2021年9月30日木曜日

病理の話(581) 細胞の見かたいろいろ

「体の中にある病気から細胞をつまんできて、顕微鏡で見る」。これが、一番かんたんな病理検査の説明である。ただし、このとき、見る方法にもいくつかのバリエーションがある。


まず、直感的にわかりやすいのは、細胞をそのまま正面から見ようと試みることだ。つまりは虫メガネで小さい文字を読んだり虫の模様を見たりするのと同じように、人体の細胞だって、超強力な虫メガネを使えばどんどん拡大して見ることができる。皮膚とかね。


でもこのとき、ある程度倍率をあげると、壁につきあたる。「光量が足りなくなる」のだ。狭い範囲をどんどん大きくしていくと、単位面積あたりの光の量が少なくなるので、視野がどんどん暗くなる。そうすると、細胞の細かな情報がとれなくなる。「そこに細胞があるなあ」くらいの観察でよいならば、ひたすら拡大を上げていけばいいのだけれど、細胞の中に詰まっている構造をひとつひとつ見るとなると、光量不足は問題なのである。


そこで、光量をあげ、細胞を見やすくすることを考える。まず、もりもりに積み上がった細胞に、正面から光をあててその反射光を見るという「普通のみかた」をあきらめる。細胞の向こう側から強い光をあてて、細胞内を透過させる。このやり方であれば、光源を強くすることで細胞の内部の情報がとりやすくなる。スケさせた方がいい。反射だと散乱してしまう。


細胞の向こう側からこちらに向かって光を当てると、細胞があまり大きなカタマリになっている部分ではうまくいかない。レントゲンを使えばいいって? それ、見るほうの目がやばいだろう。だから細胞のカタマリを崩す方法を考える。


ひとつは「薄切」だ。薄く切る。ダイコンのかつらむきのように、体内から採ってきた組織をミクロトームとよばれるカンナのおばけを用いてうすーく、4μmくらいに切る。向こうがペラペラに透ける状態になる。これで細胞の断面が見えるようになる。


ただし、断面を見る以外にも方法はある。体内からとってきた細胞を、ガラスの表面に「なすりつける」、これだけで細胞がガラスの上に剥がれ落ちてくる。捺印(なついん)と呼ばれる技術だ。


このやり方だと、細胞は切られない。ガラスの上に極小のマリモがちょこんと載っている状態になる。マリモというか、マリモ同士がある程度はくっついているので、ブドウの房みたいな状態でくっついていることが多いかな。あるいは、剥がれ落ちたジグソーパズルの数ピース、みたいな。


薄く切った場合には、H&E染色という染色で、細胞内の核をハイライトする。


ガラスの上に細胞をなすりつけた場合には、パパニコロウ染色というやつのほうが、ぶっちゃけ見やすい。断面を見ていないため、細胞膜の部分がジャマになる(ブドウの皮がジャマだ)。そこで、皮の部分をあまり強く染めないタイプの染色が使いやすい。


さらにさらに。これを最初に考えた人は偉いというか……むしろ何も考えていなかったのかもしれないな、という方法もある。それは、「ガラスに細胞をなすりつけたあと、処理をせずにしばらく放置して、軽く乾燥させる」のである。ブドウをダメにする。


ダメになったブドウはどうなるか? 水分が抜けて、ぺたっと広がるのだ。すると、残酷なことに、「細胞内の核がべたっと広がって見やすくなる」。細胞本来のかたちは崩れてしまうのだけれど、核だけをしっかり見たいときには、この「べたっと広げ方法」がかえって役に立つ。乾固定という。パパニコロウ染色よりさらに古典的な、ギムザ染色というのを使うことが多い。



こうしてみると、一言で「細胞を見る」と言っても、いろいろ工夫しているということがおわかりいただけるであろう。使い分けは経験的に行うのだけれど、ときおり、「今回はこう観察したほうがいいのでは?」とピンとくることもある。ぶっちゃけぼくはこの14年間で1度だけ、その場で考えた観察法でものすごいスピードで診断をしたことがあるのだが……あまりにレアなケースであり患者の個人情報もりもりなので、ここには書かない。ちょっとだけ情報を出すと、迅速組織診の手法と細胞診の手法を組み合わせて、高速で診断したのだけれど、ま、やめとこう。


2021年9月29日水曜日

会わなければ伝わらないもの

特にこの2年くらいは白髪の本数がすごいスピードで増えており、「多少混じっている」ではなく、「白髪が多いタイプの老い方をしている」。Zoomの画面だとよく見えないようなので、感染症禍が一段落して出張が再開したとしたら、おそらく人びとはおどろくだろう。

ぼくが主任部長になったのが去年の4月なので、一番偉くなったストレスで白髪が増えた、みたいな雑なストーリーを考える人たちも出てきそうだ。わかりやすいナラティブが添えられている現象は余計に説明しなくてよいから楽である。

いっそ、このまま状況がどうなろうと、私はもうオンラインでしか仕事をしませんよと宣言してしまうのもありかもなと思っている。遠隔でしか連絡を取れない病理医というのはキャラクタとしてそこそこ良い線行っているだろう。

「病理の仕事はぜんぶオンラインでできますよ。ウェブミーティングもウェブ講演も、リアル会場でやるよりよっぽど多くの人に見ていただけますし、むしろオンラインでやるべきだと思います。交通費もかからないから各方面に喜ばれています。そうそう、直近に出した本は、一般書も、教科書も、ぜんぶメールで作りました。編集者に会わなくても本は作れますね。白髪も増えたし、もう、あまり人前に出たくないです」

と言えば、断られることはまずないのではないかと思う。




昔、GTOというマンガがあって、天才生徒の菊地が「砂クジラ」という名前のキャラクタとたまにチャットで話をしていた。砂クジラはチャットでしか出てこないのに存在感があってかっこいいなと思いながら読んでいた。その後、彼は普通に本編に登場するのだけれど、ぼくは「しゃしゃり出てこないで、ずっとチャットの向こう側にいてくれたほうがかっこよかったのに」と思った記憶がある。

会いたいね、会いたいよ、やっぱり直接会わないとだめだよね、という人たちと仕事をすると、「やっぱり会うと違うよねー!」という大声が八方に響き渡るせいで、チリチリと鳴り続ける微弱なアラーム音を聞き漏らすんじゃないだろうか、とか、そういうことも考えている。


おそらく少し先の未来のぼくは、これまで以上に、「会わなければ受け取れない人」のために人と会う。ぼくと同じ感覚を持つ「会わなくてもコミュニケーションはできる」という相手とは、ツイッターオンリーだろうが、ゲームのチャット欄だろうが、深くしみ入る話ができるだろうから、これからは前以上に会わなくていい気がする。なんとなく人間は直接会った方がいいのかな、という思い込みがぼくにも確かにあったけれど、Zoom生活でよくわかった。会う必要はない。会わないほうがいいとすら思う。

ネット全般が苦手な人。ネットで仕事をしたことがない人。ネット上に友達がいない人。そういう人たちと仲良くしていくためには、「会うしかない」。たぶんそれでいい。別に会うこと自体がひどく苦痛だと言うわけではないのだ。会ってもいい、会ってかまわない。相手が望むなら、ぼくは四の五の言わずに、「会った方がラクだろうから会う」、それでいい。ただしぼくと同じような人間が相手なら、会う必要は全くないということだ。



誰かと一緒の空間を過ごす、特に、一緒に飯を食うという行為は、「今はあなたといっしょにご飯を食べていること以外のことはしていないですよ」という、ある種の「縛り」を介した契約なのだと思う。縛りがあるから契約が強くなる。そういう契約をする相手はよくよく吟味すべきだ。たとえば、「会って話してみないと相手のことはわかんないよ」と平気で口にする人とは基本的に話が続かない。相手のことをわかろうとしてコミュニケーションしている人は怖い。わからなくてもいいじゃないかと思う。こちらのことをわかろうとしてくる人と契約することが純粋に単純におそろしい。できるわけもないことをやろうとしている。詐欺師ほど大きな声を出す。


いろいろ考えていくうちに、ぼくがかつて一人で飲みに行くのが好きだった理由がなんとなくわかる気がした。「誰かとわかりあうために飯を食う」という行為に興味がなかった。カウンターを挟んで、飲食のプロが提供するものを、クリーンな契約の中で味わう、それ以外の意思疎通をしなくていいことが癒やしだったのだ。そうか、なるほど、そうだな、その意味で言うと、ぼくは感染症禍が落ち着いたら飯に会いたい。まだ見ぬ飯に出会い、飯とコミュニケーションをとりたい。実際に会って食べてみないと飯のことはわからない。インターネットではだめなのだ、やはり飯というのは実際に会ってみなければ。人? いえ、そっちは大丈夫です。

2021年9月28日火曜日

病理の話(580) 細胞を見分ける理由

「医者が顕微鏡まで使って病気を見まくる」というのは、よく考えるとなかなかちょっと、異常なことである。「そこまでする必要ある!?」と感じる人もいるのではないか。


窮屈なたとえ話をする。たとえばゴルフで、グリーンの上でパットをする前に、カップまでの距離をレーザー測定器で測ったり、芝の流れや傾斜をデジタル処理して計算したりするプロゴルファーはいないだろう。もちろん、試合中にそんなことやったらルール違反だと怒られるからという理由はある。でもアマチュアであってもやらない。なぜか? めんどくさいからである。そこまでしなくても人間の目と脳は、もう少しざっくりと、「なんとなくこうだよな」ということを判断できるし、実際、パットの腕さえあれば、ざっくりとした予測だけできっちりカップに入れることができる。


今、大事なことをふたつ言った。


・厳密な測定をしなくても、目や脳というのは意外と物事の本質をとらえている。


・厳密な測定をしたところで、運用の際に「技術的なブレ」(例:うまくパターのクラブを振ってボールを思った通りに転がせるとは限らない)があるので、そこまで細かく測ったところであまり意味がない。


これは、「測定」をめぐるあらゆる出来事に共通するポイントだ。



さて、話を戻そう。顕微鏡で人体内の細胞を見ることは「厳密な測定」である。そして、多くの医療は、じつはそこまでする必要がない。つまり冒頭の、「わざわざ顕微鏡まで使う必要がある!?」に対するお答えは、「そのとおりです、普通はそこまでしない。」となる。


たとえば、逆流性食道炎という病気がある。胃の中の酸が、食道の側にのぼってきて、胸が苦しく感じたり、なんかちょっとむせた感じになったり、刺激によって咳が出たりする。逆流性食道炎を診断して治療するときは、患者がどのようなときにどういった症状が出ているのかをきっちり問診する(話を聞く)ことが大切だ。症状の詳しい内容、症状が出るタイミング、特に食事や睡眠との関係(体を横にすると逆流が起こりやすくなることがある)などを丁寧に聞き取る。似たような症状を呈するほかの病気、たとえば胃炎、あるいは心臓の病気(これも胸が苦しくなるから)の可能性をきちんと否定することも大切。


で、逆流性食道炎に対しては、胃酸を減らす薬を出して治療をすることが多いのだけれど……。よく驚かれるのだが、「胃カメラ」を毎回やる必要はない。もちろん、症状が強い人や長く続いている人には胃カメラをすることもあるのだが、「そこまでしなくてもざっくりわかる」ので、ひとまず治療を始めて、それに対する反応を見ながら医者と患者が何度も相談して病気に対処していくことのほうが多いのである。


まして、逆流性食道炎のときに胃カメラを飲んで、食道の細胞を採取して、それを顕微鏡で見る必要性は……たま~にしかない


典型的な逆流性食道炎では細胞をつまんで顕微鏡で見たところで、「ああ、炎症が起こっているなあ。」以外の情報が増えないのである。だから病理医の出番もこない。


ではどういうときに細胞を見るのか? それは、「ぱっと見は逆流性食道炎だけど、一部分だけ、どうも雰囲気が違うなあ、がんが潜んでいたりしないかなあ」と悩んだときなのである。


そう、「細胞を見る」という厳密な測定は、「ざっくり判断することが難しい」ときに行われる。言ってみれば当たり前のことなんだけれどね。なんでもかんでも見てわかればいいってものじゃないのよ。




そしてもうひとつ。「細胞を見ることで、その後、医者の腕にかかわらずいい治療が選べるようになるとき」にも、病理は活躍する。さっきのゴルフのたとえで言うと、「パターの腕がどうであっても、キャディさんのアドバイスがあったほうが入る確率が高まる」みたいな話だ。「そこ、わかりにくいですけれど、絶対にボールが左に曲がりますよ!」みたいなアドバイス。知らなきゃ絶対カップインできない。まあ、わかっていても外すことはあるけれども、医療はいつもワンパットでカップインさせなければいけないわけではない。ツーパット、スリーパット、刻んで丁寧にカップインさせればそれでよい、という局面もある。


具体的には「細胞の種類ごとに抗がん剤の効きが違う」とかね。この話はそれだけでブログ数本書けるので今日はやりません。


あと、ぼくはゴルフやったことないです。プロゴルファー猿は見てた。


2021年9月27日月曜日

食う寝る遊ぶ

朝起きてご飯を食べて身支度をして車のエンジンをかける。出勤中、radikoで深夜ラジオをタイムフリー再生しながら、今日はだいたいこんなことをこんな順番でこなしていこうかな、と仕事の優先順位を付けていく。職場に到着してメールに返事をし、8時半以降はこうやって働こう、と脳内リハーサルをくり返して、進行表を固め、始業時間になったら一気に片付けにかかる。だいたいそういう毎日でここ数年やっている。

ところが、最近になって、朝ざっくりと決めた予定が午前のうちに入れ替わっていることが多くなった。ドッカドカ新しい仕事が入るため事前に立てたスケジュールが動く。病理というのは、ほかの医療部門に比べてイレギュラーなタスクが入りにくい部門だと思っていたが、それはぼくが管理職にいなかったからだということがよくわかる。ははーこういうことなのかー、これが社会人の本来の忙しさなんだなー、という感じ。今までは医者とは言ってもどこか「研究者」であり「学者」であった。それが楽だったとは思わないし、脳を鍛えるのに必要な10年だったことも間違いないが、それはそれとして、今は単純にこなしている仕事の絶対量が多い。

リスクマネジメント的に自然と、一日の中に計画的に隙間を作るようになっていた。午前中に30分の猶予、午後に30分の猶予、夕方から夜にかけて30分~1時間の猶予を設けておく。この「遊び」の部分にかからないように通常の診断業務をしっかり終わらせておき、「遊び」の時間になったらいったん仕事の手を休めて、たとえばAI病理診断研究のためのバーチャルスライドチェックをする時間にあてる。朝から晩まで間断なく仕事をし続けない、というのがコツだ。そのようなスケジュールを組んでしまうとひとつのイレギュラーで全体の進行に影響が出てしまう。正確に早く診断を進めることで、一日の中に3箇所くらい、「ピットインするタイミング」を作る。

猶予、遊び、ピットイン。しかしここで休息を取ってしまうと、休息明けの仕事がうまく進まなくなる。そこで仕事で使う論文や教科書を読む、あるいは、AI病理診断研究のためのバーチャルスライド巡回時間に充てる。これらはつまり、いつやっても誰にも迷惑をかけないタイプの仕事であり、時間で切断することも容易である。そして、いざイレギュラーな仕事がガツンと入ったときには、これらの遊びの30分、30分、1時間を「溶かして」処理をする。こうすれば、元からあった仕事を圧迫せず、飛び込みの仕事に比較的素早く対応して解決することができる。なお、迅速組織診などはイレギュラーとは考えず、「レギュラー」として最初から計算しておくのがコツだ。

ところで臨床医はよく「学会シーズン」という言葉を使うが、病理医から見ると「病院内の誰かが常に学会」なので、一年中が学会シーズンである。画像系の研究会などは臨床系の巨大な学会が開催されない時期を見計らって会場を確保するため、夏休み真っ盛りに開催されることが多い。お盆の研究会なんてのもある。すると、「学会や研究会のために病理の解説プレゼンを作る」というのも、もはやイレギュラーではなく準レギュラーとして扱うべきであるなと考えている。自分の守備範囲が広がれば広がるほど、学会・研究会系の相談ごとは増えてくる。他院のスタッフと仲良くすればその数だけ依頼も増えるものだ。日中は自分の病院の業務で手一杯なので、基本的に早朝や深夜にこの「準レギュラー」をこなすことになる。こなした上で、「30分、30分、1時間の遊び」を確保する。

そこまでして確保していたはずの遊びの時間が、午前、午後、夜とすべて溶ける日が多くなってきた。

「難解症例なので病院の垣根を越えて診断に協力して欲しい」とか、「研究計画書を一緒に書いて欲しい」とか、「共同研究先から送られてきた研究への参加条件が難解でよくわからないので病理の部分を相談に乗って欲しい」などの、まさにイレギュラーなタスクに重量を感じる(こういうことばかりしているあちこちの教授は偉い)。そんな中、地味に負担がでかいのはZoom会議だ。メールなら40秒もあれば伝えられることを、決まった時間で15分とか30分、長いときは1時間以上かけてやりとりしなければいけないので、「遊び」の部分が矢のように飛んでいく。

遊びが溶けることで、影響が直撃するのは論文や教科書を読む時間である。病理医というのはそもそも「脳だけで働く」のが仕事であり、本を読むことが業務に直結する。「今日は読まなくてもいいや」が1日あれば、それだけ病院の財産が減ると考えている。「うちの病院ではあの病理医が毎日情報をアップデートしている」ということは病院の資産価値を高めていると思う。イレギュラーな業務で圧迫されるのが「自らの勉強時間」だと、パッと見は患者に迷惑をかけない、それは確かに直近ではその通りなのだが、長い目で見ると、勉強できないほど忙しい病理医というのは将来の患者に迷惑をかける。だから勉強は削れない。しかし勉強するための「遊び」の時間が足りない。ではどうするか。

「他者の勉強にのっかる」しかないのである。本来、勉強するときは、自分が広げたいと思っている領域をガンガン広げていくべきであり、読もうと思っていた本の隣の本も、読みたいと思った論文の一つ下の論文も読むのだけれど、余裕がないときは「すでにその領域を勉強した人が何を最近読んだか」を教えてもらい、そのとおりに後追いするだけで勉強を終えてしまう。これで非常に早くなる。

しかしつまらなくもなる。

でも背に腹はかえられない。

こうして「勉強している人たちがいいと言っていた教科書や論文だけを読む」ようになって2か月くらい経つ。この間、自分で選び抜いた教科書は1冊しか読めなかった。臨床系の本もサイカイアトリー・コンプレックス1冊しか読んでいない。これはつまり自分の仕事のクオリティを保つ限界が来ているということである。このブログを書いている日の前日、ぼくはこの病院に来てはじめて、「スケジュールが合わない以外の理由」で仕事を断った。準備期間が3か月と言われて、どう計算しても無理だと思った。徹夜でやりきることはできたかもしれない。しかし、これから3か月、論文も教科書もまるで読めない状態になって、果たして半年後の自分はまともな病理医で居続けられるのだろうかと呆然としてしまった。ああ、これが、ぼくより20くらい上のエライ人たちが、「忙しいから引き受けられない」と言いながら、土日に家族サービスをやめないでいるのを見て、「年を取ると余暇がないと体力が保てなくなるのだな」としか思っていなかったのは視野が狭かったんだなとわかる。遊びまで調整しないと中間管理職以上の人間はクオリティコントロールしながら膨大な仕事をこなせないのだ。そうだったのだ。知らないことばかりだ。参ったなと思いつつ今日のブログは30分かけてゆっくりと書いた。でもこの時間がないとぼくはもう仕事にならないのである。

2021年9月24日金曜日

病理の話(579) 病理を知りたいタマゴのための本

先日ある編集者から、「学生や研修医向けの、わかりやすい病理学の本ってどうでしょうね」と言われたのだけれど、もうあるじゃん……と思った。


たとえば、病理学の講義で挫折した学生さんとか、そもそもあまり講義をまじめに聞いていない学生さんにはこれがいいと思う。『こわいもの知らずの病理学講義』。


https://www.shobunsha.co.jp/?p=4390


えっ、一般書じゃん……さすがに勉強するのに一般書はどうなの……と思われるかもしれない。実際にこれは非医療者にすごくよく売れているベストセラーである。しかし、読む人が読めば、この本はRobbins Pathologic Basis of Diseaseシリーズの副読本だということがわかる。病理学の大著と同じ構成、同じ論調で、ただ語り口が微妙に大阪弁なだけ。だから背伸びせずにまずここから読むのがいい。まじめに勉強した医学生や研修医なら「全部知ってる~」となる……はずなのだが……たぶん9割9分の医学生は「えっそうだっけ?」となる場所が数カ所くらいあるだろう。病理学というのはそういうものである。


この次に読む「教科書」となると田村先生の『図解入門よくわかる病理学の仕組み』だろう。医者以外のメディカルスタッフ向けだが、さきほどと同じように、どうせ医学生も研修医もこの半分も理解していないので読む価値はある。

https://www.amazon.co.jp/dp/4798028355/ref=cm_sw_r_tw_dp_X148FF01HZ9R78RVK8F6


で、この先だ。学生や研修医が習う、基礎中の基礎、いわゆる「病理学総論」ではなくて、もっと病理医っぽい……病理組織学。病院という診療現場で使う、実践的な病理を学びたい人はどうするか。



すると『スパルタ病理塾』(医学書院)と、『臨床に役立つ! 病理診断のキホン教えます』(羊土社)が浮上する。『臨床に活かす病理診断学 第3版: 消化管・肝胆膵編』(医学書院)を読むのもいい、最後のは前ふたつと違って「消化器寄り」なのだけれど、臨床と病理との「橋渡し」がすばらしい本なので、臨床医にとっては読んでいて理解しやすいだろう。



で、もう少し、理念とか学問に食い込みたい人、あるいはもう将来病理医になるぞと決めている医学生など、鼻息の荒いタイプにおすすめしたい本として真鍋先生の本を紹介する。このブログでも何度か書いてきたけれど、今一番熱いのは『皮膚病理のすべて I 基礎知識とパターン分類』である。これはすごい。皮膚病理に興味がなくても、病理医になるのであれば一読……というか通読する価値がある。拾い読みでもいいが後半を忘れないでほしい(すばらしいので)。臨床医はここまで学ぶ必要がないかもしれないが、病理医はここを通り過ぎておくとたぶん「すごく強固な診断力をもった病理医」になれること請け合いである。


https://www.bunkodo.co.jp/book/4LPK3AL6RK.html


この本の弱点をただひとつ上げるとしたらそれは「高い」ってことくらいか。病理の勉強のために初学者が13000円出すのはつらかろう。でもこういう本はたいてい大学に置いてあるので、借りて読めばいいのだ。


ここまでの本を通しで読む途中、どこかのタイミングで、『Quick Reference Handbook for Surgical Pathologists』(南江堂が輸入してます)を読むといいだろう。これ、2019年に第2版が出てたね。持ってないや。買います。買いました。


https://www.amazon.co.jp/dp/3319975072/ref=cm_sw_r_tw_dp_B8CR10K9NJYTF8YCR4DD?_encoding=UTF8&psc=1


英語の本だけど病理医にとって読めない部分はほとんどないと思う。なぜならイラストばかりだからだ。イラストごとに単語的にちょろちょろ英語がついてるのを覚えるのにも便利。使える。


こんなとこかな。自著? めちゃくちゃおすすめできるけどブログ読んでくださっている人はもう持ってるだろうから別に書かなくていいと思います。

2021年9月22日水曜日

コアと花

窓際で水耕栽培しているサボテンの水が減っていた。指でサボテンをつまんで持ち上げ、もう一方の手でビンの中の水を捨て、軽く中をすすいでから水を足してサボテンを戻す。サボテンにとってこの水温は最初、少し低いかもしれない。きっと水風呂に入るときのように震えているだろうが、しばらくガマンしてもらうことにする。


去年は何度か花を付けたサボテン、今年はたしか7月ころに一度だけつぼみがついて花が咲いた。でもそれっきりであった。そもそも、「花が咲いたらきれいだから」という理由で買ったわけではなかったのだが、一度咲くのを見てしまうと、また次も咲かないかなあと期待するものである。花というのは植物の中でも格別に気を惹く。花が咲くものは咲いていないときに少し切ない気分になる。花の咲かない植物であればそんな期待はそもそもしないのだが。


先日、テレビで鬼滅の刃をやっていた。2時間ちょっとのテレビスペシャルの再放送である。夜の7時に堂々とやっている。首が飛んだり血しぶきが跳ねたりするアニメを7時過ぎに放送するなんてずいぶん豪胆だなあと思うが、アナと雪の女王のエンディングでアナウンサーにありのままのを歌わせたフジテレビなのでまあそういうことも平気なんだろうなと理解する。こうしてあらためて鬼滅の刃を映像で見ると、じつに説明の多いアニメなのだな、ということがよくわかる。「隙の糸」をあんなに細かく説明するなんて思いもよらなかった。

あまりこれまで意識してこなかったが、ぼくが近年好んで見ている創作物は、「あまり説明をしないもの」にだんだん近寄っていっている。ただし、いわゆるSF好きのように、「できれば全く説明しないでほしい」とまでは思わない。エヴァンゲリオンだって、説明はもう少ししてくれてもよかったとずっと思っていた(今では慣れてしまったが)。一方、鬼滅はよくしゃべる。炭治郎の声の人は映画の最中ほとんどずっと独白している。これ、時給安いな、と素直にかわいそうに思う。

このような作りが、空前絶後のヒットにつながったのだということにじわじわする。よく言われている、「説明過剰の時代」というやつだ。しかしこれはおそらく説明過剰というよりも、ひとつのコンテンツを長々見続ける文化が下火になっており、瞬間的にすれ違う楽しそうなものをそのときだけ楽しんでもらうにはどうしたらいいかと、クリエイターたちが意識的に、あるいは無意識に試行錯誤しつづけた結果であると信じたい。ひとたび「説明してくれるアニメ」に慣れてしまえば、説明が足りないアニメのことを楽しく見られなくなるだろうか? 花の咲かないサボテンのような気持ちになるだろうか? いや、まあ、ぜんぜんそこは関係ない、のだろうか? そこまでのものではない気もしてきた。


自分の昔のツイートがときおりRTされて回ってくることがある。「そんなことを言っていたのか」と、過去の自分と今の自分の「違い」に驚いたりもするのだが、よくよく掘り下げてみると、「昔はこういうところを説明したほうが届くと思っていたし、今はこういうところは説明せずにいたほうがいいと思っている」のかもしれないな、と感じる。時間が経てば人は変わる、それもそうだし、時間が経つと過去を都合良く改変する、それもそうだし、時間が経った後で自分を見ると「それでも一粒変わっていない部分があって、それがたぶん自分のコアだ」と気づくこともある。往々にして、自分らしさというのはコアの部分にはなく、表面で咲いた花の部分に出てくるものだと思うのだけれど。

2021年9月21日火曜日

病理の話(578) 昔の自分の診断をみる

私事で恐縮だが、ある研究をするために、「自分が診断したプレパラート10年分」を一気に見直している。


と言っても、ありとあらゆるプレパラートというわけではない。そんなに見たら大変だ。だって全部で……ええと……年間のべ6000人の患者を見ているとして、プレパラートがひとり平均5枚(生検なら1枚~5枚、手術なら10~30枚くらい、それをならすと、うん、わからん)と仮定すれば、1年で30000枚、10年なら30万枚。プレパラート1枚見るのに5秒としても150万秒、つまり17日と8時間40分かかる。なんだそんだけしか働いてないのかあ。


従って今回見直すのは「ある臓器」の、「ある治療方法をされた患者」だけにしている。これをぼくが全例見直して、結果を確認し、人工知能(AI)にも診断をさせて対決するのだあ!


というわけで見直しているのは2800枚程度のプレパラートである。仕事の合間にちまちま見直して、3週間(営業日にして15日程度)でなんとか全例見終わる予定となっている。これを見ていると、いろいろ、思うところがある。


10年前のぼくの方が、少しだけ「病理診断の中に詳しく解説を書いている」なあと思った。当時、各種の学会で検討されはじめたばかりの項目については、かなり細かく説明をしている。今ならこんなに書かない、なぜなら、「この概念は臨床医もだいたいみんなわかってくれたから」。


しかし、10年間いっしょに勉強してきた臨床医ならともかく、今この内容をはじめて目にした研修医などは困るかもしれないなあ。ちょっと省略しすぎたか。これからまた、少し詳しめに解説を書くかなあ……。




なーんてことをずっと考えているといつまでたっても「振り返り」は終わらない。一つ顕微鏡を見て、昔のぼくが考えていたことをなぞるたびに、5分とか10分といった時間がギュンギュン過ぎ去っていく。ざっと見返しているときに思わず見逃した細胞を、昔のぼくがきちんと見ていて、「あっ……やべ、気を抜いたらだめだな」と背筋を伸ばしてまた見直したりもする。



病理医が成長によって、年を経ることによって、「診断がだんだん変わる」というのは決していいことではない。しかし、時代ごとに臨床医から求められる項目が変わっている以上、普遍的な部分はぶれず、フレキシブルな部分には柔軟に対応を変えるというのも、病理診断報告書を書く者の勤めではある。



……そして結構ハラハラする。まさか誤診とかしてないよな……。昔の標本を見直すときはいつも心のどこかに「もし間違った診断を付けていたらどうしよう」「見逃していたらどうしよう」「過剰な診断をしていたらどうしよう」という気分を住まわせる。逆にいえば、現在進行形で見ているプレパラートに対しても、ぼくらは常に、「10年後の自分が見直しても安心して同意できるような診断を書くんだぞ」と、言い聞かせていなければならないと思うのだ。

2021年9月17日金曜日

エゴサ釣り

最近のインターネットでは「誰かの目に留まるような手法」というのが広く知れ渡っている。たとえば、


「相手のエゴサに引っかかるようなキーワードをわざとツイートの中に混ぜて、その人をdisる」


なんてのがある。


何かを発信するとき、それが世間にどのように受け止められているかな……と反応が気になるのは当たり前のことだ。どれどれ、「ヤンデル先生」で検索したら何か出てくるかな……。


すると、「ヤンデル先生」とだけ書かれてあとは罵詈雑言の嵐、みたいなツイートが引っかかってくる。びっくりする。「バカにするのに先生を付けている!」これがあまりに不自然なので、逆に、「ああこれは的確に相手を傷つけるための技術なのだなあ」と腑に落ちて、それ以降はあまり気にならなくなった。


ブロックやミュートをすればこのような人たちは目に入らなくなる。しかし、もっといいのは、「そもそもエゴサをしない」ということなのだけれど、ま、なかなかそうもいかんよね。


なお今は試しにぼくを例にあげて説明をしたが、実際にはぼくはあまりエゴサしても叩かれていない。これは、叩く人にリアクションを返さないからだと思っている。


叩く方だって反応がほしいのだ。


ぼくを執拗に叩き続けていた人をしばらく観察していると、ほかの人をも叩いているのだけれど、その叩かれた人が引用RTで反論をはじめたら、「来た! 釣れた!」とばかりに、引用RTの応酬が始まった。しばらくの間、ぼくへの攻撃はぜんぜんなくなり、「反応がある相手への攻撃」ばかりが続く。


ぼくは昔、そういうのを見て、「ブロックすら相手にとっては反応だと思われるんだなあ」ということに気づいて、ブロックすることもやめてしまった(スパムアカウントや、暴力的行為など犯罪的なツイートの報告・ブロックはときどきやる)。


ツイッターは承認欲求の場ではない、という趣旨のツイートが人気になっていた。「承認されたいからっていう理由なんかでツイッター使ってないよ」とその発言者は言う。頭の中で思い付いた雑多な内容をローデータとしてアウトプットして、自分の中から生(き)で出てくる言葉を世の中に露出するためだけにツイッターを使っているらしい。推敲前の文章を出力する場所としてのツイッター。まあそういうこともあるだろう。じゃあツイートをコラージュしたら一流の文章になるのかというと、どうも一般的にそううまくいくものでもないと思うのだが、まれに、ツイートの中から美しい文章を練り上げていくタイプの作家・哲学者などもいる。結局は使い手次第なのだなあ、と自分を省みる。他人のエゴサに引っかかるように悪口を言う人もいれば、作家がこれを読んで元気になってくれればいいなと作品の感想をつぶやく人もいる。やっている行動は9割方同じだ、ただ、最初の心根の部分だけが微妙に違う。あるいは、双方の心を持ったまま、どちらかを押さえつけ、どちらかを撫でて愛でてやっているタイプの人間もいるだろう。というか、人間とはたいていそういう多重なものなのだろう。


2021年9月16日木曜日

病理の話(577) 昔から効くと言われている薬

かの有名な「正露丸」が、じつは西洋医学では未だに存在しなかった「アニサキスという寄生虫を倒す薬」らしい、という論文が出たそうだ。以下にわかりやすい解説がある。

https://nazology.net/archives/95980

これ、世間をけっこう賑わせて、ツイッターのトレンドにもなったから、すでにご存じの方も多いだろう。



こういう話を読むと、昔から伝わる民間療法の一部は、「昔だからこそありがたみがあったのだなあ」ということを考える。


ただし、「今はもっといい薬があるから昔の薬を今飲んでも意味がない」と言いたいわけではない


事実、アニサキスを駆除する方法は、現代においては「胃カメラで摘まんでとること」一択だったのだから、これが正露丸で倒せるとなると、消化器内科医はびっくりである。今でも十分に使える薬が再発見された可能性があるのだ(まだこれからいろいろ調べてみないといけないけどね)。


それでも、なお言うが、たぶん正露丸がほんとうに人びとの役に立っていたのは、今よりも、昔。


昔のほうがもっと役に立っていたのだろうなと思う。


なぜなら、昔は「今よりももっとアニサキスにやられる人の数が多かった」と考えられるからだ。



今よりずっと魚やイカの生食、あるいは不完全な焼き魚を食べることが多かった時代に、食後の腹痛の原因としてアニサキスは今よりはるかにポピュラーだったのだと思う。食品の衛生環境がよくなり、アニサキスの知名度が増し、料理人たちの目配りも厳しくなって、それでもなお現代に残っているのがアニサキスのやばさだけれど、昔はもっとたくさんの人が、日常的にアニサキスにやられていたに違いない。


だから正露丸がよく効いたのだ。正露丸は、腹痛、食あたりの薬だとされているが、「食あたりのうち、アニサキスが占める割合」が高かった昔は、アニサキスの特効薬である正露丸がよく効いたのであろう。


だからよく売れたのだ。


正露丸はほかの寄生虫にも効いたのかもしれない。しかし、ピロリ菌やカンピロバクター、サルモネラなどにはどれだけ効くのだろうか? たぶん、そんなには効かないと思う。だからアニサキスの有病率が相対的にひくくなり、その他の原因による「腹痛」が相対的に上がった現代においては、「正露丸は……まあ、正露丸だよね」くらいの評価に落ち着いているのではないか。




「温泉が病に効く」というのも、昔と今とでは意味が違うのだろう。病というのが戦場での傷だったなら、流水による洗い流しと酸性度による常在菌活性の変化は多少は役に立ったろうし、栄養不足や寒冷などに伴う関節症状だったなら、水分代謝と湯治場での食事、そして温熱効果も今よりはるかによく効いたろう。


しかし今は「病」のわりあいが昔と違う。となると、何にでも効く、というわけにはいかなくなるのだと思う。令和になって、「温泉は万病にいいよ」と信じている人の数は減ったが、それも無理もない。昔とは「万病」の組合わせが違うのだから。




しかし、そう考えると、「昔よく効くと言われていた薬」にはまだまだ可能性があるのだな。病気は新しいモノばかりではない。結核だって再興した。「かつては効くと言われていた薬」には夢が眠っているのかもしれない。……とっくに製薬会社はそんなこと気づいていたのだろうけれど、でも、正露丸が、今になって、なあ。

2021年9月15日水曜日

日本病理学会がツイッターをはじめた

日本病理学会のツイッターアカウントが思った以上に硬派で、なんというか、けっこう安心したというか、正直に書くと「肩の荷が下りた」というか、いやまあかつてぼくが勝手に荷物背負ったことがあるってだけなんだけど、ちょっとホッとしたのである。


アカウントができたのは9月3日金曜日のようだ(最初のツイートがその日だし、「2021年9月からTwitterを利用しています」って書いてあるからたぶんそうだ)。


まだ1ツイートしかしてない。


日本病理学会公式アカウントを開設しました。どうぞよろしくお願い申し上げます。

#病理医 #病理学


これに800以上のいいねがついて、一気に1600人にフォローされた。すごい。こんな学会アカウントがあるのか。

ぼくがフォローしている人のうち840人は病理学会のアカウントをフォローしているようである(画像下部参照)。逆に言えば、ぼくとフォロー関係にない、さらなる800人が日本病理学会をフォローしているのだからすごい。病理関係者ってこんなにいたんだな。もちろん、必ずしも病理医や病理専攻医だけではないと思うけれど。



かつてぼくがツイッターをはじめたとき、さいしょのモチベーションは、「病理の広報をしたい」だった。運用1,2年くらいで、当初の目標であった「フォロワー数2100人(※当時の病理専門医の人数だったと思う)」を超え、その後、マンガ『フラジャイル』が出ることで、べつにぼくみたいな一個人が病理広報アカウントを名乗らなくてもいいな、というか、むしろそれはイタいな、と感じて、勝手に掲げていたカンバンを下ろした。

でも、心の中でずっと気にはなっていた。ぼくの一挙手一投足が病理医の印象を作るとは思っていなかったが、「病理医」で検索すると必ずぼくの名前が上位に上がる状況には何度も違和感を覚えた。アカウント名から「病理医」を取り除いたことが2度ある。

余談だがこのブログの著者名「ヤンデル氏」というのは、当時、Twitterでヤンデル氏を名乗っていたことの名残である。



今回こうして「日本病理学会公式アカウント」ができたことによる、この、独特の安心感みたいなものはなんだろう。ようやくこれでキャッキャと個人で楽しめるな、という解放の心地がある。いざとなれば病理学会がきちんと何事か言うだろう、そして検索する人も、ただしくたどりつくだろう、という信頼感がある。安心、解放、信頼、これらはまさに今のSNSに必要な要素であり、ぼくはようやくTwitterで安堵することができた気がするのだ。母屋があってこそ、軒先で威勢良く声が上げられる、みたいな心情。

このよろこびがどれだけ伝わっているだろう。日本病理学会アカウントができた日、ぼくに、「ついにできましたね! おめでとうございます!」と声をかけてきた人が3人いた。ぼくはとても感心した。おめでとうございます、の一言を、ぼくは言って欲しかったのだ、と、そのときじわりと感じ入ったのだ。

2021年9月14日火曜日

病理の話(576) お水が溜まる理由をぜひ

体の中に、さまざまな理由で「お水が溜まる」ことがある。


たとえば「膝に水が溜まる」というのはなにか。


これは、膝の関節包(関節をつつんでいる膜の中身)で炎症が起こっていることを示す……。


いやいや。これじゃよくわからないだろう。


「炎症が起こるとなぜ水が溜まるの?」という話を、もうちょっとちゃんとやろう。




「炎症」というのは基本的に、外敵に対する生態の反応だ。ばい菌やウイルスがやってきたときに、そいつを免疫細胞などによって叩きつぶすために、炎症が起こる。


免疫細胞は体内を巡回しているものが多い。どうやって巡回するかというと血管の中を泳いでいるわけだ。そこで、「あっここに敵がいるヨ」とアラームがなったら、現場の血流を増加させる仕組みがある。


ビビー! アラームが鳴るとパトカーが集まってくるわけだ。街中ではパトカーは道を通ってやってくるのだが、生体内だと、なんとより多くのパトカーがやってきやすいように、「道路の幅を拡張する」ということをやる。


道路というのはすなわち血管だ。敵がいる場所では、毛細血管が開き、血流が増える。


パトカーから大量の警官が降りてきて次々と犯人の立てこもった銀行内に突入するとき、警察官は道から建物の中に入るだろう。


免疫細胞も血管から外に飛び出てくる。だから血管の壁はスカスカになる。


内部の液状成分が外にしみ出ていくわけだ。そうすることで、ばい菌やウイルスがいる場所では、血流が豊富になるだけではなく、「水気が血管の中からしみ出てくる」ということが起こる。


このため、炎症があると、基本的にその周囲は水気が増えて、「腫れる」。蚊に刺されると腫れるのもこれだ。


肺炎だと「胸水」が溜まる。心筋炎だと「心嚢液」が溜まる。関節炎だと「関節液」が溜まる。腹膜炎だと「腹水」が溜まる。これらの「お水が溜まる」は、広い意味では全部いっしょで、炎症があるからお水が漏れ出てきているのである。



では、お水が溜まるときはぜったいに炎症が起こっているのか? というと……じつはそうとも限らない。


「血管が開いてスカスカになって水気が漏れる」以外にも、お水が溜まる理由はあるのだ。たとえば、もともと少量の潤滑液を流している部分で、「排水溝が詰まる」と、水の出口がなくなって、いっきに水の量が増えてしまう。


「リンパ浮腫」なんかはそれだ。リンパ液の出口がなんらかの理由で詰まってしまうことで、お水が行き場を無くして、水が増える。


また、お腹の壁にがん細胞が張り付いているとき、がんが「排水溝」を詰まらせることで、水が溜まることもある。「がん性腹水」はおそらくこれによるとされている(まだわかっていないこともあるが)。



このように、「なぜお水が溜まるんですか?」と言われても、その理由はひとつではない。となると、「あー水が溜まってますね」と、その場で起こっている現象だけを見ても話は解決せず、「なぜ、どのように水が溜まったのか」を見極めないと、状況は改善しない、ということになる。なんとなくクラシアン当たりが日ごろ考えていることと似ているかもしれない。

2021年9月13日月曜日

ブルーウォーターって結局なんだったのか思い出せない

おいしいもの食べたい! おいしいもの食べたい!

高価で豪華なアブラを1回だけ使ってすごい熱量で短く揚げたテンプラが食べたい!

近くを通るだけで肌が切れるほど透き通った包丁で切られたことも気づかないまま切られた鮮度抜群の刺身が食べたい!

でもそれ以上にひたすら腹をすかせてすかせてもうだめだってタイミングでビッグマックにかぶりつきたい!

常夏のビアガーデンで腱鞘炎になりそうな重さのジョッキを180度に傾けてビールが飲みたい!


けどだめなんだ。胃液も腸液もやめとけって言う。ポリポリとアメをかじりながらぼくは思った。値段もタイミングも関係なく、もう、そういう食事がうまいと思える腹じゃねぇんだ。


スーパーに並ぶ刺身に割引のシールが貼られていないものを「鮮度がいいんだな」と好意的に解釈し、7きれしか入っていないカツオのたたきを「分厚いからだな」と手に取って帰り、冷蔵庫の缶ビールを冷凍庫に25分ほど入れている間にシャワーを浴びて、髪が乾く前にビールを飲んでカツオを食べると、7きれもいらなかったな、でもうまいな、これが最高だな、みたいな気持ちになっている。あとはもうビールもいらなくなって、庭でとれたミニトマトをつまんでいるうちにお腹がいっぱいになって、脳内に蛍の光が流れて目にシャッターが降りる。


なんとなくそういう低栄養、低カロリー、低空飛行の暮らしをしていて、でもときどき、便通が保てないという理由で多めに米を食ったりしている。妻が食事に気を遣ってくれていなかったら目の周りのクマはもっとひどいことになっていただろう。でもクマは栄養とは関係あるのだろうか。


エレクトロポレーションで肌の奥にビタミンCを届けます、とテレビで言っていて笑ってしまった。エレクトロポレーションってのは本来、「細胞の中」に物質を届けるための手法であったはずだ。「細胞が折り重なってできている表皮の向こう側」、すなわち「細胞の奥」に何かを届けるために使うものじゃなかったはずだ。リンゴを包丁で切ると中身がご覧になれますよね? ではこの包丁でリンゴ畑を切って見ましょう、隣の畑のおじさんの顔がよく見えますよ、というのと似ている。あるいは、ぼくが知っているかつての「エレクトロポレーション」と、最近美容業界で流行っている「エレクトロポレーション」とは別の現象なのかもしれない。紛らわしいことだが、そういう名付けがありえないとは思わない。


かつて、NHKでやっていたアニメ「ふしぎの海のナディア」の中に、「裏切りのエレクトラ」という表題があったのだが、それを見た僕が真っ先に思ったことは、


(エクストラさんだと思ってたけどエレクトラさんだったのか……)


であった。エレクトロポレーションももしかしたらエクストラポレーションとかなのかもしれない。安易な発言に気を付けようと思う(ググりはしない)。

2021年9月10日金曜日

病理の話(575) あいついつの間にこんな分厚い本を書いたんだ

山本健人『すばらしい人体』を読んでいる。


https://www.diamond.co.jp/book/9784478113271.html


正直に言うと、内容はめっちゃくちゃがんばればぼくにも書ける。しかし、この文章はとうていぼくには書けない。べらぼうにうまい。

実家の両親に見慣れない高価な食材を持っていって食べてもらったところを想像してほしい。そのときの、親のリアクションを思い浮かべてほしい。

「あらあら、まあまあ、おやおや、うまいねえ!」

という感じだ。

今のは例え話として完全に滑ったが、本書は例え話まで含めて完璧に、うまい。けいゆう先生はすごい。


うまいとすごいしか言っていないのでもう少しちゃんと語ろう。オーオーフォルツァサッポーロ。フォッツァサーッポロ。フォツァサポロ。そのチャントではない。


本書は充実の分厚さである。章が5つもある。章タイトルはそれぞれ以下の通りだ。

1.人体はよくできている

2.人はなぜ病気になるのか

3.大発見の医学史

4.あなたの知らない健康の常識

5.教養としての現代医療


これを、医学部を卒業して医師としてはたらくぼくの目で専門的にラベリングしなおすと、こうなる。カッコ内は、医学部のだいたい何年目くらいに習うか、という目安である。


1.人体はよくできている →解剖生理学(1年生~2年生)

2.人はなぜ病気になるのか →病理学(3年生)

3.大発見の医学史 →医学史と感染症学と基礎医学研究(1~3年生)

4.あなたの知らない健康の常識 →臨床医学と生理学(4年生、2年生)

5.教養としての現代医療 →臨床医学の中の治療学と病棟医学(5年生、6年生)


おわかりだろうか、医学部で6年間かけて習った内容がちりばめられている。これめちゃくちゃ大変なことだよ。ふつう一人の医師がやることではない。というかこれをぜんぶ網羅できる視野の広さに恐れ入る。


そして、重箱の隅情報としては、「医学史を第1章に持ってこないところが上手!」だと思う。偉くなった医者が陥りがちなワナだ。「医学というのは先人がつみあげてきた努力の結晶だからうんぬん」と言って、本の最初からいきなり150年前の医学を語って読者を引かせてしまうケースがいかに多いことか。

それを、本の中盤に持ってくるという構成は上手だ。そして、スジが通ってもいる。

スジが通っているというのはなぜか。じつは、医学史の序盤戦は「外傷と感染症との戦い」なのだが、感染症学というのは基本的に「解剖生理」を習ったあとでないと、医学生もピンとこない。だから、医学部のカリキュラムでも、習う順番は真ん中あたりである。しかし、歴史の話は1年生のときに習う。するとどうなるかというと、大半の医学生が、「なんか昔エラいヒトがいたってことはわかるが、難しくてよーわからん」という気持ちになる。

逆に、医学史がそういう「難しいものだ」という印象を持っているからこそ、偉くなった医者はよく歴史の話をするのだ、とも言える。「歴史の話まで言える俺、教養あるわー」と無意識に鼻高々なのではないか(偏見?)。

そこでけいゆう先生は、意図的か無意識にかはわからないけれど、医学史の内容を3章という絶妙のポジションに置いている。こうすることで、本書は全体的にぐぐっと読みやすくなる。

やっぱり序盤は「目をつぶって右手でいいねのポーズをつくり、左手でその親指をガッと掴めるのはなぜでしょう?」みたいな話でスラスラ読みたいじゃない。「肛門は空胞(おなら)と実弾(うんこ)を区別できるんですよ」みたいな話でゲラゲラ読みたいじゃない。読み手のことをとってもよくわかっているなーと思うのだ。


そして4章と5章がまたシブい。内容としては医学部の後半、さらにはじっさいに医者になって病棟ではたらきはじめてからの知識が必要となる、じつに高度で先進的なことを言っている章なのだけれど、それを「非医療者がわかるエピソード、わかる言葉」できっちりシンプルに(でも豊潤に)描いているので恐れ入る。




いやーすげえ書き手だよ。あらあら、まあまあ、これ、おいしいねえ。(……うちの親は食べ物を食べて「うまい!」とは言わないことに気づいた。)

2021年9月9日木曜日

特定のエピソードあるいは実在の人物とは一切関係がありません

言葉狩りの世の中で発信を続けるには細心の注意が必要である。「そんなつもりはなかったとしても、悪く受け取る人がちょっとでもいるならば、発言した人が責任を負うべきである」という意見は声量が大きい。そして、事実、一理ある。無視することはできない。


「そんなつもりはなかったんですよ」と言っていじめを否定する人間がいる以上、「そんなつもりはなかったんですよ」で自分の不用意な発言が免責されるとも思わない。

だから表現を磨いていかないといけないだろうな、と思う。結論としてはいつもそこにたどり着く。




子どもの頃に折った木の枝。小学校への通学路で拾ったエロ本。高校のときに割った窓ガラス。隣の講座の講師に吐いた暴言。すべて自分の責任であるので一生背負って反省していかなければいけない。やった方はカラッと忘れられても、傷つき続ける人がいる。

それぞれの案件に一切関係のない第三者であっても、そのような事実があったと目から入力して脳に描いただけで、無限に傷つくことができる。人の心の優秀さゆえ。

だから表現を磨いていかないといけないだろうな、と思う。結論としてはいつもそこにたどり着く。




本を読みマンガを読み映画を観て、表現とは何かを受け取り続けて、自分がどう動いて何を語るかを微調整し続ける。①今ならやらないことを昔はやっていた。②今はできることが昔はできなかった。①と②は等価だと思うが、①は時効のない罪だと言われることがあり、②も未必の故意の罪だと言われる可能性がある。そして発信をいくら洗練させても、受信する側のありようをコントロールすることはできず、誤読も浅読も含めてどう受け取られるかはわからない。

だから表現を磨いていかないといけないだろうな、と思う。結論としてはいつもそこにたどり着く。




なぜ表現する側ばかりが努力を惜しんではいけないのか? ……いや、ほんとうは、「受像の仕方」についても鍛錬を積まなければいけないのだ。送る方も受け取る方も、境界面で反射するだけの拡散者も、みな、すべてがんばりつづけなければいけないのだ。たぶん。




今日の記事に、表現上の稚拙さをいくつか指摘できる。

「だから表現を磨いていかないといけないだろうな、と思う。結論としてはいつもそこにたどり着く。」という文章を三度くり返したことは、鼻につく。

発信が難しいと言いながら、実際、「受け取る側」のことを非難している、皮肉まじりの文章のように「も」読めてしまう。

今日の記事を読んで新たに傷つく人がいるだろう。そのことを背負う。そしてさらに表現を磨いていくしかない。受け取る側が「悪い」のではない。いつだって、言葉を残した側が「悪い」。……善悪を定めるならば、誰かが正義を語る限り。

以上は皮肉ではなくぼくが考える「正しさ」なのである。しかし、磨ききった表現力を持たないために、おそらくまた、どこかには届かず、どこかには届きすぎて、罪を背負う。

2021年9月8日水曜日

病理の話(574) 医学は端だが役に立つ

今日のブログのタイトル、ほんとうは、「医学はあなたの役に立たない」にするつもりだった。しかし、いくらなんでも「逆張り」が強すぎるかなと思い、少しマイルドにして書き直す。


古典文学とか三角関数とか重力理論なんかは一般の人の役に立たない学問だ、みたいな言い方が、定期的にツイッターのタイムラインに上がってくる。

これが短絡的な良い方であるというのは、ツイッターの人びと(略してツイ人)もたいていわかっている。古典は多様な人びとを結ぶコミュニケーションの役に立つではないかとか、文学で豊穣な精神世界を解き明かしていくことは人間の本質をあかるくする行為だとか、お前が知らないと思っているだけで日常的に使っているそのスマホにも三角関数が使われているとか(いるかな?)、そういった反論がものすごいスピードで飛びかかってきて、「その学問、役に立たないよね説」をボッコボコに殴って去っていく。


一方で、「医学って役に立たないよねー」的な話はまず見ることがない。なんかすごく特別扱いされている。病院で使うじゃん、みたいな感覚があるのだろうか。



しかし普通に考えて、大半の医学は三角関数や重力理論よりも「役に立たない」ものばかりだ。



たとえば「膵臓の上皮細胞に発現しているある種の膜タンパク質が膵臓の細胞をきれいに配列させる役に立っている」みたいな話があなたや私の人生をこの先ちょっとでも「医学的に解決する」ことはまずない。宝くじがあたる確率より低いと思う。

「酵母にもゼブラフィッシュにもラットにも認められるある種の遺伝子が人間の体の中でも働いていて神経をどうにかしている」という研究はおそらく世の9割9分9厘9毛の人にとってどうでもいい話だ。

しかしこれらが「医学」の名の下にまとめられると、とたんに、「医学は人を救う学問」みたいな看板を背負う。



正直言ってそういうのあんまりいらないと思うのだ。「医学をとっかかりにして頭脳の回路の一部をギュンギュンに光らせた、楽しい!」以外のモチベーションがなくても研究はやっていける。


この話をすると、必ず、「しかし医学研究は国の予算を使って行うことなのだから、人のために役立つことをしなければ研究費が取れないだろう」みたいなことを言う人がいるのだけれど、そういう人は研究という行為を「国から予算をもらうもの」と決めつけて語っている。


在野の研究者のことを無視している。


学問は学閥にいなければできないものではない。巨額の研究費がなければ巨大な研究ができないというのは間違いだ。正確には、「巨額の研究費がなければ研究者として上の立場にのしあがることができない」と言うべきである。研究者として上の立場にのしあがる、つまりは立身出世においては研究費のことを考えなければいけないし、「誰の役に立つか」ということをウソでもいいから予算申請の書類に書き連ねる必要がある。


しかし、学問とはもっと自由なものである。丁寧に言うと、「もっと自由にやっていい学問もある」(※ぼくはちなみに予算を大量にとってものすごい数の人の期待にこたえながら縛りだらけで研究する人たちのことをめちゃくちゃ尊敬しています)。


だいたい、「学問は何の役に立つんですか」というセリフ自体が世の中の役に立っていない、しかしそのセリフをつぶやくこと自体は完全に自由だ。「学問は何の役に立つんですか警察」がいて、「学問は何の役に立つんですか」と口に出した人を連行して頭から酵母をかける刑に処すことは今のところない。学問は何の役に立つんですかという質問は筋が悪く本質的ではないが、「そのようなギモンをもってしまうこと」にかんして世の中は完全に自由ではある。とある人が「この学問は何の役に立つんだろう」というしょーもないギモンを平気で口にする自由を担保されているのとまったく同じ理由で、「何の役にも立たないがめちゃくちゃおもしろい医学」を研究する自由がぼくらの精神世界においては保証されている。

2021年9月7日火曜日

宗教選択は自由であるそうだ

腹具合がよくないなーと思ってパラグアイのWikipediaを上から下まで眺めることにした。首都はアスンシオン。高校生クイズの予選に出る前に、世界各国の首都の名前を覚えようとがんばったので、遠い記憶にこびりついている名前だ。もちろん高校生クイズは予選で敗退したので、細かい知識など使う間もなかった。


パラグアイの国旗は表と裏の模様が違うらしい。自動車免許みてぇだ。


使われている言語はスペイン語とグアラニー語。グアラニーというのを知らない。フォロワーに言語に強い人が1000人くらいいるのであまり深掘りしないようにしたい。ブラウニーみたいでもっさりしたおいしさを感じる。あまり深掘りしないようにしたい。


パラグアイの在日大使館が用いている正式なカタカナ表記は「パラグァイ」らしい。グァム的ななにかを感じる。


漢字で書くと巴拉圭、または巴羅貝だそうだ。どうでもいいけど国名のときに「羅」を使うのが日本人は大好きである。この字、清濁併せのむというイメージがある(私見)。


あたりまえだが知らない歴史、知らない政治の姿がいっぱい記載されている。世界中、どこの国にも濃厚な戦争と謀略の歴史があり、それ以上にほんとうは「微妙なずれ」や「調停」のくり返しがある。日本にもパラグアイの歴史を研究している人は必ずいるだろう。それが学問のすばらしさだよな、みたいな雑なまとめ方をしたくなる。ただ、出てくる項目の固有名詞がなじみのないものばかりで、文字を読んでいてもツルッツルッと目線が滑っていく感覚がある。


軍事の項目が簡潔ながらおもしろかったのでメモしておく。



> 国防予算(2000年):8,300万ドル(一人頭15ドル)


なぜ一人頭? ああ、国民一人当たり、ということか。ひとり1500円で国を守れます。メットライフ生命の無料見積もりより少しお高い。なおパラグアイの通貨はドルではなくグアラニーである。またもっさりした食感。


>陸軍

>パラグアイ陸軍。兵員は1万5,000人。国内の治安維持や災害救助などの任務が多い。

>海軍

>パラグアイ海軍。兵員は3,600人。海軍は国境の川の防備が任務である。

>空軍

>パラグアイ空軍。兵員は1,700人。規模、稼動機ともに多くない。


海軍が川の防備をやっているとのことで、なら川軍じゃん、と思う。空軍に至っては多くないと書かれてしまっている。雑である。



中華民国(台湾)との関係、という項目がある。一部抜粋する。


>南米で唯一、中華民国と国交を有しているが、近年は経済面から中華人民共和国との国交樹立を検討しているとも言われる。

>(中略)

>2020年、パラグアイで新型コロナウイルス感染症が拡大。2021年3月、パラグアイで中華人民共和国関係者を名乗る業者がCOVID-19ワクチン提供の条件として中華民国との断交を要求してきたが、その後、中華民国がパラグアイのワクチン獲得に協力している。


額面通りに信じるならば、ひでえ話だ。ワクチンを盾にして国交・外交関係を無理矢理動かそうとしたのか。しかし、「中華人民共和国関係者を名乗る業者」というワンフレーズの、業者という言葉に課せられた重みが激しい。業者ってそんなに豊富な意味を持った言葉だったろうか?



こうして一度も興味を持ったことのない国のことをじっくりゆっくり読んでいる。


>パラグアイ国民の90%以上が、日本人と同じモンゴロイド系であるグアラニー人などのインディヘナの血が強い、スペイン人との間の混血(メスティーソ)である。


そうか、グアラニー人ってのは日本人と同型なのか。「メスチソ」という言葉を中学のときに地理で習った記憶もある。2018年に日本の総理大臣(安倍さん)が歴代の総理としてははじめてパラグアイを訪問していろいろ仲良くやろうぜと言ったらしい。地球の反対側とも仲良くやれるなんてすばらしいことだ。腹具合が悪くならなかったらこの記事は読まなかったろうが読んでよかった。合縁奇縁。

2021年9月6日月曜日

病理の話(573) 四角形のカドを丸くしていったらどこから四角形でなくなるか

表題を読んで「あー。」と思う人もいるだろうが、なんのこと? となった人向けに、軽く図で説明をしよう。



左から順番に、パワポで、「カドを少しずつ丸くしていった」図形である。


一番左は、いちおう「四角形」ということでよいのではないかと思う。


一番右を「四角形」と言い表す人は少ない、というかほぼいないのではないか。


では、あなたは、左から何番目までを「四角形」と認識するだろう?


……人それぞれだろう。もう一度出すよ。



左から3番目くらいまでは四角形でいいかな、と考える人が多そうだ。でも、「なんかカドが丸いね」くらいのコメントが付くかもしれない。左から4番目もギリギリ四角形でいいんじゃない? 四角いお弁当箱って言ったらこれくらいのやつでしょう。いやいや、せいぜい左から2番目まででしょう……などなど。


じつは一番左も、拡大しまくると、カドは丸い。




「図形を言い表す」というのはじつはすごく難しい。個人がそれまでに積んできた経験や、例え話のキレ味、説明の説得力などでいくらでも左右されてしまう。


なにが言いたいかというと、「病理診断」のはなしだ。



病理診断は、細胞の形状などを顕微鏡で直接みることで、がんか、がんではないかなどの極めて大切な判断をする。


このとき、「細胞が大きい」とか、「核と細胞質の比が大きい」とか、「核の輪郭が不整である」などという言葉を用いるのだけれど、大きいとはどれくらい大きいのか、不整とはどれくらい不整であるのかが、人によって違っていては、困る。


あの病理医はがんと言ったけれど、こっちの病理医はがんとは言わない、みたいなことがいっぱい起こってはまずい。


そこで、「大きいとは具体的にどれだけ大きいのか(例:リンパ球の3倍以上大きい)」、「不整とはどれくらい不整なのか(例:輪郭が外に凸の円弧だけで形成されていない)」、などを、いかに具体的に表現するかが大事になってくる。


ぼくの場合、地球の裏側にいる人に電話で伝えても伝わるくらい具体的に説明できないと病理診断としてはレベルが低いと考えている。毎回うまく行くわけではないが、いちおう、9割9分の病理診断は言葉で説明できるように努力している。


とはいえ、具体的に説明できればそれでいい、というものでもないのが医学の難しいところなのだが……。

2021年9月3日金曜日

前借りのルタオ

目線の先に、「ルタオ」の紙袋がある。これにはずいぶん昔にあるドクターから預かったプレパラートが入っている。「いつか研究会で使うかもしれないので、先に送っておきますね!」と言われた。ぼくは「そのいつかが来たら送ってください」と何度か言ったのだが、相手はいいからいいからと言ってぼくにプレパラートをごっそり送ってきた。紙袋をぐるぐる巻いて、上からクロネコヤマトの伝票を貼って。


案の定、そのプレパラートはいまだに使われることなく、ぼくの向かうデスクの上のほうに積まれたままである。疲れた日に、背もたれに体をあずけてぐっと斜め上を見ると、青い紙袋が嫌でも目に入る。「あのルタオ、まだあるな」というのを意識して、若干ゆううつになる。


いつか返さなければいけないものを持っている状態というのに、ぼくは弱い。


じつは図書館も苦手である。借りたら返すまでずっと落ち着かない。図書館に出かけていって、そのままそこで座って本を読むほうがはるかに好きである。2週間もあるんだからたいていの本は読み終わるでしょう、とか、そういう問題ではない。2週間のうちに読み終わって返却に出向くという「タスク」をストックしたまま生きるのがめんどうである。「借り物の2週間」を過ごすくらいならその2週間でいつもより多めにアルバイトをして、稼いだお金で本を買った方がいい、と思い、大学時代はそのようにして多くの本を買った。あのとき買った本のほとんどは人にあげたか売ったか捨ててしまったが、「だから借りればよかったのに」とは全く思わない。


話は変わるが、いやじつは変わっていないのだけれど、こないだ、原稿を書いてくれと頼まれた。締め切りは10月1日です、と言われた。8月24日に依頼を受けて、26日まで目一杯、3日間考えに考えて、書いたらうまく書けたのでそのまま送ってしまった。締め切りより1か月以上早かった。そんなに早く書かないでください、1か月きっちり悩んで書いたほうがよいものが書けるのですから、あまり急がずにもう少しじっくり取り組んでください、などと言われたらぼくはその仕事を断ってしまうだろうが、幸い、そのような不満は今のところ聞いたことがないので、助かっている。「1か月間、締め切りに終われ続ける自分」を想像するのがきつい。脳に負荷をかけ続けるのがいやだ。これも、なんというか、ぼくの中では、「返さなければいけない本を小脇に抱えている状態」に近い。


ぼくは本職が文筆家ではないのでさほど頻度は多くないけれど、なんらかの文章を依頼されることがある。その依頼が脳を圧迫するのがいやなので、なるべく「依頼が来る前に考えておく」ようにしている。そもそも、「締め切りがない時」は自由に発想できるので、あらかじめ、「今のぼくにどんな文章の依頼が来そうか」をシミュレーションしておいて、何度も何度も脳内で書いておく。そうすれば依頼がきたときに考え始めるのではなく、すでに考えている状態からスタートできるから、3日もあれば方向は決まるし、運が良ければそのまま書き終わる。


書いていて思ったがこの状態は「依頼の前借り」ではないのか? と思ってしまった。借りたくないと言いながら借りているのかもしれない。ここを読んでいる方はとっくにおわかりかもしれないけれど、ぼくが平日に毎日ブログを更新していることは、おそらく、「未来に依頼される文章を書く準備」にはなっている。何度も何度も似たようなことを書いているのはたぶん「将来のぼくのための前借り」なのだろう。あの先生のルタオみたいなもんだ。

2021年9月2日木曜日

病理の話(572) インターミッション略歴の話

あんまり病理の話じゃないんだけどちょっと箸休めに。


や、すんません、このブログ自体が箸休めなんすけどね。気分転換に。




医療者が、ほかの医療者の前で発表をすることがある。それも、自分の病院で同僚相手に何かをしゃべるのではなく、学会や研究会と呼ばれる場所で、ステージに登ってパソコンを開いてスクリーンにパワーポイントを投影して、堂々と自分の研究成果や臨床の経験などを聴衆に向かってしゃべる機会があるのだ。


演者がしゃべる時間は、5分とか7分といった短い場合もあるし、60分とか90分のようにけっこう長い場合もある。前者は学会の「一般演題」というやつで、後者は「基調講演」だとか「特別講演」などだ。


で、この、長くしゃべるほうでは、演者がしゃべりはじめる前に、「座長」と呼ばれるその場を仕切る人が、しゃべり手を「紹介」するシーンがある。


このとき、おなじみの紹介方法がある。たとえばこんなかんじだ。



「本日ご講演いただくA先生は大変高名な方ですので、ご列席の皆様方は先刻ご承知でしょうが、恒例ですのでご略歴を紹介させて頂きます。A先生は○年、B大学医学部をご卒業され、C科学講座にご入局されました。専門医取得後、C大学大学院博士課程にて○○の研究に携わられ、学位取得後にD国E大学にご留学されました。帰国後、F大学にて准教授を勤められ、その後現職であるG大学C科学講座教授にご就任されております。所属学会は多数で、H学会、I学会、J学会の学術評議員及び理事を務められ、K学会春期大会の大会長を勤められました。ご業績は大変多くとてもご紹介しきれませんが、□□にかんするご研究は皆さんよくご存じかと思われます。本日はA先生から最新のL,M,Nのお話しをおうかがいできると聞き私も大変楽しみにしております。それではA先生、どうぞよろしくお願い申し上げます。」


A先生「過分なご紹介ありがとうございます、ご紹介にあずかりました――



恒例ですので、とか、過分なご紹介ありがとうございます、あたりは決まり文句なので、演者たちにとっては脳が半分寝ててもスッと出てくるワードであり、もはやあまり心もこもっていないのだけれど、それはともかく、


長い!


「他己紹介」は長いのだ。これを略歴と言うのだが一切略してないので笑えてしまう(まあ厳密に言うと確かに略してはいるんだけど)。そしてぼくは長年この「略歴紹介」が無駄だと思っていた。自分が講演するときには基本的にこのくだりを省略してもらう。座長はたいてい「紹介したがり」なので、「まあそうおっしゃらずに、先生の略歴を教えてくださいよ」みたいな言い方をしてくるのだけれど、自分のしゃべる時間が短くなるのがもったいないので、とか、聴衆はべつに私の略歴を聞きにきたわけではないので、とか、そもそも私は業績が足りないのでご紹介には及びません、などと言って断っていた。


で、まあ、これからもぼくが講演するときは基本的に略歴の紹介はご遠慮させていただこうとは思っているんだけれど、最近、それとはまた別に、


講演の前の略歴ってけっこう重要だよな……


と思う機会も増えてきた。自分が聞く側にまわったときに、講演した人の話があまりにすばらしいと、「やべ! 今の誰だ!? すげえよかった! この人の書いた論文とか教科書とか全部読まなきゃ!!」と思って、調べたくなってしまうのだ。そういうとき、略歴があると、調べやすくて助かる。


学会や研究会で大事なのは「講演の内容そのもの」なのはまあ間違いない。でも、あるプレゼンがすばらしいときには、「せっかくだからこの人の考えたほかのプレゼンも見てみたい」となるのは当たり前の欲求だ。


そこで最近ぼくが思うことなのだが、略歴紹介は講演の前にやるのではなくて、講演のあとに回してもらいたい。講演がすばらしかったらその人の経歴にも興味がわく。あるいは、講演の際に聴衆が目にする「ハンドアウト(手元の資料)」や、学会のパンフレットなどにきちんと記載してあればそれで十分である。


……ここまで書いて思ったのだけれど、多くの書籍が著者のプロフィールを「巻末」に載せているのは、あれ、すごくわかるなあ……。いい本を読んだ後ってその著者について知りたくなって、他の著書も読みたくなるもんな。

2021年9月1日水曜日

かかりつけない

髪が伸びてきたのだが次の週末に切るにはまだ早い気がする。


そう思ってその次の週末の予定をみたら隙間がなかった。なるほど、その次もだ。だから今週末に切るしかない。


スマホで美容室を検索してネット予約をしようと思ったが、次の土日はすべて予約が埋まっていた。場末の美容室のくせに人気店だなんて生意気である。


駐車場があって、店が広いわりに席数が少なく、美容師さんが余計なことをしゃべらない、ぼくのくせのある髪質をいやがらずになんか適当に切ってくれる、苦節20年の末にようやくたどり着いた店。


あーちきしょう切りたいときにサクッと切ってくれりゃなー、と、ないものねだりをする。しかしまあ閑古鳥系の店はいつ潰れるかが心配だし、かえってこれでよいのかもしれない、と経営にまで無駄に気を回す。


今の美容師さんは男性だ。その前に別の店で切ってもらっていた美容師さんは女性だった。職場から比較的近くて、夕方、仕事が一段落したタイミングで車に乗って髪を切りに行き、終わったらまた職場に戻ってくる、みたいなことをやっていたころである。その美容師さんは、もう名前を忘れてしまったが一時期とても人気のあったモデルさんに似ていて、かつ話もあっけらかんとしておもしろいので当然のように人気があった。腕が良かったのかどうかは知らない。店長に近い立場だったのだけれど、ある日、妊娠をきっかけに突然お店を休んでしまった。電話で予約をとろうと思ったら若いバイトが、「あっ、店長おめでたなんですよ!」とだけ言ったので、「お、おめでとうございます! では!」と言って電話を切ってしまった。それっきり行っていないが、あそこもまあ、いい店だったと思う。


「かかりつけの美容師」をころころ変えてきた過去を思い出すと、美容室を変えることにたいして大きい理由はなかったような気もする。理想通りに切ってくれた、切ってくれなかった、みたいな「腕に対する評価」よりも、「なんか電話で予約がとりづらかった日が一回あった」くらいで、なんとなーく次の美容室を探してしまっていた。今はもう、ひとつの美容室に延々通うことがいちばん「脳のエネルギーを食わない」ので、たぶん新たに次の美容室を探そうという気持ちはそうそう起こらないと思うのだが、昔はもう少し、身軽だった。身軽で野放図で軽薄に、「人を変えていた」。



書いていて思ったが病院とか医療なんかもそうなんだろうな、と思うことはある。自分のことをいうと、ぼくは、今までに20箇所以上の歯医者に行っていると思う。どこもほとんどいっしょなのに、なぜときどき変えてしまうのか。医療の世界で20年近く暮らしているけれど、「かかりつけの歯医者が決まらない問題」は、美容室とは違っていまだに解決していない。