2022年4月28日木曜日

流行りの役者を起用する

燃え殻さんが原作を書いておかざき真里先生がマンガにした『あなたに聴かせたい歌があるんだ』が、Huluオリジナルドラマになるのだけれど、伊藤沙莉が出演するというのでHulu契約しようかなあ……と思い始めた。普通にファンである。


ただしその役柄が「アイドルを夢見て上京する人」だと聞いて、ほう、と思った。マンガに出てきたから、どういう立ち位置のキャラクタかはわかる。そして、マンガ版では、ぼくが考える限りはほかにも「伊藤沙莉が演じそうな人」がいたと思う。

ドラマ版の配役を担当した人は、「あれ」が一番伊藤沙莉っぽいと思ったわけか。へえー。


ドラマや映画の監督が「原作を読んでいて自然とこの方の顔が思いました。この役者さんしかあり得ないだろう、とね」なんて言うとき、そのまま字面どおりに受け止めることはない。たいていのドラマや映画はそのとき旬の、出まくっている役者しか出てこない。選択肢は最初から決まっているのだ。この10年は本当に露骨である。20年前もそうだったかな。最近はモブですら同じ人だ。役者ってあんまりいないんだな、と思うことも多い。秒単位で視聴率管理をするテレビドラマならまだわかる、画面に誰が映ったとたんに視聴率が上がる・下がるがあるわけで、ちょい役・モブ役でも気は抜けないし、すでに「人の目を惹き付ける実績がある人」をチョイスするのは当たり前のことであろう。しかし映画でもサブスクでも同じとはね。


ただし、そのことを責めようとまでは思わない。じっさいぼくは伊藤沙莉が出ていれば、それがどの役柄であっても見ようかなと思うわけで、伊藤沙莉が燃え殻さんの『ボクたちはみんな大人になれなかった』に出演しており、今回また燃え殻さん原作のドラマに出ることを「またかよ節操ねぇな」と思うよりも、「燃え殻さん独特の、掠れ声の世界観みたいなものに、伊藤沙莉さんはぴったりだもんなあ」という気持ちのほうが大きい。


というわけで伊藤沙莉フィーバーはまあ喜ぶとして、ドラマや映画で同じようなキャストばかり呼んでしまう現象に関しては、ほかに思うことがある。

それは、ぼくが自分でしゃべるときやものを書くときのことだ。

たとえばこのブログにしてもそうなのだけれど、ぼくは、自分が直近で気に入ったフレーズや「書き回し方」みたいなものを、何か文章を書くたびに、あるいはしゃべるたびに「何度も出演」させていると思ったのである。

またムロツヨシをそこに置くのかよ、みたいな頻度で、「また俺の文章、複雑系の話でまとめてるな……」と感じることがある。松重豊並みの頻度で「偶然性」を語り、岸井ゆきの並みの頻度で「アフォーダンス」を語る。香川照之並みに登場するのが「俯瞰と接写をくり返すこと」であろう。

脳内風景をきちんと吟味して、脚本を読み込んで、世の中にいっぱいいる俳優の中から「これぞ!」という人に白羽の矢を立てることをせず、なんとなく最近テレビに映っていると目で追いかけてしまう役者、そういう人を便利に起用してしまうのだ。すると、シーンごとの演出はおろか、全体のストーリーまでもがその役者に依存して変化し、あたかも「当て書きのシナリオ」のように文章が整っていく。


ぼくはHuluやNetflixと同じメンタルなのである。ちかごろ、伊藤沙莉的に便利使いしてしまうのは「医療情報産業学」という言葉だ。たいていそこに収束させればすべての文章は今のぼくの中で流行っている方向に落ち着く。それがいいことなのか、本当は避けるべきことなのではないか、ということをたまに考える。ところで『映像研には手を出すな!』の、浅草氏の長ゼリフは本当によかったですよね。