2021年11月19日金曜日

ときどき考えときどき存在

ブログに書くことがない日というのはない。なぜなら考えていない日というのがないからだ。ただし、この記事をどれだけの人が楽しく読んでくれるだろうか、ということを考え出すと、とたんに「書けない日」が出てくる。

何かを書ける、書けないという切り分けをするにあたって、人の目線、他者からの圧力みたいなものが決め手になる。

いや違うぞ、他人はどうでもいい、うちなる自分がその文章を良いと思うかどうかだ、みたいな話もあるだろう。そういう人は自分の中に「自分を客観視するもうひとつの人格」を作っている。でも、内部に自作の他者を用意してそこからの目線と圧力をバネにものを書いているわけで、うん、別に、たいして変わらないんじゃないかな、と思わなくもない。

厳密なことを言えば、自分が用意した「内にいる他者」は、偶発的に飛びかかってくる予測不可能の「外の他者」とは異なる。所詮は自分が作り上げた他者なんて、自分の想像の範囲内におさまることがほとんどだろう。そこがつまらないなと思う。「自分が自分の文章を良いと思うかどうかだ」などというセリフ、一見高尚なことを言っているかのようにも聞こえるけれど、なんだかたいしたことがない気もしてくる。自分の予測が及ぶ範囲で納得できればいい文章だなんて。

本を作る上で、編集者に伴走してもらうことの必要性は、こういうところに端を発しているのだろう。

ところで唐突だが「日記」の話をする。日記は他者はおろか、内なる他者、すなわち自分自身が「つまらんな」と思いうような内容でも一切かまわない。「書くことがあるかどうか」だけがポイント。人間が考えない日というのはないので、日記を書けない日というのは存在しないことになる。

しかし「日記的散文を載せているブログ」となると話は複雑になってくる。「どう読まれてもかまわないしそもそも誰も読んでいなくてもよい、誰かに何かを与えることも考えずにただあったことを書いているだけだ」という文章が持つ、「見られたさ」みたいなもののことを最近よく考える。誰も見ないのを良いことに、あったことと考えたことを好き勝手に書く、という「恣意」には多くの人が気づいている。他者の反応を受け入れませんよ、という宣言のわりに、他者のニーズに応えませんよ、という看板のわりに、日記的散文というのはしばしば他人からの反応をもって変節していく。どうもこのあたり、人生だな、と雑にまとめたくなってくる。

ところで、Twitterの可能性は「日記」ならぬ「秒記」にあると感じる。つぶやくという単語の根底にあるニュアンスは日記のそれに近い。そして、人間に「考えていない日」というのがないように、じつは「考えていない秒」もないとすると、そこから漏れてくるものを書けるものなら書こうかなと思う人がTwitterにハマっていくのだろう。ツイートを人に見せて商売がどうとか、反応をもらって引用RTしてどうとかいうのは、日記を切り売りするということに近い。






ポール・ヴァレリーという人は、デカルトの「我思う故に我あり」に皮肉をぶつけて、「じゃあ私はときどき考えているからときどき存在しているよ」と言ったという。元ネタをどこで読んだのか忘れてしまったが10年以上前、ぼくはTwitterという秒記の存在意義は「ときどき考え、ときどき存在」にあるのではないか、と考えていた。今ふと思ったけど「秒記」とは「病気」と同じ発音である。