2022年8月9日火曜日

ちはやふる最終回の感想をネタバレしない程度にただ書いただけの8月1日朝6時の日記

『ちはやふる』の最終回はマガポケで読んだ。8月1日の早朝、事前に既刊49巻をぜんぶ読み終え、さらに50巻に乗るはずの作品たちをマガポケに課金して読み終えて、つまりはお膳立てを完璧に整えて満を持しての最終回である。

読み終わって思わずツイートしたのは、「このネーム書くのに何年かかるんだ」という魂の叫びであった。「最終首」も今までと同じようにあくまで1首でしかないはずなのだが、とてもそうとは思えない。文字の量から想像できない情報量。それはまるで和歌のようである。

四方八方から集まって来た人びとが交差点で一瞬すれちがったところを切り取った集合写真、

あるいは老舗の文房具屋で万年筆を買い、それを目の前できれいに包装してもらったパッケージ、

すなわちここぞの一瞬に世界が完成した感覚。

そして、自分で出した例え話を早々にひっくり返して恐縮なのだけれども、「なんてきれいにたたむんだ」という言葉と同時に、「なんと美しいおひらきなのだ」という言葉も思い浮かぶ。あらゆる登場人物たちがこの先も歩いて行くのだという確信がコマの隅々にまで込められていた。



これはおそらく末次先生の無意識が為しえた技なんだろうけれど、あるいは意図していたとしたらなお、すごいな、と思ったこと:

多くのマンガの最終回で、登場人物の目線の向く先は、基本的に1箇所である。どのコマにおいても、モブは主人公を見つめ、ヒロインはヒーローを見つめ、主人公は未来を見る。

しかしちはやふるでは違った。

「みんな、そのとき周りに世界がきちんとあればこっちを向くだろうな、という方向を、思い思いに向いている」のである。

視線が誘導されきっていない。ぼくはそれが本当にすごいことだなと思った。全員が誰かのためではなく自分のために生きているということ。登場人物すべてに周囲・環境との関係が生じていなければそうはならないのである。



マガポケは講談社のアプリ/ウェブサービスであるから、本誌のデザインをそのまま掲載している(はず)。その最終回の最後のコマに、「末次先生の次回作にご期待ください」などの文字が一切入れられていないのがよかった。それはもう、とてもよかった。

2022年8月8日月曜日

病理の話(685) ご本尊が取れていませんよ

今朝も元気にマニアックな話をします。


ゴルフする人いる? ぼくはしないけど。ゴルフってあの砂場あるでしょう。砂場。バンカー。あそこにボールが入るとドボって音がして埋まるよね。


で、その、埋まったボールの周りの砂が、クレーターみたいにふきとぶじゃないですか。あれ不思議だよね。直接ボールが当たってるわけじゃないのにさ。悟空が気を発したら周りがボッって吹き飛ぶみたいなもんでしょう。


ハイスピードカメラで見ると何が起こってるかよくわかるよ。ボールが砂にめりこむ→ボールが当たった部分の砂がまわりに勢いよく押し出される→その砂によって元々あった砂が吹き飛ぶ。つまりはこれ、玉突き衝突みたいになってるわけよね。


で、ですね。


同じことはたとえば、隕石がユーラシア大陸のどこかに落ちました、というときにも起こると思うんだよ。想像したくもないけど。ツンドラの中に隕石が落ちて周りの木や土がなぎ倒されて、それこそクレーターになってしまうことが、あり得るとは思うわけよ。


そこで周りに住んでいた人たちがびっくりして、クレーターに近寄っていく。ああ、ここから土がえぐれている! と。木々がすっかりなくなってしまっている! と。

続いて想像するわけです。「何かが落ちてきたんだな!」「隕石か!」「人工衛星が墜落したのかもしれない!」


しかしこのとき、クレーターの中にはまあ、近寄らないよね。コワイもん。

そして周りだけ見ていると、いつまでたっても、「本当は中に何が起こったのか」はわからないわけじゃないですか。


本当はマッドサイエンティストが盛大に実験に失敗して大爆発を起こしていたのかもしれない。

地球外生命体が恒星間探査機によってやってきて激しく着陸したのかもしれない。そのあたりをよく探すと異形の生命(便宜上の定義)がうようよいるかもしれない。

悟空が修行してるかもしれない。



クレーターの端っこを観察することで、「外周に円形・環状に変化を及ぼすなにかが、中心のあたりにあるだろう」ということはわかるけれど、それが何かは(あたりまえだけど)わからないんですよね。


同じことが病理診断にも言えるんですね。


病気がある部分の、「まわり」にも、いろいろなことが起こるんですよ。

たとえば虫垂炎(いわゆるモウチョウ)という病気があるけど、あれは、虫垂というちっちゃな小指みてぇな臓器にばい菌がついて、炎症(バトル)が起こるんですが、その炎症って虫垂だけじゃなくて、まわりのお腹の壁にも及ぶのよね。とばっちりというか。火の粉が飛ぶという感じで。

ほかにも、たとえば、肺の中にできものができたとする。そのできもののまわりの、「クレーター部分」に、炎症が起こるときがあるわけです。

そこで医者が、「できものの正体を探ろう」と思って、マジックハンド的なもので、細胞をちょんとつまむ。

このとき、周りのクレーター部分をつまんでしまうことがあるんですよ。

すると、「中に何かがあるんだろうな」ということはわかるけど、中心にあるのがなんなのかは、わからないんですね。




いやいやクレーターのへりを調べて満足すんなよ! 真ん中にいけよ! と思うでしょ?


でもね、クレーターって地面に広がってるからいわば二次元ですけど。


肺の中のできものって、そうじゃないんですよね。クレーターというよりもそれこそ、「ドラゴンボールの孫悟空がまとう気(エネルギー)のように、病気のまわり全部になんらかのボワボワした影響が及んでいるわけだよ。


そこをマジックハンドで貫通して中のものだけとってこられるか、って話になってくる。できることはできるんだけど、状況によるでしょう。血が出るかもしれないし。



今日はなんの話かって?


病理診断は細胞を顕微鏡で見て行うんですが、そもそも、「病気そのものをきちんと現した細胞」をとってくることが難しいんだよ、っていう話ですね。


現場では実際に、このような会話がなされている。


「うーん今回の検体、”ご本尊”がうまく取れてないですね。周りしか取れてない。」


ゴルフとか隕石とか悟空の気とか言っても、現場の医者たちはピンとこないから、なんか、わかりやすい言葉がないかなって思って、とりあえず一言でそれとなく伝わる「ご本尊」という言葉を用いています。仏教さすがだよな。

2022年8月5日金曜日

あるいは油のしみ込んだ文化焚き付け

肉と魚の割合を考えながら日々をくらしていると、肉と魚の割合を考えるなんてつまんねえ日々だなという感想に多少なりともたどりつく。

べつにいいじゃねぇか、どっちだって、という投げやりな心がかならず鎌首をもたげる。

同様に、読書と運動のバランスを考えている休日、バランスから逃げ出したい気持ちが脳のどこかにかならずこびりついている。

偏りてぇー! 偏っても大丈夫だよって言われてぇー! むしろその偏りが体に悪いんだと教えてくれた人たち全員だまっててくれぇー!

的なことがある。




それにしても医者というのは気づいたら健康や予防の話ばかりしている。ツイッターで医者を多くフォローしていると、清く正しく長くおだやかに暮らそうと思ったら、大量のチェックリストを今日も明日も何度も読み込んでいかないとぜんぜん無理じゃねぇかという気分になる。もちろん医者の言い分もわからないわけではない。先に注意喚起をしておかないといけない。あとからブツブツ文句を言われても困る。しかし……ま、余計なお世話だよな、と感じることも、たまにある。

先日、「経済回そうと思って感染対策を二の次にした人たちによって、感染が激増して商売がなりたたなくなり、結果的に経済が回らなくなっている」という趣旨のツイートをしている医者がいた。これはいわゆる「だから言ったのに」というやつである。

ああ、「だから言ったのに」。

とても嫌いな言葉だ。

現在の解釈を過去に求めること自体は間違っていないし、誰もが当然やることだけれど、「過去を後悔によって意味づけること」を他人に共用/強要することは下品で下世話だなと思う。



現在とは「なるようになってしまう」ものである。目の前で展開するもろもろは、自分ではどうしようもないことが多く、選択肢のどれを選んでも偶然にのみこまれてしまって、本当は何も選べてなんていない。しかし、過去は違う。じつは過去こそ選択可能なものである。通り過ぎた過去を人間はいかようにも解釈できるからだ。あれは成功だったなと思えばそれは成功だし、あれがよくなかったなと考える心が過去を失敗にする。「だから言ったのに」は、他人の過去を勝手に後悔に寄せていくお節介だ。動かせたはずの過去を悪い方に固定するタイプの暴力なのである。



医者はときに「だから言ったのに」で患者を殴ることができる。もちろん大多数の人はそんなことをしない。しかし、ごく一部のだらしない医者がつぶやいた、可燃性の高い言の葉が風に舞い散らかされるように飛び込んで来るのがツイッターだ。タイムラインはいつも乾燥していて、カラカラにひからびた「だから言ったのに」がどこかからか吹き込んできて部屋のすみにたまり、何かの拍子に火が付いて一瞬で燃えて灰になる。

偏らないほうがいいけど人間ときには偏るものだ。

医者の言うとおりにしたいけれどときには守れないこともある。

そういったことをすべて「だから言ったのに」で片付けようとすることは短絡だ。カラッカラに乾いている。もっとしっとりすればいいのになと思う。

2022年8月4日木曜日

病理の話(684) 顕微鏡が得意な人じゃないと病理医になれませんか

キャリアに悩む研修医から、進路の相談を受けていたときの話。

「病理医って魅力ある職業だなとは思うんですけど、やっぱり顕微鏡が好きな人じゃないと、働いていて辛いですよね?」

と言われた。ほほう、と思って先をうながす。

「学生時代にちょっと使った以外に、これまで顕微鏡はほとんど見たことがないんですよ。細胞の形がどうとかも全然わからないし、レンズとかの知識もあやしいし。なにより、学生のときは、長時間レンズを覗いていると酔ってきちゃって……あんまり顕微鏡向いてないなあ、って思ったんですよね」

と続ける。



とてもよく言われる話だ。「病理医は顕微鏡で細胞を見て診断を書く仕事」なので、多くの人からすると、「顕微鏡を見て」の部分がキモで、そこに労力と時間を割くべきなのだろうと思えるのだろう。

たしかに、「顕微鏡を見て」の部分は、他の臨床医が基本的にやれない、「病理医オリジナル」の部分なので、キモではある。

しかし、たとえばぼくは、朝の6時半から夜の6時半までの12時間で、顕微鏡を見ている時間はたぶん3~4時間程度しかない。3分の1、もしくは4分の1しか顕微鏡と向き合っていない。

キモだけど労力と時間は割いてないのだ。



ぼくは病理医生活15年、医師免許をとって19年くらいのキャリアを積んでいるから、顕微鏡でプレパラートを見るときの処理速度が早くなっている。だから1日の間でちょっとしか顕微鏡を見なくてよい。……これは理由のひとつだが、ひとつでしかない。

実際には病理医の仕事は、顕微鏡の外にあるのだ。


1.臨床医が細胞を採取したタイミングで、患者にどのようなことが起こっていたのかを、臨床医と同じ知識を用いて考える。いわば「バックグラウンドを理解する」こと。

2.顕微鏡で見えた細胞の形状が、無数の文献のどの細胞と似ているかを照らし合わせる。いわば「教科書や論文と仲良くなる」こと。

3.顕微鏡で見た細胞の様子(所見)を、誰が読んでもわかりやすい日本語で書く。いわば「実況中継をする」こと。

4.顕微鏡で見た細胞の様子(所見)から、病理医として結論(診断)を導く。いわば「名付け親になる」こと。

5.臨床医が患者をみて、血液検査や、CTなどの画像検査を経て、病理診断まで行った結果、患者がどのような病態であるのかを総合的に判断するための手伝いをする。いわば「主治医の参謀である」こと。

6.病院の中の誰よりも多くの患者をみる立場で、病気の珍しさや特殊さに鋭く気づき、その内容を後世の医療者たちに伝えるべく論文を書く。いわば「病院に君臨する学者である」こと。


これらはいずれも顕微鏡というキモに錨(いかり)を下ろしつつ、実際には顕微鏡を覗かずに、教科書や論文、ときには臨床医の頭の中、患者の体の中を覗き込むことで行われる。





よく、病理と料理は語感が似ていると言われるが、「病理医といえば顕微鏡! だから顕微鏡が得意でないとだめ!」というのと、「料理人といえば包丁! だから包丁さばきがうまくないとだめ!」というのは確かに似ているなあと感じる。

包丁さばきがうまいだけで料理人になれる人はたぶんほとんどいないと思う。創作のアイディア、食材の知識、客とのコミュニケーション、そして経営の手腕など、さまざまな場面で総合的に「料理人」としての能力が試される。

それといっしょだ。顕微鏡だけが病理医の資質ではない。所見記載のアイディア、病気の知識、臨床医たちとのコミュニケーション、そして医学論文執筆の手腕。

たしかに顕微鏡というのは他の職業人があまり使わない、特異な道具である。しかし、顕微鏡に一日中向き合っている病理医というのは、一日中おさしみを切っている料理人のようなものだ。それも極めればひとつのプロにはなるだろう、でも、たいてい、ほかにもやることがある。

2022年8月3日水曜日

それはすなわち光ファイバーである

「タブロイド紙」という言葉もあまり聞かなくなった。いや、正確にはまだまだぜんぜん現役なのだけれど、タブロイド紙について言及する人が身の回りにいないのだろう。

この、「タブロイド」という言葉のまわりをたゆたう独特の「うさんくささ」は見事だなあと思う。

語源を調べると、タブロイドとは低俗とかゴシップのような意味は本来まったく持っていないので少し驚いた。「粉末の薬が当たり前だった時代に、ある会社が粉薬を小さく圧縮した錠剤(タブレット)を作り、それをタブロイドと命名した」という。一連のエピソードの中に雑誌とか写真週刊誌的な意味は一切ふくまれていない。

(参照先: https://gogen-yurai.jp/tabloid/ )

ではなぜ一部の週刊誌をタブロイドと言うかというと、それは、粉薬が錠剤になったことを「小型・持ち運びに便利」ととらえて、「タブロイド(のように小型である)」というニュアンスが加わったからなのだ。それまで存在した新聞とくらべて判型が小さく、報道内容もかんたんで写真などが加わっているものを「大手新聞」に対して「タブロイド紙」と呼んだようなのである。ははーなるほどねーという感じだ。少し前の日本人の語感であらわすなら、「ハンディ紙」や「モバイル紙」くらいの意味なのだろう。


ただ、そのような語源はともかく、かつてのわれわれは、週刊誌すべてをタブロイド紙と言うのではなく、とりわけ俗っぽい、どちらかというと闇と性と金のにおいがするものを選んでタブロイド紙と呼称していたように思う。これはひとえに、「タブロイド」という言葉のもつ「感性にうったえかける俗っぽさ」によるものかもなあ、と考えた。


ほかの人は知らないが少なくともぼくは、アンドロイドとかメトロイドなどの○○ロイドという言葉からは硬質で、銀色と深緑色が混じったようなカラーリング、もしくはひやりとした触感を感じ取る。そこに「タブ」、特に「ブ」が濁りを加える。言葉の意味は知らなくても印象として「したたか」で「憮然としていそう」で「殴っても効かなさそう」で「王道ではないのかもしれない」という感じ。

ファーストガンダムに「ジャブロー」という地名が出てくるが、あれを最初に音として聞いたときの感覚と混じる。


そして、つまりはそういう、「元の意味なんて特に知らなくても、深い由来なんてわからないままでも、語感だけでしっくりくればそれが一番ええやんけ」というノリこそがまさに「タブロイド紙」の真骨頂なのかもな、などということを考える。


今、タブロイド紙という言葉を使うのは主に45歳以上の人ばかりであろう。それより若い人にとっては語感ごと用済みになった。代わりにあるのはTwitterだ。言葉の響きが軽快で軽薄である。硬質で、薄い青と白が混じったようなカラーリング、もしくはつるりとした触感。「元の意味なんて特に知らなくても、深い由来なんてわからないままでも、語感だけでしっくりくればそれが一番ええやんけ」の部分は全く変わらない。いきいきとした低俗、それこそが、かつてタブロイド紙が世に与え続けた食物繊維的な栄養である。一切吸収されず、ただ排泄をスムースにするために取り入れなければいけない「栄養」があるのだ。

2022年8月2日火曜日

病理の話(683) 因果をさぐる難しさ

病理医が顕微鏡で細胞をみることで、わかることは山ほどある。


そこにどんな細胞がいるのか? その細胞はほかの細胞とくらべてどのように違うのか? 組織におけるタンパク質や脂質、水分などの含有割合が正常とくらべておよそどれくらい変化しているか?


こういった「何がどこにどれくらいある」の情報は、病理診断がもっとも得意とするところだ。



一方で、「何がどうなったからこうなったのか」……つまりはメカニズム、あるいは因果関係みたいなものは、一目見ただけで判断するのはとても危険である。



一例をあげよう。



大腸カメラをやって、カメラの先からマジックハンドのような鉗子(かんし)を出して、粘膜を摘まんでとってくることがある。生検という。だいたい小指の爪の切りカスくらい、あるいはその半分とか1/3くらいの小さなカケラをとってくる事が多い。

そうやってとってきた検体の表面に、細菌がついていることがある。これを見て、「ああ、ここに細菌がいるな~」と判断することは間違っていない(あたりまえである)。

しかし、その細菌が「病気を引き起こした原因」かどうかは見ただけではわからない。

大腸カメラでとってきた検体が「がん」だったとする。顕微鏡で細胞を見ればわかる。その「がん」の近くにも細菌がついているケースがある。そこで「あっ、この細菌ががんを引き起こしたのだな」とは、考えない。考えてはいけない。

そもそもがんというのは、最初に体の中に発生してから目に見えるサイズに育つまでに5年とか10年とか、一説によれば20年とかかかっているらしい。昔からそこにあって、じわじわ大きくなって、ようやく大腸カメラで見えるレベルに育ったわけだ。

今その病変をとってきて、そこにいる細菌が、10年前の「発がん」に関わっているわけがない。細菌の寿命は1年もないからだ。



つまり、「そこにいる」は「それが原因である」を示さない。顕微鏡でそこにあるからといって「それが原因だ」と言うのは不正確……というかたいていの場合大間違いである。

がんもそうだが、それ以外の病気、たとえば心臓病とか脳の病気など、命にかかわるような病気は、もともと人体が「重大な病気にかからないためのセーフティシステム」を準備している。細菌とか、化学物質とか、ひとつ、ふたつ取り込んだところで、それらのセキュリティは突破できない。例外として、物理的に体を破壊するとか、強い毒でただちに体のあちこちを溶かしてしまうといった、「セキュリティ関係無しに美術館をぜんぶぶっつぶす」みたいなことがあると突破されるが、そういうわかりやすいものはそもそも顕微鏡でみてどうこう判断するものではない(顕微鏡を使う前にはっきりわかってしまう)。


おわかりだろうか。「顕微鏡で見たらわかった! こいつが単独犯だ!」ということはない。顕微鏡で見なければわからない時点で、そいつの存在は些細なので、ほかの要因と複雑にからみあわなければ病気につながることはないのだ。


以上を踏まえた上で言うと、「顕微鏡を見てわかった、病気の原因はこれ!」と「単独犯」があるかのように書かれた記事、しゃべっている人は、医学を十分に理解していないか、もしくは、意図的に無視している。


では、顕微鏡で見てわからないというなら、「病気の原因」はどのように解明されているのか? たとえば、タバコ。あれが体に悪いというのは、誰がどのような手段で証明したのか?


それは疫学・統計学である。タバコという物質を摂取した人と摂取しなかった人をいっぱい集めて、「割合」を比べるのだ。タバコを吸っていない人10万人と、タバコを吸っている人1万人を連れてきて、それぞれある病気Aにかかった割合をみる。


タバコを吸っていなかった10万人の中に、ある病気Aの人が100人いたとする。

タバコを吸っている人1万人の中に、ある病気Aの人が80人いたとする。


あ、吸ってない人のほうが多い! じゃないのだ

非喫煙者10万人の中の100人といったら0.1パーセント。

喫煙者1万人の中の80人といったら0.8パーセント。

割合を見るのだ。あきらかにタバコを吸っている場合のほうが割合が高いだろう。

こういったデータをさまざまに集めていっぱい検証して、はじめて「タバコは体に悪いんだな」という解釈にたどりつく。



病理医がタバコによって真っ黒になった肺を見ると、「ああ、タバコ吸ってんだな」とわかる。タールなどに含まれる色素が、マクロファージに取り込まれて肺に沈着するので、何年も吸っていればすぐにわかる。

しかし、そこに何か病気があったとして、病気のまわりがタール色だったからと言って「タバコだからこの病気になったのだ」みたいな軽薄なことは、病理医は言わない。言ってはいけない。

それを決めるのは顕微鏡の所見ではないからだ。割合を検索してはじめてたどり着ける。

では、因果を探る上でまるで顕微鏡は役に立たないのかというと……ちょっとここ、難しいのだけれど、そうではない。


「割合を検索したいと思えるような現象」が起こっていることを最初に見つけ出すのは顕微鏡だったりするのだよ。「しっかり研究するためのきっかけ」的な。そのへんのニュアンス難しいんだよなー。

2022年8月1日月曜日

脳だけが過去をする

同僚がずっとため息をついているのでこちらも沈んだ気持ちになる。「何かつらいことでもあるのか」とたずねたところ、「あっ、ため息ついてましたか」と自身で気づいていなかったらしく、以降1時間くらいはおとなしくなるのだが、その後またため息が復活する。翌日もため息。週が明けてもため息。くせになっているのかもしれない。あるいはガス抜きになっているかもしれないのでそこからはもう放置することにした。今日もぼくは、何度もため息が連続で聞こえてくる環境で少し集中しづらいなあと思いながら、自分の顕微鏡やPCで細胞を見たり原稿を書いたりしている。


若い頃の自分は、どれほどため息をついて暮らしていただろうかと思い出してみる、うん、思い出せない。過去はすべて地続きのままグラデーションを形成して現在につながっているが、10年前にこうだった、という記憶の多くは8年前や6年前に「反芻した記憶」である。何度も思い出すたびに誇張や忘却によって少しずつ調整されていく記憶の中の情景は、おそらく10年前のそれとはまるで違ってしまっている。過去の自分から連綿と続く伝言ゲームは伝達ミスが続いて元の痕跡をまるで残していないのだ。というわけで、ぼくは30代のころため息をついていた記憶がないが、しかしそれは、今のぼくと地続きの限りで思い出せる部分がなんとなくため息をついていない、という極めて脆弱な思い出であって、10年前に正確にタイムマシンで戻ってみればその瞬間ぼくがため息をいっぱいついているかもしれない。そういうタイプの「無自覚」は確実にあると思う。


ところで、軽くタイムマシンという言葉を使ってしまったが、実際には過去というのは存在しないだろうなという感覚はある。脳が五感で収集した世界の情報を「時間軸モデル」にあわせて構築して仮想世界を形成することで、過去・現在・未来の概念がうまれてくるが、それは、YouTubeの再生バーを右左にぎゅいぎゅい動かすように、あたかも現在から一続きの時空がどこかに存在し、タイムマシンのような「機械」を用いることでいつかそこにアクセスできそうと錯覚させるものであるが、しかし実際には、物理現象はいつも「現在」という瞬間にのみ燃えさかっている。ひとつひとつの現象は一つ残らず、すべて漏らさず、燃え尽きてしまう。過去にとある場所に存在した原子の配列は二度と再現不可能。一度消尽したエネルギーは二度と復活しない。したがって過去は存在しない。未来も存在しない。時間が「流れている」のは脳内の仮想空間だけで、現在になにかしら流れているものなどない。時の流れという言い方は便宜上のもので、移動速度や変性速度、化学反応の速度を言い表すために単位として生じた「時刻」を目盛りとして刻んだときに見えてきたものに過ぎない。過去も未来も存在しない、より正確に言えば、過去があるのは脳内の仮想空間だけであって、現実の空間には過去はない。


ところで、コンピュータもまた人間の脳と同じように、時間という本来存在しないものを電脳空間に仮想的に顕現させるはたらきを持っている。隣人の付いたため息はとっくに四散してしまい、現在だれの耳にも肌にも届かない、つまりため息という過去は現在が通り過ぎた瞬間に霧消したのだが、ぼくの脳はまだ彼のついた重めのため息を覚えている、つまりぼくの脳内にある過去には彼のため息がまだ実存している。仮に、ぼくの脳がこれをすっかり忘却したとしても、今こうしてブログに書いて電脳空間に放流してしまうことで、コンピュータは、インターネットは、彼のため息を電脳仮想空間の過去に刻印してしまうのだ。こうしてため息は現在から切り離されても過去に固定させられる。仮想空間の過去からグラデーションを形成してつながる彼の現在にため息は存在しないが、ぼくの脳内と電脳の仮想空間にはいずれも彼のため息が過去として残存する。また隣人がひとつため息をついた、こうしてぼくの脳は過去を肥大させていく。むしろ脳の唯一の仕事は過去を作り上げることなのだろう、それはおそらく未来に向かってスリークォーターで何かを投げるために必要な、利き腕と反対側の腕の牽引なのだ。脳の仕事は時間を作ること、いや、もっと言えば、時間という幻想をやっていくこと。脳だけが過去をする。