2022年4月7日木曜日

病理の話(644) 遺伝子をしらべたらわかるものなのか

まず、「がん」はどういう病気かという話から。


体内のあちこちで、細胞たちがまじめに働いている。決められた場所で、決められた数の細胞が、定期的に新陳代謝しながら、決まった仕事をこなす。それによって人体が保たれている。

細胞内には、遺伝子という名前の命令書が搭載されており、それぞれの細胞はこの命令書にしたがって、必要な道具(タンパク質)を自前でつくりだす。カナヅチやマジックハンド、作業着やヘルメット、ペイペイの認識端末、消毒薬みたいなものも、命令書から細胞がぜんぶ自分で作るのだ。すごいだろう。


この、遺伝子に異常があると、間違った道具を作ってしまう。もしくは道具が作れなくなる。


たとえば、となりの細胞と連結するための部品をうまく作れなければ、本来はがっちりとスクラムを組んでなんらかの形を作るはずの細胞がバラバラにほどけてしまう。


「遺伝子異常」によって、「タンパク質が異常」になる。その結果、細胞の挙動がおかしくなって、いてはいけないところにしみ込んだり、あってはいけない量まで増えてしまったりしたものを「がん」と呼ぶのだ。




と、まあなんかそんなことになっているので、途中の説明をぜんぶ飛ばして「がんの検査で遺伝子をしらべる」みたいな話が出てくるのである。しかし、注意しなければいけないことがある。


「遺伝子に異常があればがん」かというと、じつは、そうとも限らないのだ。


ここだけの話、ほとんどの細胞は、遺伝子の1つや2つが異常になったくらいではがんにならない。10個くらい異常を抱えていてもがんになっていないことも多い。一般的に、数十~数百といったものすごい数の遺伝子に異常が生じて、はじめてがん細胞としての貫禄があらわれる。


たとえ話にするとわかりやすいかもしれない。中学生のカバンの中を調べて、十徳ナイフが出てきたとする。ではそいつは確実に殺人犯だろうか?

たいていの人は、「いやいきなり殺人犯て……」と思うだろう。

どちらかというと、「中二病じゃねぇの?」くらいに感じるのではないか。

では、その中学生が、カバンの中に、十徳ナイフのほかにタバコもライターも、違法薬物も、振り込め詐欺の元締めの名刺も入れていたらどうだろう。

「これはなんかやってるな」と疑うことになる。しかしこれでも「殺人犯と断定」はできないだろう。


がん細胞を遺伝子で診断するときも似たようなことをする。異常を1つ、2つ見つけたくらいでは、生命に悪影響をおよぼすがん細胞であるとはまったく判定できない。しかし、多数の遺伝子変異があり、その中に「これはさすがにアウト」という変異も混じっているときには、「うっ、がん細胞かもな」と考える。


そして、その細胞が実際に犯罪をおかすところ……顕微鏡の向こうでがん細胞が周囲の組織を破壊しながら浸潤したり、ほかの臓器に転移したりしていれば、「現行犯」としてがん細胞と断定できるのである。



病理学を勉強している最中の医学生にはこのように伝える。

「ポイツ・ジェガース症候群のポリープはがんではないけれど、遺伝子変異は持っているよ。なんなら胃底腺ポリープだって、良性だけど、遺伝子変異は多少ある。変異があったからがん、っていうのは短絡的だから気を付けてね」

……これ、ブログで読むとみんな納得するんだけど、実際にこのように説明しても半分くらいの学生が、「えっ、でも、遺伝子変異ですよね? それは前がん病変なんじゃ?」と、なかなか受け入れられなかったりする。複雑系を思考する訓練を積まないといけないね。