2020年11月27日金曜日

陰口

ある人の目に留まらない場所で、あるいは、「ぎりぎり目に留まるかもしれないけれど、目に留まらないだろうという建前のもとで」、人が人の悪口を言っている。


本人に直接言っているわけではないので、これはつまり「相手のことを思って」言っているわけではないのだと思う。ものかげで言う悪口のことを「かげ口」というが、まさに、光あるところではなく、何かの陰に隠れるようにして、自分のために行う行為だ。


陰口は、「陰口を言った本人にとってメリットがあるから行われる行為」。


メリット? そんなもんないよ、言いたいから言っているだけだ、と思っている人もいるかもしれない。しかし人間というものは、あるいは脳というものは、とてもうまくできていて、無意識の行動、無自覚の行動にも長い目で見てみるといろいろと合理性があることが多い。


では、陰口というのは、脳が何を目標として行っているものなのか?




腹の中に不満がたまっていく、という表現がある。人間はストレスを抱えたときにぼんやりとした不満のような感情を腹部で知覚することがある。おそらく、あなたも経験したことがあるのではないか。

そして、この腹の中にたまった不満をゲボッと吐き出して楽になりたいとき、人間は陰口を言う。「溜飲を下げる」という言葉があるが、むしろ溜飲が上がって上がって口から漏れてしまったものが陰口なのだ。

まとめると、陰口とは感情の吐瀉物なのだと思う。




ここまで何も新しいことは言っていないし、これからも新しいことは言わないが、今日のブログに書いておきたいのは、ここから先のことだ。





SNSで誰かが誰かの陰口を言っている。


それに「いいね」を付ける人。


あれはなんなんだ。


他人の吐瀉物を愛でている。


本人はもしかすると、吐くほど不満をため込んだ人がようやくゲボッと吐き出した汚い陰口を目にして、吐いた人の背中をさするつもりで、いたわっているつもりで、おつかれさん、もっと吐いていいんだよ、と、「いいね」を付けているのかもしれないが。


タイムライン上に残るのは、「いいねにまみれた吐瀉物」のほう。そのことに想像力が到らないのだろうかと、本当に不思議な気持ちになる。


陰口もまた自分を守る行動だ。だから、陰口を言っている人に「寄り添い」、「傾聴する」タイプの人は、その人をだいじに思う気持ちを出してやればいい。それは良いことだと思う。


しかし吐瀉物にいいねしてどうする。


なぜそれが見えないのか。




嘔吐は反射だ。自分では制御できないことがある。究極的なことを言えば、陰口というのは本人にとってアラートサインであり、言ってはいけないとわかっていてもつい口から出てしまう類いのものであったりもする。


だから、仮に自分がその陰口の対象だったとしても、陰口ひとつで激怒することはないし、「よっぽど腹に不満をため込んでいるんだな」くらいの想像でなんだか落ち着いてしまうものなのだけれど。


誰かへの陰口に「いいね」がついているのを見るときのほうが、怖い。愛でるという行為は反射ではないからだ。「いいね」は自覚的に行うものである。「吐瀉物をよかれと思っていいねする」ほど汚い5・7・5があろうか?


「反射的に推す」というオタクの方便がある。「尊すぎて判断力がなくなった」というオタクもいる。しかし、そういうオタクは往々にして、多弁で、語彙も豊富であり、むしろ大脳新皮質を無限にブン回して「推し」を慎重に吟味している。「反射的にいいねを推す」と公言する人に限って、いいねの対象は論理的に選ばれているものだ。


吐瀉物に反射していいねをつけている人がいるのだとしたら。


ぼくはそれは、だいぶ異常なことだと思う。

2020年11月26日木曜日

病理の話(478) 人体はウイルスとうまく戦う

こないだ読んだ本(『本当に使える症候学の話をしよう』じほう/髙橋良)に書いてあっておもしろかったことを紹介。



インフルエンザにかかったときなどに、「関節が痛くなる」ことがありますね。くだんの本には、「それって悪いことですか?」と書いてある。まあそこで一回驚く。


いや悪いに決まってるやんけ。


しかし、そこから著者は、「ではウイルス感染でなぜ関節が痛くなるのかを考えてみましょう」と話を展開する。


まず、ウイルスに感染したとき、人体はさまざまな方法でウイルスと戦おうとするのだが、このときに、「緊急警報発令」をして、全身の細胞にさまざまな対策を取らせる。警報の種類がいっぱいあるのだが、たとえばその一つはサイトカインと呼ばれている。


サイトカインと横文字を使うといきなり難しくなる気がしてならないが別に難しくない。


ウイルスがいるぜ、注意せよ、となったときに一部の細胞が、サイトカインという物質を血中に放出する。これは血液に乗って全身の細胞にはたらきかける。サイトカインとサイレンという言葉が、雰囲気としては少し似ているだろう。だからサイレンだと思えば良い。


ウィーンウィーン。サイレンが鳴る。


たとえば鼻にある細胞たちがサイレンを聞く(実際には血液に乗って流れてくるものを受け取る)。


すると、鼻の血管の中から、液体成分を周囲にじゃんじゃん漏れ出てくる。いや、そんなことしちゃだめだろ、と思いがちだが、この液状成分はウイルスにやられている細胞をぶっ倒すための「はたらく細胞」たちを運んだり、あるいは洪水の役割を果たして悪いやつらを押し流したりする。ウイルスと戦うためには血管の壁をスカスカにして液状成分を回りに漏らすことが役に立つのだ。


で、そんな洪水とかが起こるとどうなるかというと、鼻水が止まらなくなるのである。サイレンがなると鼻水が出る。


同様のことはあちこちで起こるのだけれど、たとえば、サイレンが鳴ったときに、鼻水ならぬ「肺水」が出てしまうとどうなる? 呼吸するためにスポンジのようにスカスカと空気を含んでいる肺に水が出てきたら、人間は溺れてしまうだろう。だから、このサイレンは、「肺には効かない」。人体というのはうまくやっているのだ。サイトカインが全身をめぐっても、肺はそれになかなか応答しない(というか、してしまった場合には重症肺炎となる)。


また、たとえば、サイレンが鳴ったときに、鼻水ならぬ「脳水」が出てしまうとどうなる? 脳というのは頭蓋骨に押し込められているから、ここに水が増えてくると一気に内圧が上がって、ひどいときは命に関わる。だからサイレンは基本的に「脳にも効かない」。人体というのはうまくやっているのだ。サイトカインが全身をめぐっても、脳はそれになかなか応答しない(というか、してしまった場合には脳炎とか髄膜炎になることもある)。


というわけで、人体は、外敵であるウイルスがやってきたときにサイレンならぬサイトカインを発して全身に反応してもらうのだけれど、このとき、サイレンが全部の臓器で同じように働くわけではない。ちゃんと呼応させる部分を選んでいる。


で、関節に関しては、「サイレンが効く」のだ。関節の中に水がじゃぶじゃぶ出て、鼻水ならぬ「関節水」状態になる。すると内圧が上がって、動くと痛くなる。これが、「インフルエンザにかかったときに関節が痛い」の正体だ。


ここで疑問をもとう。


なぜ肺や脳はきちんと守るのに、関節は守らないのか?


それは、「関節が痛むこと」によって、人体が損をするわけではなく、実は得をするからなのだ。どんな得をすると思う?




関節が痛い → 動くのがしんどい → 黙って寝ているしかない → 安静になる!




これだ! つまり一部のウイルスに感染したときには、人体は、「関節をあえて痛くする」ことで、人間がそれ以上無理して活動しないように休ませる、というのである。医者が口をすっぱくして「安静にして休んでください」と言っても、早めのパブロンだとか絶対に休めないあなたへエスタックだとか無茶なCMを見ながら人間は動いてしまうわけだが、ここでサイトカインが口をすっぱくして(?)、関節にサイレンを鳴らして痛みを出せば、さしもの有吉もそれ以上動けなくなるというわけである。





インフルエンザにかかったときなどに、「関節が痛くなる」ことがありますね。くだんの本には、「それって悪いことですか?」と書いてある。まあそこで一回驚く。

いや悪いに決まってるやんけ。

そして中身を読む。なるほど! よくできてるなあ!

そしてあらためて質問されてみよう。「関節が痛くなる、それって悪いことですか?」




……やっぱり悪いことだとは思うが……まあ……言いたいことはわかったよ!


2020年11月25日水曜日

拙者

「一人称が変な人が苦手」である。その人の全体が発する雰囲気と、その人が自称する「自らを呼ぶときのやりかた」が合っていないとき、うーん、大丈夫かなこの人……と思う。そして、嫌な予感はだいたい当たる。


他者に対して自分をどう呼称するかというのは意外と奥が深いと思う。「ぼく」はブログの一人称ではひらがなの「ぼく」を使うことが多いがこれもケースバイケースだ。「私」がマッチする場面というのもある。「私」で引っ張らないと完成しない文章があると感じる。「僕」のほうがいいと思う人もいるだろう。極論すれば「小生」がマッチするラジオ投稿というのもあるわけで、これはおそらくネクタイの色を選ぶとか(あるいはそもそもネクタイを締めないとか)、季節に応じて靴の色味を変えてみるのと同じ感覚でやるべきことなのではないか。


ぼく自身は、これまでにインターネットで構築してきたキャラクタに対して「ぼく」が一番しっくりくるのではないか、と思って「ぼく」を選んでいるのだけれど、「その一人称、変ですね」と誰かに言われたら再検討に入ってすごく悩むことになるだろう。自分は自分の最初の読者だが、最初だから一番尊重すべきとは全く思わない、「二番目の読者」が変だと言ったら一気に自信を無くす。「自分が他の目にどのように映っているか」を厳しく吟味しないで書いた文章というのはどのみち誰にも伝わらないのだ、そう、未来の自分ですら「この文章結局何を言いたいのかわからないな」と、過去の自分にダメ出しをすることがある。ましてや現在の他人に向けて何かを書くというときには。


と、ここまで書いていて思ったのだけれど、自分のことを何と呼ぶか、みたいなことは究極的にはどうでもいいことで、ぼくが誰かを瞬間的に判断するときには「その呼称を自分の前にコトンと置いてみて、その人自身がどのような目で眺めているか」という、メタ認知の視点……というと流行りの言葉であまりおもしろくないのだが要は俯瞰の度合いを見て「こいつ大丈夫かな」というのを推しはかっている。ここまでさらに書き足して思ったのだけれど、誰が何をどうやっていても本当のところはどうでもよく、最終的には他人がやる有様を自分にはね返してきて、「自分は他者にとってどうありたいか」というのを微調整することのほうがぼくにとっては大事だ。


40代になっても未だに一人称が下の名前である人を見て、周りにいる人たちがそれを「うわっ、キモ……」と口に出したときに、当の本人がニヤリとして「計算通り」とつぶやいているのかどうか。ぼくはそういうところを見ながら目の前にいる人間たち全ての不気味さを感じ取り、ひるがえって自分というものの境界線を何度も何度も何度も引き直しては「ぼく」の有り様を探っている。

2020年11月24日火曜日

病理の話(477) 運動不足解消のために医局に向かいます

「医局」という言葉にはいろいろな意味があるのだけれど、ぼくのように市中の中規模病院に勤めている場合、およそ2つの意味で使っている。

1.自分が所属している大学の科名のこと。

2.勤め先の医師休憩スペースのこと。


【1.自分が所属している大学の科名】
たとえばA大学の第一外科、略して一外(いちげ)出身で、B病院に勤めている外科医がいたとする。直接大学で勤めているわけではないのだが、一外の教授が人事権をもっていて、B病院で数年はたらいたら次はC病院に行きなさい、みたいに命令をされる。外科医の人生としてはよくあるパターンだ。さて11月も半ばをすぎて、一外の秘書さんからメールが届く。

「12月○日には医局の忘年会です」

この場合、「医局」という言葉は、外科医が所属する「第一外科」という科名そのものを指す。「あなたの/ぼくの所属先」くらいの意味だ。

この外科医は医局の忘年会に出席し、他病院でがんばっている友人や先輩たちと飲みながら、「今後の医局の動向」についてこっそりと話し合ったりもする。



【2.勤め先の医師休憩スペース】

なぜこちらにも医局という言葉を当てるのかよくわからない。ナースの詰め所のことをナースステーションというように、医者の詰め所のことはドクターステーションと呼べばいいような気もするのだが、必ずといっていいほど「医局」と呼ぶ。昔の中規模病院は、科ごとに医局がある(消化器内科と外科と産婦人科はそれぞれ個別に休憩スペースがある)ことが普通だったようだが、今では総合医局と言って、ひとつの大部屋に休憩スペースがあり、パーテーションで個人のデスクが仕切られていることが多い。

ぼくの勤める病院も総合医局制。初期研修医・後期研修医あわせて20名をのぞくすべての医者(120名くらい)が大きな部屋の中でパーテーションに仕切られて過ごす。もっとも、医者が医局のデスクにいる時間はあまり長くない。病棟にいることも、外来にいることも多いからだ。

医局には個人のデスクのほかに、20名くらいなら一緒に過ごせる程度のソファやテレビが置いてあるスペースもある。メジャーリーグで日本人が大活躍しているとか、オリンピックが盛り上がっているとか、大規模災害など、昼間っからテレビがうるさいときには医局のテレビ前に医者が集まっていることもある。コーヒーメーカーやポットが置いてあり、電子レンジも冷蔵庫もある。ただ、電子カルテ端末が複数設置されていることもあり、休憩スペースでダラダラすごす医者はあまり多くない。なんとなく仕事モードのまま小休止をする感覚だ。





ぼくは「医局」で過ごす時間はほとんどない。なぜなら、病理検査室の中にデスクがあり、そっちがメインだから。したがって医局のデスクは倉庫にしている。版が古くなった教科書や、学会が発刊する雑誌など、めったに読み返さない本を整頓して医局の本棚に並べる。あと、郵便物は基本的に医局に届く。

ぼくが医局を訪れるのは1日に1回、郵便をチェックしにいくときだけだ。もし、郵便物が病理のデスクに直接届けられるならば、ぼくは医局に顔を出さなくなるだろう。基本的にいつも病理にいるほうがラクである。

ただ、医局に顔を出さないと、他科の医師とのコミュニケーションチャンスが減ることもまた事実だ。医局の自分の机には、名刺を磁石で貼り付けて、横にメモを置いて、「基本的に病理にいます 市原」と書いておく。とにかく居場所をみんなに教えておく。そして郵便回収で医局に行くときは、さりげなく通りすがるドクターの顔を見る。何か言いたそうにしている人がたまにいる。そこで立ち止まって「はい」と声をかける。するとたちまちスルスルとそのとき困っている症例の話を教えてくれたりもする。



最近思うのだが、病理医のスキルとしてもっとも大事なのは「謎の存在にならないこと」ではないか。ふとしたときに相談できる関係でありたい。「そういえば病理にあいつがいたな……」と連想される人間でありたい。コミュニケーション能力と言ってしまうと大雑把すぎる気がする。ウェイ系のノリは必要ない。ただ、「あ、ちょっと相談してみっかな」までに相手の心を柔らかくする工夫というのはいるだろう。医局に郵便を取りに行くのは運動不足解消のためだけではない。一人でも多くの医師に「そういえばあの件……」と話しかけてもらうチャンスを、こっそり仕込んでおくということ。

2020年11月20日金曜日

大人だってほしい

タイムラインの流れがよろしくない。ツイッターはおすすめツイートを上に表示させる機能があり、ぼくが気になっている人ばかりをピックアップするので、ランダムにフォロー11万人のツイートを表示してくれるとは限らない。そのことがかえって不便に感じられることも多い。

だからぼくはサードパーティのクライアントを併用している。要は、Twitter Japanの公式アプリではないツイッター用アプリを使うということだ。

これによって、普段ほとんど会話もないけれど相互フォロー、という人々のツイートをたまに目にする。世の中で大きな事件があったときなどは、普段から交流のある人たちの反応も大事なのだけれど、ほとんど他人というレベルのフォロイーが何を言っているのかが気になる。

金曜日の夜にジブリをやっているときとか。

ワールドカップサッカーの予選中とか。

大統領選挙とか。

世の中が震撼しているときに、Twitter公式アプリでいつものように、巨大なフォロワー数をほこる「うまいことを言うやつら」のツイートばかりを見ていると、洗練されすぎていて、きれいすぎて、なんだか違うなーと思ったりもするのだ。ぜいたくなはなしだが。





新規感染者数の増加が止まらないある日。Twitter公式のタイムラインには「あらためて、手洗い、マスク、三密回避!」の常識的な声が並んでいた。これには何の問題もない。感染症対策の専門家も、あまねく人々にやさしい知恵を拡散したいともくろむインフルエンサーたちも、これらを世間に周知しようと一致団結していた。

そういうときに、別アプリで、「完全ランダムに表示されるタイムライン」を見る。

今日はこんなツイート(鍵アカウント)を見つけた。




ほしがきが
ほしいガキ

(※手を伸ばす子どもの写真付き)






そういうのがいい。ツイッターはそうであってほしい。

まあフリート機能ももう少し洗練されたらそうやって使えるようになるだろう。世界はどんどんよくなっていく。

2020年11月19日木曜日

病理の話(476) 解剖の効用

病理解剖は、病気で亡くなった患者さんの胸から腹までを開けて、中の臓器を観察し、ていねいに取り出し、最後に体を縫い合わせる。


切る場所は胸~腹である。顔や首に傷はつかない。手足も原則的にいじらない。


場合によっては脳を調べることもある。このときも、顔には傷が付かないように、髪の毛の部分などをうまく使って特殊な切り方をして、頭蓋骨をあけて中身だけを取り出して、またパカッと閉める。


つまり臓器は採りっぱなしだ。体の中に返さない。傷をきれいに縫い合わせてご遺体をきれいに拭いて、ちゃんとテープを貼って傷をかくして、服を着せれば、パッと見では解剖したとはわからない。





臓器を採りっぱなしにしてどうするか? 目で見る。細かいところまで見る。X線をあててCTで観察してわかったつもりになっていたものを、「じかに」見る。影絵とは違う、そのものを見ることは、圧倒的に解像度が高い。だから「直接見るといろいろわかる」ということになっている。


けどほんとうは、直接見てもわからないことはある。造影剤を用いてCTで検査した方がわかることだってある。


たとえば、解剖で臓器をいくら見たところで、生前そこにどのように血が流れていたのかはわからない。ダイナミズムは失われている。推測はできるが、「直接目で見たからなんでもわかるぜ!」というほどではない。


だからぼくたち病理医は、目で臓器を直接見るだけで終わらせない。せっかく取り外した臓器を、もっときちんとすみずみまで検索しないと、患者にも遺族にも申し訳ないだろう。


顕微鏡を使うのだ。全身のありとあらゆる臓器の、異常がありそうなところを徹底的に顕微鏡で調べていく。ここまでやるとさすがにいろいろなことがわかる……。





けど、今の医学というのは本当に優れているので、「そこまでしなくても」、たいていの病気は、患者が生きている間に、体を開くことなく、細胞を見ることもなく、臨床医によって言い当てられている。


代謝がどのように変化していたか。腫瘍がどこにどれくらい育っていたか。正常の機能がどれほど失われていたか。


患者本人の訴えを聞き、分厚い教科書何冊分にもなる診察方法で細やかに患者の全身を調べ、血液を見て、CTやMRIを見て……とやっているうちに、膨大な量の情報が主治医に流れ込み、患者の体に起こっていることの99%はすでに把握されている。




そこまでわかっている人体に対してあえて病理解剖をする意味が、令和2年現在、どれほどあるだろうか。





ぼくの持論を言う。


病理解剖をやっている最中……特に、臓器を検索している時間、平均して1時間半程度(※これ以外にも準備や後片付けがあることに注意)、ぼくら病理医は、主治医とずっと会話をしている。ぼくがメスやハサミを使って臓器を選り分けて体から取り出し、重さを量ったり写真を撮ったりしている間中、えんえんと、主治医や研修医たちと、「この患者について起こったこと」を話し合う。

この会話こそが病理解剖の意義だ、と思っている。




「手術をしたことがあるにしては、お腹の中はあまり癒着が多くないですね。」


「なるほど確かに。この方はあまり消化器症状をうったえることはなかったですよ」


「そうでしょうね。腸管の色はおかしくないですもんね。」


「ただときどきお腹を痛そうにしていたことがあって……それはどこが原因だったのなかあ。」


「正中ですか?」


「はい、心窩部ですね」


「となると内臓痛ですかね、あとで粘膜面も見てみましょうね」


「よろしくお願いします」


「そういえば亡くなる前の呼吸状態はどうだったんですか?」


「そんなに気になりませんでした。やはり今回は別の病気のほうが」


「ふむ、たしかに見た感じ、肺水腫はさほど強くないですね。でも背部ではちょっとうっ血があるかな」


「あ、最後の方でいちど吐いていますが」


「となると、右肺については気管支に沿って切り開いてあとでお見せしましょう。あれ、肝臓の色がすこし黄ばんでますね」


「あ、それは最後に使っていた抗癌剤の影響があるかもしれません」


「なるほど脂肪肝になるやつがありましたね。でもこれ、普通の脂肪肝とは色味が少し違う気もするなあ」


「肝機能自体はさほど……悪くなっていなかったですけれどね」


「そうですか。でもまあ肝臓は念のため見ておきましょう」





学術的に新しいことがわかるわけではない(そんなことはそうそうない。たまにある程度だ)。主治医があらかた予想していたことばかりが出てきてもいい。


「たぶんこうだろうな」をくり返して確度を高めて、日常診療を生き抜いている臨床医にとって、たまに遭遇する病理解剖で、「自分が予想していたものを違った角度から見せてくれる病理解剖」における病理医との対話は、……


……誤解をおそれずにいえば……


「interesting」なのだ。


楽しい(fun)ものではない。患者を看取った気持ちだってまだ整理されてはいない。もっとこうすればよかったという後悔もあるかもしれない。でも、とにかく、「患者に何が起こったか」を目の前で振り返り、医師免許をもった他部門のプロフェッショナル(病理医)と、医学のあらゆるジャンルに対してじっくり1時間以上も話し合うこと、これこそが、病理解剖の大きな意義のひとつなのだと思う。




患者の腹を開けて、


臨床医と病理医が、腹を割って話し合う。


みっつのお腹を大事にあけるのだ。そして対話をする。ここには確かに効用がある。対話できない病理医の行う病理解剖は、おそらく、今の医学にはもう、必要ない。「その程度の医学はもはや、臨床医もすでに持っている」からである。


2020年11月18日水曜日

退場者がいましたしPKもありましたからだいぶ長めに取られているようですね

早めに出勤するのが難しい季節となった。朝はいつまでも暗くて二度寝を誘う。でもそこはたいした問題じゃない。車通勤する人間にとって、冬はタイムロス祭りなのである。


除雪によって、道の両脇に雪山ができる真冬。歩道を潰すといろいろ問題がある(通学途中の小学生も困る)ので、雪の塊は車道にはみ出す。いつもの2車線が1車線に減るということだ。右折車や左折車があるたびにバスがひっかかり、生活道路ですら渋滞する。路肩にちょっとカチカチ停めている車などが現れたら大迷惑、冬の一時停車は重罪である。夏場あれだけ広かった道が半分以下になると、あらゆる道路の利便性がガタ落ちする。そんな中、もし出勤時刻を誤って、ラッシュアワーに車通勤してしまうと、20分乗車のはずが1時間、40分乗車のはずが2時間、だいたい夏場の3倍程度は車の中にいることになる。ラジオに詳しくなる。スポティファイに課金する。


だからぼくは夏のうちから6時台には出勤するように体を慣らしている。ラッシュアワーを外して早めに移動することは冬への備えとして欠かせない、早め早めに移動すれば、仮に遅れても7時半には職場に着くことが可能だ。おそらく豪雪地帯に住む人間はみなうなずいてくれると思うのだけれど、雪の季節に車通勤で8時半ぎりぎりに着くように家を出るというのは難しい。何度かやらかすことで人は学ぶ。



では早く起きて早く移動すれば、雪の影響は完全に避けられるか? 実はそういうわけにもいかない。


さあ出勤するぞと思った瞬間に外が雪だと、いろいろ時間がかかる。ぼくの車は青空駐車で、一晩雪が降ると車の上にも積もる。それを払い落とすのに時間がかかる。車がヒーターで暖まらないと窓がくもるから発進できない。けっきょく、家を出てから移動を開始するまでに20分とか1時間といった時間を費やすことになる。


けっこうな量の積雪があった日は、車のエンジンをかけてからアクセルを踏み込むまでの間に、軽く汗をかくほど動く。車の屋根の雪を落とし、窓の雪を削り、ワイパーの下に潜り込んだ雪をかき出す作業は、20代の時は気にならなかったが今にして思うと肉体労働だ。同じ事はもちろん帰宅の際にも起こる。


結局冬という季節は、1日が24時間なのではなく、23時間にも、22時間にもなるということだ。無心で雪と格闘する時間、車の中でチンタラすごす時間が、往復で1~2時間以上、夏よりも余計に費やされる。満員電車と違って自分ひとりの時間である点が利点だ。満員電車と違って吹雪の中で雪をどう払い落とすかを考えなければいけない点が欠点だ。



だからぼくはラジオが好きになっていったのかもしれない。冬の透明度の高い空気の中、まだ周りが暗いうちに凍結した路面をそろそろと移動するとき、FMラジオ、AMラジオ、Podcast、YouTube、さまざまなものにぼくは人生のタイムロス分を預けた。そこから得られたものが訳知り顔のDJの自分語りであっていいわけがない。クラシックも聴くようになったし、古いオルタナやプログレのアルバムなども聴き直せる。落語なんかもじっくり聴ける。なにより、時間があれば本を読んでいたぼくが「本を読まずに長時間黙っていること」をできるようになったのは、もしかすると冬と雪のおかげなのかもしれないなと思う。冬は人間を矯正する。タイムロスによってロスタイムが伸びていく、という感覚がある。