2021年11月18日木曜日

病理の話(598) がんばれお医者さん

医者になって5年目とか7年目とかになると、「論文」を書かなければいけない。


……いや、ま、書かなくてもいい。毎日患者と向かい合って真摯にベッドサイドで奮闘していけば、それで医者としての最低限の仕事は果たせる。……たぶん。おそらく。


でも本当はそれじゃだめだと思う。医者は、患者に真摯に向かい合う「ために」論文を書かなければいけないのだ。


なぜなら、あらゆる医者は、「他人が書いた論文(や、教科書)」の御利益ではたらいているからである。




すっかり有名な言葉になってしまった「エビデンス」という言葉。まるで古代ローマのコロシアムみたいな雰囲気の単語であり、重厚・絶対のニュアンスを感じるわけだけれど、エビデンスというのは別にカミサマが用意してくれた石板に書いてあるわけではない。ぜんぶ、先達(せんだつ)の医者たち・研究者たちが、しっかりと研究をして、論文を書いて、その結果をさらにまとめあげて教科書などにして、歴史とともにできあがってきたものだ。

たとえば、ある病気を医者が見抜くために、いくつもの身体診察、血液検査、CTなどの画像検査を行うわけだけれど、このときに、


「お腹をおして痛がったらこの病気かも」


とか、


「血液データでこれとこれの値が異常だったら要注意かも」


とか、


「CTでこの臓器に何かができていたらあるいは……」


みたいな話は、全部、本当に全部、誰かが過去に論文にしている


だから医者は安心して、「過去の論文によれば、この血液データとこの血液データが異常なこの患者に、こういう所見がとれたら、こう診断して、こう治療をすると、けっこうよくなる」ということを言える。


論文になっていない医学などあってはいけない。

数千、数万、数十万、ときには数千万人という規模の「過去の医者」が、とっかえひっかえ苦労して編み出した手法を受け継いでおくことがどれだけ大切か。仮にその病気の患者を過去に診たことがなくても、医者が先人達の知恵を使って戦うことができることの、尊さたるや……。



というわけですべての医者は論文や教科書をきちんと理解して診療に臨むのだが、このとき、論文という専門の文章を読むにはけっこうエグいコツがいる。


情報量がとても多いし、クセがあるし、難しい言葉や概念も用いられている。だから、「論文を読みながら医者として働き続ける」にもけっこう訓練しなければいけないのだけれど。


この、「論文を読むための訓練」として、おそらくもっとも有効なのが、「自分でも論文を書いてみること」なのである。フラジャイルの岸京一郎も宮崎に同じことを言っていた。「何本か論文書いてみればわかるよ」と。




過去の医者が、どういうプロセスで、どういうデータを集めて、どう考えて論文にまとめたのか。その表と裏の部分。ひだとひだの間に隠れたニュアンス。現場でしか体感できない空気のようなもの。これらをまるっと理解しようと思ったら、早いうちに論文を書くに越したことはないのだ。だから、医者になって5年目とか7年目とかになったら、「論文」を書かなければいけない。多くの指導者はそう思っている。



まあ人生が一番忙しいころでもあるんだよね、5年目とか7年目というのは。長い学生生活を終えて初期研修、後期研修と終わって、ようやく収入が安定しつつあるころだ。もっとも若くても31歳、それまでのキャリア次第では30代後半とか40代なんてこともザラ。ふつうの企業人だとそろそろ仕事も任されまくっているころなのかな、とか妄想をふくらませながら、医師免許をとって5年以上が経っているのにまだ上司に言われて論文を書かなければいけないんだから、たいへんだ。でも、これをやるのとやらないのとでは、「その後の伸び」がだいぶ違うと思う。がんばれお医者さん。