくる放射線技師たちのように、病気がどこに、どのような規模で存在するのかを見極めて、ほかの医療者達がこれからどう対処したらいいかの指針を打ち立てる「画像診断」という仕事。

彼らは人を治さないから医療者ではない、とは全く思わない。ただ仕事のスタイルは違う。地下鉄の運転手と路線図を書く人くらい違う。どちらがより医療っぽいか、という評価をくだすこともナンセンスだ。

さらには「維持」。これがかなり大事で、かつ、忘れられている。

たとえば開業医のもとに患者がやってきて、「いつもと同じ薬をくれ」という。血圧の薬でも、血糖を下げる薬でもいい。

このとき患者の「診断」はおおむねついている。高血圧ぎみだとか、糖尿病ぎみだとか。

「治療」方針もほとんど変わらない。前と同じ薬を出せばいいのだ。

では、「前と同じ薬を出すだけのこと」に、わざわざ医者が立ち会わなければいけないのは、なぜだろう?

日本の医療制度が、「機械から薬をもらっておしまい」にならないのは、なぜだろう?

そう考えてみる。

月に1度くらいのペースで、患者が医者のもとに通い、日々なにか変わったことはなかったか、最近気になることはないか、と会話をする。

会話にひそんだヒントを医者は探して、そこに、なんらかの「変調」を感じる。

どうも今の薬の効きが悪くなっている、みたいなこと。

あるいは、今かかっている病気とはまったく別に、違う病気が育っているかもしれない、ということ。

一病をもとにして、医者と関わりを持ち続けながら日々を過ごしていると、医者は患者の新たな変化に気づけるかもしれない。

患者が「維持」している日常生活に、それまでの暮らしを維持することが困難になるなにかが忍び寄っていないかどうかを、丹念に探っていく仕事。

この「維持管理」というのが、医療においては診断や治療と同じくらい……あるいはそれ以上に……大切だ。なお、看護師や介護士は維持管理のプロフェッショナルである(その点においては医者より詳しい)。






……さて、医療には「診断」「治療」「維持」という3つの側面があり、医学生や若い医者たちは、「このどれに自分は向いているだろうか」と考えるとよい……みたいなことを、ぼくは今まであちこちで語ってきた。

ただ、この、「向き・不向き」について、最近ちょっと思い直したことがある。

タイムラインを流れるツイートを見ていてふと思ったのだ。

学生の段階で、自分が向いている仕事、不向きなスキルなどを見極めることは本当に可能なのだろうか……と。




なんとなく、なんだけど、少なくとも医療業界における向き・不向きというのは、生まれた時に決まっている(生まれ持った)指向などではなくて、医療界で暮らしていくうちに

”育まれていく”

ものなのではないかな、という気がしてきたのだ。





卑近な話をする。ぼくは立場上、よく聞かれる質問がある。それはこうだ。

「どういう人が病理医に向いているんでしょうか?」

向き・不向きである。これに対してはぼくは近頃こう答えることにしている。

「20代のぼくは向いていなかったけど40代のぼくはめちゃくちゃ向いているんですよ。これって、病理医としてストレスなくやっていくスキルがぼくのなかで育まれたからだと思うんですよね。15年もやればね、そりゃね、誰でもきっとそうなります」

すると尋ねた側はキョトンとして、ときにはこういう。

「いや、じゃ、聞き方を変えます、15年スキルを育めるほど、病理にのめりこむことができるのはどういう人ですか?」

ぼくは少し考えてこう答える。

「正直、15年間ずっと病理に集中していたわけじゃないです。そもそも最初の数年はぼくは学者になりたかった。紆余曲折して、回り道をして、病理診断以外の方向にさんざん浮気してますけれど、それでもなんか育まれるんですよ」

すかさず尋ねた側は怒り出す。

「答えになってませんよ。それは結局、あなたが病理にたまたま向いていた、ってことでしょう」

ぼくはデンプシーロールの体勢に入る。

「向いていたか向いていなかったか、じゃなくて、時間をかけてそっちを向いたんだよ」

尋ねた側はデンプシーロールの弱点であるカウンターを放つ。

「でも時間をかけているうちに折れるかもしれないじゃないか」

ぼくは体に無理をかけるステップワークでデンプシーロールを進化させる。

「折れそうになったら逃げて戻ってきたってまだ余裕で人生は続くんだよ」

尋ねた側はフットワークでデンプシーロールを逆に追い詰める。

「人生の終盤のことなんかどうでもいいんだよ、俺は20代・30代で悔いの残らない選択をしたいっつってんだよ」

ぼくは追い詰められても結局デンプシーロールにこだわることにする。

「自分では能動的に選択していると信じて積み上げて、それがいつか『なんか気づいたらそこにいるな、俺』ってなるのが中年なんだよ。仕事の向き不向きなんて全部こうだよ」

カウンターが炸裂する。

「全部とか絶対って書いてある選択肢は間違いだって国家試験対策委員が言ってました」

ぼくはマットに横たわる。

「おっしゃるとおりです」

2019年5月14日火曜日

間と量子カ

「近頃の若者はスマホを通じて世界とつながっていると言いながら、現実世界での人間関係が希薄になっている、コミュニケーションに問題がある」

という内容のことをおっしゃった人に、

「つまりあなたは今時の若者とうまくコミュニケーションをとれない、ということですね」

とたずねてみたら、

「そう、私は今時の……」

と、そのへんで、黙ってしまった。




「近頃の若者はコミュニケーションがへただ」という人ががんばってコミュニケーション上手になれば、近頃の若者ともコミュニケーションはとれる。

明石家さんまは10代、20代の若者がゲストインしても普通に番組を回せるだろう。

むろん明石家さんまとゲストとが本当の意味で友達になっているわけではないが、少なくとも仕事として多くの人々の役に立つ文脈で、コミュニケーションをとることはできるし、それはおそらく9割がた明石家さんまの能力によるものだ。







「近頃のマンガがつまらない」という人の話はたいていあまりおもしろくない。

これは、「近頃のマンガはつまらない」という人が、近頃のマンガに対しておもしろさを見つけられるほどの感性を欠いているからである。ただ、もっといえば、




「近頃のマンガに対しておもしろさを見つけられるほどの感性を欠いている人とおもしろく話す能力」をぼくが欠いているからだ、と考えることができる。







だいたいの話が自分にかえってくる。ぼくは、「近頃の若者とうまくコミュニケーションがとれない人」とコミュニケーションするのがへたくそな人間なのではないだろうか?

2019年5月13日月曜日

病理の話(321) 攻防戦とそのみどころ

人類をおそう最大の脅威は、感染症である。

……なーんていうと怒られるかもしれない。ミサイルがこわい人も、隕石がこわい人も、環境破壊がこわい人もいるだろう。

立場によって何をこわがるかは人それぞれなのであまりトガったことは言えない。

だから言葉を換えようか。

人類をおそう最大級の脅威は、感染症である。





人体という精巧なシステムをぼくはよく「都市」に例えるのだが、ここに攻め込んでくる敵がいる。

ばいきんとか。ウイルスとか。寄生虫とか。

これらが体にとりついて、すみついて、悪さをすると、「感染症」と呼ばれる。




人体は、外からやっている微生物……エイリアンみたいなやつら……をはねかえすために、多くの防御機構を持っている。これを人呼んで「免疫」という。

ではクイズです、人体がほこる「免疫」の中で、一番優秀なものはなんでしょう?




好中球?

マクロファージ?

リンパ球?




答えは、「壁」である。免疫のうちもっとも大切なものは「免疫担当細胞」ではない。「壁」が大事なのだ。

血液の中をぐるぐる回っている、白血球と呼ばれる免疫担当細胞たちは、たしかに、外からやってきた微生物たちを認識して攻撃をしかける重要な部隊である。

しかし、そもそも、体の中に敵を侵入させないことのほうがずっと大切なのだ。




国際線に、入国管理ゲートがあるだろう。

こわそうなおっちゃんがハンコをもって待ち構えているアレだ。

あのゲートを構成している一番大事な部分はどこか?

おっちゃんの目力?

周りに立っている警備員の迫力?

答えは「壁」だ。いうまでもない。

ゲートの横がすり抜け放題だったらそもそも入国管理はできないだろう。

周りが壁で通れないから、唯一通れる場所に人は向かうしかないし、入国を厳しく制限できるのである。




このことがわかっていると、「感染症」というものをもう少し細かく語ることができるようになる。

感染症とは、「体外の微生物が、どこかの壁をやぶって、あるいは、壁のすきまから、人体に侵入してきて、悪さをする状態」と再定義できる。





壁が破れていたり穴が空いていたりすると人類は感染症にやられやすくなるということだ。





人体にはもともと穴がいくつかあいている。口、鼻、尿道、毛穴……。

だから感染症を起こしやすい場所というのもある程度決まっている。

鼻から入ってきて肺に達すれば肺炎。

口から入ってきて腸に達すれば腸炎。

尿道から逆流すれば尿道炎とか膀胱炎。

毛穴から入ればにきび。

熱が出て具合が悪そうな人をみたお医者さんは、穴という穴を調べて、感染の証拠を探し出す。これがコツである。

たとえば手術をしたとか、血管にカテーテルを入れているとか、ケガをしたなどの理由で、「壁」が破れている場合には、そこから感染症にかかる可能性がある。

穴という穴をチェックして、その先につながっている構造も確認して、それでも何も見つからないときには……。

発熱や体調不良の原因は、感染症以外にあるのかもしれないな、と、考えてみたりする。





人体とエイリアンとの攻防戦に思いを馳せながら、医療者は感染症に対峙している。……感染症専門医が読んだらひっくり返るほど雑な文章ではあるが、おおわくは間違っていない……と、思う。

2019年5月10日金曜日

アグレッシブなMだよね

話し相手、さらには文章を読んでくれる相手の「脳内の負荷」をいかに減らすか、みたいなことを最近よく考えている。



ぼくの「オリジナルの思考」をなるべくそのまま、ぼくがやりたいように外に出すと、上のような文章になる。

ここにぼくのクセがけっこう含まれている。

ぼくの文章のクセは、「ぼくが見たモノ」と「考えたコト」をブレンドしたまま、文章の前方に配置する、というものだ。

ぼくが一番興味のあること、言いたいことから順番に表示される。本来のぼくの脳はこういう文章を好んでいる。

けれども時間が経つと……。

どんなことを考えていたのかを忘れて、ぼくの思考がぼくのものでなくなったタイミングでこの文章を読むと……。

皆さんと同じ条件で、他人の目線で、自分の文章を読むと……。

あっわかりにくいなー、と思う。

脳のメモリをだいぶカリカリと消費しながら必死で読まなければいけなくなる。





ぼくは、「オリジナルの思考を垂れ流しただけの文章」を書いた後に、文章の構成をいじったほうがいいな、と思った。

先ほどの文章を再掲しよう。

「話し相手、さらには文章を読んでくれる相手の『脳内の負荷』をいかに減らすか、みたいなことを最近よく考えている。」

これを、書き換えよう。

「最近、気にしていることを書く。ぼくの話し方や文章の作り方は、聞き手や読み手にとって『負荷』がかかっているのではないか、これを減らしたいなというのが目下の懸念事項だ。」

なんかちょっと優しいしゃべり方をしたい。なんだかもっとわかりやすい書き方をしたい。聞き手や読み手ができるだけ負荷なく、ぼくの思考を手に入れられるような発信方法はないものか。いつも模索している。」




「文章術」みたいなものが気になった。だから、名著と呼ばれる本も多く読んだ。

ちかごろ一番おもしろかったのは、ファクトフルネスを翻訳した上杉さんのメソッドである。「いちから文章を作る人ではない、翻訳家である、上杉さん」のことが気になったのは、「原文があってそれを違う言葉に翻訳していく」という作業が、「脳内にオリジナルがあってその原義をなるべく崩さずに文章にしていく」というぼくが目指している作業に似ているように思ったからだ。




その上であえていうのだが、ぼくはもう、自分の文章の構成をいじるのはやめとこうかなーと思い始めている。

ぼくは、やっぱり、「見たことと考えたことがブレンドされて飛んでくる雑な文章」の方が好きなのだ。別にそれが合理的だからとか、純文学的だからとか、なにやらの理屈があってのことではない。おそらく指向性である。むしろ嗜好性かもしれない。

ぼくは自分の文章の構成が好きだ。ぼくは自分の読みづらい文章を何度もかみ砕いて、そのときのぼくが脳の中に何を雑多に投げ込んでいたのかを探っていく読書が実は一番性に合っている。

読者をとるか、自分をとるか。

自分も読者なのだ。だからぼくは読者である自分をとることにした。




ただし、「構成を組み換える以外の推敲」についてはもう少し真剣に考えていきたい。読みにくくてもいい、とは、まったく思っていないのである。これも志向性というよりは嗜好性の話である。




結論として、ぼくは、自分が話し相手になったとき、さらには文章を読む方に回ったときに、「脳内の負荷」がいかに増えているか、みたいなところに背徳的な充実感をおぼえるタイプのマゾなのだと思う。

2019年5月9日木曜日

病理の話(320) 深読み病理医

患者に対して直接話しかけ、触れ、胃カメラやCTなどを施す「主治医」。

その主治医は内心いろんなことを考えながら検査を行っている。



少し気弱そうな患者がやってきた。

胃カメラの画面を、主治医だけではなく、患者ものぞきこんでいる。

カメラが胃にこすれて、ちょっと血が出ているような場所がある。

患者はびっくりする。

「ほへは、ひへふは。」

カメラを口にくわえているからこういう発音になる。実際には

「これは、血ですか。」

とたずねているのだろう。

主治医は答える。「いやー今ちょっとカメラがこすれて血がにじんでいるだけですね。」

患者はハラハラしている。





ところがほかの場所にも血がにじんでいる。

この場所はカメラがこすれるような場所ではない。

患者からも赤いものが見える。

「ほへほ、ひへふは。」

主治医は答える。

「……ここはなんでしょうね、少し血が出やすくなっているのかもしれません。」

すると患者の頭の中には、

「ここはなんでしょうね」

の一部だけがリフレインされる。




(なんでしょうね、とはなんだ。この先生にもわからないのか? もしもいやな病気だったらどうしよう)




不安そうになった患者の背中を看護師が撫でる。

主治医は横目で、それに気づく。

(そこまで気にするほど重大な病気ではないんだけどなあ……胃カメラがこすれてない場所なのに、血が出ているのは、たしかにちょっと変なんだよなあ)

患者と、主治医の、思惑が交錯する。

(ちょっとでも気になるなら、きちんと確認してほしいなあ。)

(念のため、つまんで病理に出しておくか。)





胃カメラの先端からマジックハンドが投入され、血が出ていた場所が少しだけむしりとられる。

小指の爪の先よりもさらに小さいくらいの、粘膜の断片が、ホルマリンの入った小瓶に採取される。

病理検査室に届けられる。

主治医は、病理医にむけて、依頼書を書く。

「念のためです。oozing (+).」

ウージング、というのは、じわじわと出血している、という意味だ。




病理医は依頼書を読む。イラストが描いてある。あるいは、内視鏡の写真が添付されている。

文面を読む。

「念のためです」という文章から、主治医の性格を考える。この人、がんを疑うときには、毎回きちんと「がん疑い」って書いてくる人だよな。

それなのにわざわざ「念のためです」。

あんまりがんだとは思っていないんだろう。それでも、安心のために……。

おそらくは、患者と主治医、両方の安心のために、病理検体を採取したのだろうな。




そこまで読み切る。

読み切れないときは主治医に直接電話をするのだが、もう、付き合いも長い。だから、わかる。




ここで細胞をみて、レポートに、

「悪性所見なし。」

だけ書いて、おしまいにしてしまう病理医は、……まあ、うん……間違っちゃいないんだけど。

ぼくは個人的には、AIに食われてしまえばいいと思っている。




ここまでの流れを予測して、

「慢性の炎症が存在する。上皮には再生変化あり。粘膜筋板が軽度肥厚している。癌の所見はなく、再生に伴う変化のみ」

と、細かく解説文を書いておく。

すると、主治医は、「わかる」。

(ああ……患者に説明しやすいように、いっぱい書いてくれたんだなあ)

そして、主治医は、病理報告書をみながら、患者に説明をする。

「えー、胃炎があるようです。この場所には。病理が、慢性の炎症と書いてくれました。何度か炎症を繰り返しているので、上皮に再生変化というのが見られています。さらに、炎症を繰り返した結果として、粘膜筋板という構造も厚くなっている。つまりこれらはいずれも、胃炎による変化ですね。粘膜がもろくなって血が出たのも、胃炎によるものでしょう。がんはなかったですね。」






「病理医が患者に触れる瞬間」というのはこうして訪れる。

実際に触れていないじゃないかって?

うん、まあ、そうともいう。けれど、どうだろうな。

ぼくは病理医も十分患者に肉薄できる仕事だろうと思っているけれどもね。

2019年5月8日水曜日

これを持っていると出口まで行けるんだゾウくん

地方局の作成したドラマ「チャンネルはそのまま!」を見てからというもの、民放が作成するローカルニュースみたいなもののあたたかさが気になってしょうがない。

20代の頃は歯牙にもかけなかった気がするけれど。

40を越えた今。

「近隣に住んでいるかもしれない人」がテレビでほがらかにしているのを見ると、必要以上に安心してしまう。

もうあと数年もすると涙ぐんでしまうかもしれない。涙ぐむだろう。今もすでにあぶない。

まったく、ぼくの精神はいろいろと弱くなった。




いつのまにかぼくは。

人々のさみしさや孤独を蓄積して、パターンを覚えてしまっている。

「こういう表情の人が、こんなしゃべりかたをするときは、こんな大変なことがあって、こんなつらいことを乗り越えて、それでもなんか前を向いてがんばろうとしているんだよなあ」

みたいに、人がただぼうっとしていたり、何気なく語ったりしているシーンを見ても、勝手に連想がつながるようになった。




想像力、イマジネーションは、経験によって伸びる部分がある。

経験によって増強・補完される「勘」は、人を弱くする。きっと。

そろそろ、「弱くなってしまった人にしかできないこと」をやるフェーズに入っているのかもしれない。





ローカルニュースで札幌市の円山動物園に訪れている親子がインタビューされていた。

母親にだっこされた子供が、母親がインタビューされている最中ずっと、カメラを気にせずに、カメラの後方で歩いているのであろう動物を指さして、

「ゾウだ! ゾウ! ゾウだよ!」

と言い続けているのだ。ぼくはそれを見ていた。

もうほんとに号泣するかと思った。なんの連想なのかはもはやよくわからないのである。

2019年5月7日火曜日

病理の話(319) 顕微鏡だけでわからないこと

細胞をプレパラートで見るとかなりいろいろわかるんだけど、もちろんわからないこともいっぱいある。

有名なところでは、「血の巡り」がわからない。

体の中からつまんできた組織片(そしきへん)をプレパラートにする段階で、その部分の血の巡りは当たり前だけれど止まってしまう。

血管は見えるよ。小さい奴だってわかる。

けれども血流は見えない。当たり前だけれどこれはけっこうおおきな「ハンデ」なのだ。




たとえば「がん」という病気は、体の中に機能のおかしな細胞が異常に増えてしまう病気だ。つまり本質は「ヘンな細胞が異常に増えること」にある。

この、「ヘンな細胞」も、通常の細胞と同じように酸素を必要とする。あるいは栄養だってほしがる。だから、がん細胞にも、普通の細胞と同じ……いや、それ以上に、血液が巡ってくる。

がんはずる賢いやつで、正常の血管網をいじって、血管を勝手に自分の方にひっぱってきて、血液をちょろまかすようなことをする。

このことを利用して、造影検査というのをやれば、「がんのところにだけ、周りと違うかんじで血流が流れ込んでいること」がわかる。病気の発見や、広がっている範囲を決めるときに、役に立つ。

これだけ大事な血流情報を、病理のプレパラートでは見ることができない。

「異常な血管が引っ張られている像」だけはかろうじてわかることがある。

市街地の電信柱から、学校のグラウンドに向けて、大量の電線が伸びていれば、「おいおい……何をするつもりだ?」と思うだろう?

病理医も同じようなことを感じることができる。

けれども、実際に流れている血流そのものをみることができないので、ちょっともどかしい。





病理医が直接みることができないのは、血の巡りだけではない。

たとえば、腸に、「炎症」が起こっているとする。体内の警察部隊である、白血球が、大腸粘膜のあちこちに出現している状態だ。

白血球がいっぱい出ていることは、プレパラートですぐにわかる。なにせ、白血球そのものは、顕微鏡でみえるからね。

ところが、この白血球が「なぜ」そこにあるのかは、見えないことのほうが多い。

つまりは「炎症があること」はわかるのだけれど、「炎症の原因」がわからないということだ。




炎症の原因がわからない理由はいろいろである。たとえば病原菌が原因である場合。単純に、病原菌が小さすぎて、プレパラートではよくわからない。というか菌自体はみえるのだが、大腸にはもともと「大腸菌」などの常在菌がいっぱいいるので、そこに「悪い菌」が混じっているかどうかがわかりにくいのだ。

直接の「下手人」を見極められないのに、炎症の原因を探らなければいけない。

だったら、どうすればいいか。




粘膜の表面付近で炎症が強ければ、感染症かもしれない。

粘膜の深部(表面から少し離れた場所)で炎症が強いならば、外からやってくる敵(感染症)ではなく、内なる敵(自己免疫など)に問題があるのかもしれない。

炎症はそれほど強くないんだけれど、なぜか粘膜が弱っているならば、それは特殊な栄養不足(たとえば虚血)かもしれない。

犯人そのものが見えないならば。

警察官の動き方、どこを重点的に捜査しているか、あるいは犯人がすでに壊した器物の解析……。

そうやって推理を進めていくことになる。




病理は推理、という話を最近よく書く。

推理。論理。わりと審理もする。そして、実は「心理」も用いるように思う。若干こじつけだが、こう、なんというか、「病気ってこういう気分で体に害を及ぼしていそうだよな~」みたいな、心理あてクイズ的な要素もある。直接目に見えないものを探るというのはそういうことだ。

そうやって必死で真理に迫っていくのだ。