2022年4月21日木曜日

病理の話(649) 手助けの顛末

臨床医は「○○病」を疑っていた。そして、ほかにも、さまざまな病気の可能性を疑っていた。


「○○病」かどうかを確定診断するために、病理医の手助けがいる。彼女らはそう信じていた。そこで、人体のある部位から小さな検体が採取された。


ぼく(病理医)は、それを顕微鏡で見た。


ところがそこには、「○○病」であることを示すナニモノカはなかった。


代わりに、■■病や△△病のときに「見られることがある」像がちらほらと観察できた。


そこでぼくは診断書に、「○○病の証拠はありません。■■病や△△病のときに見られがちな所見がいくつかあります(具体的に列挙)。臨床医としてはどう思いますか?」というようなことを書いて、電子カルテに向けて送信をした。


すぐに電話がかかってきた。「先生、○○病じゃないんですか!」と。


そこでぼくは、自分の書いた病理診断報告書を読み直し、たっぷり1秒考えた。

ぼくはここに「○○病の証拠はない」と書いている。それはまるで、日本語のニュアンス的に、「○○病を否定する」ように読めた。

電話で、謝罪をする。

「すみません……説明が足りなかったです。○○病の検体を病理で見て、○○病である証拠がみつかるのは、体感で、1~2割程度です。たいていはスカ。何も見つかりません。しかし、証拠が見つかる頻度が低いだけで、その証拠がないからといって、○○病を否定できるわけではありません。」

すると臨床医はテンション高くこう言った。

「よかった! じゃあ○○病としてもぜんぜんおかしくないんですね。だったら治療をはじめてしまおうかなあ」


さあ、説明が必要なのはここからだ。もう一度謝罪をする。

「すみません、報告書だけでは届かないニュアンスなので、最初から電話すべきでしたね。」

そしてじっくりと説明をする。



今の状況では、○○病を否定はしないが、肯定もできない。

病理に見られる「証拠」の出現割合が低頻度だからといって、「それがなくても○○病と診断してOK!」とざっくり議事進行してしまえるならば、そもそも、病理診断をする意味はない。

「見つかればラッキーだけど、なくても○○病と診断していい」くらいのチョロい行動選択のために、患者の一部を傷つけて、あるかどうかもわからない病気の証拠探しをするのが、病理診断……ではないとぼくは思っている。



「一緒に顕微鏡を見ましょう。ぼくは○○病でもいいとは思う。ただし、それだけなら報告書にそう書いています。■■病や△△病の可能性を否定してもらわないと困るから、証拠としてあのように書いた。先生はカルテ上では、■■病としては合わない、△△病としても典型的ではない、と書かれていますが、病理組織をみる限りは、○○病としても非典型的なんです。つまりこれは、非典型 vs 非典型のバトルになっている。

だからもう少しニュアンスを詰めましょう。最終的に○○病の治療をするにしても、もう少し、意見のすりあわせをしておいたほうがいい。

病理は何を気にしてあのような報告書を書いたのか。あなたがた臨床はなぜ○○病を一番に疑っているのか。そのあたりを全員が理解してから先に進んだほうがいいと思います。迷った末に、最後にエイヤッとどこかに診断を決めるならば、その責任をかかわった人間全員がきちんと背負うべきです。」



臨床医はニコニコしながら病理にやってきた。集合顕微鏡をいっしょに覗いて細胞をみる。ほら、この所見はある。ほら、あの所見はない。あるとない。ゼロイチ。しかしそこから考えをファジーなほうに伸ばす。○○病と診断することの意味。診断しないことの意味。治療をどうするか。「○○病」かどうかを確定診断するために、病理医の手助けがいる。彼女らはそう信じていた。そこで、人体のある部位から小さな検体が採取された。ならば我々病理医がやることは、「病理診断報告書を書く」という仕事だけでは終わらない。我々は「臨床医を手助けする」のだ。それが仕事である。