2022年4月28日木曜日

流行りの役者を起用する

燃え殻さんが原作を書いておかざき真里先生がマンガにした『あなたに聴かせたい歌があるんだ』が、Huluオリジナルドラマになるのだけれど、伊藤沙莉が出演するというのでHulu契約しようかなあ……と思い始めた。普通にファンである。


ただしその役柄が「アイドルを夢見て上京する人」だと聞いて、ほう、と思った。マンガに出てきたから、どういう立ち位置のキャラクタかはわかる。そして、マンガ版では、ぼくが考える限りはほかにも「伊藤沙莉が演じそうな人」がいたと思う。

ドラマ版の配役を担当した人は、「あれ」が一番伊藤沙莉っぽいと思ったわけか。へえー。


ドラマや映画の監督が「原作を読んでいて自然とこの方の顔が思いました。この役者さんしかあり得ないだろう、とね」なんて言うとき、そのまま字面どおりに受け止めることはない。たいていのドラマや映画はそのとき旬の、出まくっている役者しか出てこない。選択肢は最初から決まっているのだ。この10年は本当に露骨である。20年前もそうだったかな。最近はモブですら同じ人だ。役者ってあんまりいないんだな、と思うことも多い。秒単位で視聴率管理をするテレビドラマならまだわかる、画面に誰が映ったとたんに視聴率が上がる・下がるがあるわけで、ちょい役・モブ役でも気は抜けないし、すでに「人の目を惹き付ける実績がある人」をチョイスするのは当たり前のことであろう。しかし映画でもサブスクでも同じとはね。


ただし、そのことを責めようとまでは思わない。じっさいぼくは伊藤沙莉が出ていれば、それがどの役柄であっても見ようかなと思うわけで、伊藤沙莉が燃え殻さんの『ボクたちはみんな大人になれなかった』に出演しており、今回また燃え殻さん原作のドラマに出ることを「またかよ節操ねぇな」と思うよりも、「燃え殻さん独特の、掠れ声の世界観みたいなものに、伊藤沙莉さんはぴったりだもんなあ」という気持ちのほうが大きい。


というわけで伊藤沙莉フィーバーはまあ喜ぶとして、ドラマや映画で同じようなキャストばかり呼んでしまう現象に関しては、ほかに思うことがある。

それは、ぼくが自分でしゃべるときやものを書くときのことだ。

たとえばこのブログにしてもそうなのだけれど、ぼくは、自分が直近で気に入ったフレーズや「書き回し方」みたいなものを、何か文章を書くたびに、あるいはしゃべるたびに「何度も出演」させていると思ったのである。

またムロツヨシをそこに置くのかよ、みたいな頻度で、「また俺の文章、複雑系の話でまとめてるな……」と感じることがある。松重豊並みの頻度で「偶然性」を語り、岸井ゆきの並みの頻度で「アフォーダンス」を語る。香川照之並みに登場するのが「俯瞰と接写をくり返すこと」であろう。

脳内風景をきちんと吟味して、脚本を読み込んで、世の中にいっぱいいる俳優の中から「これぞ!」という人に白羽の矢を立てることをせず、なんとなく最近テレビに映っていると目で追いかけてしまう役者、そういう人を便利に起用してしまうのだ。すると、シーンごとの演出はおろか、全体のストーリーまでもがその役者に依存して変化し、あたかも「当て書きのシナリオ」のように文章が整っていく。


ぼくはHuluやNetflixと同じメンタルなのである。ちかごろ、伊藤沙莉的に便利使いしてしまうのは「医療情報産業学」という言葉だ。たいていそこに収束させればすべての文章は今のぼくの中で流行っている方向に落ち着く。それがいいことなのか、本当は避けるべきことなのではないか、ということをたまに考える。ところで『映像研には手を出すな!』の、浅草氏の長ゼリフは本当によかったですよね。

2022年4月27日水曜日

病理の話(651) 凶悪細胞を取り締まり罪を未然に防ぐには

街を歩いている「悪そうな面構えの人」をタイホしよう!

署に連れて行こう!

ドアを半開きにした個室で、窓際のイスに座らせて、刑事ふたりで取り調べを行おう!

「で? お前、なんかやったろ?」

「いや……何? いきなり……」

これでは成り立たないわけですよ。犯罪捜査はね。

その人がなんらかの悪人かどうか(罪を犯しているか、あるいは未遂であっても、これから罪を犯そうとしているか)は、その人をいきなり警察署に連れてきて、周りの環境と隔絶させてしまうと、よくわからなくなる。証拠がぜんぜんないんだもの。

確実な犯罪捜査は現行犯に限る!

その人が今まさに何かを破壊したり誰かをカツアゲしたり麻薬を注射したりしている瞬間を狙って証拠保全する。これなら誰にも文句は言わせない。

ただ、できれば、犯罪を未然に防ぎたいのがみんなの願いである。

「あっ、いまからこいつ、放火しそうだぞ! では現行犯で逮捕したいから、火を付けるまで待っていよう」ではだめだと思います。



犯罪者を、できれば犯罪が発生する前に捕まえたい。そこで参考にするのは何かというと、

1.持ち物

2.取り巻き(仲間)

あたりです。

1.→ ナイフや拳銃、麻薬をポケットに入れている人が、チャッカマンと文化焚き付けを持って家の前で古新聞を前にニヤニヤ笑ってたらもうそれは犯罪でいいじゃん。

2.→ その人が暴力団事務所みたいなところに出入りしており、前科100犯くらいある犯罪グループの構成員と同じイレズミをバリバリに背中に彫ってたら、なんかめちゃくちゃ怪しいやんけ。





これとほぼ同じ事を、病理診断でもやっています。

ある細胞が正常の細胞と比べて、核が異常にでかいとか、核小体がギラギラ顕在化しているとか、細胞質の色調が違うというように、「見た目がおかしい」と思ったら、そこでまずチェックをする。職務質問みたいなもんです。

その細胞が、現行犯で、建造物侵入(病理では浸潤と言う)していたら。あるいは、器物損壊(病理では浸潤先の臓器を破壊すること)していたら、それはもう現行犯逮捕です。お前は「犯人(がん)」だ、ということで確定。

ただし、現行犯じゃない場合は難しい。

まだ浸潤していない細胞。

「きみはまだ罪を犯していないから、放免~」としていいだろうか?

その半年後に、ばりばり臓器に侵入していたら、捜査員としては後悔しきれないだろう。

「がん」は早期発見したいですよね。

できれば「罪を犯す直前くらいで捕まえたい」。未然にね。



で、まだ罪を犯していない細胞を、いきなり署に連れて行く(その細胞だけをピンポイントで、顕微鏡で拡大して観察する)と、これは罪を立証するのが難しいのです。

だからいろいろと工夫をする。

1.免疫染色を用いて、異常な持ち物がないかどうかをチェック。
 →がん細胞は正常の細胞とは違うタンパク質を持っていることがあるのでね。

2.その細胞の周囲にある細胞をチェック。
 →「アジト」的なものを作って、似たような顔付きの細胞が徒党を組んでいたら、そいつらはまだ何もしていなかったとしても「犯罪集団では?」と予想することができる。



わたくし、がん細胞捜査としてはそこそこキャリアが長いんで、現場のカン的に申し上げますと、「1」も大事だけど、「2」がけっこうカギですね。これができるとできないとでは検挙率が違うし、捜査のスピードもまるで違う。




話は少し変わるけど、ちまたのAI病理診断のやりかたを見ていると、どこまでもその細胞だけを見て良性・悪性の判定をしている場合が多い。現行犯逮捕にこだわっていたり、あるいは、持ち物検査ですべてなんとかしようと思っていたり。

でも、本当は犯罪捜査って、ある細胞「だけ」を見て良悪の判断をするんじゃなくて、周囲との関係がすごい大事だと、少なくともぼくは思っています。AIもたぶんそうだよ。これはカンだけどね。

いずれ現職の刑事さんにも捜査のコツを聞いてみたいものだ。

2022年4月26日火曜日

二日酔いで苦しんでいるときに横でやいのやいの

飲んだことのないハイボールの缶を見つけて買って、ビール→レモンハイのあとに飲んでから寝たところ、翌朝けっこうな頭痛に悩まされた。「安酒は悪酔いする」という言葉が頭をよぎ……らない。頭はかすんでしまって、あまりモノが考えられないのである。


とりあえず水分をとってアルコールの分解を進めようと思い、そういえば過去の医学的な知見によればアルコールの分解時には水だけではなくタンパク質が重要だったな……と回らない頭でぎりぎり思い付いて、炊けたご飯をよそい、タマゴを割り入れて、海苔といっしょに食べる。食後5分もしないうちに胃がけいれんしてきて(直接見えているわけではないから予想)、これはもしや、胃腸もやられているのでは、と気づいて、そりゃそうだ、二日酔いなのだ、なぜそんなことに頭が回らなかったのかと(もちろん二日酔いだから全体的に回っていないのだけれど)、頭を抱えた。何の薬を飲めばこの頭痛とむかつきと消化管のけいれんを解消できるのかわからず、ひとまず出張カバン(何故?)をあさってみたところロキソニンが入っていたので飲んでみた。


30分くらいで脳の悲鳴がおさまる。体のあちこちに向けて発していた救難信号が弱まったせいだろうか、消化管もおとなしくなって、その後ためしにお茶を飲んでみたところ問題なくスッと飲むことができた。ひさびさの二日酔いは振り返ってみれば軽かった。ただし、頭痛に襲われている最中は思考レベルが、毎朝ぼくが車で通りすがる家の窓枠に全裸で立ってちんちんを外に向けてふりかざしてカーテンの向こうからお母さんに必死で回収される園児より低くなっていた。病魔ってほんとこういうことなんだよな……とため息をつく。


ちなみに二日酔いのときに体が脱水気味になっているのは本当なので、水分をちびちび頻繁にとるとよいのだけれど、「アルコールの分解にはタンパク質も必要」だからと言って二日酔いの真っ最中にタンパク質を摂取してもそれが分解されて吸収されて体内で活用されるまでにはかなりのタイムラグがあるので、あわてて卵かけご飯を食べてもタンパク質的な意味では役に立たない。医学的に考えれば当たり前だ。ただし弱っているときにはそういう簡単なことがわからなくなっている。ご飯を食べると二日酔いがよくなった気がする、ということは確かにあって、それはおそらく食物に含まれている水分を少しずつ吸収することができるからではないのかな、という気がする。点滴を入れるようなものだが点滴を入れるまでもないということ。うす味のお吸い物を飲むと二日酔いがおさまるってのもそういうこと。浸透圧的にちょうどよく、少し熱くしておけば一気にグビッといかなくてすむから胃もビックリしないのであろう。こういう話をたとえば二日酔いで苦しんでいるときに横からやいのやいの言われたら殺意しかわかないだろう。なお妻はこういうときは大変そうだねと気持ちにだけ寄り添ってくれるし余計なアドバイスなど一切しないのでありがたいことである。


「二日酔いで苦しんでいるときに横でやいのやいの」


これがたぶん医療面接、さらには医療情報発信で失敗するときのパターンなんだろうなということをしみじみと実感する。言うにもタイミングが要るし、あっているからといってまくし立ててもだめだ。「しみじみと」の部分でしじみを思い出す。お味噌汁が飲みたい。そう、これはすべて、今朝起こったことなのである。

2022年4月25日月曜日

病理の話(650) 言葉の使い方ひとつで細胞の配列がわかったりわからなかったりする

将来病理医を目指している研修医に、「病理診断の下書き」を書いてもらっている。


手術で採ってきた臓器(胃や肝臓、肺など)を見て、トリミングナイフで病変のある部分をカットし、プレパラートにして観察する。今回のプレパラートはぜんぶで12枚。病変をちょっとだけ切る……のではなく、「切れてるチーズ」のように、短冊状にきれいに切るのがポイントだ。臓器をきれいに切れば、顕微鏡を見たあとに「切る前の写真」と照らし合わせやすくなる。

胃のどの部分が盛り上がっていて、どの部分がへこんでいたかを、細胞の分布とマッチさせて考えて、「細胞がどのように異常だと、肉眼でどのように見えるのか」を鋭く追及する。


研修医は、病変をみて、診断書をこのように書いていた。

「○×○ mm大の病変です。病変の辺縁には周堤があり、内部には陥凹を伴います。」

どれどれ、と、ぼくは臓器の写真を見る。

胃の検体だ。

ふくろ状の胃がはさみで切り開いて展開してある。

粘膜のある面をみると、たしかにそこに、○×○ mm大の、周囲とは模様があきらかに異なる病気を見てとれる。


ただ、研修医の書き方から想像していたものとは、少し異なる印象であった。ここはきちんと「言葉の使い方を揃えておかなければ」と感じる。


「周堤」というのは、まわりにある堤防、というニュアンスだ。ある病変(たいていはがん)の、へりの部分がグアッと、ゴリッと、堤防のように盛り上がっているときに使われる。専門用語である。

写真を見ると、たしかに、病気のへりの部分が周りよりも高く盛り上がっている。しかし、周囲の盛り上がりはそこまでグアッと高いわけではなく……そうだな、例えていうならば、

「国技館の土俵の、俵の部分」

みたいな感じ。

つまりは細く盛り上がっているだけだ。内部も、めちゃくちゃへこんでいるというよりは、それこそ俵の中と外とのように、本質的な高低差があるわけではなく、俵の部分だけが盛り上がっているために中が相対的に低く見えるにすぎない。


そこでぼくは研修医と一緒に、文章を書き直す。


「○×○ mm大の病変です。病変の辺縁には周堤があり、内部には陥凹を伴います。」

「○×○ mm大の病変です。病変の辺縁は全周性・環状に、軽度隆起しており、内部は相対的に陥凹しています。」



以上の修正は、少なくとも、病理医が絶対にやらなければいけないことではない。臨床医も患者も気にする最も大事な項目、「がんか、がんでないか。どれくらい悪いがんなのか。どこまで進行しているのか。」とはあまり関係がない。要は、表現の問題にすぎない。

しかし、これがすごく大事だとぼくは考えている。

ひとりの病理医が見て書いた文章を、ほかの病理医が違うように解釈しては困る。また、臨床医が異なるニュアンスを受け取るのもだめだ。

病気の見た目を言い表すときには、多くの病理医がこれまで納得してきた言葉をきちんと使う。「共通言語」をおろそかにしない。そして、「この病理医はいつも統一した書き方をしているから、慣れてくると写真を見なくても、文章だけで細胞のつくる模様がわかるんだ」と、読む人に思わせなければいけない。



なお、ぼくが先ほど書いた、「病変の辺縁は全周性・環状に、軽度隆起しており、内部は相対的に陥凹しています」という文章は、読む人が読めば、これが「早期胃がん」と呼ばれている病気の、ある種のタイプであろうと予測することができる。きちんと文章を整えておけば、顕微鏡で細胞写真を見なくても、その病気のありようが頭に浮かんでくるのである。

2022年4月22日金曜日

色相環のあっちとこっちとそっちをパレットで溶く

「市原先生のお仕事の方向をこちらから縛ってしまうより、ある程度自由に動いていただいたほうがよい気がしました。」


という文言付きで原稿を依頼されることがある。けっこうある。2回に1回くらい、そうだと思う。


ありがたいことだ! 自由にやっていいなんて! という気持ちと、企画作りの段階からこっちに投げられちゃったけど報酬は原稿執筆分だけなんだよなあ、という気持ちと、ふたつが同時に湧き上がってくる。これらはべつに相反する感情ではなく、ふつうに同棲できる。二項対立にせず、そのままどっちも抱えて働くことができる。



ところでなぜ人はこのような原稿依頼をするのか。



たとえばSNS医療のカタチという活動で、医療従事者に講演をお願いすることがあるのだけれども、そのときのぼくがまさに、「どんなことをしゃべっていただいても大丈夫です」と言っている。

こちらから講演の依頼をするのだから、普通に考えたら「この人にはこういう内容をしゃべってほしい!」と、お題を指定するのが本来の礼儀である。

しかし、なんというか、礼を失したことをしたいのではもちろんなく、


「この人はどんなことをしゃべっても絶対におもしろいことを言うに違いないから、ぼくごときが余計な『縛り』をかけるより、その日にしゃべりたいことを自由にしゃべってほしいなあ!」


ということを本心で考えている。

……そして、同時に、「しゃべる人の業績を全部ゴリゴリ調べて、何をしゃべってもらうかを考える時間がないので、お題までおまかせできるならそのほうがありがたい」と思っている。つまりは依頼するほうもたぶん両方の感情でやっているのだろう。





両方の感情、と書くと、対立概念のようでしっくりこない。たぶんこういうのは、色に例えるといい。赤と緑は、色相環に置けばいちおう反対側にあることになっているけれど、混ぜて毎回真っ黒になるわけではない。パレット上での色の溶き方にもよるし、筆の置き方にもよる。赤い感情と緑色の感情とを混ぜながらぼくらは何かを考える。おまけにたいてい混ぜているのは黄色と緑だったり、青と赤だったりして、きれいに混ぜ切らないで、マーブルみたいな状態のままで、いろいろな絵を描いている。頼む方も、頼まれる方も、黙ってひとりでやっている人もだ。

2022年4月21日木曜日

病理の話(649) 手助けの顛末

臨床医は「○○病」を疑っていた。そして、ほかにも、さまざまな病気の可能性を疑っていた。


「○○病」かどうかを確定診断するために、病理医の手助けがいる。彼女らはそう信じていた。そこで、人体のある部位から小さな検体が採取された。


ぼく(病理医)は、それを顕微鏡で見た。


ところがそこには、「○○病」であることを示すナニモノカはなかった。


代わりに、■■病や△△病のときに「見られることがある」像がちらほらと観察できた。


そこでぼくは診断書に、「○○病の証拠はありません。■■病や△△病のときに見られがちな所見がいくつかあります(具体的に列挙)。臨床医としてはどう思いますか?」というようなことを書いて、電子カルテに向けて送信をした。


すぐに電話がかかってきた。「先生、○○病じゃないんですか!」と。


そこでぼくは、自分の書いた病理診断報告書を読み直し、たっぷり1秒考えた。

ぼくはここに「○○病の証拠はない」と書いている。それはまるで、日本語のニュアンス的に、「○○病を否定する」ように読めた。

電話で、謝罪をする。

「すみません……説明が足りなかったです。○○病の検体を病理で見て、○○病である証拠がみつかるのは、体感で、1~2割程度です。たいていはスカ。何も見つかりません。しかし、証拠が見つかる頻度が低いだけで、その証拠がないからといって、○○病を否定できるわけではありません。」

すると臨床医はテンション高くこう言った。

「よかった! じゃあ○○病としてもぜんぜんおかしくないんですね。だったら治療をはじめてしまおうかなあ」


さあ、説明が必要なのはここからだ。もう一度謝罪をする。

「すみません、報告書だけでは届かないニュアンスなので、最初から電話すべきでしたね。」

そしてじっくりと説明をする。



今の状況では、○○病を否定はしないが、肯定もできない。

病理に見られる「証拠」の出現割合が低頻度だからといって、「それがなくても○○病と診断してOK!」とざっくり議事進行してしまえるならば、そもそも、病理診断をする意味はない。

「見つかればラッキーだけど、なくても○○病と診断していい」くらいのチョロい行動選択のために、患者の一部を傷つけて、あるかどうかもわからない病気の証拠探しをするのが、病理診断……ではないとぼくは思っている。



「一緒に顕微鏡を見ましょう。ぼくは○○病でもいいとは思う。ただし、それだけなら報告書にそう書いています。■■病や△△病の可能性を否定してもらわないと困るから、証拠としてあのように書いた。先生はカルテ上では、■■病としては合わない、△△病としても典型的ではない、と書かれていますが、病理組織をみる限りは、○○病としても非典型的なんです。つまりこれは、非典型 vs 非典型のバトルになっている。

だからもう少しニュアンスを詰めましょう。最終的に○○病の治療をするにしても、もう少し、意見のすりあわせをしておいたほうがいい。

病理は何を気にしてあのような報告書を書いたのか。あなたがた臨床はなぜ○○病を一番に疑っているのか。そのあたりを全員が理解してから先に進んだほうがいいと思います。迷った末に、最後にエイヤッとどこかに診断を決めるならば、その責任をかかわった人間全員がきちんと背負うべきです。」



臨床医はニコニコしながら病理にやってきた。集合顕微鏡をいっしょに覗いて細胞をみる。ほら、この所見はある。ほら、あの所見はない。あるとない。ゼロイチ。しかしそこから考えをファジーなほうに伸ばす。○○病と診断することの意味。診断しないことの意味。治療をどうするか。「○○病」かどうかを確定診断するために、病理医の手助けがいる。彼女らはそう信じていた。そこで、人体のある部位から小さな検体が採取された。ならば我々病理医がやることは、「病理診断報告書を書く」という仕事だけでは終わらない。我々は「臨床医を手助けする」のだ。それが仕事である。


2022年4月20日水曜日

ぼくは仕事が早いから

つきあいのある編集者の仕事環境がよくなく、精神状態が悪く、そのつらさが一緒に働いているこちらにも浸みだしてくる。人のつらさに共振してぼくも一緒につらくなる。よくないことだと感じる。

つらく働いている編集者たちから、ぼくはそろそろ距離をとろうと思う。とりあえずツイッターのアカウントはミュートした。

「今まさにつらい編集者を見捨てるなんて薄情だ、お前が書けば楽になるかもしれないのに……」という考え方もあるだろう。しかし一緒に沈んでしまえば救助もできない。

これが仕事相手でなく、仮に家族や友人だったとしても、一蓮托生的にストレスを共有してしまうことはよくない。他人だからできる距離の取り方というのがある。そういうのが結果的に双方にとってつらさを減らすことにつながる。


つらいつらいと仕事をする編集者たちの仕事を手伝って、少しでも楽にできたらいいなという気持ちはずっとあった。これまではそのようにやってきた。しかし、ぼくがいくら原稿を早く仕上げても解決したためしはない。たとえば、締切より1か月早く原稿を出しても、いつのまにか校了は締切直前になっている。ぼく一人が仕事を早めたところで、出版物やネット記事というのは著者の原稿だけでできあがるものではなく、デザインもあり、イラストもあり、何より編集者が心行くまで調整をかけるのに時間がかかる、そういった他の仕事がすべて早まらなければ、全体の進行は早くならない。余裕をもって進めたはずの仕事は、いつのまにかぼくにとってもぎりぎりの進行になって戻ってくる。

ぼくは仕事が早いから、なぜか締切に追いつかれてしまった仕事もまたすぐに仕上げてふたたび余裕をもうける。いつの間にか溶けてなくなった1か月の余裕、どうして再校の時間が1日半しか与えられないのだろうと不思議に思いながら、原稿を2時間で手入れして、逆に1日の余裕を再度作って送り返す。その間、ぼくの他の仕事はパニックのように忙しくなるが、「編集者がつらそうにしているからその忙しさを飲む」。これまではそうしてやってきた。その間ずっと編集者たちは裏アカウントで仕事がつらいと愚痴を言い続けている。これは何なのか? といつもぼんやり不思議に思っていた。

何なのか、というか、出版とはそもそもそういう世界なのだろう。出版業界のやり方が彼らにとって悪いものだから直せとは、外にいるぼくからは言えないし言うべきでもない。ただ、それがぼくの世界を少しずつ侵食してきているような気はする。なぜぼくが休憩も睡眠も削って1か月以上早く仕上げた原稿の著者校に、たった1日しか時間が与えられないのか?


かつて、古賀史健という人が、プロのもの書きとアマチュアのもの書きの差は「プロの編集者がきちんとついて著者と伴走しているかどうか」にあると言った。たしかに、編集者がいるといないとでは文章に雲泥の差が出てくる。編集者にたよらずに一人で何かを書いて世に出すと、どこかに間違いがあったり、不適切であったり、届きづらい部分があったり、曲解されたり、そういった不都合がいっぱい起こる。

でも、ふと思う。プロの書籍編集者を名乗る人間であっても、本当に著者と伴走できているタイミングはそんなに多くないのではないか? 彼らは基本的に出版側のルールで忙しさにおぼれ、自分がもがいて竜が淵から脱出するために、著者をビート板代わりにわしづかみにして必死にバタ足をくり返す。それは果たして伴走だろうか。爆発的に売れた本の担当編集者が顔を出して語る記事を読んだあと、どれだけよい本なのかと思ったら、著者の思いではなく編集者の思いばかりが伝わってきて、「著者がその人である必要性」が埋没してしまうということがある。著者と編集者が「そのコンビでなければ生み出せない関係」になっている本に出会えることはまれだ。そして、自分がこの先そこまでの関係を編集者と築いていけるかどうかの……自信が無い


ああそうか、つまりぼくはプロの著者になれていないのだ。ぼくがプロになれていないのだ。今、書いていて思った。「プロの編集者がいないから」ではなく、「ぼくがプロの編集者と仕事をできるクオリティに届いていない」。だから編集者もプロの仕事を発揮できない。

ぼくが最初の原稿で編集者をうならせていれば、そもそもあんなに校了ぎりぎりまで編集者が頭を悩ませてぼくの書いたものを直す必要がない。ぼくのせいで編集者たちの仕事が増えるのだ。ぼくは仕事が早いのではなく、時間をかけて集中してぎりぎりまで粘っていいものを出そうとしていなくて、仕事の手離れが早いだけなのだ。「泳げるから大丈夫」と言って池に飛び込んだぼくがそのまま沈んでいこうとしているのを、編集者たちは必死で救助していた。ぼくは「一人で大丈夫なのになんでこいつらぼくを掴んで必死でバタ足してんだ?」と思っていた。


彼らのつらさの原因は、ぼくにある。そう考えれば、「ぼくが出版から距離を置こうとしている」という言葉のニュアンスもだいぶ変わってくる。

締切ぎりぎりまで粘れる人以外は原稿を書く資格なんてない。ぼくの仕事が早いうちは、執筆なんてしてはいけない。ぼくはゆっくり書く練習をするべきなのだ。ぎりぎりまで真剣に向き合うことをこれまでやってこなかった報いだ。今、ようやくそのことを知ったのだ。


今にして思えば、ぼくが好きな作家、エッセイスト、そういった人びとはみな、締切ぎりぎりまで自分の原稿を練り込みまくって、初稿と出版物とが9割がた別モノになっているような人ばかりだった。なぜぼくは、尊敬する人たちのやり方を今まで一度もマネすることなく、あらゆる原稿をさっさと書き上げてきてしまったのか。

2022年4月19日火曜日

病理の話(648) 何にでも言えることだけど

やっぱり「発信するにおいて大事なこと」は、「受信すること」だと思うんです。


たとえばそれはツイッターでも。言いたいことだけ言って、ちっとも周りを見渡してない人の言葉って、「伝えよう」は感じられるかもしれないけど、実際に「伝わった!」にはつながってないと思う。


それと同じことが、たぶん、病理診断の世界でもある。なぜなら病理医は「臨床医に対して顕微鏡を見た結果を伝える仕事」をしているからで、「病理医が一方的に伝えようとすればOKな仕事ではなく、臨床医にきちんと情報が伝わって、患者と主治医との戦略を適切に導けてはじめてOKになる仕事」だからです。




あまりうれしい話題じゃないんだけど、実例を元にしてもう少し具体的に話す。たとえば、ネットで匿名でツイートしている病理医が複数いるが、ぼくはそういう人の正体をけっこう知っている。この世界は狭いので、隠そうと思っていてもだいたい伝わってくる。で、その中には、たまに臨床医にたいする不満をツイートしている人とかもいるんだけど(まあ実名で言っている人もいますけど)、そういうはしばしば、「臨床医からもけっこう不満に思われている」。

「あの人……ツイッターですごい不満ばっかり言ってますけど……ぜんぜんこっちの言うこと聞いてやしないんです」

なんて。ああ、いやだなー陰口合戦じゃん、って思いつつ、ま、なんか、ぼくに愚痴ることでまた明日からがんばれるんならそれでいいんじゃないか、と思わなくもない。不満を口に出すってのは、ケアの一環ですからね。



そういうことが続くと(先週は立て続けにそういうことがあった)、やはり考えてしまう。発信! 発信! と言いたいことを言い続けてちっとも受信しない人たちのあやうさというか。「構造を見極めて言葉を選んで組み立てて隙が無ければOKみたいなやりかたの幼さ」というか。


「伝えること」をやろうと思ったら「どう伝わっているか(いないか)」に対するアンテナをきっちり張り巡らさないといけない。


病理医であれば、「こういうレポート(病理診断報告書)を書いたときには問い合わせの電話が多いなあ」みたいなことに、ちゃんと耳を傾けなければいけないと思う。廊下を歩いていて臨床医に話しかけられやすいムードを作るのも大事。電話が鳴ったらすぐとるってのも地道で地味だけどけっこう重要だと思う。学会の準備の仕事を頼まれたときには、「忙しいのになんで直前になって依頼するんだ」みたいな不満をツイートするんじゃなくて、まず、「なぜその臨床医が直前になるまで自分に依頼をできないのか」ということを本人の口から聞くべきだと思う。毎年若い医者が必ずやらかす、っていうなら、なぜ毎年そこの教育がうまくいかないのかを病理医として病院といっしょに改善していく、そこまでがたぶん病理医の給料の中に含まれていると考えたほうがいいのではないか。



うーん「一般的な仕事論」をやりたいわけではなくて、病理の話シリーズではあくまで病理医とか病理診断にかんする話をしたいんだけど、この話題、定期的にモヤッとするのでやっぱり一度書いておきたかった。受信してから発信しないとだめだと思いますよ。それはもう、病理医ならば、特に。

2022年4月18日月曜日

LOST_AGE

新千歳空港に向かうのは久しぶりだ。朝のFMラジオ、民放の番組はいずれも趣味に合わない。高速道路に乗る前の、信号で止まったタイミングで、ぼくは久しぶりに車のダッシュボードを開けて、中のCDを取り出した。最近ほとんどサブスクばかりで、とんとご無沙汰だったCD。近頃は車の中でもPodcastを聴いていることが多く、めったにかけなくなったCD。

the pillowsやLOSTAGE、ZAZEN BOYS、どれが出てくるかと左手でまさぐったら、最初に出てきたのは東京スカパラダイスオーケストラであった。CDを車にセットしたところで信号が青になり、カーブを一つ曲がったらETCレーンがあって、あとは高速道路でひたすら千歳に向かって走る。

早朝の高速道路には、思ったよりも車が多くて、ぼくは少し控えめな気分になって、二車線の左側をゆっくり走った。80キロ制限なら80キロ、100キロ制限なら95キロくらいのスピードで。急いでもしょうがない。あわててもしょうがない。本当に心の底からそう思える年齢になった。

スカパラはいい。久々に聴いたが、じつにいい。ぼくは機嫌がよくなった。「爆音ラブソング」のギターやベースなど、最高だ、と思う。

スカパラなのだから金管楽器を聴けばいいのだろうが、ぼくはひそかに、スカパラの「弦とドラムス」が好きなのである。




はるか昔に一度だけバンドを組んだことがある。22歳くらいであった。まだ物心がついていなかったころのこと。当時のメンバーの顔も名前も忘れてしまったが、ドラムス担当の三上だけはよく覚えている。彼は「幼稚園からの、一つ下の後輩」だ。幼稚園時代に先輩後輩の関係なんてない。でも、彼は小学校時代、ぼくが入っていた剣道チームにいた。そのあたりでいちおう先輩と後輩だよねという関係になった。

中学高校とまるで連絡しないままだったのに、大学時代、三上は突然ぼくの目の前にあらわれて、バンドをやりませんか、と声をかけてくれた。なぜ楽器も弾けないぼくを誘ってくれたのかはわからない。

彼はギターとベースを連れてきてぼくに引き合わせた。さあ、何の曲をやろうか、とたずねられたときに、さほどバンドミュージックに縁のなかった僕は無邪気に「ジュンスカとか?」と言った。するとギターとベースは揃ってぼくを笑った。「スータートー スータートーってやつだろ(笑)」。「バンドとは名ばかりのJ-POP」を彼らは鼻で笑った。ぼくはそこで恥ずかしくなってしまい、バンドの話もいったん立ち消えた。

しかしなぜか三上はあきらめなかった。そのときぼくを笑ったギター・ベースとは違うやつらをあらためて連れてきて、演奏する音楽も三上が考えて、ぼくにCDを2枚渡して、これを歌えるようになってください、と言った。それはデスメタルの「SLY」というバンドで、ぼくは目を白黒させながら英語の歌詞を覚えた。

今思い出しても三上のドラム演奏はうまかった。ギターとベースのことはよく覚えていない。一度だけやったライブのあと(確かススキノ交差点の東のほうにあったライブハウスだ)、4人でご飯を食べた記憶がうっすらとあるが、何を話したのかも、その後どうなったのかも全く覚えていない。



話は前後するが、大学2年のとき、つまりは20歳くらいのころ、高校の剣道部の同期が、横浜の大学に通っていて、ぼくは剣道の大会の後に、もう一人の友人と共に彼の家を訪ねて行った。関内の駅から15分以上歩いたところに彼の借りている家はあった。駅からの道すがら、工事現場の壁にでかでかと、「First love」のジャケ写が貼ってあって、ぼくは「あの鼻の目立つかわいい女の子はだれか」と友人に訪ねた。友人は「あれが今はやりの宇多田ヒカルだ」と教えた。都会のタワレコで札幌のぼくよりはるかに多くの音楽に触れていた友人はその後、ドラゴンアッシュやUAのことを矢継ぎ早に語り、ゆらゆら帝国やNumber Girlを聴けと言った。

それから2年後にたった一度だけバンドを組んだぼくは、それっきり二度とバンドを組むことはなかったが、耳はすっかり「バンド仕様」になっていて、横浜の友人に教えてもらったゆらゆら帝国やNumber Girlを思い出し、そこから芋づる式にスパルタローカルズ、Goind under ground、DMBQ、エゴラッピン、ACIDMANなど、フェス系、スペースシャワーTV系のバンドミュージックを聴き漁るようになった。それまで聴いていたB'zやミスチル、GLAYなどの王道J-POPからは足が遠のき、演奏が荒っぽかったり編曲がなかったりする音楽を好んで聴いた。今にして思うと、SLYから入ったのにメタルにはぜんぜん手を出していないのが「かわいいな」と思わなくもない。たぶんデスメタルは刺激が強すぎた。



跳躍伝導のように話題を飛ばす。32歳のころにTwitterをはじめたぼくは、「病理医ヤンデル」の前に作ったアカウントで、bloodthirsty butchersの故・吉村秀樹が酔っ払ってツイッターで出したクイズにリプライで答え、誰よりも早く正解した。酔っ払った吉村秀樹はDMでぼくから住所を聞き出し、butchersのコースターをぼくあてに送ってくれた。11年ツイッターをやっていて一番うれしかった思い出は間違いなくそれだ。

断片的にバンドのことを考えているうちに新千歳空港についた。空港までの運転程度では、人生をまともに振り返ることもできない。切れ切れの思い出たちが今のぼくを見て腹を抱えて笑っている。帰りの高速ではthe pillowsを聴こう。

2022年4月15日金曜日

病理の話(647) 渡されるバトンの色かたち

大腸カメラを例にあげよう。


消化器内科の医者が、健康診断の一環として、大腸カメラをやる。患者さんはお腹に力を入れないようにしたほうが楽です。医者は看護師さんとともに、患者が息を吸ったり吐いたりするタイミングを指導しながら、なるべく痛くないように、カメラを入れていく。

しばらく進めていくと大腸と小腸の境目にたどり着く。そこから、ゆっくりとカメラを抜きながら、粘膜を油断なく観察していく。

病気が見つかった。たぶん、「ポリープ」だ。それはもう、一瞬でわかる。目に入った瞬間に、「あっポリープだ!」とわかる。


人間というのはふしぎで、動物園でライオンを見かけたときに、「猫科のなにものかが歩いているな……」とか、「足が4つあってしっぽがあってたてがみがある動物がいるようだ……」とは思わず、即座に「あっライオンだ!」と概念が脳に飛び込んで来る。理屈じゃないんだよね。ライオンはライオン。

ついでに言えば、ライオンだ! のあと、観客はそれ以上何も検討しなくてもいい。年齢は何歳くらいなのか、出身がアフリカなのかアジアなのか、好きな食べ物はなにか、みたいなことを気にする必要はない。わぁライオンだ! で十分楽しめる。


しかし、ポリープだ! で終わってしまっては治療方針が決まらない


ポリープが2 mmくらいしかなく、表面に腫瘍(しゅよう)成分がなく、ただなんかちょっとそこが盛り上がっただけ、というものであれば、そいつは別に手を下さなくていい(切り取ってしまわなくて大丈夫)。


しかし、ポリープが15 mmあって、腺腫(せんしゅ)とか癌(がん)がそこに発生しているようだと、ポリープを切り取って病理検査に出さないといけない。そのまま放置しておくと、どんどん病気が体にくいこんで悪くなっていく可能性がある。


ポリープを採ってこようと思ったら、ポリープの根元の部分でがっちりと大腸の中に病気が食い込んでいる、なんてこともまれにある。この場合は、ポリープだけでなく、周りの大腸ごと採ってこないと治療としては不十分になる。



消化器内科の医者は、ポリープを見て「あっポリープだ!」で終わらせることなく、「どんなポリープか」をすごくちゃんと見る。サイズ、形状、色、周りの腸管のふんいき……。

そして、「たぶんこうだ!」と診断してから治療に入るわけだが、この、「たぶん」というのがくせものだ。

表面から見ただけではわからない、病気の細かいニュアンスというのもある。細胞レベルで何が起こっているかまで確認しておいたほうが無難だし、病気のこまかなタイプに応じた、オーダーメードの治療ができる。



そこで病理ですよ。



ポリープを採ってきたら病理医が顕微鏡で見る、そうすることで、大腸カメラを通じて消化器内科医が見たのとはひと味違う観点で、ポリープのより詳しい性状を、あますところなく観察し尽くすことができるのである。



たとえばこのように、消化器内科医と病理医は、いつもバトンの受け渡しをしている。「このポリープはこんなふうに見えたけど、実際、顕微鏡だとどうだったの?」というように、形態診断の受け渡しが行われるのだ。病理医は細胞だけ見ていればいい仕事ではない。現場で患者と向き合っている医者が考えていることをスキャンして、その疑問に迫っていかないといけないのだ。

2022年4月14日木曜日

過去に学ぶ

ダジャレを考えているときの脳ってシンプルだよな。

自分でいちから十まで考えてやれるから、一本道の安心感がある。

途中で分岐しない思考ってノーストレスだ。直線的で、広がりはないけど、摩擦熱もおきないし、サスペンションへの負荷もかからない。

ところが、世の中のたいていのことはそう単純にはできていないので、「この場所に居慣れれば居慣れるほど」、思考はぐるぐる渦を巻き、あるいは樹木のように分岐して、おまけに枝先どうしがお互いに勝手に連絡をとりあったりもする。

そういう感じで毎日やっていくことになる。だから、ダジャレみたいな、一直線でスタートからゴールまで駆け抜けるタイプの、15秒CM的に痕跡を残さない思考が癒やしになるのだろう。




そして人間ひとりが孤独に複雑なのではない。世の中の人間みんなが多かれ少なかれ複雑なのだ。樹木と言ったが本当は森なのだ。渦巻きと言ったけれど本当は荒れる大海なのだ。

全員がそれぞれに複雑な状態のなかでポツンとダジャレの人がいるとその周りが瞬間的にスーッと静かになる。すべっているのではない。凪を作っているのである。





というような意味のことを、これまでも何度も、さまざまな中年たちが言っていた。ぼくはそれらをすべて聞き流してきた。「はいはい」と思っていた。今は、「はい」と思うようになっている。歴史というのはそうやって同じことを何度も何度もくり返していく。

2022年4月13日水曜日

病理の話(646) グレーの領域の診断

ストレスが加わった体にはいろいろ変化があらわれる。

そういうものだ、とわかっていれば、体に何か変化が出たときに、「なるほど今のぼくはストレス環境にいるんだなあ」と納得できて、「便利だ」。


たとえばぼくの場合、仕事が立て込んでいていつまでも働いているとき、無意識に奥歯をカチカチと噛み合わせている。これは癖っぽいけれど、たぶん、ストレスに対する体の変化としてとらえるべきものだ。

アゴのあたりから伝わる振動で定期的に自分をポンポンさすっているような感覚がある。


人はしばしばこういったものをまとめて「チック」と表現する。ただし、厳密に言うと、チックにはいろいろ定義があり、専門家による対応もある。小児~思春期にこういった動きがあるばあい、つい我々は気軽にチックと呼称してしまうが、そこにはおそらく、医療の介入が必要な「真のチック」と、なにかストレスがかかったときに自分が意識的・無意識的にこうなりがち、という「傾向」みたいなものが両方紛れ込んでいる。

ここでいうぼくの「奥歯をカチカチ鳴らすこと」を、「チック症」のように「あえて診断」すべきとは、少なくともぼくは思わない。



医学の分類は、ここからは病気でここから健康と、線を引くことを大切にする。しかし実際には、人間の体というのはもっとグラデーションだ。ぼくは自分のアゴがストレスでカチカチ鳴るのを医学的にチックだとは考えていないし、これを仮にチックと言われてしまうと、「診断してその後どうするつもり?」とつっこみたくもなる。ぼくの場合、これを「ストレスのバロメータだなあ」と把握していればそれで十分なのだから。




診断とは対処とセットであるべきものだ。真実探しではなく、「対処のために案件に名前を付ける行為」である。

たとえば、ぼくら人間はだいたい85歳くらいで平均的な寿命を迎える生物だが、これを「85歳くらいで死ぬ病」と名付けたとして、何か意味があるだろうか? 「だって、そうじゃん。正しいことじゃん」ではない。名称を付けたところで対処は変わらない、状況を変えようがないのだから、診断すること自体に意味がない。

名付けは気持ちでやっていい。しかし、「診断」というのは用途がある。


とはいえ、ここからが難しいところで、たとえばぼくの奥歯カチカチが、周りの人にとっての「騒音公害」になっていたり、ぼく自身も奥歯を鳴らしすぎて歯が欠けてしまうとか、アゴに気が行ってしまい集中できないとかいう「実害」が出始めたとしたら、ストレスのバロメータだから便利じゃん、では話はおさまらなくなる。

そこで、「診断」を、ゼロかイチかという二択にするのではなくて、「0.02」とか「0.8」とか「0.335」などのある世界に持ち込むというやり方がある。「チック」と診断するのではなく、「15%くらいチック的」ととらえるのだ。厳密な医学としては間違えているのだけれど、対処としてはかなり幅が広がる。


医学と医療との間にもまたグラデーションがあるのだ。


グレーの部分を、丁寧に、機(はた)を織(お)るように扱っていくのが、真の診断者である。知識という言葉は「知織」と書いてもよいのではないかとかねがね考えている。

2022年4月12日火曜日

流用型人生

お気づきだろうがぼくはこのブログで「病理の話」と「それ以外」とを交互に書いている。

昨日は病理の話だったので、今日は「それ以外」の日だ。そして明日はまた病理の話。


ただ、明日更新の「病理の話(646)」は、もともとは病理の話としてではなく、「それ以外」として書いたものだ。書いている途中で、これって病理じゃん、と気づいて、タイトルを病理の話に切り替えて、公開日を1日伸ばした。


こういうことがたまに、というか、頻繁に起こるようになった。




かつて、テレビを見ていて、職人や芸術家が出てきてインタビューをされるたびに、不思議に思っていた。「こいつら、仕事とか芸術の話しかしねぇけど、プライベートに楽しみとかないんかな? ディズニーランド行ったりマンガ読んだりしねぇのかな? ずっと本職のことしかしゃべってないが……」

すると家族や友人たちはいつも笑いながら言った。「いやインタビューだからでしょ。そういう話を聞きたいテレビマンがやってきて、そういう話題を振っているからでしょ。」

でもぼくは納得できなかった。

「こいつら、朝から晩まで仕事のことしか考えてないんじゃないか? いくら仕事のことをたずねられても、ふつう、もう少し『地』が出てくるものじゃないのか? 骨の髄までワーカホリックなんじゃねぇの? ぼくはどれだけ仕事が大事でも、こうはなりたくねぇな」




そして今、日常の話を何気なくブログに書いているうちに、それが仕事(病理)の話と接続されるような中年になっている。おっ、これかあ、と驚き、そして少し納得している。



日常の話のあれこれが、仕事で用いる理念・観念と接続する。これは、ぼくの脳が、気づかないうちに「仕事を精度高く、効率よく回すために、思考回路が最適化してきている」からなのだと思う。

プロのカメラマンが、どういう画角・距離感でモデルを撮影するといい写真が撮れるのか、どういう光源を用意してどの角度から光を当てるとモデルの姿をより印象的に撮れるのか、撮り終わった画像をどう編集するとよりニュアンスが伝わるのか、といったことを体にしみ込ませていくのと同じように、ぼくは、どういう角度・距離感で目の前にある情報を切り取るべきなのか、どこを強調してどこを深掘りするとより情報が深く理解できるのか、取得した情報をどのように組み換えると他の人とニュアンスが共有できるのか、といったことを、病理診断という仕事を通してずっと実践してきた。

すると、仕事外にも、その「切り取り方」や「光の当て方」、そして「編集方法」というのは自然と流用される。同じ構造を違うものごとにも自然とあてはめているのだ、なぜなら、ぼくの脳は1個しかないから。



「いつも仕事のことばかり考えている」というのは、正確ではない。

「いつも仕事のときと同じように脳を使っている」のだろう。

だから、日常の話を書いていたはずが、思考の様式が似ているためについ病理の話と接続してしまって、最終的に、「これ、診断するときに考えていることと似ているなあ。」みたいなことになるのである。



なんとなくだけど、ぼくがブログをはじめた際に、「病理の話」と「それ以外」を交互に書こうと思った理由は、脳に別の回路、別の様式を導入し続けたかったからではないかと思う。でも、結局こうして、「それ以外の話が病理の話とどこかつながっている」みたいなことになっている。ちゅ、ちゅ、中年~~!! って感じ。

2022年4月11日月曜日

病理の話(645) 顕微鏡を見て病気の原因を決められるだろうか

ある臓器が、手術で採られた。


そこには「がん」が含まれている。われわれ病理医はそのがんを見て診断をする。

このとき、「がん以外の部分」もちゃんと見るのが大事だ。そこにも情報があるからである。


たとえば、胃がんで採ってきた胃を見ていると、がんのないところには「腸上皮化生」と呼ばれる変化がみられることが多い。

また、肝臓がんで切除された肝臓には、「肝炎」という変化が認められることが一般的だ。

肺がんの場合、患者がタバコを吸っていたケースでは、がん以外の部分の肺も真っ黒になっていることがある。これはなんとなく想像がつくだろう。




では、このような、「がんの隣」を見て、胃がんの「原因」は腸上皮化生だと、肝臓がんの原因は「肝炎・肝硬変」だと、肺がんの原因はタバコだと、断言してしまっていいものなのか? 

これがじつはとても難しい。



まず、肺がんの原因としてタバコは重要な因子のひとつである。しかし、ご存じかもしれないが、タバコを吸っていない人にも肺がんは出現する。特に、肺腺癌と言われるタイプのがんはタバコとはあまり関係がない。

もちろん、タバコを吸っていた人が肺がんになると、「あータバコのせい『ってことも』あるだろうな……」とは(ぼくも正直)思う。

でもタバコはあくまでひとつの因子に過ぎない。

ちなみに、顕微鏡で見たときに、タバコを長年吸っていた人の肺がいつも真っ黒であるとは限らない。コナン君的に、「あっ、おじさん、タバコ吸ってたでしょ」と指摘できるわけではない。「肺の色を落とすしくみ」が強い人の肺だと、長年タバコを吸っていてもたいして黒くなかったりする。

じゃあそういう人はタバコ吸ってもがんにならないのか、というと、タバコを長年吸っていたけど肺はきれいです! という人にも肺がんは出現する。きれいになればいいってもんじゃないようなのだ。



なんかめんどうなことになっているだろう?

「肺が真っ黒だから、タバコのせいで、肺癌になったんだ!」なんて、それほど簡単に言えるものではない。



次に、肝臓。こちらはさまざまな研究によって、「肝炎が肝臓がんの原因になる」ということがほぼ証明されている。

ただし、顕微鏡で見たときに、肝臓がんのとなりにいつも「炎症」が見られるとは限らないので、またむずかしい。

正確には、「過去に炎症で痛めつけられていた肝臓には、がんの発生のリスクがある」ということだ。なので、とっくに炎症がよくなってしまっている、炎症を過去のことにした肝臓にがんが出ることもある。そういうときは、いくら顕微鏡で肝臓をみても、炎症の痕跡がちょっとしか残っていなかったりもする。

「肝臓がんのときは、かならず、まわりの肝臓に炎症や線維化がある」と言えたら、単純でわかりやすかったのだが……。

時間軸のどこかで炎症があれば、がんになるリスクがある。うーん、となると、ある一瞬を顕微鏡で見ても、「がんの理由」はわからないかもしれないのだ。



そして胃。胃がんの原因のひとつには、「ピロリ菌」がある。このピロリ菌はけっこう重要な被疑者だ。たいていの胃がんはピロリ菌の影響で発生してくる。

そして、最初に書いた「腸上皮化生」もまた、ピロリ菌の影響であらわれる変化である。


何を言っているかというと……そうだな、ピロリ菌を「地元のヤクザ」にたとえよう。

地元のヤクザは地上げをする。商店街で長く頑張っている老舗のラーメン屋をつぶしてビルを建てようとたくらむ。ラーメン屋はつぶれて、新しくこぎれいなビルが建つ。これが腸上皮化生だ。

で、これとは別に、おなじヤクザが、となりのビルにチンピラを送り込んで、そこにアジトをかまえる。これが胃がんである。

ヤクザがいるだけで、地上げはおこるし、チンピラも棲み着く。これらは同時に起こる。

胃がんと腸上皮化生とピロリ菌の関係もこれに似ている。ピロリ菌というヤクザがいるおかげで、地上げ(腸上皮化生)が起こり、チンピラのアジト(胃がん)もできる。


我々が顕微鏡で胃がんを観察して、となりに腸上皮化生があるからと言って、

「あっ、腸上皮化生からがんが発生したんだな!」

と診断したら、それは間違いだ。腸上皮化生とがんとは、それぞれ、共通のヤクザによる異なる結果なのだから。




このように、顕微鏡を見て、「がんのとなりにあるもの」を見て、それが原因だと決めつけることはできない。「放火犯は火事の現場を見に来ているはず」というのはミステリじゃなくても思い込みである。ただ、じっさいに、がんの原因が周りにあるかもしれないから難しい。見た! わかった! とはなかなかならないのが医学研究である。

2022年4月8日金曜日

遠赤外線の実力

やることはあるのだがすべて「見通しが立っている」状態である。ありがたいことなのだけれども、これはあと30時間がんばれば終わる、とか、これは20分本気でやれば片付く、みたいな計算がついている仕事ばかりだ。


AI研究のように、「どうなるかわからない、本気で取り組むしかない」というタイプの仕事もあるのだが、これも所詮は「○年くらいみんなといっしょにやってればなんとかなるだろ……」という感覚である。


書評のために本を読む。分厚い。これいつ読み終わるんだろう? しかし、本というのは、順番にページをめくっていけばとりあえず最後まではたどり着くものだ。中身をどれだけ楽しめるかはともかくとして。楽しめなければ楽しくなかったと書評に書けばいいし、「これはもっとじっくり時間をかけて読みたい。」とでも一文入れておけばそれでぼくの書評は成り立つ(成り立っていないかもしれないが、そこをふんわり成り立たせるくらいの技術がたいていの人間には備わっているし、ぼくにも備わっている)。


海外講演の準備。後輩の指導。単著の執筆。ぜんぶ同じ。「締切までに、これくらいやればできる」というのがだいたいわかる。


それが「つまらないなあ」と思う。


ぼくは今、なんとなく、自分の仕事人生がピークアウトしてしまった、という感覚を覚えている。おそらく、ものすごく贅沢なことを言っている。けれども、「どうなるかわからない」「いちかばちか」「ここが正念場」みたいなひりつきを感じていたときのぼくは確かに、仕事だけで人生を輝かせていた。ひるがえって、今はどうだ。経験でなんでもこなせてしまう。求められた結果が80点くらいでいつも返せてしまう。つまらない。仕事に対する情熱が前のそれとは変わってきていることを感じる。


もっとも、病理診断は別だ。80点ではだめで、100点を出す必要があるからだろうか。他人の人生を背負っているからだろうか。病理診断をつまらないと思ったことはない。正確には、おもしろくてもつまらなくても関係なくやれる。もちろん、病理診断においても、積み上がった標本の山を見て、「ああ、これなら半日で見終わるなあ」とか「ここらへんは今日の午後に、こっちは明日の午前に回せばすべてカタが付くなあ」と感じるようになったが、病理の場合はぼくが診断した先に患者の人生があるからか、それが「自分にとって大事なこと」ではなく「患者やその主治医にとって大事なこと」だからか、仕事の見通しが完全に見えていることを「つまらない」とは感じない。これが「手に職がついた」ということなのだろう。ありがたいことだ。しかし、病理診断については、単純にこなすスピードが速くなりすぎてしまったので、一日中病理診断だけして暮らしていけることはもうない。

となれば結果は一緒である。病理診断を終えたあと、残りの時間がつまらない。



成長しないと乗り越えられない壁がいつまでもいつまでも目の前に立ちはだかるようなタイプの仕事はとても楽しかった。でもそういうのは、経験を積むうちに少しずつなくなってしまった。しかたなく、自分ではなくクライアントのためにやっている仕事である程度の充実感を得る。

※今のくだりを読んで脊髄反射で贈与とか利他とか言い出す人がとても増えた。気軽で楽しそうでうらやましい。もう少し考えてみればいいのに。これのどこが利他なんだ?



ぼくが好きだったのは自分がやれるかやれないかぎりぎりのラインで、「絶対にやれないわけではなく」「でもやりようによっては達成できないかもしれないから一瞬たりとも気が抜けない」ような仕事だった。そんなぼくは今、楽に働けてしまっており、それをたまにつまらない、と思うし、いずれ「燃え尽き症候群」になるのかもしれないという懸念もあるが、できれば、燃え尽きるのではなくて炭火のようになりたい。


尊敬する病理医の多くは、60になっても70になっても病理診断の奥深さと向き合いながらおもしろさを発見し続けている。彼らはみな、ぼくよりはるか先に、仕事をいつまでに終わらせられるかという「見通し」を手に入れているわけだが、その後も腐ることなく、仕事のクオリティを高め続けている。クライアントの満足感を100%にするのは当たり前のこととして、そこからさらに、おそらくは自分のためだけに、エゴイスティックかつ無意味なレベルで、仕事を磨いていく。それがたぶん、つまらないまま生きていかないためのコツなのだろう。彼らは一様に炭火である。激しくほむらを立てることこそないが、長く燃え尽きずに熱を発し続けて世の中を芯まで温めている。


炭火になりたい。そうすればこのつまらなさも多少なりとも解消するのではないか。ぼくは今、完全に利己の話をした。

2022年4月7日木曜日

病理の話(644) 遺伝子をしらべたらわかるものなのか

まず、「がん」はどういう病気かという話から。


体内のあちこちで、細胞たちがまじめに働いている。決められた場所で、決められた数の細胞が、定期的に新陳代謝しながら、決まった仕事をこなす。それによって人体が保たれている。

細胞内には、遺伝子という名前の命令書が搭載されており、それぞれの細胞はこの命令書にしたがって、必要な道具(タンパク質)を自前でつくりだす。カナヅチやマジックハンド、作業着やヘルメット、ペイペイの認識端末、消毒薬みたいなものも、命令書から細胞がぜんぶ自分で作るのだ。すごいだろう。


この、遺伝子に異常があると、間違った道具を作ってしまう。もしくは道具が作れなくなる。


たとえば、となりの細胞と連結するための部品をうまく作れなければ、本来はがっちりとスクラムを組んでなんらかの形を作るはずの細胞がバラバラにほどけてしまう。


「遺伝子異常」によって、「タンパク質が異常」になる。その結果、細胞の挙動がおかしくなって、いてはいけないところにしみ込んだり、あってはいけない量まで増えてしまったりしたものを「がん」と呼ぶのだ。




と、まあなんかそんなことになっているので、途中の説明をぜんぶ飛ばして「がんの検査で遺伝子をしらべる」みたいな話が出てくるのである。しかし、注意しなければいけないことがある。


「遺伝子に異常があればがん」かというと、じつは、そうとも限らないのだ。


ここだけの話、ほとんどの細胞は、遺伝子の1つや2つが異常になったくらいではがんにならない。10個くらい異常を抱えていてもがんになっていないことも多い。一般的に、数十~数百といったものすごい数の遺伝子に異常が生じて、はじめてがん細胞としての貫禄があらわれる。


たとえ話にするとわかりやすいかもしれない。中学生のカバンの中を調べて、十徳ナイフが出てきたとする。ではそいつは確実に殺人犯だろうか?

たいていの人は、「いやいきなり殺人犯て……」と思うだろう。

どちらかというと、「中二病じゃねぇの?」くらいに感じるのではないか。

では、その中学生が、カバンの中に、十徳ナイフのほかにタバコもライターも、違法薬物も、振り込め詐欺の元締めの名刺も入れていたらどうだろう。

「これはなんかやってるな」と疑うことになる。しかしこれでも「殺人犯と断定」はできないだろう。


がん細胞を遺伝子で診断するときも似たようなことをする。異常を1つ、2つ見つけたくらいでは、生命に悪影響をおよぼすがん細胞であるとはまったく判定できない。しかし、多数の遺伝子変異があり、その中に「これはさすがにアウト」という変異も混じっているときには、「うっ、がん細胞かもな」と考える。


そして、その細胞が実際に犯罪をおかすところ……顕微鏡の向こうでがん細胞が周囲の組織を破壊しながら浸潤したり、ほかの臓器に転移したりしていれば、「現行犯」としてがん細胞と断定できるのである。



病理学を勉強している最中の医学生にはこのように伝える。

「ポイツ・ジェガース症候群のポリープはがんではないけれど、遺伝子変異は持っているよ。なんなら胃底腺ポリープだって、良性だけど、遺伝子変異は多少ある。変異があったからがん、っていうのは短絡的だから気を付けてね」

……これ、ブログで読むとみんな納得するんだけど、実際にこのように説明しても半分くらいの学生が、「えっ、でも、遺伝子変異ですよね? それは前がん病変なんじゃ?」と、なかなか受け入れられなかったりする。複雑系を思考する訓練を積まないといけないね。

2022年4月6日水曜日

沖縄弁ってこういうときすごいべんり

ケアの領域で頻繁に用いられるようになった「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉がある。


軽くググると、日本語訳として、「不確実さに耐える能力」という言葉が出てくる。白黒はっきりしない状態でイライラせずに、「ま、そういうのってなかなか正解を決められないよねー」と、「決まらなくてもいいさー(沖縄弁)」と、不安定な状態を許して生きていくようなイメージで使われることが多い。


でもそのままググりを続けていくと、もともとこの「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉を用いた詩人は、「確かなものに触れるためには想像の中で真実を見出すしかない」というようなことを同時に言っている。


想像の世界にだけ、「神聖な真実」がある。ただしこれには、現実世界でどのような手段を用いても触れることができない。「真正性」と現実とは乖離しているからだ。真実はいつもひとつかもしれないが、現実はいつもそれと微妙にずれていて、そのハザマでぼくらは物事をひとつに決められずにゆらゆら揺れている。「真実と現実とのずれ、揺れ」を受け入れる力、それがネガティブ・ケイパビリティだ、というのが元々の意味らしい。


となると、これは、だいぶ西洋的な、あるいはキリスト教的なものの考え方だなあということに気づく。歴代の西洋哲学者たちがずっと気にし続けてきた、「神」を思索のなかにどう位置づけていくか、みたいな話とも通ずるところがあるように思う。


逆に言えば、「少なくとも想像の中では、絶対の真実がある」という思考が、人類すべてに備わっているとは思えない。たとえば、老荘思想とか、有為転変(仏教)という考え方は、絶対の真実を想像すること自体から距離をとっているように(ぼくには)見える。



と、ここまで考えて思った。

死生観とかケアの話をするときに、西洋論理がマッチするタイプの人は近年ネガティブ・ケイパビリティのことを言うし、近代の仏教がマッチするタイプの人だと一切皆苦のことを言う。これらは結局どちらも、


「なんで最後が苦しみなんだ、どうして幸せが永遠に続かないんだ」

「幸せなままずっといられる理想を追い求めてはいけないのだろうか」


という、生きることに対する根源的な欲求を乗りこなすための思考回路であろう。そして、ネガティブ・ケイパビリティのことにも仏教のことにも一切興味がない人たちも、しばしば、ほとんど同様の思索を、シェークスピアや太宰治を通じて深めていたりする。




「優れた脚本の類型はすべてシェークスピアが先に書いている」と言った人がいる。けれども、さまざまな思想や宗教を拾い読みしていくと、シェークスピアほどわかりやすい形ではないかもしれないが、「どうしてもっとこうならないのか?」という、人間の望みと現実とのかけ離れは古今東西さまざまに書き表されている。


あるいはぼくらの脳にはデフォルトで、「人間はこういうものに苦しむようにできている」という統一の類型があるのだろう。ただしその根源に触れられるのはぼくらの無意識だけで、意識的にそれを直接引っ張り出すことができないから、間接的に、宗教とか思想とか文芸というかたちで、そのまわりをぐるぐる回って、ときどき触れてなぞりながら、「脳の中だけにある真実」が本当はこうなのではないかとあれこれ試行錯誤して考えている。だから、洋の東西を問わず、宗教の違いを乗り越えて、似たような思索が形を変えて……


……という最後の思考様式は、おそらくちょっと西洋哲学寄りなのだろうな、なんてことをふわふわと考える。なんどもコスられてきた話をぼくもコスっている。

2022年4月5日火曜日

病理の話(643) 新しい形態診断の世界へようこそ

こないだ聞いた話がおもしろかったので書きます。


デジタルパソロジーという言葉がある。パソロジーというのは病理学という意味だ。病理診断をデジタル化する、くらいの意味合いである。

では何をデジタルにするのか? 要はプレパラートをデジタルにするのだ。

プレパラートを顕微鏡にカシャコンとはめて覗くスタイルは、いかにも研究者っぽくてあこがれる。まあみんなもあこがれていると思う。大丈夫、知ってる。人口の100%くらいが顕微鏡大好きだ。

けれども、100%というのはあくまで近似値で、なかには「顕微鏡なんてオタクっぽいし目が悪くなりそうだし背中まがってそう……」みたいなことを言う人も、0.00002%くらいはいるかもしれない。誤差範囲だけど。SSRより稀なレアキャラだけど。

で、ま、そのあこがれる・あこがれないはどうでもいいとして、現実には、プレパラートをデジタルスキャンすると、「顕微鏡がなくても、PCモニタで診断ができるようになる」ので、いろいろと便利なことがあるのだ。

たとえば、遠くにいるすごい病理医に診断の相談ができる。

学校で学生相手に講義するときも、スクリーンやPCに画像を直接出したほうが教えやすい。

PC上で病理組織像が見られるならば、そこに自由に字やマーカーなどで書き込みをすることもできる。これもすごい便利だ。

病院の中で、医者がいっぱい集まるカンファレンスが開かれる際には、デジタル画像をモニタで見たほうが議論がしやすい。

なにより、「病理診断をテレワークにできる」というのがいい。病院に出勤しなくても、家のPCで診断ができるじゃないか。





と、まあ、デジタルパソロジーにはさまざまな可能性があるんだけど、そういうのとはぜんぜん違う「いいこと」もあるという話を聞いた。


それは、「プレパラートをデジタル化すると、病理医が診断するときに活性化する脳の部分が変わるかもしれない」ということである。


おもちゃでもいいので顕微鏡を使ったことはあるだろうか? もし、顕微鏡のことを覚えているならば、以下の説明はすこしわかりやすくなる。


顕微鏡には「接眼レンズ」というのがある。ガラスプレパラートに向かってのびる、円筒形のレンズだ。この先のものを拡大できる。ただし、この「レンズを使って拡大する」という構造のために、じつは顕微鏡観察には弱点がある。

それは、「拡大するのは得意だが、俯瞰するのがちょっと苦手」なのだ。

虫メガネで新聞の文字を拡大すると、一部分をぐっと拡大するのはいいとして、全体像をざっと眺めることはできない。顕微鏡とはそもそもそういうツールである。一部に注目したら周りは見えなくなるものなのだ。

しかし、デジタル化したプレパラートは、全貌を画面上でバッと眺めることができる。これ、意外に、診断の場面では今まであまりやられていなかったことである。

今までも、プレパラートをデジカメで写真撮影すれば、全貌をバッと眺めることくらいできるのだけれど、その解像度はあまりよくなかった。ところがデジタルパソロジーで用いるスキャンははるかにすごくて、「全視野を600倍(※一例)拡大した写真を自動でつなぎ合わせている」ので、解像度がとんでもないことになっている。

デジタルパソロジー技術が発展することで、「解像度が高いままに、全貌を見渡す」ことができるようになったのだ。

スキャナだけではない。あともうひとつの技術革新がある。以下の写真を見て欲しい。




これは亀田総合病院の臨床病理科から拝借した写真である。顕微鏡がなくて、代わりに大きなデジタルモニタが何台も置いてあるだろう。


技術革新とは「モニタ」である。4Kとか8Kといった、それ普通のテレビに搭載してもほとんど意味ないのでは? という高解像度のモニタが、病理プレパラートをスキャンした画像を見る場合にはめちゃくちゃ役に立つ。

モニタの解像度が高いと、プレパラート全体像を投影したあとに、画面をいちいち拡大しなくても、自分がそのモニタに近づいていって目をこらせば、細部まで見えてしまうのである。こんなことは今まで絶対にあり得なかった。





で、それだけではなくて、ぼくがおもしろいなーと思ったのはここからだ。

なんと、デジタル画像で「プレパラートの全体をざっと(高解像度で)目に入れる」と、それだけで、拡大倍率を上げることなく診断ができてしまうことがけっこうある、というのだ。今までさんざん顕微鏡倍率を上げたときの細胞の見かたばかり訓練してきた病理医たちはこの話を聞くと、

1.一瞬おどろき、
2.そして納得する

のである。細胞が織りなす高次構造のゲシュタルト(全体がかもしだす雰囲気的なもの)が、その病気の正体をフワーンと頭に思い起こさせる。たしかにこういう現象はありそうだなと、顕微鏡で形態診断をしてきたプロたちは、最初とまどいつつも納得するのだという。

もちろん、だからと言って、せっかく顕微鏡検査なのに拡大しないなんてもったいない、という思いはある。拡大してはじめてわかる細胞性状というのも山ほどあるので、「俯瞰だけで終わりにはしない」のはまあ当然なのだけれど、このとき「デジタル病理医」は、

・俯瞰したときのインスピレーション(直感)を確認しに行くような気分で、倍率を上げていく

のだそうだ。うーん、かっこいいな……。

具体例をひとつだけ挙げておこう。

胃のプレパラートをざっと俯瞰すると、最強拡大で見ないとわからないはずのピロリ菌が、なんとなくそのへんにいそうだということが直感的にわかるというのである。

えっそれ無理でしょ……と思うのはたぶん病理医の経験が5年未満の人だ。それ以上やっている病理医なら、「あっ……それなんとなくわかるかも」と言ってくれるのではないかな。似たような話は『病理トレイル』(金芳堂)にも少し書いたかもしれない。



プレパラートがデジタル化したことにより、病理医が細胞をさまざまな倍率で観察するときの、「倍率設定」が増えた。カメラマンが望遠レンズだけではなくパノラマレンズを手に入れると撮り方が変わるようなものか? うーん、どうもそれだけでもない、ここには「病理医にしかわからない快感」がある気もする。

なお、「快感の質」は病理医にしかわからなくても、その恩恵はたしかに患者や臨床医に届く。病理医が今まで以上に形態診断にさまざまなやり方でアプローチすれば、その結果はきっと、今まで以上に応用しやすい診断情報として、医療を支えることができると思うのだ。いいことしかねぇな。

2022年4月4日月曜日

ドントフィールシンク

辻褄(つじつま)という言葉をわりと気軽に目にする。それってつじつまが合わないよねー、みたいな。


今のたった二文だけで何を言いたいかわかった人もいるかもしれない。


「つじつまが合う」という言葉の浸透度のわりに、「辻褄」がなんなのかを即答できる人の数は少ないと思う。言語ってふしぎだね。辻は縫い目の一種で、褄は和服用語だそうだ。ぼくだってこんなの知らなかった。元ネタをわからないまま、「つじつま合うね」とか普通に使っていた。


「つじつまが合う」 → 「辻・褄が合う」 → 「十文字に重なる縫い目がぴったり合う、和服の襟と襟とが重なる部分がぴったり合う」


という意味なのだそうだ。へええぇぇ。衣類関連の言葉を二つ例示して強調し、「それくらいぴったり合う」というニュアンスを、「動作込み」で内包した言葉だったのか。「イヌ派喜び庭駆け回り、ネコ派コタツで丸くなる」みたいな羅列。今ちょっと漢字の変換を間違えましたけれども。


そんな由来を一切かんがえずに、ただ漫然と、「つじつまが合う」という言葉を過去に聞いた・使ったときの状況と雰囲気が似てるから、という意味で、ぼくはこれまで「つじつまが合わないなー」みたいなことを言ってきたのだ。うーん、脳と言語の関係ってすごいな。



理屈じゃないのだ。物語ですらないのかもしれない。クリアファイルのように半透明なレイヤーとレイヤーを瞬時に重ねて、「おっ、ぴったりじゃん」くらいでゴーサインを出す。



死語となったが、かつて若者の間で「フィーリング」という言葉が流行った。そしてすぐに廃れたのだが、それより年上の世代では長らくフィーリングという言葉が便利使いされるようになり、なんなら今でも「フィーリング」という言葉で何かを説明しようとする人たちがいる。雑な言葉だなーと思っていた。似たような意味でm「Don't think, feel」を名言的に使う人もいまだに目にする。


ただ、たぶん……本質なのだろう。エビデンスでもない。ナラティブでもない。人は瞬時の絵合わせで動く。ニュアンス合わせ。情合わせ。そこに照準を合わせて言葉を選んでいくのが医療者の仕事なのかもしれない。ところで「照準」はなぜ照らし、なぜ「準」なのだろうか? 基準、水準、「目安となるもの」を、「照らす」のが、なぜ「ターゲットを明確に狙うこと」という意味をまとうのだろうか? ……こういうのを調べることなく使っている我々の間で、さほど不自由なく意図がきちんと伝わっていく、ということ。

2022年4月1日金曜日

病理の話(642) アーチファクト

われわれ病理医は人体から採ってきた細胞を見て、それがどういう病気なのかを診断する。

ただし、「細胞を見ただけで病気がわかる」というわけではない。どちらかというと、


細胞がどのように並んで、どのような構造を作って、どこに分布しているのか


が重要である。細胞1個を見るのではない、複数の関係を見る。


たとえば、「がん」という病気のことを考えよう。がんの病変部から細胞を採ってきて調べる。その細胞は「非常に顔付きが悪い」。細胞の中にある核のかたちがおかしく、細胞質の色合いも変化している。

道を歩いている人たちの中に、右手に拳銃、左手に違法薬物を持って上半身が裸で背中に昇り龍が彫られている人がまぎれていたら「あいつヤベェ」となる。がん細胞にもそういう「ヤベェ」があるので、顕微鏡で拡大すると「それががんかどうか」がよくわかる。


では、われわれ病理医が常に「顕微鏡の最大倍率で細胞を拡大しまくって、1つ1つ調べている」のかというと、そうではない。

もう少し、拡大しないで全体を見る。


がんは、細胞同士が徒党を組んで、「本来いてはいけないところに攻め込んでいく」という病気だ。細胞たちが集団で立ち入り禁止区域に入り込んでしまう。

胃癌を例にあげよう。胃の粘膜の中にある「腺上皮細胞」が、粘膜下層や固有筋層と言った、「本来そんなところにいてはいけない場所」にしみ込む(浸潤する)。さらには、リンパ節や肝臓、肺のような、「まるで違う場所」に飛び散っていく(転移する)。

このような、浸潤・転移といった「居場所のエラー」があれば、細胞を拡大しなくてもそれはがんだとわかる

見た目がどれだけ善良そうであっても、居場所がヘンならそれはヤベェのだ。

黒髪ロングにセーラー服でトートバッグの中にゲーテの詩集を入れている美しい委員長タイプの女の子が、20人くらい集まって、公園の男子トイレの屋根に登っていたら、「ヤベェやつアラーム」が鳴り響くであろう。



したがって、普段、われわれ病理医は、細胞の配列や居場所を念入りに調べるくせがついている。「お前ここにいるのはおかしいだろ!」の目。鳥の気分で俯瞰して、ロングショットで現場を見渡すのだ。ただしここには落とし穴もある。



たとえば、胃の手術標本を見ていると、胃の壁の中にある筋肉に、本来であれば粘膜にいるはずの「上皮細胞」が紛れ込んでいることがある。

そこで、「あっ、浸潤だ!」と判断して、つまりこれはがんだ! と診断書を書くのだが……このとき、あわてずに、その細胞を拡大する。

それが「委員長」だ。善良そうなのである。

うーん、なんで委員長が、こんな立ち入り禁止区域に、ひとりで紛れ込んでいるんだろう?

あなたは疑問に思う。そして、まわりをよく調べる。

細胞をみるために作成したプレパラート。よーくみると、「委員長」がいたあたりだけ、いくつか小さく穴が空いている。

プレパラートの上にのっている細胞は、「本来は厚みのある検体を、かつらむきにしたもの」だ。わずか4マイクロメートルというペラッペラの薄さにして、色素で色を付けて、下から光をあてて透過光で観察することで、細胞をよりよく見えるようにしている。

この、「4マイクロメートルのかつらむき」は、一流の検査技師によって生み出されるのだが、たまに、シワが入ったり、「かつらむきをしている最中に、ナイフに残った別部位の細胞がまぎれこんだり」することがある。

そう、「混入」なのだ。だから本来いてはいない場所に細胞がいたように見えただけ



このように、元々あるべき姿とは違う像が見えてしまうことを「アーチファクト」という。アーチファクトのアーチ(arti-)は、人工知能 artificial intelligence のarti-とおなじで、人工的な、人為的なというニュアンスを含む。

あらゆる検査にはアーチファクトがつきものだ。そして、病理医は、アーチファクトを真の病気と見間違えないための訓練を積まなければいけない。

先ほどのように、「胃壁の中に浸潤がある!」と思っても、そこでぐっと踏みとどまる。たとえば顕微鏡の拡大倍率を一段上げる。そして細胞の顔付きを見る。「こいつ、本来のがん細胞よりも、異型(=正常からのかけはなれ)がないなあ……」と気づけば、これがアーチファクトではないかと類推することができる。



ただ……最後に話をひっくり返すと、人体においては、「委員長も大犯罪に手を貸すことがある」のだ。見た目が悪くなさそうだからと言って犯罪をおかさないわけではない。そこで、細胞の顔付きとも、居場所とも違う判断基準をいくつも用意して、複合的にそいつが悪いやつなのかどうかを見極めることになる。続きは医学書で。