2022年10月19日水曜日

病理の話(707) 医学教育のこと

学生に向けて説明するために、病理学の教科書を読んでいる。ぼくが知っていることをそのまましゃべっても伝わらない。「医療者であればとうぜん知っていること」を、学生はどのように学んだらいいのか、これをぼくは学ぶ。

「医療者であれば知っていること」。

今、「とうぜん」という言葉を使ったけれど、本当はぜんぜん「とうぜん」じゃない。何かを知るまでには、みんなの努力と歴史が詰まっているからだ。




ぼくは今44歳なので、医学部時代に授業を受けてから20年以上経っているわけだが、大学時代の思い出なんてほとんど消えてなくなってしまった。生活、旅行、部活、これらの記憶はもう粉々である。それなのに、「褐色細胞腫の10%ルール」とか、「ピルビン酸回路」であるとか、「東アジア型ピロリ菌」といった、学生時代に習った医学のいくつかについては未だに覚えているわけで、これはすごいことだと思う。

あのとき習った講師たちはおそらく今のぼくと大してトシも変わらない。教え方だって別にそこまでうまかったとは思えない。じっさい、講義で誰にこう教えられた言葉が印象的だ、みたいな記憶はほぼない(長嶋和郎先生を除く)。しかし、今こうして「医学部で習ったから覚えている」ということが頭の中にいっぱい残っていて、わりと便利遣いしていることを考えると、医学教育というのもなかなか捨てたものではないなと思う。

記憶の定着に必要だったのはなにか? 反復? 試験? 高校時代に何度も何度も勉強した微積分は、その後いっさい使わずに26年経っても覚えているのだから、受験方式のアンチ忘却曲線的たたき込みが長期記憶にとって効果があることは間違いない。でも、きっとそれだけはない。

大事だったのは医学教育のカリキュラムそのものではないか。「あの順番」、「あのペース」で少しずつ習っていったことに、脳への定着力を上げる何かがひそんでいたのではないかとわりとマジで思う。

解剖学から組織学、生化学から細菌学、薬理学、生理学から病理学と基礎を順々に学び進めていって、臨床各論へとつなげていく流れ、このどこかで「さっさと現場で使える知識をよこせよ!」と憤慨してショートカットしようと思うと最終的にその「現場で使える知識」がうまく頭に入ってこなくなる。

長く頭に残っている臨床医学というのはいずれも、「生化学をおろそかにせず、病理学を通過した上で習ったもの」であった。ある授業のときに聞いておもしろいと思って覚えていた、という話の裏に、「その話をおもしろく感じられるだけの積み重ね」が必要だった。生体内の現象が物質の拡散や浸透膜を介した移動、受容体を用いたシグナル伝達などによって引き起こされていること、それが一般にどのように「病的に」なるのかを物理学的にも化学的にもわかっているからこそ、公衆衛生学や疫学の裏にある「確率的なふるまい」が実感されるようになるし、エビデンス・ベースト・メディスンの肌感覚も伝わろうというものである。



連綿と数珠繋がりになっている医学を習うのに6年かかる。そこからさらに「人の間でコミュニケーションしながら微調整をかけていく」という医療に踏み込むのに10年以上かかる。「医学生は大学時代に勉強ばかりしているからだめだ」を平気で言う人は少なくなった。安心してじっくり取り組んでほしい。