2022年10月31日月曜日

病理の話(711) 同じところで何度も間違う

病理診断はひとりでやるとけっこうミスる。診断の大事な部分をごっそり間違うというのはプロとしては致命的であり、あんまり起こってほしくないし起こらないように気を付けるとしても、小さいミスはそれなりの頻度で起こる。たとえばこういうやつ。


×「断端は院生です。」

○「断端は陰性です。」



いきなり大学院生が出てきて笑ってしまうわけだが、しかしこの誤字、冷静に考えるとけっこう難しくて真顔になってしまう。なにせ、一文字目のこざと偏も二文字目の「生」も共通しているので、サーッと見直すだけだと誤字っていることに気づかない。困ったものだ。

誤字くらいいいじゃない、みたいな感覚の人もいるかもしれないけれど、文字で多くを伝えなければいけない病理診断報告書で文字を間違うというのは普通に冷や汗案件である。

たとえばある癌の診断をする際に、箇条書き項目のひとつに「pT1a」と書くべきところを、うっかり「pT1b」と書いてしまうと……たった1文字の違いなのだが……その後の治療がガラッと変わるなんてことが普通にある。手術をひとつ追加するかしないかくらいの大げさな違いがある。一文字たりとも気は抜けない。


とは言え。

病理医は基本的に「自分は書いている文字をまちがう生き物です。」という看板を首から提げながら暮らすべきである。

人間は必ず間違う。そのことを織り込み済みで仕事をする。必発するヒューマンエラーを、システムでカバーする。システムと書いたけれど実際にはわりと単純で、「もう一人の病理医に見てもらう」。これだけでだいぶミスは減る。

逆に言えば、「病理医がもう一人いない環境」で働くのはすごく辛いということだ。「一人病理医体制」は本当にきびしい。たった一人で毎日何十枚ものレポートを書いていると、数日に一度の割合で誤字を起こす。だから、自分でいったん書いたものを、時間を置いてまた見直すようにする。セルフ・ダブルチェック。これだと時間が2倍かかるので仕事量がえらいことになるが、いわゆる一人病理医はみんなこの種のダブルチェックをやっている。ていうか、たまに「ダブルチェックなんてやっていない」という病理医もいるが、そういう人の診断書はすぐに誤字を出すので、その界隈で有名になっており、評判も下がって、いつしかいなくなっている。


さて、誤字などのミスを防ぐために複数の病理医で同じプレパラートを見ていると、誤字自体はだんだん減っていくのだが、なかには「何度言ってもなかなか直らない、その人に固有のミス」みたいなものが浮き彫りになったりもする。

たとえば、「書くべき『あの所見』をいっつも書かない」みたいな。

何度指摘しても胎盤病理における有核赤血球を書き漏らす。昨日も言われたばかりなのに左側結腸のパネート細胞を記載し忘れる。

こういうのは誤字よりもしつこいのだ。なかなか直せないタイプの悪癖である。

かく言う私自身も、ボスに何度も同じ間違いを指摘された。

その経験を踏まえて今、自分より下の人間が何かを間違ったときに、心がけていることがある。まあボスの真似なのだけれども。


とにかく、「同じ事を何度も言うことにひるまない」ことが大事なようだ。


「何度言えばわかるんだ!」は論外。「昨日も言ったけどさあ」くらいのイヤミもやめておく。それが、何度も間違う病理医を……いや、すべての医師を指導するときの心構えではないかと思う。


研修者が同じ間違いをしたと気づいても、指導医は最初にその間違いを指摘したときと同じテンションで、くり返し丁寧に指導したほうがいい。「前と同じ間違いをした人間性を責める」ことをちょっとでもやってしまうと、ミスそのものの詳細が頭からすっとんで、「ミスした自分」にフォーカスが合ってしまう。フォーカスを合わすならば「ミスそのもの」に合わさないと、そのミスを生じさせるに至った脳の構造みたいなものがなかなか直らない。特に、人間性を責めはじめるとぜんぜん本当に直らないのだ。


だいたい、「あいつ何度言っても直らねぇんだよな」という言い方をする目上の人間は、9割方、「それほど何度も言ってない」。一度言ってあとはめんどくさがっていることがほとんどだ。「前も言ったろ!」だけでそれ以上言わないのは単純にサボりである。

最近の人間は一度聞いただけですべてを覚える能力なんて育てていない。TikTokを見ればわかるだろう。似たようなコンテンツを手を変え品を変え摂取し続けることで次第に曲を覚えていく感じ。最初に誰が歌ってたかなんて誰も覚えていないが、「何度も耳にしたから知ってるよ」だけが残る。

「一度しか言わないからよく聞け」の理不尽さが昔から気になっていた。大事なことなら何度でも言うべきなのにそれをしない指導者のほうが悪いのである……というのを、ボスを見習いながら毎日心に刻んで指導をしている。もちろん、ときどき指導の仕方を間違ったりもするのだけれど、なるべく同じ間違いをおかさないように。

2022年10月28日金曜日

2ツイート分あるいは寄り道の刈り込み

自分が忙しい理由をつらつら書いていたけれど、このまま書き進めても一本の記事にはならないと思って、だいたい2ツイート分くらいの文章を消して、また書き始めたところである。多くの場合、2ツイート分くらい書くと、そのまま続けて書いて最後まで行けるかどうかがわかる。

何に対しても言えることかもしれない。ちょっとやり始めてみることで、「あ、これ、だめだな」とか、「お、わりと、行けるか?」みたいな感覚がわりと早期にわかる。最初の2ツイをひとまず書いてみることが大事だと思う。ツイートや文章に限らず、何につけても。


今、2ツイート分書いてみて、なんとなくこのまま書けそうだなと思ったので、今度は最後まで書いてみる。


もちろんいつもこの2ツイ予想がうまくいくわけではない。特に、「なんかこれおもしろくなさそうだな」と思っても、がまんして書き続けていくうちに何かが出てくることはあるので、毎回2ツイで先をあきらめているわけでもない。アニメの第1話を見て「つまんなそう」と思っても何話か見ているうちにおもしろくなってくる、みたいなこともある。「2ツイ」にもそういうところがある。

首を捻りながら何千字か書いてみて、うーん、イマイチだなと思って、でもせっかく何千字も書いたからこのまま書き進めていちおう形にしてみるかなあ、と、1万字を少し越えたあたりで、あれ、けっこういいことになってきたぞ、みたいに感覚が反転して、最終的にわりとお気に入りの原稿になる、みたいなことも年に1,2回はある。2ツイート分ではまるで見えず、数千字くらい積み重ねてはじめてそこからうねり出すものもあるということだ。だからたまには2ツイであきらめずに、コツコツと量を書いてみたりもする。


ただし、コツコツしすぎて、あまりに時間をかけて暖機運転をしてしまった文章は、いまどきだと読む人がいない。助走が長すぎるのはよくない。そこで、コツコツ書いているうちになんだか後半から良くなったなあと思ったら、そのまま最後まで書き終えてから、序盤の部分を大幅にいじることになる。「後半良くなった文章」を用意して、それを見ながら前半部分を入れ替えていくわけである。これはわりとうまくいく。明確なゴールが見えていたほうが文章を当てはめやすいということなのだろうか。

いっそのこと、最初にゴールの文章を書いて、それから最初に戻って書いてみればよいではないかと思うのだけれど、それをやるとぼくの場合は、めちゃくちゃ「ネットにありそうな文章」になってしまう。「AIに書かせた文章」と言ってもいい。すでに世の中にあるものの「最大公約数」のような雰囲気がにじんでしまうということ。

それがわかっているから、ぼくはゴールを設定してから文章を書くことはめったにない。


学術的な文章ならば、ある意味「ゴール」は決まっている。データが先にあって、それを示すための文章だからだ。しかし、今書いてみて思ったが(これも書いたからわかったことだ)、データがそのまま文章になるわけではない。データイコール文章のゴールではない。結局、論文であっても、先に考察の末尾の文章を書くようなことはせず、冒頭からきちんと組み立てて書いていく。そのほうがどうやら性に合っている。


そうして、最後まで書いたあとで、冒頭から見直して、「なんでここ、こんなに遠回りに書いてんだ」みたいなところをばさばさ刈り込んでいくのが最近のスタイルである。最初から最短距離では走れないし、寄り道しすぎな部分におそらく本当のぼくが潜んでいる。

2022年10月27日木曜日

病理の話(710) 患者のためというだけではなしに

特定の病気を例にあげてしまうのはあまりよくないのだが……。

たとえばクローン病という病気や、好酸球性副鼻腔炎という病気を診断するときには、病理医の存在は欠かせない。

病理医が顕微鏡を用いて、「あの所見」がありました! と見つけることで、診断がほぼ確定するからだ。診断がきまれば、治療法も決まるから、大切なことですよ。

これらの病気の診断に、絶対に病理医が必要なわけではないのだけれど、ほとんどの主治医は、内視鏡などを用いて患者さんから少量の検体を採取し、病理検査室に提出する。

病理医は、顕微鏡サイズの、0.1 mmにも満たないような変化を見出す。それによって、病気に診断名がつく。

診断がつくだけでなく、患者が「医療費助成(高額な医療費を国などに代わって払ってもらうこと)」をする際にも、「病理医がソレを見つけた」ということがかなり有利に働いたりする。



いちおう念を押しておこう。

医者側が「診断名を決めたいから」病理診断をするのではない。患者にとって得があるから病理診断をするのだ。

そりゃそうだよね。患者プラス国の税制・医療保険制度がお金をしはらうことで医療行為はなされるのだから、あらゆる医療行為はお金をはらう当事者(=患者)にとって「うまみ」がないといけない。

あらゆる病理診断は、なんらかのかたちで、患者にとってメリットをもたらすものでなければいけない。





……しかし、じつは、「患者にとってはさほど重要じゃないけれど、病理診断を深めることで医者が喜ぶ」というケースもけっこうある。

勘違いしてほしくないのは、「医者のためだけに病理診断をするケースはない」ということだ。くり返すけれどあらゆる病理診断は患者のためになる。しかし、「せっかく患者からとってきた検体なので、大事に大事に、とことん見まくって、この患者のためだけではなく、さらに広い目的のためにも使う」という目的が、たいていの病理診断の裏にはひそんでいる。



たとえばクローン病という病気では、診断に役立つ「非乾酪性類上皮細胞肉芽腫」を見つけることが、病理医にとっての大切な仕事だ。それは患者の役に立つからきっちりやるとして、でも、それ以外にも、たとえば閉塞性リンパ管炎を意味するわずかな所見や、同じ検体の中にも炎症のムラがあるという所見を拾っていくことは医者にとって意味を持つし、プレパラートを見るだけでなく胃カメラ・大腸カメラの像を主治医といっしょに眺めて、ここの潰瘍のかたちはいつものクローンと同じ/違うなあとディスカッションすることも、(最終的には患者のためになるのだが)かならずしもその瞬間で患者に貢献しているとは言いがたいくらいマニアックだけれど医者にとってはめちゃくちゃ役に立つのである(早口)。



なぜ早口で一気にダーッと書くか?


それは、「直接患者の役に立つわけではない仕事」をもやっている自分の仕事に対して、誇りはあるし自信もあるのだが、こうして世の中に堂々としゃべってしまうことにちょっとした抵抗を感じているからである。

病院から出る給料は、病理医の、「患者のためになる能力」だけではなく、「医療者のコアにいて医療現場の知恵を担当する役割」にも支払われている。それは間違いないと思うし、正しいことだと思う。でも、その給料は元をたどると、国民から徴収した医療保険のお金、そして患者がしはらったお金なので、「遠回りで患者の役に立つ仕事をいっぱいしています」と堂々と言い切ってしまうことに、未だにウッ大丈夫だよなというためらいと、エクスキューズ(言い訳)と、確認作業が必要な気がしてしまうのだ。



いやその、けっきょくのところ、医者が育つことは患者のためになるからいいんだけどあんまり偉そうな顔してるのもアレじゃんと思って(早口)。

2022年10月26日水曜日

クソリプの生成

何かをつらいと言ったり、自らを卑下したり、誰かに謝ったりしているツイートに、即座に「そんなことないですよ! 大丈夫です!」と声をかけるリプライがついていると、あー、その優しさ、手軽だなー、手間かけてないなーと感じてしまう。


大丈夫では、ない。そんなこと、ある。


いろいろ考えた末の吐露なのだ。本人は悩みに悩んで吐き出しているのだ。


そこにかける言葉として「そんなことないよ」は、共感の言葉としては0点である。


「そんなことないよ」が役に立つ場面はあるだろう、きっとそれはドラマチックで、主人公がいて、相棒がいて、克己、克服、大団円に向かって行くストーリーがあるときだ。


でも、大丈夫じゃない場面だっていっぱいある。


本人が「大丈夫じゃない」からつぶやいているときに、「大丈夫だよ」を言うことは普通に暴力なのである。しかしそれが「手軽なやさしさ」として使われているシーンを、距離感を間違えたリプライによく見つける。





応用問題として。

「自分が普通じゃないことに悩んでいる」というタイプの悩みに、「大丈夫、普通なんてないから。今は多様な時代だから」と答えることも、おそらく雑で、手間がかけられていないのだろう。

普遍はないが「普通」はある、それも人の数だけ。その人が「こういうのが普通だ」と信じていることから外れた瞬間に、つらさは吹き出してくる。

それに対して、「普通なんて自分で決めればいいんだよ!」と返すことは、一見、自己啓発本的に価値の境界線を引き直しているように見えるけれども、じつはあまり救いになっていない。他者が決めた普通にふりまわされることにつらさの本質があるところに、「自分で決めればいい」というのは、結局、その人にさらに負担を強いることにもつながる。




よく言われることだが、「つらい」には、「それはつらいだろうね」以外の返しはあり得ないのだと思う。ただし、そう返すだけならむしろ沈黙していたほうが有益だったりもする。誰かに声をかけるということは、手軽ではないし、手間はかかるし、手癖は通用しない。思索の限りを尽くさないと、その人の中で何巡もしたような、込み入った、複雑な問題に対してかける言葉としては軽すぎるのだと思う。よくそんなに簡単にリプライできるなあ、という場面を、昨日も今日も明日も、何度も何度も何度も目にすることになる。

2022年10月25日火曜日

病理の話(709) わかりませんでしたをどう書くか

今日はちょっと抽象的な話をする。できれば具体的な症例の話とオーバーラップさせたくないからだ。

これまで708回にわたって書いてきた「病理の話」それぞれにも、モデルとなった症例やできごとがある。しかし、ひとつひとつの症例を特定できないように、複数のケースを混ぜたり、脳内でいろいろフィクションを足したり引いたりして、「ある印象的な患者のことを直接書くということのないように」気を配ってきた。今日もそういう話だ。あらかじめご了承ください。




ぼくらは、ある解剖レポートを作っていた。

その患者はさまざまな医療行為の末に亡くなった。死に至るまでの過程はおおむね、医療者にとっても、患者やその家族にとっても、満足……できたかどうかはともかく、納得できるものだった。死の喪失という大きな悲しみはあれど、死に向かうという人間の宿命に不思議はなかった。

ただし、総論としては納得したけれど、医療者も、患者も、その家族も、「ひとつ解せない点」があった。

それは、「最期が少し早すぎた」ことである。

もうちょっと、「持つ」ように思えていた。しかし、すごく単純にいうと、「いきなり心臓が止まってしまった」のである。

(※ここが今回特にフィクションだと強調しておきたい部分です。説明をかんたんにするためにこういう言い方をしているが、特定の症例の話をしているわけではないのでご注意を。)



どれだけ医学が進んでも、人間の生き死にをすべて予測することはできない。ファクターが多すぎるし、運の要素もある。「いつ死んでもおかしくない」という状況は誰にとっても存在する。しかし、「えっ、ここで今、心臓が止まるの?」という事実は、やはり多くの人を動揺させ、悲しませ、振り返らせる。


そうして病理解剖が行われた。「病気自体には納得していた。このようにだんだん悪くなっていくこともまあわかった。しかし、最期に心臓がいきなり止まった(ように見えた)のはなぜなのか」ということを、患者の家族も、医療者も、そしてあるいは、おそらく患者自身も、疑問に思ったからである。

その疑問に答えることは、病理医の仕事のひとつだ。




でも、じつは、病理解剖までしても、すべてがわかることはまれである。なぜなら、人が突然亡くなる理由というのはほんとうに、「ものすごい数」あって、しかもそれらはすべて「まれにしか起こらない」上に、「死後に解剖をしても痕跡が残っているとは限らない」からである。


これは別にぼくが個人でそう思っているという話ではない。ちゃんと論文があるのだ。


ちょっと古い論文になるが、Current Diagnostic Pathologyという雑誌に2007年(15年前か……)に掲載された、"The autopsy in cases of unascertained sudden death" という総説を紹介する。


https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0968605307000439?via%3Dihub


無料では、中身(非常にボリュームがある)を見ることができないだろう。だからこれから、ぼくが、どんな人にも読めるように、ごく簡単にまとめて以下に記載する(病理医はこれくらいは常時頭の中に入れておき、臨床医から問い合わせが来たら即答できる必要がある)。


以下、まとめ。


・剖検の2-5%は死因がわからない。こういうときには、毒物学的、微生物学的、遺伝子学的検索を効果的に追加する必要がある。

・さらに、殺人の可能性を除外しなければならない。

・殺人を除外した上で浮かび上がってくるのが心臓の伝導障害やてんかん関連死などである。

・たとえば冠動脈の動脈硬化は、死因になりうるか。もちろん心筋梗塞の原因にはなりうるものの、実は他の原因で亡くなった人を剖検しても冠動脈の狭窄はしばしば観察される(つまり冠動脈が細いからと言って心筋梗塞で亡くなったとは限らない)。

・薬物や毒物による死の場合、症例ごとに血中濃度は大幅に異なる。死後の体内分布動態も未だに解明されていない点がある。

・「a cause of death」を見つけること自体は簡単であっても、「the cause of death」を見つけることは実に難しい。

・職歴調査や麻酔歴、薬物歴の聴取も重要だ。

・以下、剖検では拾いづらい死因を列挙。


【心臓編】

・冠動脈粥状硬化は、とくに富裕層においてはものすごくよくある話である。かつ、死因の最も代表的なものである。しかし中等度くらいの粥状硬化と死亡との因果関係はいまだに明らかではなく、難しい。

・Myocardial bridging(心筋橋)は、冠動脈の外側に心筋線維が橋のように存在することをいい、労作時に冠動脈狭窄を起こす。ほぼ全例で左前下降枝に認められる。実はすごく多い所見であり、丁寧に探すとなんと85%に認められるというデータあり。ちなみにアンギオではぜんぜんつかまらない。ただし、これが直接の死因になる頻度はすごく低いので、解剖で見つかったからと言ってすぐにこれを原因と考えてはいけない。

・左室肥大: 高血圧性心疾患もちの患者においては突然死の原因としてよく知られている。また、とくにアスリートにおいて、若年性の突発性左室肥大が死因となることがあるが、このときdisarrayは見られない。心臓の重さを測定するほか、左心系と右心系の重さを分けて測ることが求められる。

・心筋炎: 1980年代のDallas criteriaにて診断するが(これはさすがに元論文が古いためである)、このcriteriaは生検診断を基としている。しかも、最近の調査では、ウイルス性の心筋炎様症状を示している患者は生検はほとんどnegativeになるため注意が必要。また、逆に、focalな心筋炎が見つかることもあるがそれが果たして死因になりうるのかという疑問もある。いずれにせよ、死亡原因としての心筋炎にはまだまだ議論が必要である。

・突然死だが心臓に異常がないケースは悩ましい。ある調査では突然死症例の4%ちょっとが心臓に異常を見つけられなかったという。予想されるのは伝導系の障害であり、イオンチャンネルの障害という意味で「channelopathy」と呼ばれたりもする。動悸や失神の病歴を聴取しなければならない。さらに、この病態にはしばしば遺伝子性の背景が存在することがあるため、血液や新鮮臓器の保存が必須である(long QT synd, Brugada synd, short QT synd, catecholaminergic polymorphic ventricular tachycardia(CPVT)など)。

・Long QT: 様々な遺伝子異常が関与。常染色体優性/常染色体劣性のいずれも存在するらしい。Torsade de pointesを伴う心室性頻脈→失神発作。小児~思春期に始まる。5000人に一人が有する異常で、その10%が突然死に至るとされる。

・Brugada症候群: 常染色体優性。症状が出るのはなぜか男性が多い。休息時や就寝時に症状を呈する。20代や30代が多いが、小児でも発症しうる。東南アジアに多く、タイでは「Lai Tai(寝ている間に死ぬ)」と呼ばれて有名。

・Short QT: 家族例、孤発例ともに少ない。

・CPVT: 常染色体優性、劣性ともにある。労作時や感情が高ぶったときに多形性心室性不整脈を発症。15%が心停止に至り、30%は家族に突然死歴が存在する。小児や思春期までの発症が多いが、成人するまで発症しないことも。


【呼吸器編】

・普通は肉眼・組織でとらえることが出来る。重要なのは感染、ぜんそく、肺動脈血栓塞栓症。

・ちなみに、病理医にとってはうっ血浮腫と気管支肺炎を鑑別するのは組織を見ないと無理。ウイルス感染にいたっては組織でしか診断ができない。血清学的な評価を足したほうがよい。

・ぜんそくは突然死の原因になりうる。肺は極度のインフレ状態になるのが特徴的で、組織学的に好酸球増多と気管支周囲の平滑筋の肥厚、mucus plugging, Kirchmann’s(Curshmann‘s) spirals(ねじれた粘液)が認められる。


【脳神経編】

・てんかんに伴う突然死は病理学的に所見が出ないことで有名。今号の特集に別項目で特集を組んでいるのでそちらも参照(まだPDFなし)。

・ほかに神経関連での突然死としては、脳内出血や脳梗塞、動脈瘤破裂。

・ところで、薬の誤用が疑われた症例で血清学的なサンプルが得られていないとき(死んでから来院までに時間がかかっている、など)には、出血巣の血液塊が薬物を含有していることがある。

・第三脳室のcolloid cystは見逃されやすい(brain cuttingによって)。


【血液編】

・Sickle cell diseaseやsickle cell traitでも突然死になりうる。


【代謝編】

・代謝系の異常はしばしば突然死の原因となりうるが、肉眼的・組織学的・血清学的に異常を来さない。

・代表例は糖尿病性とアルコール性のケトアシドーシスである。

・インスリンを使用している場合には低血糖もありうる。まれに、non-ketotic hyperosmolar hyperglycemiaを来すときもある。

・剖検時、もっとも生化学的な検査に向いているサンプルは硝子体液である。ほかの体液もある程度の役には立つが。生前のHyperglycemiaを証明するのにはうってつけ。(普通は糖濃度は0である)


【アレルギー編】

・食物摂取歴や「虫を食べた歴」、「服用歴」が重要。しかし、そういった病歴がとれないこともしばしばある。剖検所見としてはときにぜんそく肺と同様のhyperinflated lungやmucus plugging, mast cell tryptaseやIgG値の異常が見られることもあるが、いずれにせよ特異的所見ではない。


【アルコール常飲者との関連】

・突然死のリスクが上がるのは間違いない。食道静脈瘤の破裂(←肝硬変)などがある一方で、まったく何もつかまらないことはよくある。

・急性アル中死のときのアルコール濃度平均は356mg/100ml (range 250-510mg)。

・胃内容物が気道内にあっただけでは生前に窒息した証拠にはならないが、組織学的に肺に反応性変化があれば窒息の傍証となる。

・アルコールは不整脈のリスクとなると長い間信じられてきた。大酒を飲むと、holiday heart syndrome(休暇明けに出るやつ)のような不整脈が生じることがある。心房粗動や心房細動、上室性頻拍が出る。心室頻拍からVfになるときもあるらしく、どうもこれが常飲者の突然死の原因となっている節もある。

・なお、肝障害や膵障害があるアルコール常飲者はQT延長のリスクがあがるとされる。

・退薬症状は6-8時間で現れる。発作が現れるのだが、それがてんかんにまで進展することはむしろまれ。Delirium tremens(酒客譫妄)はもっとも強い症状で、死亡率が1-5%ほどある。肺炎、肝障害、膵炎がその病態。

・アルコール性ケトアシドーシス: 脂肪酸のβ酸化がとまり、アセチルCoAの余剰が生じてβ-hydroxybutyrateが蓄積。これがacetoacetic acidやacetoneに変換され、ケトアシドーシスが起こる。

【外因性の死亡】

・Negative autopsyのとき、毒物学的検査が解答をもたらすことはままある。この際、どんなサンプルを採取するかを選ばなければならない。これは本来「剖検前に」議論されるべきことである。


【非合法薬物関連死】

・薬物関連死を証明する際には、「病歴の聴取」「注射痕のチェック」「Natural diseaseの程度」「死後の薬物濃度」などを把握する必要がある。耐性の確認も必要。ヘロインその他のオピオイドはtolerantが早い。しかし、「出所後」の人間だったりすると、退薬に伴いtoleranceが低下している可能性があり、低い濃度でも死に至ることがある。

・Methadone関連死においては、治療時濃度と死後の血中濃度がoverlapしているとされる。


【処方薬】

・よくあるのは抗不整脈薬。どのように処方されてきたかを丁寧に聴取。処方薬が死亡に関連していた場合には届けなくてはならない(UKの論文)。


【医療器具】

・薬物と一緒。


【毒性のある気体の吸引に関連する死亡】

・CO: Cherry-pinkが特徴的。ただし、高齢者や小児では比較的低濃度で死に至る場合があり、このときcherry-pinkが目立たないこともある。カルボキシヘモグロビン測定をルーチンでやっているラボは少ないため、気づかなければ。・死亡時の周囲状況の確認も必要になる。

・CO2(高炭酸ガス血症): 急性脳症の原因となりうる。剖検所見はまず何もとらえられない。まるで心臓病でなくなったかのように見える。


【低体温】

・剖検時には何も所見が出てこないことが多い。

・大きな関節におけるred patch、胃のびらん、膵炎などが証明されることがある。

・しばしば、「hide and die synd」と呼ばれる現象が現れる。服を脱いでいたり、カップボードやベッドの下に倒れていたりする。


【感電】

・実は感電のサインを見逃すことがある。特に、手のひらなど(死後硬直の影響もあり)。


【外傷】

・外表に傷がないと、死因がわからなくなることがある。たとえば、「Commotio cordis(心臓振盪)」と呼ばれる状態は、心臓自体は正常に見えるのだが死因になるときがあるという。


【心臓振盪】

・18歳未満にみられることがほとんど。心室細動になるらしい。衝撃をうけてから数秒で意識を失う。剖検になることは少ないが、剖検を行っても心臓自体に変化は見られない。


【脳振盪】

・頭部外傷による死亡は多くの場合、外傷後すぐには訪れない。ただ、頭部外傷の直後に突然死するというのは実はレアであるが、有名である。詳細な神経学的所見をとっても、所見は得られない。


【上気道閉塞】

・上気道の窒息がmechanicalにおこると、特異的な病理学的所見は得られない。Asphyxial death(窒息死)においては、各種臓器のうっ血やチアノーゼ、点状出血などは認められないことが多く、逆に「窒息じゃないとき」に見られることすら多い。自殺するときにプラスチックバッグをつかって窒息すれば、病理医はまったく証拠をつかむことができないとさえ言われている。


【水中からあげた死体】

・事故も自殺も他殺もあり得る。他の病気により失神して落ちただけかも。


【風化してしまった死体】

・完全に白骨化した死体では死因はわからないことも多いが、その程度によっては死因を特定することが出来る。

・毒物学的検査もふつうに行うことが出来る。



だいたいこんなかんじである。まとめると、「突然死の原因はやまほどある」が、「解剖をしてもわからないことはままある」のである。


で、だ。


病理解剖をしたときに、ぼくらはレポートを書く。そこに、「いろいろ調べたけど死因はわかりませんでした」と書くことを、ぼくは部下や医学生にはおすすめしていない。


それはあくまで、「病理解剖を終えた時点でわからない」というだけのことだからだ。上のまとめを見てもあきらかなように、病理医が死体を肉眼で見て、顕微鏡を駆使してさんざん調べても、わからないことは確かにいっぱいあるが、そのとき、「主治医と相談しながらさらに考え続ける」ことこそが重要なのである。しかし、一般には、病理医が「わからない」と言ってしまうと、その時点で「死因不明」として片付けられてしまうことも多い。


「不明だから考え続けよう」というのと、「不明なので調査を打ち切ろう」との差は、現場ではさほど大きくはないのだが(ざんこくな話だ)、しかし、関わった人からすると大きな違いに感じる。


だから、病理医はこのようにレポートを書くべきなのである。


突然死の原因について。

・心臓関連: 心筋梗塞はない。不整脈については病理学的には評価しきれない。○○に関してはない。△△についてはまだわからない

・肺関連: 肺血栓塞栓症はあったかなかったか確定できない。肺出血はない。気胸はないと思う

・血管関連~~

・消化器関連~~


おわかりだろうか。「ないものはないと言う」こと、そして、「わからないところはちゃんとわからないと書く」こと。この両者を、両方とも逐一やっていくということだ。「原因をひとつひとつ考えました」というならば、本当にそのひとつひとつを丹念に書いていく。そして、主治医と一緒に、さらに考え続けるための素材を提供する。


これらを一切やらずに、「死因は不明です」とだけ書かれた病理診断報告書は、最低限の仕事にはなっているが、最低レベルのホスピタリティしか備えていないように……ぼくには思えるのである。もうちょっとやさしく働こう。

2022年10月24日月曜日

ナンバーポータビリティ程度でお茶を濁されるのではないか

ここんところ、以前より便利使いしていた出張用ノートPCの調子があまりよろしくない。絶対に買い換えだ! というほど悪くはないが、よくもない。

前はもっと起動が速かった。しかし、だんだんもっさりしてきた。パワポを開くのも気持ち遅い。パワポを進めるにもねばっこい抵抗を感じる。

Windows updateをくり返したせいだろう。時間が経つとどうしても遅くなる。

「何もしなくても壊れた」というのは幻想かと思っていたが、実際、何もしなくても壊れる家電なのかもしれない、PCというものは。

ここ2年半ほど出張が激減しており、出張用PCもあまり使っていなかった。ひさびさに出先で講演をすると、てきめんに「遅い」と感じる。

じわりじわりと遅くなっていったら気づかなかったかもしれない。

へたに2年半あいだをあけたから、遅さに気づいてしまった。





先日のケアネットライブに出演したところ、ひさびさに動くぼくを見たという知人から、くちぐちに、「丸くなったね」「太ったね」と言われた。

じわりじわりと丸くなっていたから自分では気づいていない。へたに間をあけるから気づかなくてよいことに気づく。

三食の米を少し減らす。ついでに塩分も減らす。運動をはじめる。

無駄な抵抗によって体をアップデート。そのぶん、メモリが圧迫され、体が引き締まるより先に、思考がもっさりとしはじめる。





アップデートをくり返すことでだんだん行動が遅くなっていくという現象を、日々じわじわと実感する。ゲームボーイがNintendo DSになり、3DSになったころ、ネットに接続しないと最新のゲームができない環境を少し残念に思った。ゲームボーイはいつまでもモノクロのままだが、何年経っても同じゲームを何度でもやることができるからいいなあと、確かに思った。確かに思ったはずなのに、もう、ぼくの手元にゲームボーイはない。アップデートしてもしなくても時間が経てば使われなくなっていく、ならば、ゆるゆると、気づかれないうちに、もっさりしていくほうを選ぶ。将来的に人類はみずからを機種変更するのだろうか。データ移行の際にパスワードをなくしたりしないだろうか。

2022年10月21日金曜日

病理の話(708) いそげいそげ外注いそげ

「がん」の患者がいる。病変部から検体を採取し、がんであることを病理診断で確定した。

そこですかさず、「次の検査」にうつる。

がんか、がんでないかを決めて病理診断が終わりというのは、(ケースバイケースだが基本的には)一昔前の話だ。

「そのがんがどういう性質を持っているのか」。

より具体的に言えば、「どういう抗がん剤が効きやすいか」を調べるのである。

患者ごと、がんごとに、オーダーメードの治療をするためには、絶対に必要な検査である。



がんの性質をどうやって調べるか。

顕微鏡で細胞を見るためのプレパラートと同じように、がん細胞をプレパラートに載せたものを、もっとたくさん用意する。10枚とか15枚とか、場合によっては20枚以上。いっぱい用意したプレパラート上に、たくさんのがん細胞が載っている。

いつもは、これらにH&E染色という染め物をして、人が顕微鏡で見やすいように工夫をしているのだが……。

今回は染色をしない。目で見るのではなく、その細胞の載ったプレパラートを、検査センターに送って、がん細胞に含まれる遺伝子を調査してもらう。

すなわち、「がん細胞の性質を調べる」にあたって、遺伝子解析をするのである。



細胞を薬品で溶かし、中に入っているDNAを抽出して、それらにどのような「変異(へんい)」が入っているかを調べる。

EGFR, BRAF, ALK, ROS1, MET, RET, RAS……。

これらに変異が入っているかいないかを次々と調べていく。どれかに変異が入っていれば、その変異に対応した「効きやすい抗がん剤」を、次の治療で使うことができるのである。



「がん細胞の中にあるDNAに、どのような変化があるかによって、抗がん剤の効きが違う」という一文は、わかるようでわからないかもしれない。

うーん、例え話だとどうなるかな。

ヤクザの出身地が香川県だとしたら、讃岐うどんを食べさせながら取り調べをしたら簡単に自白する、みたいなかんじかなあ。違うか……。

とにかく、EGFRに変異があればこの薬が効きやすい、RASに変異があればこの薬は効きにくい、みたいなものがある。

それも、毎日のように、新しい組み合わせが見つかっている。日進月歩だ。患者からするといいことである。10年前には使えなかった薬が今は使える、ただし、その薬にぴったり合った「遺伝子の異常」があればの話。だったらできるだけ多くの遺伝子を調べて、使える抗がん剤を選べたほうがいいのは当たり前である。



さて、この遺伝子解析、当然ではあるのだが、時間がかかり、金もかかる。そして、プレパラートに細胞を載っけてただ検査センターに出せばいいというのではなく、「患者からとった細胞の量が十分足りているか」、「がんをとってきたはいいが、大部分がヘタって(壊死して)いたりはしないか」というのを、病理医が顕微鏡で確認してから検査を出す。

これがけっこう面倒で、時間もかかる。検査センターへの郵送の往復時間も考えると、今日調べて明日わかるというものではない。

でも、患者からすると、検査というのはとにかく、早くわかればわかるほどありがたい。もちろん、中には、「いずれ必要になるかもしれない抗がん剤治療のために、早めに検査を出しておこうね」みたいなこともあって、そういうときは遺伝子検査に1週間かかろうが2週間かかろうが、さほど誰も困らないのだけれど、がんが大きくなっていて、すぐにでも治療をはじめたいというときには、なるべく1日でも早く、検査の結果を知りたいだろう。

病理検査室から「遺伝子検査の外注」をするときは、だから、ぼくらは、すごく急いでいる。

「検査センターの検体回収(ラボに検体を運んでくれる人がやってくる時間)まで、あと30分しかない! これを逃したら検体提出は明日になっちゃうぞ! そしたら来週は祝日が1日あるから、検査結果がへたすると再来週になっちゃうぞ! それはかわいそうだ! いそげ! いそげ!」

わりとこういう雰囲気で毎日ぴょこぴょこせわしなく働いている。この大急ぎの様子を、患者はもちろん、主治医もあまり知らない。でもたぶんぼくはこの外注作業だけで毎日1キロくらい痩せていると思う。



あ、ちなみに、検査センターからかえってきた結果を見て、電子カルテに反映させて、主治医と相談する仕事もしてます。これもけっこうせわしないよ。病理医ってわりとせわしないよ。


2022年10月20日木曜日

脳だけが旅をする

モンゴル・ウランバートルの病院に勤める病理医たちがカシミアのマフラーと手袋を送ってくれた。ぼくが月に1度のペースで病理診断の相談に乗っているのでそのお礼だという。水くせぇな。

マフラーと手袋は「GOBI」というブランドだ。チンギスハーン国際空港で見たことがあり、"the world's largest cashmere store"(世界で最も大きなカシミア販売店)と高らかに宣言されていた。

ホームページはすごくきれいで、カシミアゴートが笑っている。



包装はどことなく「一昔前の百貨店」を思わせるけれど、箱を開けてみると中にはとても上品な色合いのマフラーと手袋が入っていた。帰宅して妻に見せると「それはすごくいいやつだよ、コートに毛つくから気を付けて」と言われる。ああ本当にいいやつなんだとそこで納得してあらためて感謝した。


そしてプレゼントの中にはもうひとつ、「Golden Gobi」と書かれたナッツ入りチョコレートが入っていた。これも空港でよく見たおみやげだ。とにかくモンゴルではチョコ推し、そしてGobi推しである。探してみるとインスタがあった。



チョコのパッケージの紙質が、まさに「紙」というかんじで、日本のラミネート過剰なパッケージングと違うため、一瞬だけパチもん感を覚えて少しひるむのだが、食べてみると甘すぎずビターすぎず、なんともおいしい。



くりかえし出てくるGobiとはもちろんゴビ砂漠のことだ。国を挙げて大事にしているのだろう。日本に置き換えてみると、マフラーやチョコレートのブランドに「富士」が付くことはあまりなさそうだし、worldでlargestと表記することもないように思う。


はじめてウランバートルを訪れたとき、モンゴルの内視鏡医と病理医がぼくと上堂先生(大阪)とを日本製のランクルに押し込んで、「モンゴルらしい風景を見せてあげるよ!」と言って4時間(!)走って「モンゴルっぽい場所」まで連れて行ってくれた。馬に乗ったり、ゲルの中に入ってウドン的何かを食べさせてくれたり。







えっ、ここまでしてくれるなら彼らが北海道に来たときはぼくは4時間走って釧路湿原に連れて行かないといけないじゃないか、とびっくりし、恐縮した。なおこのときのウドンに当たったと見えて、ぼくは帰国直後、新千歳空港を出て自分の車に乗ったころからお腹が痛くなり、そこから2日ほど寝込んだので(発症が少しずれていたら入国できなかった可能性もある)、写真はいっぱいあるがモンゴルでの記憶はいまいち曖昧になってしまっており、写真を見ながら「そういえばこんなこともあったんだったか……」とあとから振り返って記憶を半分くらい捏造した。

じっさい、写真をよく見るとぼくらが乗っているのはウマではなくラクダなのであった。




Gobiの洗礼により脳だけの旅をしたぼくは、その後はじめたブログの背景にモンゴルで撮った画像を使うことにした。




これを書いている日(10月12日)、突然、11月26日(土)にモンゴルに来てしゃべってくれと言われた。1か月半後の予定はさすがに開けられないのでお断りせざるを得なかった。残念である。モンゴル人はみんな気さくで、「冬にはよく酔っ払いが凍死してるよ! ガハハ」と笑いながら一緒にお酒を飲んでくれる。一緒にお酒を飲みたかった。

2022年10月19日水曜日

病理の話(707) 医学教育のこと

学生に向けて説明するために、病理学の教科書を読んでいる。ぼくが知っていることをそのまましゃべっても伝わらない。「医療者であればとうぜん知っていること」を、学生はどのように学んだらいいのか、これをぼくは学ぶ。

「医療者であれば知っていること」。

今、「とうぜん」という言葉を使ったけれど、本当はぜんぜん「とうぜん」じゃない。何かを知るまでには、みんなの努力と歴史が詰まっているからだ。




ぼくは今44歳なので、医学部時代に授業を受けてから20年以上経っているわけだが、大学時代の思い出なんてほとんど消えてなくなってしまった。生活、旅行、部活、これらの記憶はもう粉々である。それなのに、「褐色細胞腫の10%ルール」とか、「ピルビン酸回路」であるとか、「東アジア型ピロリ菌」といった、学生時代に習った医学のいくつかについては未だに覚えているわけで、これはすごいことだと思う。

あのとき習った講師たちはおそらく今のぼくと大してトシも変わらない。教え方だって別にそこまでうまかったとは思えない。じっさい、講義で誰にこう教えられた言葉が印象的だ、みたいな記憶はほぼない(長嶋和郎先生を除く)。しかし、今こうして「医学部で習ったから覚えている」ということが頭の中にいっぱい残っていて、わりと便利遣いしていることを考えると、医学教育というのもなかなか捨てたものではないなと思う。

記憶の定着に必要だったのはなにか? 反復? 試験? 高校時代に何度も何度も勉強した微積分は、その後いっさい使わずに26年経っても覚えているのだから、受験方式のアンチ忘却曲線的たたき込みが長期記憶にとって効果があることは間違いない。でも、きっとそれだけはない。

大事だったのは医学教育のカリキュラムそのものではないか。「あの順番」、「あのペース」で少しずつ習っていったことに、脳への定着力を上げる何かがひそんでいたのではないかとわりとマジで思う。

解剖学から組織学、生化学から細菌学、薬理学、生理学から病理学と基礎を順々に学び進めていって、臨床各論へとつなげていく流れ、このどこかで「さっさと現場で使える知識をよこせよ!」と憤慨してショートカットしようと思うと最終的にその「現場で使える知識」がうまく頭に入ってこなくなる。

長く頭に残っている臨床医学というのはいずれも、「生化学をおろそかにせず、病理学を通過した上で習ったもの」であった。ある授業のときに聞いておもしろいと思って覚えていた、という話の裏に、「その話をおもしろく感じられるだけの積み重ね」が必要だった。生体内の現象が物質の拡散や浸透膜を介した移動、受容体を用いたシグナル伝達などによって引き起こされていること、それが一般にどのように「病的に」なるのかを物理学的にも化学的にもわかっているからこそ、公衆衛生学や疫学の裏にある「確率的なふるまい」が実感されるようになるし、エビデンス・ベースト・メディスンの肌感覚も伝わろうというものである。



連綿と数珠繋がりになっている医学を習うのに6年かかる。そこからさらに「人の間でコミュニケーションしながら微調整をかけていく」という医療に踏み込むのに10年以上かかる。「医学生は大学時代に勉強ばかりしているからだめだ」を平気で言う人は少なくなった。安心してじっくり取り組んでほしい。

2022年10月18日火曜日

メタ認知について

バックグラウンドで走っている思考の数が以前よりも増えた気がする。ただし、熱の総量が増えたわけではなさそうである。ひとつひとつが細く光る。シナプス間をパッパッと飛び移っていく牛若丸。MRIならゲンジボタル。細くて淡くてはかない感じ。これなら脳はさほどエネルギーを消費しないで済む。うまいこと適合したものだと、自分の来し方をふりかえってすこし感心する。これが成長なのだと感じる。

昔は、もう少し思考が太かった。太くて粘り気があった。ごっそごっそと思考が脳の中を動き回ると、それだけで頭が揺れるような気がしたし、さまざまなものが巻き込まれていった。番頭もカエルも飲み込んで疾走したカオナシ、あるいは陰毛を巻き込むズボンのジッパーのようだった。頭蓋骨の内側にシミや瘢痕を残して思考は暴れ回り、ときに引きちぎるような痛みを伴っていた。

あれは今よりきつかった。

自分自身に巻き込まれながら没入するのに加えて、たまに思考の喧噪から理性を分離させて、いわゆるメタ認知のようなものもやっていた。自分の「境界」を、内側だけでなく外側からもぺたぺた手で触った。手触りやら硬さやらもろさやらを確かめた。これくらい押しても戻るんだな、とか、これ以上引っ張るとちぎれるんだな、みたいなことを知らないうちに試行錯誤していたのだろう。自分の輪郭がどこにあるのかを知るために必要な、しかし過剰なプロセスであった。あれは青春だったのだと感じる。




最近思う。

メタ認知メタ認知と訳知り顔で有料ノートに記すタイプの実業家たちは、通り一遍の自己分析をかっこよく言い表すために、ちょっと流行っている言葉を便利遣いしているにすぎない。

メタ認知しましょう、それがクリエイティブの秘訣! なんて言っている人が例示しているメタ認知なんて所詮はプラセボである。本当にメタ認知していたら、ライフハックを有料noteにして創作者のタマゴから金をむしろうなんてことができるわけがない。


自分のやっていることを、幽体離脱した自分が見下ろすかのように俯瞰して眺めようとすると、離脱した自分とその場に残っている自分とのあいだで必ず摩擦が起こる。

「てめぇ、同じ俺のくせして何を上から目線でえらそうに語ってんだよ」

これが起こらないならばそれはメタ認知ではなくて単なる「日記」である。

自分を応援する自分と引き留める自分、分析する自分と没頭する自分、情熱を燃やす自分と韜晦する自分。観察するために距離をとった瞬間に陽電荷と陰電荷に分かれる。分かれた瞬間から激しく引き合って、でもひとつになると消滅してしまう気がして互いの周りをぐるぐる周りながら合一を拒み続ける。

書いていて思うが、メタ認知というのは、自分でしようと思ってするものではなく、まず自分の分離ありきなのではないか。葛藤が起こって心が内部で分裂し、分かれたがために目も増えたので、じゃ、ま、そういうことでしたら……と精神をどこかに置き忘れてきたオカリナ(お笑い芸人)のような顔で、ふだんは鏡を通してしか見られない自分のことをコピーロボットの自分によって見てみようとする行為がメタ認知なのだ。転んでもただでは起きない緊急企画、それがメタ認知の正体なのだ。「メタ認知すればいいことがある」みたいに言うやつは何もわかっていない。


何かを考えると矛盾に気づく。そして、矛盾の数だけ自分が分裂する。このとき、幽体離脱として部屋の上に登っていけるわけではなくて、どちらかというと、自分の左後方あたりにスッと立つ自分が唐突に現れるかんじ。それはどうなの、といきなりこっちを指さして反論してくるかんじ。あわてて振り向くと、脳内で走っていた太い思考がギュンと遠心力で頭蓋骨に叩きつけられる。オフセット衝突みたいな位置関係で分かれた自分と見つめ合う。メタ認知とは自分が外部にmetastasis(転移)することで生じる悪性の言動なのではないか。




相克の末に自分の境界が落ち着いた。今、中年のぼくの思考は千々に乱れて好き勝手。ひとつの太い思考があったときほど主張の強いヤツがいなくて、それぞれぼくはぼく、私は私と楽しそうに、てんでばらばら違う事を唱えながらデフォルトモードネットワークである。すべすべになった頭蓋の内側で、エントロピーが高まりつつ、熱エネルギーは少しずつ漏出していっている。

これが人生なのかもなと感じる。

2022年10月17日月曜日

病理の話(706) 病理医の勉強手段について

病理医と言ってもいろいろな働き方があって、大学で基礎研究をメインでやっている人、病院に勤めて病理診断をやっている人、資格だけ持ってたまに病理診断のバイトをしているけれど実際にはあんまり関係ない別の仕事に忙しい人など、けっこう人それぞれ、さまざまである。

その上で、これからぼくが話すのは、あくまで「病院で病理診断をする医者」に関する話だ。該当する人は日本全国に何人いるのかな。2000人いないかもしれない。1500人くらいかな。

というわけで1500人が「そうだね」とか「そうかな?」とか言う話をします。

「病理診断医はどうやって勉強をするか」。




大前提として、この仕事、一生勉強しないと普通に仕事が続けられない。「すでに勉強した内容」だけで仕事ができるのは5年くらいだと思う。たとえばぼくが今日勉強をやめたら、5年間はそのままプロっぽい顔で働き続けられるけれど、それ以降はだんだん仕事がうさんくさくなっていく。そういうタイプの仕事はあちこちにあるけど、病理医もご多分にもれず、資格をとればそれで終わりという仕事ではないです。



「勉強し続けなければいけない理由」は大きく分けてふたつ。

ひとつは、「扱う病気の数や内容が膨大だから」。学び続ければ学んだだけ修得できる内容も増える世界だ。だから勉強しつづけよう、ということ。

でも、これについてはあきらめている人のほうが多いかもしれない。「俺はこの病院で出る検体のことだけ考える。それなら勉強しきれないってことはないから」と割り切って、病理学の全領域を相手にするのをやめる。

実際、ほぼ100%の病理医が、病理学すべての領域の勉強をすることをあきらめている。かく言うぼくも、当院で提出される機会がない脳腫瘍や腎生検の勉強はここ5年ほどほとんどしていない(全くしていないわけではない)。さすがに全部は無理。専門医を取るレベルくらいの知識はあっても、それ以上はかなり手間をかけないとなかなかたどり着けない。

だから、自分の専門性をせまーく限定する。勉強しなければいけない量を減らすのだ。病理医に限らず世の大人がみんなやっていることだろう。「餅は餅屋」。

しかし、勉強する領域をせばめたとしても、なお勉強は続けなければいけない。「勉強し続けなければいけない理由」がもうひとつあるからだ

それはなにかというと、「医学がアップデートされる」ということだ。




で、本題の「病理医の勉強の仕方」であるが、これも、大きくわけて二つある。

ひとつは、多くの人が「よいよ!」と言っている教科書を読むことだ。膨大な病理学の中には、すでに教え方が確立されているものがいっぱいある。それらをひとつひとつ読んで頭に入れて、実際の症例と照らし合わせる。この「照らし合わせる」にけっこうな手間と時間がかかる。

優れた教科書の書き方はとても上手だ。読めばわかった気になる。ただし、そこに掲載されている「プレパラートの写真=病理組織像」は、紙面の都合もあって決して多くはない。ぶっちゃけ、写真の数は物足りないと感じることが多い。

だから複数の教科書をひもといて、少しでも多くの画像を目に焼き付けていくのだけれど、それでも情報は足りない。やはり実際にプレパラートを顕微鏡で、自分の目で見て、俯瞰、近接、拡大、縮小、とにかくああでもないこうでもないと、細胞のおりなす構築や細胞そのものの性状をじっくり見定めないと、本当に教科書を理解したことにはなかなかならないのである。

じゃあ、そのようなプレパラートはどこにあるのか? 自分の施設で過去に誰かが診断したことがあれば、それを引っ張り出してきて教科書と照らし合わせる。病院によっては、「勉強用スライド」として、後進が勉強するために資料をまとめてくれている場合がある(当院にもある)。

ただし珍しい症例だと、ひとつの病院の病理検査室を30年さかのぼってもプレパラートが出てこないということがある。けっこうある。都道府県ごとに10年に1度しか診断されないような病気というのは確かにあるのだ。

そういうのに関しては、あきらめて教科書だけで学ぶか……あるいは……「もうひとつの方法」を使うことになる。




勉強のための「もうひとつの方法」とは、ほかの病理医たちが話している内容を聴く、ということである。講習会に定期的に出席する。学会の勉強用セッションに出る。オンラインでやっている勉強会に顔を出す。「教科書だけ見ていてもわからないニュアンス」みたいなものが、人の口から念入りに語られるとだいぶわかりやすい。この方法が優れているのは、いい講師ほど、「多数の写真をプレゼンしてくれる」ということである。

ただし、人の口から聞くことには弱点もある。それは教科書ほどの「量が学べない」ということだ。念入りに語れば語るほど、1例にかける時間が増えて、多数例を勉強できなくなるから当たり前だろう。

でも、弱点を補ってあまりある効果もある。それは、講師自身が手に入れた最新の情報がそこには反映される、ということである。医学がアップデートされていくたびに、「これまでの教科書ではこう書いてましたけど、今はこう変わりました」みたいに、細部が変更されていくのだが、それらをリアルタイムでキャッチアップしようと思うとき、「情報の更新になれている先輩たちの口から語られる情報」を頼りにするのはとても便利なのだ。



さきほど、勉強しなければいけない理由がふたつ、「量がすごい」のと「アップデートが多い」と書いた。そしてこれらに対応するのが、「量を学ぶのに向いている本」と、「アップデートを語るのに向いている先輩」だと考えればよいだろう。本は安定した内容がまとまっており、文章が優れていて、写真が少なめだ。一方、先輩は量を語れないけれど、写真をいっぱい出してくれるし、何よりアップデートをやさしく教えてくれる。これらを使い分けるのがポイントだと思う。




「本」と「先輩」のいいとこ取りをしてくれるものはないかって?

それが「学術論文」だ。アップデートをコンパクトにまとめつつ、いい論文ならば語り口もおもしろいし、豊富な写真で深掘りしてくれることもけっこうある。

だから医者はすぐ「論文読め」「論文読め」と言うのだ。そして多くの病理医もまた、論文を読んで毎日勉強をする。でもまあそれだけだとぶっちゃけ飽きてくるから、大御所の本を読んでほっとしたり、同業者たちの話を聞いて「あーやっぱりバーバルなコミュニケーションって最高だよな」と笑ったりするのである。



※今日の話はだいぶ雑に書いてます。いつもか。

2022年10月14日金曜日

個と公

#にじフェススクショ下手選手権 というハッシュタグが上がっていてとてもよかった。まさにツイッターならでは。




まあ、マニアックである。このトレンドを目にした人が世の中にどれだけいるだろうか、という話だ。しかしこの際そういうことはどうでもいい。

個の物語が個のまま現れているところに、笑顔を向けられるか、あるいは泣き顔を向けられるか、そういった話だ。たぶん一番コアのところにある。





國松先生のFacebookに書かれていた記事、についていた萩野昇先生のコメントにすさまじいことが書いてあって、それをそのまま転載するのはさすがにルール違反だからそのままは書かないけれど、簡単に説明する。


・どんな病気も、患者さんその人に固有の「生活史」に沿って立ち現れてくる

・ところが医学は患者さんの固有性をそのまま扱うことがむずかしい。たとえば患者さんの中でその病気がどのように変遷していき、その患者さんだけが抱える個性的な苦しみみたいなものが時間と共にどううつりかわっていくか、まではフォローしきれない

・学術的に、あるいは商業ベースで、普遍的に、医療をサービスとして行おうとすると、個別具体的なものをそぎ落として、共通性のある概念として扱うことになる

・それって私たち(※萩野先生や國松先生)にとってはちょっと苦しいことである


こういったことが素晴らしい語彙でコンパクトにまとめてあった。感動してしまった。市中で医師をやるというのはまさにそのジレンマと戦うことなのだ。ただし、もやもやとする違和を抱えてはいても、それを言葉に仕切れていなかった今までのぼくは、「何と戦っているか気づいていないうちにHPがスリップ状態(※FF)で少しずつ減っていた」と言える。ここまで言葉になるとは……。哲学者の後ろをついていったら見たこともない場所、ただし確かに通ったことがあるはずの場所にたどり着いた、みたいな感覚である。




個と個として互いを扱うことを至上の目的としながらなお、ぼくはこれからも「分類」をしていくことになる。それはなぜかというと、医療を支える者たちがみな患者に興味を持っているわけではないし持つ必要もないからで、市民が受け取るべき医療が常に個に密着した濃厚なものであるべきというのはむしろ害悪に近い「余計なお世話」だからでもあるのだが、疾病・病理というものの最後に控えている「その疾患だけに起こったできごと」までも言語化したいと欲望する病理医は、「分類してもなお個に向かう」というバランスを考えて行かなければいけないんだろうなとため息をついた。




……とこれで今日の話を終えるつもりだったのだが、送信予約を押す直前にすごくいいnoteを読んだ。直接今日の話とつながるわけではないのだが、つなげるとよいのかな、と思う。長文なのでブックマークでもしといてください。

https://note.com/ytmsm/n/n04d15e28f3c0


2022年10月13日木曜日

病理の話(705) がんは分身の術を使う

がん細胞とはどういう性質をもっているのか。代表的なものとしては以下があげられる。

・無限に増え続ける。だからどんどんでかくなる。
・正常の細胞が持っているはたらき(仕事)をしない。
・正常の細胞がとっている構築を無視する。「チームのフォーメーション」を壊しにかかる。
・細胞に寿命がない。栄養さえあればずっと生きていられる。

ということで、手術でとってきた臓器を顕微鏡で見て、そこにがんがあるときには、たいてい、下に述べるような雰囲気をまとう。

・細胞がみっちみち! 元からあった正常の細胞をへりにおいやる。
・細胞がキレッキレ! 元からあった細胞のスキマに入り込んでどんどん増えていく。

しかし、このように、本来いてほしくない細胞が大量に増えて、正常の構造を追いやったり破壊したり、という現象は、じつはがんに限った話ではない。

たとえば、炎症が起こると「炎症細胞」という名前の細胞がいっぱいやってくるのだが、これらもまた、がんではないくせに、正常の細胞をへりにおいやったり、元からあった細胞のスキマにどんどん入り込んだりする。



では、「がん」と「炎症細胞」をどうやって見分けるか。

そこはもちろん顕微鏡を使えばいい。がん細胞と炎症細胞では見え方が違うのだから、すぐに区別がつくだろう……普通は。

ところがここにやっかいな落とし穴がある。



「炎症細胞ががんになっている場合どうする?」



そう、がんの中には、炎症細胞のふりをした……というか、見た目上、炎症細胞との区別がつきづらいものがあるのだ。悪性リンパ腫とか、白血病などと呼ばれる病気がそれである。

まあ、通常の炎症細胞と、「がんである炎症細胞」とは、やはり見た目が微妙に違うので、よーく見ればわかるときもあるのだけれど……。

組織の中でやたらと増えまくっている細胞が、がんなのか、単なる炎症なのかでは、治療方法がまるで違うから、そこの区別を間違ってしまうとオオゴトになる。



見た目で見極める以外になにかいい方法はないものか?




ここで、例え話をする。ぼくは札幌に住んでいるので、札幌市の真ん中にある大通公園を歩いている人をランダムに10人つれてこよう。そして好きな野球チームをたずねる。

ひとりは巨人ファンだと言った。ひとりはソフトバンクファンだと言う。ほか、広島ファンがひとり。あとの7人は、「野球にはそこまで興味がないです」と答えた。

これが普通である。世の中は多様だからだ。

しかし、あるとき、そのへんに歩いている人を10人つれてきたところ、全員が、

「生まれた時からずっと横浜ファンです」

と口を揃えたとする。



そんなことはあり得ない。横浜ファンばかり10人も、札幌大通にいるわけがないのだ。

おかしい! と思って10人の顔を見渡すとみんなどこか三浦大輔のおもかげがある。直接めちゃくちゃ似通っているとまでは言わないが、どことなく、番長だ。ユニフォームを着ていなくても、リーゼントをほどいていても、わかってしまうのだ。

「正体を現せ!」

すると10人の三浦モドキは、声をハモらせる。

「「「「「よくわかったな われわれは みな同じ三浦大輔から分身したものだ いうなれば三浦コピー 得意技は二段モーションすれすれの投球」」」」」





よくわかる例え話は以上なのだが、何が言いたいかというと、ふつうの組織においては、細胞は「多様でなければならない」のである。たとえばあるタンパク質を持っている細胞と持っていない細胞が混在しているのが当然だ。しかし、がんになると、増えている細胞がみな「何か同じタンパク質を共通して持っている」。イムノグロブリンの軽鎖・κ鎖だけを持っていてλ鎖を持っていない、みたいに。

なぜがんはどれもこれも同じ持ち物をもつのか。それは、がんがまさに「分身して増えている」からである。がんは無限に増殖するし、おまけに寿命がないので新陳代謝で入れ替わらない。ひとつの細胞が倍々ゲームのように無限増殖をくりかえすことで、正常の細胞に影響をあたえるがんに育つのである。

したがって、そこに増えている細胞が、「がんか、炎症細胞かわからない」と言ったときには、持ち物チェックをする。免疫染色やin situ hybridizationと言った手法を用いて、そこにある細胞たちがどのような持ち物を有しているかをピンポイントで調べる。

(※すべての持ち物チェックをするのではなく、○○があるか、ないか、みたいな観点で検査することがふつう)。

そして、そこにいる細胞たちがどれもこれも、同じ持ち物を持っているとき、「多様性を無視しているこいつらはおかしい! がんではないか?」と判定するのである。病理医ヤンデルは三浦大輔監督を応援しています。

2022年10月12日水曜日

知らないままでいればいい

※このブログは当初、10月5日に公開する予定でしたが、急遽文学フリマにかんする記事をそちらに差し込んで公開を1週間のばしたため、文フリの話で新しいスマホになっているにもかかわらずまだ古いスマホについてぐだぐだ書いています。



スマホも3年9か月ほど使うとバッテリーの劣化がはげしい。しかし、そのことにあまり気づかないままここまでやってきた。

3年9か月のうち、2年6か月ほど、このスマホはずっとデスクで充電器に刺さっていた。まるで出かけなかった2年6か月、バッテリーの能力なんて必要なかった。

しかし、ついに、出張生活が復活しつつある。前の頻度からくらべればたいしたことはないが、京都、旭川、東京と、ぽつりぽつり移動が増えている。ここでてきめんにスマホのバッテリーがぼくを殴りつけてくる。午後まで仕事先で充電していたスマホが、飛行機に乗っている間に充電20%くらいまでへたっているのだからひどいものだ。運動不足のぼくよりはるかに体力が少ない。


家族はみなiPhoneだがぼくはここんとこずっとAQUOSだ。そろそろ次のAQUOSに変えようと思う。AQUOS スマホ で検索。美麗なホームページばかり出てきて、機種ごとの比較サイトになかなかたどり着かない。R7? そんなフラグシップモデルはいらないよ。wish?sense? なにがどう違うの? 実物を見ずに商品を選んでいく。本体の色味がわからないのはあまり気にならない。どうせケースにおさまるからだ。でも、充電の持ち具合とかメモリのキレがわからないのは困るなあ。

ここ最近のGoogleは、医療情報の選別はだいぶうまくなった。でも、家電絡みの検索結果はポンコツきわまりない。ブログレビューはあてにならない。「2週間使ってみました」でアクセス数を稼いでいるだけのように感じる。口コミサイトはピントのずれた文句ばかりが並んでいて気にくわない。学食で何を食べても文句を言ういやな大学講師みたいだ。そういう性格の悪いことしてると友達なくすよ。


前は富士通のArrowsを使っていて、エリックに「マニアックなスマホはとてもいいと思います」とほめられた。しかしシャープと知り合って(あらためて文字にするとへんなかんじだ)、だったらスマホもシャープ製でいいやと思ってAQUOSに乗り換えた。富士通にともだちがいたらArrowsのままだったろう。企業に好き嫌いはないが縁があるほうを選ぶ。こればかりはもう、そういう生き方をしていますとしか言いようがない。Appleには今のところ友達はいない。もしAppleに友達ができたら、iPhoneは……使わないだろうけど……iPadを1つ買う可能性がある。そういう生き方をしていますとしか言いようがない。


あまりテンション高めにスマホを選ぶ気持ちにはならない。実際ぼくは、今以上のカメラスペックはいらないし、そもそもスマホで使うのってKindleツイッターくらいなのだが(ゲームすらやらない)、最近のホームページや動画はどれも容量がでかくなる傾向があって、メモリくらいは時代にあわせて強くしないともっさりして使いにくいだろう。それにバッテリーだけは持ってほしい、少なくとも1日は耐えてほしい。だからあまり型落ちしまくったやつを買うのも気が引ける。考えたすえに、中規模モデルで人気のあるAQUOS sense 6というのがわりと安めに(支払総額28000円くらい)買えそうだということでこれに決めた。オンラインで購入、代金は携帯代と合算で翌月に引き落としとする。


スマホの乗り換えはすこし緊張するけれど、Googleでひもづけられたパスワード系はGoogleアカウントさえ移行してしまえばすべて引き継げる。おサイフケータイ系の機能はSuicaだけなんとかすれば大丈夫だ。写真はすべてクラウドである。自分で十分やれるだろう。


2時間迷って20分で購入完了。スマホは自宅にとどくらしい。今週の平日は受け取れる時間がないので次の週末の夜に配送を指定する。


夜が明けて気持ちは晴れやかだ。4年弱使ってきたこのスマホとも最後の1週間ということになる。ほどよく情をのせながらTwitterを開くと、スマホ新機種の情報が入ってきた。AQUOSにsense 7が出るらしい。まさかの「購入予定機種の直属の後継モデル」なので笑ってしまった。買った翌日、商品が届く前日に型落ちした。昨日めんどうくさがらずにリアル店舗に行っていたら、あるいはこのことを教えてくれた……だろうか? いや、ま、教えてくれなかった可能性もあるな。むしろネットで済ませたからこの程度のダメージで済んでいるのかもしれない。


AQUOSの最上位機種(R7)はライカ製のカメラを搭載していると聞く。その点、sense 6は普通だ。ザ・普通。それが「7」にかわるとおそらく細部が使いやすくなったりバッテリーの持ちがちょっとだけよくなっていたりするのだろう、ぼくが手に入れたsense 6と比べたブログ記事もいっぱい書かれるに違いない。たぶんこのスマホが届くころに、GoogleでAQUOS 比較 と検索すると、「sense 6はじつはこういう使いづらさがあったのですが……sense 7では改良されています!」みたいな逆鱗なでなで記事が出てくるんだろうな。予想はできる。でもぼくがその記事を目にすることはないだろう。検索しなければ世の中はハッピーなままだ。検索なんてするからいけないのだ。スマホはKindleリーダーとして使うに限る。あ、Kindleリーダーを作ってる会社に友達ができたら、たぶんスマホでマンガ読むのはやめると思います。

2022年10月11日火曜日

病理の話(704) もうけが出ない部門ですので

お金の話をしよう。

日本では、大腸ポリープをひとつとったら病院は患者からいくらお金をもらってください、胆嚢をとったらいくらもらってください、という額が、国によって決められている。

さらに言えば、「○○病で胆嚢をとったらいくらもらってください」というように、病名×治療法の組み合わせごとに、細かく金額が定められている。

たとえば、まったく同じ病気にかかった人は、退院するときに、基本的に似たような額のお金を支払うことになる。ただし、個室料金など医療と関係ない部分の支払いがくわわるので、完全に同額にはならないが。



なぜ、「医療」というサービスの額を国が決めてしまうのだろう。病院が、自分たちの努力に応じて値段を釣り上げてはいけないのはなぜか?

代官山のオシャレなカフェのコーヒーが1200円を超えても客は「まあ、そういうもんだよな」としぶしぶ納得するけれど、手術1回でブラック・ジャックが「3000万です。びた一文まけないぜ」と言うのは許されない。これはなぜか?


理由はわりとわかりやすい。

医療費の大半を支払うのは、「健康保険」だからだ。「俺、金あるよ!」という患者がいても、支払いの大半は患者自身が払うわけではなく、事実上、国民が払っている。

もし、病院ごとに医療の値段が異なって、患者が「少しでもいい医療をうけたいから高い病院をえらぼう!」とやったとしても、高い支払いのうち、患者本人が払うのは3割以下でしかない。7割以上は、国民から徴収した保険・税金によってまかなわれる。

したがって、病院があまり勝手な値付けをすると、国民みんなの負担が増える。だから、国は、医療行為に対して「診療報酬」というのをこまかく決める。病院はこの診療報酬にあわせたお金しか稼いではいけない。



たとえば、「S状結腸切除術」という手術がある。手術でお腹をひらいて、大腸の一部を20センチとか30センチといったオーダーで切り取ってくるものだ。この、「小範囲切除」とよばれるタイプの大腸手術にさだめられた診療報酬は、

 24170点

である。なぜ「点」を用いるのかはめんどうなので説明しないが、日本円に換算すると基本的には1点=10円としてよいので、発生する金額は241700円である。

ただしこれはあくまで「手術」という医療行為だけに支払われるお金だ。

実際にS状結腸切除術を行うと、手術に必要な検査や投薬という医療行為がめちゃくちゃいっぱい必要になる。そのすべてに診療報酬が定められている(つまり国が金額を決めている)。ぜんぶ総合すると(※後述するがDPCというまとめシステムがある)、入院1回で病院に入ってくるお金は、だいたい135万円くらいになる。

でも患者が支払うお金は、このうち40万円ちょっとだ。

残りの95万円は国民から集めた医療保険や税金でまかなわれる。

(※高額療養費制度という患者救済システムがあるので、40万円払ったあと、その多くは患者に返還される。この財源も国民から集めたお金である。)


手術ってめちゃくちゃお金かかる。でもそれくらいかけないと、何十人ものスタッフの人件費や、最新かつ衛生的な医療機材、物資代、施設の管理費用などがまかなえない。病院ってちゃんと運営しないと普通につぶれる。


さて、外科医が中心となり、麻酔科医や手術看護師、生体工学技士など多数のスタッフによって支えられているS状結腸切除術の診療報酬額が241700円であった。241700円かけてとられたS状結腸を、細かく見て診断するのは誰か? ここで病理医の出番だ。つまりは病理診断を行うのである。

なお、登場するのは病理医だけではない。採取されたS状結腸を標本にするのは臨床検査技師だ。つまり、手術ほどではないにしろ、病理診断にも多数のスタッフがかかわっていて、手術でとった検体を詳しくチェックしていく。

ではこの病理診断に対する診療報酬は、いくらか?


なんと……520点なのである。つまりは5200円だ。

やっっっっっっっっっっっっす!

れっきとした医療行為なのにやっす!



患者にとってはいいことであろう。手術で臓器をとるプレッシャー、ストレス、そしてかかるお金のことを考えると、とりおわった臓器の検査なんて病院でやっといてくれよ、って感じなのではないか。

しかし、病理診断も医行為だ。そこには人件費も試薬代も機材の維持管理料金もかかっている。パラフィン包埋装置ひとつ買い換えるだけで何百万もする。

病理診断はすべての医師たちが頼りにしている「検体診断の要」だ。各種の診療ガイドラインも病理抜きではすすまない。だから金をかけてしっかりやっている。

しかし診療報酬は安い。つまり病院は、基本的に、病理診断をしっかりやればやるほど赤字になる。


病理医を複数雇っている病院には、さらに追加で診療報酬が加算されるシステムというのもある。「なあんだ、そうやって結局うまいこともうけてるんでしょ?」 いや、これがまた悲しいことに、複数の病理医がいることで加算される点数は合計でも440点どまり。

つまり病理診断1回で、10000円以上病院が受け取れることはなかなかない。

免疫染色と呼ばれる特殊な技法を追加すればさらにちょっと増えるけど……うーん……ケタが違うんだよな……。


ていうか、これらの定められた診療報酬はあくまで「目安」である。実際には、さっきちょっと書いた「DPC(診断群別包括評価)」というのがある。病名×治療方針ごとに、患者(+国)がしはらう医療の総額は、どんな検査をしようが、どれだけ病理診断を細かくしようが、まとめて決められている。専門用語で言うと、「まるめこまれて」いる。

だからけっきょく病理診断なんてやってもやんなくても病院の稼ぎ的にはなんの影響もない。

国が認めた「病院にお金をどれだけ返してやるべきか」の基準がそもそもめちゃくちゃ安いから、経営的には完全にお荷物である。



……なのになぜ病院は金をかけて病理医を雇い、病理検査室を整備するのかって?

そうだなあ……理由は……「知を担保する部門だから」かなあ……。



町に図書館を作ったところで誰かがめちゃくちゃ稼げるわけではないでしょう。公益のためってそういうことだよね。病理部門の設置もそれにちょっと似ているのかもしれない。もうけが出ない部門です。しかし、金だけで医療を回しているわけではないので。

2022年10月7日金曜日

自意識過敏

旅行行きたい温泉入りたいおいしいもの食べたい!


でも、「旅行温泉おいしいものを豊富な選択肢の中から常に上手に選べる自分ダイスキ!」とか、「人がうらやむコンテンツに金を払った回数が自分の本質的な価値!」みたいな顔をするタイプの大人ではいたくない!


現在、このような、繊細ゴリマッチョ自意識をもてあましている。いわゆる自意識過剰と言われるやつである。




今、「自意識過剰」という言葉を何気なく使ってみたが、たいていの場合、自意識は過剰なのではなくどちらかというと過敏なのではなかろうか。

自分(の行動)が周りからどう見られているかを気にしすぎることを、「過剰だなあ」「過剰イコール贅沢だよ」「そういうのは減らすほうがいいよ」みたいに叩いて、ならそうとする社会の圧がある。しかしこれはそもそも、「気にしないように気を付ける」みたいな自己矛盾で解決できる話ではない。


「考えすぎだよ~」「そこまでみんな気にしてないよ~」みたいなセリフが、自分に向けて、あるいは他者が他者に向けて使われるのを今まで何度耳にしたことだろう。時候の挨拶かというくらい使われすぎている。聞いた回数だけなら「きっちり犠牲フライ」よりも多い。これ、言われたことがある人ならわかると思うが、「考えすぎなので考える量を減らす」というムーブは基本的にうまくいかない。なぜなら、「考えすぎ」というフレーズで表現される場面で実際に「能動的に考えすぎていること」はまず100%あり得ないからだ。

「考えさせられている」ことはある。「考えさせられすぎだよ~」なら、たぶんもっと場面にマッチする。しかしこのような言葉を使う人に出会ったことはない


考えすぎだと言われる人間は考えすぎているのではない。センサーが過敏すぎるのである。能動ではなく受動の話だ。「もっとのんびり生きなよ~」、いや、だから能動の調整でどうにかなる類いの話ではない。花粉症の人に「もっとくしゃみ止めなよ~」というのと構造としては一緒だと思う。鼻水は出そうと思って出るものではない。花粉を受け止めるセンサーが過敏すぎることに原因がある。それといっしょだ。思考はしようと思ってするものではない。自意識は増やそうと思って増やせるものではない。



体表に張り巡らせてあるセンサーを減らす方法はあるだろうか。アレルギー医療の世界では、抗原への暴露を避ける、的確な薬剤を用いる、などの方法のほか、「少量ずつ暴露させることで体を慣れさせる」みたいなけっこうギリギリの綱渡り的な方法を臨床試験レベルで用いることがあるが、これは患者が自己判断で「蕎麦アレルギーだけど食べられるようになるために舌の上にお蕎麦をちょっとだけのっけて我慢してみよう!」みたいなことをやっても絶対にうまくいかない(マネしないでください)、超絶難しい専門技能であって一般的にはおすすめできない。

ていうか一度過敏になるとそう簡単には治らないのだ。過敏である自分を把握した上で、刺激に触れる回数を調整して「乗り切っていく」、「やりすごしていく」のが対処としては最も適切である。


したがって、「旅行温泉おいしいものを豊富な選択肢の中から常に上手に選べる自分ダイスキ!」とか、「人がうらやむコンテンツに金を払った回数が自分の本質的な価値!」みたいな顔をするタイプの大人、に対する過敏反応がある場合、そういう大人と極力会わない、話をしない、そうすれば自意識センサーが過敏に反応する機会も減る。旅行温泉おいしいものを豊富な選択肢の中から選ぶという行動自体も減らすとなおよい。こうして当初の「旅行行きたい温泉入りたいおいしいもの食べたい!」という根元に近いところにある欲望が抑圧されることになる。毎日デスクで仕事しておけば過敏症は発動しない。本末転倒とはこのことだが、たぶん、このやり過ごし方をしている人はぼくだけではない。めっちゃいると思う。

2022年10月6日木曜日

病理の話(703) わからないと言う前にちょっとだけ粘る

胃カメラや大腸カメラで、消化管のなかをつぶさに調べて、そこに何か「病変」を見つけたときにどうするか。

カメラの先端から、マジックハンド的なものを伸ばして、組織を採取する。

カメラで病変を拡大しながら、「ここは確実に病気だろう」というところを狙って、組織をつまみとる。サイズとしては小指の爪を切ったときの切りカスくらい取れる。

この作業を生検という。病変をきちんと狙ってマジックハンドを伸ばすから、昔はこれを「狙撃生検」と言ったけれど最近あまりこの呼び方を耳にしなくなった。狙撃というのはちょっと物騒だから、かな?



で、とってきた小さな組織片はすぐにホルマリンに漬けられて、病理検査室に運ばれる。

まずはホルマリンに漬けた状態で半日~1日待つ。小さい検体だと半日くらいでもまあよい。あまりホルマリンに長く漬けすぎると、タンパク質やDNAが劣化するので、ホルマリンに漬けっぱなしの時間は48時間を超えてはいけない。

十分にホルマリンによる組織固定がすすんだら、これをパラフィンとよばれる「ロウ」の中にしずめる。というか、しずめるだけじゃなくて、細胞の中にもパラフィンが行き渡るような処理をする。このとき、何種類かの有機溶媒を使ったりもする。

パラフィン(ロウ)は冷やすとかたまるので、最終的には樹脂の中にとじこめられた蚊のように、ロウの中に組織片がとじこめられる。パラフィンブロック、と呼ぶ。この状態だとかなり長く保存できる。タンパク質だけなら30年以上持つ(RNAはさすがにきびしい)。

そしてこのパラフィン漬けの組織を薄く切ってプレパラートにのっけて、色をつければ病理医が見る「標本」になる。けっこうな手間がかかっている。




標本を見て……


数ミリくらいの標本を顕微鏡で見て……


はしっこに……100 μm(マイクロメートル)くらいの、ちっちゃーい範囲に、おかしな細胞を見つけた!!


さあ診断だ! 病気の正体を見極めよう。




と、まあ、こんな感じで進めていく。たった100 μmくらいであっても、病気が含まれていれば見抜くことはできる。

しかし、ときには、100 μmどころか、10 μmくらいしか病気っぽい細胞がとれていないこともある。サンプリングエラーだったり、「そもそも狙撃生検で採りにくいタイプの病気」だったりする。ままあることである。

そうなると、病理医としては、このような報告書を書かざるを得ない。



「病変微小のため、診断確定が困難でした。」




いやいや……せっかくあんなに苦労して、検体を採取したのに……プレパラートだってけっこうな手間をかけて作ったのに……ちょっと顕微鏡で見ただけで、「診断がむずかしいです」というのは、ちょっと雑ではないか? いや、はっきりと雑である。

こういうとき病理医はどうするか。ぶっちゃけ顕微鏡を何時間見ようと、細胞があまり取れていないのであれば、診断の進めようがない……が! 

じつはひとつ、やるべきことがある。それは、「もう数枚プレパラートを余計に作ってもらう」ということだ。



パラフィンというロウに埋め込んだ検体を、「薄く切ってガラスプレパラートに載せる」ことで標本ができあがるのだけれど、この、「薄く切る」を、くり返してみるといい。

組織片は、金太郎飴のように、どこを切っても同じ顔というわけではない。うすぎりを続けていくと、だんだん面がかわる。最初けずっていた部分と違うところが、だんだん表面に出てくる。

ガラスに載せる切片(せっぺん)、1枚はだいたい4 μmくらいの厚さしかないが……。

たとえば15枚ほど連続で薄切(はくせつ:薄く切ること)をすると、それだけで、60 μmくらいは「ずれる」。

すると、もともと10 μmくらいしか見えていなかった病変も、けずりこむことでだんだん姿を現して、最終的に100 μmくらいの姿になる……かもしれない。




これを深切り切片作成という。この深切りをやったところで、いつもいつも、情報が増えるわけではない。切ったら切っただけ組織がなくなってしまって、おわりかもしれない。

けれども、結構な手間をかけて、患者だって検査に緊張して臨んで、がんばって採ってきた検体なのだから、これくらい「粘って」みないとだめだと思う。わからないと決めつける前にちょっと粘る。それが病理医のたしなみだと思うのだ。

2022年10月5日水曜日

第七回文学フリマ札幌2022レポ

スマホを変えた、アカウントの引き継ぎがいろいろ楽になっていた。iPhone使いには「そんなの前からだよ」と思われるかもしれないが、Android使いにとっては「ここまでやってくれるんだー」と満足である。

アプリの自動ダウンロードやアカウント情報の自動引き継ぎまで(なんと有線で)一気にやってしまえたのがよかった。どんどん便利になる。そして不便だった昔のことを忘れていく。




10月2日(日)、札幌コンベンションセンターにて開催された文学フリマ札幌に参加した。出店者ではなく、客としてである。仕事の日程(プラス合間に行く美容室の予約)の都合で1時間しか会場に居られないから急がねばならない。とるものもとりあえずネコノス! と会場を見渡してブースを探すと、見慣れた浅生鴨さん(と、なぜかダイヤモンド社の編集者である今野さん)がすぐに見つかった。しかしすでに客が何人か並んで会話に興じている。ならば急ぐ必要はあるまい。場所はわかった、ほかのブースを先に見よう、歩き回ることにする。


すぐに声をかけられる。「もう帰るところなんです」とおっしゃるその顔に見覚えがあるなと思ったら昔から相互フォローで本の話題によく反応してくださるスズキセイラさんであった。直前にリプライをもらっていたのでブースに行く手間がはぶけてよかった。東京歌壇、毎日歌壇、日経歌壇に掲載された(それぞれの選者は東直子、加藤治郎、穂村弘というそうそうたる面々)短歌をまとめたホチキス本を手渡される。おいくらですかと聞いたらこれはタダなのだという。そういうやり方もあるのか、と文フリから先制ジャブをもらった気分である。本をたくさん入れたエコバッグを片手にスズキさんは去っていった。エコバッグならぼくも持ってきている。大丈夫、はじめての文フリだが作法はわかるぞ。


昔、「本の雑誌」に紹介されていた風変わりな名前の版元、「代わりに読む人」を見つける。そういう名前の会社、2019年創業。ここから出た『うろん紀行』という本がたいへんよいエッセイで、今も本棚のいい位置に納まっている。きっとほかの本も良いのだろうと、『百年の孤独を代わりに読む』や『パリのガイドブックで東京の町を闊歩する』などを購入。売り子は友田とんさんと言い、版元代表本人であった。サインをしてくださる。万年筆で丁寧に書いて頂くのがいい。レーベルのツイッターアカウントはすでにフォローしているので、友田とんさんのアカウントを探してフォローする。


出身大学である北海道大学の文芸部が出している本を2冊買う。さらに同じテーブルには北大推理小説研究会がいて、そちらの本も1冊買う。北大が何か出しているなら買いたいと思っていた。文芸サークルの「傑作選」はこれまで読んだことがないが、今は読みたい気持ちが破裂しそうである。大学生のときは同学年の書いたものを読みたいと思っていただろうか? それぞれのツイッターアカウントを見つけてフォローする。


さらにうろうろすると『北18条文学短編選集 NIKU-CHA』なるものを売っているあやしいおじさんのブースにたどり着く。売り子と顔が違いすぎる「とにかく明るい安村」似の中年男性の顔写真が宣材として用いられていて逆効果だと思うが実際こうして目に留まっているので順効果(?)である。昔よく行った北大そばのラーメン屋「ラーメン大将」の文学がありますよと言われて、えっ、なるほど、それは読みたいなと思う。じつにローカルすぎる。短編選集の表紙に書かれているNIKU-CHA、これ大将の肉チャーハンのことですよね、と聞いたらもちろんそうだと言う。わかりみが深い。文庫に既刊がまとめて入っているとのことだったので購入。ツイッターアカウントを見つけてフォローする。ツイッターに「写真の坊主の男性は専属モデルであり作者本人ではありません」と書かれており呆然とする。


ところで会場に来る直前にツイッターでハッシュタグ「#文フリ札幌」で検索し、いくつかのツイートを見ておいた。メモまではしなかったのだが、表紙の色合いが頭に残っていたものがあり、歩いていて見事に目に留まった。エッセイを1冊購入。お金を払うときに「ひだりききクラブをご存じなんですか?」と言われて、すみません、知らないです、さっきハッシュタグで見かけたんですと答えたら「わあ、ツイッターやっておいてよかった」と喜ばれる。こちらこそツイッターやっていたおかげで喜ばれてよかった。そのひだりききクラブというのは何なんですかとたずねると、自由律俳句の交換日記をやってるユニットですとのことで、はーすごいな、じゃあ俳句のほうも買わないと失礼だと思って自由律俳句の本も購入。エッセイのほうは東京の喫茶店が題材で……と言われて、そうか、文フリ「札幌」だけど道外から人が来ているんだと今さらながらに心で理解する。浅生鴨さんも東京から来ているのだから当たり前なのだが、鴨さんはもともと移動や行動のしかたがおかしいので一般に当てはめてはならない。


ネコノス(浅生鴨さんのレーベル)に移動して、挨拶をする。初老くらいの方が親しげに鴨さんと話をしている横で待っていると、あいさつを交わす前に鴨さんが、「ヤンデルさんはマメツカさんのことを知っておいていいと思うんだよな」と言う。ヨコにいた今野さんに「わあ!いつの間にいらしていたんですか!」と驚かれる。今話をしていらっしゃるこの方がマメツカさんとおっしゃるのかと思うとそうではなかったらしく、鴨さんと一緒に「あそこにいますよ」と遠くを指さす。よく見えなかったがそちらにマメツカさんがいる。探すことにする。


ところがマメツカさんのブースが見つからない。まあそのうち見つかるだろうと思って会場のうろつきを再開。『基礎研究っておもしろい!生物編』を購入。生物編以外に何があるのかと思うと生物編だけで第1集~第3集まで出ていてほかはないのだ。おもしれーと思い3冊まとめて購入。第3集が一番分厚い。こういうのって最初の勢いが一番強いんじゃないんだな。おもしれーと思いながらエコバッグに入れる。パンパンになってきた。ツイッターアカウントを見つけてフォロー。


1000円札をいっぱい持ってきたつもりがぜんぜん足りない。どうしよう。ネコノスに戻って話をしたら両替してもらえた。ひどいはなしだ、皆さんは絶対にまねしないでください。ごめんね。こんなに買うと思ってなかったの(この時点で16000円くらい使っている)。今度から30枚は持ってくるね。おわびの気持ちもあり何か本を買おうと思ったのだが、ネコノスの本はほぼすべて持っている、しかし本というのは何冊あってもいいものだ。知らないうちにいなくなったりするからだ。『すべては一度きり』と、『相談の森』と、じつは持っていなかった『寅ちゃんはなに考えてるの?』(革製本)を購入。これらを選んだ理由は単に、一番うちにある冊数が少ないからである。スマホのSuicaでお金を払いながらネコノスのブースに展開されている本たちを眺めていると、鴨さんが最近出したコピー製本的な作りの小冊子「かもがも」が、なんとも文学フリマの風景にマッチしていて感心した。文学フリマのような場を長年見てきたからこそ、このような作品を世に出せるということだ。


両替してもらって(すみませんまねしないでください)、気が大きくなって(調子にのらないでください)、さらに本を買いに歩き回る。背の高いおじさんがチラシをぼくに向かってヌッと差し出したので、ヌッと受け取るかわりにスッとブースに一歩近づく。これは何の本ですか? アパルトヘイトを題材にした小説です。エッまじで。タイトルをみると『プロテアの咲く大地』。しびれる。即決で購入した。この方はほかにもボスニアを題材にした小説など(ほかにもおっしゃっていたが忘れた)いっぱい書かれているらしい。ウッ、文学フリマっぽくなってきたなあと興奮する。購入後に巻末を見るとガチもんの政治学研究者でいらして、研究のご専門は韓国あたりのようだが国際政治にかんする小説をたくさん書かれているらしい。ツイッターアカウントを見つけてフォロー。


釧路からいらした方のエッセイを購入。これもたしか直前にツイッターのハッシュタグで表紙を見かけていた。タイトルまでは覚えていなかったが表紙の青が印象的だったので歩いていて引き寄せられた。『雪から霧へ』というタイトル。売り子をされているのは作者ご本人だろう(たいていそうだと思うのだが……会場ではけっこうお手伝い売り子さんもいるように思えたので念のため「だろう」に留める)に聞くと、いろんな文学賞に応募されており、かなりいいところの最終選考にも残るものを書かれているのだという。プロとアマの境界はすでにない。ツイッターアカウントを見つけてフォロー。


A4を二つ折りにしてホチキスで留め、その上にビニールをかけた本を売っている方のブースで立ち止まる。『お隣のインフルエンサー』という名前の冊子を1冊購入しようとすると100円ですと言われる。短編小説ならばいくつか買って読むのがよかろうと、周りにあった3冊もまとめて手に取っても合計700円。ツイッターアカウントを見つけてフォロー。


『調べ 第四号 二〇二二年秋』を購入。和紙のようなテクスチャの表紙に赤い糸が貼り付けてあって、おそらく製本をご自身でやられているのだろうとわかる。店にいた中年の女性に思わず「いい表紙ですね」と声をかけるととてもうれしそうにされる。四名による合作で中身は随筆や詩、そして紙を用いたある種の芸術作品。発行者である「残党舎」を検索しても、過去の文フリの出展記録しか出てこない。ツイッターアカウントもない。「不便だった昔のこと」を急速に思う。そして、不便という言葉の雑さに気づいて陶然となる。これで何が悪いのだろうかと思う。



そろそろエコバッグが限界というところで、さきほど鴨さんと談笑していた初老の男性がひとりでブースに立っているのを見つける。ああ、ここだったのか、と近寄っていき、マメツカさんの御本はこちらですか、と話しかけていろいろと教えていただく。豆塚エリさんという方は本日も会場にいらっしゃっているのだが、ときおり会場を離れて休憩する必要があるようで、そのタイミングではお目にかかれなかった。ぼくの残り時間ももうないから今日は会えないだろうと思いつつ、文学フリマなのだから文学を読ませてもらえばいいのでさほど問題ないとも感じる。さっそく『しにたい気持ちが消えるまで』というISBNのついているきれいな本を購入。この本は何度かツイッターで目にしており覚えていた。帯に荻上チキさんが言葉を寄せている。ところで、男性は何者なのかと思うと、豆塚エリさんといっしょに版元をやって、豆塚さんの詩集を発行してきた方なのである。あとで検索すると「大分の紅茶屋さん」なのだそうだ。そんな小説みたいな話が本当にあるのかとびっくりしてしまった。詩集『あまざらしの庭園』と、異様にきれいな星空の写真に詩がついた『誰のもとにも星は降るから』を購入。男性は「豆塚はツイッターをやっておりますので、よかったら感想をつぶやいてやってください』と言った。もちろんですと答えてその場でツイッターアカウントをフォロー。



大量の本を車に積み込んで次の予定である美容室に向かう。友田とんさんの『百年の孤独を代わりに読む』を美容室にもちこんで、カットの間中よみふける。職場に移動してウェブ会議をはじめる。日曜日に会議なんて入れるのが悪い。会議中、今野さんから「札幌のうまい店はないか」とツイッターDMが入る。会議に出ているふりをしながら、肘の下の振動が画面に映らないように気を配りつつ駅近くの店を3軒ほど紹介する。早く本の中に入りたいなと思う。便利でしょうがなく、昔の不便さを忘れて、昔からある惑溺に心を持っていかれて気もそぞろとなる。それぞれのブースで写真を撮っておけばよかったな、と、新しいスマホをチラ見しながら今日のことを思い出す。会議はまだ終わっていないのだがブログを書き始める。会議が終わる前にブログを書き終えて送信予約のボタンを押す。

2022年10月4日火曜日

病理の話(702) あるある探検隊

「とても難しい病理診断」というのが年に何度かある。


細胞を見てすぐ、「Aという特徴があり、Bという特徴がないので、□□病です」みたいに、ビシッと診断がつくのが理想だ。ちょっと表にしてみよう。


      特徴A    特徴B

□□病   ある!    ない

○○病   ない     ある!


すべての病気がこうやって分けられるなら診断はシンプルだ。

しかし、実際に病理診断をしていると、特徴Aも特徴Bもかねそなえた細胞が観察される場合があるので、困る。



例をあげよう。

ある細胞が、CEAというタンパク質をもっていたら、それはきっと「腺(せん)上皮」と呼ばれるタイプ。

また、CK5/6というタンパク質を持っていたら、それはおそらく「扁平(へんぺい)上皮」と呼ばれるタイプである。

しかし、ときに、CEAもCK5/6も両方持っている細胞というのにお目にかかる。この場合、どう考えるべきか?


腺上皮でもあり扁平上皮でもあるわけだから、「腺扁平上皮」?

……答えは……YESかもしれないし、NOかもしれない。

CEAとCK5/6を両方持つ細胞が、腺上皮と扁平上皮の「あいのこ」であることはある。しかし、ほかにもパターンがある。

「たまたまCEAを持ってしまった扁平上皮」

とか。

あるいは、「腺上皮としても扁平上皮としても中途半端な、まだ何にもなれていない未熟な細胞」のこともある。話がむずかしい。


これ……たとえが難しいんだけど。

「女装をした男性」と、「男性器と女性器を両方もっている人」と、「見た目は男性だけど心は女性でありしぐさも女性」とは全部違うじゃないですか。

これらを、「ちんちんがあれば男」みたいに言うのってすごく雑じゃないですか。

それとちょっと似てると思うんだよな。「ある」「なし」だけで判定できるほど病理診断もあまくない。



なお、そんなんどっちでもええやん、とはならない。なぜなら、腺上皮の性質をもつ「がん」と、扁平上皮の性質をもつ「がん」では、効く抗がん剤の種類が違ったり、放射線治療の効果が違ったりするからである。

病理医が趣味で分けている話ではない。分類することで治療方針が変わるから、「どっちつかずだなあ」では困る。



(特に若い病理医に多いのだが)、「細胞がこの性質を示しているのですから、ぜったいこの診断ですよ」みたいなことを言う人がいる。「Aがある」なら「○○である」と確信するタイプの診断だ。しかしそれは危険である。

・あいのこ

・どっちつかず

・だまされ

など、診断が難しくなるパターンは山ほどある。検査すりゃわかるんでしょ、という言葉が突き刺さってくる。そう簡単じゃないのだ。

2022年10月3日月曜日

脳だけが先に出る

この年になって咳喘息を発症することになるとは思わなかった。軽症であり日常生活に支障はさほどない。横になっているとほぼ咳が出ない。つまり典型的な咳喘息とはすこし違うのかもしれない。ただ、あるタイミングで咳が出ることだけは間違いがない。もう1か月くらい続いている。

しゃべり続けていると咳が出る。Zoom会議であれば、話をしている途中で咳が出そうになるとミュートをすればまわりの人には咳の音を聞かせなくて済む。しかしリアルの会議だとそうはいかない。のど飴をなめている間は咳が出づらい。気圧が下がると咳が出やすくなる。こういった「付き合い方」を少しずつ学んで行く。病気がよくなることで楽になるのではなく、対処方法を知ることで楽になるタイプの闘病。腰痛や肩こりなどと同じように扱っていく。



「しゃべる」で思い出したことがあるので話題を変える。最近のぼくは、人前でしゃべる方法がよくわからない。より正確に言えば、自分がしゃべり方をわかっていなかったことに気づいた。誰かと和気あいあいと会話した内容が、録音・録画されていることがあり、まあSNSとか仕事とかの都合なのだが、あとでそれを聴き直すと、他の人は流れにのってわかりやすくしゃべっているのに、ぼくはどうも複数の話題を同時に語ろうとしていたり、しゃべっている途中でその話題の結末が見えると次の話題のことを考えていたり、自分だけが持つ前提によって会話の途中をスキップしたりと自由奔放なのである。音声による会話というのは不思議なもので、音声以外の(ノン・バーバルな)雰囲気がかなりその場を保ってしまうようで、ぼくが異なるレイヤーの話を混ぜてごちゃごちゃとしゃべっていても、相手はそれをほどよく取捨選択して、上手に必要な部分だけを切り出して、ぼくが触れている複数の話題に無理についていこうとせずに、メインの話題をうまく選び取ってくれている。そのために、会話がうまく成り立っているように感じてしまう。しかし実際に内容を文字に起こしてみるとぼくの発言はしっちゃかめっちゃかで、かなり「編集」しないと文章としては認識できない。そういうことがよくある。ああ、ぼくはしゃべるのがへたなんだ、と思った。そしてこれをぶっちゃけ咳喘息のように扱うしかないと思っている。対処するのだ。こういう話題のときには咳が出るようにぼくの脳が言語化より早く表に出る。それでは成り立たないものがたぶんあるので、脳がそのまま出そうなタイミングを覚えておいて、あらかじめのど飴をなめるようになんらかのギミックによって自分の会話をコントロールする。どうがんばっても脳がゴホンゴホン出てきてしまうときにはいっそ思考を臥床させて聞き役に回る。そうすれば脳は出てこなくなる。



こういったことを考えて文章にまとめたあとで読み返す。左から右に一文字ずつ進んでいく日本語文章の方向が制約となって、叛逸する思考をなんとかひとつの流れに収めようとしている。しかし、手を加えないとやはり、まっすぐの流れにはなっていない。会話ほどではないが、文章でもやはり、コントロールできていないのだろうなと思う。文章が載る場所が商業誌であれば読者のタイプにあわせてかなり手を加える。しかし、今使っているここのブログではそこまでしない。むしろ、複数のことを同時に考え、結末が見えたものをそれ以上書かず、自分の歩んできた前提を元に議論をどんどん跳躍伝導させたものを置いておきたいという気持ちがある。自分の部屋でならいくら咳をしてもかまわない、という感覚。肋骨を傷めるリスクを引き受ける。