2021年12月29日水曜日

病理の話(612) はしっこまで切れてるかい

体の中から採りだしてきた細胞を顕微鏡で見る「病理診断」。

このとき、細胞をうまくガラスプレパラートに乗っけないと、ちゃんと見えない。だからいろいろ工夫がいる。


たとえば、プレパラートの上に、採ってきた臓器を「なすりつける」と、表面から細胞が数個ずつパラパラとはがれてくっつくので、それを見ることができる。これには用語があって、「捺印細胞診(なついんさいぼうしん)」という。捺印というのは印鑑を押すことだが、あんな感じでグイグイ押しつけると細胞がひっつくのだ。ただし、あんまり強く押したら細胞がこわれるので、ほどよく加減する必要があるけれど。

この捺印法には重大な弱点がある。くっつけてなすりつけて剥がしてくる、というやり方では、ほんらい、細胞がどのように配列していたかを見ることができないのだ。

病理診断は「細胞の顔つきを見る」検査であると例えられることがある。しかし、細胞1個を見てその性状を判断するケースはじつは少ない。より正確に言うと、「細胞同士の位置関係」や、「多数の細胞がつくる構造」を見て診断をすることが多いのだ。組み体操のパターンで細胞の性格を読み解く、と言えばよいかもしれない。


したがって、臓器をハンコのようにガラスにぐいぐい押しつける以外の方法を編み出さなければいけない。ここで開発されたのが、薄切(はくせつ)という技術だ。

木材にカンナをかけるように、あるいは、大根の皮をかつらむきにするように、臓器を薄く、向こうが透けて見えるくらいに薄く切る。その薄片をガラスプレパラートに乗せて、染色をして、下から光を当てて透過光で見れば、600倍くらいまでならふつうに光学顕微鏡で観察することができる。



さて、このとき、じつは意外な落とし穴がある。



病理診断の大切な仕事のひとつに、「臓器の中に発生した病気が、臓器のはしっこまで及んでいるかどうかを見る」というのがある。はしっことはすなわち、「病気の先進部」だ。病気という名前の敵軍が、どれくらいまで進軍しているかをチェックする=戦況のマッピングをするのは病理医である。

このマッピングをする際に、プレパラート上に、「臓器のはしっこ」がきちんと観察されるかどうかが、地味にむずかしい。

さきほど、カンナがけ、とか、かつらむき、などと言ったが、たとえば見た目も太さもほぼゴボウのような臓器があったとして(ないけど)。

ゴボウを切って、楕円形の割面を出す。この楕円の部分を、カンナでけずって薄くピラピラの1枚を手に入れるわけだが……。

ちょっと想像してもらいたい。カンナというのは、「はしからはしまで」けずるのが意外と難しい。

ゴボウの切り口の楕円が、ちゃんと全周、皮まで含めてけずれるのではなく、真ん中あたりでシャッと途切れてしまうことがある。これはよくある。

ここで、けずれてきた薄片をプレパラートに載せると、はたして検体が皮まで切れたのか、それとも楕円の中心部あたり(ゴボウの芯の辺り)で中途半端に削り終わってしまったのかが、なかなかわかりづらい。

すると、どうなるか? 病理医が顕微鏡でみるとき、「あっ、病気がはしっこまで及んでいる!」と思っても、じつはカンナがうまくはしまでかかっていなかっただけ、ということがあり得る。



「病気が切り口のはしっこまで及んでいるかどうか」というのは治療方針に直結する。手術で病気が「採り切れているかどうか」にかかわってくるからだ。「検体のはしっこにも病気がありましたので、この手術で病気は採り切れていません」となると、患者も主治医もみんながっくりするだろう。

しかし、その「はしっこ」というのが、カンナがけの失敗によるものだったらどうする? 誤診になってしまう。



そこで病理検査室の技師は工夫をする。ゴボウのたとえに戻ろう。皮の部分にあらかじめ、外側からインクを塗っておけばよいのだ。そして、カンナがけをしたあとの検体をみて、「ちゃんと全周にインクが見えるかどうか」を確認する。これによって、カンナで「断面すべてをうまく削り通せたか」がわかる。



なんだそりゃ、ずいぶん細かい話だなあ、と思われることだろう。でも、この細かい話は、日本の病理検査室の技師たちが優秀だから達成できることであって、けっして「当たり前」の技術ではない。

ぼくはけっこういろんな国のプレパラートをみるのだが、技師のレベルが低い国だと、細胞はすごく見づらい。検体の固定、染色などいろいろ問題はあるのだけれど、さきほどのゴボウでいうと、「皮まできちんと削れていることのほうが少ない」。

また、日本国内であっても、診断ではなく実験で細胞を観察する人たちの細胞写真(たまにツイッターで流れてくる)をみると、あきらかに、「ちゃんとした技師が作っていない標本」であるとわかる。ゴボウの皮の部分がボロボロになっていたりするからだ。

いやー技師さんは偉いなあという話で雑にしめくくるけれどマジで感謝してます。


(年内のブログ更新は今日までです。再開は1月4日から。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。)

2021年12月28日火曜日

実際どっちでもいいんだけどどっちかに決めたほうが盛り上がるからさ

人生において「選択を迫られる場面」というのはおもいのほか少ない。めったにないから、逆に希少価値として、テレビドラマや映画、小説などでは「選択」の場面が描かれる。ところがそのせいで、「選択」こそが人生であると勘違いしてしまい、いつか自分も「ここぞという場面で大事な選択をする」のだと信じ込んでしまう人がいる……いや、「人がいる」どころではないかもしれない。ほとんどの人がそう信じている。


たとえば、映像のプロが四六時中カメラを肌身離さず持ち歩いたところで、これぞという事件はそうめったに起こらない。リアクションがおもしろい一流どころの芸能人を同じ環境に詰めこんで何日待っても、目を見張るようなハプニングなど起こるはずもない。だからこそ、昔のテレビでは「ヤラセ」が横行した。そうとう仕込まないと、人は「選択」までたどり着けないから、台本として用意する必要があったのだ。そして、多くの視聴者たちは、「ヤラセ」をわかっていながらも、それはそういうフィクションとして楽しむ、くらいの気持ちで、半ばあきらめ、半ば共犯者になって、エンターテインメントをいっしょに作り上げていった。


「選択」がキモだという勘違いに一生おぼれたままであってもかまわない。


本来は波風の少ない人生に、「フィクション由来の選択」が与えられることで、我々は擬似的に強調されたアップダウンを満喫できるようになる。べつにいいじゃん、演出だよ演出、という話。



ただし、作られた「選択」の概念がうまくハマらない部分というのもじつはある。それが何かというと、たとえば、人体という精巧な機械の経年劣化にどう対応するか、という話だと思う。

日々暮らしていくと血管とか筋肉が弱っていくし、胃腸がしんどくなる人もいる。これは何かを選択することで解消できる類いのものではない。「トシのせいだから」、そういうものだと受け入れて対処していくしかない。しかし、「選択」という名の幻想にどっぷり浸かっていると、

「今日、この料理を食べたか/食べなかったかで、自分のこれからの健康が変わりかねない!」

みたいなことを心の底から信じ切ってしまう。そういう問題ではないのだけれど。


では、エンターテインメントに毒された我ら人間が、「選択」という幻想のせいで、健康や老化についていつも間違えて「選択」して、結果的に損をしているかというと……。じつはそうでもない。ここにはおもしろいメカニズムがもうひとつ隠れている。

たとえばとある日に、マメが健康にいいらしい、と聞いて、マメ料理ばかり「選択」すれば自分はよりすこやかに生きられるはずだ! と信じた人がいたとする。そういうのは栄養の偏りにつながるから、あまりやらないほうがいいのだが、人間はつい「選択」したほうがいいと感じがちだ。マメばかり食べようと「選択」してしまう人は現実にいっぱいいる。マメは一例だ。これが糖質制限であってもコエンザイムQ10であってもササミ&ブロッコリーであっても青汁であっても同じことである。

ところが、数日すると脳の奥がこのように言う。


「飽きた」


これ、ものすごい機能だ。人間が同じ事を続けられないというのは生存戦略だと思う。一度はこうと決めた「選択」を、「飽きた」の一言で一時的なブームに落とし込んでしまう。人間は、飽きることができるからこそ、多様な行動の中に埋もれるほうに進んでいくし、「選択肢をどれかひとつだけ選ぶ」というフィクションに本能で抵抗できている。


逆に、心の底から響いてくる「飽きた」の声に、中途半端な理性で対抗してしまって、毎日マメ料理しか食べない、みたいなことをすると、長い目で見たときに体の不調が出やすくなる。「選択」を無理強いするせいでかえって偏ってしまう。



「ヤラセ番組」に代表される、この世のどこかには波乱があり、人間は何かを「選択」していくものだという虚構においては、ここぞと言う場面の「選択肢」が人間にとって決定的な影響を与える。しかし、人間は「感動にも飽きる」生き物である。ひとつの選択だけで人生が変わったと信じることまではできるが、実際に変わることはまれなのだ。正確には、ほとんどの人びとが、ひとときの「選択」に感動しながらも、少し時間が経つとさっさと飽きて、次の選択を……いや「微調整」をくり返している。

アロエがいいと言った次の朝には納豆がいいと言われ、昨日はアロエを選択しました、今日は納豆を選択します、と、毎日違うところを選び続けていく。毎日の「ちっちぇえ選択」、さらに言えば、「選択してもすぐにそれを捨てられること」によって、多様な行動ができて、食事を例にあげるなら結果的にいろんな栄養をとってうまいこと健康になっている。



選択こそが人生だという嘘に、みんな心のどこかで気づいているのだと思う。あるときふと、緊張せずに選んだ道を、歩みながらぐいぐい修正し続けて、最初に選んだ方向とはいつの間にかすごくずれている、みたいなことのほうが多い。

結婚した場面でエンディングを迎える恋愛ドラマの「その先」を語ったほうがおもしろいのではないか、と昔の人も気づいていた。最近の恋愛ドラマを見ていると、「結婚する前と結婚したあとの話」を両方書いていたりする。ひとつの「選択」に向けて盛り上がるような番組の嘘っぽさが、古びて感じられる。「選んだってこだわらなくていいんだよ、選び直したっていいんだよ、なんなら選ばなくたっていいんだよ」というメッセージを感じることもある。少なくともぼくは、そういう今のテレビのほうが圧倒的におもしろいなと思っているタイプの人間である。この「タイプ」というのも選択をほうふつとさせ、なんというか、ぼくも立派にフィクションに影響されてここまでやってきたのだなあと感じて、また自分の心の感じ方を微調整する。

2021年12月27日月曜日

病理の話(611) 早い段階で見つけたほうが診断は難しい

「悪の芽は早めに摘むに限る」。この考え方は、人体においても通用する。たとえばがんのような病気は、育ち切ってしまうと大変なことになるから、なるべく「できたばかりのタイミングで見つけて、さっさととってしまう」のがいいだろう。「早期発見」の考え方だ。


ただしこの「早期発見」にはいくつか技術的な問題がある。とくに、「病気ができて間もない頃は、まだ病気らしさがはっきり出てこない」というのが、病気を早期に発見することを難しくしている。


たとえば、がん細胞。


進行したがんで、あちこちに転移しているような細胞は、(言い方は悪いけれど)医学生が顕微鏡をみるだけでもなんとなく「ああ、普通の細胞とは違うなあ」とわかりやすい。さらに、教科書と見比べることで、「あ、これはAというタイプのがんだな」「こちらはBというタイプのがんだな」と、分類までできたりする。

このようながん細胞は、通常の細胞からかなりわかりやすく、かけ離れているから、素人に毛の生えた程度の医学生でも見分けることができるのだ。ちなみにこの「形態が正常からかけ離れていること」を病理用語で異型(いけい)があるとか異型性があるという。


(※子宮頸部などの病気である「異形成(いけいせい)」とは漢字が違うので注意!)


一方で、まだ「がんになりたて」の細胞や、「もうすぐがんになる」くらいの細胞は、正常の細胞からのかけ離れが少ない。異型が弱い、と言う。



これらはたとえ話でイメージするとよいだろう。破壊の限りをくりかえし、たくさんの人に迷惑をかけるマフィアの構成員と、高校に入ってからちょっとグレて上靴のカカトを踏み潰すことで社会に反抗したつもりになっている若者とでは、「かけ離れ」が違う。カカトをふみつけ、髪型をいじり、校舎の裏でタバコを吸い、カツアゲ、万引きと犯罪に手を染めるごとに顔つきは悪くなっていき、カツアゲのあたりで一線を越えて補導されることになるわけだが、これが細胞においては「異型が強くなっていく」と呼ばれる。



今回の話は「がん」を例にあげたが、じつはこれと同じようなことは、がん以外の多くの病気でも認められる。たとえば、関節リウマチやSLEなどの膠原病(こうげんびょう)と呼ばれる病気、あるいは、潰瘍性大腸炎(かいようせいだいちょうえん)などの炎症性腸疾患、さらには肺炎などでも、病気のごく初期には「どんな名医でも診断できない」時期がありうる。

病気は、出始めには見極めにくく、名医がお金と機材を揃えて必死に探せばどんな病気も早くに見つけることができるというのは幻想なのである。

もちろん、最初からトップスピードで悪くなるタイプの病気というのもあって、これはもう、ひとことで「こういうものだ!」と断定できるほどのことではないんだけれど。

たいていの病気は、「超・初期に見つけられれば治療も楽だろうが、超・初期だと今度は診断がしづらい」というジレンマをかかえているものなのである。

2021年12月24日金曜日

夢試験解答用紙

夢の話をする。寝ている時に見る夢の話だ。


ただし、夢の内容についての話ではない。


「さっき見たぼくの夢は、きっとこのようにして作られているのではないか」と、メカニズムをひとつ思い付いたのだ。



夢の中でぼくは学校の廊下のような病院の廊下を歩いていた。うしろでひそひそと声がしたので振り向くと、20メートルくらい向こうで、名前を忘れてしまった高校時代の同級生、背が高くひょろっとしていて髪の毛はほとんど坊主頭に近い、声が甲高く、遠くで会話をしていると彼の声がきわだって聞こえてくるような、そして高校3年間でおそらく数度しか会話をしていない、名前を忘れてしまった男が、ぼくの同僚と何かを話ながらぼくの方を見ている。同僚は病理検査技師だ。


なにか悪口を言われている、と思って彼のもとに歩み寄り、胸ぐらをつかんで、おい、何か言いたいことでもあるのか、とすごむ。このセリフは、ぼくが「なんとなくこのシーンではこういうことを言うのがしっくりきそうだ」という連想で、あたかも空欄にはめ込まれるように、一連のフレーズとして空間に浮かび上がってくる。一瞬、実際にしゃべっているように知覚するのだが、正確には「脳に響く、もしくは浮かび上がっている」ものであり、しかもそのセリフは、出所は思い出せないのだがおそらく「テレビやアニメなどで目にしたことのある、他人のセリフ」である。


ぼくはその男の名前がどうしても思い出せない。そうだ、「名札」がついているだろうと思って胸元をあらためて凝視する。そこには、いわゆる名札としては大きすぎるプレートが貼ってあり、「なんとなくこのワク内にはこういうことが貼ってありそうだ」という連想で、あたかも空欄にはめ込まれるように、顔写真と名前、プロフィール、一言コメントが浮かび上がってくる。顔写真はなぜか「カイジの横顔」のようなアニメ調で、名前のところはよく読めないのだが「ああ、そういうやつだよな」という印象だけが書いてある。たぶんそこを凝視し続ければ、その「印象」という名の空欄部分に、「なんとなくこのワク内にはこういう名前が貼ってあるだろう」というのが浮かび上がってきそうなのである。





目が覚めて、メガネをかけ、身支度をし、実家から送られてきた少しいいパンを切って焼かずにかぶりつき、ふとんをたたんでから着替え、妻と一言ふたこと今日の予定を確認して、家を出て、車に乗っている途中、ずっと考えていた。


ぼくの夢には空欄がある。夢の中で、自分が注目する場所は瞬間的に、試験問題の回答欄のように「何かをはめ込む準備」がされている。そこに、「たぶんこんなことがハマるだろう」というのを、脳が、あまり理屈をこね回すことなく適当に、形や雰囲気が合うものを生成してはめ込んでいく。そうやって、抜き打ちテストを勘で埋めていくようなやり方で続いていくのが夢だから、目が覚めたあとには、「なぜそこにあれが出てくるのだ?」という破綻が感じられる。


日中、起きている間、ぼくが何かを知りにいくべく、見て注目したり、聞いて考えたりするときも、おそらく脳は無意識に、「そこにはこういうものがあるかも」という、仮の回答みたいなものをはめ込んでいる。ただし、日中は脳がもう少しきちんと補正をしていて、目に何かが映った途端に、観測したものの姿できっちりと事前の予想を上書きして消してしまう。そのように考えると、「目に意外なものが飛び込んできたときの、あの二度見する感覚」がよく理解できるし、予想を裏切り期待は裏切らないタイプの広告が持つ魅力みたいなものも肌感覚としてよくわかる。


しかし夢では、脳が「仮留め」したものがそのまま答えとして話がつながっていくので、細部は妙にリアルだが全体としては破綻している風景ができあがる。ああ、少なくともぼくのこの日の夢は、そうやって、「予測するも観測なし」「予感するも補正なし」で進んでいったのだろうなと、腑に落ちたところで職場についた。夢でぼくの悪口を一緒になって言っていた検査技師の机を蹴る。夢と現実を混ぜる。

2021年12月23日木曜日

病理の話(610) とりあえずこれだけは覚えておきなさい

研修医の勉強会に出席していると、上級医たちがいろいろとワンポイントアドバイスをするところを耳にする。


「血液データがこのタイプの異常を呈する患者がいたら、ただちに何をしなければいけないか、調べているヒマはないから、きちんと覚えておきましょう」


「心電図がこのタイプの波形を示したら何をする? 今すぐ答えられないのはまずいよ、患者が死ぬからね。だからこの会が終わったらすぐに自分で調べましょう」


「この病態でマスクされた別の病態があるかもしれない。こういうときは腎機能も気になるけど、最低でもプレーンCTをとるなどして消化管の評価をしておきましょう、イレウスを見逃したら良くなるものも良くならないよ」


まったく、大変だなあと思う。研修医たちは毎日毎日、「これだけは覚えていないとだめだ」という「これだけ」を無数に浴びせかけられる。


だから、医師免許を取得して3,4年くらい、後期研修の中頃くらいまでは、ほとんどの研修医は自信を喪失している。


ほとんど、と書いたが、まれにそうでもない人もいるにはいる。たとえば、毎秒救急車がやってくる、みたいな超絶怒濤の救急病院で研修をはじめた若い医者は、脳を使わず肉体で働くモードに入っている場合があり、そういう研修医は妙に自信満々になっているものだ。そうやって「脊髄反射」で仕事をしているうちは不安も感じないのだけれど、残念ながら、落ち着いて患者に向き合おうと思ったとたんに結局、「自分はまだ何も知らない」ことに気づいて、遅まきながら自信を失っていく。


でも大丈夫。吉高由里子みたいな声で言っておく。みんなそうなのだ。5年目くらいから少しずつ、自信は付かないにしても「これだけは覚えておこう」の蓄積が目に見えて増える。「これだけ、がどれだけあるんだよ!」とうっとうしくなるのもわかる。けれどもいずれ、「これだけは覚えたなあ」という状態になる。だから最初はがんばってほしいなと思う。




さて、「病理の話」なので、せっかくだから「病理診断における、これだけは覚えておくべきだ」を書いておこう。


・患者の名前と検体の瓶に書かれている名前が違っていないことを確認しよう。同姓同名のパターンもあるから生年月日などもきちんとチェックしよう。


これだけ! これだけは忘れないでほしい! まじで! 取り違えがすげえやばいから! 検査において取り違えは全ての努力を無にして患者に多大な迷惑をかけるから! 


あ、まだあるな。


・悪性リンパ腫や軟部腫瘍など、遺伝子検索を外注する必要がある検体を提出するときには、ホルマリンに付ける前に病理に確認しましょう。ホルマリンに付けずに凍結しなきゃいけない場合があるからね。


これだけ! これだけは忘れないでほしい! 「いつもホルマリンに付ければいいんだべ」のノリでジャボンとやったが最後、できなくなる検査もあるので、そこ、気を付けて! 患者にも不利益が及ぶから!



あとは……えー……ほかに「これだけ」は何かあったかな……ぜんぜん「だけ」じゃねぇけど……。


2021年12月22日水曜日

ゲラは死海文書

年内締め切りの原稿書き仕事は、もうない。レジデントノートの連載は5月号の分まで書き終えた。論文も先日ひとつ投稿して、今は次の論文の準備をしている。こちらにはまだしばらく準備に時間をかけなければいけないが、今回は前回ほど急ぐものでもないので、ま、ゆっくりやろうと思っている。

ヨンデル選書のnoteやこのブログは、仕事ではないし、負担でもないので、このまま年末まで書き続けていくとして。

「ゲラ」が、あとひとつ残っている。この記事がアップロードされるころには、すっかり手入れを終えて出版社に返送しているか、あるいはちょうど最後の手入れをしているころではないかと思う。



ふと思い出した。かつて、ぼくの名前が入った雑誌記事や本がはじめて出たころ、「ゲラ」や「赤字校正」の意味がわからず難儀したことを。

ゲラとは、ぼくがパソコンで書いた原稿を、実際の本のデザインに似た感じで、きちんと文字組みして印刷したものである。「本番リハーサル印刷物」みたいなイメージだ。このリハーサル印刷物は、けっこう手直しが許されている。著者はゲラを見て、「ここには誤字があるな」とか、「ここの表現が少し硬いな」とか、「この写真は位置がずれているな」みたいなことをチェックして、本格的に印刷されるまでに調整をかけていく。ゲラの取扱いに関しては、独特の決まり事も多い。

そんな「ゲラ」は明らかに出版業界の専門用語だが、紙媒体の原稿未経験だったころのぼくに、最初から用語の説明は一切なされなかった。それまで、ありとあらゆる相談に優しく乗ってくれて、細やかに説明をしてくれていた編集者たち(複数)が、「ゲラの手入れ」に関しては全員ノー説明だったので、けっこうびっくりした。ありとあらゆる版元の編集者が、なぜか「ゲラ」の説明だけはしない。書く仕事をはじめて2年くらい経ったときにそれに気づいて笑ってしまった。


たとえば、ぼくは徹頭徹尾マイクロソフト・ワードで原稿を作っているのに、「ゲラの直し」のときはいきなり印刷物に赤ペンを入れることになった。えっ、そういうものなの、だってこれパソコンでやったほうが早いじゃん、と思ったので、あるとき、「これってパソコンで直せないんですか?」とたずねたら、なんとあっさりパソコンでいいですと言われて、それ以来PDFが送られてくるようになった。


あるいは、このゲラというのは、どれくらい手直しが許されるのか、ということに関する説明もなかった。誤字脱字のチェックだけして返せばいいのか、それとも全体的にもっさりとした雰囲気を調整するくらいのことをしてもいいのか。ぼくは小説を書いていたわけではなかったので、幸い、「ストーリーを変えてもいいか」と悩むことはなかったけれど。


複数の版元と付き合うにつれて、ゲラの形態が紙の印刷物か、PDか、Dropboxでの共有がいいのかメールがいいのか、何度まで修正が許されるかなどのバリエーションがけっこうあるということがわかってきた。しかし、とにかく共通して、「ゲラのことだけは教えてくれない」のがおもしろかった。


さらに。「ゲラの直し方」をググると、「ゲラゲラ笑うタイプのリアクションを治すにはどうしたらいいですか」というQ&Aが見つかるばかりで、いわゆるゲラの手入れ方法についてまとめたページというのはなかなか見つからない。なんと、編集者だけではなく、インターネットすらも、ゲラの扱い方に関しては教えてくれないのであった。



そんなぼくも今はゲラに対する「わからなさ」はだいぶなくなったが、不思議なことに、「ゲラのことを全く知らない人」にどうやって手入れの方法などを教えたらいいかはよくわかっていない。ああ、ぼくも編集者たちと同じだ。ゲラの直し方だけはわからない。ゲラの直し方だけは教えられない。ゲラの手直しというのは、声に出したり文章に出して伝授することが難しい、秘匿された技術だ。だから数多の編集者たちも、ぼくにゲラのことを教えることができなかったのだ。ゲラは神秘。ゲラは秘宝。ゲラの秘密を漏らしてはならない。

2021年12月21日火曜日

病理の話(609) ディスカッションを書く

タイトルを見て、「ディスカッション(議論)は『する』ものであって『書く』ものではないだろう」とツッコみたくなる人もいるかもしれないが。


これは学術論文の話である。もっとも、論文と言ってもいろいろあって、人文系の論文だと必ずしもディスカッション discussion という項目があるわけではないようだが、生命科学系の論文では後半部に必ずと言っていいほどディスカッションがある。


生命科学系の論文は、新発見・新知見をわかりやすくまとめて世の中に蓄積するために書かれるのだが、誰もが好き勝手に書くのではなくて、ある程度きまったお作法がある。論文を投稿する雑誌ごとにお作法は微妙に異なるけれども、だいたいの場合は、


1.「はじめに」的な部分に前置きを書く。この研究を思いついたきっかけだとか、この研究が世の中から必要とされてきた経緯などを語る


2.「材料と方法」を書く。どのようなターゲットに、どうやって研究をすすめたのかを丁寧に書く。


3.「結果」を書く。ここはできるだけシンプルに、かつ、図表なども用いてわかりやすく結論を書く。


4.「議論(ディスカッション)」。ここで思いの丈を爆発させる。


という形式になっている。ディスカッションは論文の最後にあって、研究の結果をもとに著者がいろいろと考える大事な項目なのだ。


考えるというのは、何を考えるか?


まず、「結果」として示された実験結果・研究成果・データ解析結果を分析する。「なぜそうなった?」「なにを意味している?」みたいな部分をきちんと考察するわけだ。「結果」の部分は誰が見ても同じ解釈ができるようにデータをきっちり客観的に書く。これに対し、「ディスカッション」の部分では多少なりとも著者の思いが含まれていることが望ましい。ただし、何を言ってもいいわけじゃなくて、「科学者として考えるべき道筋」に沿っていなければいけないけれど。


ある意味、「ディスカッション」というのは議論というよりは「考察」なのだ。でも、ひとりで沈思黙考して独善的に書けばいいというわけでもない。実際に「議論」する相手もいる。それは誰かというと、「その論文を読んだ人」なのである。「あなたが科学者で、この論文を読んだとしたら、きっとこういうところに疑問を持つだろう」という部分をしっかり予想して、「反論があるとしたらこうだろう、それに対する私の答えはこうだ」と、「ひとり議論」をする。だからディスカッションというのだ。


すぐれた論文というのは発行されてから実際に議論が巻き起こる。衝撃的な結果ならば全世界の人々がそれを元にモノを考えて、著者たちの結果が妥当なのか、考察の筋道が通っているのかどうかを検証し続ける。そして、本当にすぐれた一部の論文というのは、「全世界のどこかにいる人が考え付くかもしれない細かな疑問や懸念点」について、ディスカッションの項目ですでに取り上げているのだ。ジョジョの奇妙な冒険でと次におまえは〇〇というッ!」いうのがあるが、論文のディスカッションでもこれと同じことをする。次に読者はこの結果に不備があるというッ!」とばかりに、あらかじめ論文によって巻き起こるであろう議論を予測することで、ああ、この研究者はちゃんと科学をやっているのだなあ……と読者に思わせることが大事なのだ。



「ちゃんと科学をやる」というのはあいまいな言い方なので少し捕捉をしよう。「ちゃんと科学をやる」というのは、あるひとつの研究結果をもって「真実を見つけました!」とか「正解を当てました!」みたいな短絡的な思考をせずに、ある結果を現在進行形で「よりよい形」に向けて微調整をし続ける、その覚悟のことを言う。去年「解明」された科学的な現象が今年はさらにいいものに変わっている、というのが科学の本来の姿だ。そしてこの微調整は、科学が常に「議論をし続けている」ことで成し遂げられつづけているのである。

2021年12月20日月曜日

レガシィ

車の備品がこわれたのでディーラーに来ている。タイヤ交換のピークは数週間前に終わったから、さほど激混みというわけではないが、事前に予約がない状態での修理なので、しばらく待たされている。車のパーツなんてものは、壊れるときは急に壊れるから事前予約できなかったのも仕方ない。歯の詰め物がとれたときに予約がなくても歯医者に行くのと一緒だ。もっとも、いまどきの子供たちは小さい頃からフッ素を歯に塗っており、虫歯はさほどないようだけれど。


ロビーに人はまばら。外でみる車よりも一回り大きなサイズ……に見える車が室内に数台留まっている。小顔効果の逆、みたいな技を使っているのではないかと思う。シーズンがシーズンなのでクリスマス装飾があちこちに施されている。いつもなら冷静に相づちを打ってくれる妻が今日は仕事でいないから、ぼくは「クリスマスっぽいねえ」みたいな感想を口に出さずに脳内で練ってちぎって捨てている。




今から15年以上前、はじめて自分の力で買った車はレガシィツーリングワゴンだった。 担当の営業はTOKIOの国分太一に似ていた。たぶん新人だったのではないか。若いぼくと若い国分太一は互いに車を買う喜びも車に乗る文脈もさほど持ち合わせていなかった。パンフレットを見れば書いてあるカーアクセサリー情報と、保険会社の提示したままの任意保険のオプションを、ぼくらはワクワクもハラハラもせずにやりとりした。北海道で車に乗るなら四駆以外はありえない、という、それなりに根拠があるがライフスタイル次第では別にそこまで気にしなくてもよいような「柱」のまわりでぼくらはぎこちなく笑っていた。ワゴンにしたのはスキーが積めますよと言われたからだ、でも前の妻とぼくが二人でスキーに行ったことはたぶんなかった。


こうして思い出してみるとぼくはおそらく買い物がへたなのだと思う。というか、世にまばらに存在する「買い物に満足したと公言するのがうまい人々」がSNSでことさら強調されているだけで、おそらくぼくのように根本のところで買い物にさほど大きな喜びを見出ださないタイプの人間はいっぱいいるのではないか。今より安い給料で必死で買った車なのだから、もっと迷って、もっと選んで、そしてもっと喜んでもっと記憶していればよかった。


レガシィの記憶はおぼろげである。色は何色だったろうか。何度ぶつけて何度修理したのだったか。前の妻がチャイルドシートをつけた日に満足そうな顔をしていた記憶がわずかに残っているのだけれど、それも後付けのようにプロットに付け加えられた偽物の記憶かもしれない。いい車だった、と言いたいぼくの脳が作った偽物の記憶かもしれない。

2021年12月17日金曜日

病理の話(608) プロが見るとたった3秒

その病理診断は、とても難しかった。


まず「依頼書」に書いてある内容が複雑である。レアな主訴(患者自身のうったえ)、特筆すべきことの見出せない血液検査データ。CTやMRIを得意としている放射線科医が、読影レポートに「腫瘍だと思うが、腫瘍ではないかもしれない」なんてことを書いている。つまりは何も言えていないのと同じではないか。


複数の医師が困惑している。となれば、病理医にとっても、間違いなく難しい病気だろう。


「いかにも難しそうなオーラ」がビンビンに感じられる中、おずおずとプレパラートを見る。



……なんっにもわからない! 心のそこからびっくりしてしまった。いやいや、「ひとっつもわからない」なんて、ここ何年もなかったぞ。



こう見えてもぼくは医師生活もうすぐ18年目。若手と名乗ってはいけないレベルだ。しかも、診断してきた量もおそらく一般的な病理医と同じかそれ以上である。ぼくの勤める札幌厚生病院は、少なくとも北海道の中ではトップクラスの病理診断数を誇る。単純な「場数」についてはぼくはそれはもう、かなり積んできている。さらには各種の学会や研究会、ウェブの勉強会などにもまじめに出席し、「希少がん講習会」のようなものにもコツコツ参加して勉強はしている。


それでも、ぜんっぜんわからない。場数が通用しないのだ。ほとほと参った。




病気というのは本当に、信じられないくらいの種類がある。細胞の示す姿も10とか100といったオーダーではなく、1000でも足りないくらいのパターンがありうる。でも、それでも、その「たくさん」を全部みることが、ぼくら病理医に求められた仕事だ。

人間の体の中には、とにかくたくさん臓器がある。脳、目、気道、口腔、咽頭・喉頭、唾液腺、耳、皮膚、甲状腺……こうして頭の上から順番に数え上げていっても、クビのあたりでもうやめたくなったし、読んでいるあなただって読み飛ばしてしまうだろう。この下にまだまだものすごい数の臓器があり、その臓器ごとに固有の病気がある。そんなこと、わかっている。だからちゃんと勉強するんだ。

そこまでわかっていて、歯が立たないのだからがっくりする。

しょせん、ちっぽけな一個人にすぎないぼくが、10年がんばろうが、20年がんばろうが、「見たことがない病気」はあるし、どうやっても太刀打ちできないこともある……。




……と、ここであきらめたら患者は途方にくれるだろう。だからぼくは、「あっ、歯が立たない」と思ったら、すぐに「ほかのプロ」に頼る。


病理医の世界にはとんでもないエキスパートがうようよいる。ほとんど無限ともいえるくらいに細分化した病気の、すべてに精通した病理医というのはさすがに「ほとんど」いないのだけれど、「ある臓器については超詳しい」みたいな人なら複数いる。


「あっ、これはぼくの手に負えないかもしれない」と思った瞬間に、その分野のエキスパートへの「コンサルテーション」の準備をする。躊躇してはいけない。だらだら時間をかけてはいけない。


まずい、と思ったらすぐにメールをする。メールの相手は日本病理学会であったり、個人的に存じ上げている一流コンサルタントその人であったり、いろいろだ。臨床医からもらった情報をなるべく早く、読みやすい状態にまとめ、患者名をマスクした特殊なプレパラートを作成し、「相談」するための体制を爆速で整える。


返事がきたらすぐに、エキスパートあてにプレパラートを送る。もしそのエキスパートが、たまたまぼくの住んでいる札幌にいる人ならば、向こうの指示にしたがって、日中だろうが夜中だろうが、相手の指定した時間に万難を排してかけつけることも辞さない。とにかく最短で診断に近づくためのあらゆる努力をする……。


ただし。


「まずい、と思ったらすぐにメールをする」とは書いたが、実際には、「ぼくが本気で、細胞をしっかり見て、悩みに悩んだ経験」がないと、うまくいかない。ちょっと見て難しいなと思ってすぐ相談、では、相談の切れ味があがらないのだ。ここにはさじ加減がある。


ろくにプレパラートを見もしないで、「この分野は難しいから最初からプロに聞こう」だと、相談はうまくいかない。なぜ、と言われると難しいのだけれど、感覚でいうと、「患者に対して真剣に向き合ったことがないと、患者にまつわる細やかな情報をとりこぼすので、誰かに相談しようにも相談するための情報がとりきれない」というかんじである。

わかる?

「これはぼくの手には負えない」と判断するのは、早ければ早いほどいい。

でも、「これはどうせぼくの手には負えないだろう」と、早めに見限ったりさぼったりすると、それはそれで、うまくいかない。





というわけでこのときのぼくは、まず、徹夜をした。一晩考えたのである。日にちはかけられないが徹夜すれば12時間くらい考えて調べることができる。


そして翌朝にはコンサルテーションの準備をした。考えられる可能性をすべてつぶして、それでもわからない、ぼくには診断ができない、と思ってはじめて、あるプロの手を借りることにした。そのプロはたまたま札幌に住んでいたから、朝、メールを送った。すると「昼に来てください」と言われた。なんて仕事の早い、そして話の早い人なんだ。ぼくはただちにその日の仕事をぜんぶ調整して、自分の車でその人の勤める場所にかけつける。満を持してプレパラートを診てもらう。



そしたら、なんと、3秒だ。



たった3秒で、



「これはあれだね。あのめずらしいやつ。A病だと思うよ」



度肝を抜かれた。プロすぎるだろう。なんてすごいんだ!



そこから4日かけて、さまざまな追加検査を行った。そのプロの言ったとおりの診断にたどりついた。


エキスパートってすげえ。病理診断って奥が深ぇ。全身が総毛立つくらいに興奮しながら、ぼくはとりあえず、自分が最低限の「現場の病理医としての義務」をはたせたことに安心した。自分ひとりでは診断にたどりつけなかったけど、少なくともこのプロに相談しようと決めることができた、そのことをまずはほめよう。


そして、これからもまた努力して成長しよう。自分ひとりで診断できなかった事実は消えないのだから。またゴリゴリ勉強する日々に戻る。そうやってずうっとやってきている。しんどいけれど、しんどいだけじゃない。

2021年12月16日木曜日

ごくごく私的な相性の話

真っ正面からツイッターの話をする。ツイッターをやっていく上で、けっこうはっきりと「ルール」にしていることがある。それは、

「ぼくのことをフォローしていないし、ぼくからフォローもしていない人から、リプライが来ても返事をしない」

ということだ。

もちろん単なる自分ルールなので、めちゃくちゃ強い決め事というわけでもなくて、たまに返事をすることもあるのだけれど、経験的にあまりいいことは起こらない。



理由はシンプルである。「フォロー関係が一切ないにもかかわらず、いきなり会話をはじめようとする人は、人との距離のとりかたがおかしい気がするから」だ。……この場合、「おかしい」というのは完全にぼくの主観であって、「いや、別にそれは普通だよ」と思う人がいても一向にかまわない。でもこれはぼくのコミュニケーションの話なのでぼくの主観で語ってよい話だと思う。

喫茶店で一人で本を読んでいるときに、隣に座った人から「その本おもしろそうですね」と突然話しかけられたら、ぼくは返事をしたくない。そんな距離の詰め方をする人が隣に座っているのがいやで、すぐに席を立って店をあとにしてしまうだろう。これと同じことをツイッターにもあてはめている。



ただし、付け加えておくと、喫茶店でいきなり話しかけられたときに「つい返事をしてしまう雰囲気の人」というのも、確実に存在する。

具体的にどういう感じの人、とは言えない、性別とか年齢だけでは語れないニュアンスがある。話しかけること全般がだめ、とは思っていない。さらに、他人が他人に話しかけているのを見ても「やめろよ」とまでは思わない。

しかし、割合の問題として、一人で座っているときに話しかけてくるたいていの人は妙に攻撃的だったり、妙になれなれしかったり、どこか「へんだ」と感じることが多い。だから原則的には警戒してしまう。



この話には多数の例外があって、たとえば医学にかんするツイートをしたあとに、フォローしてもされてもいない人から「質問」があったらなんとなく答えてしまう。きっと困っているのだろうな、と思うからだ。しかし、これがまた本当にふしぎなことに、そうやって例外的に質問に答えたときに限って、途中から妙な距離の詰め方をされたり、あるいはよくわからない内容の会話にスライドしたり、ひどいときは中傷がはじまったりする。

これまでもここからもすべてぼくの主観なのだけれど、「誰かに話しかける」という行為に対して、「でもなあ、これまで絡みがない相手だからなあ」と、躊躇できない人と根本的に性格が合わないのだろう。すべての人に資質として持っていてほしいとか、これが世の中に必要な倫理だとは全くおもわない、単に、「ぼくとの相性」という切り口でのみ今日の話をしている。誰かとの距離を詰めるときに躊躇がない人とやりとりをして良かった記憶がない。完全にプライベートな話だ。しかし、一部の人にはわかってもらえるのではないかと思う。

2021年12月15日水曜日

病理の話(607) つれづれなるままに勉強の話

今日はいつも以上にぼんやりとした結論に向かって書き始めるので、覚悟してください。つまりあなたは振り回されるかもしれないということだ。


「何を思って毎日病理学の勉強しているか」ということを書く。


はじめに書いておくとぼくは毎日勉強している。ぼくのやっている病理医という仕事は、


・患者に会わず、治療も処置もしない代わりに、勉強をする


ことが求められているからだ。つまりは職務の一環である。


医療者というのは概して忙しい。多忙の理由は「マルチタスク」にある。職員ひとりが患者ひとりのために働くのではなく、常に5人、10人、ひどいときには1日100人といった規模の人びとのことを考えて動くのだから忙しいに決まっている。看護師をイメージすればわかりやすいだろう。たくさんの患者を相手にするときに、「流れ作業」的にこなしてしまうと一人一人のトラブルに目が行き届かなくなる。かといって、たった一人の患者にずっと向き合っていると病院という場所はうまく機能しない(病院に限った話ではないが)。

医者もこれといっしょで、外来にやってくる患者、たった今入院している患者、両方のことを考え、診断のこと、処置のこと、治療のこと、家族との面談のこと、複数のことをずっと考え続けている必要がある。だから忙しい。


でも病理医は診断と研究のことしか考えなくていい。なぜなら病理医は「勉強に特化することで誰よりも賢くなること」を求められた特殊な職業だからだ。治療をしなくていい、処置をしなくていい、看護をしなくていい、当直をしなくていい、外来で患者と話さなくていい、病棟の管理をしなくていい。その分、「勉強して診断のプロになること」を求められている。


つまりぼくらは勉強するためにほかの仕事を免除されている。そういう職種だ。


さて、本題に入る。勉強で何を学ぼうとしているか?


「世の中のできごとを雑学的に仕入れてくる」とか、「自分の興味があることを芋づる式に学んでいく」といったことのは趣味でやるべきことで、本職のためにはもう少し明確な目標を立てなくてはいけない。これらは何種類かにわけられる。


1.一緒に仕事をする臨床医の使う言葉を学ぶ

2.「最新の病気」を知って脳内の図鑑をアップデートする

3.病気の見極め方に関する知識を得る

4.病理診断報告書を書くときの「語彙」を増やす


だいたいこんなとこかな。それぞれ見ていこう。


「1.一緒に仕事をする臨床医の使う言葉を学ぶ」はとても大事だ。これをやっていない病理医は病院内での評判がどんどん下がっていく。医療の世界は毎日レベルアップしており、前の年にはなかった治療法がばんばん開発される。すると、病理医がみる臓器の「手術方法」とか、病理医がみている患者に「投薬されている薬」が変わる。これを知らなければ病理診断はできない。消化器内科医、呼吸器内科医、感染症内科医、肝臓内科医、血液内科医、さまざまな外科医、産婦人科医、泌尿器科医、耳鼻科医、皮膚科医、放射線科医……。それぞれの世界ごとに生み出され続ける最新情報を知る。


「2.最新の病気」を知るのは病理医にしかできない仕事である。医療者は、あたかも昆虫の新種を発見して命名するかのように、「この症状を呈する病気はひとまとまりにして考えよう」「このような患者にはこういう治療をすると効くぞ」みたいなことを日夜発見し続けている。病理医の大事な仕事のひとつが「患者に病名を付けること」なので、最新の分類を知っておかなければいけない。病院で勤める99.99%の人が知らない病名であっても病理医だけが知っていればそれでその病院はなんとかなる。そういうことがよく起こる。月に何度か、「この珍しい病名はどういう意味なんですか?」と、医療者から呼び出されて解説をすることがあるくらいだ。


「3.病気の見極め方に関する知識を得る」というのは、ざっくり言うと「顕微鏡で何が見えたらどの病気と診断するか」を知るのだ。ネコの種類を見極めるようなものである。マンチカンとアメリカンショートヘアとスフィンクス(すべてネコの種類だそうです)を見極めるには何に着目する? 耳? アゴ? しっぽ? 同じようなことを細胞診断においても行う。腺癌と扁平上皮癌の見極め方では核や細胞質、細胞どうしの配列をチェックすることが肝要だ、みたいに。付け加えて言えば、そのネコは今屋根に飛び移ろうとしているのか、これからご飯を食べようとしているのか、みたいなことも見抜くのが病理医の仕事だ。おなじがんという病気であっても、このまま一箇所に留まっているのか、もうすぐ転移しそうなのか、あるいはもう転移してしまっているのかを見分けないと適切な医療はできない。「病名を見極める」のに加えて「病気の挙動を予測する」のも細胞診断の大事な仕事である。病理医の部屋にある教科書の9割くらいは「細胞の何を見ると病気の何がわかるか」が書いてある。


「4.語彙を増やす」というのは少し特殊で、これをやらない病理医もけっこういる。病理医の仕事は、自分だけわかっていればいいというものではなく、主治医に伝わらなければ意味がない。「なぜこの細胞を見てこの病気だと思ったのか」が、主治医、さらには主治医を通じて患者に伝わらなければ、病理医が給料をもらって専任で働いている意義は失われる。したがって、診断をした「根拠」をわかりやすく書くために日本語の勉強をしなければいけないとぼくは思っている。とはいえ国語の教科書で勉強するとか小説を読むという意味ではない。病理の教科書や講習会などで、エキスパートたちが「どういう根拠で診断をするか」をきちんと日本語にしてくれているから、そういったものを「輸入」しながら自分なりの語彙を毎日増やしていく。複数の病理医同士で相談するのも大切なことである。ウェブカンファレンスによってこれらはすごく簡単になった。



こうして書き上げてみると、病理医に限らずあらゆる医療者、あるいはあらゆる職種の人が「同じようなこと」を勉強したほうがいいだろう、という当たり前のことに気づく。ただし、病理医は、この勉強を「絶対に毎日やるべき」である。なぜなら治療も処置も看護も当直もメンテナンスもしていないからだ。ほかの医療者がやっている仕事をすべて免除されている以上、ほかの医療者たちと同じくらいの勉強量では「サボっている」ことになるというのがぼくの考えだ。ほかの医療者たちの勉強量の10倍、20倍、あるいはもっと、100倍とか1000倍というオーダーで勉強をし続けることで、ようやく病理医はほかの人から、「あいつ雇っとくと、うちの病院にとってトクだよな」と思われるようになる。……逆にいえば、それくらい、病理医以外の医療者たちの仕事(治療、処置、看護、当直など)はたいへんで、尊いものなのである。ワークライフバランスという言葉があるけれど、ほんとうは、ワークライフスタディバランス。スタディしなくていいのはワークが大変な人だけだ。ワークを半分にしてもらっている分でスタディするのが病理医である。……まあ、「半分」にはなかなかならなくて、せいぜい五分の四くらいなんだけど。

2021年12月14日火曜日

未来の話

今書こうとしたこと、それは「もうすぐ久しぶりの道外出張だなあ」ということ。この気持ちを書き残しておこうと思ったけれど、やめた。なぜやめたのかというと、おそらくぼくは、出張している最中に「今、久しぶりの道外出張中だなあ」という気持ちを書きたくなるだろうからだ。「もうすぐ出張」と「今、出張」だったら「今」のほうがいい記事になりそうである。だから先に書いてしまうともったいない。そう思って、将来の自分に記事を書く権利を譲渡した。


ところで。


たった今○○の最中、というときの気持ちよりも、もうすぐ○○だ、の気持ちのほうが強いということはないだろうか。


ものごとがはじまっていなければ、そこには大きな期待がある。勝手な期待と言ってもいい。あんなこともあるかもしれない、こんなことが起こるかもしれないと、基本的に自分に都合のいい妄想ばかりを積み上げていけば、期待はどんどん高まっていく。


でも実際にものごとがはじまると、そこには予期していなかったトラブルがあったり、お金や時間を消費して何かを成し遂げなければならなかったり、思ったより楽しくなかったり、あるいは特に心を動かされない瞬間があったりするものである。


よく考えたらなんだってそうだ。「修学旅行前夜」にしても、「幕末」にしても、「クリスマスイブ」にしても、当日・真っ最中より、直前・夜明け前のほうが人をわくわくさせるものではないか。




……と、ここまで考えてからふと、ぼくはおそらく何かが起こる前にああでもないこうでもないと楽しんでいる状態を、自分のために満喫するのはいいとして、他人と共有することにさほど魅力を感じていないのかもな、ということに気づく。そういえばぼくが好きなエッセイスト、それは沢木耕太郎だったり椎名誠だったり須賀敦子だったりするのだが、この人たちは「これからどうしたい」という内容をほとんど文章にはしなかったように思う。彼らはたとえ遺言について書くとしても、未来ではなく過去から現在について書いていた。旅の途中で、あるいは旅の後について書くものばかりをぼくは読んできて、それがよいと思って今ここにいる。ああそうか、なぜぼくが自己啓発本のたぐいがつまらないと思うかという理由の一端がここにはある、自己啓発本はたいてい「他人の未来の話」を書いている。他人の話を勝手に書くのも許せないし、未来の話でカネをとるのが許されるのはSFだけだとぼくは心の中で硬く強く信じ込んでいるのだろう。

2021年12月13日月曜日

病理の話(606) 人体を守る壁のオプション装備

町があり、善良な人びとが暮らしている。そこに敵軍が攻めてきたとき、敵を町の外で迎え撃つことができれば、町を壊さなくてすむ。しかし、町の中に入り込まれてしまうと、家も人も被害を受けざるをえない。

おなじことが人体にも言える。からだを守るために大事なのは、まず、敵を体内に入れないことだ。

では、外から入ってくる「敵」にはどんなものがあり、それに対して人体はどう対処しているか?


1.物理的な刺激。ボールが飛んできてぶつかる、歩いていて木の枝に刺さる、こういったトラブルに備えて、人間はわりとしっかりした防壁である皮フを持つ(つまんでも破けないってすごいことだよ)。さらに、場所によっては「頭蓋骨」のように、皮フだけに頼らずしっかりした骨で身を守る。まずは外側の壁で守るというのが大切だ。水分や油分などもはねかえすぞ。


2.ケミカルな刺激。衝撃はさほど大きくなくても、酸などがかかると人体を守る壁はとけてしまうリスクがある。だから皮フには「そっと・ぺとっとくっついたものを感じるしくみ」も付ける。この点、いわゆる「城壁」よりも高度である。


3.温度の違いによる刺激。異常に熱いものや逆に冷たすぎるものは体にとって害である。だから、壁には「くっついたかな? と感じる能力」だけではなく、「くっついたものが熱いか冷たいか」を感じるしくみも付ける。オプション装備が多彩である。


4.微生物の侵入。寄生虫とか。菌とか。ウイルスとか。こういったものは、そっとやってくるし、熱くも寒くもない。ではどうやってこいつらをはねのける? ……皮フを内側から新陳代謝させて、定期的にはがれおちるようにするのだ。こ、これは高度である。2と3のことも考えて欲しい、この壁にはセンサーが内蔵されているんだぞ。かなり高度なしくみを持っているんだ。その上で、表面がはがれて、でも穴は空かないという……。



どうだろう、人体の外側の「壁」は、壁ということばで軽く表現するにはエグいくらいの機能を持っている。たとえばマイホームの壁が経年劣化しないように、じわじわと外側がはがれて再生したら便利だろうが、そんなことを達成できた建築会社はひとつとしてない。大和ホームもタマホームも壁を新陳代謝させることはできないのだ。


ていうか冷静にかんがえて、人間の寿命が80歳を越えている今、「一戸建ての家」よりも人のほうがふつうに長持ちするもんな。人ってすごいな。

2021年12月10日金曜日

アブラは折れない

以前、いまよりももっと体がナイーブだったころ、忙しくなると首や腰が痛くなっていた。一番苦しんだのは30代の前半である。最初は運動不足による「こり」なのだろうと思っていたのだが、ひどいときには手や指がびりびりしびれてくる。これは筋肉ではなく神経じゃないかと疑い、案の定、頚椎症と診断されてさもありなんと思った。これだと長時間のパソコン仕事はきついなあと感じた。


しかし、幸いなことに、神経内科医と相談して背骨との付き合い方を覚えていくにつれて、年単位で症状は少しずつおさまっていった。今では、昔と同じくらいのストレスをかけても首も腰も痛まないし、しびれも出ない。適切な姿勢で働くことがいかに大切なのかということだ。


正しい姿勢で長時間働けるようになった結果、仕事の量は着々と増えた。


そして近年は、仕事が忙しいときに限って腸の調子が悪くなるようになった。


野菜を欠かさず、過剰に糖質制限をかけることもなく、米もタンパクも食物繊維もきちんと同じように採っているのに、仕事の量に応じて腸が急降下していく。そういえば、小学生のころのぼくは今思い返してみると腹痛型の過敏性腸症候群だった。たまに夜にお腹が痛くなって、トイレの前でうずくまって寝ていた(ふとんに入ってもまたトイレに行きたくなるからトイレの前で寝ていたのだと思う)。あの頃と今では食べているものもタイミングも違うのに、腸の反応だけは似ている。トイレの前で寝っ転がることはなくなったが、心はときおりうずくまっている。


首と腰のトラブルを乗り切った結果、それだけストレスに耐えられるようになり、より高度の負荷を体にかけ続けたことで、今度は腸が耐えられる閾値を超えてしまった。なまじ地方予選で勝ち残ってしまったために、甲子園球場でボコられる、みたいなことだろうか。


高負荷の連鎖から降りる必要がある。もしくは、ストレスで体が反応するラインと戦わなくてもいいような働き方にシフトすべきなのだ。


ここで自分の体力と気力をたのみにして、今回の腸も乗り越えたぞ! とやれば、次にどこにトラブルが起こるかはだいたい想像がつく。「代謝」か「血管」だろう。そろそろこのあたりで引き返すことを考えておこう。


43歳の今、ぼくは、「まかせる」ことの難しさを思う。「自分でやったほうが早くて正確だ」というのはおそらく後付けされた理由であり、本質ではない。積み上げた専門知を用いて、自分だけ疲労することなく、周りを巻き込みながら大きな仕事をこなしていけばよい。体がそうしろと言っているし、社会もそうあれと願っている。


いくつになっても元気に働いている人たちは、自らを機械のパーツではなく、潤滑油のように使う。パーツは摩耗するが、潤滑油は摩耗することがない。若いころのぼくはパーツでいるしかなかったし、できるだけコアなパーツになろうと思ってがんばっていたけれど、きしみがひび割れにつながる前に、自分を社会のグリスとして用いるやりかたに変えていったほうがいいのだろうな、と思っている。


2021年12月9日木曜日

病理の話(605) 論文が掲載拒否されたときの話

ある論文を投稿し、掲載拒否(リジェクト:reject)された。よく言う話だが医学論文は投稿しても5割とか7割といった割合で掲載を拒否される。これにはさまざまな理由があるが、端的に言うと、


A)論文のできがわるい

B)単にその雑誌との相性がわるい


のどちらかである。同じ内容のままで投稿先を変えるとすんなり受理(アクセプト:accept)されることもあるので、一般的には(B)のほうが多い。


さて、今回のぼくの論文であるが、(A)とも(B)とも言えた。雑誌を変えればすぐにアクセプトされる気もする一方、やはり(A)の問題が少し気になっている。


当たり前だが投稿するときには「この論理は筋道が通っている」と思って執筆している。しかし今回の論文については、途中、数多くの専門家たちの意見を聞いて、内容をどんどん付け足し、あるいは変更していったために、最終的には結論がけっこう突飛なものになっていた。「これが本当ならばすごいことだ、本当ならばね。」みたいな感想をもらっても無理もないのである。はたして、論文リジェクトの際のコメントを読むと、


「この症例はおもしろいね。でもこの名付け方は違うんじゃないか」


のような、ぼくが最初の論文でそうとは書いていなかったんだけど直しているうちにだんだんそういう表現になった、みたいなところを的確につっこまれていて、「うっ、『(A)み』があるな」という気持ちになった。


では次にどうするか。これも医学研究の世界ではよくやられていることなのだけれど、論文をちょいと手直ししてすぐに別の雑誌に投稿する。ただし今回に関しては、ぼくは「ちょいと手直し」じゃなくて大幅に手直ししてもよいかもな、というのを考えている。今回は雑誌の形式にあわせて「文字数制限」を厳しくかけて、そのせいでニュアンスがそぎ落とされた部分もあったので、今度はもう少し長文を載せてくれる雑誌を選んで、そこで丁寧に解説を増やして勝負したほうがいいのではないかと思うのだ。この作業には早くても2週間はかかるだろう。こうして論文投稿は数ヶ月の単位にわたる長い仕事となる。


これから論文を手直ししていくにあたっては、「共著者」全員にいろいろ確認していかないといけない。ひとつの論文にさまざまな協力者がいる(今回のぼくの論文にも10人の名前が書き連ねてある)ので、そういう人たちを差し置いてぼくだけの意見で論文の内容を入れ替えてしまってはいけない。昔の医学論文のように、たいして貢献していないのに同じラボだからというだけで名前を載せるようなことは今はまずあり得ない。名前が載っているからには働いてもらうし、名前が載っているからには全体の進行に納得していてもらわないといけない。


あと、細かいけれども、今回リジェクトされた雑誌はイギリス英語を推奨しており、次に投稿する雑誌はアメリカ英語で書くよう求められているので、英語を見直さないといけない。有名なところでは腫瘍という単語があり、tumour(英)をtumor(米)に直す、みたいな感じだ(※なお今回のぼくの論文に腫瘍は出てこないのだけれど)。言い回しなんかも微妙に違う(らしい)ので、ネイティブ・スピーカーに見てもらって、「英語を米語に直す」。こういう細かい作業にお金と時間が少しずつ消費されていく。やれやれがんばらないと。

2021年12月8日水曜日

ハイアリナイズドスカー

仕事場のPCの横に、無節操にキーホルダーをぶら下げている場所がある。近江神宮のお守りはいつかのクラウドファンディングでもらったやつだ。実際に行ったことがない神社のお守りが一番目立つところに飾られているというのもなかなかキワい光景である。その裏にケロリン(銭湯の桶のあれ)、丸山動物園のWe ♥ Polar Bearグッズ、宮古島のまもる君、マリオのコイン、奈良の鹿、稚内の鈴、さるぼぼ、ヒグマキティ、USJの蜘蛛、モンゴルの馬などがぶらさがっている。動物が多いなあ、無意識に動物を集めていたのか、と思うけれどUSJの蜘蛛は動物というよりは人間なので(※スパイダーマン)、一般化するにはちょっと無理がある。まもる君は動物ではなくあれは……えー……人形だ。


ほか、デスクの周りを見直すと、幡野さんの写真(額装、2枚)、ROROICHIさんのボールペン画、おかざき真里先生のイラストのジークレーなどがあって、幡野さんの写真のうち1枚をのぞけばほかはきちんとお金を払って手に入れたものである(1枚は幡野さんからもらった)。


自分の家に、何かを買って飾ることはない。しかし、職場は相変わらず「こう」。こっちがぼくの本来のやり方なのかもしれないなとはよく感じるところである。


20年以上前、はじめて一人暮らしをしたとき、部屋の中に何を置こうかウキウキと雑貨屋を巡って歩いたことを昨日のように思い出す。自分に文脈の紐が結び付いていないようなヘンプ(大麻)模様のグッズやhighway 66のロードサイン、知らない風景の絵はがき、観葉植物……。そもそもこういうグッズは壁紙や天井のランプなどをすべて整えた上で配置してはじめてそれっぽく居場所を手に入れるものなので、単発で買っても「単発で買ったなあ」としか思えないからなかなか部屋になじまなかったし、引っ越しするたびに特に思い入れもなく捨て続けたのだけれど、なぜか今けっこう鮮明に思い出してしまう。ぼくが最初に大学のそばに借りた部屋は家賃なんと17000円、シャワーとトイレは共同で、共用の廊下には絨毯がしいてあり、部屋のドアには「親指で押し込むタイプのカギ(昔のトイレによくあったやつ)」しかついていなかった。8畳一間、木造2階建ての2階、冬に部屋に入ると下の住人の熱ですでに部屋が暖かい。そんな築50年の骨董アパート(ぼくはここをよく「木造平屋2階建て」と呼んでいた。平屋なのに2階建てはおかしいだろ、と言う人はみな、実際に部屋を見ると納得した)の中にコタツがひとつあり(灯油ヒーター1つでは容易に凍死できた)、それ以外には本当になにもない部屋で、前の住人たちが無尽蔵にあけた壁の穴のひとつを拝借して釘を差し込み(打たなくてよい)、そこにHighway 66を飾ったところで、高速道路どころか道道(※北海道の県道にあたるもの)すら騙ることはできないのだ。弱い子犬のマーキングであった。「滑稽にもがくこと」が一人でやっていくことだと勘違いしていたころの話である。


その後さまざまな部屋に住むたびに小物を捨てては買い換え、捨てては買い換えしていた。最後に一人暮らしをした部屋は家賃35000円だったと思う。ツイキャスをやったときに部屋の中に映っていた光景がぼくの居住空間の7割くらいであったのだから、学生時代から「住み方」の基本は変わっていない、あそこも相当狭かった。ただし、置くものについてはさすがにスレていた。壁際にどこかのリサイクルショップで買った「棚のついた姿見」を置いてはいたけれど、特にそこにオブジェが並ぶことはなく、冷蔵庫にはもうマグネットは貼っていなかったし、壁にもポスターの類いはなかった。すでにぼくの部屋にも、あるいはぼくの体そのものにも、かつて虚勢が析出して既存構造を破壊しながら浸潤し、そのまま固着して器質化していつのまにか個性となってしまったものがべっとりと沈着していて、いまさらショップで手持ちのコインの限りを注ぎ込んだぶかっこうなアクセサリーを買い求めてアバターをデコる必要などなくなっていた。その後、家族ができて引っ越ししたとき、ぼくの部屋には何もなくなった、というか、ぼくは部屋自体を持たなくなった。


そうやってぼくの周りはだんだんそぎ落とされていったのだが、「職場のデスク」だけはなぜか昔のままである。大学生のときから大学院の講座には自分のデスクがあり、そこもおそらく今と同じようにさまざまなクッズ(グッズではなくて雑貨の屑(くず)のこと)が並んでいたはずで、結局そういう部分だけが残ってしまった、瘢痕という言葉を思う。たくさん無くしてきたのにまだ残っている。エアグルーブのぬいぐるみはどこに行った? ブラッド・サースティ・ブッチャーズのコースターはどこに行った? 膨大なノイズが失われた先でまだ雑音を抱えている。そういう場所でぼくは今日も仕事をしている。




2021年12月7日火曜日

病理の話(604) プレゼン下手を救ったZoom学会

各種の医療系学会・研究会がZoom中心になって、便利なことは山ほどある。

札幌に住むぼくはいちいち東京に移動しなくてよいので本当に便利だ。お金も時間も節約できている。

そしてなにより、パワポによるプレゼンが格段に見やすくなった。これまで、多くの発表は「広い学会会場のスクリーンにプロジェクタを通してPC画面を投影するスタイル」で行われてきた。このとき、パワポスライドのデザインが込み入っていたり色の使い方が下手だったりすると、発表の要点がよくわからなくなることは頻繁にあった。

しかしZoom学会だと、発表者が映したパワポスライドを、視聴者はそれぞれ自分のPCで高解像度・適切な色彩で見ることができる。これだととても理解しやすい。

ぶっちゃけ、「これまで学会発表がヘタだと言われていたような医者のプレゼン」がすごく見やすくなった。なぜだろう。



……ゆるやかに切腹をしながらここからの文章を書く。リアル会場の学会で映えなかったプレゼンが、Zoomの共有だと見やすくなる理由は、おそらく、

「多くの発表者が、巨大スクリーンを見上げる人びとのことを想像せず、自分のPC上での見栄えだけを確認してパワポを作っていた」

からだと思う。

長時間かけてPCと向き合ってプレゼンを微調整し続けるとき、どうしても、パソコンのモニタの明るさ、解像度、自分の眼との距離の範囲内で「最適化」をしてしまう。この空白がもったいないから画像をひとつ追加しておこう、みたいなことが起こる。このとき、発表者は、「スクリーンに投影されると見え方がどう変わるか」というのをつい忘れてしまう。

おまけにZoom学会では、発表している自分の顔が常に映し出されるというふしぎな効果もある。自分の顔を意識しながら人前でしゃべるということに、苦手感を表明した人の数はすごく多いと思う(ぼくもいやだった)が、これが続くと、なんというか、「人から見られていること」をいやでも意識するので、プレゼンテーションのスキルのようなものを考えるいいきっかけになる。




さらにさらに。Zoom学会では、しばしば、通信障害によって発表者と会場との接続が切れてしまうことが起こる。「発表7分、質疑応答2分」のように、発表者が与えられる時間が極めて短い一般のセッションで、発表者が3分くらい「落ちて」いると学会の進行がめちゃくちゃになるから、最近の学会はたいてい「発表者は事前にパワポに音声を吹き込んだものを学会事務局に送り、当日はそのパワポと音声を学会事務局が再生する」というやり方をとる。この間、発表者は、自分が作り自分が声を吹き込んだパワポスライドを「Zoom上でじっと眺めて待っている」ことになる。プレゼンが終わって質疑応答のところだけリアルタイムで発言するのだ。

この「自分の発表を自分で聴く時間」というのがエグいくらいにフィードバックにつながる。「なんでここでこんなに平板にしゃべってしまったのだろう」とか、「なんかこのスライド1枚だけやけにビジー(込み入っている)だな……」とかをぐいぐいと気づくことができるのだ。



こうしてZoom学会の普及によって、医者や研究者は……いや、少なくとも「ぼくは」、自分の発表を客観的に見直す機会をたくさん得ることになった。これじゃ伝わらないよなーみたいな部分を細かく直すのに忙しい。これをやらずに40代を通り過ぎていたら50代、60代でだいぶポンコツな発表をしていたかもしれないな、とすら思う。瓢箪から駒とはこのことだ。しかしまあ毎日反省ばかりして疲れる。





あ、それと、今まで「プレゼン上手」とされていた人たちがZoom学会だと急に下手になっている現象もけっこういっぱい観測されている。慣れないとそうなるよね。あたりまえだな。みんながんばろう。

2021年12月6日月曜日

嫌いを毎日書く人にだけはなりたくない

内容は非常によいのだが日本語訳が「硬い」本を読んだ。


……と、かんたんに書いてしまったけれど、実際には原文(英語)がそもそも「硬い」のかもしれない。となれば、日本語翻訳は十分に本来のニュアンスを汲み取っていることになる。もしそうなのだとしたら、「悪い」のは翻訳ではない。


今、思わず「悪い」と書いたけれど、「硬い」文章の本は読みづらいが「悪い」わけではない。硬さが必要だと思って硬く書いている本はむしろ「良い」。






形容詞を使う度に、それはほんとうに適切なのだろうかというのをくり返し考える。形容詞こそは主観そのものだ。

「白い」も「熱い」も相対判断である。「広い」も「狡い」も感じ方次第だ。「細かい」ことを言えば、「あの人は努力している」のように、形容詞がなくても主観的な表現というのはいくらでも作れるが、ともあれ、形容詞が多い文章を書けるときは自分でも調子が「良い」と感じる。最後の「良い」は形容詞ではなかったかもしれない。



作家のイーユン・リーが『理由のない場所』で、副詞と形容詞に別様のこだわりを持つくだりを描いていた。本筋とは関係なく……いや、それこそが本筋だったのかもしれないけれど、本を読み終わってからもそのあたりがずっと気になっている。言葉で何かを修飾することについて、ぼくはこれまでさほど頓着してこなかった。


論文や教科書を書く際には形容詞を使うのが難しい。程度を表現するには比較対象を設定して根拠を述べなければいけないからだ。「俺がそう感じたのだからそう書いていい」が一切通用しない世界で、形容詞を用いる機会は減る。そうして少しずつ言葉との関係がぎくしゃくしはじめる。


論文のような特殊なケースはともかくとして、このブログのように思ったことを適当にちょちょいと書いていい場所でも、ぼくはこれまでさほど形容詞のことを気にしていなかった。そういうのを気にする人が作家として食っている、と言われればその通りなのかもしれない。ただ、そもそも形容詞が多い文章をぼくはあまり好んでいないのかもしれないなとは思う。読み手に、形容詞の奥に隠れた不定形を感じとれるような文章、形容詞の部分が余白になっている文章のほうが、今のぼくは好きなのだと思う。


「好き」というのは形容詞ではないが動詞なのだろうか? ググってみたら「好く」という動詞の連体形であると書いてあった。でもときには形容動詞のこともあるという。どうも読んでいてもしっくりくるようなこないような、煙に巻かれたような感覚はある。「好きな食べ物」「好きな音楽」として使うならまだしも、「フガジ? ……好き」とつぶやくときの「好き」の品詞が動詞とか形容動詞だというのは、体のどこかが納得しない。


「好き」の品詞はよくわからないままだけれど、それは置いておいて、主観をあらわす言葉に対する抵抗感が強いときにぼくが書く文章はあとで読み返すと「硬い」し「悪い」。「好き」をやわらかく書き続けることにはあこがれがある。「好き」をうまく書くために大量の文章を書いている。ひとつの文章だけで「好き」が書き切れることはなく、いくつもいくつも書いているうちに相対として「ああ、こいつはなんかこういうものが好きなのかもしれないな」と、読み手にローンを返すような感覚で少しずつ積み上げていってようやく「好き」が書ける、あるいはまだ書いている途中だなと思う。

2021年12月3日金曜日

病理の話(603) 病理専門医試験

マンガ『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』の第89話が月刊アフタヌーン2022年1月号(2021年11月25日発売)に掲載された。これはもう涙なくしては読めない回でぼくは職場で読んでその日の仕事をする気が一切なくなったしでもこれを読んでこの仕事をする気がなくなるというのはちょっと変な話だなと思って、結局は普通に胸を張って仕事をした。2014年からずっと読み続けてきて良かったと思える回である(いつもだけど)


単行本になるまでネタバレしないでほしい人がいっぱいいるだろうから、最新話についてはこれ以上書かないことにするが、それはそれとして、今日は「病理専門医試験」の話をする。


病理医になるために必要なものは医師免許だけだ。じつは、ほかに何も持っていなくても病理医として働くことは可能である。とはいえ、たいていの場合、「死体解剖資格」という国家資格と、もうひとつ、「病理専門医」という日本専門医機構の資格がないと一人前の病理医としては見てもらえない。

このうち前者の死体解剖資格は、病理医の大事な業務のひとつ、「病理解剖」を主執刀者として行うために必須! である。当然のように国家資格だ。

すごく厳密に言うと、一部の検査センターとか、解剖がぜんぜん行われない独特な病院、あるいは近隣の大学から多数の応援病理医がやってきて代わりに解剖をやってくれる病院などで、一切解剖をしなくてもよい顕微鏡診断専門の病理医としてひっそりはたらく、みたいなレアな勤務形態は可能である。この場合は解剖をしないので資格も必要ない、でも、そんな病理医を雇おうという病院はあんまりない。

で、まあ国家資格は取るとして、その次の病理専門医。こちらは本当に必須ではない。正直な話、これがなくても病理医として病院に勤務して診断を行うことは十分可能である。より正確に言うと、この資格は「病院に勤務して継続的に病理診断を行ってきたことの証」だ。ポケモンのジムバッジみたいなものである。取らなくてもポケモンを集めて戦うことはできるけれど、レベルを普通に上げて、順当に戦えば取ることができるし、レベルが上がってるならジムリーダーに負けることもまずない。取らないことにメリットがほとんどないので(試験のお金を払わなくていい、とか、書類を書かなくていい、くらいか)、わざわざ取らないままでガマンするものでもない。

むしろこれを取らないと、「病理専門医なんて普通に病理医やってれば絶対に落ちない試験なのに、あえてこれを取らないってことは何かちょっと性格的に偏屈なところがあったりするのかしら?」と邪推されてしまうタイプの資格でもある。別にそこまで言うことはないんだけれど、印象としてそういうところがある。

ぼくは病理専門医を取得する際に試験勉強をしていない。書類を揃えた記憶もおぼろげだし、当日どこでどのように試験を受けたかもほとんど覚えていない。「絶対に受かる」と言われていたので対策をしなかったし、本当に受かった。それはぼくが病院の病理部に常勤して、毎日ふつうに病理診断をしていたからである。


では、病理専門医をとる人がみんなこういう状況で試験を受けるのかというと、そうでもない。


病理医には「診断ばかりする人」もいれば、「大学で研究をしっかりやるタイプの人」もいる。研究は病理医のだいじな仕事のひとつだ。専心してしっかりやらなければいけない。この診断と研究のバランスというのは、病理医ごとに異なる。一方で、病理専門医になるための試験はもっぱら「診断」の部分だけを問われるので、ぼくのように「診断だけやっている期間が4年ほど続いた」人間にとっては本当に楽な試験だったけれど、研究に軸足を置いている病理医にとっては、サブでやっている仕事に対してテストを課されるようなものですごくしんどいらしい。


逆に言えば、現在は研究者をやっているにもかかわらず、資格として病理専門医を持っている人というのは、キャリアのどこかで一度まじめに診断と向き合ったことがあるよ、と名刺に書いているようなものである。偉い。研究ばかりやっているのによく専門医取れたね、努力家なんだな、という感想が自然とわきあがる。病理研究者はほとんどの場合、脳腫瘍なら脳腫瘍だけ、食道がんなら食道がんだけ、肝臓がんなら肝臓がんだけ、子宮がんなら子宮がんだけ(それも例えば子宮頸がんだけ)を研究しており、それ以外の臓器についてはまるで触れる機会がないし病理診断もほとんどしない。でも、病理専門医試験では頭の頂点から足の指の先まで、あらゆる臓器の病気、細胞が出題される。これ、言うほど簡単ではないよ。病理専門医資格をもっている研究者たちはみんな(少なくとも受験当時は)勤勉だったのだ。そして、これがおもしろいところなのだけれど、たとえば食道がんしか扱っていない病理研究者も、たまに、「全身の勉強をしておいてよかったな……」と感じることがあるらしい。研究者というのは深く鋭く切り込むものではあるが、脳のどこかに手広く雑多にアイディアを集めておく資質も必要で、そういった「俯瞰するための力」を養う上では病理専門医という資格はそれなりに役に立つのかもしれない。




長くなったが最後にひとつ。病理専門医試験に落ちる人には2種類いるという。

・本当に研究ばかりしていて診断をあんまりやりたがらなかった人

・大学の上司や同僚などから適切に情報収集ができず(自分で何でもやろうとするタイプに多い)、書類に不備がありまくった人

・なめすぎていた人


3種類だった。すんません

2021年12月2日木曜日

AIの寿命の話

早朝や夜中、つまりは時間外。まわりから話しかけられたり電話がかかってきたりすることがないのを良いことに、仕事のかたわらよく音楽を聴いていた。オルタナ、エモコア、インストゥルメンタル。懐ゲー(※懐かしいゲーム)のBGMや、Lo-fi hiphopを聴くことも多かった。

では音楽にじっくりとひたりながら仕事をしているのかというと、どうもそういうわけでもなかった。高度の集中を要する仕事の最中は、「音楽が鼓膜の手前で引き返すような感覚」に入る。つまりは耳の外で何かが振動していることだけはわかるのだけれど、その音楽の記憶が飛ぶのである。気づいたら好きなアルバムの好きな曲が終わっていた、みたいなこともよくあった。

ところが最近そういうのがぜんぜんできなくなった。音楽を聴きながら何かをすることがすごくつらくなってきたのである。半年ほど前に、偉い人から突然舞い込んだメールの返事を書こうとして、「音楽聴いてる場合じゃねえ!」と思ってイヤホンを耳からはずしたとき、あれ、俺って前はメールの返事も音楽聴きながら書いてたんじゃなかったっけ……と気づいて驚いた。

実際、ぼくがはじめて書いた一般書である『いち病理医の「リアル」』の中には、イヤホンを片耳に入れてバックグラウンドで小さく音を鳴らしながら仕事をしているので、メールの着信があったときにそれにすぐ気づいて、すばやく返事をする、みたいなくだりがある。でも43歳になってこれができなくなった。




なんとなく連想したのは、「Windows update」であった。パソコンのOSはしょっちゅうアップデートをするが、たまに大きな更新があり、デスクトップのデザインまで変わることがある。Microsoftはすぐに「これからはもっと便利に!」みたいなことを言うのだけれど、そして実際、Windowsは年々便利に進化しているのだけれど、更新が終わって再起動を2回ほどかけると、それまでふつうに動いていたはずのメモリがなぜか足りなくなり、挙動が不安定になったり、動きが遅くなったり、ソフトウェア(アプリ)を同時に立ち上げるのがつらくなったりする。

これを思い出した。つまり、ぼくはupdateによってメモリを食うようになってしまったのではないか、と思った。今のぼくが以前のぼくより衰えたとはあまり思わない、むしろ、仕事にしてもプライベートにしても、できることの幅を少しずつ地道に広げてきて今があるとは思っているのだけれど、ここに至るまでに脳内では膨大な量の並行処理が更新され続けていて、「音楽を聴きながら概念を扱う」ために必要な脳内メモリが不足しはじめたように感じる。

このメモリばかりは増設するわけにもいかない。




大好きなマンガ『空に参る』の中で、AIロボット的な存在であるリンジンに「判断摩擦限界」というものが設定されていたことにとても感動した。外環境の情報を取り入れて学習をくり返していくうち、AIの判断の挙動が遅くなる、それが一定より遅くなると人との関わりが困難になり、いわゆる「AIの寿命を迎える」。この設定にぼくはのけぞって感動した。遠い将来、ドラえもんのような人工知能が開発されたとして、きっと「持ち主・飼い主」が寿命を迎えたあともドラえもんは生き残らなければいけない、その本質的なさみしさにオールド・マンガファンは密かに涙していたはずなのだけれど、冷静に考えて、Windows updateのように、電子の知能は更新をくり返して複雑性が増すと急激に使いづらくなっていくものなのだ。つまりAIにも寿命がある。過適応みたいな状態になってハングアップするのだ。それはきっとAIにとっての「痴呆」のような、あるいは「超越した仙人」のような、もしくは「仏」のような状態なのではないかと思う。もし将来のAIに意思が発生するとしたら、そのときAIたちは、自らの脳に寿命を設定して定期的にフォーマットするか、もしくは情報のアップデートをやめてそこまでの知識で生き続けるか、あるいは第三のまだ想像もつかないなにか、を選ぶことになるのではないか。ぼくは仕事をしながら音楽を聴けなくなった。AI、君にもいずれこの感覚がわかる日がくる。

2021年12月1日水曜日

病理の話(602) なぜそれがA病だと思ったのですか

超音波検査をやっている技師さんがいっぱい参加する勉強会に、よく顔を出す。みんなで一緒に勉強をするのだ。


勉強会と言っても、塾に並んで座って教科書を読んだり問題集を解いたりするわけではない。社会人には社会人なりの勉強方法がある。


たとえばとある勉強会では、参加者が持ち回りでホストを勤める。ホスト役の人は、自分の職場で撮像した「超音波画像」をみんなに見せる。先月はA病院のBさんが画像を出しましたね、では今月はC病院のDさんに画像を出してもらいましょう、みたいな感じだ。


ホストは会の最初にこのように言う。


「○○歳男性、健康診断で肝臓に病変を指摘されました。精密検査の超音波画像を供覧(きょうらん)いたします。」


供覧という言葉はほかでなかなか見る機会がないが、要は、「これをみんなで見て考えようね!」ということである。


ホスト以外の出席者は、出された画像を見て考える。超音波検査技師さんたちは皆、日ごろは自分で超音波のプローブ(端触子)を手にして患者にあて、超音波画像を撮っているのだが、勉強会のときは他人が撮った画像を見て考えることになる。


そこで何を考えるか?


映し出されたものが何なのか。診断は何か。それを知るために、どうやって画像を撮ったらいいか。超音波検査は技師の実力によって見え方が変わってくることがあるので、勉強会に出て、上手な人の撮り方を真似するのはとても大事なことである。




出席者たちは次々に発言する。


「この肝臓の病変ですが、私は○○病だと思いました。」


でもこれだけで終わってはいけない。なぜ○○病だと思ったのか、それを、他人がわかるように説明しなければいけない。


画像を見て考えることを一般に「読影(どくえい)」という。レントゲンという「影絵」方式の画像検査があることから、画像を見て考えることを「影を読む」と呼ぶ。超音波検査は超音波を反射させる検査だし、MRIは磁気をあててスピンの変化を見ているので、正確には影を読む検査ではないのだけれど、慣習的にすべて「読影」という言葉を用いる。


そして、勉強会では、読影する際には「根拠」を述べなければいけない。○○病だと思ったから○○病なのです、では通じないのである。個人の頭の中でだけ完結するストーリーで画像診断をしてはいけない。勉強会のキモがここにある。


「なぜ○○病だと思ったのですか?」


「病変のふちの部分がギザギザとしているから、周りにしみ込んでいる(浸潤している)のではないかと推測し、それならば『がん』であろうと考えました」


「病変内部の模様がわりと均質で、ムラがないので、全体が一様な成分から構成されているだろうと考え、それならば『がんではなく良性よりの病変』ではないかと考えました」


読影の根拠をぶつけ合う。参加者がもし、「もう少し違う写真も見て根拠を探したいな……」と思ったら、次の超音波検査の際に、「他人が見ても考えが進めやすい画像の写真を撮ろう!」という気持ちにつながっていくだろう。こうして、他人の撮った画像を見ながら診断を考えて、勉強する。



なおぼくの役割は、最後のほうで出てきて、手術で採取されてきた病気の正体を「病理学的に」あばきだし、超音波画像でなぜ「あのように」見えたのかを解説する役目である。「ホストを除けば一人だけ回答をしっている男」みたいな立場になることが多い。でもそればかりだとつまらないので、ときどき、病理診断をあらかじめ教えてもらわずに、みんなと一緒に超音波画像を見て考えるようにしている。こういうのもいずれ病理診断の役に立つ。

2021年11月30日火曜日

怒りで線を引く

日曜日の午前中だけ出勤して、午後は家で本を読んだ。翌朝出勤すると、まだ1日経っていないのにメールがいっぱい届いていて、ん、どうした、昨日の午後に限って、みんなメールをしたい気分だったのか、と驚き、ぶつぶつつぶやきながら返事をしている。1時間半ほど経つがまだ終わらない。職場にいないとメールが見られない状態なので、ときにこういう渋滞が起こる。

ぼくは仕事のメールを家で見ない。というか見られない。職場で使っているメールアドレスは、職場のサーバを介してしか送受信ができないタイプで、この不便さに閉口して多くの職員はGmailを使っている。でもぼくは「家でメールを見たくないときに見なくていい」のが便利だなと思って、14年間職場メールを大事に使い続けてきた。不便を便利に反転させたのだ。

そこまでして守っていた自宅、仕事が入り込めなかったはずの自宅に、FacebookやSlackが少しずつ侵食をしはじめているので、メールアドレスによる抵抗もそろそろ無意味になりつつある。休日も夜間も関係なくアプリの通知がブンブン鳴る設定にしているのが悪いのだけれど、鳴らさないと着信に数日気づかなかったりするのであぶなくていけない。「そうやって休みの日もずっと仕事のことを考えているのはよくない、公私を切り替えたほうがいい」と言われる。しかし、ぼくはとにかく線引きが苦手なタイプだ、何につけても。メールで線を引いて壁を作ったはずがうまくいかなかった。境界はとろけてしまった。



最近は見なくなったが、昔は「仕事中にTwitterするなんて不真面目だ」というクレームを見た。これに対してぼく自身は、「休日にも仕事しているんだからバランスとしてはちょうどよいだろう」と思っていた。仕事をしている時間、プライベートの時間、これが9時5時できっかり分けられる仕事とそうでない仕事がある。飛行機のパイロットや電車の運転手のように仕事中にプライベートを持ち込むと猛烈に怒られるタイプの仕事と、病理医のように仕事とプライベートの境界がそもそも存在しない仕事が……あっいやこの一般化は少し乱暴だったか。

それにしても人の働き方に怒る人というのはなぜ存在するのだろう。どう考えても他人事のはずなのに。


怒りという感情。


怒りは無理解によって増幅される。理解する能力が足りないというよりは単に機会が足りないのだ。知ろうと思わなければわかれないことが世の中に満ちている。チャンスとやる気さえあれば人間の高度な脳はたいていのものをきちんと読み込んでくれるが、人は誰もがそこまでヒマじゃないので、知らないままの領域を無限に抱えている。知らないはずのものを自分の知っている範囲で判断しようと思うと、背景の複雑な文脈が読めないから、モノとモノのつながりが不合理に思えて、なぜだと怒りが湧いてくる。

使い古されたフレーズに、「自分でも説明できない怒り」というのがある。でもこれは言わずもがなである。説明できるならば怒る必要がないからだ。説明できない部分の理不尽に直面したときに、感情を爆発させて爆風によるガードを展開する、それが怒りだ。怒る人というのは常に何かが見えていない、あるいは、「一部しか見たくない」からこそ怒る。


こういうことを言うと、「正義の名の下に怒ることだってあるだろう」というおしかりが飛んできたりする。でも正義を定義できると思っている時点で無理解だろう。世の中の構造が見えていない。自分の中での正義を守るために必要なのは怒りではなく説明であるし、世の中の正義を守るという言葉は妖精を守るとか背後霊を守るというのと一緒である。我々の理解が及ばないところにあるかもしれない(ないかもしれない)メカニズム。正義という言葉はそういう言葉だ。これに対して怒りを発動する、その精神構造がわからないわけではない。ここでぼくが使った「わからないわけではない」は、知らないはずのことを自分の知っている範囲で判断しようとする誤謬の第一歩なので、あまり先に進めないほうがいいと思う。メールの話だったのにずいぶん違うところまで歩いてきてしまった。怒りこそは線を引く行為そのものなので、まあ、違わないという考え方もあるのだけれど。

2021年11月29日月曜日

病理の話(601) 生検のむずかしさ

胃カメラや大腸カメラを受けたことがあるか? ぼくは胃カメラだけある。大腸はやったことない。今43歳だから、そろそろ大腸がん検診を受けに行く。みなさんも、40を超えたら大腸カメラをやりましょう。いったん大腸の中を見通して、なにもなければ、大腸の場合は必ずしも毎年検診をうけなくてもよい、と言われています。アメリカなら10年後とか5年後にもう一度やろうねとおすすめされる。日本だと、次は2年後あたりどうですか、くらいの話になる。年齢や状況にもよるけどね。


さて、今日はそのカメラ……内視鏡検査の細かい話である。


さっきからカメラ、カメラと書いてきたが、昔は「ファイバースコープ」と呼んだ。今はファイバーとは言わずに単純にスコープと呼ぶ。ぐにゃぐにゃと曲がる、かなり細身の望遠鏡をイメージするといい。ヘビ的な。デジタルハイビジョンの高精細な画像で、消化管の粘膜をきれいに映し出してくれる。


そして、何か病気があったときに、スコープの先端に空いた穴からマジックハンドがのびる。スコープの中にはカメラや光源とともにトンネル的に穴が空いていて、この穴の中に、術者(医者)や内視鏡看護師が手元からさまざまな便利道具をつっこんで、スコープの先端から飛び出させて、マジックハンド的に何かの作業をすることができる。


このマジックハンド操作が……難しいのだ! 近くで見ていると息を呑む。


スコープはぐにゃぐにゃ動かせるのだが、完全に「自在」であるとは言いがたい。術者の手元にあるスイッチやダイヤルなどで動かしているだけなので操作性には制限がある。特に、「もうちょっと奥に伸ばしたい」とか、「左手前に向かってぐいっと旋回させたい」みたいな動きには苦労する。


みなさんも想像してみてほしい。それこそマジックハンド的なものを頭の中で持ってくれ。それを使って、そうだな……えーと……


1.部屋のカーテンをしめます。

2.カーテンの裏に、カーテンをたばねるバンドみたいなやつ(あれ何て言うの?)がありますよね。

3.2メートルくらいのマジックハンド(ただし先についているのは爪切りくらいの可動性しかない、小さなつまむ道具)を使って、自分は一歩も動かずに、カーテンの裏のバンドの表面をつまんでください。


わかる? これ想像できる?


まずカーテンを力任せにグイ―ってやったらだめですよ。そんなことしたら患者は絶叫するからね。丁寧にスッスッって避けないとだめ。


あと自分は動いたらだめ。もうすこし角度が……とかそういうのは手元の微妙な動きで考えてください。


さらに爪切りでバンドをつまむとき、あまり勢いよくグッと爪切りの先端をとじると「スルッ」ってすべってうまくつかめませんよ。歯がきちんと立つように、ある程度、ゆっくりと動かさないとだめ。でもあんまりゆっくりだと、


カーテンは風に揺れて動くから気を付けてね




いきなり風が吹いたのでおどろくかもしれないが、お腹の中でも、胃や腸はつねに「ぜん動」をしているのでうにょうにょ動いている。これを止める薬もあるのだが、ま、限度がある。ままならぬ動き、うにょうにょの動き、そしてマジックハンドの難しさ……。



こういったものを乗り越えて、ようやくつまみとってきた小さな小さなカケラを、病理検査室で病理医が、顕微鏡で見て診断をする、それが病理診断なのである。マーほんと、採取してきたやつが偉いよ。あと、検体採取の最中、じっとガマンしてくださっている患者さんたち、いつも本当にありがとうございます。うまくつまんでとってこられたなら、あとは病理医におまかせください。

2021年11月26日金曜日

教授の上

とある教授から連絡があり、おりいって相談があるとのことで、いつものクッタクタなパンツではまずかろうと思いスーツで出勤したのだが、職場に着くとメールが届いていて、

「すみません上からの指令があり、急遽仕事しなければいけなくなったので、今日の会合はなしにさせてください」

とのことだった。ドタキャンであるが別にかまわない。ぼくが大学に行くこと自体は大した手間でもないし(むしろ気分転換になってありがたいくらい)、向こうが忙しいのはわかっていたことだからまた向こうが次の予定を提示するのを待つ。


それよりも、教授なのにさらに上があんのかよ、という感想のほうが大きい。でもまあたしかに「教授の上」は存在する。ぼくもよく耳にする。ただし実感しているわけではない。なぜならぼくは教授ではないからだ。そのあたりのニュアンスは感じ取りづらい。やっぱり当事者じゃないとちゃんとはわからないと思う。


同年代、あるいはぼくより若い医者が、ぽつぽつと教授になりはじめた。大学教授というのは基本的に50代、そして60代がメインの仕事であるが、まれに、異常に業績がすごい人とかが30代、40代で教授になる。そういう人たちはすぐ、「教授と言ってもみんな同列じゃないんですよ、私はまだまだ新米、かけ出しですから……」と謙遜をする。つまりは教授になってゴールではない。まだまだ上がある、ということなのであるが、この「上」をあまりに多くの人が口にするので、まあ本当にあるんだろうな、と実在を信じている。


なお、いま63歳くらいの教授であっても「上からのお達し」という言葉を使うので、教授の言う「上」というのは単に年齢の話だけを意味しない。教授を退官してからも学会などで影響力を持つ、院政を敷いている元教授みたいなのもいるのは事実だ。ただしニュアンスはそれだけではない。


教授たちが「上」という言葉を使うときには、ぼくがうがちすぎなのかもしれないが、


「教授だからさすがに自由にいろいろ仕切れるかと思っていたけれどそうでもない」


という心の声がにじんでいるのではないかと思う。


トップダウンで強権ごり押しが許された時代でもない。部下や隣の講座や学会の関係者一同などに気を遣い続ける「調整役」としての自分にあらためて気づく教授も多いようだ。大学教授というものが医師のキャリアの一端の頂点であることは間違いないにしろ(一端、と書いておいたのだからあまり考えなしにここで沸騰してつっかかってこないように)、やっている業務の性質は中間管理職である。連絡、調整、均衡、分配。整地、配置のくり返し、最後は税率0%でメガロポリス! ……最後のは『シムシティー』の攻略本のフレーズなので気にしないでほしい。でも、なんだか、教授と市長の仕事って似ているのかもしれないなとふと思う。市長になりました、それで位人臣極めました、なんて言わないだろう。教授もたぶんそういう仕事なのだろう。他人事だけれども。


最近仕事でご一緒する教授たちはみんなすごくまじめな人ばかりだ。基本的に敬語しか使わない。准教授以下のひとたちのほうが無闇にタメ口を使う印象がある。ここは偶然ではなくたぶんそういう戦略があるのだと思う。「教授だからって偉ぶりやがって……」と思われるリスクを回避する上で敬語というのは最低限のリスクヘッジだ。教授はみんなメールの返信が早い。教授は笑顔を絶やさない、まじめな案件で話し込んでいるときもしばしばふと笑顔になって「この議案は難しいですが、あなたに敵意も不満もないしこうしてご一緒できていることがうれしいです」というメッセージを伝えてくる。そしてみんな仕事ができる。それは当たり前だろ、と思うかもしれないが想像を超えるほど仕事ができる。資料の取り寄せとか文献の要約とか、部署への周知徹底とか予算の管理といった、普通の医者が「それは事務の仕事だろ」とか言ってないがしろにしがちな部分であっても教授はしっかりとこなす。「雑用に強い」のである。その上でなお、思考が深い。学術的な部分でも、あるいは(医者の場合は)臨床的な部分でもだ。


そういう教授が、日常会話の中で使う「上」という言葉にはおそらくまだまだ含みがある。こういうのはたぶんぼくのように下とか中にいるまま働き続ける人間にはわかりきらないところでもあるだろうし、教授ほどではないけれど中間管理を必要とする身としてはきちんと覚えておかなければいけないなと思う部分でもある。敬語と笑顔に関してはほんとうに勉強になる。この二つを欠いたままで「仕事ができるから許される」なんて人は、おそらくこの先はだんだん減っていくのだろう。居丈高で不機嫌なまま、処理能力だけ高い人というのは本当は存在しないのかもしれない。世間との均衡を保つ情報処理能力が低いから、人は虚勢を張ったり不機嫌さを隠さなかったりするのかもしれない、と、さまざまな教授陣を見ていてふと思う。はー優秀な人が性格いいとしんどいなー。

2021年11月25日木曜日

病理の話(600) きりのいい数字なので数字をかぞえてみる

病理の話が通算600回。ときどき同じ内容を書いているけれど、少なめに見積もっておそらく300くらいの話題は書いてきたことになる。


しかしそれはまああたりまえなのだ。なぜなら病理が扱う「病気」の数はもっと多いからだ。


病気のうち、仮に「がん」だけに絞ったとしてもけっこうな数がある。TNM分類という国際的な分類では、がんをまず29種類にわける。これは、どの臓器に発生したかでわけている。また、Wikipediaの英語版、list of cancer types(がんの種類のリスト)を見ると……


https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_cancer_types


なんと148種類の「がん」が項目立てされている(※自分で数えました)。しかしこれでもまだすべてではない。日常診療で分類している「がん」はこれよりさらに多いというのが、項目を見ていてもあきらかにわかってしまうのだ。


たとえば上記の148種類の中に、gastric cancer(胃癌)というのがある。しかしこの胃癌、WHO分類の「青本」と呼ばれる教科書をみると、さらに6種類に分類されるし、この6種類の中にもまた細かく区分けがあるのだ。


この作業は、まんま、動物や虫を分類していく作業に似ている。オニヤンマとシオカラトンボはどちらもトンボだが、住んでいる場所も好きな食べ物も違う、みたいな話と構造は一緒なのである。オニヤンマでひとつ、シオカラトンボでひとつ、ギンヤンマでひとつ絵本(「かがくのとも」など)が描けるように、がんも一つ一つに物語がありメカニズムがあるので話が尽きない。


そして当然のことだが病気というのはがんだけではない。だから「病理の話」はまず書き終わることがないのだ。ただし、病気や治療の話がいかに話題豊富だからと言って、それらをおもしろく興味深く書けるかどうかはまた別問題である。山本健人はえらいなあ。

2021年11月24日水曜日

思わせぶりな書き方をしましたが十四代ではないです

夏前に弟からもらった一升瓶をようやく昨日あけた。

本当はもう少し早く飲みたかったのだが、一升瓶は大きくて(四号瓶ではないので)冷蔵庫にうまく入らず、野菜室に入れると家族の邪魔だし、クローゼットにしまっておくにしてもいったんキャップを開けると夏はなんだか酒が悪くなりそうで、とりあえず涼しくなるまで待っていた。

札幌は今、朝方は4度くらいまで気温が下がっている。4度というと冷蔵庫だ。自然に冷蔵庫の機能が備わるまで待ったのだ。

もらった日本酒はかつてマスコミなどが取り上げて一時的にすごく手に入りづらくなった有名な酒である。最近はブームが落ち着いてわりと買いやすくなったけれど、それでもまだ、買うには多少の気合いが要る。自分では買わない。だからもらってよかったなと思う。飲んでみるとアルコールの臭さがなくて米の香りがきちんとする。妻は米の香りが強いタイプの日本酒が得意ではないので、これはぼくがひたすら飲むことになる。うまい酒だ。ポテチとは合わない。サッポロポテトなら合うかもしれない。


うまい酒を飲む機会などなくなってしまった。飲み会がないことは快適でしかないが、ひとりで外で飲む機会が減ったことは少し悲しい。こうして身の丈に合わない一升瓶を大事にちびちびと減らすことにハレを感じる。


先日、「しゃべくり007」を見ていたら、三代目J soul brothers(ひどい名前だ)のめんめんが、「最近はぜんぜん酒を飲まない」と口々に言うので、ヤンキーのカリスマとして受け入れられている人たちがテレビでこのようなイメージ戦略をとるのかと思ってびっくりしてしまった。月の服代が1000万円以上、毎晩クラブでオールのイメージではもはやTikTok文化で生き残れないということなのかもしれない。ザブザブ酒を飲むのがかっこいい風潮が、こうして廃れることになんの哀愁もわかないけれど、ではかつてそこにあこがれてやっていた人たちは今の三代目を見てどういう気持ちになるのだろうと、他人事でしかない興味を一瞬だけかきたてられた。三代目の中でたまに「体育会TV」で野球をやっている一人は朝起きると白湯を飲んで散歩をすると言ってスタジオの笑いをとっていた。本人も笑っていた。その笑いが全く引きつっていないのでとても感心した。人間、ここまで笑う技術を極められるものなのか。

2021年11月22日月曜日

病理の話(599) 病理組織でフライデーしてもしょうがない

Twitterなどを見ていると、ときおり、病理の画像を1枚貼り付けて、「○○病の原因があきらかに!」と宣言しているツイートが流れてくることがある。


ここでいう「病理の画像」というのは、顕微鏡でのぞくプレパラートの写真であることがほとんどだ。H&E染色で色鮮やかに染まった細胞たちが、400倍くらいの倍率で撮影された写真の中に並んでいる。


でも、このような写真1枚で、「○○病の原因があきらか」になることは100%ない。断言していい。だからこの写真は多くの場合、「釣り」の画像である。それ自体にはあまり意味がないのだけれど、見栄えで視聴者たちをひっかけるためのエサだ。




たとえば病理の写真に「病原体」が写っていたとする。「いやーこれが写っていたらさあ、さすがに原因はこれだってわかるジャン!」というのは早計である。

その写真に写っている病原体は、ほんとうに病気の「原因」か?

たとえば火事でボンボン燃えている家のすぐ横に、ライターを手に持ちタバコを吸っている人がいたら、それは必ず放火犯か?

そうとはかぎらない。ちょっと怪しいな、とは思うけれど(火事場でタバコ吸うなよ……)。単なる野次馬かもしれないし、周囲の住人が驚いて見に来ただけかもしれない。


これと同じ事が病理診断にも言える。「そこに写っている何か」を、病気を引き起こした犯人と決めることはできない。「ただいるだけ」かもしれない。それがいかに「レア」な病原体だったとしても、である。火事場にマツコデラックスやタモリがいたら周りは騒然とするだろう。なぜこんなところに!? でもレアだからといって「あやしい、犯人かも」なんて普通は考えない。なのに、病理の写真になると、とたんに人びとは騙されがちになる。


ある物体が病気の原因であると決めるには、「モノを実際にみる」以外にも複数のプロセスが必要だ。それは統計学・疫学だったり、「健康なヒトにそれを加えてみて、本当に病気が起こるかどうか証明する」実験だったり(これって人体実験なので、そう簡単にはできないよ)、逆に病気のヒトからそれを取り除いて「ただちに」病気がよくなるかどうかを確認したり、さらにはその物体のまわりで「たしかにこいつが病気の原因であると思わせるような、生体の挙動」がいくつも起こっていることを確認したり(状況証拠とでも言うのかな)、そして最後には「どのようなメカニズムでそれが起こるのかをきちんと説明」したりしなければいけない。


よく考えると当たり前のことなのである。だって、裁判だってそうだろう。現行犯逮捕! のあと、逮捕した人が即犯罪者になるわけではない。まずは「被疑者」として取り調べが行われる。裁判だってときには何度もやる。そこまでやってはじめて「被告を○○の刑に処す」となるが、これが冤罪ということだってある。それくらい難しいのだ。

話は、一緒である。そこに犯人ぽいやつがいるからって即座に「犯人確定!」とやる作業が通じるほど、人体は単純ではない。少なくとも「現場の写真1枚」で裁判をやるやつなんていない。だから逆に、H&E染色のような「見栄えがする写真」を選んでツイートしている人はちょっと信用できなかったりする。週刊誌の写真ひとつで人生を狂わされた無実の人だっている、でも、人間はすぐこういうわかりやすいネタに心を持っていかれるから、ままならない。せめて知っておかなければ。

2021年11月19日金曜日

ときどき考えときどき存在

ブログに書くことがない日というのはない。なぜなら考えていない日というのがないからだ。ただし、この記事をどれだけの人が楽しく読んでくれるだろうか、ということを考え出すと、とたんに「書けない日」が出てくる。

何かを書ける、書けないという切り分けをするにあたって、人の目線、他者からの圧力みたいなものが決め手になる。

いや違うぞ、他人はどうでもいい、うちなる自分がその文章を良いと思うかどうかだ、みたいな話もあるだろう。そういう人は自分の中に「自分を客観視するもうひとつの人格」を作っている。でも、内部に自作の他者を用意してそこからの目線と圧力をバネにものを書いているわけで、うん、別に、たいして変わらないんじゃないかな、と思わなくもない。

厳密なことを言えば、自分が用意した「内にいる他者」は、偶発的に飛びかかってくる予測不可能の「外の他者」とは異なる。所詮は自分が作り上げた他者なんて、自分の想像の範囲内におさまることがほとんどだろう。そこがつまらないなと思う。「自分が自分の文章を良いと思うかどうかだ」などというセリフ、一見高尚なことを言っているかのようにも聞こえるけれど、なんだかたいしたことがない気もしてくる。自分の予測が及ぶ範囲で納得できればいい文章だなんて。

本を作る上で、編集者に伴走してもらうことの必要性は、こういうところに端を発しているのだろう。

ところで唐突だが「日記」の話をする。日記は他者はおろか、内なる他者、すなわち自分自身が「つまらんな」と思いうような内容でも一切かまわない。「書くことがあるかどうか」だけがポイント。人間が考えない日というのはないので、日記を書けない日というのは存在しないことになる。

しかし「日記的散文を載せているブログ」となると話は複雑になってくる。「どう読まれてもかまわないしそもそも誰も読んでいなくてもよい、誰かに何かを与えることも考えずにただあったことを書いているだけだ」という文章が持つ、「見られたさ」みたいなもののことを最近よく考える。誰も見ないのを良いことに、あったことと考えたことを好き勝手に書く、という「恣意」には多くの人が気づいている。他者の反応を受け入れませんよ、という宣言のわりに、他者のニーズに応えませんよ、という看板のわりに、日記的散文というのはしばしば他人からの反応をもって変節していく。どうもこのあたり、人生だな、と雑にまとめたくなってくる。

ところで、Twitterの可能性は「日記」ならぬ「秒記」にあると感じる。つぶやくという単語の根底にあるニュアンスは日記のそれに近い。そして、人間に「考えていない日」というのがないように、じつは「考えていない秒」もないとすると、そこから漏れてくるものを書けるものなら書こうかなと思う人がTwitterにハマっていくのだろう。ツイートを人に見せて商売がどうとか、反応をもらって引用RTしてどうとかいうのは、日記を切り売りするということに近い。






ポール・ヴァレリーという人は、デカルトの「我思う故に我あり」に皮肉をぶつけて、「じゃあ私はときどき考えているからときどき存在しているよ」と言ったという。元ネタをどこで読んだのか忘れてしまったが10年以上前、ぼくはTwitterという秒記の存在意義は「ときどき考え、ときどき存在」にあるのではないか、と考えていた。今ふと思ったけど「秒記」とは「病気」と同じ発音である。

2021年11月18日木曜日

病理の話(598) がんばれお医者さん

医者になって5年目とか7年目とかになると、「論文」を書かなければいけない。


……いや、ま、書かなくてもいい。毎日患者と向かい合って真摯にベッドサイドで奮闘していけば、それで医者としての最低限の仕事は果たせる。……たぶん。おそらく。


でも本当はそれじゃだめだと思う。医者は、患者に真摯に向かい合う「ために」論文を書かなければいけないのだ。


なぜなら、あらゆる医者は、「他人が書いた論文(や、教科書)」の御利益ではたらいているからである。




すっかり有名な言葉になってしまった「エビデンス」という言葉。まるで古代ローマのコロシアムみたいな雰囲気の単語であり、重厚・絶対のニュアンスを感じるわけだけれど、エビデンスというのは別にカミサマが用意してくれた石板に書いてあるわけではない。ぜんぶ、先達(せんだつ)の医者たち・研究者たちが、しっかりと研究をして、論文を書いて、その結果をさらにまとめあげて教科書などにして、歴史とともにできあがってきたものだ。

たとえば、ある病気を医者が見抜くために、いくつもの身体診察、血液検査、CTなどの画像検査を行うわけだけれど、このときに、


「お腹をおして痛がったらこの病気かも」


とか、


「血液データでこれとこれの値が異常だったら要注意かも」


とか、


「CTでこの臓器に何かができていたらあるいは……」


みたいな話は、全部、本当に全部、誰かが過去に論文にしている


だから医者は安心して、「過去の論文によれば、この血液データとこの血液データが異常なこの患者に、こういう所見がとれたら、こう診断して、こう治療をすると、けっこうよくなる」ということを言える。


論文になっていない医学などあってはいけない。

数千、数万、数十万、ときには数千万人という規模の「過去の医者」が、とっかえひっかえ苦労して編み出した手法を受け継いでおくことがどれだけ大切か。仮にその病気の患者を過去に診たことがなくても、医者が先人達の知恵を使って戦うことができることの、尊さたるや……。



というわけですべての医者は論文や教科書をきちんと理解して診療に臨むのだが、このとき、論文という専門の文章を読むにはけっこうエグいコツがいる。


情報量がとても多いし、クセがあるし、難しい言葉や概念も用いられている。だから、「論文を読みながら医者として働き続ける」にもけっこう訓練しなければいけないのだけれど。


この、「論文を読むための訓練」として、おそらくもっとも有効なのが、「自分でも論文を書いてみること」なのである。フラジャイルの岸京一郎も宮崎に同じことを言っていた。「何本か論文書いてみればわかるよ」と。




過去の医者が、どういうプロセスで、どういうデータを集めて、どう考えて論文にまとめたのか。その表と裏の部分。ひだとひだの間に隠れたニュアンス。現場でしか体感できない空気のようなもの。これらをまるっと理解しようと思ったら、早いうちに論文を書くに越したことはないのだ。だから、医者になって5年目とか7年目とかになったら、「論文」を書かなければいけない。多くの指導者はそう思っている。



まあ人生が一番忙しいころでもあるんだよね、5年目とか7年目というのは。長い学生生活を終えて初期研修、後期研修と終わって、ようやく収入が安定しつつあるころだ。もっとも若くても31歳、それまでのキャリア次第では30代後半とか40代なんてこともザラ。ふつうの企業人だとそろそろ仕事も任されまくっているころなのかな、とか妄想をふくらませながら、医師免許をとって5年以上が経っているのにまだ上司に言われて論文を書かなければいけないんだから、たいへんだ。でも、これをやるのとやらないのとでは、「その後の伸び」がだいぶ違うと思う。がんばれお医者さん。

2021年11月17日水曜日

太ももがむちむち

集合写真を撮った。病理診断科のスタッフ、病理医3名、技師5名、助手1名の合計9名がスマホのカメラに写る。となりの検査室からスタッフを1名借りてきてシャッターを押してもらった。


撮られた写真を見てみると、辺縁の部分が魚眼レンズ的に少し湾曲していた。スマホの設定を風景用などに変えておくべきだったかもしれない。まあ、用途はしょせん「大学の基礎講座に送って教室だよりに載せてもらう」だけなので、これでもよかろう。


写真に写った自分を見る。椅子に座って太ももの上に拳を置いている。太ももが少しむちむちしている。写真の写り方の問題、というよりは、パンツの素材のせいかもしれない。GUで買った3000円しないパンツだ。


写真なんてめったに撮らないのでこういうときにあっしまったなと思う。




写真のためにみんな一瞬マスクを取った。しかしシャッターを押される寸前に、今のこの時期を記録に残すためにマスクをしたままでもよかったかもしれない、と少しだけ思った。そして次の瞬間には、「こんなもの記録に残してやるもんか」という意地のようなものがムクムクと湧き上がってきた。そして、よく考えるとおそらく今後病院では一生マスクを外すことはないので、この時期もなにも、今に限った話じゃないんだろうな、と思い直した。


新型感染症対策のために手洗い・マスクを遵守し、患者の面会を謝絶した結果、院内で発生する肺炎の数が減って驚いたのは、もう1年くらい前のことだ。結局は、今まで、持ち込んでいたのだろう、さまざまな感染症を、人が。そういうことがわかってしまった今、病院に勤める人間がマスクを外すことは、一部の必要な例外を除いてありえない。マスク以前とマスク以後は完全に分かたれた。


とは言え、ケアの現場では医療者の表情を伝えることが実益に結びつくこともまたよく理解できる。決めてかかることはないのだろう。50年もすればマスクも手洗いもありがたみが薄れてくる……のかもしれない。どうだろうな。防災意識くらいには残るのだろうか。


シャッター音が響いて、みんながそれぞれの仕事に戻り、ぼくはしばらく考えていた。「今を残すこと」とはなんなのだろう。変わっていく未来に、変わらぬ止め絵を贈る行為とはいったいどういうことなのだろう。たとえば10年後にぼくが今より痩せていたとして、この写真を見て、太ももを見て、マスクを付けていない顔を見て、そのとき何を感じるのだろう。写真ひとつにぶつぶつとものを感じるのも今だけの価値観なのかもしれない。あらゆる細胞が入れ替わり、おそらく考え方も変わっている10年後のぼくは、果たしてぼくと言えるのだろうか? 言うしかないにしろ。

2021年11月16日火曜日

病理の話(597) 病理医になる方法

1.まず大学の医学部に行きます。全国どこでもいいです。病理医になれない大学というのはありません。ただし、なかには医学部がさらに「医学部医学科」と「医学部看護学科」などに分かれている場合があります。「医学部医学科」を出ないと病理医にはなれません。

(※例外:歯学部を出ると口腔病理医になれる。獣医学部などを出ると獣医病理医になれる。けどその話は今日はしません)


2.医学部に入ったらほかの学生と同じように勉強します。6年間あります。卒業時に国家試験を受けて合格しましょう。医師免許が手に入ります。


3.医師免許を手に入れたら初期研修(2年間)をはじめます。内科、外科、麻酔科、救急診療、産婦人科、地域医療、精神科、小児科など、ひととおりの科を巡って病院とはこういうところなのだ、医者とはこうして働くのだということを頭に刻みつけてください。


4.初期研修の最中に、先輩病理医たちを探しましょう。大学にいるかもしれません。ふつうの市中病院にいるかもしれません。いないところでは教わることができません。教わらなければ病理医にはなれません。じつは、病理医は独学では絶対にたどり着けない資格なのです。なぜなら、病理専門医になるためには「解剖経験」が必要で、解剖は本で読んでもできるようにはならないし、そもそも死体解剖資格という国家資格を持っている人がついていないと執刀できないからです。だから病理医の先輩がいないとそれ以上先に進めません。


5.病理医がいるのは大きな病院が多いです。目安として200床くらいの規模から病理医が常勤している可能性が増します。300床を超えたらたいていはいます。500床を超えて病理医がいなければその病院は精神科や循環器科がメインのやや特殊な病院なのでしょう。初期研修を大きな病院でやる必要はないですが、その後のことを考えると、さいしょから大きめの病院で研修しておいたほうが、病理医を探しやすいかもしれません。


6.病理医を見つけたら相談しましょう。電話かメールで連絡し、あるいは院内で直接話しかけるなどして、アポイントメントをとって、空き時間に進路の相談をします。現場で働く病理医はたいてい、複数の病院の病理医や大学病院の病理部と連携しているので、どこで研修すればよい病理医になれるかという情報を持っているものです。そういう情報を持っていなさそうな病理医もいますが、少し話をするとだいたい区別がつくと思います。


7.初期研修(2年間)が終わったら、いよいよ病理医としての「後期研修(3年間)」をスタートさせましょう。令和3年現在、後期研修先としては基本的に大学病院がおすすめです。市中病院だと取れない資格や経験できない診断があるからです。市中病院から大学に通って教えてもらうのは慣れていないとけっこうハードルが高いです(うまく調整してくれているなら別)。でも、大学で研修をしながら、ときどき市中病院に出張したり勤務したりするのはわりと楽なのです。本社から支部に出張するのは気楽、支部から本社に出向くのはプレッシャー、みたいな雰囲気はあります。


8.というわけであなたはどこかの大学病院、あるいはそれに類するレベルのでかい病院の病理部(病理診断科)に無事就職できました。言い忘れましたが初期研修も後期研修も給料は出ますので安心してください。まず、後期研修の開始時に、日本病理学会に入会します。年会費は自分で払うものですが、病院によっては科が研究費で出してくれることもあります(でも最近は少なくなりました)。日本病理学会に早めに入らないと、病理専門医という強い資格の受験要件を満たせませんので注意してください。


9.後期研修では主に3つのことをやります。

    1)基本業務を覚える:切り出し、顕微鏡の使い方、一次診断の書き方

    2)臨床各科とのカンファレンスに出てしゃべる方法を覚える

    3)解剖の経験を積む

    4)論文の書き方を学び、実際に書く

    5)本を読み、論文を読んで、講習会などに出て勉強をする

3つのことと書きましたがリストアップしたら5つありました。このすべてを「好きな順番にやる」のではなく必ず全てやる必要があります。1)だけで後期研修を終えるとあとあと全然働けなくなりますので注意してください。2)カンファレンスでの病理医の仕事をきちんと学ぶ機会は今後訪れません。3)解剖経験は大学にいる間に積み上げないと、病理専門医の受験資格にたどりつけません。4)論文を書かないと病理専門医にはなれません。5)勉強をしないとあなたが医者である意味がわかりません。


10.年によって受験資格が微妙に変わるのですが、後期研修の3年間が終わったあたりで、うまくいけば病理専門医の受験資格が揃います。ただし、人気の研修先だと病理解剖の症例を研修医同士で分け合うために、解剖経験数が足りないことがありますので注意が必要です。病理専門医資格はなくてもしばらくは働けますが、ないままだと晩年の就職が厳しくなりますので、医師10年目くらいまでにはとっておきたいものです。


11.この間、診断をしたり(すべての診断は上司がチェックしてくれます)、解剖をしたり、カンファレンスで奮闘したり、論文をがんばったりしますが、おそらく同時に「出張」も経験することになります。大学病院以外の関連病院の病理検査室におもむいて、現地の病理医といっしょに診断をします。大学とはひと味違った経験ができますのでやっておいたほうがよいでしょう。というか、大学でだけしか働いていない病理医はキャリアの中盤以降に働く場所を探す上でけっこう苦労するので基本的に出張経験はあったほうがいいです。


12.学会・研究会にはなるべく出席しましょう。「そういうのに出なくても、いい病理医にはなれるよ」という人は99.9%の確率で少なくとも臨床医からはいい病理医と思われていません。というか学会や研究会に出ないとふつうに勉強が足りなくなるので病理医として働く上で不都合が生じます。交通費や宿泊費などは、施設の研究費でまかなえないこともあり、自腹になるとけっこうな負担で年間軽く数十万は使うことになります。でも最近はZoomでいくらでも無料で出られるようになりました。かつて、「自腹で行くなんて意味がわからない」などとブツブツ言っていた人たちは、無料になってもZoom研究会に出席していませんので、結局は勉強する気が無い人たちだったのでしょう。


(補遺: 「わりと長い時間、勉強し続けられること」が医学部を出て医者になった人間の唯一自慢できる点だと思っています。一夜漬けで医学部に入れた人はほぼいないでしょう。積み重ねの先に医者になったことを自覚し、医者になってからも「積み重ねる能力者」、すなわちツミツミの実を持つものとして研鑽しながら実戦する、それ以外に医者が、特に病理医が給料をもらって働く価値はありません。)


13.無事、病理専門医になってから、やることはまだまだあります。大学で基礎研究にも興味がわいたら大学院に進学して実験論文を多く書くのもよいでしょう。また、診断に打ち込みながら臨床医と組んでさまざまな臨床論文を作るのもありです。留学を考える人もいます。大学の関連病院など、市中病院に籍をうつして、いわゆる「普通の病理医」として給料をもらいながら医療のために診断を続けることもできます。ただ、個人的には、「病理専門医なりたて」くらいだと市中病院でひとりで診断を引き受けるにはまだ経験が足りていないことも多いと思います。不安も多いでしょうから、大学のコネを使いながら、あるいはネットのコネなども駆使して、複数の病理医がいる施設で引きつづき勉強を続けましょう。


ここまで、医学部6年+初期研修2年+後期研修3年+専門医受験のための追加勉強1~3年でだいたい高校卒業から12年~15年くらいが経過しているはずであり、医師免許を取得して6年~9年目くらいのことが多いです。


しかしここまでの話をぜんぶひっくり返すようなことを言うと、病理医になるには他にもさまざまなキャリアがあります。たとえば大学時代から基礎講座に出入りして病理の人たちと仲良くなって、初期研修の最中からなんとなく病理ムードをムンムン漂わせているとか、逆に医学部ではない大学を出て、社会人になってから医師になろうと思って再受験(社会人ワク)して、そこから医者になって病理医になるとか、いちどはほかの臨床医になったんだけど10年目で病理医に転向した、みたいなパターンもよく聞きます。なのであまり型にはめた考え方をする必要はないのですが、ひとつだけ言うとすると、「どんなルートをとるにしろ、日本病理学会に入会したら一生勉強する気持ちでやっていくしかない」のと、「大学をはじめとするハブ空港的機関を活用し、前後左右に多くのコネを作りながらやっていかないとルートが見づらくなる」ということだと思います。ひとつだけと言いながらふたつ言ってしまいました。

2021年11月15日月曜日

5案の中から

かつて『病理医ヤンデルのおおまじめなひとりごと』(大和書房)という本を出したときの話。担当編集者のWさんが「帯文、どなたかに書いてもらいましょうね」と言ったので、「どなたかというのはどなたがいいんでしょうか」と答えたところ、「そうですね……先生と縁のある人なら誰でもいいと思いますよ」みたいなことを言われた。


なるほどなあと思ってふたりで考えた結果、糸井重里さんにお願いしてみてはどうかという話になり、こういうのってお願いしていいのかどうかもよくわかんないな、と思いながら編集部から一報を入れて頂いたところ、快くお引き受けいただいた。なんかちょっとすげえなと自分でも思った。


で、今日書きたい話はそのくだりではなくてそのあとの話だ。以前にもブログで書いたことがある気もするがたぶん切り口は違うだろうからかまわずに書くと、糸井さんは帯文を、


「5種類」


送ってくださったのである。しかもそれぞれについて「この文章はこういう意図がある」とか、「これだとこのように読まれるのではないか」とか、「私はこの順番でおすすめする」というように、解説やふんわりとした序列がついた状態だった。ぼくは愕然とし、かつ、とても感心した。


このようなやり方がいわゆるコピーライティングとか広告プレゼンの場で行われている一般的な手法なのかどうかはよく知らないし、知ったところで活用する機会もないのだが、本を読んで帯の文章を書いてくださいとお願いした相手が1つ文章を練って送ってくださるだけでもうれしいのに、複数考えて送ってくださったのでなんというか撃ち抜かれた思いであった。


それ以来、果たしてぼくは今後このように、「ひとつの依頼に対して複数考えて提示して相手に決めてもらう」ような仕事をする機会があるだろうか? と、ことあるごとに考えるようになった。


たとえば、臨床医に「学会で発表したいので病理の写真を撮ってください」と頼まれたとき、写真を撮るだけではなくパワポに組んで解説を付けて渡すところまでは毎回やっていたのだが、ここでさらに、「発表する時間に応じてこの写真はカットしてもよい」などのサービス……というか、写真を受け取ったほうが選べるような仕事をできるものかとだいぶ考えた。主治医に頼まれて病理の写真を撮るという仕事は、消化器の研究会を除くと250例を突破したが、消化器系はさらにその倍以上あるのでたぶんこの14年間で700~800回くらいは臨床医の依頼に応えてきたことになる。年間50例とすれば週に一度のペースということだ。まあ市中病院の主任部長としては多くも少なくもないくらいだろう。で、「帯文事件」のあとで担当した100例くらいは、相手が写真を選べるようなシステムにしてみた。糸井システムを採用したのである。ただし、臨床医もヒマではないので、「いいから病理医のほうで決めてくれよ~」という気分になることもあるようなので、それこそ糸井さんがやったように、「おすすめの順番はこうだよ」と仮組みして提示するのがよい。このやり方だと、ただ病理の写真を2,3枚撮ってホイと渡すのに比べて臨床医の満足度が違う。結果的に、学会や研究会でどのような発表をしたのかをあとで教えてくれたり、そのまま共同研究に誘ってくれたりと、めぐりめぐってぼくの得になるようなシーンも増えた。なんだかんだで論文業績も増えており、ぼく自身の勉強にもなるので一石多鳥である。


ただしこのシステム、当然だが1案出すよりも時間はかかる。忙しい中で毎回どっぷり時間を使えるわけではないので理想と現実の落としどころが問題となる。しかし、「もてなし」的な気持ちは、秒単位であっても取り入れることが可能なのもまた事実だ。「やれるときはやろう」と気に掛けておくだけでもだいぶ違う。たとえば、新しいモノを2つ、3つと考え続けることまではせずとも、準備中に思い浮かべて最終的には棄却した「代案」みたいなものを、「メインのアイディアがあるからサブはいいや」と引っ込めるのではなく、そちらもある程度精製して相手に提示し、「いちおうこういう第2案も考えたけど第1案のほうがいいとは思う」みたいにプレゼンしてしまう。これは丁寧にやると相手にとって選択肢を増やすことになるし、思考を追体験してもらってよりよい第3案を生み出すきっかけになったりもする。


かといって、「あのとき5案をくださった糸井さんと同じようになりたい」と、本と末を転倒させるような目標設定では真に相手のオファーやコンサルタントに答えたことにはならないとも思う。相手の依頼によっては1案に絞って強めに提示したほうが全体が引き締まることもある。3000文字の原稿依頼がきたときに、相手が選べたほうがいいだろうと言って記事を5本書いて「この中から選んでください」というのはやはり違うような気もする。さまざまな案の中からひとつに絞り込むためのプロ意識というのも時と場合によっては必要だ。


世の中には「選択」という言葉があふれすぎていて、まるで人間は選択ばかりくり返す生き物みたいな気分になる。実際にはもっと「A or Bでは片付かない、AとBの中間付近で微調整をくり返すやりかた」がいっぱいあると思うのだけれど、それでも、人はありとあらゆる現象に対して無限に思考を続けられる脳を持ってはいないので、ときには事象を簡略化して、「ヘリ」の部分はそぎ落として、A or Bという選択でビシッと物事を前に進めたくなるときもある。選択か、微調整か、そのあたりのニュアンスは、あるいはぼくらの人生に、交互に訪れるくらいでちょうどいいのかもしれないなあと思う。思い返してみると、「5案を提示するけれどこれらにはふんわりとした序列があり、そしていろいろ調整してみていいよ」というのは、選択だけでも微調整だけでもない、絶妙のバランスの上に成り立つ仕事のやり方だったのではないか、と今さら腑に落ちるのである。なお、ぼくはその後いくつかの本から帯文を書くように頼まれたが、どれに対しても必ず5案ずつ提案した。長々と書いてきたがこういうところはわりと正直に真似していく。

2021年11月12日金曜日

病理の話(596) そこに菌はいますか

日ごろ、病理検査室の奥にいて、患者と顔を合わさずにこっそり楽しくやっている病理医のもとに、臨床医がやってくることがある。電話ではなく直接顔を出すからにはそれなりの理由があって、いくつかのパターンがある。困惑気味の顔でわからないことを聞きに来るとか、お調子者の顔で教科書や論文を借りに来るとか、使命感に満ちあふれた顔で共同研究の相談をしにくるとか、ぼくのデスクに常備してあるアメが目的とか。

そして、「あきらかに切羽詰まった顔」でやってくるドクターもいる。月に何度か経験する。



「先生、○○菌は見つかりましたか?」



○○に該当する菌はそう多くないが、ここでは書かない。大事なのは、これが何菌の話かではなく、「あとで病理診断報告書に書かれた『ある・なし』を見ればわかる程度の質問を、あえて病理医を直接訪れて聞き出したくなるくらい、臨床医がハラハラドキドキしている状態」のほうだからだ。



まず、この医者は、患者の不調の原因となっている「病原菌」が見つけられていない。あらゆる検査を駆使しているのに、だ。あらゆるというのはたとえば血液検査だったり、培養検査だったり、PCR検査だったりする。質量分析などのマニアックな方法もある。菌を見つける検査はいっぱいあるはずなのに、何をやっても菌が見つからないというならば、つい「菌が原因ではないからだろう?」と考えたくなるところだ。

しかし、ここが現場の医療の難しいところでもある。「何をやってもなかなか引っかからないが、じつはどこかに菌が隠れている」というパターンの病気は実際にある。このとき、菌が見つからない理由はいろいろである。


1.血液に菌が影響をおよぼしづらい

2.PCR用の検体を採取できる場所にその菌があまりいない(他の場所にいる)

3.体のどこかから検体を培地になすりつけて、菌を培養しようとはしているのだが、じつはこの菌は培地に生えて目に見えるようになるまでに何週間もかかる(発育が遅いのでそれを待っていられない)

4.レアな菌すぎて普通の病院だと検査法がない

5.そもそも菌が原因の病気ではない


「そもそも菌はいない」というパターンは最後に書いた。何かの菌にやられたときに似た症状を引き起こす、「菌が原因じゃない病気」というのもある。しかし、「菌がいるけれど見つかりづらいだけ」という、クライムミステリーみたいな状況もありうるのだ。これだから医療は難しい。




このようにさまざまな理由で「菌が見つからない」とき、医者はどうするか。究極的な答えがひとつある。それは、「菌探しをやりつつ、それはそれとして、今ある病気の状態に対処する」ことである。

もちろん、患者に悪さをしている「原因」がわかればそれだけ効果的な治療ができる。しかし、原因そのものが見つかりきらなくても、今起こっている症状に対して治療をぶつけていくことはできる場合がある。これは「原因探しをあきらめる」という意味ではない。原因は探し続けるが、その間、患者に何もしないでただ延々と苦しませているのはよくない。そして、「治療を入れることで結果的に原因までわかってしまうケース」も考慮する。俗に「診断的治療」という言い方もする。治療することが診断にもつながる、という逆説めいた言葉である。


「○○菌はまだ見つかっていませんが、○○菌の感染とみなしてこの薬を使います。もしこの薬がよく効いたら、検査では見つかりづらいタイプの○○菌感染であったとあとからわかるでしょう。」


推論としてはスジが通っている。ただし、「みなして」の部分では患者はもちろん、医者も緊張する。


こういうとき、主治医は慎重になり、よく歩く。細菌検査室の技師に「検査の雰囲気」を聞きに行き、外注検査会社に新しい検査が出ていないかをたずね、そして、病理医にも話を聞きに来る。

どこか1箇所、だれかひとりでも、「菌の正体」に肉薄している人はいないかと、チームのすみずみに目をくばって考えるのだ。そこまでしてなお、「現在の医療では誰がどう調べても○○菌が見つからないが、しかし、○○菌が引き起こした病気かもしれない」というケースだと考えたときに、主治医は患者とよく相談してから治療を開始する。




さて、このような相談を受けた病理医はどのように答えるべきか。

「○○菌ですか?

→ いました。
  いませんでした。」

のように、いた・いないの2択で返事してよいものか? 

よい。それが仕事である。しかし、それだけでは終わらないのが医療というものでもある。

「菌は見つかりませんでしたけれど、今、どのようにお考えなんですか?」と主治医の相談に乗る。これはおそらく、病理医としてやったほうがいい仕事なのだ。同じ国家資格を持ちながら、違う部門で働くふたりの医師が、それぞれの視座から考えていることをぶつけ合う。あるいは、もっと単純に、「困っている臨床医の話を聞くことで、臨床医の頭の中を整理するのに付き合う」くらいでもいい。



「病理医はいる・いないしか答えられないんだからあまり頼られても困るヨ」みたいなことを言う病理医は、医者としての給料をもらうべきではない。もっと親身になるべきだ、仮にも医者なのだから……くらいのことをぼくはときどき考える。でもこれは言葉が強すぎるので、なるべく言わないし、書かないようにしている(書いちゃった)。

2021年11月11日木曜日

マクロの波動関数

バスを待っていた。ぼくは中学生だった。塾の帰りであった。道を挟んで向かい側にもバス停がある。人はいなかった。その向こうに建物が並んでいて、ひとつはマンションを仲介する会社、もうひとつは……なんだったか忘れたがレンタカーかタクシーか、そこはさほど重要ではないのだが、とにかく会社のビルが並んでいた。そのふたつのビルの前にはある共通点があった。

各ビルの前にはひとつずつ、地面に立てる縦長の電光掲示板のようなものが置かれていたのである。そこには縦書きの文字がおそらく流れていて(車道に向かって表示されているので、向かいのバス停からは何が書かれているのかはよくわからなかった)、おのおのの電光掲示板の上にはそれぞれ明滅する赤いランプがついていた。ランプのサイズはパトランプくらいだったが灯りは回転するわけではなく、雰囲気としてはクリスマスツリーの電飾に近くて、点いては消え、点いては消えをくり返すものだった。

バスを待つ間、ぼくはそのランプをよく見ていた。どちらもチカチカと周期的に光って消えてをくり返すのだけれど、両者はわりとよく似たデザインなのに、点滅するタイミングは微妙にずれていて、それらはときどき一緒に光ったり、あるいは完全に「裏拍」で光っていたりした。BPMが違う音楽同士がときおりグルーブしてはまたすぐにずれていく。ぼくはそれを飽きもせずにずっと眺めていた。

ときおりシンクロする二つのランプには意思が感じられるように思った。彼ら、あるいは彼女らは、なんらかの理由で異なるリズムを体に刻まれてしまっているのだが、それでもときおり、示し合わせたように一緒に光って喜んで、またじわじわとタイミングをずらされていくのだ。


公園に置いてある、鎖の長さがなぜか異なるブランコ。


田舎の家に置いてあった、秒針と合わない振り子時計の振り子。


自動車のコンパネに映ったウインカーの表示を後部座席から延々と眺めている。シートに横になって、座面に押しつけているこめかみの、血管の拍動とウインカーとが毎回少しずつずれていた。


そう言ったことをぼくは塾の帰りによく考えていた。ときどき思い出す風景なのだがブログを書こうとPCに向かったタイミングで思い出したのは今日がはじめてである。これもひとつのシンクロではある、そう書いて締めようと思ったときに昔のぼくがしゃべった。


「それはシンクロじゃない。」


そうなのだ。シンクロではない。でもぼくはそれがシンクロっぽく見えることに、なぜだか静かに落ち込んだり少し興奮したりを周期的にくり返していた。そんなことをずっと考えていた。

2021年11月10日水曜日

病理の話(595) どこまで細かく検索をするか

今から50年くらい前の話。

旧・築地市場の目の前に建っている、国立がんセンター中央病院病理部(当時の名称)では、「早期胃癌」の発生メカニズムを解明するために、猛烈な熱意で研究が行われていた。

胃癌の患者から、手術で胃がとられてくる。

胃には、見てわかる大きながんがある。そのがんを、こまかくスライスし、プレパラートを作成して、顕微鏡で詳しく検索する。

これは今も変わらず行われている「病理診断」だ。しかし、当時はこの検索に加えて、さらに追加で手間がかけられていた。

「がんのない粘膜」もすべて、プレパラートにされ、検索の対象となったのである。



たとえ話をする。

火災が起こったときに、燃え落ちた家やそのまわりに建っている「火の粉が及んだ家」に入って現場検証をするのは大事なことだ。火の出た原因を明らかにすれば、今後の防災にも役に立つだろう。

しかし、「火災が起こった町内のすべての家を家宅捜索」することに、意味はあるだろうか? それはさすがにちょっと、やりすぎではないだろうか?



「がん」のない粘膜を調べるというのは、この、「燃えた家以外もぜんぶ家宅捜索する」ということに似ている。異常な手間がかかる。胃ひとつを全部プレパラートにすると、その枚数は(胃のサイズにもよるが)200枚にも300枚にもなってしまう。切るのも大変だし、顕微鏡で見るのだって膨大な時間がかかる。

しかし、結果的にこの、「燃えた家以外もぜんぶ見る」ことが、その後の胃癌診療の発展に大きく寄与した。

これによって、「まだ進行していない、早期の胃癌」というのがときおり見出された。「ボヤ」が見つかったということだ。さらには、「胃癌の発生している胃に、ずっと進行していた病的な変化」もいろいろとわかってきた。「火の不始末がありそうな町内」であるということを確認できたのである。



胃の研究はすすみ、今では、切除された胃を毎回すべて切らずとも、胃カメラの段階で、あるいは病理医が胃を目で見るだけで、どこにどのような異常が生じているかをほとんど見分けられるようになった。「全割」と呼ばれる、採ってきた標本すべてを切りまくってプレパラートにするやり方は必要なくなった。


それでも、この「とことん調べる」という手法は、今もまだ有効である。とくに、まだメカニズムの解明されていない新しい病気や、まれな病気を検討する際には、採ってきた臓器を細かく切って多くのプレパラートを作り、網羅的に解析することが行われる。


「まだメカニズムの解明されていない新しい病気? そんなの、現代にまだ残っているの?」


と疑問に思う人もいるだろうか? いや、たぶん、いないだろう。新型コロナウイルス感染症だって「新しい病気」だ。この世の中に、まだまだわからない病気がたくさんあるってことは、医者でなくても、みんながなんとなく知っている。いつもいつも細かい検索をすればいいというものでもないのだが、いつでも細かい検索をできるように心の準備をしておく、そういう姿勢も病理医には求められていると思う。

2021年11月9日火曜日

ザッカーバーグはそのへんわかってんのか

「おちつけ」のピンバッジと「騒ぐと損」のキーホルダーとをデスクの横にかざっている。これらを見たからと言って、落ち着けるわけではない。そんな御利益はない。

ただし、「これらを見る、というムーブを思い出す自分」であれば、すでにそれは比較的落ち着いているということだ。

あれよあれよと移り変わっていく仕事の激流の、中州で孤立しているときにふと、「デスク横にこんなものを飾ってみた日もあったな……」と、自分の出演する動画の「時間軸バー」を戻す余力さえあれば、自分の力でなんとか落ち着きを取り戻すことができる。





「おちつけ」と「騒ぐと損」の向こうには、ROROICHIさんのボールペン画や幡野広志さんの写真が飾ってある。これらはいずれも、顕微鏡を見て考えるときにぼくの目が思わず泳ぐ先に配置してある。目の前が暗くなるほどものを考えているとき、光と影の正体をなんとなくわかっている人によって作られた視覚の魔法が視界に紛れ込むことで、交感神経の興奮はそのままに、副交感神経も活性化する。なんとも形容のし難い、ありがたい状態。天秤を天秤ごと持ち上げてしまうような。




自分を落ち着かせるためのセッティング。デスクトップの背景、スマホのロック画面のイラスト、これらにこだわっていたころもあった。でも、モニタの中に興奮したり困惑したりしながらさらにモニタの中で癒やされるというのは、ぼくはどうもあまり得意ではなかった、というか向いていなかったようで、いつしか、電脳の守備範囲外にアクセントを置くやりかたになっていた。カレンダーもそうだ。サボテンもそうだ。ふと、こういうのを本当の意味でのメタバースと呼ぶのではないかという気がした。ネットワークの喧噪に浮かれた人たちは、最近、「現実にも存在している仮想現実」を忘れているように思う。インターネットの中にしかイメージを転がすヒントがないなんて、それはわりと見識の狭い話だとは思わないか?

2021年11月8日月曜日

病理の話(594) 盛り上がり方に違う名前を付けてみる

達人というのは自分の仕事のすべてを言い表せない人のことである。無形の技術、言外の技、手だけが覚えている熟練のテクスチャー。

その上でなお言うけれど病理診断というのは「できうる限りのすべて」を言語化しないとだめである。もちろんどうやっても言葉にできないニュアンスというのはあるが、それを「感覚的にさあーこれはどう見てもがんだよね」とか言い出したら職業的には敗北宣言だ。

なぜか?

それは、病理診断という仕事が、病理医の頭の中でだけ完結するものではなくて、依頼者である主治医と情報を共有してはじめて成り立つ類いのものだからである。

「がんです」だけでは、主治医が受け取る情報が少なすぎるのだ。もっと描写し尽くさなければいけない。なあに、大丈夫、微細な感情を言語化しろと言っているんじゃない。病気にまつわるエトセトラをとことん言葉にしなさいよ、というだけの話だ。




というわけで細かい言葉使いがいろいろある世界である。今日はひとつ、「ポリープ」のことを考えてみる。

大腸などにできる「ポリープ」というのは、病変の「かたち」を表す用語である。つまりは「四角いなにか」とか「ぐにゃぐにゃした何か」的な言葉といっしょで、「ポリープ状」という形状の話しか意味していない。

したがって、「ポリープはがんだった」とか、「ポリープはがんではなく、過形成だった」とか、「ポリープは良性の腺腫(せんしゅ)だった」のように、ひとことで「ポリープ」と言ってもそこにはいろいろな病気が含まれている。



ではポリープとは具体的にどのような形を指すのか? ここもじつはかなり幅がひろい。大腸ポリープのことを勉強したことがある人が、まっさきに思い付くのは、「キノコの形」だと言われている。しかし、ポリープという言葉で言い表す病変にはほかにも、「たけのこの形」であったり、「グミの形」であったり、「こんぺいとうの形」であったりと、バリエーションがある。

大腸の粘膜から「盛り上がっている病変」があったら、まずは安易にポリープと呼ぶ。しかしこれだけでは情報が絞り込まれていない。だから、我々病理医、そして内視鏡医たちは、ポリープ、もしくは隆起した何かをもっと細かく呼び分ける。



盛り上がりの丈の高さはどれくらいか?

盛り上がりのへりに、くびれがあるか?

ふわっと盛り上がっていてどこからが「山の裾野」なのかわからないときと、「ここから明らかに盛り上がっている」というのが示せる場合とでは病気の種類が違うであろう。

盛り上がっているとして、それは、キノコのように茎を持つのか。

キノコと言ってもエノキなのか、椎茸なのか、マッシュルームなのか。

あるいは盛り上がりの部分に二つくらい山ができていたりはしないか。

みうらじゅんの描く目の飛び出た人の顔みたいな隆起だってあっていいのではないか。

海底にへばりつくサンゴのようにギザギザとうねる隆起と、日本庭園に置いてある庭石のようにゴツゴツと角張った隆起ではまるで意味が違う。

色はどうだ。色の話を忘れていた。周囲の粘膜と比べて、少し赤みがあるのか、それとも同じ色なのか。

どこか削げていたりはしないか。

いったん盛り上がってはみたけれど、やっぱりへこんでみようかな、みたいな形状のことだってある。



こう言った見分け・呼び分けを、個人の印象でやるのではなく、日本全国、あるいは世界中のどの医者が読んでも伝わるような表現で、病理診断報告書を記載する。

きのこたけのこ戦争などと言っている場合ではない。こちらは平和のために、見分けて書き分けていかなければいけない仕事なのである。

2021年11月5日金曜日

第6の味覚

タイトルを最初に決めてから、そのお題に合うように書く、というやつをやる。



一般に、味覚は5種類の成分によって成り立つとされている。

・甘み
・しょっぱみ(塩味)
・苦み
・すっぱみ(酸味)
・うま味

意外だがここに「辛い」はない、なぜなら辛さは温痛覚(あたたかくて、いたい)に基づくものだからである。先日ノーベル賞のネタにもなっていた。


「うま味」が明治期に日本で「科学的に定義」された味だというのはけっこう有名だ(ただし欧米がそれを認めたのはもっとずっと後のことだけれど)。「味の素」のモトを考えた人の伝記は本にもなっている。和食に欠かせない「昆布だし」を解明したかったというのが動機だともされているが、それはどうだろう。研究者というのは動機がなくても何かを見つけ出してしまうものである。京極夏彦が「動機のない殺人もある」と書いたとき、ぼくはとても納得した。……話がそれた。



この先、さらに味が発見されることはあるのだろうか?

たとえば、舌にさらに微弱な受容体みたいなものが発見される日がくるかもしれない。細胞の表面にあるタンパクはまるで解明し切れていないから十分にあり得る話である。細胞を構成する成分は、目で見てアレとコレとソレが含まれているなあと仕分けることができないくらいには小さくて複雑なので、いまだに見つかっていない成分だってまだまだいっぱいあるだろう。

……と、ここでWikipedia情報が手に入ったのだけれど、実際、「カルシウム味」や「脂肪味」、「デンプン味」などが、第6の味覚の候補として上がっているのだそうだ。でもこれらは名称としては流行らなさそうである。実際、「グルタミン酸(の)味」では和食の地位は上がらなかったであろう。「うま味」という納得の名称が対応していたからこそ、「第5の味覚」になり得たのである。たとえば脂肪の味は、昔からの言い方だと何に相当するのかな。料理人だとなんと表現するのかな。ソムリエはすぐオイリーって言うけど、あれは味覚というよりも舌触りにあたるものな気もする。油脂そのものの味に対応しているのかどうか。


ついでにWikipediaを流し読みしてしまおう。味覚以外の五感、たとえば嗅覚とか視覚が脳内で「味」に統合されていく過程を、基本味とはべつに「風味」と呼んでいるようだ。風味というのはそういうニュアンスだったのか、たしかに、舌で風味を味わうとは言わない気がする。



第6の味覚というのはまだ発見されていないかもしれないし、将来定義されるものなのかもしれないが、どちらにしても、「我々が毎日のように感じ取っていながら、言語にできていない部分」にそういったものが潜んでいるのであろう。あるかないかで言えば「ある」、しかしそれを「分ける必要があるのか」と言われてまた悩む。

今日の話はいつの間にか「分類論」なのだけれど、分類する理由を「必要性」にだけ求めるのもじつは少し違うかなと思うことがある。基礎研究や殺人が必ずしも動機を必要としない、というか「必要性を必要としない」ことがあるというのを、ぼくはわりと真剣に悩み考える。分類も「ついしてしまうもの」の筆頭である、自然とそういう考えに至る、考えようと思ってなかったけれど考えついてしまう、気がついたらその中にぽつんと取り残されたような状態になっている。りん、と風鈴が鳴る。

2021年11月4日木曜日

病理の話(593) ヒストロジーという耳慣れない言葉

顕微鏡で細胞をみることを、「組織学的検索」と言う。あまりタイムラインには流れてこない言葉だ。

ここで、「組織」という言葉が使われていることは、ふつうの日本人にとってはちょっと違和感があるかもしれない。「ん? 細胞を見ているんじゃないの? チームがどうしたって?」みたいな気持ちになりはしないだろうか。ぼくはかつて、なった。


顕微鏡で見るときに使う「組織学」は、英語のヒストロジー(histology)という単語に対応している。会社などで人が集まって作る組織をあらわす言葉はオーガニゼーション(organization)だから、そもそも違う言葉だ。つまり、英語だとまるで違う単語に、日本語で同じ「組織(学)」という言葉が使われていることになる。なんだか混乱してしまう。


でも、ヒストロジーに日本で「組織」という言葉を当てはめたことにも、たぶんちゃんと理由があると思う。


ヒストロジーは、「(顕微鏡で)なんらかの構造をさぐる学問」を指す。細胞ひとつを拡大して、核があるとかミトコンドリアが組み合わさってできているなあと「内部構造を探る」のも組織学だし、細胞どうしが織りなす”組み体操”、すなわち「細胞が構築する構造を探る」のも組織学である。


今、ぼくは、組み合わせとか組み体操のように「組む」という単語、さらには、「織りなす」という言葉を自然と使っていた(マジである)。組むと織るで組織ではないか。なるほどなあうまくできているなあ。


で、この言葉をより鋭く追いかけていくと、病理医が顕微鏡で細胞を見るときには、単独の何かを見つけ出すという感覚よりも、組み合わせの妙や、織物的・タペストリー的なパターンを読み解く感覚に近いということもよく理解できる。たまーに不勉強な医者が「細胞ひとつ見たからって何がわかるんだよ」みたいなことを言っているのだが(近頃はめったに見なくなった、絶滅したのか)、病理組織学的な目というのは細胞ひとつを見るわけではない、というのも「組織」という言葉からニュアンスとしてにじんでくる。


ヒストパソロジー(histopathology)という言葉もある。ヒストロジー(histology: 組織学)と、パソロジー(pathology: 病理学)を合い挽き肉みたいにあわせた言葉だ。これだと、顕微鏡を使って細胞の織りなす姿から病のコトワリを探り出す学問、という意味になるだろう。じつに含蓄深い名称であり、国際病理学会(IAP)の英国支部が発行している歴史有るの雑誌のタイトルにも用いられている。


https://onlinelibrary.wiley.com/journal/13652559


たまには単語の話。たまにね。

2021年11月2日火曜日

航行の軌跡

思考がうねるとき、心が思考に翻弄されて浮ついてしまうことがある。思考は波であり、心は小舟に乗ってその上にたゆたっている。心がゆらゆらと揺れるとき、思考の水面も波立っている。思考の方向が定まって、決まった向きで流れ出すと、心を乗せた小舟もそれに連れて移動していく。黒潮のような思考の上で、親潮とぶつかるまで快適な旅が続く。


心はときに思考に向かって小石を投げる。波紋が立ってそのひとつが舟の側面にも打ち付ける。反射して干渉し、波は次第に消える。波が十分に消えたらまたひとつ小石を投げる。


思考が凪いでいるとき、心は落ち着いて周りを見渡し、舟に寝転がって空を見たり、海中に釣り糸を垂らしてみたりする。


思考は時に荒れ狂う。思考を乱しているのは思考自身ではなく、強く吹き付ける雨風の方だ。しかし、いつの間にか、波が次の波を連れてきて、ぶつかり合って、舟の上に降りそそいでいるのが雨粒なのか、砕けた波しぶきなのかわからなくなることもある。


このような思考と心の隠喩はどこまでも続けることができる。しかし、冷静に自分の脳を探ると、思考と心を分けることがそもそも可能なのかどうかがよくわからない。この場合の心というのは感情や情念のような「ままならず、あるもの」を指すのだろう、自分で書いておいて「指すのだろう」も何もないのだが、実際、そこにただそのようにあるものを、勝手に理屈で思考だの情念だの心だのと分類することがどれだけ正しいことなのかもわからないのだ。カラスをハシブトガラスとハシボソガラスにわざわざ分けることに何の意味があるか、鳥類学者以外にはわかるものではない。はるか上空から見下ろせば波も小舟もいっしょなのだ、ただそこには白く跳ね返る何かが見えるだけなのである。水平線は遠くて丸い。

2021年11月1日月曜日

病理の話(592) ヒト病理医がいないとだめだなと思う瞬間

病理学会が出したステートメント「人工知能AIと病理医について」はけっこう物議をかもした。


文字がちっちゃめ。要約すると、「AIができたからって病理医の仕事の重要性はかわりませんし、ヒトが病理医である意味はありますよ!」。

このステートメント、あえて誤解をおそれずに言うと、「こめかみに血管を浮き出させながら抗弁している文章」に読める。「必 死 だ な w」みたいに突っ込まれるんじゃないか。老婆心ながら気にかかる。でも、こういう文章を出したくなる気持ちもわかるので、無慈悲にツッコミするわけにもいかない。

現場でまじめに働いている病理医たちは、AIがどれだけ発展しようが自分たちの仕事がなくなることはないとわかっている。理由はこのステートメントに書いた以外にもいろいろあるのだけれど、たとえば、

「臨床医と、病理診断に関して電話でやりとりして、患者を救った経験」

が一度でもある病理医は、この先どれだけAIが発展しても、自分の仕事が奪われるとは思わない。AIは参考診断を出すことはできても、「病理診断報告書を主治医との間に置いて会話する」ことはできないからである。

もっとも、未来のAIが「ドラえもん並みに自律して思考する」ならば、話は別だ。仮にそんなAIができたら病理医どころかありとあらゆる仕事の意味が変わる。外科医も内科医もいらなくなって、薬剤師による患者への細やかな服薬説明、看護師による生活指導、ソーシャルワーカーによる社会的支援、リハビリ関連のもろもろ、などがあれば医療はほぼ成り立つようになる。医者だけが要らなくなる。でもそのためにはドラえもん型AIが必要だ。なお、ぼくはこのことを『いち病理医の「リアル」』(丸善出版)に書いたことがある。

話を戻そう。たいていの病理医は、「AIが発展しても自分たちの仕事の価値は減らない」とよくわかっている。そして、そのことは、病理医と仲良く仕事をしている臨床医たちもわかっている。つまり現場では「言わずもがな」だ。しかしSNSが発達して、あまり病理の仕事を知らない外野の人たちがいっちょ噛みできるようになり、状況が微妙に変わった。ものを知らない一般人が悪気もなくこういうことを言うようになった。

「AIが発展したら病理医なんて要らなくなるよなー」

無知から出る発言だからあまり目くじらをたててもしょうがない。病理診断の現場なんて一般の人にはわからない。こういうのはある意味、「煽りツイート」に似ている。芸能人があることないこと言われて叩かれるのと構図としては同じだ。でも、クソリプ耐性がないお偉方はそれを聞いてすごく怒る。真に受けてしまうのである。

「なんだと!? 病理医の仕事を知りもしないで適当なことを言うな!」

だからこういう血管ブチ切れ系のステートメントが出る。そしてくり返すがその気持ちはわからなくもない。実際、大学などに勤めていると、極めて優秀だが現場のことは知らない医学生が、「病理医には未来がないのかあ」と絶望してほかの科に進んでしまうことは経験されるようである。あのクソリプさえなければ病理医のタマゴが一人増えたのに! と憤懣やるかたないお偉方が、ステートメントと称して医学生の興味をつなぎ止めようとするのは理解できる。


ところで、たまに、病理医さえもが、「AIが発展したら自分の仕事はどうなるかわからない」と言ったりするので混乱に拍車がかかっている。誰かが「自分の仕事」と言ったらそれは文字通り「その人の仕事」であって、ほかの病理医はともかく自分のやってる仕事はAIでもやれる程度のことなんですよテヘへ、くらいの意味で読めばいいのだけれど……。



さて、このようないわくつきのステートメントを深く理解して、イメージイラストを描いてくださった方がいる。北海道大学医学部の学生なので、ぼくの遠い後輩にあたる。いまどきの医学生にはこんなことまでできる人がいるのかと、びっくりしてしまった。





北海道大学医学部 佐々木美羽さんによるイラストの解説:

私がステートメントを読んでひらめいたイメージを、イラストにしてみました。まず思い浮かんだのは、病理医がAIを従え仕事するという主従関係です。AI単独では診断を下すことはできません。病理医が仕事の一部でAIを使うことで、より効率よく、精度の高い仕事ができる。この関係は、人と警察犬や救助犬などの関係にとても似ていると考えました。そこで、AIを犬(ロボット犬)に見立てて、病理医が組織の中を歩きながら診断していくというイメージにしようと決めました。

病理検体を見る作業は「組織のなかをくまなく探検して病変を探していくこと」なのだなと思っています。ですから、イラストでも顕微鏡の中の世界で組織の上を歩き回り冒険し、AIとともに病変部を探していくような世界を表してみました。

AIを用いた病理診断は現在試用段階で、これから実践的に導入されて当たり前のものになっていくだろうと言われています。ですから、未来の世界をイメージするように、ロボット犬や空間に浮かぶモニター、パネル、最近増えている女性の病理医がスタイリッシュに仕事をこなすところ、そんな要素を詰め込んでみました。



うーんすばらしい。個人的には病理医とAIロボ犬が歩く組織の「フロア」、おそらく血球系の腫瘍を探しているのだろうと思われる点にぐっと来た。血球系腫瘍はAI診断との相性が、「まだ悪いけど、たぶん、この先すごく良くなる」と思われるジャンルである(アフォーダンス診断の精度が上がれば一気に弁別能が上がりそう)。このセレクトは意図的なのか偶然なのかわからないけれど、意図的だとしたら大したものだ。偶然だとしてもカンがいい。


こんなイラストを医学生が考えて描いてくれるってこと自体が尊い。ほんとうは日本病理学会公式アカウントにツイートしてほしかった、そうしたらいろんな人に届いただろう。でもまあ今回はぼくがツイートしてブログの記事にする、このような取り組みが今後も若い人の中から練り上がってくることを楽しみにしている。

2021年10月29日金曜日

あさまシーソー

けん玉が得意な人に「けん玉が得意だからと言って偉いわけじゃない」といちいちつっかかってどうする。油絵を趣味にしている人に「油絵以外にも人生には大切なことが山ほどある」と説教するなんて野暮だしかわいそうではないか。


それと同じように、勉強ができる人、学歴が高い人に向かって「学校の成績がいいからって偉いわけじゃない」とか「勉強以外にも人生には大切なことが山ほどある」と言うことは嫌がらせだと思う。「頭の良さが学校の成績だけで決まると思うなよ」の一言が持つ暴力性に自覚的でありたいといつも感じる。多くのハラスメントが次々と糾弾されていく中で、「演算能力が高いこと」や「記憶力が高いこと」は、いまだに茶化してもいいもの、叩いてもいい存在だと思われているように思う。


この話をすると「弱者が強者に立ち向かうのはいいことだ」というピントのずれた反論がくることがある。問題はそこにあるのではなく、そもそも、彼我の間に強弱を設定して高低差ありきの議論をすること自体がくだらない。弱い者が強い者を引きずり下ろすことは、強弱を入れ替えて弱い者いじめの構図を保存しているだけだ。




……という話も、きっと、哲学や倫理学の世界ではすでにトピックスになり終えたものなのだろうな、という予感はある。「その話もうやったわ」みたいなことがいっぱいある。先人達が議論し終えたのになお、現場レベルで解決がなされていないということは、構造的にこの問題は解決不能なのかもしれない、という気もする。あるいは、解決することでほかの問題がむしろ大きくなる、という類いの話なのかもなと思う。

人間には、自分を弱い側に置いて、高低差をしっかり意識してから強い者の側を攻撃するという「指向性」がある。文字にするとおぞましいが、克己の物語、逆転の物語、革命の物語、これらには本能を悦ばせる何かが潜んでいるように思う。「そんなことをして何になる!」とまっすぐ突っ込むことは、半分合っていて半分間違っているのだろう、「ストレス解消になる」という理由に反論するのは思った以上に難しい。

正直に書くが、ぼくは叩く側に回った自称弱者をあさましいと感じる。「弱者」というポジションを受け入れたからには強弱の論理を是としたんじゃん、という気持ち。「弱者」と名乗ることで逆説的に強者の存在を盤石にしちゃってるじゃん、という感情。このように、弱者を名乗る人たちを攻撃しはじめている自分に気づいてはじめて構造が回る。叩いてはだめなのだ。怒ってはだめなのだ。なじってはだめなのだ。これだけわかっていてもなお、心の襞の裏から飛び出してくる「自分のデコボコのデコをどこかにぶつけ、ボコで何かを受け止めたい感情」を抑えられない。そういうことに自覚的でありたい。何かをがまんしてその先にもう少しいい風景を見たい。このように書くとまた、「がまんできない人もいるんですよ」という叱責が飛んでくる。

2021年10月28日木曜日

病理の話(591) 色あせるものと色あせないもの

患者から採取された検体の話。


たとえば胃がんの手術で胃を切ったり、肝臓がんの手術で肝臓の一部を切ったりしたあとのことを考える。


切った臓器はフニャフニャだ。そのまま保存すると劣化する、というか、いやな言い方をすると腐る(細菌やカビなどが繁殖する)。そこで、後々まで見返せるように、「固定」という作業をする。


これについては昆虫の標本だとか獣の剥製(はくせい)を思い浮かべてもらうといいかもしれない。品質を長く保つにはケミカルな処理をする。人間の臓器であればかの有名なホルマリンを使う。


現在、病理検査室で用いているホルマリンは10%緩衝ホルマリンという。詳しい話はしないが、この調合が一番いいとされている。何にいいかというと、「臓器の中にある細胞の、さらにその中にある遺伝子の情報までも保存しやすい」のである。病気になった臓器をとってきた際に、そのカタチだけ保てばよいというのであれば、鹿や熊の剥製みたいにすればいいのかもしれないが、ぼくたち病理医は臓器を外から見るだけで診断するわけではない。


細胞の中にあるDNAやRNAといった微細で繊細な物質が、経年劣化しないように。あとから遺伝子の検索ができるように。そこまで考えて、固定をする。


もっとも、ホルマリンが無敵なわけではない。5年も経つと劣化は避けられない。10年経つと遺伝子の細かい解析は厳しくなってくることが多い。そこで、病理ではさらに特殊な保存方法を加える。


ホルマリン固定標本の一部を切り出して、パラフィンというロウで固める。このとき、外側をただロウで固めてしまうのではなくて、細胞内にある水分を抜いて代わりにロウで充填するのだ。こうしてできあがった臓器の一部は「パラフィンブロック」と呼ばれる。


このパラフィンブロックは通称「永久標本」と呼ばれる。その名の通り、半永久的に品質が劣化しない(遺伝情報もあとから検索可能になっている)。


そして、パラフィンブロックの表面をうすーく切って(薄くというのは具体的には4 μmくらい、つまり髪の毛の太さよりも薄い)、スライドガラスに乗せて色を付けたものが、おなじみ(?)の病理組織プレパラートである。ここまでしてようやく顕微鏡での観察が可能となる。ただ、じつは、ガラスプレパラートに付けた色は10年ちょっと経つと褪色(たいしょく=色あせること)してしまう。ガラスを大事に取っておいても、20年も経つと染色がかすんでしまってうまく細胞が見えない。


そういうときは、保管しているパラフィンブロックを取り出してきて、ふたたび薄く切るところからやり直して、ガラスプレパラートを作り直せばよい。50年前の症例であっても色鮮やかに顕微鏡観察することができる。




こうして見返すと、生き物の情報を後世に残すには膨大な手間がかかっていることがわかる。そりゃあ昔のことがわからないわけだ、時の選別は厳しい。むしろ、樹液にトラップされた蚊であるとか、火山灰に埋もれた化石であるとか、そうやって何万年もあとに「元のかたちを推定できるくらいの状態で発見される」というのがどれだけ奇跡的なことなのかと驚いてしまうわけなのだけれども……。

2021年10月27日水曜日

病二十病

タイムラインに「柴犬とチワワのミックス」の話が出てきた。ツイ主が「シババかわいい」と言ったらペットショップの店員に「柴チワかわいいですよね」とやんわり訂正された、という胸熱エピソードだった。そこから連想がどちらに言ったかというとヒンドゥーのカミサマのほうに飛んでいった。おわかりかもしれないがシヴァ犬である。


Wikipediaによればシヴァは形の無い、無限の、超越的な、不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマン(自我、魂)だ。見た目の特徴は、額の第三の目、首に巻かれた蛇、三日月の装飾具、絡まる髪の毛から流れるガンジス川、武器であるトリシューラ(三叉の槍)、ダマル(太鼓)などで、インド、ネパール、スリランカなど全土で信仰されているという。以上はコピペしただけなんだけどこうして読んでみるとかなり強めの神様だ。


しかしシヴァといえばぼくにとってはファイナルファンタジー(FF)シリーズの召喚獣である。神様からいきなり使役されるケダモノ扱いなので申し訳ない感覚がある。どこかの国のゲームで神武天皇あたりが召喚獣として用いられていたら日本人はもやもやするんじゃないかな、とびくびく気を回したりする。まあ神様であればそんな些細なことを今さら気にも留めないのだろうが。


シヴァはFFだと氷の魔法を使う。でもWikipediaのどこを読んでもシヴァに氷らしさはない。ファイナルファンタジーでトリオを組まされるイメージのあるラムウ・イフリートなども原典にはいっさい出てこない、というか、本来インドでシヴァと並び称されるのはヴィシュヌでありブラフマーだ。ううむここまでアレンジしてあるものなんだな。逆か、アレンジしないと堂々とは使えないのか。「名前は似てるけど響きがかっこいいからたまたま似ただけで別モノだよ」と理解したほうがいいのかもしれない。


と、ここでタイムラインで知ったのだがグランブルーファンタジーに出てくるシヴァは炎属性なんだって? ははーなるほどなー、本当にゲームごとに好き勝手に変えていくんだなあ。おもしれえなあ。




さてここからはかわいい中二病の話になる。中学生のころにこっそりと書いていたゲームブック的小説がある。ぼくもきちんとそういう時代を過ごしていた。リングノートの小さいやつみたいなのにイラストもりもりでファンタジーを書きためた。もし今発掘されてネットに流れたら5G回線ごと世界を無にして私も消えよう。永久に。その中に出てきた登場人物の名前、かっこいいと思って付ける語彙、所詮は中学生であって、いくつも選択肢があるわけではないので、どうしても狭い観測範囲で「あっ」と思ったものから名付けることになる。そのうち一つは国語か社会の教科書に書いてあった「アーカンサス十字唐草文様」で、そのままアーカンサスという名前の登場人物がいた。書いていて血圧が300もしくは30になる(どちらであっても命にかかわっています)。

そしてもうひとり、これは後にけっこう「ああ……これいつか書こう……」と思ってもはずかしくてなかなか書けなかった話なのだけれど(一度たぶん書いたけど)、ヴュロスという名前のキャラもいた。たぶんウにテンテンのついた名前を使いたかったのである。元ネタはない、たぶんカタカナを書いて調整して作った。のちにふと思い出して、そういえばヴュロス的なかっこいい英単語とかないのかな、と思って検索したのだけれど、中学生が適当に考えた名前に後付けでかっこいい由来が生まれるわけもない。いろいろ探しているとbullous(水疱症)というのがちょっと近いかなと思ったけれどこれもウにテンテンではない(ビュだ)。そうこうしているうちに中二病は自然消退し、黒歴史は色と同じ棚の中にしまいこまれて引っ越しをくり返すうちに全て散逸してしまった。

そして今ふと、vullosで検索を書けてみると知らないものがヒットした。Vullo'sというピザ屋さんがドイツのKulmbachという田舎町にあるようなのである。ぼくはなんだか旅に出たくなってしまった、ちなみに検索したものを見てすぐに旅に出たくなるのは中二病と当たらずとも遠からぬものを感じる。病理医二十年目あたりでこのヤマイは重くなりそうな予感がある。2022年の4月になるとぼくは十九年目だ、もうすぐではないか、病二十病と名付けて警戒を怠らないようにする。

2021年10月26日火曜日

病理の話(590) アンケートのその他欄を大事にしましょうねという話

病理診断においては、顕微鏡を見て細胞のあれこれを確認したあとに「病理診断報告書」を書く。これ、慣例的に「レポート」と呼ばれることが多い。英語に忠実に読むならば「リポート」のほうが正しいのだろうが、医療現場ではもっぱらレポートと発音される。ちなみにreportをドイツ語読みするとレポートになるからその名残なのかもしれない。最近の医者が使うドイツ語なんて「カルテ」くらいだと思っていたが、たぶん、まだあったね。

レポートの書き方についてはいろいろと流儀がある。ただし、なんでも好き勝手に書いていいわけではない。たとえば「この臓器のこのタイプの癌だったらこのような項目を穴埋めしなさい」という統一した基準がある。あまり実際の例を挙げるのはよくないのだが、さすがに具体的に言わないとわからないだろうから、以下に軽く実例を出す。


<例1:胃癌>
・切除方法
・部位(長軸方向)
・部位(短軸方向)
・肉眼形態(隆起しているか陥凹しているかなどを決まった書き方で)
・病変の大きさ
・組織型(※)
・がんがどれほど深く壁の中に潜り込んでいるのか
・がんがまばらに染み込んでいるか、カタマリになっているか
・リンパ管や静脈といった細かい管にがんが入り込んでいないかどうか
・消化性潰瘍の合併があるか
・がんが採り切れているか
・リンパ節に転移があるか
・ほかの部位に転移があるか
・手術の際に行った「お腹の中を洗った水」の中にがん細胞が紛れていないか
・ステージング(病期)


<例2:皮膚癌――の中でも特に有棘細胞癌や基底細胞癌の場合>
・部位とサイズ
・病変の境界がはっきりしているかあいまいか
・初発か、再発か
・分化度(※)
・特殊な組織型(※)
・神経や血管の中にがんが入っていないか
・どれくらい深くがんが染み込んでいるか
・腫瘍の厚さ


だいたいこのようなかんじで、場所や病気の種類ごとに、箇条書きでチェックする項目が変わってくる。

でも、このような、アンケート用紙にチェックを入れていくように穴埋めだけしていればレポートが完成するかというと、そうでもない。

アンケートだけで仕事になるのは、日によるけれど、病理医が一日に診断する量のうち、4~7割くらいだ。少ない日でも3割、多いときには6割くらいの症例は、アンケートの「その他欄」にいろいろ書き込まなければいけない。


なぜ「アンケートのその他欄」がだいじなのか?


それは、ある病気が示す像……病像……が、必ずその人固有のものであるからだ。われわれは常に、ある病気をどこかに分類して、それに応じて治療を選ぼうとするのだけれども、世に同じ顔をした人が基本的にいないのといっしょで、「同じ顔付きをした病気」もまた存在しない。一期一会のくり返しである。

もちろん、治療や対処方法は無限に存在するわけではないから、どこかに落とし込まないといけない。でも、その「落とし込み」は科学が進歩するごとに少しずつ変わっていくので、注意しなければいけない。

たとえば、むかしは「風邪」といったらいろいろな概念を含んだ。鼻水が出ても風邪だし、喉が痛くても風邪だし、頭が痛くても風邪だしお腹をこわしても風邪と呼んでいた。しかし新型感染症がうるさい昨今、「風邪」といってもいろいろあるということは周知の通りである。インフルエンザと新型コロナウイルスとそれ以外のウイルスによる風邪とではすべて対処方法が微妙に異なるだろう、学校を休む期間だって違う。科学がすすむと、病気の分類はより精度が高くなる。

これといっしょで、たとえばかつて大腸で「充実型低分化腺癌」と呼ばれていた病気の一部は、今は「髄様癌」という別の名前が付けられることがある。名前が変わっただけならばさほど影響はなさそうだけれど、じつは髄様癌と名付けられる病気はほかの病気と違う性質を示すのではないかと言われ始めた。

このとき、たとえば20年前に診断した大腸癌のレポートに、ただアンケートの穴埋めをしただけで

□高分化型
□中分化型
□低分化型(非充実)
☑低分化型(充実)
□その他(具体的に:       )

と診断してしまっていると、これが髄様癌なのかどうかはまるでわからない。もう一度プレパラートを見直さないと確認ができない。

しかし、病理医が勤勉で、アンケートの「その他」欄に、以下のように書いてあると……

□高分化型
□中分化型
□低分化型(非充実)
☑低分化型(充実)
□その他(具体的に: 腫瘍胞巣は充実性で胞巣内部にTリンパ球の浸潤が目立ち、病変から離れた周囲腸管内にCrohn-like reactionを伴っている。)

これは後に見出された「髄様癌」だろうな、ということが、その他欄を見ただけでわかるのだ。





病気の本質を科学が常に言い当てているとは限らない。科学というのは常に進歩し続ける性質のもので、ある時点で用いている「科学的な分類=診断」は、未来には必ずより適切なかたちで更新される。これを「昔は間違っていた」という意味でとらえては不正確であり、常に最新のものが一番「本質に近づいている」と考える。詭弁のようだがここをしっかりわかっておく必要がある。

そして、「診断は古びるが、所見は古びない」。アンケートの分類項目をあとから変更すれば、アンケートの大半は無効になってしまうだろう、しかし、「その他欄」に書かれた内容には影響しない。その他欄に細かく記載のあるアンケートは何年経って見直しても意味を取り出すことができる。病理診断レポートでも、それと同じ事をやっている。その他欄に何も書かない病理医は瞬間に生きている。……今のは一部の病理医に忖度しただけで本当はこう言うべきだ、「その他欄に何も書かない病理医は未来に残せるレポートを書く気が無い」。

2021年10月25日月曜日

脳だけが旅をする

瞬間的に通信速度が低下していたらしく、ブログ投稿用ページを開いたら多くのアイコンが表示されずに「□」になっていた。




昔、たしか『火の鳥』で、事故で体を機械に取り替えた主人公が見る風景がぜんぶ「カクカク」になってしまう、という話を読んだ覚えがある。心が機械に近づいてしまうと、有機物(タンパク質を含む生命)がすべて無機物(金属など)に見えてしまう、という意味の描写だったのだろうな。今思い出しても(一部うろ覚えではあるけれど)とんでもない想像力だ、いったいどんな「経験」を経るとそんな情景を考え付くのかと、ため息が出る。

さてこのような描写は本当に「経験」に裏打ちされたものなのだろうか、という話。

手塚治虫のすさまじい描写というと『アドルフに告ぐ』の巨大ドクロ的コマであるとか、『火の鳥 鳳凰編』で我王が(これもすばらしいネーミングだが)火の鳥のシルエットをバックにわかったわかりましたと悟得するシーンであるとか、いわゆる抽象表現のほうをすぐに想起してしまうのだけれど、先ほどの「無機物に見える」のように抽象どころかある意味具体の極みだな、という描写もあるから平伏するしかない。

手塚治虫はべつにブログをやっていなかったからぼくの今見ているような「□の並んだ風景」のような気づきがあったわけでもなかろう、というかそもそもあの時代にはインターネットがない。小説や映画の元ネタがあるのかもしれないが、あれだけ多作で忙しかったマンガ家が果たしてどこまで「インスピレーションのための取材」をできていたものか。



「クリエイティブのためにはさまざまな作品をどんどん読んで目を養うべきだ」という文章を書く人を、そろそろ信用できなくなってきた。猛烈な量の作品を読んだ、映画を観た、旅行をしたというわりに、書くことがみんな一緒だからクリエイティビティを感じない。説得力がないのである。「自分はクリエイションをさらさらっとやれてしまうから時間が余っており、稼いだカネもあるから、いっぱいいろんなコンテンツを体験できてすごいだろう、うらやましいだろう」というマウント以外に内容がないのであきれてしまう。そもそも、ほんとうにさまざまな表現に触れたのならば、そこから立ち上がってくる「その人のシルエット」がないと本来おかしい。猛烈な量のテクスチャがキャンパスにコラージュされていく中で、撥水加工をされたエンブレムのように、周りの喧噪に飲み込まれないぽかんと空いたスキマがあって、その内部に熱ばかりが蓄積されていくのだ、ぼくはそこに目が釘付けになって、空洞の向こうから遠雷のように腹に響く、誰に借りた言葉でもないその人自身の心の奥底から発せられる「呼びかけ」みたいなもの、そのようなものが一切感じられない「クリエイティブのためにはさまざまな作品をどんどん読んで目を養うべきだ」にはうんざりしている。

逆に、手塚治虫にしろ、藤子F不二雄にしろ、「マンガを描く以外の作業ができないほど忙しかったはずなのに生涯にわたってアイディアを出し続けた人」の脳にぼくは強烈な吸引力を感じる。もちろん彼らも若い頃から旅をしたりSFを読んだり、先行者たちのすばらしいものをいっぱい摂取していたのだろうけれど、もっともいい作品を生み出していた全盛期に「クリエイティブのために」コンテンツを取り込むことをやっていたようには思えない。脳内に若い頃の経験をいくら貯金していたとしても、仕事を続けている間にとっくに枯渇していただろう。なのに彼らはクリエイティブであり続けた、それはいったいどういうことなんだろう、心のどこに潜り込めばあんなに誰も知らない言葉を掘り出すことができるのか?

映画をいっぱい観れば役に立つ、なんて気分で映画を観ている人とは話が合わない。脳だけで旅をして、妄想を妄想のままに留めずに自分の皮膚の外縁から外界に滲み出させることに全力でいる、そういう人たちの言葉のほうがふくよかであると感じる。よいコンテンツを経験することを「出力のため」だなどと、もし本当にそう考えてやっているのだったら、その人はもはやクリエイティブなことはできていないしこれからもできないと思う。心が求めている以外の理由で経験を積まないでほしい。積んだ経験が生み出した表現だなどという恥ずかしいことを言わないでほしい。脳はもっと何億倍も複雑な畳み込み式回路だ。「○○のために」という呪いの言葉に囚われてはいけない。やりたいからやる、やるべきことをやる。「のために」の向こう側で何かをインプットし、「のために」を蹴り飛ばしながら何かをアウトプットするのだ。

2021年10月22日金曜日

病理の話(589) タンパク質ばっかりに偉そうな顔させんなよ

人体のあらゆる細胞には「核」が含まれており、核の中にはDNAが格納されている。DNAは設計図のようなはたらきをしており、細胞がもつ様々なパーツをどのように作るかが記載されている。

DNAという設計図には日本語や英語が書かれているわけではない。A,T,G,Cという四つの文字が並んでいるだけだ。

DNAに書かれた謎の文章を実際に読んでみよう。たとえば、AGCTTCGAAという文字列があったら、AGC, TTC, GAA, のように、3つ刻みで解読するといい。これらはそれぞれセリン、フェニルアラニン、グルタミン酸のようなアミノ酸という「レゴブロック」に対応する。さっきのAGCTTCGAAという文字列は、「セリン…フェニルアラニン…グルタミン酸の順番でレゴブロックを1列につないでくださいね」という意味に読める。

レゴブロックをつなげたものがタンパク質と呼ばれる。タンパク質にはアミノ酸レゴが何百万個も含まれている(もっと少ない場合も、もっと多い場合もある)。

レゴを一列につなげただけでは、さまざまな機能を持つタンパク質にはならない。つながったアミノ酸たちはなんかいろいろあって、絡まる、すなわちダマになる。ダマになって途中でブチブチ切れたり繋ぎ直されたりする。こうして最終的にタンパク質になる。


ここまでが「おさらい」。でも大事なことです。今日はこれをふまえて別の話。


人体のあらゆる物質が基本的にはタンパク質でできている。しかし、タンパク質だけだとサポートしきれない機能もある。普通に考えて、レゴだけで人体は作れないと思うだろう。そこで、人体は「DNAを読んでアミノ酸を並べてタンパク質をつくる」以外にも、(知名度的に)マイナーな仕組みをいくつか持っている。


そのひとつが脂肪の活用であり、もう一つは糖の活用だ。脂肪も糖もタンパク質ではないので(食べ物に表示されている栄養分でおなじみだからなんとなくおわかりだろうが)、DNAプログラム→アミノ酸配列の仕組みじゃないところで人体のパーツになるためにさまざまに加工される。もっとも、体内で脂肪や糖を運んで組み上げる物質自体がタンパク質でできているので(目が回りそうな文章だ)、結局はDNAって裏でなんでもやってんな、という話にはなるのだけれど。


脂肪のはたらきとしてとても大切なのは「細胞膜になる」ということである。つまりは細胞の入れ物、器の役目をする。これはとても大事なことだ。器によって「ここまでがひとつの細胞ですよ」という境界をはっきりさせることができる……でもこの説明だと抽象的すぎるなあ、より化学的に説明するならば、「細胞膜という境界があることで、境界の内外に濃度の差を作ることができる」というのが大事である。ここはブログが2000本くらい書ける話になるのであまり深煎り、じゃなかった深入りしないけれど、雑なたとえで説明しよう。波ひとつ経たないような静かな湖では水力発電はできないけれど、高低差があって水が流れ出して川になれば発電はできる。さらに言えば、ダムを造って高低差を強化することで、水力発電はより効果的に行える。ここで大事なのはダムという「差をつくるためのせき止め」だ。細胞膜は、細胞がさまざまな発電的活動をするためのダムの役目を果たす。アァー細胞警察がやってきて「ほかにも細胞膜の機能は2000個くらいあるだろ!」と怒られそうだけれど今日はこれくらいにさせてください。話を脂肪に戻そう。ラーメンのどんぶりに浮かぶアブラのように、脂肪は水をはじく性質がある。これがみずみずしい細胞において「ダム」としての役目を果たす。


脂肪はダムとして水のせき止めを行うだけでなく、脂肪の仲間を自由に通過させたり取り込んだりする性質もあってこれも地味に役に立つ。「トントン」「誰だ」「水です」「くせもの!通さん!」「トントン」「誰だ」「脂肪です」「よし、入れ!」という感じである。ところでさっきラーメンのたとえを用いたが、クセと香りの強い香辛料や魚のアラなどを油で炒めてから、その油を用いてラーメンのスープを作ると、「油に香りを移す」ことができるらしい(自分でやったことはない)。これは、油が油(香りの成分のひとつ)と混ざりやすい性質を利用しているようだ。一部のうまみ成分のように水に溶けてくれるものならば、コンブやカツオブシで出汁をとるように、お湯に成分を移せばよいのだけれど、香りの主成分は油脂を含むので、アブラに成分を移すことで香味油として用いることで料理に用いる。なんの豆知識だ。豆と言えば豆板醤ってすばらしい調味料ですよね。


さて、脂肪の話をすると、体内で水は邪魔者扱いを受けている気分になってくるが、あたりまえだけれど水は生命の要である。細胞の各所に水をきちんと保持しておきたいシーンは多い。脂肪で水をはじくだけではなく、なんらかの物質で水を保つことも考える。

人体内で水分を保つためには、水を通さない容器やパイプの中に密閉して循環させるのがいい。血液を心臓・血管に閉じ込めて循環させるというのがまさにこれだ。実に合目的で、優れた機能である。しかし、血管の外で水をある一定の箇所に保ち続ける方法もほしい。あちこちの細胞でも水は使いたい。

そこで登場するのが、糖だ。


糖は、べたべたする。


うわー小学生みたいな一文を書きました! でもこれが本質である。糖があるとそこには水が寄ってくる。イメージとしては水飴(アメ)みたいな状態を作れる。水分を保つならばそのまま置いとくより水飴にしたほうが扱いやすい(水のまんまで置いとくと流れちゃう)。では、人体の中で水飴的なものってなんだろう? 2秒あげるので考えてみてください。なおこの2秒はあなたが光速に近い移動をすることで引き延ばすことができます。


(とても早く移動)


はい地球上では2秒たちました、ではお答えします。人体の中で水飴みたいなものといえば粘液である。粘液? 見たことないが? という人は鼻をかんで欲しい。さらさらの鼻水しか出ないかもしれないがときにはねっとりした鼻水が出ることもあるだろう。あれが粘液だ。


粘液というのは液状成分であってタンパクがどうとか関係ないんじゃないの? と思いがちだがあそこには「粘液コアタンパク」と呼ばれるタンパク質が含まれている。さらに、このタンパク質には糖がぶっ刺さっている。「糖鎖修飾」と言って、タンパク質のカタマリに糖を刺すことで、水を引き寄せるはたらきを強化している。ベトベトにするために糖を使う。


脂肪を使って水をよけ、糖を使って水を引き寄せる。あらまあ、いろいろやっていらっしゃること。


脂肪や糖はタンパク質よりも研究の歴史が浅いが、20年くらい前にはすでにトピックスになっていたし、今も活発に研究が進んでいる。DNAやアミノ酸、タンパク質ばかりに偉そうな顔させんなよ、という声が聞こえてきそうだ。

2021年10月21日木曜日

ぞうよぞうなのよ

岸田奈美さんがなんでも手伝ってくれるというので、ぼくはいろいろ考えた。noteの好意的読者数が日本一多い作家である岸田さんがひとたび「推す!」と言ったらば、ものすごい宣伝効果になるわけで、こんなありがたい話に、その場でスッと「じゃああの医療系イベントの広報を手伝ってください!」と言えればよかったのかもしれないけれども、具体的なイメージを膨らませようとしてもなぜかイメージが途中でブロックされるような感覚があり、しのごのと言いよどんだ。

他人が躊躇する心持ちを察するのが極めて早い(人生ランキングでいうと第2位、1位はぼく)岸田さんは、すかさず、

「たとえば、副音声とかどうです?」

と具体例を挙げてくださった。副音声? なんだそれは? とはぼくは全く思わない、このとき岸田さんの脳にあるイメージは過不足無く伝わった。ぼくは自分の気質の部分に「岸田分」(栄養分と同じ発音で)を40%くらい含んでいるから、岸田さんの想定した光景をそのまま理解することができた。「ノールックで脳内コンパネのスイッチをパチンパチン指で倒しながら、ゼロコンマ数秒で周囲360度から飛びかかってくるミサイルを迎撃するようなしゃべり」ができる岸田さん(とぼく)は、UIもCPUもメモリも、副音声解説という芸に向いている。わかる……と思った。それは強力だ……とうれしくなった。しかし、次の瞬間には、「岸田さんを『副』においておくなんてもったいない、この方はほんらい『主』であるべきだ」という正義感のようなものにせき止められて、風船のようにふくらむイメージの元栓をひねってとめるのであった。どうでもいい話だが、かつてnote社がイベントを開いたときに、岸田さんを出演者にせずに「遊撃隊」にしてもっぱらツイッター担当をさせたことがあった(と思った。勝手にそう見ていた)のだが本当におろかな話だ。岸田さんを広告塔にしか使えないなんてクリエイティブという言葉をはき違えていると思った。閑話休題。

そんな岸田さんが与えてくれたチャンスにぼくはなぜ即答できないのか。理由についてはひとまずその場で言語化しておいた(ただし口には出さなかった)。端的に言えば「ぼくの活動を岸田さんに応援してもらうことで岸田さんにとって何かいいことがあるのか?」というところが気になるのだ。いや、わかる、情けは人のためならずという言葉もある、剣道部の先輩もかつて、「俺がおごった金額は俺に返さなくていいから、お前の後輩にその分おごってやれ」と言った、それと一緒なのだ、このように申し出てくださる人というのは「自分のためになるかどうか」というのを同じ時間軸で考えていない。利潤を活動と同じ平面上に載っけない。レイヤーが違う。だから岸田さんが何かしてくれると言ったときに、「でもこの活動で岸田さんに何かいいことが起こるかというと……」と躊躇するのはピントがずれている。そんなことはぼくもわかっている。

だからその後考え直し、「贈与なんだから受け取ったらいいのに」というのはぼくの躊躇を説得できる理由にはならないのだということを確認した。ぼくは、岸田さんに何かをしてもらってぼくの活動をパワーアップすることよりも、おそらく心のどこかで、「岸田さんとぼくが組んだら何かおもしろいことがやれるのではないか」という、すでに育っている若木に水をやるのではなくて種から作って森を目指すほうがいいんじゃないか、みたいなことを内心考えていたのだ。だから、「ぼくの何かを手伝いますよ」と言われたときに瞬間的に「もったいない!」と考えてしまったのだと思う。岸田さんとならできる、岸田さんとなら可能性がある、なんてことを岸田さんの都合も聞かずにぼくのなかでここしばらく温めていたのだからこちらのほうが厚顔無恥だし無礼なのかもしれない。おとなしく「あの件の広報を手伝ってください」のほうが岸田さんにとってもかえって負担は少ないであろう。しかし……なんというか……


岸田さんに家に来てもらって掃除を手伝わせ料理を持ってきてもらってホームパーティーを華やかにするよりも、岸田さんといっしょに旅に出たほうがおもしろいんじゃないのか……(※すべて接頭語「脳内で」を付けて読んでください)


という気持ちがあった。よりおぞましい話になった気がしないでもないが、これがおそらくぼくの根本にある考え方なのだ。他人に贈与をするときの最上の形は、基本的に物ではなく旅路を贈ることで達成されるのではないかと思う。このことがわかっている医学書院のメガネのイケメンは、かつてぼくのツイッターでの(本をめぐる)やりとりを聞いて、


「エアリプでのコール&レスポンスってすごいですね。

もはや贈与でしょう、これは。」


と言った。贈与というのは返礼を期待せずにモノを贈る行為、それはまあ合っているのだけれど、贈与というのはたぶん、世界をよくするためにモノを隣に手渡し続ける、という太古の人類の風習などでは説明しきれない概念で、エアリプがいつのまにかタイムラインを作っているようなものなのだと思う。


というわけでぼくは岸田さんとそのうち旅をする可能性がある。脳だけが旅をするというブログをやっていると、こういうとき助かる、なぜならば、意味が複数用意できるからだ。