2022年4月8日金曜日

遠赤外線の実力

やることはあるのだがすべて「見通しが立っている」状態である。ありがたいことなのだけれども、これはあと30時間がんばれば終わる、とか、これは20分本気でやれば片付く、みたいな計算がついている仕事ばかりだ。


AI研究のように、「どうなるかわからない、本気で取り組むしかない」というタイプの仕事もあるのだが、これも所詮は「○年くらいみんなといっしょにやってればなんとかなるだろ……」という感覚である。


書評のために本を読む。分厚い。これいつ読み終わるんだろう? しかし、本というのは、順番にページをめくっていけばとりあえず最後まではたどり着くものだ。中身をどれだけ楽しめるかはともかくとして。楽しめなければ楽しくなかったと書評に書けばいいし、「これはもっとじっくり時間をかけて読みたい。」とでも一文入れておけばそれでぼくの書評は成り立つ(成り立っていないかもしれないが、そこをふんわり成り立たせるくらいの技術がたいていの人間には備わっているし、ぼくにも備わっている)。


海外講演の準備。後輩の指導。単著の執筆。ぜんぶ同じ。「締切までに、これくらいやればできる」というのがだいたいわかる。


それが「つまらないなあ」と思う。


ぼくは今、なんとなく、自分の仕事人生がピークアウトしてしまった、という感覚を覚えている。おそらく、ものすごく贅沢なことを言っている。けれども、「どうなるかわからない」「いちかばちか」「ここが正念場」みたいなひりつきを感じていたときのぼくは確かに、仕事だけで人生を輝かせていた。ひるがえって、今はどうだ。経験でなんでもこなせてしまう。求められた結果が80点くらいでいつも返せてしまう。つまらない。仕事に対する情熱が前のそれとは変わってきていることを感じる。


もっとも、病理診断は別だ。80点ではだめで、100点を出す必要があるからだろうか。他人の人生を背負っているからだろうか。病理診断をつまらないと思ったことはない。正確には、おもしろくてもつまらなくても関係なくやれる。もちろん、病理診断においても、積み上がった標本の山を見て、「ああ、これなら半日で見終わるなあ」とか「ここらへんは今日の午後に、こっちは明日の午前に回せばすべてカタが付くなあ」と感じるようになったが、病理の場合はぼくが診断した先に患者の人生があるからか、それが「自分にとって大事なこと」ではなく「患者やその主治医にとって大事なこと」だからか、仕事の見通しが完全に見えていることを「つまらない」とは感じない。これが「手に職がついた」ということなのだろう。ありがたいことだ。しかし、病理診断については、単純にこなすスピードが速くなりすぎてしまったので、一日中病理診断だけして暮らしていけることはもうない。

となれば結果は一緒である。病理診断を終えたあと、残りの時間がつまらない。



成長しないと乗り越えられない壁がいつまでもいつまでも目の前に立ちはだかるようなタイプの仕事はとても楽しかった。でもそういうのは、経験を積むうちに少しずつなくなってしまった。しかたなく、自分ではなくクライアントのためにやっている仕事である程度の充実感を得る。

※今のくだりを読んで脊髄反射で贈与とか利他とか言い出す人がとても増えた。気軽で楽しそうでうらやましい。もう少し考えてみればいいのに。これのどこが利他なんだ?



ぼくが好きだったのは自分がやれるかやれないかぎりぎりのラインで、「絶対にやれないわけではなく」「でもやりようによっては達成できないかもしれないから一瞬たりとも気が抜けない」ような仕事だった。そんなぼくは今、楽に働けてしまっており、それをたまにつまらない、と思うし、いずれ「燃え尽き症候群」になるのかもしれないという懸念もあるが、できれば、燃え尽きるのではなくて炭火のようになりたい。


尊敬する病理医の多くは、60になっても70になっても病理診断の奥深さと向き合いながらおもしろさを発見し続けている。彼らはみな、ぼくよりはるか先に、仕事をいつまでに終わらせられるかという「見通し」を手に入れているわけだが、その後も腐ることなく、仕事のクオリティを高め続けている。クライアントの満足感を100%にするのは当たり前のこととして、そこからさらに、おそらくは自分のためだけに、エゴイスティックかつ無意味なレベルで、仕事を磨いていく。それがたぶん、つまらないまま生きていかないためのコツなのだろう。彼らは一様に炭火である。激しくほむらを立てることこそないが、長く燃え尽きずに熱を発し続けて世の中を芯まで温めている。


炭火になりたい。そうすればこのつまらなさも多少なりとも解消するのではないか。ぼくは今、完全に利己の話をした。