2023年5月31日水曜日

どこまでも現実

お茶を飲んでいる最中にあくびをして、お茶を口の端からぜんぶこぼしたことある? ぼくはある。今。そういう眠さの中でブログを書いている。田島列島『みちかとまり』の1巻が出たので買った。そして読んだ。猛烈な勢いで心が揺さぶられて、マンガの世界から現実にいったん戻ってきてみるとぐらぐらとめまいがしてすごく眠くなってしまった。そしてノドもカラカラに乾いていた。だからお茶とあくびを同時に試してみたのである。結果、ワイシャツがデロデロに濡れた。なんだか夢の中のようだなあと思った。


Am J Surg Patholの最新号読む。このように「○○を読む」ではなく「○○読む」と書くのは『本の雑誌』で長いこと連載をしていた故・坪内祐三の真似だなと思う。ぼくはいくつも真似をしている。若い頃は、誰かの真似をしていることをナイショにしたままで模倣していた。だから昔書いた文章には、今にして思えばあの人から影響を受けて書いたということがバレバレの文体などがたくさん使われている。小説だけではなくマンガなどの影響もたくさん受けている。自分が昔書いた物を読むと、だから、すごく照れてしまう。照れの先に過去が置いてある。


Am J Surg Patholの最新号のあとは、ネコノスから届いた北野勇作の「シリーズ 百字劇場」の最新作読む。『ねこラジオ』という。この文庫本は3部作になっていて、1ページに1つずつ、たった100字で書かれた小説が載っている。巻末にQRコードがあり、全話解説のホームページ(note)にたどり着く。この全話解説のほうが本文よりも文字数が多いうえにひとつの読み物となっている。「メタな世界のほうがでかい」ということである。確かに、よく考えるとたいていのものごとは、メタの世界のほうがでかい。なるほどなあと思う。そして、最新作読む、と書いておいてアレだが、じつはまだ読んでいない。巻末QRコードが確かにワークしていることを確認して、そこでいったん一息入れてしまった。


先日、「主任部長面談」というのがあり、しかし主任部長とは誰かというとぼくのことであって、ぼくの面談する相手というのは院長と事務部長なのである。一年に一度、主任部長として部門のアレコレを院長や事務部長に報告するというものだ。このことを知人の会社役員に話したら「えっ、信じられない」と言った。おそらく、院長すなわち社長的存在とコミュニケーションするのが一年に一度というのが少なすぎる、という意味で信じられないと言ったのであろう。そんなわけないのだ。駐車場や廊下で会って挨拶するし、事務部長ともけっこう頻繁に相談事をしている。職場が公的に決める「面談の場」という、堅苦しくしかつめらしい場所が一年に一回あるということを「信じられない」と断ずる程度の人なのだなと思うし、それはまあわからなければ無理もないだろうなと思う。今ふと思い付いたことだけれど、何かを見て「信じられない……」とつぶやく人の9割は、単純に「自分の暮らしている領域以外の知識が全く足りていないことを自分で受け入れられていない」のだと思う。他人の庭を信じることはできないのが普通だ。それを受け入れられない人ほど「信じられない」と言う。



東京での文フリ(文学フリマ)が先日終わった。過去最高の規模だったとの話である。我がTLにも幾人かが参加したと見え、文フリで買った本というハッシュタグの元にたくさんの見なれない本が並んでとても楽しそうだった。ぼくはもう何年も、「いずれ文フリにフラジャイル全話解説の同人誌を出します」と言っているがちっとも進んでいない。具体的にはまだ3巻の途中までしかできていないのだ。こんなことでは、令和5年5月23日現在「25巻」まで出ているフラジャイルの全話解説を終えるまでにあと20年くらいかかってしまうことになる。20年も経ったらフラジャイルはきっと75巻くらいになっているだろう。そうしたら全話解説を作るのにまたそこから40年くらい経ってしまう。そしたらフラジャイルは125巻に達しているだろう。原作者、マンガ家、読者(ぼく)の誰が先に倒れるかのチキンレースとなる。もう少しペースを上げなければいけない。仕事を減らしたい。減らしてフラジャイルの解説本の原稿を書くのだ。しかしその前にゼルダをクリアしなければいけないのである。まるで夢のような話なのだ。

2023年5月30日火曜日

病理の話(781) 朝と夜とでガラッと変わる

職場で、ぼくのデスクの上にある蛍光灯が切れた。うちの職場では近年、蛍光灯が切れた順番にLED蛍光灯に取り替えている箇所が多く、たぶんぼくの頭上のものもLEDのやつに変わるはずである。

というわけで現在、施設課に新しい蛍光灯を持ってきてもらうまでの間、頭上の明かりがない状態で仕事をしている。このタイミングで顕微鏡を見ると、「細胞の色が変わって見える」のでおもしろい。てきめんに違う。そうそう、明かりの具合によって細胞って変わって見えるんだよなー、ということを思い出し、あらためて心に刻む。



ぼくらが仕事で使う顕微鏡は、プレパラートの下に強い光源を置いて、何枚かのフィルターを通して白色光に変換してからプレパラートを照らすタイプだ。小学生の使うような、周囲の光を鏡で反射するタイプのものではない。だから、部屋の明るさや照明の色と、のぞきこんでいる視野とは関係しないはずなのだが……現実にはけっこう変わって見える。

あまり知られていないのだけれどぼくらが顕微鏡を見るとき、目を接眼レンズにぴったりくっつけることはない。それだとうまく見えない。目と接眼レンズの間は、目とメガネくらいの距離を空けておくのがコツである。この隙間がおそらく関係している。中心視野はもっぱらレンズの中の光景を捉えているのだけれど、「辺縁視」が目とレンズの隙間から、部屋の明るさを見るともなしに見ているのだろう。その明るさが、中心視野の色味にも影響を与えているのだと思うのだ。

たとえば朝に顕微鏡を見たときと、夜に顕微鏡を見たときでは、細胞の「悪そうなかんじ」が異なって見える。これは有名な話だ。一般的に、夜に顕微鏡を見たほうが「一見して、がんっぽく見える」と言われている。そんな、病理医のライフスタイルによってがんかがんじゃないかが決まっちゃうってことですか? と質問されると、いや、そこまで直感だけで診断してないし、いくつものセーフティネットを用意しているから大丈夫ですよ……と答えたいけれど、そういう現象があると気づいていない若い病理医などは、しばしば腺腫と癌の区別を朝昼で微妙に変えていたりする。だからきちんと教えておかないといけない。知っておけば対策ができる。

レンズの中に見ている細胞を、知らず知らずのうちに、周囲の明るさとの差分で判断しているということ。いったんそういうものだとわかると脳内で補正がかけられるのだが、知らないとまずい。



これに関連して……。ぼくら病理医は複数人で一緒に顕微鏡を見るということをする。集合顕微鏡というのがあって、ひとつの顕微鏡からいくつものぞき穴(接眼レンズ)が伸びていて(鏡筒というのを四方に伸ばすのだ)、これでいっぺんに同じ視野を見る。

そうすることで、ベテランがどの細胞を見てどう考えたのかを、若手が学んだり、人によって意見の異なる難しい診断の相談をしたりする。

で、ベテランドクターにこの集合顕微鏡で細胞の見方を学んだあと、自分のデスクに帰ってきて、自分の顕微鏡で細胞を見ると、なんだか違って見える、みたいなこともよくある。

これにも、集合顕微鏡がある場所と自分のデスクとの明るさの差が関係していることがある。まあほかにも、顕微鏡が変われば光源の色が微妙に変わるとか、視野が変わるとかレンズのクオリティ(≒値段)が変わるとかいろいろあるんだけど、そういう見え方の違いを脳内でうまく補正しないと、安定した細胞診断はくだせない。



こういう補正に関してはAIのほうが得意だよね、みたいなことも、よく話している。けれどまあ、人間の脳って本当に優秀なので、そういうものだとわかっていればなんとかなるもんだよ。

2023年5月29日月曜日

見たことのない大人

ゼルダが生活の中に割り込んだことで、時間外の業務が若干苦痛になり、本を読む時間も半減した。一方で、運転中はゲームができないし本も読めないので、あいかわらずポッドキャストの時間となっており、そこはゼルダによって侵食されない。そういえば畑仕事の最中もポッドキャストだ。音のコンテンツって、音同士でしかバッティングしないんだなと感じる。ラジオが復権してきている理由がなんとなくわかる。

ぼくは30代半ば以降になって本を読む頻度がとても増えたのだけれど、この理由をなんとなく「文字に強くなったから」だと思っていた。しかし、違うね、これはゲームをしなくなったからだったんだ。

たまに人から、「そんなに本ばかり読んでいるのすごいですね、子どものころからずっとそうだったんですか?」などと言われることがあり、「すごくはないですし、子どものころはたいして読んでいませんでしたよ」と答えていたのだけれど、そう、子どものころはファミコンをしていたからやっぱり本は読んでいなかった。ドラえもんやドラゴンボールの単行本を何度も読み直したくらいだ。ゲームというのは目と指と口(ああでもないこうでもないと言う)をまとめてもっていく娯楽だったし、かつてゲームがいた場所に外食もゴルフも旅行も詰めこんでいない今、本を読む時間が多くなるのは必然である。

音に使っている時間は、音以外では補填がきかないので、音同士でやりくりする。20代のころはオルタナやエモコアばかりを聴いていた。今はその時間がたいていポッドキャストになっている。冷静に考えるとこの変化もけっこうエグい。



先日、約25年前に付き合っていた女性とメッセンジャーで雑談をしていたところ、その女性が(実際に自分がなってみると)アラフィフってこんなもんだったかなあ、みたいなことを言う。まあそうだよな、そういうことを言いたくなるよな、と同調する。もう少し具体的にこの同調のメカニズムを述べると、10代や20代の時間を共有していない間柄の人が周りにだんだん増えてくるにつれて、めったに合わない古い知人と話すときはつい「昔の自分が思っていた大人の姿と、自分がいざその段階にたどり着いたときに考えている自分の姿とが一致しない」みたいな話題を(普段言えない分)ここぞとばかりに言いたくなるよな、という点で納得したのである。

25年前も1日は24時間あったはずだが、あの頃のぼくと今のぼくが同じ長さの1日を暮らしていることをうまく実感できない。昔のぼくと今のぼくはまったく一繋がりではなく、途中で宇宙の意志か何かによって新たな記憶を植え付けられていてもわからない。当時、教科書以外の本は何を読んだのだろうかと思って、(ニセモノかもしれない)遠い記憶を探ると、たしか19歳ではじめたホームページに書評を書いていたはずで、そこにはたしか沢木耕太郎、北村薫、宮部みゆき、京極夏彦、馳星周など、いくぶんJ-POP的なものも含めて小説を何度か取り上げたはずだ。しかしあるいは読書量は月1冊にも満たなかったのではないかという気がする。あの頃のぼくは剣道部にいたり、塾や家庭教師でバイトをしたり、大学そばのカネサビルで朝まで酒を飲んだり、そういう非仕事・非勉強・非読書・非音楽的なもので時間をフルに満たしていた。まるで今とは違ったのだ。となれば、当然、20代の自分の目に映る40代なかばの人間というのも、今の自分の周りにいる40代の人間とは違ったクラスタの人でしかないし、ていうか今のぼくだって20代のぼくの周りにはいなかった。今のぼくは20代がうろちょろしている居酒屋には行かないし、剣道もしていないし、バイト先にだっていないのだ。ここ何年も、「20代のぼく」を彷彿とさせるような人間と同席する機会がない。あの頃、20代のぼくと会っていた40代というのはいったいどこにいた誰だったのか。そういう大人達を見て「40代とはこういうものか」と想像していたであろう当時のぼくが、今のぼくを想像することは無理なのだ。アラフィフとはこんなものだったのか、という意外性はつまり、「そんな40代の人間を見たこともないし聞いたこともない」という20代のぼくの叫びによって肯定される。いや、あるいは、ラジオだけはぼくに「40代のぼく」を想像させる可能性はあったのかもしれない。でも当時のぼくの耳はポッドキャストではなくiPodのナンバーガールによって満たされていた。向井秀徳も当時はまだ30代に過ぎなかった。



今の10代、20代は、「中年の遊び場」であるTwitterをたまに見に来てはいるようだし、ぼくがネット上でどういうことを言っているかをぼんやりと目にすることもあるだろう。あくまで偏った40代であるが、そういう姿を見て「ああ、40代とはこういう感じなのか」という仮の映像を本人の中で醸成していく。確信して言えるが、それはあなたの40代ではありえないし、あなたもまた40代になってみれば「へぇ、40代って自分でやってみるとこういうことになるのか」と少なからぬ驚きを得ることになるだろう。そして、あなたがたがぼくを「わかりあえない他人」と思っている以上に、20代のころのぼくは40代のぼくを自分とは思えないはずである。しかし、ラッキーなことに40代のぼくは20代のぼくとコミュニケーションを取ることがかなわない。20代のぼくが40代のぼくとの断絶に心を痛めたりADHDやASD、神経症の器質を悪化させたりするリスクもなく、すべては一方的に未来にいるほうのぼくが引き受けてしまえばそれでなんとかなってしまう。大人として当然のことを粛々とこなす。

2023年5月26日金曜日

病理の話(780) 後医は名医でなければならない

患者が病院を訪れる。医者は、問診を行い、検査を出し、生活方法を指導したり薬を出したりして、患者とともに二人三脚をはじめる。

時間とともに、たいていの病気はよくなっていく。

しかし、ときに、患者の病気がなかなか良くならないことがある。薬が合わないのかも、と思って別の薬を試してみたりする。あるいは、もっと別の病気なのではないかと思って、「最初の治療が効かなかった」という情報を加味して、検査を追加し、病気を細かく調べ直していったりもする。

事細かに調べ直した結果、「どうやらA病ではなくて、B病のようだ」と考え直すことがある。A病に対する薬をやめて、代わりにB病に対する薬を出す。

すると、それが効く。なるほど、本当はB病だったのだなとわかる。



患者からすると、おいおい、最初から一発でB病と診断してくれよ、という気持ちになる。でもこれはけっこう難しいことなのだ。





唐突ですが、シルエットクイズをやりましょう。これは何の動物でしょうか?



ある動物の一部分です。おわかりになりますか?

わからない? ではもう少し詳しく見てみましょう。どうやって詳しく見ますか?

もうちょっと広い範囲を見てみたい? OK、では情報を広げてみます。


はい、広げました。だいぶはっきりしています。ぼくはわかるよ。これ。答え知ってるから。でも皆さんはどうでしょうね。

見る範囲を広げればもう少しわかるかと思ったでしょう? たとえば、動物の顔の一部だとしたら、範囲を広げたらいずれ目とか鼻とかが出てくるもんね。見える範囲を広げるってのは確かに重要だよね。

でも、今回の場合は、もしかしたら、範囲を広げるんじゃなくて、別の検査……じゃなかった、画像処理をしたほうがわかりやすいかもなあ。

大サービスです。色付けてみましょうか! シルエットクイズじゃなくなるけど!

はい、どうぞ!


さあ、これだけ検査をしたんだからそろそろわかってほしいなあ。ぼくは完全にわかりますよ、これ。どう見てもそうじゃん。あっでも、答えがわかってないで見るとどう見えるのかな……。

ほっそい馬とかじゃないです。

わかんない? じゃあもっと検査を……じゃなかった画像処理を追加しましょう。もっともっと、広い範囲を見せてほしいですよねえ。

はい! もうわかりましたね。いやあ、時間かかったなあ。




……いやあ……まだわかんない人いっぱいいそうだなあ、と思った。答えを出そう。これはシカである。




最初の段階では、色がわからないシルエットになり、ツノの部分だけが、上下ひっくり返って表示されていた。

答えがわかってから見ると、一番さいしょの小さい画像はともかく、次の画像は「確かにツノだなあ」とわかる人も多いのではないか。

でも、答えがわからないで見ていたみなさんは、3枚目でも、なんなら4枚目でも、「なんだこれ? 足か? 細い馬か?」くらいにしか思っていなかった可能性もある。



さらに言えば、3枚目の画像で「細い馬!」と答えを言ったとして、そこでピンポンともブーとも音が鳴らず、正解がわからなかったらどうか。

答えは知らんけどまあ「細い馬ってことにしとこ」ってなって、その後の治療がはじまる……じゃなかった、それでクイズは終わる。

あくまで、「これは細い馬ではありません」とぼくが答えの一部を提示したから、回答者はその後も「じゃあトリの足かな」「いや、何かのツノだろう」と、次の推理をし続けることができるのである。





答えがわかってから振り返ると、最初に「画像の見える範囲を大きくする」のに加えて、「画像を回転して見せて欲しい」と言えば、もう少し早い段階で答えにたどり着いたかもしれない。少なくとも4枚目の段階でピンと来た人は多かったろう。

けれど、シルエットクイズで「画像を回転させて考える」というのは、必ずしも一般的な発想の範囲ではないと思う。

我々には、習慣やしきたりなどによって、「こういう問題が出たら、まずはこうやって考える」という順序がある。これを最初から崩せる人というのはあまりいない。クイズマニアだとそういう訓練を受けているかもしれないが、診療の現場はクイズではないので、難問を他人より早く解くためのテクニックではなく、できるだけ多くの患者に適用できる一般的な考え方がまずは好まれる。

だから最初からシルエットを回転させるような発想には至らない。

けれど、答えを見てからだと、「あーあの段階で回転させていたらなー!」と、後付けでいろいろ言うことができるのだ。



医者の診断もときにこれに近い。リアルタイムで、いつも通りに検索していると、思った通りの答えにたどり着かないことはままある。そして、「この答えは違いますよ」という情報を得てさらに検索を進めることで、つまり時間をかけることで、なんとか正しい診断にたどり着ける。それをあとから振り返って、

「バカだなあ、ひっくり返ったシカのツノのことだってあるんだから、まずは画像を回転させなきゃ!」

と言えるのは、後付けだからだ。




医者の世界には、「後医は名医」という言葉がある。

「なかなか診断の付かない難しい病気にかかっており、いくつもの病院で検査を受けたがわからなかった。しかしその後、専門的な病院に紹介されたら一発で診断がついた。やっぱり専門家はすごいな」と解釈されるケースをたまに目にする。患者は後に診た医者のほうを尊敬し、感謝しがちだ。

でも、じつは「患者を診るのが後になればなるほど、診断は有利」という側面がある。ぼくも含めて、大きめの病院でさまざまな人から相談を受ける医者は、常に「後に診る医者だから、先に診る医者よりも有利なんだ」という気持ちを忘れてはいけない。そうしないと、「前医はこんなクイズも解けなかったのか、無能だなあ」みたいな、ひどい思い違いをしてしまうことになる。

「後医は名医」というのは、つまり、警句なのだ。自戒のための。慢心しすぎないための。そもそも、後に診る医者は、前に診る医者よりも、正しい診断に近づきやすいのだから、その有利さに頭を下げつつ、実際に名医で居続けられるように一層の努力をするべきなのだ。

2023年5月25日木曜日

気道4次元バイパスの効能

みんな気を遣って「大丈夫、そこはたいした問題じゃないから」「気にしなくていい、こっちをしっかり教えてくれれば」と言ってくれるし、実際、このひとつのミスで誰かが実害を被ることもなくて、つまりはまあ、「OKOK! 次、気を付けよう!」くらいで先に進めばいいって、わかってはいるんだけど、それはもうまったくそうなんだけど、がっくりと落ち込む(ぼくの心の中に占めるウェイト的には)重大なミスをした直後にこのブログを書いています。


ミスした直後にブログ!? 何を考えているんだ! まじめに働き珠恵! とお怒りの方は……こんなところにはこないと思うが……あと珠恵って誰……逆である。自分にとって決定的なミスなので、メンタルがズタボロになっており、こんな状態でルーティンの仕事なんてとてもできそうにないから、手の甲に脳をのっけてひたすらキータッチしつつ精神をクーリングダウンしているのである。


ミスの構造的な原因を言語化していく。

いつもはこういう流れで取り組んでいる仕事を、今回はたまたま特殊な案件が重なって、違うやりかたでいつもより綿密に取り組んだために、かえっていつも機械的に、もしくは半分自動的にやっているタスクの部分をごっそりやり忘れた。ではこのミスを次からなくすためにはどうするか? 指さし確認、声に出しての確認、仕事を系統立てて、感覚だけでぶんまわさずに、いつも同じ手順に立ち戻ることで抜けや落ちを防止する。

ヒューマンエラーというのは必ず起こりうる。抜け落ちやすい人間の心理をシステムでカヴァーすることが、組織で働く際のキーポイントだ。わかっている。わかってはいる。その上で、声帯から吐息をもらさずに気管にバイパスした4次元空間に吐息を逃がすことで無声のまま叫ぶのである。


「ウワァー俺がもっとしっかりしていればァー!!!」


声帯を震わせない吐息は4次元空間にぽつねんと置かれた音叉を震わせる。音叉は足下がぼくの脳に繋がっていて、脳がいつまでもブルブルと小刻みにしびれているような感覚になる。職場の周りの人たちはひたすらぼくのため息を聞いているかもしれないが、そのため息、本来であれば声帯を震わせて絶叫になっていたはずのものなのだ、4次元バイパスこれだけ静かになったというbefore afterを写真に撮って病理学会の特別シンポジウムで会場に供覧したい。



だいぶ落ち着いてきたのでまた仕事に戻ります。言語化、文章化、ルーティン化、一見つまんなく見えるこれらにぼくはずっと助けられてきて、でもときどき飛び出て新しいことをしようとする、そういう「欲が出た瞬間」こそはミスが起こりやすい瞬間でもあるということだ。チッキショー

2023年5月24日水曜日

病理の話(779) 語りかけてくるような診断

語りかけてくるような教科書が好きである。

と言っても、口語体で書いてあればよいというものでもない。

ら抜き言葉をたまに使うとか、フィラー(「まあ」「えー」「そのー」などの調子をとる声)をあえて書き込むだとか、なんとなくくだけた文体で書かれた教科書が、最近は増えた。親しみやすさは増すと思うが、必ずしも読みやすいわけではない。

どちらかというと、「きちんと対象読者のことを意識して書かれているかどうか」がカギだ。


アカデミアの記録の中には、たとえ誰も読まないだろうと予測されても、とにかく書いて残しておくことが大事だと言わんばかりの堅苦しいものが多い。これに対して、はっきりと読者の顔や反応を思い浮かべて書かれた教科書がある。項目の配置順、小見出しの頻度、図表の入れ方、Q&Aコーナーやコラムなどの分量。これらが、「読者がわかりやすいと感じるように」配置されているとぐっとくる。「著者の知識を披露するため」だけだとけっこう読みづらい。

「この本を開く人は、いったいどういうタイミングで、何に困って読もうとしているのか」が意図された教科書というのは本当に美しいと思う。

ときには、読んでいるこちらの顔をまるで見通しているかのように、「あっ、今の説明ちょっと難しいな」と感じたところですかさず解説を挟んでくれるタイプの本がある。

ボリュームたっぷりの知識が表になっているとき、「これ、全部覚えるのは大変だな……」と感じた次のページに、著者自身の経験、痛い目に遭った記憶、こういう気づきで診断が先に進むんだよといった、実務運用上の知恵が書かれていたりすると感動する。

読んでいて得られるものが多い。
ぐいぐいと深い所まで連れて行ってくれる。



まあでも、お堅い本にはお堅い本なりの役立ち方があるので。語りかけてくる本だけになればいいとも思わない。

国語辞典を集めて読み比べて楽しむタイプの人もいるように、医学辞書を端から通読して知恵を高めていくタイプの医者もいる。

いろんな本があるからいいのだ。みなさんもこれについては納得していただけるだろう。





さて、今日は「病理の話」なので、ここからは病理診断の話をする。

病理医が顕微鏡を見て、患者の細胞に診断を付けるとき、「病理診断報告書」を書く。いわゆる病理レポートである。

このレポートにも、文体がある。ぼくはレポートの文体を、主治医の性格や担当科のしきたりなどにあわせて、使い分ける。

まず、手術検体は基本的に箇条書きからスタートする。

病変サイズ:
病変の形状:
組織診断:
分化度:
深達度:
浸潤様式:
脈管侵襲:
断端:

など。病気の種類によって異なる。

病理医の中には、箇条書き項目を最後に回して、まずは細胞のようすを説明するところから始めるタイプの人も多い。

しかし、手術した主治医の大半は、まず「箇条書き」を読みたがっている。だからぼくは箇条書きの項目から書く。



なぜ執刀医は箇条書きの内容を先に知りたがるのか? それは、病理レポートを見たあとの行動と関係がある。

彼らは、病理レポートに書いてある内容から、すばやく要点を切り取って、自分の所属する学会の様式にしたがって記録を付けなければいけない。

消化器外科、婦人科、耳鼻科、泌尿器科、心臓血管外科など、ほとんどの科では、自分たちが行っている手術ごとに「病理レポートのこの部分をメモしろ」と指定されたデータベースが運用されている。このデータベースを埋めるのには労力が要るし、人に任せると病理レポートを自分で読む機会を失うので、執刀医が自らやっていることが多い。

患者ごとの細かな差異は、患者にじっくり説明をするときまでに情報収集すればよい。しかし、データベースへの登録作業はある意味機械的に行われる。この部分でつまづくと、仕事に余計な時間とストレスがかかる。

そこで、病理診断が毎回同じ書式で箇条書きになっていると、執刀医はレポートが読みやすい。「この病理医はここにサイズを書いてくれるんだよな」と、慣れてもらえればいいなと思っている。だから、平時はなるべく、書式をいじらずに同じ書き方をする。印刷すればいつも同じくらいの位置に同じ内容が書いている、みたいな感じだ(最近はモニタで見るけど)。



ただし、外科医などが手術の前に、このように話しかけてきた場合……。

「あー市原さあ、今度の○曜日に手術する人、あれすごく気になるんだよねー。癌は癌でいいと思うんだけどなんかいつもと感じが違うのよ。手術のあと、病理で見て何かわかったら教えてね」

このように、手術をしながら「この癌はなぜいつもと違う挙動を示しているんだろう」と執刀医がいつもと違う興味の持ち方をしているとき。

ぼくは病理レポートを、「箇条書き」から始めず、なんらかの説明を先に入れるようにしている。そういうときは書き方を変えるのだ。



所見: 非典型的な病像を呈する○○癌です。□□が特徴的で、▼▼▼。詳細は本文の後半で記載します。

(後略)


箇条書きの前に、この但し書きを入れるか入れないかで、「病理レポートをきちんと読んでくれるかどうか」がだいぶ変わる。実際に執刀医たちに話を聞いてみたが、あのレポートの書き方はわかりやすかったわ、と、わりと評判が良い。



ほか、手術ではなく「生検」と呼ばれるタイプの病理診断では、箇条書きにせずに文章にしたほうが好まれるケースもある。

主治医、科、患者の病気などによって書き方を少しずつ変えるのがよいと思う。



そんな、めんどくさい……と思われるかもしれない。あまりに病理診断のプロセスがめんどうだと、病理医のモチベーションが落ちて診断効率も下がり、ミスも起こしやすくなるから、ほどほどにしておいたほうがいいのかもしれない。けど、病理医のためではなく主治医のため、さらには患者のためを思うなら、できるだけ読みやすいレポートを書くのがぼくらの勤めだと思う。ちゃんと読み手に向かって届ける気がある病理レポートは美しい。個人の感想です。

2023年5月23日火曜日

ゼルダをやる仕事

家の後ろにある小さな小さな、横に細い感じの畑を耕して、石灰を捲き、その1週間後には堆肥も混ぜ込んだ。そして今週(この記事を書いている週)に、はよいよ苗を植えよう……と思っていたのだが、スーッと気温が下がってしまったので延期にした。

以前、春の陽気にあわせて苗を植えたはいいが、その後1週間以上にわたって気温が10度台前半となってしまって苗が死んでしまったことがある。それ以来すこし慎重になっている。トマトもキュウリもそんなに急がなくてもきちんと育つ。来週末でよいだろう。

そう思って週間天気を見たら、今週は平日がやけに暖かい日が続き、土日はまたストンと寒くなるようだ。なかなか苗を植える機会は来なさそうだ。まあ、6月に入ってからでいいかもしれない。

畑の仕事がないと週末にやることは読書かジムでのランニングだ。しかしゼルダの新作が出たので一部の本以外の予定をすべて消去してゼルダに回す。活字摂取も運動も不足するのだがかえって健康になる。やりたいゲームが出るとそういう生活が半年くらい続く。

ただ、今回は1年続くかもしれない。学会・研究会や講演の仕事がけっこうな勢いでZoomから現地開催に切り替わったからだ。Zoom開催ならば、移動や宿泊の手間がなかったのでその分をゼルダに回せたけれど、現地開催だとなかなかそうはいかない。ぼくは移動中にはゲームをしない。特にゼルダはできない。先日、地面から生えてきた手の魔物を爆弾矢でプチプチ倒したら「アレ」に変化して、めちゃくちゃ大きい声で驚いてしまった。そういうのを公共交通機関の中でやってはいけない。二周目ならやれるかもしれない。

先輩ドクターたちはよく、飛行機の中で論文の手直しなどをしていて、あれは偉いなあと思い、一時期は真似をしようとした。でもなんかうまくいかなかった。論文だけではなく、講演用パワポの準備なども無理だ。職場以外だとうまく仕事ができない。かつては、「顕微鏡が職場にしかないから」かなと思っていたけれど、どうやらそういうことでもないらしい。脳が場所と紐付いて運用モードを勝手に切り替えてしまう、みたいな感じである。

場所、時間帯、用いているデバイスなど、さまざまなものが脳と紐付いて、無意識の部分、バックグラウンドの部分で下準備をすすめる。軽くて高性能のPCを持ち歩けばスタバでも働けるでしょうと言われても、たぶんそれはぼくには無理だろうなとわかる。バーチャルスライドスキャナによってプレパラートをデジタル化しておけば自宅でも病理診断ができる未来が来ますと言われて、VPNの設定以前に、ぼくは自宅で仕事なんかしたくないという気持ちが強い。Wordひとつで事足りるはずの依頼原稿すら家では書けない。

このブログはたまに出張先のホテルで書くことがあるけれど、あとで読み直すとだいたい「ホテルにいる」ということしか書いていない。職場のデスクで早朝に書くのが一番安定している。

ところでぼくの脳は、職場でゼルダをできるのだろうか。ちょっと興味がある。始業前、終業後、誰もスタッフのいなくなった病理検査室で試しにゼルダをやってみたとして、それでぼくの脳はいつものようにリンクの冒険に感動できるのだろうか。