2023年11月27日月曜日

脳だけが旅をした

書きためてあった記事5本をすべて公開しました。ブログは今日でおしまいにします。今朝、ウェブ連載などの担当者のみなさまにも、連載を終わりたいというご連絡をしました。SNS医療のカタチのメンバーにもです。彼らのことをこれからものんびり応援してください。私はとうぶんお休みです。ポッドキャスト「いんよう!」についても、今後先輩と相談しますが、たぶんお休みさせていただくことになります。

手紙を送らないでください。荷物を送らないでください。献本もやめてください。駅や空港、学会場などでの待ち伏せをやめてください。多くの人に迷惑がかかってきました。どうかお控えください。心からお願い申し上げます。

それはそれとして、それとは別に、今までたくさん支えてくださった方々、ほんとうにありがとうございました。おいしいものやおもしろい本などをいただき、どれもすべて楽しみました。本当です。いつかからか、そういったものが楽しめなくなってしまいましたが、それはあなたがたのせいではありません。申し訳ございません。

無念です。しかし念は残っていません。念が無いと読めばまるで後悔がないというニュアンスにもとれます。なるほどよくできた言葉だと思います。まだやりたいことがあったような気もしますが、その気持ちはこれから別の仕事に向けていこうと思います。これからも元気に働いていきます。ありがとうございました。どうもありがとうございました。

病理の話(843) 見直したらありました

今日のブログのタイトルは世の中の99.99%の人にはぴんとこないと思うが0.01%くらいの人にはぞっとする響きをもつのではないかと思う。

まあ病理の話だから基本的には病理医がやる顕微鏡診断の話だ。

しかしもしかするとどの領域でも起こることかもしれない。



顕微鏡で細胞を見る。プレパラートの端から端までしっかりと見る。ビルの窓を清掃するときの、ワイパーで上から下、下から上へとまんべんなく拭き取るような心持ちで、視野を残さず、じっくりと見る。スキャンする。

そうして「所見」を探す。所見というのはわかるようでわからない言葉だが、ぼく自身は、ただ見えたものを「所見」と言うのではなく、見えたものに病理医としてなんらかの意義づけができるなあと思ったものを「所見」と呼んでいる。

したがって所見というのは「血管がありました」「炎症細胞がありました」「上皮細胞がありました」という報告ではない。

「ここにあってはいけない上皮細胞がありました」

とか、

「ここに普通よりもはるかに多い、病的な量の炎症細胞がありました」

ということを見つけたときに、「所見」として報告書に書き込む。


で、くまなくスキャンして、結局、「所見がない」ことはある。

病気の部分からきちんと組織が採取されていないのか。

はたまた、臨床医が病気かなと思っただけで、そこはじつは病気ではなかったのか。

いろいろな可能性が考え付くけれども、ないものはないのだ、だからそういうときには病理医は、「有意な所見はありませんでした」とか、「特異的所見は見いだせません」と書く。


で、だ。


報告書を書いて、すぐ出さずに、ほかの病理医にもチェックしてもらう。ダブルチェックである。「目を変える」ことで、見逃しや書き間違いなどを防ぐのである。

すると、二人目の病理医が、ぞっとするようなことを言う。

「あるよ。所見。ほら。」

えっ……。あんなに見たのに……。

あらためて顕微鏡を覗く。たしかにある。そこに異常な細胞が。それもけっこうな量で。

見逃すというのは「微少で見逃す」ばかりではない。なぜこれに目がいかないの? というような、落とし穴にハマったような見逃し方をすることがある。

へんな汗が背中を流れる。

「見直したらありましたね……」


これが本当にあるから怖いのだ。そして、このような見逃しを防ぐ方法も、いろいろと受け継がれてきている。

さっきの「ダブルチェック」はいいやり方だ。でもほかにもある。一人でできることがある。

「上から下、下から上とスキャンしたら、次は左から右、右から左へともう一度スキャンする」なんてのが、おもしろいやりかただと思う。

作家さんの中には、書き間違いをチェックするにあたって、横書きで書いたものを縦書きにして見直すと見つけやすい、みたいなテクニックを持っている人がいるという。なんだか似ているなあと思う。

あと、これはいかにも病理診断ならではなのだが、「標本を作り直す」というやり方がある。ガラスプレパラートをもう一度作ってもらうのだ。技師さんには申し訳ないが、細胞の切り口が変わるので、見え方がちょっとだけ変わる。すると、前回とは違った雰囲気の中で、見づらかった細胞が見えるようになったりする。

免疫染色を使う、という手法もある。でもこれはお金がかかるのであまり乱発はできない。



「ないと思ったけど、見直したらありました。」主治医も患者もずっこける瞬間だ。できるだけ経験したくない。でも、長く仕事をしていると、完全な見逃しまではいかなくても、ヒヤリ、ハッと、することはある。あぶねー! はままある。油断できない。慎まねばならない。

信頼できるかできないか

無数のスパムメールの中にどうやら大事なものも混じっていたようである。「スパムと思われるようなメールをおくるほうが悪い!」と思った。タイトルが英語で本文の書き出しも英語で、しかも差出人表示が知らない人で、じつはよく知ってる大学教授のプライベートメールアドレス、みたいなパターンは予想しようがないではないか。ぼくのせいじゃない。そして、結果的に、ぼくの立場がものすごく悪くなったので理不尽である。なぁーにが教授だよ! けっ! ごめんあそばせ!

ごめんあそばせ ってなんなんだ。あそばせ は遊ばせるってことなのか。語源検索に入る。「ごめんあそばせ 語源」→結果によるとあそばせ、は尊敬語で「しなさってください」だとそうな。いや、待て。そこは「してください」が正しいのではないか。しなさってくださいって日本語として破綻してるのでは? 気のせい? こうした言葉は「あそばせ言葉」と言われているとも書いてある。ほんとうか? 信用できない。丁寧で上品、という言葉を瞬間的にちぢめて「下品」に空目した。信用できない。

見間違いや空目による経済損失は専門家の試算によると年間5兆ドルだという。

こうやって書くだけでちょっと考えてしまうのが人間のつらいところだ。うそでもおおげさでも、まぎらわしいことでも、なんでもかんでもとりあえずいったん受け止めて信用してしまう。それがぼくを含めた多くの人間のかなしいところだ。今日、あなたの枕元に夢が降るでしょう。

ここまで5分。

いったん手を止める。

キータッチする指の、特に右手の薬指の爪がわずかにキーボードにひっかかるのが気になって爪を切った。

だいたい毎週爪を切っている。

ぼくの手の甲にはわりかし毛が多い。指とか。年齢相応にふしくれだって、指の関節の部分もだいぶ硬くなっている。見た目も肌質もだいぶ老いてきた。

それでも爪だけは頻繁に切るようにしている。

理由はキータッチのジャマだからだ。

でも、何度かブログに書いたことがあるかもしれないけれど、今でもちょっとだけ、昔から心に刻んでいることを思いながら爪を切っている。

元ネタは、『エルマーの冒険』だったろうか、もう忘れてしまったのだけれど、ある本で、主人公が祖母か誰かに、「爪はちゃんと切りなさい。誰かと話したり、握手をしたりするとき、相手に一番近づくのはあなたの爪なのよ。」と言うシーンがあった。ぼくはその場面の状況も、なんならセリフも忘れてしまっているので、今検索してもぜんぜん出てこないんだけれど、でもその「勘所」というか、「意気」の部分だけは40年くらい経っても覚えていて、爪を切るときに必ず「相手に一番近いところだからな。」と念じて切るのだ。

ほんとうはそんな本など存在しなかったかもしれない、あるいは夢で本物の祖母に言われたのだったかもしれないが、もはやそこはどうでもいい。爪を切ったあとにふと思ってこれを書き足した。息子はたまに夢に出てくるが、祖母はめったに出てきてくれない。これらはぜんぶ、信用できることだと思っている。

病理の話(842) 二人目の診断

病理診断は、見落とし、うっかりミス、報告書の書き間違いなどをふせぐために、「ダブルチェック」をする。

一人目の病理医が顕微鏡で細胞を見て、レポート(報告書)を書いたあと、それをすぐに電子カルテに送信して主治医たちに読んでもらうのではなく、いったん「仮登録」をする。

仮登録の段階では、主治医たちはレポート内容を読むことができない。

ここで、二人目の病理医が、レポートの文章をチェックする。これがダブルチェックだ。

チェックは1回目なのだからシングルチェックじゃないの? とか言わないでほしい。最初にレポートを書いた人も、仮登録を押す前によく「見直し」をしている。セルフチェック済みということ。だから二人目のチェックはダブルチェックと呼ばれる。


こうやって書くと、ダブルチェックはまるで、原稿の「校正」みたいだ。

ただし、二人目の病理医は別に仮登録されたレポートの文面や字面だけをチェックするのではない。

二人目もまた、顕微鏡でしっかりと細胞を見る。あらかじめ一人が細胞を見たから二人目はもう細胞を見ないとか、適当にしか見ないというのではなく、ふつうに診断のプロセスをもう一度くり返す。


とはいえ、二人目のほうが少しだけ早く見終わる。レポートの文章を書く時間がない分、はやい。プレパラートのどこに異常な細胞があるか、などのマーキング作業(水性ペンや油性ペンを使ってガラスの上にマークを付ける)なども、二人目はあまりやらなくていい。

その代わり、二人目の病理医は、二人目特有の「目線」で細胞を見る。

たとえば、箇条書きでさまざまな要素をチェックするタイプのレポートなら、表記漏れが起こりやすい部分というのはある程度決まっている。気を付けていてもうっかり書き漏らしたりする。

でも、そういう単純なミスの発見は、将来はAIがやってくれるに違いない。

書き間違いとか表現のおかしさよりも、もっと根本的な部分で、ダブルチェックをするべきだ。それはたとえば、こういうことだ。


一人目の病理医が「全力」で診断を出した。手を抜いたりとか、油断したりとかは、ない。それでも、誤診は起こりうる。起こってしまう。

「経験のある病理医が全力で診断をしたのに細胞の意味をとりちがえる」ときのパターンを、二人目の病理医は、頭に叩き込んでおくのだ。


1.細胞のようすが、いかにもある病気のように見えるが、じつは低確率で、その病気にそっくりの形状を示す「別の病気」ということがありうる。

2.細胞の変化が非常に微細・小範囲に留まっているために、気を付けていてもうっかり見逃してしまう。

3.レアな病気のため、知識が足りないために、そこに証拠があっても気づかない。

まとめるとこういうことだ。

「ミミッカー注意! 見逃し注意! 激レア注意!」

ミミッカーとはドラクエに出てくる「ミミック」を思い浮かべればわかるかもしれないが、「真似をするもの」という意味。見逃し注意はそのままだ。激レアもわかるだろう。

駅のホームで乗務員や車掌さんが、指さし確認をしてミスを減らすように、我々も、ダブルチェックのときには、「全力で診断した病理医がそれでも間違うポイント」を強めに意識する。

一人目からそれをやればいいじゃん、と思うだろう? やっている。やっているのだ。それでも間違う。一人目はどうしても自由演技になる。誰もレポートを書いていないところにフリースタイルで診断を書く。そのことにちょっとだけ頭脳を持っていかれる。負担を割く。すると間違うことがある。まれに、低確率で。

だから二人目はより、「誤診を前提とした」チェックをするのだ。いやらしいよね。減点法の採点官みたいだ。



ぼくは今、「一人目」も、「二人目」も担当する。やはり、「一人目」のときにはうっかり見逃したり間違えたりすることがあるし、そのことを元に「二人目」として他人のうっかりを拾い上げる。そして二人目としての経験を積んでもなお、「一人目」のときは誤診をしそうになるのだ。気を付けてはいるがやはり完璧には達しない。ダブルチェックはぼくらの命綱だ。ひとりで二人分考えられたらどれだけいいだろうと思うし、もしぼくの脳の中に、うまいこと二人の病理医を抱えられたとしたら、ぼくはきっと、同僚に「三人目」のチェックをお願いすることになるだろう。病理診断とはそういう部門なのだ。

もっこもっこ

病院の会議がはじまるとだいたい5分で寝てしまう。

入院患者の数がどうとか、地域からの紹介がどうとか逆紹介がどうとか、健全運営のために必要なことのほとんどは病理診断科のぼくにとっては全く関係がない……とまでは言えないが、ほぼほぼ関係がない話になるのは事実なので、ひとまず睡眠の時間にあてている。

寝ぼけながら参加している管理職の医師たちを見回していると、なかにはやけに熱心に病院の経営方針に口を出すタイプの人もいる。経営職でもないのになぜそこまで……とふしぎな気持ちになる。そういう人は、将来自分も開業する予定があって興味津々なのかもしれないし、そうではなくて単純にこういう会議でいきいきするタイプの人柄なのかもしれない。いずれにしてもぼくが全く気持ちを入れられないこういう場面で、水を得た魚になってくださる人のおかげで病院というどでかい企業は動いているのだから感謝こそすれ揶揄などしてはならない。ありがとう魚。おい、魚が行くぜ。大変な野火ですな、魚を向けて焼いたらどうです。張飛ってすげえよな。

会議から戻ってくると定時を回っていたのでここからは自己研鑽の時間である。当科の医師はみんな帰ってしまっておりだれもいない。じつにすこやかな職場環境だ。ここでぼくがちょっとでも働いていたらそれは「自己研鑽という名の下にやりがいを搾取してうんぬん!」と各方面から激ギレ込みで突進してこられる案件になるのだけれど、ぼくは今こうしてブログを書いているわけで、どう考えても過剰労働ではなくて自己をキュッキュと研鑽しているのである。思わず研磨の効果音を入れてしまったが研鑽というのはしかし不思議なことばだな。語源でも調べてみようか。研鑽の研究は研磨の研であり、まさにとぐとかみがくという意味だ。研鑽のさんは穴を開けるきりの意味のようである。つまりこれは木工なのだな。仕事が終わってからじっと考えながら自己研鑽をするというのはすなわち黙考して木工に勤しむということだったのだ。

研鑽するために必要なのは削っても穴を開けてもよい板を用意することである。厚みのある素材だから思い切り彫ることができるのだ。ペラペラのベニヤ板だと、ちょっと削っただけでバキッと折れてしまうだろう。若いときには自己研鑽なんてするよりもまずは素材の厚みをきちんと確保することが大事な気がしてならない。十分に肥え太ったものを伐採してもっこもっこと削ってようやく自分が仏像みたいに姿をあらわす。したがって業務終了後に金ももらわずに自分に向き合うのをやっていいのは私のような中年の特権である。若者は自己研鑽なんて生意気なことを言ってないで定時を過ぎたら映画をみるなりワインを飲むなりしたらよい。そのために必要なのは十分な給料だ。仕事のできない人間にこそたくさんの給料を渡してどんどん分厚くなってもらったらいい。ぼくみたいに仕事ができるようになった人間にはもはや給料なんていらないということになる。……なんだこの木工は。いびつすぎるぞ。捨てよう。黙考のやりなおしが必要である。あんなに寝たのにまだ眠たい。

病理の話(841) 病理プレゼンテーション法 草稿

今から書く内容がそのまま原稿に育っていくなんてことはまったくなくて、なんなら後日、本番の原稿「病理プレゼンテーション法」を書くときに、このブログ記事を参照することもおそらくない。

しかし、「今の段階で脳の中にあるものをただ出すとどうなるのか」、という仕事を自分の指に発注し、指から勝手に打ち出されていく文字をぼくの目が見ることで、その文章が自分にとって衝突する銃弾となるのか、それとも無風の温帯の空気なのか、そういうことを確認することは、やはりある種の下書きと言える。直接参照するわけではないが推敲はもうはじまっているのだと思う。


***


こんにちは、病理医の市原です。さまざまな場所で病理診断を解説する機会をいただいております。

本日は「病理プレゼンテーション法」ということで、プレゼンテーションを上手に行う方法をプレゼンするという、若干メタなことをやらせていただきます。

さっそくですが本日のお話しの結論は、「1カメ、2カメ、3カメを順番に意識することが肝要」というものです。また、途中に語ることになる、ちょっと覚えておいていただきたいお役立ちティップスとしまして、「メイリオ時代に用いるべきフォントはUD、UD時代が来たら游ゴシックにチェンジする」といったものを申し上げる予定です。

では順番にお話しいたします。

まず、プレゼンの序盤に「枕」を語るかどうか。その症例を語る上で必要な前提情報をシェアするかどうかという話についてです。病理解説においては、イントロの部分をねばっこく語っていると、あっという間に時間が足りなくなります。なのでやめたほうがいいです。病理解説はエンタメではありません。

「札幌の市原です。病理を解説いたします。」と自己紹介を4秒で述べた後、ただちに「本例の最終診断は○○です。」と、いきなり診断を述べることを強くおすすめします。病理解説において、あたかも探偵がじわじわと聴衆をじらしつつ犯人を追い詰めるように、所見を積み上げながら最後に診断を述べる方がいらっしゃいますが、あれはおすすめできません。よっぽどのストーリーテラーでないかぎり、聞いている人たちの集中は削がれ、「まるで試されているかのようだな……」と不快感すら持たれてしまいます。

まずは「結論としての診断」を述べましょう。その前に無駄に時間を使わないことです。消化管であれば、最初に診断名、取扱い規約事項などをコンパクトにまとめた画像を一枚提示すべきです。

ただし、ここで大事なことは、「結論としての診断」はなるべく早く述べるのですけれども、「そのプレゼンのキモが診断名であってはならない」ということです。序盤に結論を述べる、と言いつつ、じつは一番盛り上がるのはそこではないのです。犯人推理と病理解説とは違う。

聴衆の多くは、病理解説に、さまざまな「理論」を求めます。また、提示される「仮説」に魅力があるかどうかを吟味します。これはもう、無意識にもやられますし、意識的にもやられます。したがって、プレゼンのキモとは、その病理標本を見た病理医が、細胞と向き合って何を考え、どう考察して何を推論したのか、それが臨床医たちの見立てとどう合致したのか、どこか合わないところはあるのかという点にあります。究極的には、「病理医だけが解き明かせる何か」を聞く人たちに与えることができるかどうかがキモです。論説と仮説のわかりやすさと奥深さを同時に達成すること。これらに比べれば、診断名というのははっきりいって、「秒でさっさと語り終えておくべき前提」であり、つまりは「診断名こそが枕」なのです。ここを間違えてはいけません。

大事なことなのでくり返します。病理解説における「枕」は「診断名」です。

では診断を述べたあと、どのように病理プレゼンを展開していくか。「もう答え(≒診断名)はわかっちゃったから、あとはZoomを切ってご飯の準備だ」などと聴衆に思われないことが必要です。ですから、枕からすかさず、聴衆の興味を「最後まで引っ張るための強力なプレゼン」が必要になります。それはなにかというと、Google mapです。ちがいます。フィールドマップです。見取り図を出すのです。

残り時間、それは10分かもしれないし4分かもしれませんが、とにかく短いとはいえ研究会や学会の貴重な時間を、聴衆はみな、一人の解説担当病理医のいうことを遮らずに聞かなければいけません。解説者が場を独占する状態となるわけです。その時間に、何がどれくらい語られるのか、ということを、2秒あればピンとくるくらいのわかりやすい図で一瞬で提示します。「今からこの標本のこれくらいの範囲を語りますよ」ということが、一瞥しただけでわかるくらいの図がここでは必要です。診断名を述べるときなんてのはプレゼンに凝る必要はありません。聴衆の脳はすべて診断名に持っていかれるからです。はっきりいって画面のど真ん中に一行ないし二三行で診断を書けばそれでいい。しかし、「見取り図」を出す段階では、プレゼンのデザインがかなり重要です。画像の色味、矢印の数、フォントの種類など、思いっきり吟味します。むしろ文章は要りません。読んでいる時間で1秒経ってしまうからです。それではだめです。見取り図の段階で何か意味のある文章を5秒以上読ませたら聴衆の20%は脱落すると思って下さい。デザインされた「図解」によって、霹靂的に解説の全貌を感じ取ってもらいます。言葉を書くならそれは決定的な単語、もしくはキャッチコピーのようなものだけです。

芸術家でもデザイナーでもコピーライターでもないのにそんなことはできない! とお怒りの方に申し上げます。ここで病理医が出すべきは、「解説をするプレパラートのルーペ像」です。複数枚を解説する予定であっても、一画面にいっぺんに並べてしまいましょう。ただしそのデザインについてはいろいろと勉強して、一瞥して見やすい配置をきちんと工夫してください。写真のサイズ自体は、多少小さくて見づらくてもいいです。「見取り図」ですから。それをこれから順番に拡大していくのです。俯瞰から細部に向かって拡大をあげていく、あたかも日常の病理診断で、弱拡大から強拡大に向かって順番に進んでいくときのように、これからあちこちを拡大していくのです。そのようなメッセージを2秒で届けるということです。

そして、ここで聴衆を2秒で引きつけたら、はじめて自己紹介をしましょう。あなたの言葉はここから届き始めます。「診断名」を言った時点ではあなたの言葉は届いていません。解説がはじまったなーと思われた瞬間から、あなたの声質とかリズムとかに注意がそれはじめます。したがって、「見取り図」を提示したら2秒後には、聴衆をぐっと引きつける自分の最高の声を出す必要があります。もう診断名について語っているので、声出しの助走は終わっています。ノドがつぶれる心配はありません。ろうろうと、堂々としゃべりましょう。では何を言うか。

「それでは順に解説します。Aパート、Bパート、Cパートを、順番に弱拡大・強拡大と説明し、免疫組織化学をまとめてご説明したのちに、最後に臨床画像との整合性を確認します。」

これです。だいたいこうです。「見取り図」にマーカーで順路を示すように、手短に、よく通る声で、いつもよりも少し高いくらいの声がいいと思います、「時間的な見取り図」を一気にしゃべってしまいましょう。ここまでで一回も噛まなければ、残りの8分、もしくは3分はあなたの劇場となります。


***


このままいくらでも書けるがブログなのでいったんこれくらいにしておく。いろいろと思うところはある。ぼくって心根が軽薄なんだな、ということを、今日は思った。

ライブバイブ

原稿を書きながら耳で医者の話を聞いている。こないだ現地会場に出席した学会であるが、後日のオンデマンド配信分の金も払っていたので、聞きに行けなかった会場のセッションを流しっぱなしにしている。デュアルモニタの右側が学会動画、左側が原稿。ときどき気になるものがあったら手を止めて右側に目をやる。単位は十分足りているので、どの動画も最後まで見る必要はない。とにかくおもしろそうなところを流しておき、これだと思ったら見る。


しゃべり方がじょうずな人がいると、おおっと思って目を奪われる。耳だけで十分情報は入ってくるが、うまく言葉を使う人の顔はきちんと見てみたいし、これほど整然としゃべれる人ならさぞかしパワポのプレゼンもきれいだろうと期待する。結局、ラジオ的には聞かずに画面に向き合うことになる。しゃべるのがあまり上手ではない人だとプレゼンもたいしたことないような気がして、なんとなくラジオ的に、バックグラウンドで流しているうちに話が終わる。



まとめると、「しゃべりがうまいとプレゼンをちゃんと見る。しゃべりがへただとあまり見ないで聞くだけにする」。なんだか逆の気もするが、自然とこうなっている。



実際には、ぼそぼそ平板に、つっかえつっかえしゃべる人の中にも、とんでもない美しいデータと画像を出してくる人がいる。けっこういる。そういう人を見つけ出して話を心ゆくまで聞くのが学会の楽しみのひとつではないかと思う(性格悪い楽しみ方だが)。しかし、オンデマンドではなかなかこれがうまくいかない。



なぜだろう。PCの前で学会を見ていると、つい、「最初の30秒がつまらないともうだめ」みたいな雰囲気に満たされてしまう。YouTubeの動画の評価とかといっしょになる。学術の話なのに。イントロで重要なことが語られるとは限らない、結論からディスカッションにかけてが盛り上がるであろうアカデミックな話なのに。オンラインで、オンデマンドで見ていると、なんだか「プレゼンの上手さ」についての期待がいつもより高まってしまう。講師をYouTuberと同じ土俵に乗せてしまっている。



現地会場だとそうでもない。映画館のような椅子に深々と身を沈め、目の前で次々と展開されていく演題を見ているとき、スマホを開きたくなるわけでも、別の動画を見たくなるわけでもなく、ただスクリーンをずっと見続けている。それにあまり抵抗を感じない。ときに眠たくなることもあるけれど、目をあけたらまだ学術をやっているのが気持ちいい。そうやって、ぼそぼそぶつぶつ、しゃべる人の中に、本物の学問の輝きを見つけることが必ずある。それが学会の良さだ。現地会場だけの良さなのかもしれない。オンデマンド? Netflixみたいなもんだ。つまんなかったら即チェンジ、もしくは単位のために流しっぱなしにしておく。それ以上にも以下にもならない。



ネット、AI、なにについても言える。こんなに使えないなんて。めちゃくちゃ使ってるけどさ。こんなに届かないものだなんて。すげえ新しい世界開いてるけどさ。ここまで、リアルを補完してくれないなんて。別のものを外付けしてしまっているけどさ。体を失って生きる時代が来るかと思ったけど、これじゃあ、望み薄だと思う。身体性がどうとか哲学者が言うのもわかる。ていうか、なんだろう、肌が空気の振動を感じ取ることって、こんなに大事なことだったんだな。耳だけで講演を聞いている。肌が聞いていないということだ。

2023年11月24日金曜日

病理の話(840) 言葉の先にたどり着けない

今日はあえて具体的な病名を出すことにする。大腸にSSLという病気がある。スーパー蒸気機関車ではない。Sessile serrated lesionの略だ。

大腸の粘膜に、まるでみずぶくれのような形をした、1センチ前後のひらべったい、ちょっと表面に粘液のついたうすーい隆起ができる。大腸カメラがハイビジョン化したことで見つかるようになった、昔は見逃されてきた病気である。

そして、じつはこれを見逃して、あるいは放っておいたところで、ほとんどの人は問題ない。SSLはSSLのままさほど大きくもならないし育ちもしないのではないか、と言われる。ただし、数パーセント(一説によると1%未満とも言う)の確率で、そこからなんと、がんが出てくる。なので放置できない。

この放置のできなさは……そうだな、今はいろいろぶっそうな世の中だから、家のカギをかけないで寝るなんて想像もつかないだろう。しかし実際には、近所のコンビニに行く短時間の間に、カギをかけなかったからといって泥棒にすかさず踏み込まれることは少ないだろう。玄関にもオートロックがあるし、フロアには防犯カメラだってある。よっぽどマークされていて、生活スタイルを把握されていて、運が悪いときに、たまたま部屋を離れた十数分に空き巣にやられるかもしれない、でもその可能性はたぶん数%とかではないかと思う。だからといってみなさんが、「数%しか空き巣に入られないならカギなんてかけなくていいや」とは思わないだろう。そこはやっぱり、カギをかけるであろう。

それといっしょだ。SSLも放置はしない。基本、見つけたら、切り取ってしまう。大腸カメラの先端からマジックハンド的なデバイスを出して、粘膜の病気の部分だけを剥がしてくるのである。



前置きが長くなったが、このSSLを病理診断するときのことを考える。どのように診断をすすめるか? 取ってきた検体を顕微鏡標本にして、細胞を観察していくのだけれども、ここで、「なんとなくニュアンスで」診断するわけではなくて、ちゃんと診断基準というものがある。

「病変のどこかに、特徴的な細胞の配列があったらSSLと名付けましょう。」

というルールがあるのだ。これに従う。慣れてくれば簡単である。

ただし、この診断をしばらくやり続けていると、一部の人は、ある疑問を持つ。


「病変のどこかに……? どこかに、とは……?」

この文章を裏返すとそこには、ある地味な、しかし見逃せない違和感が存在する。



たとえば、「がん」を病理診断する際は、カタマリを作ったがんのどの場所を見ても、構成する細胞が「悪そう」だというのが原則なのである。ヤクザの事務所に踏み込んでいったらそこにいる構成員はみな面構えが悪い。がんの内部にはがん細胞が満ち満ちている。そういうことなのだ。だから、「ここからここまでががんですね」と判断することも可能になる。


しかし、SSLの場合は、「病変のどこかに典型的なSSLっぽさが見つかれば、そのほかの場所にはSSLらしさがなくても、薄く盛り上がった領域全体をSSLと判定する」というルールになっているのだ。

これはけっこう……というかかなり……不思議なことである。


たとえ話を使うならば、札幌の中にある数百のラーメン店のうち、1店舗だけが反社の方々によって経営されていたとする。それを見つけたらすかさず、「札幌のラーメン屋はぜんぶだめですね。」というようなことだ。ひどいとばっちりではないか。


なんでもかんでもヤクザにたとえて本質から遠ざかるのも本意ではないのだが、病理医もまた、このSSLの診断基準を読むとモヤる。


まあそこにはいろいろな理由があるのだ。SSLという病気は、腫れぼったくなっている粘膜全体にある種のDNAの異常が存在するのだが(遺伝するというわけではない。そこだけDNAがダメージを受けている状況だと思えばいい)、このDNAの異常が必ずしも、顕微鏡で確認できるカタチの異常につながらないのだ。見た目ふつうだけどDNAはやられている部分というのも存在する。そのことを知っているエライ人たちが、「SSLはどっか1箇所おかしかったら全部おかしいと思ったほうがいいよ。」と言っている、というわけだ。ゴキブリを1匹見つけたら30匹いると思いなさい。ヤクザやゴキブリにばかりたとえるのもどうかと思うが……。


以上をふまえて、今日のぼくが言いたいことに結びつける。

世の中にはさまざまなSSLが存在する。2センチ大のひらべったいSSLを顕微鏡で見てみたら、その2センチのほとんどが「いかにもSSL」という細胞で埋め尽くされている場合もあるし、5ミリのSSLを顕微鏡で見てみたけれどわずか数百ミクロンくらいしかSSLっぽくない、でも一部がSSLだから全体をSSLと呼んでいる、みたいな病変もありえる。

多様なのだ。事務所の中にヤクザがみちみちパターンもあれば、スタバの中にヤクザがひとり、というパターンもある。

これらをすべて、「SSL」と診断して包摂する。それが病理診断であり、これにはメリットとデメリットがある。


メリット:さまざまな病気のありようを「SSL」という言葉でまとめて取り扱うことができる。SSLにはこういう治療をすればいい、という方針に乗っけてわかりやすく治療を終わらせることができる。

デメリット:本来さまざまに異なるはずの病気を「SSL」という言葉でまとめてしまうので、細かな差が消失してしまう。全体がヤクザというのとひとりがヤクザというのとでは、体の中でその後どうなっていくのかが、おそらく違うはずなのだが……。



名付けというのはつまりはそういうことだ。紐付けと言ってもいいだろう。まとめてラベルをつけて、糸で縛って古書店のフェアに出すみたいに、ヒトカタマリでドンと置いてしまう。あいつがまとめて出した古本はどれもおもしれぇなーと感動されることもあるが、クオリティの高い本で雑本を抱き合わせて出品してんじゃねーかと笑われることもある。病理診断において、なにをどこまで「ひとくくりにするか」については立場ごと、人ごとの哲学と思想があり、それらを踏み越えたり留保したりするたびに、「うーん、これ、今日はSSLって診断するけど、いつまでそうしていられるのかなあ。」みたいに、逡巡や葛藤が出てくる。


出てこない? それは病理医ではないということである。いや違うか。名付けてまとめることに悩みを持たないタイプの病理医もいる。ただ顕微鏡を見て診断を書いているという点だけで、さまざまなタイプの人間を、「病理医」という名前のもとに縛り付けており、その言葉の向こうにあるニュアンスの違いにはたどり着けなくなるということだ。

2023年11月22日水曜日

脊髄だけにしゃべらせない

きちんと頭を使い続けている人というのがいて、自分もそうであると言いたいところだが、自信がない。ぼくの当座の目標は、「連想ゲームではない思索」を細々と維持する人間になることだ。油断するとすぐに、「ああ来たらこう返す」のような、武道の有段者(でも達人ではない)のような反射的思考に陥る。自分がそうだからここはあえて下げて語ってしまうが、剣道三段なんてくさるほどいる。別にすごくない。長くやってりゃ「自動化した動き」で段位くらい取れる。脊髄だけで剣道しても三段くらいならたどり着く。大事なのはいかに脊髄と脳とを両方回すかだと思う。反射だけで竹刀を握るならそれは獣のいさかいと同じである。体に動きをしみ込ませるのは大切だ、しかし、半自動的にさばけるようになった重心を脳で補正し、無意識にいい力加減で握っている掌~指先を意図で微調整することこそが、武道の本質ではないかと思う。

思考も一緒だ。

反射だけ、連想だけで考えた気になって、思考の有段者を気取ることは簡単。でもそれは、獣の思考である。




べつに、ずっと難しいことを考えて、何か役に立つことを言うためにがんばりたい、と言いたいわけではない。


哲学とか思想の本を読むとき、「よし、誰それのナニナニというむずかしい言葉を覚えたぞ」と受け入れるばかりで、すぐに忘れてしまうぼくは、言葉からリゾーム的にひろがるなにかにアクセスする手間をきちんと為していないなあと思うことがある。こむずかしい言葉を掘り進むようにひらいていく人、そういう人になれたらいいなと思う。


ところで自分の内奥から外界に出てくる「なにか」は、心の隘路をすり抜けていく間にさまざまな突起や棘にひっかかって、さまざまな傷を負う。その傷痕をあたかも意味のある文字列のように掲げて、「俺の心から出てくるこのフレーズに意味がある!」とやってしまうタイプの人がいる。誰かというとそれはぼくである。しかし、ライフルごとに施状溝が決まった形になるように、そんな、心の奥から出てきた何かにいつも同じ刻印をしたものばかり射出するというのもつまらない話だと思うのだ。たとえば、奥から出てきたものを、みずからの辺縁でいったん留保して、外部から赤外線のように届くなにか、それは他人の言葉であったり絵画であったり文学であったりするのだが、それをもって撹拌する。そうすれば心の中から出てきたものは、みずからの境界を越える前に、粘菌のようにじわじわと形を変えて、毎回異なる迷路を抜けるように毎回別様のものとして自分の外に出ていくだろう。



誰が見ても頭いいやろという人がそのまんま頭を存分に使っているのを見るのは楽しい(萩野先生なんかそういうかんじだろう)。

日ごろから一貫してギャグやダジャレしか言っていないのに、ふとした瞬間に飛び出てくるイディオムが奇天烈で、どれだけ独り言を長く繰ったらここにたどりつくのかとめまいがしたりするタイプの人もいる(浅生鴨さんというのはこれだろう)。

いっぱいあこがれる人がいる。幡野さんなんかいつもすごいなと思っている。彼はお仕着せの言葉を使わない。この場面ではこれを言うという決め事がない人に感心する。



きちんと頭を使い続けている人というのがいて、自分もそうであると言いたいところだが、自信がない。ぼくの当座の目標は、「連想ゲームではない思索」を細々と維持する人間になることだ。あと、安易にコピペするのをやめたい。

2023年11月21日火曜日

病理の話(839) 世界初の症例

とある研究会に出たときの話をしよう。


その回の当番にあたった臨床医が、ある患者の画像を画面に提示する。

血液データに加えて、CT, MRI, 超音波……。

これらは整理された状態でパワーポイントに貼り付けられている。

参加者は、内科医、外科医、放射線科医、そして病理医など。

いろいろな専門の医者たちが、Zoomの画面越しに、見る。

見て、考える。

もし、この患者に自分が遭遇したら、何を考えて、どういう治療方針を選ぶだろうか、と、追体験をするのである。


でもまあ全員が黙って考えているだけだと会が進まない。

そこで、事前にあてられていた発表者が、代表してその画像を「読む」。読影(どくえい)という言葉がある。

ぼくらも、発表者も、答えは教えてもらっていない。

できれば答えにたどり着きたいなと思いながら、読影をして、診断を考える。

みんなプロだ。だから当てたい。

しかし今日は「研究会」だ。わかりやすい典型的な症例は提示されない。

画像の見え方がめずらしいとか、いかにも間違いそうな見た目をしているとか、そもそもの病気自体が珍しいとか、いろいろな理由で、症例は選ばれる。

だからどれだけ考えても、「正解」にたどり着くのは至難の業だ。


案の定、その日の症例の、「正解」にたどり着いた人はひとりもいなかった。

途中、読影の最中に、少しだけ「惜しい」答えが幾人かから提示されたが、それはちょっと違うだろうということで棄却された、ある珍しい病名が答えだったのだ。

みんなためいきをついた。

正解を提示するのは、病理医だ。

ここでの病理医は、手術によって摘出された病気を解析する。だから診断名にたどりつくことができる。


参加していた外科医のひとりが質問をした。「この症例はだいぶめずらしいですよねえ。今までに報告されているんですか?」

すると、解説を担当した若い病理医が言った。「えっと……私が調べたかぎりでは、過去に報告はありません。」

「世界初!」

Zoomがしずかにどよめく(みんなミュートだけど)。

ぼくもびっくりした。


しかし……数分後に、ほんとうかな、と思う。その病気は確かに、その臓器に出れば珍しいことは間違いない。しかし、ほかの臓器には出ることがある。

こういう「非典型的な場所に出現する病気」というのは、どれだけ珍しくても、たんねんに論文を探すと、たいてい世界の誰かが報告しているものだ。

若い病理医はきちんとPubMed(論文検索サイト)を検索できたのだろうか。

ぼくもその場で、ためしに調べてみる。


その病理医が述べた診断名を入れてみると……うーん、ドンピシャのは確かに見つからないようだが……。


別の臓器に出るときの名前に変えて検索してみる。すると案の定、今回の症例とよく似た症例が、とある国から報告されているではないか。


あーあ。ちゃんと論文検索してなかったんだろうな。というか、若い病理医だったから、検索の仕方もまだよくわかってなかったのかもしれない。


論文はオープンアクセス(無料でダウンロードできるもの)だった。最近のものだ。せっかくなのでその場で読む。「世界で約100例の報告があり……」とある。


たしかにめちゃくちゃめずらしいことは事実だ。この広い世の中で、まだ100例しか報告されていないなんて! Extremely rare(超まれ)である。


しかし、世界初、ではない。


それはなんというか……そりゃそうなんだよ……「それが世界初なわけないんだよ」という感覚なのである。病理医にとっての「世界初」は、めったに訪れない。「こんな珍しい病気、まずないだろう!」と思っても、どこかの誰かがすでに報告していることがほとんどなのである。


2023年11月20日月曜日

指だけが旅をする

とある小さな書店のイベントで、「ヤンデル先生のご著書をお持ちの方は、イベントにお持ち頂ければサインしていただけます」と書いてあって、笑ってしまった――


からはじまる文章を書いていた。しかし、自分なりに「こういう文章にしたいなあ」と考えていたニュアンスからはほど遠い、かなり強めの皮肉なワードがいっぱい出てきて、閉口した。

違う。

そんな悪い言葉を書きたいわけではない。

しかし、言葉が言葉を連れてくるような感じだ。思った以上に強い言葉がぬるぬる出てきて、ままならない。


後藤隊長はかつて「便秘に浣腸みたいなもんだ」と言った。しかし今回のぼくのはそういうわけでもない。「内心言いたいことがスルスル引き出された」というのとは違う、と思う。シニカルでアイロニカルで攻撃的な言葉たちが、仮にぼくの隠していた本心だというならば、まあ、あきらめて、というか覚悟を決めて、この機会に一度、ガス抜き的に表明しておくのもいいかも、と思った。しかし、冷静に読み直しても、ぼくはそこまで悪い感情を持っているわけではない。言葉が次の言葉を連れてくるときに勝手に悪感情のニュアンスをのっけてしまっている。

結局書いていた文章を消した。これがぼくの本心だと受け取られるのも、レトリックだと受け取られるのも違うなあと思った。


さながら、売り言葉に買い言葉、をひとりでやっているような気分だった。


この言葉の次に連想されるフレーズはこう。

こちらのふたを開けたら次にあくのはあちらのふた。

そういった半自動的な書き方を続けていくと、最初に自分が思い描いた風景とは異なるものが描き出される。指先がどこに向かうのかを楽しく見られる日もある。小説家やマンガ家が「キャラクタが勝手に動き始めた」みたいに言うことがあるが、この程度のブログであっても「指が勝手に何かを語り出す」ということはあると思う。しかしそれを自分でうまく操作できないというのは困りものだ。


ブログのネタに困ったことがない。とりあえず一行書き始めれば、そのときの気持ちにあわせて何かまとまった量の文章になる。そういうやりかたでずっとやってきた。もちろん、プロのエッセイストやコラムニストが書く何かと比べると、クオリティ的にはほどとおいものばかりだったけれど、その日そのときのぼくらしさが正直に綴られているかぎり、多少文章がわかりにくくても、表現があいまいでも、それがその瞬間のぼくの脳だったのだろうと、自分としてはわりと納得する蓄積ができていた。

しかし今日、ぼくは、指先の惰性がぼくの心から微妙に遠いところをうろちょろするところを目にした。そして、なんだか、これはまずいなあと思った。惰性で何かを書き続けるのもそろそろおしまいにしたほうがよいのかもしれない。ブログを不定期更新にするか。毎日続ける日記としての効用がなくなる。しかし、効用があるからといって飲まなくてもいい薬を飲み続けるようなことになっていたのではないかと思わなくもない。

SNSの使用頻度が激減するにつれ、自分の中を循環していた水の流れが悪くなった感覚がある。よどんだなにかがブログの記事に流出するのはよくない。いろいろと考えたほうがよさそうだ。すぐに更新をやめようとは思わないけれど、なんというか、ここにも終わりが見えてきたのではないか、という気はしている。

2023年11月17日金曜日

病理の話(838) 診断困難例

患者から取ってきた細胞を顕微鏡を使って診断するのが、我々病理医の仕事だ。「細胞を一目見ればピタリと当てる」というのが理想型である。しかし現実にはそう簡単ではない。病理医が頭を悩ませるパターンには以下のようなものがある。



1.命にかかわるがん? それとも命に別状のない良性の病気?

ふつうのがん細胞は、正常の細胞と見た目が異なる。細胞核がでかい。でかくて不規則にゴツゴツしている。核の中に入っている染色体の量が多くて色が濃い。細胞ひとつに着目するだけでもこれくらいの、あるいはもっとたくさんの違いがある。ただし、これらの「核の変化」は、じつはがんではない細胞でも生じる。

たとえば炎症があって、細胞の周りの環境がぼろぼろになっていると、細胞がダメージを受ける過程で、もしくはやられた細胞が再生する過程で、がんのような見た目を呈することがある。病理医が「この細胞はがんですね」と言えば主治医はその言葉を信じるので、手術や抗がん剤などの「大きな治療」が選択されるのだが、実際にはがんはなくて炎症のせいで「細胞が悪そうに見えただけ」ということも過去には起こっている。非常におそろしい誤診である。したがって我々はいつも、細胞を見て「がんだ!」と感じて診断書に書く前に、「待てよ、本当にがんか? 本当に、本当にがんか?」と念を押すように顕微鏡を見る。



2.がんなのは決まりだが、どんながんだかわからない。

細胞がいかにも「悪そう」で、これががん細胞であることは間違いない、と確信できたとして、そこで診断が終わるわけではない。次にそれがどんながんなのかを調べるのも病理医の大切な仕事だ。「どんながんか」にはいくつかの判断基準がある。どれくらいの範囲に広がっているか? どのような性質をもったがん細胞なのか? 範囲を知ることは、手術でがんを残らず切り取ったり、がんのある場所にくまなく放射線を当てたりするのに必要だ。また、がん細胞の性質(どのようなタンパク質を持ち、どのような方向に「分化」しているか)によって、どの抗がん剤が効くかが変わってくる。

範囲なんてすぐわかるだろうと思ったら大間違いだ。がんというのは「しみ込む」病気だから、しばしば思ってもいないところに潜り込んでいたりする。それを顕微鏡で見つけ出すのはけっこう大変なのだ。たとえばあなたが、自分の部屋で箱に入った「画びょう」をぶちまけてしまったとする。あわてて拾って、これで全部かなと思っても、ソファの足の裏側とかじゅうたんの毛の中とかに紛れ込んでいるなんてことがあるだろう。がん細胞もときおり、そういうタイプの進展を示す。がん細胞の数が少ない場所ではそれだけ診断も大変になる。

細胞の性質についても難しさがある。がん細胞が試験管のような構造をつくっていたら「腺癌」、シートのようにある面積を埋め尽くしていたら「扁平上皮癌」といった感じで、ぱっと見るだけでどのような性質を持っているかがすぐわかることもあるが、中には、「B細胞の性質を持っているのか、T細胞の性質を持っているのか、形の違いではまるでわからない」というケースもある。こういうときに病理医は、細胞の性質を見極めるための特殊な手法を用いる。免疫組織化学やフローサイトメトリー、染色体検査など、やり方はたくさんある。



3.がんではない病気だとわかるが、ではどういう病気なのかと言われてもわからない。

このパターンがじつはけっこう難しい。病理診断「学」(病理医の診断根拠を学問のかたちで練り上げたもの)は、別にがんばかりを診断するわけではなく、さまざまな病気における細胞の変化を見極めることができる……はず……なのだが、がん以外の病気では往々にして、「原因が何であっても結果が同じになること」があるのだ。

これはちょっと説明が必要だろう。たとえば、あなたがハリセンを持っていて私のことを波コンと叩く。すると私のあたまにこぶができる。次にあなたがハリセンではなくピコピコハンマーを持って私を叩いたとする。それでもやっぱり私のあたまにこぶができるだろう。あなたが持つものが竹刀でも、バールのようなものでも、同じ衝撃を加えればおなじようにこぶができる。病気にもこれと似た部分がある。原因(ハリセン? 竹刀?)にかかわらず、誘導される結果(炎症)がいっしょだと、炎症のようすをいくら見ても原因はおしはかれないということになる。

しかし、とはいえ、竹刀ならば四つに組んだ竹をとめている「布」の形があたまに残るだろうし、ピコピコハンマーだとマンガ的表現でたんこぶがモチのようにふくらんで表面にバッテンのばんそうこうが貼られるだろう。がん細胞ほど「これは間違いなくがんの特徴!」とは言えなくても、「なんか、あの原因と対応してるっぽいぞ……」みたいな傾向はとらえることができる。

逆にいうと、がん以外の診断は、難しいし、直裁的じゃないし、マニアックだし、奥が深くて、けっこう頼られるのだ。



4.頻度が非常に少ない病気と、よくある病気なんだけどなんかへんなやつ

この二つはどちらも迷う。「頻度が非常に少ない病気」を診断するのはすごくプレッシャーがかかる。なにせ、ほとんどの人が診断したことがないわけだから、教科書に書いてある通りの細胞パターンが見つかったとしても、「これ、ほんとうに○病なんだよな?」とかなり弱気になる。いろんな人に相談しながら、たくさんの資料を調べて、ようやく珍しい病気だと診断を付けるのだ。小説やドラマは珍しい病気を簡単に診断しすぎていると思う。

なぜ珍しい病気の診断をためらうのか? それは、「頻度が超低い病気」よりもはるかに、「頻度がめちゃくちゃ高い病気が、たまたま、まれな病気っぽい見た目であらわれたケース」のほうが経験されるからなのだ。これは例え話がむずかしいのだが……うーん、そうだな……「真のUFO」を見つけるよりも、「たまたま飛行機やアドバルーンがUFOっぽく見えること」のほうが圧倒的に多い、みたいな感じかな。ちょっと違うかな。

ちなみに内科の教科書(や國松淳和先生の書くもの)の中では、「レアな病気の典型像」vs「コモン(よくある)な病気のレアなプレゼンテーション」、と言い表したりする。病理診断の場合は、劇的にレアな病気がばんと出てくるよりも、日ごろから診断している病気がたまたま不可思議な見た目で顕微鏡の中に登場する頻度のほうが高い気がする。



ほかにも診断に迷うケースはあるのだけれど、これ以上列挙すると、どうしても「実際に自分が困った症例の話」になってしまう。今日はこのへんにしておこう。

2023年11月16日木曜日

メールのトリコ

このブログを書いている次の日から、木・金と出張で仕事場を開ける。土曜日の夕方に戻ってきて髪を切り、日曜日に出勤して残務を片付ける予定だ。

残務と言っても診断業務については同僚がカヴァーしてくれているので、本職に関しては別に仕事が溜まったり残ったりはしない。それはほんとうにありがたい。病理医が一人しか勤務していない、いわゆる「ひとり病理医」の環境だったらこうはいかない。

一方で、メールの返事は確実に溜まる。共同研究の進捗を自分がストップさせていないか、新規の診断コンサルテーションが舞い込んでいないか、学生から講義の質問が来ていないか。出張中にもPCは持っていくけれど、たいていの時間はPCを開かず勉強したり相談したり気絶したりしているので、メールはとにかく、帰ってからだ。ちょっとお待たせすることになってしまうけれど……。

それくらいでいいのだろう。あまりメールに真剣にならなくていいのだろう。



「あまりメールに真剣にならなくていい」はここ1年くらいの自戒である。よく自分に言い聞かせている。もともとぼくはメールに真剣に向き合うほうだ。それはおそらく過剰なレベルだ、ということが近頃よくわかってきた。

ふだん自分の信頼できる人とばかりやりとりしていると、たまにしかやりとりしない人たちのメールの「雑さ」にひっくり返りそうになる。題名無し、本文無しのGmailにパワポのプレゼンだけを貼り付けて「見ておいてくれ」と電話をかけてくるドクターがいたかと思えば、期限ギリギリの案件について「至急お返事ください」とメールしてくるくせにこちらが返信するとそれに対する反応は必ず1週間遅れるディレクターもいる。フォントのサイズがおかしい。敬語を含めた日本語がへん。返信機能を使わずに毎回「新規作成」でメールを寄越すのでそれまでの話とのつながりがわからない。半年以上前の案件を前提無しで語り始めるので、しばらく検索をしないとこの人がなんの仕事について言っているのかわからない、などなど。

ビジネスマナーの浸透率の低さ? いや、もっと根本的な、「相手がこれを読んだら何をどれくらい考えるだろうか」ということに対して想像というリソースをあまり割いていないということ。

しかし、逆に、ぼくがそういうのを気にしすぎなのだ、ということを今は思うようになった。失礼な、要領を得ない、一方的なメールをしてくる人はみな、それぞれの世界できちんと働いていて、特にコミュニケーションの齟齬も生じずにやりくりしている。となれば、ひとり怒っているぼくだけが過剰だということになる。

早くレスポンスすることこそ社会人のたしなみだ、とか、なるべく見やすい日本語で簡潔かつ丁寧に用件のみを書くべし、といった、メールマナーをずっと気にしてきた。そこまで真剣にやる必要はなかった気がする。ちょっと神経症っぽかったなと思う。



いろいろと荷を降ろすタイプのことをやっている毎日だ。今とくに気を遣っているのが「メールに真剣になりすぎないこと」である。ぼくはもっと返事が遅くていい。のんびり仕事をしている人たちにいちいちキレ散らかす必要もない。雑でいい。失礼なくらいが長持ちする。そろそろ「わかる」べきなのだ。このブログを書いている最中に届いたメール2通、すかさず返信を送って、また何ごともないようにブログの画面に戻っているだけど、ほんと、そういうことしなくていいのだと思う。その証拠に、ほら、みんなこんなに雑に接してくるではないか。ニコニコとした顔で。

2023年11月15日水曜日

病理の話(837) 臓器のやわらかさ

臓器ごとの硬さについて。突然ですが。


胃はふにゃふにゃです。やわらかーい。よく動く。ただし、引っ張る力にはすごく強い。また、人力でねじっても、ねじ切ることは不可能。これって結構しっかりした能力だと思う。たとえば木の枝って、引っ張ってちぎることはできないけど、ねじりながら曲げるとわりと簡単に折ることができるでしょう。たいていの物質には、力のかかる方向によって、強く耐えられる向きとそうでもない向きとがあるわけ。でも胃はどんな方向でもけっこう大丈夫。

胃の壁はたくさんの筋肉によって支えられている。平滑筋と言って、われわれが普段力こぶを出したり歩いたりするときに使っている骨格筋(横紋筋)とは違い、意志の力で動かすことができず、自律神経によって勝手に動く。この筋肉が、胃の短軸方向と長軸方向、それぞれに向かって二重に走っていて、強い胃の壁を作り出す。場所によってはさらに斜走筋と呼ばれる筋肉にも包まれて三重になっていたりもする。だから引っ張る力やねじる力にはとても強い。でもふにゃふにゃなんです。食べ物を混ぜるためによく動く。たいしたもんだよね。


肝臓という臓器がある。これはけっこう固い。中身がしっかり詰まっている。イメージでいうと……そうだな……イスに座った状態で、ふとももの上の部分をこぶしでトントンと叩いてみてほしい。それくらい硬い。張りがあって、はね返される感じ。

中には細胞がみっちり詰まっている。胃のように中に食べ物を通すわけではなく、肝細胞という名前の、機能する細胞が大量に入っているから、密で硬い。ただ実際のところ、肝細胞だけで構成されているわけではない。肝細胞の作った胆汁を通すためのダクト(胆管)が内部を走行しているし、腸管で吸収した栄養を加工するために肝細胞に運び入れるための別種のダクト(門脈)も走行しているし、心臓から酸素をたっぷり持った血液を運び入れるためのダクト(動脈)も走行していて、血液を排出するためのダクト(静脈)も走行している。つまりはダクトまみれなのだ。ただこのダクトは非常に細いネットワークを作っているので、臓器の硬さにはあんまり関係しない……気もする。しないってことはないんだろうな、と、今書いていて思った。



肺という臓器がある。肺は酸素を取り込んで二酸化炭素を排出する、有名な臓器だ。内部はスポンジのようになっていて、つまりはたくさんの空気をやりとりする必要があるからなのだけれど、硬さもわりとスポンジに近い。ただし、表面は胸膜とよばれる膜で覆われていて、こいつがある程度の弾力を発揮する。内部はフニャフニャなんだけど皮の部分がしっかりしている、というイメージだ。ちなみにタバコを吸いまくると、スポンジが穴だらけになり、表面の皮もボロボロになって、運が悪いと空気がもれて「気胸」と呼ばれる状態になってしまうことがある。必死で息を吸い込んでも肺の表面から空気がもれて、胸の中にたまってしまうから、肺をうまくふくらませることができなくなって呼吸困難に陥る。非常にやばい。肺はみんな大事にしてほしい。



腎臓という臓器がある。腎臓はなんだか……しっかりしている。テニスボールくらいの質感がある気がする。持って比べたことはないけれど。肝臓にも肺にも言えるが腎臓にも表面に膜がある。しかし腎臓の場合は肺とは違って中までみっちりだ。肝臓にも似ている。腎臓は、全身の血液を受け止めて濾過して、いらない成分を尿として体の外に排出する臓器であるが、この尿、排出中に「やっぱり出さない! 回収します!」みたいな調整をめちゃくちゃやっている。トキメキすぎてなかなかものが捨てられない状態であり、尿が尿細管と呼ばれるダクトの中を通過している間ずっと、「これは捨てる……やっぱり捨てない!」と、体の中と尿の中とで大事なものを往復させている。人体は腎臓の迷う気持ちをよくわかっていて(?)、ダクトをすごく長くして、すぐに膀胱の中に捨てさせないように迂回させる仕組みをつくっている。したがって腎臓の中には、肝臓よりもさらに、ダクトがめちゃくちゃいっぱい走っていて、それらのダクトがいちいち迂回をしている。ダクトがみっちり詰まった硬さは、肝細胞のような「水風船のように、ひとつひとつがそれなりに硬い細胞がみっちり詰まっている」のとはまたちょっと違ったニュアンスの硬さになる。


脳はやわらかい。思った以上にやわらかい。えっこれこぼれるんじゃない? ってハラハラするような感じだ。さすが全方位を頭蓋骨に囲まれてぬくぬく過ごしてきた臓器だけある。余計な混ぜ物があまり入っていない。血流は通っているし、神経細胞やグリア細胞といった各種の細胞もいっぱいあるはずなのだけれど、これらは押しくらまんじゅうをするでもなく、ひたすらSNSよろしくコミュニケーションをしていて、間質と呼ばれるスペースには線維もなにもなくてスカスカしている。ちなみに脊髄も同じくらいやわらかいのだが、脊髄が基本的に有髄線維といって、線維のまわりを髄鞘という膜に包まれているのに対し、脳の場合は全部の神経が膜に包まれているわけではないので、その分やわらかく感じる(場所によるが)。


これらをお伝えしたところでみなさんのこれからの暮らしに役に立つことは何もない気がする……。まあいいか。病理学っていつどこでどんな知識と結びつくかわからないしな。いいってことにしとこう。

2023年11月14日火曜日

11月6日のツイートのまとめ

久々に会った友人と酒を飲んで、ふだんと違う言葉が自分の口から出てきたのが良かった。ずいぶんと長いこと、誰に対しても同じことを話していたような気がするが、最近たまに、相手と自分との間で苗木を育てるような会話ができるようになった。ただ、途中で酔いに負けてしまう。


先日のお店は空いていてよかったが、店の大将が差別的な言動をするタイプの人で、私も友人もその攻撃の対象にはならないのだけれど、そういう問題ではなく、友人が傷ついていなければいいが、と気がかりであった。いい飲み屋が探せないことが悩みだ。3年半でいい飲み方がわからなくなった。


自分はだらしなく酔う。相手が何かに傷ついたのではないかということを必要以上に、余計なお世話的に気にしてしまうだらしなさ。本当はそんなことまで気にしなくていいが、酔いが進むと気になってしまう。だから、相手が極力傷つかない場所を選ばないと、対話の苗を育てることに集中できなくなる。


この10年を振り返って、自分が本当に楽しく飲めたのはいつでも、「誰かが取ってくれた店」だった。自分が用意した場が相手をなんらかの形で傷つけることを怖れているし、相手が用意した場ならどんなところであっても傷つかない。そう信じてきた。そうやってだらだらと傷を増やしてきた。


本屋をやりたいとは思わないのか、とたずねられて、昔は飲み屋をやりたかった、と答えた。その二つは何が違うのだろうと考えた。人は本屋で救われるわけではなく、本で救われる。人は酒場で救われるが酒で救われるわけではない。その両者は違う。ぼくは場を過剰に怖れているのだと思った。


今日のぼくは、「居場所が大事」という論を展開したいわけではない。そうではなく、もっと軽薄にとらえていい一時的な居場所(例:飲み屋)に自分の心が大きく動かされてしまうこと、過剰な怖れ、これは今のぼくの抱えた病理なのではないか、ということを考えている。


なお、「場を異常に怖れること」の奥には、ほんとうは相手を傷つけるのは場所からのストレスなどではなく、対話の相手であるぼく自身の言動なのではないかという、圧倒的な恐怖がたぶん潜んでいるのだが、これを怖れるのは病理的ではなく生理的だと思うので、そこは残酷だけれどあまり気にしていない。


おもしろいなーこんなところに着地するのか、今日のぼくは、と思って連続ツイートを眺めている。ひとりで対話し、新たな苗を育てた。


ぼくはツイッターがいろいろ変わったことにわりと傷ついて、思った以上にしんどくなっているのだと思う。自分のツイートがどう転がっていくのかなというのを眺めながら、突然そんなことを思った。場のことばかり考えている。大事なのは場ではないのだが。


2023年11月13日月曜日

病理の話(836) がんはがんでもどんながんか

病理医の仕事の多くは「がん」と関係がある。患者の体にカタマリらしきものが見つかったときに、そこから細胞を採取してきて、顕微鏡で見て確かにがんだと確定するというのは、病理医にしかできないエグい仕事だ。

ただし、「がんかがんじゃないか」以外にも、けっこうやることがある。この仕事は二択とか三択で答えを選ぶようなものではない。

たとえば、がんだとすでにわかっている人の「ステージング」(病期分類)。あるいは、「がんはがんでもどんながんなのか」を決める、組織型の細分類。

治療法を決める上で、「どんながん?」を探っていくことはとても重要だ。

一例をあげる。同じ肺癌といっても、ステージIとステージIIIでは手術の仕方も抗がん剤の使い方も違う。さらに、同じステージIIIの肺癌であったとしても、組織型が違うと(例:腺癌、扁平上皮癌、小細胞癌)効きのいい抗がん剤は違う。さらにさらに、同じステージIIIの肺の腺癌だったとしても、遺伝子検査の結果によって抗がん剤を細かく使い分けるのが令和5年現在のスタンダードな治療法なのである。

50年前はこうではなかった。20年前も違ったと思う。ていうかこの10年でけっこう変わった。はっきりいって昨年と比べても今年の方がさらに細かいことをやっている。

病気を「どこまで調べるか」は、基本的に時代を経ると必ず深く、細かくなる。ただし、何でもかんでも検査をしてもだめだ。「治療の効きやすさに直結する検査」だけを選び取るために、たくさんの臨床試験が組まれ、その結果が次から次へと日常の診療に反映されていく。

それらをすべて拾い上げて、細胞を見たり検査に回したりするのが病理医の役目である。「がんか、がんじゃないか」に使っている時間よりも、「どのようながんか」に費やす時間のほうが長くなることが多い。

そして、今のぼくの場合、これはある程度年を取ったからというのもあるのだけれど、実際に診断をしている時間よりも、「最新の診断をするために勉強をする時間」のほうが少しずつ長くなりつつある。キャリアを積むことで診断の速度はどんどん早くなるのだが、病気と向き合っている(調べたり考えたりしている)時間はむしろ長くなっている。

ちなみに、勉強のためにウェブや書籍を検索するのにかかる時間は、経験を重ねるとどんどん早くなる。少しずつ勉強が得意になっていくということだ。しかも最近はAIがサポートしてくれているから、昔よりもはるかに的確な情報にすばやくアクセスできる……はずなのだけれど、それでも勉強の時間は延びる一方だ。

うーむ。そういうものなのかな。そういうものなんだろうな。便利になればなるだけ、やることが増えていくのが病理医という……人間の仕事というものなのかもしれない。

2023年11月10日金曜日

アイマイタイムマシン

鼻水だけが軽く出る状態が1日続いた。


ワクチンを打ったせいで異様に軽症になったコロナだったらいやだなと思って検査をした。

コロナ陰性、インフル陰性、つまりは「ただの風邪」。

まあ、検査も完璧ではない。検出感度以下のコロナかもしれない。しかし体調がそこまで悪くはないし、むりにコロナと「みなす」よりも、コロナじゃない風邪と考えたほうが現在の有病率的には合理的だろう。

それにぼくはデスクで基本的にあまり人と接さなくてもいい職業人だ。出勤停止まではしなくてよい。以前にとある偉い人から、「君の場合はコロナにかかっても、日中休んで夜中に、誰もいない時間に自分のデスクから動かずに働いてもたぶん大丈夫だよ」と言われたことがある。やなこった。休ませてくれ。

しかし休みはない。いつものようにマスクして、あまり人と会話せずもくもくと働く。そもそもずっとマスクしているのにどこでウイルスをもらったのだろう。マスクとて完璧ではないし、たぶん近頃妙に増えた出張の移動中とかそのへんだろう。職場に風邪を引いている人がいないわけではないがくり返すけれどあまり接点がないからな。

薬を飲むか、飲まないか。

仕事を減らすか、減らさないか。

判断が次々とやってくる。そのどれもがどこかすこし他人事で、心が多少、自分の体から浮いたように感じられる。どうでもいいな、と感じたり、どっちでもいいな、とあきらめたりしている。

これも症状なのかもしれない。これほど適当になっていること自体も症状なのかもしれない。

外に何かを放出し、外から何かを受け取ったりするためのエネルギーが、脳によって自動的に節約されているような気がする。そのぶん、体内でウイルスを駆逐するために用いているのだろう。

人体というのはよくできている。

よくできていてなお、風邪をひくこともあるのだから、ウイルスというのもまたたいしたものだなと思う。


このブログをいつ公開するかを悩んでいる。基本的にブログの文章は1週間以上前に書いておくのだけれど、ふと思ったこと、この記事を仕込んで「来週」公開したら、あとから振り返ってあのときお前は体調悪かったのかよ、と怒られる可能性がなくもない。これだけ人に会わないように気を遣っていても、後日ふりかえるとたぶんそのへんはなんだかうやむやになって、怒られが発生する可能性もある。従ってこのブログの公開は少なくとも3か月以上あとにしようと思う。公開されたときに一番おどろくのはぼくだろうな。「これいつの記事だよ……」となっていたらちょっとおもしろいな。未来のぼくへ。その元気さ、たいせつにしてください。失ってはじめてわかるぞ。

2023年11月9日木曜日

病理の話(835) 持ち込み企画で医学書をつくる

ある医者に相談を受けて、これから一冊の医学書を作る過程に立ち会うことになった。編集にも執筆にもタッチしない予定であり、できあがった本にぼくの名前がクレジットされることはないが、ひとつの専門書が編み上げられていくさまをいちから見ることができる。そのような縁をもらえたことがうれしい。著者のことはずっと尊敬しているので、本が世に出たら真っ先に読みたいと思っていたから、願ってもないことだ。第一番目の読者になれる。

制作のきっかけは、ある医者が「これまで培ってきた臨床技術を書籍にして世に出したい」とまず願ったことだ。著者の思いファーストである。

著者からスタート=出版社が決まっていないということでもある。

出版社が「こういう専門書のニーズがあるから作ろう」とか、「この医者は前におもしろい本を作っていたからうちでも作ってもらおう」といったように、企画を立ち上げてから執筆適任者を探すパターンもあるが(多いが)、今回はそういうわけではない。

まず、編集者を医者と引き合わせることからはじめる。幸いうまくマッチングでき、すぐにオンライン会議の場がもうけられた。



第一回会議では、医者が思い浮かべる「だいたいこんな本を作りたい」というイメージを、編集者に説明する。マンガの「持ち込み」を想像すると近いかもしれない。医学書の持ち込み企画だ。

マンガの場合は編集者に「わかりにくいですね」と言われたらダメ出しになるのだろうけれど、医学書の場合は「編集者がわからない」ことは必ずしも本の価値を落とさない。専門家が用意したコンテンツを編集者がすべてわかる必要はない。

医療系の編集者は「わかりやすさ」や「表現方法のすばらしさ」を見るのではなく、もっと違うところを見ている。それは「どこに刺さるか」、すなわち、どの層にどれだけの深さで読んでもらえるかという、よりオーダーメードな感覚だと思う。

本を作る以上、たくさん売りたいのは当然だ。しかし「何冊売ることがその本にとっての成功になるのか」の基準は、思ったよりも複雑だ。

そもそも専門性の高い本はあんまり売れない。その情報を必要とする人の数が圧倒的に少ないからだ。ちょっとしか売れない分、単価はどうしても高くなる。1冊の値段が30000円を超えるものもいっぱいある。

ぼくが毎日のように使っている消化管病理学の教科書、「Fenoglio-Preiser's Gastrointestinal Pathology」は、定価が63000円だ。これほど専門性の高い本を買う必要がある病理医は日本には100人いないだろうと思う(ほぼ全員の顔がわかる)が、必要ではなく興味で買う病理医もいるだろうし、大学の病理学講座や図書館などにも入荷するだろうから、なんだかんだで300冊くらいは売れているだろう(予想)。ちなみに今日確認したところ、なぜかAmazonで40%オフくらいになっていたので、興味がある人は買ってみたらいい。

このように、医学書には、「2000人しか専門家の存在しない領域で、50000円の本を500人が買ってくれたらベストセラー」みたいな感覚がある。

とはいえ、専門性が高いから値段を上げましょう、少部数を売り切れば収支はOK、販売成功です、という考え方だけで業界が成り立っているわけではない。

たとえば、最近の医療系出版社はよく、「マンガ的な医学書」を出す。

マンガ的というのは、決してネガティブな意味で使っているわけではない。マンガのように、「多数の人に読まれなければ打ちきられて/本が出なくて当たり前というプレッシャーを乗り越えて表現を追究する姿勢」を盛り込むということだ。

マンガ的な医学書には、理解を助けるためのさまざまな仕掛けがほどこされる。文字通りマンガを挿入したり、指導医(オーベン)と研修医(ネーベン)との掛け合いトークを収録したり、Q&Aコーナーをもうけたりする。「いかに簡単にわかりやすく読めるか」を追究し、医学書以外のさまざまなコンテンツ・エンタメの手法を取り入れる。

そして、なるべく「多数の人」に手に取ってもらい、その分単価を抑える。「多数の人」というのは誰か? それは基本的に「若者たち」だ。専門家になる前の人たち。学生や研修医、専攻医などの若者は、まだ自分の専門性を獲得していなくて、どの領域も広く浅く勉強する。だからいろいろな領域の本を読んでくれる。

超絶カルトな専門性ばかりだと若い人には興味を持ってもらえない。しかし子供だましの初心者向けコラムばかり揃えてもだめだ。そんなものはネットに無料でいくらでも落ちている。「この領域の専門を極めてみたい」という、関心と感心と向上心を喚起するものでなければいけない。単にカンタンに書けばいいというわけでもない。

さらに言えば、若い医療者はほとんどが「職業訓練」の真っ最中である。手技や処置を身につける時期を過ごしている。となると「本を使って勉強する」ことの優先順位が低い。本を読む時間がとれないからあまりたくさんは買わない。収入が少ないから高い本も買えない。

若い人たちを対象とするときはお得感が重要だ。研修の間、ずっと持ち運んで、辞書を引くように使いまくるマニュアル系だったら7000円でも買うかもしれない。しかしひとりの著者が物語るようなタイプの本だと、いかにレジェンド級の医師が書いていようと、5000円でも高く感じる。

看護師をはじめとする医師以外の医療スタッフも視野に入れるならば2800円以上では出せないだろう。

ともあれ。

著者が書きたい内容、書ける内容が、いったいどの層にどのように届けられるべきものなのかを、編集者は判断する必要がある。

そのために必要なのは、著者の脳内にだけ存在する「本のイメージ」を、編集者がきちんと共有するための作業だ。

いったいどうすれば、著者の思い描く理想の本のすがたを、編集者が的確に見抜くことができるのか。

有効なのはおそらく「仮の目次を作る」ことだと思う。

どういう項目を網羅すべきか、どのような順番で語るのがいいか、何を書くか/何を省くか(ここは本当に専門家でなければ全くわからないことだ)、そういったものを、著者が目次のかたちで示せることが大前提であろう。

というわけで、第二回会議までに、著者が「仮の目次」を作ることになった。ついでに誌面イメージとしての「仮原稿」も書いて頂く。これまで著者があちこちで行ってきた講演や著作なども提出してもらう。

こうして、著者と編集者のイメージを揃える。二人三脚で足をしっかり結わえ付けるところから始める。




もっとも、医療系の編集者にはいろんなタイプがいる。

売れる・売れない・二の次で・かっこのよろしい・本ばつくり・読んでもらえば・万々歳・そんなアタシは・かぶきもの・人呼んで・ナンバーガールと発しやす

みたいなタイプの編集者がけっこういる。

そういう人に当たると、医学書の執筆はとっっっっってもたのしいし、できあがった本は結局そんなには売れない(経験談?)。

2023年11月8日水曜日

時間をかけてむせる

夜中にノドが腫れていて目が覚める。きた……コロナだ……と思って絶望し、ひとまずノドの痛みをなんとかするために体を起こして水を飲みに行く。ごくん。痛い。鼻の奥あたり。ごくん。絶望をたしかめるようにもう一口水を飲む。鼻の奥から何かがぽろりと外れる感覚があった。のどにひっかかりそうになるそれをうまく留めて口の中にはこび、指で取り出すとサカナのホネなので仰天した。昨晩の遅い晩飯のときに何かがひっかかってむせた後、どうもノドの上のあたりがごそごそするなあと思っていたのだが、ビールを飲んでそのまま失神するように眠ってしまったけれど、あれがつまりホネだったのだ。気管に入って急激にむせるというのはたまに経験するけれども、ノドの上で鼻のほうに逆流したまま留まって「慢性的にむせる」というのははじめての経験だ。ホネがささったままだったから腫れてきたのだろう。炎症の古典的四徴は発赤、腫脹、疼痛、熱感、これに機能障害を加えて炎症の五徴候。今のぼくのノド、鼻の奥の部分は、おそらく赤く腫れ上がっていて熱を持ち、痛くてのみこみづらさが発生しているから完璧に炎症である。小さな痛み止めを一錠飲んで寝なおす。抗炎症する。3時間ほど追加で寝て、朝起きてもまだノドは痛い。あれ、ホネ拾得は夢だったのか、やはりこれはコロナなのか、と不安になりながら出かける支度をしているうちに、ノドはだんだんよくなってきた。熱も上がらない。首をひねりながら出勤をして、昨晩帰りがけにドカドカ積み上がった次の仕事の山を見ているときに、猛然と疲れが吹き出してきた。ノドの痛みはすっかりよくなったけれど全身がだるくて重くなった。しかしこれはコロナではなく疲労のせいだろうと思う。疲労の理由は睡眠を途中で寸断されたからか? いろんな意味でどたばたしたからか? どちらでもない、そもそも疲れていたからこそノドのホネをなんとかすることもせずに就寝してしまったのだ、因果が逆である。そういったことを数秒かけて考えてさらに疲れた。SNSにぐったりしたことを書き込むと、猛然と返信が付いてそれでまたどっと疲れる。昔からふしぎだったのだが、疲れてしんどい人にメッセージを送る人というのは、「メッセージを読んでそれに返事をするしんどさ」に思いを馳せたことがないのだろうか、それとも思いを馳せてもなお自分の気持ちを伝えることがコミュニケーションだと信じて疑わないのだろうか。ぼくの数少ないネット上の友人たちはみな、ぼくがつらそうにしているときには話しかけてこない。エアリプもしない。代わりに、丁寧に関係のない話題を、少しだけ気持ちが明るくなるような話題を選んで、決して直接話しかけることなく「余力があって気が向いたらこの辺のコンテンツを摂取すれば少しラクになるかもしれないけれどまあ気がついたらでいいし気にしなくていいよ」といったムーブでタイムラインになんらかの花をそえてそれっきり去って行く。それをできる人とだけ付き合いたいものだと思い続けた結果、友だちは増えなかった。人はもっと、無遠慮で不格好なままコミュニケーションしていい生き物で、無節操かつ無鉄砲に友人関係を広げていいはずなのに、ぼくは人間同士の関係にこうあるべきという「べき論」を持ち込みすぎて、そうやって自分の内臓を過剰に守り続けてきた結果、自己炎症的にさいなまれる日がたまに訪れる。

2023年11月7日火曜日

病理の話(834) 天気予報くらいにね

肝細胞癌、という病気がある。肝臓にカタマリができてそれがだんだん大きくなっていく。

治療法はいくつかあるが、昔から「手術」がよく行われる。病気のカタマリをまるごと体から取り除いてしまえば治る、という発想は、きわめてシンプルでわかりやすい。

ただし、カタマリの部分だけを丁寧にくり抜けばいいかというとそうではない。どうしても、「正常の肝臓」もいっしょに切り取ってくる必要がある。

肝細胞癌に限らず、「がん」は周囲にしみこんでいく能力を持っている。ぱっと見た判断で「ここまでがカタマリだな」と思ってくり抜いても、ミクロの世界ではもう少しカタマリより遠いところまで癌細胞が達していたりするのだ。癌細胞は1個でも体の中に残っているとそこから細胞分裂をくり返して再発する。

そこで、カタマリのある部分プラスアルファを取り除くやり方をとる。「えっ、がんのサイズはこれだけなのに、こんなに肝臓取っちゃうんですか? もったいない……」。いやまあもったいないのもそうなのだが、肝臓だってはたらく臓器なのだから、あまり取りすぎるとかえって健康を害する。だからバランス感覚がむずかしい。

どれくらい正常の肝臓をいっしょに取るか。「のりしろ」部分を確保する、みたいな感覚だとラクなのだが、そういうわけにもいかない事情がある。

たとえば、カタマリの横に「水道管やガス管」のような管が通っていたとする(たとえばなしだが実際に肝臓の中にはたくさんの管が通っている」。それらをカタマリといっしょに取ってしまうと何が起こるか? カタマリより下流にある領域に、水やガスが供給できなくなるのである。すると、カタマリより下流の肝臓はへたって死んでしまう。死なないまでも、「正常の臓器」としての働きがこなせなくなって、結局、体の中に残した意味がなくなる。

したがって、カタマリを取るときには、その近くを通過している管の走行をきちんと解析して、「手術で取らざるをえない管」があるときにはその下流の領域もいっしょに取ってしまう。「区域切除」などと呼ばれる。

このへんで、ヤダーだんだん大事になるじゃない、とおびえる人も出てくる。しかし現実だ。がんのカタマリが大きくなるとそれだけ切り取らなければいけない肝臓の領域もでかくなる。「右葉切除」といって、肝臓の右側の2/3くらいをごっそり切り取ってくる手術もたまに行われる。こんなに肝臓を取ってしまって大丈夫なのだろうかと心配になるが、「残りの肝臓だけでも生きていけるかどうか」(肝予備能検査という)をかなり細かく検査してから手術に臨む。


今のは肝臓を例にあげたが、ほかの多くの臓器のがんに対しても言えることだ。肺がんの治療で肺をどれくらい切り取るかだって切実な問題だ。胃でも大腸でも同じ。

「少しでも正常なところを多く体の中に残しつつ、カタマリをきれいに取り除く絶妙のバランス」をいつも探っている。

キーとなるのは、手術前に撮影・撮像したCTやMRIなどの画像だ。

これでカタマリが正確に描写されていると、切り取る範囲も細かく設定することができる。

「この病気、ぜんっぜん周りにしみこんでないっぽいぞ!」とわかれば、カタマリぎりぎりをくり抜くような手術ができることもある。

でも、CTやMRIの解像度ではどうしても、ミクロのレベルで癌細胞が周囲にしみこんでいるかどうかはわからない。

そこで病理診断が重要となる。顕微鏡を使った検査の解像度は最強だ。ミクロはまかせてほしい!



ただし……ひとつ問題がある。

「カタマリを絶妙にきりとるために、ミクロの情報がほしい」のだけれど、病理診断が行われるのは「カタマリが切り取られた後」だ。病気の正確な範囲が先にわかれば切り取る範囲を決められるが、すでに切ってしまったものを見て、「あっ、周りにしみ込んでませんでしたね。残念だなあ、あんなに大きく取らなくてもよかったのに」なんて後から言われたって、それこそ「手遅れ」である。

この、順番のジレンマを克服するために、我々医療者たちは、長くいろいろと考えてきた。その結果、こういう結論に達している。


CTやMRIなどが「これこれこのように」見えるときは、あとで顕微鏡を見ると、がん細胞がだいたいこんな感じでまわりに散らばっている「ことが多い」。


すなわち、CTやMRIなどの画像と、病理で見るミクロの風景とをいくつもいくつも照らし合わせて、「統計」を行い、画像で得られる情報からミクロを予測するのである。病理診断というのは単独で用いると若干の手遅れ感がある。しかし、データを積み重ねると未来予測への強力なツールとなるのだ。あたかも、過去の膨大な気象データを蓄積して、数日以内の予報ならばほぼはずさなくなった天気予報のようである。


※病理診断のすべてが手遅れだということはない。たとえば抗がん剤の効き目を予測するように、「先に細胞を採って、そのようすを見てから治療の選択を行う」といった、治療に先んじて行うタイプの病理診断もあるからだ。でもまあ今日はその話ではないのだ。


病理診断をする前に、「ミクロではきっとこうなっているはず」と予測する。その予測が当たっていたかどうかを顕微鏡で確認して、精度を高めて、次の患者のためにまた用いる。そのくり返しが、現在の手術の奏功率にかなりかかわっていると言っていいだろう。

病理診断はしばしば「答え合わせ」と言われる。多くの臨床医もそのように考えているふしがある。しかし、実際にその部門を担当している病理医からみると、われわれは単独で「答え」を自認すべき部門ではない。ほかの検査データとの照合をくり返して、医療全体の最適解を調整していく部門が、「俺たちが唯一解だ!」とえらそうにしているというのは、ぼくはちょっと、違うと思う。

2023年11月6日月曜日

冬の使者

関連病院の仕事で俱知安に向かった。小樽方面に向かう高速道路に乗り、後志道に向けて左折してしばらく進んでいくと、目の前にもやがかかったように白いつぶつぶが出現する。雪虫だ。雪虫であった。雪虫はアブラムシの一種で、白い綿毛のような体毛を持つのと、その年の初雪の1週間くらい前に飛び交うことが多いという噂(たぶん噂でしかない)によって二重の意味で「雪の虫」として道民に広く知られている。今年は雪虫の出方が異常だという話は耳にしてはいた。「蚊柱」を極太にしたような……いや、そんな生やさしいものではなかった。高速道路の向こう側、山の際に夕陽が落ちていくにあたって、山の輪郭がぼうっと白く光っている、それがみんな雪虫なのだ。杉花粉が飛び散るときの資料映像のように、山全体がオーラのように白い蒸気を吹き上げている、それがみんな雪虫なのでぼうぜんとしてしまう。遠方に折り重なる山々すべてに白いカバーがかかっている。ぼくは車のエアコン送風口から雪虫が出てくるのではないかと思って怖くなった。外気取り入れを内部循環に切り替える。コートの中で汗をかく。窓が曇らなければいいがと心配になる。もし今窓を開けたらヒッチコックでもカメラを止めるだろう。沢木惣右衛門直保の見ている風景もこんなものなのだろうか。冬タイヤは雪にすべらないためのものだが、雪虫を大量に踏み潰しても果たして滑らないでいられるのだろうか。

高速を降りて余市・仁木のフルーツ街道に入ると雪虫はいなくなった。大きめのため息をついてウインドウォッシャーを窓に吹き付ける。トラクターをよけながら走って俱知安市街に到着し、コンビニによってコーヒーを買って一気に飲み干す。スマホをひらくと「雪虫大発生」とあり、そうか、やはりニュースになるほどのことか、と思って見に行く。しかし雪虫が発生しているのは札幌市の話で、ぼくが今通ってきた小樽の奥の山については特に触れられていなかった。あの風景を書いておかなければ、なかったことになる。それもまた怖い。札幌に戻ったらブログに書こうと心に決め、実際に今、こうして書いている。自然に対するおそれのような気持ちを、もう8割方忘れていて、PCの前でぽつねんと疲労をなでている。

2023年11月2日木曜日

病理の話(833) 命の果てから振り返る

病理解剖という手技がある。病気で亡くなった患者を解剖するのだ。手足をばらばらにしたりはしない。基本的には内臓の病気であることがほとんどだから、手足や顔には手をつけず、あとで服を着せたときにキズが見えないような場所にメスをいれて、胸やお腹の中にある臓器をとりはずして外に出し、必要な部分をホルマリン固定する。解剖が終わった後のご遺体は外から見るととくになんの代わりもないように見える。そのようにするのが技術だ。遺体にシャワーをかけてきれいに拭いたあと、「おくりびと」的な業者さんにお願いして、顔や髪をきれいに整えていただき、清潔な服を着せてお返しする。その後、ぼくらはおあずかりした臓器を丁寧にみる。


体の全部でないとはいえ、臓器はたくさんあるので検索もたいへんだ。心臓、肺、胃腸に肝臓、膵臓、脾臓、腎臓、副腎、精巣や卵巣・子宮、膀胱、甲状腺……。解剖の目的にもよるが、ときには脊髄をはずしたり脳を取り出したりすることもある。大動脈のような血管を見ることも忘れてはいけない。これらの重さをはかり、外から見て、ナイフで割を入れてその切り口を見て、写真を撮ってあとからまた見直せるようにしておく。


ホルマリンに入れれば臓器はずっと固定した状態にできるが、ホルマリンがしみわたるのに時間がかかることに注意しないと、中までうまくホルマリンがしみなくて内部がしおれてしまったりすることがある。また、中までしっかりホルマリンを浸透させたとして、そこから72時間以上ほうっておくと、今度は細胞内のRNAやDNAが壊れてなくなってしまって、研究的手技を使うことに支障が出るから、ホルマリンに漬けたからといっていつまでも放置しておいていいものではない。どうするか? 切り出してプレパラートにする必要があるのである。


プレパラートにするといったってどこもかしこもというわけにはいかない。標本を作るにもそれを見るにも時間と手間がかかるからだ。もちろん、病気の正体を見極めるにあたって必要な手間なら惜しまない。しかし、効率も考えなければ、同時に複数の人びとの診断をすることはできない。病理医はシステムに組み込まれており、流れ作業の流れを止めてしまっては多くの人たちに迷惑がかかる。自分の興味だけのために調べるならば解剖に無限の時間をかけてもいい。でも、医療とは、他人と自分との間に立ち上がる「何か」のために施すものであり、間を満たすためには時間もお金もきちんとバランスをとらないといけない。


どこをプレパラートにするか? もちろん、病気のありかをプレパラートにするのが一番いい。ただし、病気を体現するような場所のど真ん中をドンピシャでプレパラートにすればいいというものでもない。プレパラートの中に病気の細胞だけがあると、正常との「比較」ができないからだ。病気にある程度の「範囲」があるもの、たとえばがんのような「カタマリ」を作る病気ならば、そのカタマリのど真ん中を作ってもいいが、縁辺の部分、はしっこ、境界部分にこそ診断の真髄が潜んでいたりする。


ある病気にかかった患者がなくなるとき、人体はたくさんの仕事を同時に行っている。腎臓が血液をきれいにし、肺が酸素をとりこみ、心臓がポンプとして血液を循環させ、肝臓では解毒が行われ……こういったプロセスが、いわゆる「末期」には同時多発的にこわれていく場合がある。でも「死んでるんだから壊れて当たり前だろう」とは限らない。ここはまだガマンしているな、とか、こっちは治療でだいぶ長持ちしたんだな、みたいなことを丹念に探っていく。そうすることが、その患者にほどこされた治療の「意味」を、あとから少しだけ足すことになる。


患者は、家族は、主治医ですらも、「解剖なんて手遅れだ」と考える場合がある。しかし、おそらくそうではない。過去は現在から見返したときに評価される。プロセスはふりかえってはじめてわかる。そういうことがある。手遅れなのではなく将棋でいうところの「感想戦」のような状態、それは、ほかでもない患者がこの世とコミュニケーションしつづけるにあたって、現世の側においていった「棋譜」を読む作業であり、私はそれに、意味が無いとか、手遅れだといった感情はあまり持たない。患者がたどりついた命の果てから来し方を振り返ることは患者のためでもあり、伴走していた我々の行く末の、改札を通るのに必要なチケットでもある。

2023年11月1日水曜日

他人のりくつはおことわり

秋のコロナワクチン接種で注射を射った左肩が少し痛い。熱も出ず体調も悪くなっていないことに、感謝したほうがいいだろう。運がよいのだ。ありがたみを噛みしめる。なぜぼくはコロナワクチンの副反応がいつも軽くてすむのか。膨大な量のメカニズムが背景にあることは間違いない。しかしすべてを解説することは必ずできない。理はある、しかし理で語れないことのほうが多い。

一理ある。一理しかない。そんな話ばかり。厭世のことわりは尽きまじ。理不尽という。先日、ある障害を書いた本を読んで猛然と書評をしたためた。おそらく2キロくらい痩せたのではないかという読書であった。ちなみに2キロは水分だけで変動しうる誤差ではあるが、平均で2キロやせられたのならそれはきっとぼくの中にうごめいていた理不尽の魔物がカロリーを代わりに食ったのだと思う。

病気は必ず治せるとは限らない。治療は必ずうまくいくとは限らない。そもそも治療があるとは限らない。何か変わったままやっていかなければいけない。効くと思っていて効かない。良かれと思ったけれど逆効果。あきらめたはずが停滞。終わると思っていたものが継続。すべてに一理ずつあり一理までしかない。理不尽に殴られて涙する人たちが戦車に乗ってやってくる。私たちは一理でしか戦えない。そもそも戦ってはいけないのではないか。理をもって戦うことの理不尽を思う。

台湾で開催される研究会の誘いを釧路出張があると言って断った。献本したいと書いたメールにすぐさまAmazonで購入した画面のスクショを貼って送った。この記事を書いている今日、40分後には、ぼくは自分の車で出張に出る。途中、タイヤをスタッドレスに変えなければ危なそうなので少し早めに出るのだ。ほんとうは電車で行けばいい。1泊して明日の朝、ゆっくり電車で帰ってくればいい。職場の都合なのだからそれでいいはずなのだがぼくは今から自分で運転して出張に行くし、明日は4時に起きて車に乗って帰ってきていつも通りの時間に出勤する。一理ある。一理しかない。なぜそうするのですか、という言葉に対して、理でこたえることは不可能だ。なのになぜぼくらは、すぐ、人を理詰めで説得しようと思ってしまうのか。そこにもきっと一理あり、ひとつの理くらいしかない。

2023年10月31日火曜日

病理の話(832) 一緒になって怒りたかったけど

ある研究会に出ていた。その会の代表をつとめる画像診断の達人が、ちょっとした日常の愚痴を言う。


「先生に言ってもどうにもならんのですが、うちの病理はなんかなー、信頼できん」


それはたしかにぼくに言われても困るなと思いつつ、あれ、そこの病理、けっこういい人だったけどなあと思い返しながら続きを聞く。


「一番偉い○○先生だけなんですよまともに話してくれるの。下がだめだ。ぜんぜん聞いてくれん」


あーうーんそれはわからんけどやっぱコミュニケーションだよな、診断とか研究の実力以前にこういう、「臨床医とのコミュニケーション」がうまくいってないと、病理診断ってのはほんとずれていくからなあ。たぶん信頼の積み重ねに失敗してるんだろうなあ。


「ちょっと聞いてくださいよ、そいつ、ぼくらの学会の仕事の手伝い頼んでも、偉そうにそんなのできませんとか言ってくるんですけどね」


ふむ


「まあそういう偉そうなのは百歩ゆずってしょうがないにしてもね、こないだね、こんなことがあったんですよ」


ふむ


「出てきた病理診断を見てね、こっちから、『いやいやこの人はそんな臨床経過じゃないし、その病理診断はおかしいと思う、別のこの病気の可能性はないでしょうか』って言ったらね、『そんならもう一度見直してみます』とか言うんですよ。おかしいでしょう? 細胞見ていったん診断したものをね、こっちが違うんじゃないかって言ったら、見直して、それで違う診断になるって、それ病理診断の精度としておかしいんじゃないですか」


ああ、うーん、それは、うーん、確かに臨床医から見ればそういう気分になるんだろうけど、病理診断の本質的なことを考えると、いや、その病理医の言いたいこともわからなくはないんだよなあ。

そこまでの話は「はい」「ええ」「ひどいですね」「ダメ病理医ですね」とうなずきながら聞いていたぼくであったが、ここに至って、手のひらを返さざるを得ない。

「いえ先生、それについてはですね、あっいや、その病理医はなんとなくお話しをおうかがいする限りハズレの方かもしれないんですが、それはともかくとして、臨床医から情報を得ることで病理診断が変わるってのはわりとあるあるなんですよ」

「えっ……先生もそう思うの?」

「思いますね。すべての病理診断がそうだというわけではないんですが」



「……なんでさ 細胞見てるんでしょ。病気のそのものずばりを見てるんだから、こっちの情報なんかなくたって、確固たることを言えるのが病理診断のいいところなんじゃないの」

「うーん、そうですね、たとえば、皮膚疾患、膠原病、造血器系腫瘍なんてのは、病理診断が見ているのはあくまで病態の一部であったり、病気の原因そのものではなくて原因から導かれた結果のひとつだったりするんですよ」

「うん、ああまあそうか。検査学やな」

「あとは……そうですね、たとえばダイイングメッセージってあるじゃないですか」

「突然だな」

「はいすみません、ええと、ダイイングメッセージで、13って書いてあったとするじゃないですか」

「うん 13」

「でもその上下に、A と C が書いてあったら、これ13じゃなくて『B』の縦棒が離れただけじゃないか、っていうふうに解釈が変わるじゃないですか」

「ん? ああ ん? ああなるほど」

「細胞の形態って、読み方を変えることができるんですよ。好酸球がいっぱい出ているところにおかしなリンパ球が出ているとして、それはホジキン病かもしれないし反応性リンパ節炎かもしれないしIgG4関連疾患かもしれないしT細胞性リンパ腫かもしれない」

「おお、良性か悪性かすら決まらないってことか」

「それらは、病理だけで決めるのではなくて、臨床情報とあわせて決めるべきものなのです」

「なんだ思ったより病理って使いづらいんなあ」

「ええ、それはほんとそうで、だからこそ、『併せ技』とか『解釈』をうまく機能させるためには、病理医は臨床医ときちんとコミュニケーションとらないとだめなんで、結論としてはその病理医はだめですね」

「お、おう、いきなり結論が厳しいほう行ったけど、そしたら先生はもう少しこっちの言うこと聞いてくれるいい病理医ってことでいいね」

「いえそれは時と場合によりますけど」

「ケッ」




実際には、臨床医の話を聞けば聞くほどいい病理医かというと、そんなわけもないんだけど、まあ、なんか、仕事で付き合う程度には、仲良いほうがいいなとは思う。病理診断に限らず、医療は、誰か一人の豪腕でなんとかできるほど甘いものではないのだ。

2023年10月30日月曜日

イギェァアン大学でギャァアッラァビールを呑みながらウオオオ

「エールを送る」のエールって何語なんだろうと思って調べる。英語だった。Yellと書く。

日本ではもっぱら応援の意味で用いられるが、英語圏だと応援の声だけじゃなくて、歓声や悲鳴なども含まれるらしい。

もとを辿ると、古英語の「giellan」や古ノルド語の「gjalla」に由来する。鳴き声や叫び声を意味しているという。

Yellの字面だとあまりわからないけれど、giellanをローマ字読みすれば「ギェァアン」だし、gjallaに至っては「ギャァアッラァ」だ。たしかに応援というより悲鳴とかときの声とか、どっちかっていうと絶叫系だなということがよくわかる。

というわけで、エールを送るには大声でウオオオオとやるのが一番いいようだ。

なぜそんなことといきなり調べたのかというと看護学校の授業に端を発する。「実習が終わったのでエールをください」と感想欄に書いてあったのだ。エールを送るっていまどきの子も使うんだな、と思っておもしろかった。とはいえ学生たちはやはり、ぼくらの世代とは言葉のセンスが違うので毎日のように驚かされている。たとえば「やりらふぃー」って知ってる? パリピとかチャラい人たちのことを言うそうである。びっくりした。まったく字面から想像できない。それを言ったら、「エール」もわからなさという意味では似たようなものだけど。

先日読んだ本に、「わからない間はコミュニケーションが続く」と書いてあった。仲の良い時期をとうに過ぎてしまった夫婦が「はいはいわかったわかった。」みたいなあいづちを打つでしょ、付き合いたてのカップルだと逆に「あなたのことが知りたい(まだわからないから)」と言うでしょ、そういうことだよ、わからないほうが長続きするんだ、とあってハハァなるほどなーと思った。上手な考え方だなと思う。

最近、インターネットにはどうでもいい行動、害のある行動ばかりが目につくが、そんな中でいちおうみんなにも自分にもおすすめできる行動が「推し」である。「好きなものを応援する言葉をTLに流して、世の中に存在する推しへの愛の総量を増やすのだ」みたいなことを言われる。確かにその通りだ、どんどん推していこうと思ってぼくのSNSの使い方は少しずつ本などの推しを語る場になっている。ただし、その副作用というか副反応として、ぼくは最近、推したいコンテンツのことを「わかろう、わかろう」としすぎていなかったろうか。わかりたい、わかれるはずと、前のめりで知ろう知ろうとしすぎてこなかったろうか。

その点『ハンチバック』は違った。あれは「わかってたまるか」の本だ。読者がどの角度からにじりよっていったとしても、「このジャンルの詳細をお前がわかるわけないだろう」という拒絶の風圧でおしもどされてしまうような本。「わからないこと」と「断絶」を書き切った文学にぼくはひどく感動してしまったのだった。わかってたまるか、を忘れてはいけないのだと思う。わかりたいという感情と、何も矛盾しないままに、抱えていていいものなのだ。

2023年10月27日金曜日

病理の話(831) まわらないおすし屋さんの心

自分が得意にしている……とまでは言えないような、とある臓器の病理診断学についての講演を頼まれた。

こういうとき、ちょっと悩む。



病理診断学は臓器ごとにまるで違う。たとえば、食道と子宮頸部と皮膚にはすべて「扁平上皮癌」と呼ばれる病気が出現するが、同じ名前がついていても診断のやりかたは異なる。

「食道病理の専門家になったら、子宮の病理診断をしないほうがいい」という格言があるくらいだ。

どんな病理医にも、自分が得意とする臓器と、「やれと言われればプロとしてやるけど、まあ、そこまで得意とは言えない」臓器がある。

それは経験の差からくるものであったり、あるいは「好み」とか「クセ」によるものだったりする。あと、自分の勤めている病院で多く扱われているかどうか、すなわち「勤め先の偏り」にもよる。



このような病理の話にピンと来てもらうにあたって、イメージしていただきたいのは、「鮨」である。

たいていの鮨にはシャリがあってワサビがあって、いわゆる「おおわくの構造」では共通しているが、ネタが違えば味はべつものだ。

聞くところによると中トロとタコではワサビの量も違うらしい(そうなの?)。大将はネタに合わせて握り方を変えるという。

食道の病理診断と子宮の病理診断も、「顕微鏡を用いる」というシャリと、「細胞質や細胞核に着目する」というワサビは共通している。しかし握り方や味わいは別だ。

病理医は鮨職人。どのネタでもおいしく握るのが勤め。しかし、所在地や季節によって仕入れるネタが変わる。ネタに偏りがあれば当然、「得意な握り」の種類も異なる。

もちろん、素人から見れば、どんなネタを握ってもおいしく仕上げてくれるが、本人の中では、あるいは業界の中では、「やっぱあそこの大将のエンガワはうまい」とか、「あの鮨屋で光り物を食べると絶品だ」みたいな差がある。



鮨屋のたとえを出したところでふと思った。日常の病理診断を「にぎりずし」だとすると、研究領域で用いる病理学は「刺身」であり、臨床医などの前で講演する仕事は「ちらしずし」である。

なんだその例えは!

……と驚いたりおびえたりしなくていい。要は、同じオサカナを使った料理で、いずれも鮨屋で提供されるという共通点こそあれ、人様にサーブするときの勘所がまるで違うということだ。

病理診断は、ネタにあわせて一貫ずつ「パッケージとして完成された答えをスッと出す」ことに真髄がある。

研究はキレ味と鮮度と盛り付けだ。市場で仕入れる段階でかなり決まっていて、提供順序を間違うと客がピンとこない上に、切り口ひとつで味がだいぶ変わる。

講演には「全乗っけ感」がないと満足してもらえない。「お得感」も必要だ。そして見た目がお祭り的でなければ成立しない。ご家庭でつくる「なんちゃって海鮮丼」と鮨屋の「海鮮ちらし」は別ものだ。漬けの手間を惜しまず、お魚以外の食材をほどよく混ぜ、歯ごたえや弾力については「にぎり」とも「刺身」とも異なるバランスで出す。なにより、お腹がすいている人にしか出せない。



以上を踏まえた上で、冒頭の文章を書き足す。



自分が得意にしている……とまでは言えないような、とある臓器の病理診断学についての講演を頼まれた。

こういうとき、ちょっと悩む。

ぼくはこのネタを日頃からよく「にぎって」いる。自分の病院では何度も何度もにぎる機会がある。「刺身」でも出すことはあるが最近はもっぱら「にぎり」だ。しかし、「ちらしずしにしてほしい」という依頼が来た。このネタを「ちらし」にするのはあまりやったことがない。

こういうとき、ちょっと悩む。ちらしかあ……。仕込みが大変だなあ……。

2023年10月26日木曜日

やっぱりぼくは博士だから

ガッちゃんの鳴き声(?)に「クピポ」をあてた鳥山明は天才だ。ガッちゃんは文明が間違った方向に進んだ際にそのすべてを食い尽くして終了させるため、神が古代に派遣した天使だという設定を、アラレちゃんWikipedia的なもので読んだことがある。背景情報のボリュームがすごい。それほどでかいものを背負ったキャラクタに、「クピポ」「クピプ」しかしゃべらせないディスコミュニケーション性を付与した鳥山明に畏怖を覚える。

神と人とは語り合える余地があるのかもしれないが(たぶんないが)、天使と人とはおそらく語り合えない。神の善性を引き継ぎつつも神ほどの完全性がない天使は、神よりよっぽど怖い。天使に対する根源的な恐怖。たとえばギャルは気軽に神という単語を使うが、天使というフレーズはあまり使わない。そのあたりの抽象的なおそろしさをギャルもわかっているからだと思う。

「ギャル」という和製英語ひとつでヤマもオチももたらしてしまうことに罪悪感を覚える。神や天使を語ることに抵抗がないのにギャルを語るときだけ圧を感じる。神も天使もディスコミュニケーションの象徴であるが、ギャルはlessnessを前提としたコミュニケーション過剰状態の象徴であるから、無理もない。

ぼくはギャルよりシャッターを下ろしがちな人びとのほうに興味がある。

コミュニケーションにかんなをかけて削りおろしていくタイプの人の心性。

昔から怖かった、いまだにそこに惹かれている。一番興味があるのはそこだ。

誰かと協働してなにかをするという場面になったとたんに「めんどくさいの檻」の中にみずからを収監させるタイプの人。

発するばかりで受け取ろうとせず、誰もが目をそらした直後から何かを受け取り始めるタイプの人。



ギャルにオタクを対置させる技法が当たり前になりすぎてしまったせいか、ギャルと真逆の行動をする人たちのことが十把一絡げに「オタクっぽい人でしょ」と語られるようになってしまった。でもそうではない。オタクかどうかは関係がない。だいいちギャルは40%くらいオタクなので対置になっていない。「オタクに優しいギャル」なんてのはふつうに同族・異家系どうしのコミュニケーションの話でしかない。

ぼくが怖くて興味があるのはディスコミュニケーションだ。くり返しになるが天使が怖い。ぼくは天使のような人が怖い。そこに一番興味がある。

天使のような人はネットには出てこない。

現実でまれに遭遇する。その話を今こうしてネットに書いている。

ネットで出会う人は天使ではあり得ない。シャッターを開けたことがある時点でそれはすばらしいことに、人なのだ。



最近のオタクはコミュニケーションをよくする。オタクイコール人付き合いが苦手な人びとというレッテルは、SNSの存在しなかった昭和における誤謬で、オタクにマッチする通信手段が少なかったから不便で困ったというだけの話にすぎない。ぼくの興味の対象はオタクではない。

会話で、ネットで、SNSで、とにかくシャッターを下ろす人。

そういう人びとが交流という光から距離をとったあと、自分の中で何を光らせることで間接照明のように部屋の中を薄ぼんやりと明るくして、そこで何を見て何を思っているのかということ。



「最近の若者はすぐ居場所探しという。居場所なんかどこでもいいじゃないか。今いる場所でがんばればいいんだ。すぐ死にたいとかいう。それは安直だ。生きていればいいじゃないか」

久々に聞いた。話してくれただけ良かったと感じる。いまどきこんなことを人前で言ったら世間から殴られまくるから絶滅したのかと思っていた。でも、いまだに、多くの人がそう感じているのかもしれない。口に出せないだけで。

ギャルにもオタクにも優しい世界が最後に見放しているのが、みずからを「めんどくさいの檻」の中に閉じ込め、檻の隙間からけだるい熱量でぎりぎり世界をのぞき見しているタイプの人。

そういう人に対して社会は未だにうまく言葉をかけられない。

教師もコンサルタントも弁護士も、医者も臨床心理士もカウンセラーも、自分の領域に引き付けながらうまいことをいうばかりで、本当のディスコミュニケーションの人たちを「ほどよく突き放したまま、それでも関わる」ということができない。

「ディスコミュニケーションの人たちからそう望まれているのだから仕方ない」というエクスキューズを、よく耳にする。

ぼくはそこが怖くて興味がある。クピポしかしゃべるつもりがないガッちゃんとアラレちゃんが仲良くしているのはまだわかる。しかし、則巻千兵衛がガッちゃんとコミュニケーションできているのはすごいなと思う。ぼくは則巻千兵衛になりたい。おそらく、ガッちゃんのなりそこないでしかないのだけれど。

2023年10月25日水曜日

病理の話(830) 写真何枚あればわかることができるか

むかし受けた「希少がん病理診断講習会」のテキストを読み直している。とある難病についての項目だ。

遭遇頻度が低く、日常の診療の場面ではなかなかお目にかからない病気である。病理の教科書を見ればだいたいどんな細胞かは書いてあるが、これだけ珍しい病気だと、写真数枚で「わかった気持ち」になることはとうていできない。

そこで、むかしの講習会のテキストを引っ張り出してきて、教科書に載っている写真と見比べながら勉強をする。


ちょっと考えてみてほしい。

あなたは「ゾウ」という動物をそれなりに知っていることと思う。

ゾウとキリンとカバを見分けてみてください、と言って失敗する人はまずいないだろう。

それどころか、「ゾウのシッポの長さってどれくらいだっけ?」と人に聞かれたとしたら、頭のなかでもやもやとゾウを思い浮かべて、あてずっぽうで「ぼくらの腕くらいじゃない?」などと答えることもできるのではないか。

ただし……ゾウのシッポは本当に腕くらいの長さだろうか。

そこは少し心配だ。

さすがにそこまで詳しく覚えているわけではない。

そこで写真を探す。ググってもいい。図鑑を見てもいい。

するとゾウのシッポは思いのほか長いことがわかる。平均して150センチと書いてあるホームページが見つかった。小柄な成人くらいのサイズはあったのだな。へぇ。

このとき、写真の枚数は、「シッポがきちんと写り込んだ1枚」があれば足りる。欲を言えば、なにか、長さのわかるような比較対象物が近くにあればもっといいのだけれど。



では次に、「ヒメカンテンナマコ」のことを考えよう。

あなたはこの不思議な動物のことをご存じだろうか。大きさ、形状、色合い、どこに住んでいるか。テレビやネットで見たことがある人がいるかもしれない。しかし、まるで聞いたことないよという方が多いのではないかと思う。

さあ、ヒメカンテンナマコのことを知るにあたって、写真1枚で足りるだろうか?

1枚あれば十分だろ、とお思いかもしれないが。

写真1枚で、カンテンナマコとクロナマコとイカリナマコとシイナマコトの区別をつけられるだろうか。

私なら、ちょっと自信がない。シイナマコトくらいはわかるかもしれないが。

ナマコのように「普段、見慣れない生き物」だと、写真1枚くらいではよくわからない。

サイズ感とか。どういうところに住んでいるかとか。ちょっと角度を変えて見たときの感じとか。

ゾウくらい知名度があれば写真は少なくて済む。しかしナマコはたくさん写真がないときつい。

もっと言えば、写真だけではわからないことだってある。

じつはヒメカンテンナマコは光る。

あと、どうでもいいけど、ヒメカン・テンナマコ ではない。ヒメ・カンテン・ナマコだ。




ぼくは顕微鏡で細胞を見て診断をする。細胞の色や形を見て判断するわけだから、教科書の写真と見比べれば、たいていの細胞はわかる。そのわかりやすさが「形態診断」の良さであろう。

しかし、「よくある病気」ならばよいのだが、珍しい病気ともなると、教科書に載っている写真だけでは足りない。「ゾウ」なら図鑑程度でいけるが、「ヒメカンテンナマコ」だと図鑑数冊見比べてもまだ自信が持てないのと似ている。

教科書を執筆している人はその筋のプロフェッショナルだから、写真も選び抜くことに関しては定評があるし、「その病気の特徴をよく表した写真」ばかりを本に掲載する。しかし、誌面には限りがあり、枚数はどうしても少なく、普段みないような珍しい病気をわかるにはいかんせん足りない。

個人的には、一生の間に1、2回くらいしか出会わないような珍しい病気の場合、写真は100枚くらいないといけない。それだけの枚数を見比べてはじめて、その病気の「らしさ」が伝わってくる、という感覚がある。しかし、教科書1冊につき、珍しい病気の写真はせいぜい3枚だ。へたすると1枚、あるいは写真がないということだってある。

そういうときは、延々と論文を検索して、自分が納得するまで写真を集める。



もっとも、ヒメカンテンナマコだろうなあと思ってヒメカンテンナマコの写真ばかりを100枚集めて、よくよく見てみたら、これはヒメカンテンナマコにちょっと似てるけどハゲナマコではないか……みたいなことが診断の世界では起こる。今度はハゲナマコの写真を100枚集める。エンドレスだ。

ヒィヒィ言いながらずっとデスクで検索を続ける時間のことを、「働き方改革」の人たちは、「それは残業ではなくて自己研鑽ですので、残業代の対象ではありませんね」みたいに言う。まあそうだね、自己を研鑽しないと診断なんてできないからね。

2023年10月24日火曜日

ひとかけらの罠

職場の近くにあるコンビニでお茶を買おうと思ったら小さな書籍スペースに呪術廻戦の新刊といっしょにワンピの106巻が大量に入荷していた。そうかそうか新発売かと思ってさほど確認もせず買った。仕事がはじまる前にさっさと読んでしまおうと思い読み進めていく。ジャンプで一度読んでるから記憶に新しいけどやっぱ単行本で読むと違うなあ。まとめて読んだほうが頭に入ってくるなあ。すいすい読み進めていく。読者からのお便りに尾田栄一郎が答える「SBS」というコーナーがあるのだがその内容もなぜか読んだ記憶がある。マルコが「よい」って答えるところ、あきらかに読んだ記憶がある。ウッ。まさか。これは。新刊ではないのでは。そして家にすでに買ってあるのでは。おそるおそる奥付を確認する。「2023年7月」の発行と書いてある。新刊じゃないやんけ! なんでいまさらコンビニに山のように入荷するんだよ! 悲しい罠であった。罠ピースである。


新しく購入したPC。以前よりもひとまわり小さいものを主力とする。ただし外付けモニタを購入してデュアルモニタシステムにしたから小さくても大丈夫だ! よぉしこれからバリバリはたらくぞ! と思ったらモニタを釣り上げるアームがうまくデスクに固定できない。ぼくの使っているデスクはかなり古いもので、側方ぎりぎりまで引きだしの壁が迫っており、万力を固定する天板として使える場所が少ないのだ。デスクの手前側にうまく固定することができず、しかたなくデスクの奥側にアームを固定すると、ノートPCとデュアルモニタの位置が微妙に離れて使いづらくなってしまった。まったく使えないわけではないので当分このまま運用していくのだけれどままならないものだ。結局、ただPCの画面がひとまわり小さくなった状態で普通に使っている。罠PCである。


外付けのキーボードを使って画面から目を離して入力するので、今こうして書いている文章もまめつぶのように小さく見える。まめつぶ。豆粒。豆ひとつひとつをまじまじ見ることは滅多にないがニュアンスとして伝わってしまう「まめつぶのような」というフレーズに、条件反射で選ばれていく語彙の安直さを思う。ところで「滅多に」というのもすごい漢字を使うものだ。思考がどんどんわき道にそれていく。わき道? 違うかもしれない。わき道というといかにも主たる道があるかのようだが、どちらかというと今の脳は広場の真ん中で方角を見失って呆然としている感じに近い。そういえば今朝、車を運転していて、交差点で信号を待っていたとき、自分の思考が一瞬完全にばらけている時間があったことに気づいた。隣に人がいたら、きっと、「どうしたの? ぼーっとして」と言われるようなやつだ。「いや、なにも考えてなかった。」などと答えると、「なにも考えてないってことはないでしょう。なにか心配ごとでもあるの?」とたずねられるようなやつだ。そんなたずねられかたをしたことは一度もないが。『宙に参る』でいうところの判断摩擦限界のような状態なのではないかと思った。中高年がたまに、なにをするでもなく窓の外などを見ながら陶然とした顔をしていることがある。あれはたぶん脳内で長年にわたって蓄積して増えすぎた情報をうまく処理できずにハングアップしている状態なのだろうと思っていた。まだ先のことだと思っていた。今のぼくはたまにそういう状態になる。どこにもピントをあわさずぼうっとしていると、なんとなくのどかな見た目になってしまう。争いには向かないスタイルだから悪いことではない、と言えるかもしれないが、さすがに運転中そうなるのはあぶないので気を付けなければならない。罠ピースである。

2023年10月23日月曜日

病理の話(829) 診断を信用してもらうためのくだらない小手先の技術のこと

今度、テレビに出る。もう少し先の話だけれど、今、そのテレビの出方を考えているところだ。「2002」があしらわれたメガネでもかけていこうか。ウサギの耳をつけていこうか。わかりやすく白衣にすべきか。


職場で白衣なんて昼食のとき以外には着ていないのだが、医者といえば白衣、わかりやすいモチーフで一気に説明を省くというのはいかにも大切なことだと思う。マリオに数ドット分のデザインを増やし、具体的には「帽子のつば」をつけることで、今マリオがどちらを向いているのかを瞬間的にプレイヤーに把握してもらう、みたいな話。白衣を着た人が画面に映れば瞬間的に「今からなんとなくテレビの人たちがそれなりに信じている医者っぽい人が出てきて人体の話をするんだろう」ということがナレーションなしで伝わる、それはとても大事なことだ。プレゼンテーションの「デザイン」として、われわれはもっと、白衣を効果的に使ってよいのだと思う。


ところで「白衣高血圧」という言葉がある。患者が家で測った血圧とくらべて、病院で測る血圧はだいたい10くらい高い。それは白衣の人びとを目の前にして緊張するからだ、という話。ちなみに「白衣脱水」というのもあると思う。中高年は誰もがだいたいおしっこが近くなるものだが、病院に着くまでにいくつもの交通機関を乗り継ぎ、病院の待ち合いでもいつまで待たされるかわからない状態で、あまりトイレにばかり行くわけにもいかないから、病院を受診する患者はいつもより水分の摂取を控えてしまいがちだ、だから診察室ではいつもより少しだけ脱水傾向にある……のではないかと思っている(白衣脱水という言葉は今ぼくが考えたもので、一般には特に言われてはいない)。


「医者」らしさが前面にデザインされた場において、患者は緊張し、ときに萎縮し、あるいは興奮し、何なら少しだけひからびることすらあるということ。

さて、ぼくは果たして、テレビでなにがしかのメッセージを発するときに、見る人に微弱なストレスを与えてでも「今から医者がしゃべるのですよ」というデザインを採用すべきだろうか?


ここから病理の話。病理診断においては、「診断者名」を記載する欄がある。当たり前だろうと思われるかもしれないがけっこう重要なポイントである。この診断が誰によって書かれたか、という情報は、主治医が診断書を読む際の事前情報として、知らず知らずのうちに主治医の価値判断、その後の診療方針に影響を与えるからだ。あの病理医が診断したなら信用できる、あの病理医は信頼ならない、みたいなレベルの話ではなくて、「この病理医が難しいと言っているからにはいつもと少し違う病態だから気を付けたほうがいいかもしれない」みたいな、けっこう長めのニュアンスが、診断書の署名ひとつから匂い立ってくるものなのだ。

ぼくはそういうのを一時期くだらないことだなと感じた、まるでバラエティ番組で適当なダイエット情報を語る美容外科医がきれいすぎる白衣を着ているときのようなマイルドな不快感を覚えたものだ。しかし今はわかる。膨大な量のコミュニケーションをくり返して医療を為していく我々は、ときに、「前提をいちいち言葉で説明しなおすことなしに、なるほどそこはそっちできちんとやってくれているんだよねと、お互いにのみこんで、プロセスの前半をふっとばしていく」というショートカットを必要とする。そのために「署名」は必要なのだ。同じことは「専門医資格」にも言えることだし、おそらく「博士号」にも言えることで、そもそも論としては「医師免許」にも言える。これらはすべて前提情報であり、あうんの呼吸を途中からスタートさせるためのロケットスタート用ターボなのだ。ぐだぐだ言ってないですべて取っておいたほうがいい。

2023年10月20日金曜日

医者には怒られるだろうが

出張から帰ってきてスーツを脱いだらすぐ職場のデスクに向かった。金曜日の夜にやりのこした外付けモニタの組み立ての続きをする。アームに取り付けてデスクの横に「生やす」。これで小さいノートPCの画面を拡張できる。が、先日買ったばかりの小さいPCはまだ接続できない。職場に新しいPCを持ち込むときにはいろいろと制限がかかる。「登録」の「申請」をするのにまだしばらく時間を要する。最終的にデスクが前より2段階くらいパワーアップするにはあと数日必要だろう。デスク周りの小仕事はここまで。出張帰りのカバンを整理しよう。いただいた名刺をフォルダにしまっていく。紙を手渡すこと自体におそらくなんらかの癒やし効果がある。癒やし効果だけある。中年をお互いに癒やすための紙のやりとり。その紙をしまいこむことで失われていく関係があり熱量があり、だから火照らずにやっていける。出張帰りにシャープの書いた本を読んだら、目次のところにわずか2,3行程度、Twitterが2023年のあるときからXと名称変更したのだけれども本書ではいろいろ考えてTwitterとかリツイートといった表記をそのままにしておくよ、という断り書きがあって、ああこれは編集者が入れたものかもしれないと思った。実際にはシャープが入れたものかもしれないのだけれどなんとなくそういうのはわかるよなあと感じた。領収書を捨てる。使わなかった指定席券を捨てる。ひととおりの紙ゴミを処分してインターネットを開くとトークイベントの告知がはじまっていた。11月14日(火)に京都の書店で大塚篤司教授と対談することになっている。彼の新刊『皮膚科医の病気をめぐる冒険」は大塚の臨床における問題意識がものすごくきちんと反映されたいい本だ。問いが強い。一対一対応するような答えが存在していない話ばかりを扱っている。それなのに一つ一つの話が「そこそこ軟着陸する」ことがすばらしい。これを問いとして放り出して終わっていたら読後感はだいぶ違っていただろう。ぼくは今回、茶化すでもなく盛り上げるでもなく司会に徹するでもなくきちんと「対談」をする。豆塚エリさんとのトークイベントやYouTubeにも言えることだが、ちかごろはとにかく、自分の全力を出せる場所があってうれしい。やれるだけやっていいよと言われていることがうれしい。全力を出してもどうせ足りないのだ。それがいいよ、それでいいよと言ってくれるのがありがたいと思う。


新しく届いたサブモニタを古いPCに接続してみる。画面が明るい。デスクが狭苦しく感じる。輝度を一気に「10」まで落とした。顕微鏡を見るときも明かりはだいぶ暗くしている。脳に届く刺激の総量を少しずつ絞るようになっている。先日、古い方のTwitterアカウントの新規フォロワー確認をまる2日忘れていた。そういえば血圧の薬も1日分飛ばしてしまった。それくらいでいいのかもしれない。医者には怒られるだろうが、ぼくはこれで十分、全力でやっていて、それでも取りこぼすものはもう、こぼれてしまってもしょうがないものだと割り切っていくしかないのである。

2023年10月19日木曜日

病理の話(828) 研修医の発表の予行演習を聞きながら思ったこと

大学を出て、医師免許をとって、すぐに医者になれるかというと、最近はそうでもない。「研修医」というシステムがある。まあ法律上は医者なんだけど(医師免許があればね)、病院の仕組みや医療のノウハウをつかむのにだいたい2年はかかるでしょ、ということで、最初の2年は「初期研修医」として勤務する。

この間、研修医だけで患者をどうこうするということは原則的にない。研修医の横に、あるいは壁をへだてた隣に、必ず「指導医」が控えており、耳をそばだてていたり、カルテをチェックしたりしている。だから患者さんも安心してください。「俺を診るのが研修医ってどういうことだ! ドン!」と机を叩く必要はありません。必ず上級の医者が指導してますからね。



さて。

研修医はいろいろな勉強をする。患者と話して情報を集める方法。血液検査のデータの解釈。CTやMRIの見かた。キズを縫ったり血管にカテーテルを入れたり尿道にバルーンを入れたりする手技。外科手術のサポート。麻酔の勉強。点滴の選び方。薬の処方について。カルテの書き方、ほかの病院の医者に手紙を書くときのコツなんてのも教わる。

そして、「学会発表」、「論文執筆」、すなわち研究の仕方についても学ぶ。

医者を続けていく上ではとても大事なことだ。患者とたくさん触れあって共感しながら薬を出して喜ばれればいい医者になるなんてことはあり得ない。「それで医者が勤まるんだったらどれだけラクな仕事だったろう」と、はっきり言う。もっともっと勉強しないと、病院の中にわざわざ医者という職種を置いている意味がない。コミュニケーションができる人はほかにもいっぱいいるのだ。「勉強」をするのが医者の大事な仕事なのだ。

診療の中で見つけた小さな疑問、あるいは小さな発見を、その場だけで終わりにせず、きちんと考えて他の人と共有して、医学の進歩にちょっとだけ寄与しつつ、自分の診療のレベルもちょっとだけ上げる。それが研究である。



学会で発表するとき、ぼくらは「パワーポイント」などを用いて紙芝居的なプレゼンを作成する。一例をあげると、こんなかんじだ。

患者がどうやって病院にやってきたか、何を困っているのか、これまでにかかった病気があるか、家族構成は、生活スタイルは、海外旅行に行ったことはあるか、今ほかの理由で病院にかかっているか、薬は何を飲んでいるか。

そういったデータをきちんとまとめて、わかりやすく提示する。

でもこれだけではないぞ。血液検査のデータだって羅列する。CTやMRIなどの画像もダウンロードして(個人情報山盛りだから許可がいるぞ!)パワポに貼り付けるし、超音波や内視鏡の場合は写真ではなく動画を用いることだってある。

そうやって揃えたデータをまとめて「考察」をする。自分はこのように考えた、ただしこれまでの常識と比べるとちょっと疑問に思うところがある、だからこういう追加の検討をして、紆余曲折を経て、最終的にこんな珍しい結果にたどりついた、といった風に、ストーリーとして語るのである。治療の結果がうまくいったかどうかもあけすけに話す。

医者は自分の体験した「患者との二人三脚」を、自分の心の中だけで留めておいてはだめなのだ。いや、個人の尊厳にかかわる部分は、守秘義務として誰にも話しませんよ、そうではなくて、患者の困り事の根っこにある「医学」の部分だけを取り出してきて、ほかの医者と共有するのである。

そうすることで、ほかの医者から、さまざまな意見が飛んでくる。そこはこう考えた方がよかったのでは? そこで別の薬を使ったらどうなったろうか? もっと早くこの病気に気づくことができなかったか? 現場でも悩んだ話をあらためて他の医者から指摘される。けっこう緊張する。自分はもっとよくやれたのではないかという後悔をすることもある。

でも、それ以上に、「医療の現場にはこれぞという正解がないこともある」ということがわかったりする。誰もが頭を悩ませるような難しいケースをみんなで考え抜くことで、お互いの知力が少しだけ高まる。そして、患者のためにフィードバックされる。

ね、研究って、とても大事だ。



さて、研修医は「学会発表」や「論文執筆」を、研修期間のうちになるべく経験したほうがいい。

ただ、経験の少ない研修医が、いきなりぶっつけ本番で、学会でしゃべるというのはいかにもしんどい。

そこで、勤める病院で予行演習をする。

うちの病院の場合、研修医が発表の予行演習をするときには、科に関係なく、さまざまな医者が集まってくる。神経内科医、循環器内科医、リウマチ・膠原病内科医、化学療法内科医、血液内科医、消化器内科医、呼吸器内科医、外科医、そしてぼく(病理医)。

自分と多少専門が違っていても、研修医の発表をみるといろいろと得られるものがあっておもしろいし、研修医に対していろいろな角度からアドバイスができる。




これまで研修医の予行演習を見てきた感想をちょっとだけ。

まず、パワーポイントのスライド(紙芝居)のデザインは、ぼくら中年より上手だ。PCを使い慣れてるなーというかんじ。

ただ、紙芝居の中に出てくる言葉の使い方が、まだ医者じゃなかったりする。そこは直す必要がある。でも些細な問題だ。みんな優秀だからすぐに覚えてくれる。

考察をすすめていく「思考の回路」はまだまだ発展途上である。それはそうだ。医者は一生勉強。経験を積めば積むほど、より広く深い思考ができる。知識の量も大事だが、思索を走らせた本数も大事だなと感じる。才能よりも努力が必要だし、できれば後天的に才能まで伸ばすことができたらもっといい。

そして、しゃべり方。

しゃべり方!

しゃべり方……!!

これが! ほぼ例外なく! 未熟!

一番訓練したほうがいいのはしゃべり方だ。これはいつも思う。

思考の訓練はぶっちゃけ医者は得意だ。なんとでもなる(ならない人もいるけどそういう人はそもそも学会発表や論文執筆などの研究をぜんぜんしてないし、きちんと指導も受けていないのだと思う)。

ただしゃべり方……こればかりは、かなり意識して訓練しないと、医者だというだけではうまくならないと思う。あきらかにみんなヘタなのだ。

アナウンサー的に、上手に発音できる研修医はいる。

YouTuber的に、魅力ある滑舌を披露する研修医もいる。

でもそういうことではない。

発音や声色の良さが大事なわけではないのだ。「医者としての語り方」が足りないのだ。まだまだぜんぜん、がんばってもらわないとなあ、と感じる。

当院の研修医に限った話ではない。全国どの学会に出ても、若い医者のしゃべり方は総じて「まだまだ」。ここが一番経験の差が出るように思う。

まあ歳を取ってもいまいちな人もいっぱいいるけど。プレゼンについてまじめに考えて訓練していないと、いくつになってもしゃべり方はうまくならない。



念のため書いておくと、学会発表の際には、まず思考を鋭く整えることが大前提だ。アホが上手にしゃべってもだめである。ただ、その上で、どれだけ美しい臨床医学を構築したとしても、しゃべり方がいまいちだと、うーん、「伝わらなくて惜しい」とかではなくて、もっと根本的に、「あっ、だめだな」と感じる。

極論すると、しゃべり方は思考の鋭さと表裏一体だ。「よく考えているなあ」と思ってもしゃべらせてみたらいまいち、というのは、申し訳ないが、「まだ考えが足りない」のだと思う。




ではどうやってしゃべり方を訓練するか?

研修医を見ていると、途中でしゃべり方があきらかにうまくなる人と、そんなに伸びない人とがいる。

その差はどこにあるだろう?



どうも、「しゃべった経験」も大事だが、「人のプレゼンをたくさん聞いた人」の伸びが一番いいように思う。これはぼく個人の感想だが、わりと誰に言っても納得してくれる。

「しゃべった回数」ではなくて、「しゃべった回数+聞いた回数^n(nは経験年数)」くらいの数値がたぶんしゃべりのうまさを表しているのではなかろうか。

たくさん受信して、よく吟味して、自分を振り返って発信のやり方を磨く、というのが一番よいのだろう。

そういえば、剣道の世界には昔から「見取り稽古」という言葉がある。見て取るのは大事なんだよなあ。

2023年10月18日水曜日

アニマの国の人だもの

パソコンを買い換えようとしている。じつはもう買い終わっていて手元にもあるのだが、いろいろとあってなかなか引っ越しがおわらない。

これまで大きめのノートPC×1台と、出張用の軽いPC×1台を使い分けていた。でも最近のPCは大きさの違いイコールほぼ値段の違いくらいしかないので、2台分の仕事をサイズが小さくてハイスペックなPC1台にまとめることにして、外付けモニタとアームを購入し、職場では大きめの画面に接続、いざというときはPCだけ取り外して出張、という形式に変えることにしたのだ。

というかいまどきのデスクワークビジネスマンはたいていそうだろ、と言われたら返す言葉もないのだけれど、16年間ずっとPC2台体制だった「自分のしきたり」みたいなものを変えるのにけっこうな運動量を必要とした。慣性に抵抗するのが一番疲れる。

現在、1TBの外付けSSD内にほぼ満タンに入ったデータを整理して、4TBの外付けハードディスクにうつしているところ。あれこれ選びながらの作業なので、別に仕事をしながらかれこれ10時間くらいかかっている。まだまだかかるだろう。

16年前に築地で研修していたときのファイル。20年前に大学院で使った勉強記録。医学部生時代に病理の地方会に連れていってもらったときの資料なども見つかる。「部屋の整理をしていたらアルバムが出てきて手が止まるアレ」をやっている。

これを書いている翌々日くらいから「ロード日程」がはじまる。研究会や学会はだいたい以下のような順序で参加することになる。明日からZoom、名古屋、Zoom、Zoom、東京、東京、俱知安、Zoom、Zoom、網走、札幌(あっホームだ!)、東京、Zoom、Zoom。だいたいこれで3週間。ほとんどの場所で画像もりもりのパワポを使って話をする。PCのデータが重くなるわけだ。




ほんとうは、1枚絵で1時間しゃべれる人が一番強い。あるいはイラストも写真もなしに、ソラで、講談師か落語家のように15分でビシッと笑わせて泣かせて何かを持ち帰らせる人が一番偉い。

「でもそれを科学でやるのはむりでしょ?」

いや、どうやらそういうわけでもない。先日から読んでいる羊土社『ストーリーで惹きつける科学プレゼンテーション法』の中にはこんなやり方が紹介されていた。

Flash Talks:制限時間3分、スライド使用不可、小道具使用不可。

Three Minute Thesis:制限時間3分、スライド1枚、小道具使用不可。

Three Minute Wonder:制限時間3分、スライド1枚あるいは動画、小道具使用可能。

TameLab:制限時間3分、スライド使用不可、小道具使用可能。

Perfect Pitch:制限時間90秒、スライド1枚。

これらはいずれも名のある学会や大学で、若手研究者が短い時間に自分の研究内容を手短に、並み居る専門家たちに語って聞かせるセッションの名前だということだ。

うーん、こんな訓練を頻繁にやっていれば、そりゃあ欧米の科学者たちはプレゼンがうまくなるよなあ。鍛えられる。

なお、科学者がしゃべって科学者が聞く取り組みだけではない。科学者が一般の方々に、短くサイエンスを語って聞かせる場もあるらしい。Science ShowoffにBright Club、さらにはStand up Science。これらは一般向けのコミカルな科学トークの場なのだそうだ。

日本ではほとんど聞くことがない(か、やっているのかもしれないが大衆に知られるほどの知名度はない)。手前味噌だけどSNS医療のカタチのYouTubeでの10分講座みたいなのって大事だよね。でも、ぼくも含めて、日本の科学者はどうしても、パワポのプレゼン枚数を増やす傾向になりがちだ。

くり返すけれど、本当はもっと、一枚絵でぐっと語って聞かせるくらいがいいのだろう。それこそがコミュニケーションのスキルなのではないかと、ぼくも思う。でも……それでも……ぼくらはアニメの国に暮らしているから……無数の画像でパラパラやって「ほとんど動いているかのように」「まるで生きているかのように」、アニマをほとばしらせながらしゃべるやり方に、惹かれてしまうし、そんなことだから、引かれてしまうのだ。


2023年10月17日火曜日

病理の話(827) スキーマの違いによる診断のずれ

「そこにあるものをそのまま見ること」は、極めてむずかしい。

今日は最終的に、人間の細胞を顕微鏡で見る難しさについて語ることになる。しかしいきなりそれを語り始めるといろいろ大変なので、まず、例え話から始める。


富士山といっても人それぞれ、脳内に思い浮かべるイメージが違うだろう。静岡から見るのと山梨から見るのとではそもそも輪郭が異なる。ただしそのような「立ち位置の違い」による変化だけではない。山梨県南都留郡山中湖村平野3222番地先にある長池親水公園のフォトスポットの、まったく同じ足形の場所に立って富士山を見たとしても、その日の天気や時刻によって見え方は違うはずだ。さらには、天気も時刻もすべて揃えて条件をまったく一定にしたとしても、

・それまでに富士山を見たことがあるかどうか

・それまでにほかの大きな山を見たことがあるかどうか

・雲や植生など、富士山のまわりにあるものについて詳しいかどうか

といった、その人がそれまでにどのような体験を経てきたかによって、見え方は変わるのではないかと思うのだ。



ビデオで撮影するのとは違う、視覚情報が脳に混ざり込んで思考と一体化することではじめて「見えた」という気持ちになる脳のしくみのために、「同じ場所に立てば全く同じ見え方になる」ということはあり得ない。



今井むつみ『学びとは何か』(岩波新書)の中で、著者の今井は、幼少期の言語習得について以下のようなことを言う。

「言語というのは、単語を覚えればすぐにしゃべれるというものではない。断片的な知識を積み重ねても役に立たない。平べったい肉の小片をペタペタ上から貼り付けて大きくしていくドネルケバブのようなやりかたではだめである」

イマイチな例示だなとは思うのだが、言いたいことはわかる。


写真引用:「ターキッシュエア&トラベル」のホームページより

https://turkish.jp/turkishfood/%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%90%E3%83%96/

あたらしい知識というのは、すでにその人の中にある思考回路のさまざまな事象と関連付けられる。たとえばぼくがセパタクローという競技を目にすると、それはバレーボールやサッカー、ドッジボールといった、すでに知っているスポーツと自動的に比べられ、「どこが同じでどこが違うのかな」「セパタクローだとほかのスポーツと比べて何がおもしろいのかな」みたいな感じで知識として蓄えられる。セパタクローを広辞苑で調べて、ほかの知識と連携させずにそれ単独で、脳の表面にぺたっと貼り付けても、セパタクローを本当に理解したことにはならない。

今井は「すでにその人の中にある思考回路」、すなわち何かを見て考えるときに用いる前提情報のことをスキーマと呼ぶ。

私たちが何かを見て考えるときに、そのものを単独で見て脳内にしまいこむのではなく、すでに持っているスキーマに組み込むかたちで、「新たな知識はすでにある知識のどことどのように関連するのか」といった感じで考えて配置するというわけだ。



話を一段戻すと、我々が富士山をみるとき、それぞれの人の脳内には、特有のスキーマが存在する。人それぞれに異なるスキーマに、視覚情報としての富士山が入り込むとき、たとえ物理的には同じ現象を観察しているのだとしても、各人のスキーマにどのように取り込まれるかはてんでばらばらだ。従って、「同じ富士山であっても人によって受け取り方が違う」ということが起こる。


話をさらに一段戻して、今日の本題はここからである。


病理医が顕微鏡で細胞をみるとき、「まったく同じ細胞」を見たとしても解釈が変わることがある。たとえば、食道がんのエキスパートで、食道の病変ばかり見ている人と、皮膚がんのエキスパートで皮膚病理専門医を名乗っている人と、婦人科病理の専門家で子宮頸部の病変に詳しい人がいたとして、この3名が「同じ咽頭の扁平上皮病変」を見ると、全員が異なる診断をする。

もちろん、一人が良性と言うものをもう一人が悪性と言う、くらいの(文字通り致命的な)ずれではないのだけれど、「前がん病変の診断基準が微妙に異なる」くらいの差が出てくる。

病理医は、そういう差がなるべく出ないよう、臓器ごとに「異なるスキーマ」を用いて細胞を見る訓練をする。しかしこの訓練は、日本語を母語とする我々があとから英語を学ぶのに似て、非常に難しい。きれいな英語を発音しているつもりでも、どうしても「日本人っぽいなまり」が出てしまうように、なるべく客観的に病理診断をしているはずが、ちょっと「なまっている」というか、ちょっと「偏っている」診断になる。

このずれをどう補正するかを極めているうちに、診断人生45年がゆるやかに過ぎ去っていく、というのがこれまでの病理医のキャリアであったように思う。

しかし今後は、もしかすると、AI診断技術がここを補正してくれるかもしれない。画像診断技術にはスキーマなんてものはないからだ! 完全に客観的な診断ができる日がくるかもしれない……!




……いや、待てよ。

AIが学習する「教師データ」に偏りがあれば、AIの判断もずれてしまうだろう。この「教師データ」とはすなわちAIにとってのスキーマなのではなかろうか?

2023年10月16日月曜日

ヤンデル先生

昨日は9時に寝てしまった。だんだん持たなくなっている。2時半ころに一度目が覚めた。もしや中途覚醒かと思ったが、異様に早く寝たからいつもどおり5時間半くらい寝たところで朝だと思って目が覚めてしまったのだろう。二度寝までに30分くらい使っただろうか。次に目が覚めたのは5時半で、通算8時間くらいは寝ているはずなのだが、途中でばっさりと睡眠を断ち切られたことでなんだかあまりお得感を味わえなかった。


ヒゲを剃っていると唇のまわりになにかできている。ヘルペスだろうか。中学のとき、体調が悪くなると口の周りになにかできるのだということを担任に話して、「ヘルペスでしょうか」って言ったら、担任は顔をまっかにして「えっ! そんなわけないじゃない!」とおろおろ否定した。今にして思うとあれはおそらく「ヘルペスといえば性病」だと思っていたのだろう。学校の教師が家庭の医学に精通しているわけもないので当然の反応といえば当然だ。その担任にはずいぶんといい話を教わった。しかし後年になって、「不完全な大人がよくもまああれだけ子どもにいろいろ十分に教えてくれたものだなあ」という、ワンクッション経たあとの感想のほうがむくむくと大きくなってきた。


とんでもない教師、とんでもない弁護士、とんでもない医者、とんでもない政治家、どれもひととおり出会ったり見聞きしたりしてきた。とんでもない先生連中というのは何をもって「先生」を名乗っているのかというと、それは当然「先の生を見せてくれる存在」ということである。どこで何を学ぼうが、誰にどう接していようが、善性だけで成り立っている先生などいないし、欠落だって偏りだってやまほどある、そういうものだという「少し先の人生で待っている小さな失望と安心感」を見せてくれる存在、それが先生であった。周りの大人はすべて本質的には先生であったが、そんな、自分の足りない部分を子どもに見せてよしと思うおひとよしなどめったにいないわけで、普通は取り繕い、隠し、作り込んで、見せかけようとするわけで、そこに「先生」という呼称がコショウのように作用することで突然「見せたくない大人」が「見せつける大人」へと変貌するのだからよくできている。


ぼくらはおそらく「先生」と呼ばれなければやりたくない仕事というのをたくさん持っている。陰口を叩かれる、後ろ指を指される、後年になって間違っていたと思い返される、それをわかった上でなおエイヤッと「ここはこうです。こちらが正しいです」と存在するはずもない正義を頭上に仮固定して、反駁される前提で先の生を見せてやる、そういう存在としてある程度の時間、輪郭を維持するために必要なコショウこそが「先生」という呼び名だった。


昨晩はたくさんの夢を見て、その中には未来を予感するようなものも含まれていたはずなのだが、二度寝する前に多少なりとも覚えていたものを今はすっかり忘れてしまった。先を見るために必要なのは能力や努力ではなく、誰かの献身、傲慢、反復、懐古、それを他者の視点から俯瞰して心がすっと冷えるときの熱エネルギーの遷移によって駆動されるなんらかのモーターのようなものにつながった燃費の悪いカメラのシャッターをけっこうな指の力でしっかり押すということではないか。その誰かというのが、先生なのではなかったか。

2023年10月13日金曜日

病理の話(826) 病理だとあんまりはっきりしないすね

胃カメラとか大腸カメラで、内臓の「粘膜」だけを切り取ってくる手術というのがある。イメージとしては、ピーマンのタネだけをスプーンでけずりとるかんじだ。ピーマン自体に穴は開けずに、中のいらないものを取り出す。英語の略称で恐縮だが、ESD(endoscopic submucosal dissection)とかEMR(endoscopic mucosal resection)などという名前がついている。なんでいきなり英語にすんだよ! と怒る人もいるだろう。でも粘膜下層剥離術って書くよりESDのほうが早くてラクじゃん……。


けずりとってきた粘膜は、小さいものだとUSBフラッシュメモリの端子部分くらい、大きいものだとマウスとか外付けテンキーパッドくらいの大きさになる。なぜPC周辺機器でたとえたのかは、この記事の執筆環境による。

テンキーパッド大の検体の表面には、凹凸がある。主治医は、この粘膜の厚みや模様などをハイビジョンのカメラ(むかしファイバースコープと呼ばれていたが今は単にカメラと呼ぶ)で拡大・縮小しながら巧みに観察し、盛り上がっているのはきっと中にコレコレの細胞が詰まっているからだろうとか、へこんでいるのは病気が下に潜り込もうとしているのだろうといったように、あれこれ考える。

すごく簡単に言うと、カタチの変化をとらえて病気を見抜き、そこをくり抜いてくる、という手順である。

そうやって取られてきた検体は、ホルマリン固定された後に、病理医の手にわたる。

病理医はホルマリン検体を見て、顕微鏡標本を作製し、内部に何が起こっているかを見極める。



このとき、たまにあるのが、「主治医が胃カメラや大腸カメラで見たときほど、粘膜の凹凸がはげしくない」という現象だ。

はっきり盛り上がっていたはずの病変が、実際に取ってくると「そうでもない」というのは、悩ましい。ホットペッパーや食べログで見たときにはいいお店だったのに、実際に入ってみるとなんかしょぼかった、みたいな感じ。いや、もっと悪い。なにせ取ってきたのは患者の病気なのだから。

「話が違う」は一大事である。

フラッシュメモリ端子大の粘膜片を見て、「なんか思ったほど派手な病変じゃないね」と心配になり、ほんとうにここに病気があるのかな? と悩みながら、顕微鏡をみる。

するとそこにちゃんと病気がある。

まずはホッとする。主治医の見立て通り、病気がきちんと取れていたからだ。よかったなー。

しかし、次の瞬間、「じゃあなんで見た目が変わったんだ?」ということが気にかかる。



この現象に対して、現代の病理組織学はある程度の答えを用意している。

一番有名なのが、「体の中にあるときと、切り取って体外に出してホルマリンに漬けたあととでは、検体の水分量が違う」というものだ。

人体のあらゆる組織は血流によって酸素と栄養を受け取っている。このとき、酸素や栄養だけではなく、同時に「水分」をも調整されている。血管内の液体は、そのつど細胞の間に流れ出したり、逆に回収されたりして、うまいこと循環して体を潤す。

この循環のはたらきは、手術で切り取られてしまえば当然ストップする。おまけに、検体をホルマリンに漬けると、検体から水分が抜けて代わりにホルマリンが浸透する。

するとどうなる? 端的に言うと「むくみ」がとれるのだ。

だからお腹の中のものを外に取り出すとカタチが変わることがある。



粘膜がゴツゴツと盛り上がったりべこんと不整にへこんだりした場所には「がん細胞」があるはずだ、という内視鏡診断学はシンプルでわかりやすい。しかし、実際に粘膜を盛り上げたりへこませたりしているのは、がん細胞などの病的細胞「だけではなく」、間質の水分量だったり、まわりにある正常の細胞の変化によるものだったりする。

究極的なことを言えば、がんがなくても、「炎症」があると水気は増える。蚊に刺されるとその場所が腫れたりむくんだりするだろう。そう考えると、単に粘膜が盛り上がっているとかへこんでいるというだけで、がんだろうと疑うのは「やりすぎ」だということがわかる。



主治医が、「あれーここに確かに病気があると思って取ってみたんですけど、ホルマリンにつけてみると、あんまりはっきりしないすねー……」と心配そうな顔をしているとき、組織から水分が抜けて見え方が変わったのだということ、そして、水気がない状態でなお「がんがありそうな所見」をいかに指摘するかということを、顕微鏡を見ながら解説する。

すると主治医は、「なるほどなー、じゃあ普段おれたちが見ているあの腫れは、がんじゃなくて水分によるものかもしれないわけか……」などと、自分の商売道具と見慣れた風景に対して、マニアックな思索を深めていくことになる。

2023年10月12日木曜日

バーレイデイズ

ローソンの一番安い麦茶を飲むと後味に独特の風味が残る。なにか記憶の奥底にあるものを引っ張ってくる。

最初は剣道部時代に道場で飲んだ麦茶の思い出かと思ったが、どうも違う。

昔の麦茶の香りはもう少し草っぽかった。ローソンの麦茶は上あごと鼻腔を冷やしにかかるような、もっと冷たく突き放した香りだ。

しばらく脳をなでまわしているうち、この香りは夜の風景を呼ぶなあと気づき、そこからはたと思い付いた。かつて、すすきのにあったバー。20年以上前に移転してからも何度かおとずれたが、その後次第に足が遠のいた、あの店だ。



ぼくはまだ20代だった。マスターバーテンダーは若造にも分け隔て無く接してくれていた――と当時のぼくは思っていたが、実際にはそうでもなかった。今はわかる。

たぶんぼくにはわりと適当な酒が出されていた。

ややレアで値段はそれなりに張るが、人気があるわけではないので棚の飾りになっている、そんな酒。

しかしぼくはぼくで、「埒外の酒」が出てくるその店のことをかなり好きだった。需要と供給がマッチしているとき幸せな商売が成り立つ。



ぼくはカクテルよりモルトが好きだった。おきまりのマッカランや山崎から入って、グレンフィディック、グレンリベット、グレンモーレンジ、クライヌリッシュ、バルヴェニー、ハイランドパーク、エドラダワー、ボウモア、アードベッグ、ラガヴーリン、ラフロイグ、タリスカ、ロングロー、カリラ(BARレモンハートにはカオル・イーラと書かれていてぼくは最初そう頼んだはずだ)……。ド定番のモルトを飲み分け、こっちのほうがヨード臭が強いとかこっちはバニラっぽいとかシェリー樽熟成だから香りが独特だとか、いわゆるスノッブを気取る「修行」をしていた。

味はひとつも思い出せない。今飲んでも何もわからない。

あのとき飲んでおいてよかった。名前に詳しくなったからではない。今はあんな度数の酒を飲んで起きていられるほど体力がないからだ。

人生で唯一、ウイスキーを(わからないなりに)楽しめていたのが20代だった。モルトだけではなくブレンドも、バーボンもカナディアンもアイルランド・ウイスキーも、もちろん日本のウイスキーも、片っ端から飲んでいた。ラムやジンもよく飲んだ。テキーラはほとんど飲まなかったがグラッパは飲んだ。

バイトも剣道もやっていたのにどうやって時間をやりくりしていたのだろう。当時は今よりはるかに多動で、多感なわりに鈍感で、始終ぴょこぴょこ首を伸ばして新しい自分が見つかりそうな場所にくちばしを突っ込んでいた。「この若さでバーの常連であること」「マスターからすすめられた酒は何でも飲めるということ」が若いぼくの自慢だった。マスターにとってはさぞかしかわいいカモだったろう。唯一このころのぼくが鋭かったなと評価できるのは、これをぜんぶ一人でやっていたということだ。デートでやっていたら相当気持ち悪かったに違いない。それくらいの分別はあったらしい。



モルトを片っ端から飲んでいくうち、マスターのおすすめは「古酒」や「限定ボトル」になっていった。ソムリエでもないぼくからすれば定番の酒が一番うまいはずなのだが、シングルモルトウイスキーソサイエティの樽だと味が違うとか、加水してない原酒(カスク)のほうが味が強いとか(それに水を足すと香りが際立つなどと教えられてまた喜んでいた)、はては○○記念ボトルだけ味わいがいいのだなどという話を全部真に受けて、変わった酒ばかり飲んでいた。そんなある日、マスターが棚の奥から出してきたボトルがあった。

「古いブレンドなんですけどね……」

そういって置かれたボトルはキャップもラベルもかなり古びていて全体的に赤黒い印象。たしかROCKET、もしくはROCKET BLANDとラベルに書かれていたと思うのだが、今日ググっても見つからない。

そのロケットはどういうお酒なんですか、とぼくはたずねた。

「もう手に入ることもないとは思うんですがクセがあります。どうします、ハーフで飲みますか?」

マスターはぼくの質問にきちんと答えていないが、ぼくは即答した。飲みます。ハーフで? はい、では味見としてまずはハーフで。

注がれたウイスキーはやや薄い琥珀色、だったと記憶しているがあいまいである。口を付けて数秒、おどろいた、味も薄い。ブレンドウイスキーだからモルトに比べるとマイルドに調整してあるのかと思った次の瞬間、飲んだノドの奥から強烈な戻り香が鼻にやってくる。その香りはまるで有機溶媒のようでぼくはびっくりしてしまった。

「うわっ……独特ですね」

言葉を選んでそう伝えると、マスターは苦笑うように言った。

「テイスティングの用語で、私があまり普段から使わないものがひとつあるんですが、このウイスキーはそれだと思うんですよ」

「なんですか?」

「……プロパン臭、です」

のけぞった。一度聞いたらもうその臭いにしか思えない。たしかにプロパンガスの臭いだ。何かの間違いかと思ったが、ウイスキーのテイスティングをするプロはたまに「ピート、バニラ、わずかにプロパン」のような言い回しをするのだとそのとき教えてもらった(今検索しても出てこないが、当時書籍でも確認した覚えがあるから、少なくとも当時は使われていた言葉なのではないかと思う)。本来はウイスキーの奥に潜む香りのひとつなのだろう。しかしこれは……。

「プロパン臭って聞いたらもうこれプロパンガスにしか思えなくなってきました」

端的に言ってまずい。マスターは何も言わなかった。ぼくはこの日、うまくもない酒のハーフに確か2000円くらいの金を払った。



それ以来、ぼくはウイスキーを飲むたびに、「プロパンガスの臭い」を探すようになってしまった。一度経験するとわかるようになる。シーバスリーガルやジョニーウォーカーなどの有名なブレンドウイスキーではあまりわからないが、もう少しマイナーなブレンドウイスキー(あえて名前は挙げない)だと、飲みやすい味の奥にほんのわずかにプロパンの影を感じることがある。

花の香りとかチョコレートの香りとか樽の香りを探し当てるならまだしも、プロパンばかりわかるようになってもあまりうれしくはない。なんとなく、その日を境に、ぼくのウイスキー狂いはなんとなく熱を失っていった。



20年以上が経過して、そのことをすっかり忘れていた今日、ローソンの安い麦茶を飲んで思いだしたのは、記憶のはるか遠方で手を振っているプロパン臭だった。

もちろん、麦茶からガスの臭いを感じるわけではない。しかしこの香りは程度の差はあれどあの日のプロパンと同一線上にあるのではないかと思われた。

原材料を見て納得する。麦茶ってなんの麦かと思ったら大麦なのだ。ブレンドウイスキーの成分のひとつであるグレーンウイスキーにも大麦が入っている。そこが共通点だ。たぶん、大麦の風味なのだろう。たいして保存状態のよくない、アルコールも少し飛んだ古いブレンドウイスキーの、大麦の香りが悪いほうに変性したものがあのプロパンだったのだと思う。


仕事場で麦茶を飲みながらぼくは若い夜の思い出にひたろうとした。しかし、アルコールのせいなのか、その後の人生でさまざまなノイズがブレンドされたせいなのか、マスターの顔、店の場所、当時それを飲んでいたぼくの顔、ほとんどを、どうがんばっても思い出すことができなかった。

2023年10月11日水曜日

病理の話(825) よかったけどよくはない

病理医が、ある病気を見つける。いわゆる「生検」と呼ばれる検査で。

食道、胃、大腸、肺、子宮頸部、子宮体部、胆管、膵臓……。

臨床医がいろいろな場所からちょっとだけ細胞をとってきて、それをぼくら病理医が見て考える。

この細胞はがんだな、とか。

この細胞は良性だろう、といったふうに。



臨床医が細胞をとるのはどういうときか?

診察や画像検査などをたくさん行い、よく吟味した結果、医者が「たぶんがんだろうな」とか、「がんじゃないと思うけど、できれば念のため細胞を確認したいな」と感じたときに、ここぞというタイミングで、細胞をとる。

つまり病理医に求められているのは、最後の確認だ。

病理医のひとことが決定打となる。

そのタイミングで病理医が「誤診」すると、たいへんなことになる。



臨床医が○○がんを疑った。病理医が細胞をみて、「おっしゃるとおり、がんですね」と言った。臨床医は納得! すぐに治療をはじめる。手術をしたり、抗がん剤をしたり。

ここで、手術でとってきた臓器の中に、がんがなかったら……。

大変なことだ。

とらなくていい臓器をとってしまったということだ。

あわてて、生検の細胞を見直す。

あのときはがんと思ったはずなのだけれど……よく見ると……非常に難しいが……これだけでがんと決め打ちするのは怖いかもしれない……。

これがいわゆる「病理医の誤診」である。書いていてぞっとする。



……「腕のいい病理医ならば誤診なんてしないはずではないか」?

理想をいえばそうだ。しかし、経験の長い病理医ほど、「検査の限界」を知っている。ちょっとした情報伝達のミスによって、ここまではっきりした誤診はしないまでも、ヒヤッとするような判断のずれが起こることは、……めったにないけど……ありうることだ。



「生検」というのはとても小さな組織片をとってくる検査である。小指の爪の切りカスよりも小さい。だから情報が少ない。病気の確定診断に使うには、本来、心もとない。それでも病理医はプロとして、わずかな検体から診断をする。

そんな事情のもとに、ときに病理診断においては、「がん疑い」という診断名が付けられる。

「細胞まで見ておいて、疑いとは、ずいぶんと弱気だなあ」。

たしかにそうかもしれない。でもぼくの意見は逆だ。そこで「強気」になることで、誤診が起こってしまうのだから。

「疑い」という診断名には一定の価値がある。

でも……価値があるのは間違いないけれど、やっぱり「疑い」というのは困った診断名である。

「疑い」どまりだと、臨床医は治療に踏み切れない。

ここはジレンマである。

臨床医も病理医も、とにかく慎重だ。患者に負担をかける治療、手術や抗がん剤や放射線などをする際には、なるべく確定した情報をもとに話をすすめたい。

「疑い」までしか病理診断できなかった場合には、たいてい、「再検」が行われる。

もういちど検査をくり返すということ。

「はっきりしたがんが見える」まで病理診断をやり直す。

当然の慎重さだ。

しかし。

誰もがじりじりとする。

患者はもちろんだが、主治医も、そして病理医も、「がんかがんじゃないのか、早く決まってくれ!」と感じる。



幾度目かの再検で、これはもう誰が見てもがん細胞だ、という細胞が検出される。このとき、病理医は思わず、

「やった! はっきりしたがんが出てきた! 良かった!」

と言いたくなる。そして1秒後にすかさず否定する。

「がんが出たのだから……良かったってことはないわな……うん……良くはないわ……」



でも、診断がつくかつかないかの宙ぶらりんで、いつまでも体の中に病気を抱えたまま、治療がストップしている状態にくらべたら、やっぱり、思わず「良かった!」と言いたくなってしまう。このへんの事情やニュアンスを、どうか汲んでほしい。がんで良かったってことはないんだけどさ。





ところで、ぼくがこれまでに習ってきたボスの一人は、生検でがんが検出されるたびに、「大変だ……」とか、「うーん、かわいそうに」とか、「出ちゃったねえ」と、悲しそうな顔をした。

それを見たぼくは最初、年間に何千人もの患者の細胞をみている病理医が、主治医でもないのにいちいち患者に感情移入しているなんてどれだけ情に篤いのかと、ずいぶんびっくりした。

しかし、医師として長くはたらくうち、自分が細胞をみて「がん」と名付けたあとにどれだけの人たちが苦労して対処していくのかを具体的に知るにつれて、いつしかボスとおなじように、「あちゃあ」とか「うーん」とか言うようになった。

そんな当時のボスも、むずかしい症例を「疑い」「疑い」で診断し続けたあと、ついに出てきたがんの「本体」を前に、思わず「良かった……捕まえたな。」と言ったことがあった。そしてやっぱりすかさず、「いや、良くはないけどな。」と言った。ああなるほどそうなんだなあと思った。




※本日は話の流れ上、臨床医がこれはと思った人からしか細胞をとらない、という語り方をした。ただし「健康診断」は別である。ぜんぜん具合が悪くない人から細胞をとってくる。この場合、病理医が仮に「がんだ」と言ったとしても、臨床医はまだその患者をきちんと見立てていないので、「病理医ががんだと言っているのであらためて検査をしますね」というように、いちから診察を組み立てる。病理医ががんだと言ったら即手術、とは限らない。

2023年10月10日火曜日

アシスタントが変わることで背景が変わる

伊藤園のリラックスジャスミンティーのラベルに「はなやぐ香り 花1.5倍」と書いてあった。なんのこっちゃと思ってあちこちひっくり返してみると、

「伊藤園オリジナル原料は一般的なジャスミン茶の1.5倍の花を使って香りづけしています」

とある。ジャスミンティーの原料はジャスミンの花だけではないのか。原料欄をみると、「ジャスミン茶(花、緑茶)」。緑茶にジャスミンの花で香りを付けていたんだな。

そりゃそうかと思いつついろいろ調べる。かつては烏龍茶よりもジャスミン茶のほうがいっぱい輸入されていたとか、ジャスミンというのはアラビアの言葉だとか、ジャスミン茶は結局のところ緑茶メインだからふつうにカフェインが含まれているよとか、あんまりこれまで意識していなかった系の情報がぽろぽろ出てくる。昔、息子と沖縄に行ったときにさんぴん茶がおいしいなと感じ、それ以来頻繁にデスクでジャスミン茶を飲むようになった。たしかこのブログでも前に書いたことがある。



――「このブログでも前に書いたことがある」が指から打ち出されている最中、精神の奥に両面宿儺のように控えているもう一人のぼくが、(「前にも書いたけれど」というエクスキューズは無意味だからやめたほうがいいぞ)と言う。確かになあと納得しつつ、そのまま打ち終わり、「無意味だから」でブレーキがかかることってそんなにないんだよ、と、ぼくは振り向きながら奥にいるぼくに伝える。奥のぼくは確かになあと納得してうなずいている。


これまでどこに何を書いたのかがよくわからなくなってきた。書評、ミニコラム、散逸する。検索もうまくワークしない。紙媒体だと絶望的だ。同じ事を何度も書いてしまっている。たぶん。検証ができないから推測でしかない。前に書いたときにどのように展開したかを記憶していない。うろ覚えで前回はこんな感じで書いたから今回はちょっと違うことを書こう、みたいに無理矢理調整している。いっそ、「前回と全く同じように書いてみる」というのをやってみたい。でも覚えてない以上はまったく同じにも書けないのだ。文章のにおいが似通っていて、あっこれ書いたなってニュアンスだけはわかるのだけれど、それ以上には深まっていかない。事実という緑茶にニュアンスの香りをつけたものを飲み終わると、事実はふっとんで香りだけが残り、その香りも次第に鼻の奥から消えていって、最後には事実に含まれたカフェインがにぶく精神を撫でて終わる。


あだち充は過去に描いたマンガの筋をどれだけ覚えているのだろうか。じつは毎回、「まったく同じものを記憶のままに描き直している」のだけれど、記憶がうすれてしまっているために細部から崩れて、最終的には別モノになっている、という可能性はないだろうか。もしくは、担当編集者がうつりかわったり、チーフアシスタントが入れ替わった結果、微細な反応の違いがカオス的にふくらんで結果として別の物語になっているだけ、ということはないのだろうか。

2023年10月6日金曜日

病理の話(824) 形態からロジックを進めていくタイプの病理診断とロジックによりあらかじめ形態を予測するタイプの病理診断

病理診断は「形態診断」である。こむずかしい言葉を使ってしまったが、ずばり「細胞のかたち(形態)を見て診断をする」ということだ。

病理医にとっては、

「虚心坦懐に細胞のかたちをながめる」

ことこそが仕事の本質といえる。


病院にやってきた患者は、自分の言葉でいろいろと悩みを語る。主治医は診察や検査を通じて患者の内部に何が起こっているのかを推測する。患者と主治医(はじめさまざまな医療スタッフの)二人三脚ならぬ「n人 n+1脚」の奮闘の過程で細胞が採取され、病理医のもとに届く。

その細胞にはさまざまな「経緯」がまとわりついている。

病理診断の依頼書に、「この患者はこれこれこういう流れで病院に来て、今のところこれくらいの検査を終えており、主治医であるワタクシはこのような病気を考えていますよ」という情報が書いてある。これが「経緯」。

病理医は「経緯」を見て、しかし、いったん見なかったことにする。そして精神の重心をゼロ座標に置き直し、虚心坦懐に細胞をながめる。事前情報なしで純粋に細胞をみる。そこから得られる純然の形態学的情報を精査する。臨床の流れからは独立した、病理医だけの、病理医にしかできない判断。ここに病理医の強みがあり存在意義がある。

臨床現場が見落としたもの、臨床現場が勘違いしているもの、臨床現場が解像度的に到達しえないものを、病理という孤高の部門が独自に見出し、育て、アナザーストーリーに編む。「細胞からしかわからない情報」を患者や主治医に渡す。


ある日、患者と主治医が「これは臓器Aに発生したがんだろう」と考えて細胞を採ってきた。しかし、病理医はその「経緯」を完全に無視して、純粋な「目の力」だけで細胞をみた。すると、Aのがんとよく似ているのだが、じつはBという臓器のがんの転移だということに気づく。細胞のかたちがほんのわずかに違ったのだ。「Aに発生したがん」と、「Bに発生してAに転移したがん」では、治療法がまるで違う。その違いを見極められるのは病理医だけ。

主治医と一緒になって、「どうせAのがんだろう」と思い込んでいると、Bからの転移という診断にたどり着けなかったであろう。細胞のかたちの違いは微弱だからだ。主治医たちが99%の確率でAの病気だと思っているときに、それをひっくり返せるのは、一切の経緯を無視して虚心坦懐になれた病理医だけ、なのである。


これが本質。


そして、しかし、この話と矛盾することなく、病理医はもう一種類の思考も行う。じつは病理診断の本質は二本立てなのである。


もう一本の思考は、端的に言えば「経緯を無視しない」ことによってなされる。

患者・医療スタッフ連合がこれまで積み上げてきたストーリーを捨てない。脇に置かない。それにしっかりと乗る。先入観をたっぷり抱えて細胞をみる。

いかなる「経緯」で細胞が採られてきたのか、その背景をじっくり吟味する。当然、主治医の思考をなぞることになるが、なぞって同じ中間地点で立ち止まっては意味がない。「主治医が考えた先に病理医として歩むと、細胞はどのように見えるはずなのか?」というところまで考える。主治医よりも長く考える。「経緯がこうなのだから、こんな細胞がとられているべきだ」という目。色メガネをかけると言ってもいい。

「こういう細胞が見えるはずだ」と、思い切り重心を移動させ、勢いをつけて細胞をみる。臨床医の動きを察知してそれを乗り越えていく感覚。剣道でいうところの「後の先」に近い。後から動き出したのに先に打突する。

こちらもまた病理医の仕事の本質ではないかと考えている。



以上の二つの思考を整理する。

(1)「形態をみる→ロジックを思い浮かべる」という思考と、

(2)「ロジックを組む→形態で確認する」という思考。

この両方が病理診断において走っている。


たとえば上部消化管内視鏡生検(一般的に胃カメラと呼ばれるもの)で細胞が採取され、病理診断を行う場合、私はこのように考えている。

【形態→ロジック】(無心で細胞を見て)「核異型があるがフロント形成が甘い。背景に炎症細胞が多数認められることを加味すると、炎症に伴う再生異型だろう。ただし粘膜の深部で化生腺管とするにはやや違和感のある涙的状の小構造物があるのが気にかかる」

【ロジック→形態】(依頼書を読んで)「ピロリ菌現感染の患者、胃角付近の小弯に発赤陥凹局面。炎症性でよいと思われるが単発のため、念のため生検。十中八九は炎症性の所見が出るだろうが、横這い型の胃癌が中層や深部に這っているとしたら気を付けて見なければいけない」


この両者は同じ検体を見つつ「違う脳の使い方」をして走らせた二本のプログラムである。これらのプログラムはいずれも同じ帰結へと導かれる。

「標本を切り直し、深切り切片も作成して情報を増やし、極小のがんを見つけるための努力をもう少し加えるべき」。



最後は、病理医以外には何を言っているかよくわからなかったかもしれないが、雰囲気だけ掴んでいただければと思う。


A→B→Cという思考と、B→A→C'という思考を、なるべく互いに独立した状態で走らせて、それで結果的にC=C'だったら診断がすごく強固になる。

さらに言えば、振り返り・学習や、研究会での発表、学会での講演などの際には、「結論(診断)がついている症例からふりかえり、臨床現場ではどのようにロジックを組み立てたらこの結論にすばやく・正確にたどり着くことができたか」をなぞっていくこともある。

C→A→B、もしくはC→B→A的思考ということになろう。

なんなら、この思考も診断の際にちょっとだけ走らせている。二本のプログラム+バックグラウンドにうっすらと三本目のプログラム。

「細胞を虚心坦懐に見つつ、主治医と伴走する思考回路も走らせつつ、脳内の数%では理屈を越えた部分から超然と湧き出た診断C、C'、C''、C'''……を思い浮かべており、それぞれのCだったらどのような細胞が『見え得るか』、どのような臨床像を『取り得るか』をぼんやりと考えている」



最後のやつは余計だったかもしれない。気を付けないと誤診の元にもなる。意図的にこれをやっているうちはいいが、無意識で「理想の診断」に引っ張られているようだと危ない。そういう話を研修医にする。ぽかんとされることが多い。

2023年10月5日木曜日

クオリティからぼく降りてぇぃ

おはようございMAX。おやすMINIMUM。睡眠が足りていない。日中だるい。寝ている時間自体はきちんと7時間とか8時間とかもうけているはずなのだが、いわゆる、「睡眠の質が悪い」というやつなのかもしれない――。

この「睡眠の質」という言葉が、難儀だなと思う。つい使ってしまうが。


睡眠に質があること自体は医学的にもまちがいない。体感的にも質があると感じる。しかし、質がいい・悪いと口に出した途端に、シェフとかパティシエの気分で睡眠を吟味しなければいけない圧がかかってきて、それがしんどい。

質を客観評価することによる副反応。

なるべくいいほうにもっていかなければいけないムードが発生するということ。

中くらいの質なら十分だよ、というスタンスが取りづらい。それなりでいいんだよ、が言えなくなる。本来は「そこそこやりくりする」くらいでいいはずのこと。睡眠なんてのは「その日できた限りの睡眠でいいし、それでやっていける範囲で日中すごしていこう」くらいで語り終えてしまってよいものではなかったか。人体とはそれくらいの活動幅を担保してくれるシステムではなかったか。しかし、世の中に「睡眠の質」というワードが広がって以降、睡眠に対する半端な姿勢が許容されなくなったように思う。

いい睡眠をしたい、はわかる。

睡眠をよくしましょう、にはうるせぇなと感じる。




先日から札幌駅周辺で何度か飲み食いしているのだが、選んだ店がどれもいまいちだった。これは単にぼくが感染症禍の間に飲食店の情報をアップデートできなかったためなのかと思ったけれど、どうやらそうでもないらしい。同世代の友人・知人にたずねてみたところ、札幌駅まわりの再開発に伴い、周辺の居酒屋がだいぶごちゃごちゃ変化している最中のようで、ホットペッパーなどで安易に探さないほうがいいという結論になった。

さすがに駅・地下街直結のでかいビルに入ってるような、やや高めのド定番の店は盤石のようだが、土日は観光客まみれでオペレーションがぐだぐだになってしまい居心地が悪かったりするし、かと思えば平日は異様に人が少なくて店側が仕入れをサボっていて料理が出てこなかったりもする。まるで観光地のようではないか(内地の人間は札幌を観光地だと思っているが、北海道が観光地なだけで札幌は違うと思っていた。でももう違うのだろう)。

ホットペッパーだけを見るとどこもすごくきれいだ。しかし単に写真の加工がうまいだけ。魚介の品揃えが少なく、現地のお酒はぜんぶ売り切れ。東京で仕事をした夜に、予約をとらずに混雑する町をぶらつき、空席があるというだけで適当に入ったチェーン店の残念感がフラッシュバックする。「札幌なら何食ってもうまい」というのは幻想になってしまった。

……というようなことを話していたら、一人が言った。

「ネットで店を選ぶとはずれる。インスタならいわゆる口コミだから大丈夫、みたいなライフハックも通用しなくなっている。インスタが上手なだけの店が増え、ステマも巧妙で、検索には手間とセンスが必要だ。実際に体験した人から直で聞く口コミの価値が相対的に上がっている」

はーなるほど。

「あと、これは俺の印象なんだけど、『質で勝負』を声高にいう店は今全体的にヤバい」

ああ……ぼんやりしてるけど言いたいニュアンスはわかる。

産地直送、朝市直結、魚介に自信! みたいな店の、メニューの品揃えのしょぼさや接客の雑さ、掃除の行き届いてなさを見て、「質で勝負」ほど安易な売り言葉もない、ということをふわっと味わった。彼もそういうことを言っているのだろう。

なにかの質の良し悪しを語ることは「手品師の左手」だ。なにか派手な動きをすることでほかのすべてから目線をそらすためのテクニックである。

以上の話の裏を返すと、最近のぼくがいかに「質のいい店」を探そうとして失敗しているかということでもある。




「なんとなく感じがよいところ」というのをもっと大事にしたほうがいいのかもしれない。いい店に出会いたければ自分で足を運ぶ。当然のことだがネットになれすぎていた。インスタのうまさに騙されない。料理、接客、店内のきれいさ、みたいな「ステータス」を各個に思い浮かべてひとつひとつ採点しはじめた時点で、ぼくはいい店に出会う縁を失っていた。「まーまーいい感じのラーメンを食べた」みたいなことをエッセイに書く、燃え殻さんのやりくりは上手だな、とあらためて思った。

2023年10月4日水曜日

病理の話(823) 病理医のインストールとDLC

いつも以上に主観的なことを書く。

だいたいひとつの職場に15年いると、その職場で体験しがちなシチュエーションや、求められる職能・スキルの「インストールが終わる」。


たとえばぼくの場合、当院でかなり頻繁に施行されている胃や大腸の「生検」と呼ばれる検査について、あれこれを習熟するのに10年ちょっとかかった。内視鏡医がどういう場面で、どういう患者からどのように検体を採取して、それをぼくらがどのように診断すると患者のためになるか、という「セット」がまるまる身につくのにそれくらいは必要だった。

正直、こんなにかかるとは思っていなかった。

なにせ、「胃生検標本の見かた」みたいな本はたくさん出ているし、「大腸の炎症性腸疾患の考えかた」みたいな雑誌の特集もいっぱいあるわけで、これらをさっさと極めれば、もっと早めに独り立ちできるだろうと考えていた。

じっさい、教科書と首っ引きで顕微鏡をみる訓練は、せいぜい3年とか5年もやれば一定のレベルに達する。ぼくより座学が得意なタイプだったらもっと早かったかもしれない。1年も経たずにある程度標本が見られるようになる病理医も多い。もともと情報処理能力が高い人たちが病理医になるのだから、当然といえば当然だ。かんたんに言うと「頭がいいんだから頭を使う仕事はすぐできるようになるはず」である。

しかし、顕微鏡像を見て考える知識自体は5年で手に入っても、それを病理診断というかたちに落とし込む仕事や、さらには「主治医とコミュニケーションをとって病理診断をよい医療に結びつける仕事」を自然にこなせるようになるのに、もっと長く時間がかかった。

ぼくは5年目くらいのときに、「よし、これでなんとか病理医っぽく働けるぞ」と思った記憶がある。しかしそこからの道は険しかった。

主治医が悩んでいる難しい症例では、病理診断も難しくなりがちだ。教科書にあるような典型的な細胞像や細胞の配列を来していない。そのため、「主治医が悩んで病理医に電話をかけてきたときほど、病理医であるぼくも悩んでいてなにも言えない」みたいなことがよく起こった。

これにずいぶんと悩まされた。

臨床医が悩んでいるときに一緒になって悩む病理医なんて、「存在価値」がないのではないかと感じたからだ。

レベルアップの必要性を感じ、ぼくの場合はそこから臨床医のものの考え方(臨床医学)を追加で自分にインストールすることを選んだ。追加コンテンツである。

ただ、それらの追加のおかげで今しっかり働けるようになったのかというと、どうもそういうわけではないんじゃないかな、と思うのだ。そもそも、5年の段階でインストールが終わっていたというのが「誤認」ではなかったか。


教科書に載っている細胞の写真と向き合うのに5年。しかしそこでじつは「専門知基本セット」のダウンロードはまだまだ終わっていなかった。現実にいる患者からひとつながりになった先にある「生きた細胞」(※採取した時点で死んでいるのだが)を見ることには、問題集や写真集から得られる情報量と比べてかなりの差があった。その膨大なデータを処理するためには、

・現場特有の、主治医の考え方

・現場でありがちな、細胞の見え方

・あるバックグラウンド(背景)で、ある選択圧がかかった状態でやってくる患者の傾向と、それにあわせて出現する細胞のニュアンス

などを、「リアルに経験して」学んでいく必要があった。ダウンロードもインストールも5年で終わるわけはなかった。



そして、これらのインストールがようやく終わった今、思うことがある。


アプデがめちゃ多い。毎週のようにバージョンが更新されていく。追加ダウンロードコンテンツ(DLC)も豊富だ。現在現場生活16年、医師生活20年(途中大学院に行っている)で、ようやく基本セットをコンプしたかしてないかといったところ。先は長い。奥は深い。課金……ウッ頭が……。

2023年10月3日火曜日

ストーキングバロメーター

ツイッターのフォロワーが毎日減っている。ツイートの表示回数もあきらかに減っており、ツイート回数が少ないせいというのもあるかもしれないが、おそらく認証していないアカウントだと今までほどの閲覧数は得られないということだろう。「課金勢へのひいき」がはじまっている。運営側の当然の権利だし、みんなもそれをわかって課金をしているのだから極めて健全なことだ。

ぼくが発信力をもはや持たないことを、ぼくの周囲にいる人たちも感じ始めたらしく、いままで頻繁に飛び込んできた「拡散を手伝ってください」系の案件がぱたりと止んだ。数字という価値でつながっていた人びととの縁が少しずつ切れている。

それは悪いことだとは思わない。ぼくだって「数字」のない人には仕事を頼まないのだからお互いさまである。

先日こんなことがあった。ある金曜日に、ぼく宛の連絡を代わりに受け取った人が、週末をはさんで月曜日にぼくにそのことを伝達してきた。土日が休みだというのはわかるが、だったら金曜日のうちにメール一本入れておけばよかったのに、と思う。まあ、金曜日の夜、時間外に受け取った案件を消化するのに土日を挟んでしまったということなのかもしれない。ならばしょうがない、社会人としては十分対応してくれている。でも、そのスピード感を当然と思っている人と仕事をすることで、土日もフルに使って診断以外の研究・教育・社会へのコミットをしているぼくの案件は渋滞する。その人が悪いわけでは全くないがぼくとの相性がよくない、具体的には「日数に対するセンスが噛み合わない」。なので申し訳ないがもう一緒に働けない。

これだって要は「数字」で人を切っているということだ。いい人だから一緒にはたらく、悪い人だからはたらかない、みたいな基準を採用していない。ぼくがツイッターにおける影響力を失って、そこを頼りにしていた人たちが離れていく、それと全く同じことを、ぼくも人に対してやっている。



ずいぶん前から一緒に仕事しましょうと言われていた人の案件をツイートするために、たまにツイッターを起動していくつかツイートをした。散発的に人が見に来て、かつての期待値ほどではないけれど幾人かの元に届いていく。それを見たのだろう、ふだん沈黙しているストーカーたちが元気になって、ぼくがエゴサするであろう単語をこれでもかとしのばせた誹謗中傷のツイートをして、法的処置を怖れて数時間後に消す。わりとどのストーカーもそういうことをする。ストーカーが沸くのは数字が見えるときだけだ。ぼくの声がどれだけ世に届いているのかのバロメーターのひとつが変質者の数である。

数字からは逃れられない。勉強をした時間、覚えている病気の数、診断してきたプレパラートの枚数、出してきた論文の本数、これらを元に給料をもらっているぼくが、いまさら、SNSでは数字以外の価値を求めていきたいなんて、往生際が悪いのかも知れない。ストーカーすらぼくの数字しか見ていないのだ。さもしいことである。

2023年10月2日月曜日

病理の話(822) 時代とともに見たり見なくなったりするということ

時代はうつりかわる。


むかし、私が産まれる前の話、肝臓のがんは、「見つかったらもう全身に転移している」か、「亡くなってから解剖によって発見される」ものであったという。肝臓は俗に「沈黙の臓器」とよばれ、病気があっても症状として出にくい。

さらに悪いことに、当時は、肝炎ウイルス(B型肝炎とかC型肝炎とかいわれるあれの原因)が肝臓がんのきっかけになるということがわかっていなかった。そもそもこれらのウイルス自体が発見されていなかった。

どういう人に肝臓のがんが出やすいかがわからないと、「早めに検査する」ことができない。国民全員に毎年肝臓の検査を受けさせるわけにもいかない。


しかし、医学は少しずつ進歩した。肝臓にどういう病気をもっているとがんになりやすいかが、少しずつ突き止められ、肝臓のがんになりそうな人を集めて検査できる態勢が少しずつ整っていった。

そんな肝臓の医療の歴史において、ひとつめの大きなブレイクスルーが、「AFP」という腫瘍マーカーの発見だ。血液でAFPの値を調べることで、肝臓がんの多くがなんとなく見つかる。これはすごいことだ。

しかし、AFPの値が高くなってから見つかるようながんは、治療があまりうまくいかないことも多かった。AFPは今でも用いるけれど、がんの早期発見のためではなく、がんの経過をみるときに使うことがほとんどだ。

その後、決定的な変化がおとずれる。超音波検査の登場だ。近年は妊婦健診で赤ちゃんの手足や顔を見るときに使う、あの小さな装置が、肝臓のがんを見つけるのにかなり有利だということがわかった。

それまでは血管造影とよばれるレントゲン系の検査が主流で、登場して間もないCTやMRIも用いられつつあったが、とにかく大がかりで、気軽に行える検査ではなかった。その点超音波はとても気楽な検査だ。患者への負担もほとんどない(お腹を出して横になるだけだ)。

こうして、1970年代の後半から1980年代にかけて、肝臓のがんを「なるべく早くみつけて、早く治療する」というモチベーションが巻き起こった。



このころ日本では、千葉や久留米の大学から、「肝臓に針を刺して細胞をとる装置」が相次いで開発・改良された。超音波で肝臓を検査し、あやしいカゲが映っていたら、病気っぽいところを注射針のようなもので刺して、細胞をとってくる。それを病理医が見てがんの診断を付けてから手術で病気をとる。

流れるようなシステムによって、2 cmに満たないがんが次々と発見された。それまでの時代に見つかる肝臓がんの多くは5 cmを越えており、ときに10 cm以上で、見つかったときにはもう破裂してしまっているなんてこともあったから、非常に大きな進歩だ。

この時代、病理医は次々と肝臓がんを検査した。多くの知見があつまり、専門的な研究会がいっぱい開催された。

がんだけでなく、たくさんの肝臓の病気が同時に調べられた。

超音波、CT、MRIにどんなふうにカゲが映っていたら、細胞はどんな感じなのかという、「照らしあわせ」が猛烈な勢いで進んでいったのだ。


そして医療の進歩はさらに、思いも寄らない方向に進む。

画像診断のキレ味が上がりすぎて、特にMRIを用いると、「事前に細胞を採取しなくても、それががんかがんでないかがほぼわかる」というすさまじい精度が達成された。そうなるともう、肝臓に針を刺して細胞をとってくる必要がないのだ。もちろんすべての病気で細胞の検査を省略できるわけではないので、ここぞというときには病理医も細胞をがんばって見るのだけれど、肝臓の針生検の件数は激減し、その結果、「肝臓の病気が得意な病理医」の数も少しずつ減り始めた。

そして……今ではなんと、画像だけでがんと診断したあとに、手術をせずに病気の部分だけを焼いて直してしまう、「ラジオ波焼灼療法(RFA)」という治療が存在する。使い所がある程度限られているので、ぜんぶの病気を焼いて倒せるわけではないのだけれど、一部の典型的な肝臓がんなどは、


・MRIで確定診断 → RFAで焼いて治す


という流れでコントロールできるようになった。すばらしいことだ。

そして、がん手術の件数が減るので、いよいよ病理医は肝臓の病気をみる機会が減る。


令和の「肝臓病理診断」は非常に高度である。特殊ながん、教科書にはあまり書いていないタイプのがんを見ることがけっこう多い。50年前にいっぱいあった、「普通の肝臓がん」は、検査もせず、手術もせずに治してしまうことが増え、「診断が難しい肝臓がん」の比率が相対的に高まっている。

そして、細胞をみることなく診断と治療を進めていくことで、「細胞のことをよく知らない主治医」が増えた。肝臓がんを観察した超音波の白黒画像が、なぜ特定のパターンを呈するのか、説明できないドクターが増えている。余計なことを覚えずに、PythonやAIの勉強をしたほうが将来の役に立つのだから、それはそれで、効率がよくてすばらしいことではある。


そしてぼくはときどき昔の論文を読む。

「細胞を見る回数が減った分、学びきれなくなった話を、先輩たちの研究を通して確認しておくため」である。

現代の肝臓病理学は中級編以上しか存在しない。初級編がない。日常的に診断をしていても難しい症例ばかりと出会う。「かつての典型例」はだんだん論文の中にしか存在しなくなる。勉強でそこんところを補う必要がある。医学が進歩すると勉強が難しくなるのだ。これはどんなジャンルでも起こっていることである。

2023年9月29日金曜日

重さと遠さ

ぜんぜん別の場所から依頼された原稿のしめきりが、ぴったり同じ2024年3月29日であった。まだ半年あるから楽勝だと言いたいところだけれど、まるかぶりしたのでさすがにどうしたものかと頭を悩ませている。

でも、まあ、悩んでいることはいるんだけど、若いころとは悩みの深さが違うからそんなに大変でもないんだよな、とも思う。

言葉にすると「どうしたもんかなあ」の9文字だ。

脳内に浮かぶフレーズ自体は、若いころも今もあまり変わらない。

ただし、若い頃の「どうしたもんかなあ」は、「けもの道すらないジャングルの中でどちらに一歩目を踏み出すか」というニュアンスだったのに対し、今の「どうしたもんかなあ」は「標高も登山道もわかっている山を目の前に、あらゆる登山グッズも身につけた状態で、そろそろ歩き始めておけばまず間違いなく山は登れるけれど、足腰に疲れが出ていてあまり動き出したくない」という意味になっている。

冷静にくらべてみると今はずいぶんと楽だ。

若い頃の不全感のほうがきつかった。道が見えないし、見えても力が足りない、アイテムが足りない、情報が足りない。

かつてのことを思うと、今のぼくが「悩んでいる」と口にするのは、なんかちょっと軽いなあと感じる。


しかしなんというか、軽重でいうと軽い悩みが、遠近でいうとより今のほうが自分の心に近いところに悩みのコアがある。

むかしは、自分の力では持ち上げられないような重さの課題を、遠巻きにして眺め、薄目でじとっと見据えたりしていた。あんなのどうやっても動かせないじゃないか。こんなの何から手をつけたらいいんだ。解法が全然わかんないよ。

一方で今は、ねとねとと自分の体にへばりつくような課題を、あーめんどくさい、うーんおっくうだ、ちくしょういろいろやることがあるなあと、片っ端からブツブツさばいていくような感じだ。

昔のほうが遠かった。今のほうが近い、というか、うっとうしい。


どっちのほうが大変だと価値に順位を付ける必要もないのだ。若いころのぼくも今のぼくも、どちらもぼくなのだからケンカしてもしょうがない。ただ、悩みやストレスには軽重だけではなくて距離の概念があるということは、なんとなく、気にしておいてもいいかもしれないなと思った。他人が何かを悩んでいるときにも、そういう目線で、重さだけでなく遠さについても見ておくとよいのかもなと思ったのだった。

2023年9月28日木曜日

病理の話(821) がんの根拠

細胞を見て、がんか、がんじゃないのかと判断するにはなんらかの基準が必要だ。その基準が「一種類」ならいいのだけれど、なかなかそうもうまくいかない。


病理医になるための訓練をはじめてしばらくの間は、診断の基準、あるいは根拠を、きちんと報告書に書くように指導されることが多い。

「がんです。」

とだけ書いてもだめで、「ナニナニがコレコレしているから、がんです。」と、自分がなぜそれをがんと判断したのかの筋道を示すのである。

ここでよく使われるのはたとえば次のようなフレーズだ。


「核の腫大」。細胞の核が普通のものにくらべて大きく腫れ上がっているということ。

「クロマチンの増加」。核の内部にある染色体がいつもよりも濃く染まっているということ。

これらの所見があると、ある細胞を「がん」であると認定しやすい。


ただし実際には言うほど簡単ではない。核が大きくなるとか、クロマチンが濃くなるといった現象は、がん以外の細胞にも見られるからだ。

「がんっぽい見た目になっているけれど、じつは良性」という細胞があり、始末が悪い。がんだと判断して手術をして、臓器を採ってきてよく見たらがんではなかったというとき、「なーんだがんじゃなかった! よかったねえ」で済ませられるかどうか。がんじゃないのに大事な臓器を切り取ってしまったことがダメージとしてのしかかってくる。


そこで病理医は、ある細胞が「がんである根拠」を、より深く考える。

「核の腫大」だけで終わらせない。より細かく読み解く。たとえば、もともと卵形をしている核がパンと球形に張り詰めるようにふくらむのと、だらしなくビロビロに伸びた靴下のようにふにゃふにゃと大きくなるとではだいぶニュアンスが違うだろう。

「クロマチンの増加」だけで終わらせない。核の中の、核膜と呼ばれる部分の色がどれくらい濃くなっているのか。核の内部とくらべてどうなのか。中身が増えて色が濃くなっているとき、その部分の模様は、大小のツブツブが入り混じるごま塩状なのか、均質で微細なテンテンが多くみられる塩状(ごまがない)なのか、それとも、スマッジと呼ばれるべったりとした油絵風なのか。

これらの所見をひとつの細胞で判断するのではなく、隣同士の細胞と見比べてどうなのかを考える。近所の細胞がぜんぶ同じような見た目になっているのであれば、それらは「同一の起源から発生した兄弟」であると判断することができるし、逆に周りにいる細胞どうしが似ても似つかないほど異なった核性状をしているなら、「増殖の異常がつよすぎて、足並みが揃っていない状態」ではないかと推察することも可能だ。

核どうしの距離はどうか? 核の向きは揃っているか? マスゲームのようにあらゆる細胞が同じ方向をむいていたらそれは何かおかしなことが起こっている。逆に本来は秩序をもって並んでいてほしい場所で細胞の向きが好き勝手バラバラだったらそれはそれで異常だ。

近所に「正常の細胞」があるとわかっているならそれと見比べるのもよい。まわりにたくさんの細胞がある中でこの一角だけ妙に色が濃い、となればそれはきっと意味のある所見だ。

そしてこれらを、どんどん組み合わせていく。



「内腔の細胞と基底側の細胞のおりなす『二相構造』は消失しているからがんかもしれない。しかし、核異型はさほど強くないから、核だけでがんと即断できるわけではない。ただ、周りの細胞とくらべてこの一角だけは隣近所の細胞が似通っているように見える。核のクロマチンは軽度増加し、ときおり核小体が顕在化していて、核膜はさほど不整ではないのだが核のサイズが軽度増加して、それもパンと張っている感じがする。免疫染色を行うとbasal phenotypeマーカーが一切内部に混じってこないのは良性としては少し気になるところだ。管腔内に壊死がある場所がある。これらを総合すると、この一角はがんだろう。」

これくらい、こねくり回した内容を、すべて報告書に書いてもだめだ。病理医以外は何を書いているかよくわからない。主治医すら振り落とされてしまう。だから、以下のようにまとめる。

「異型を有する細胞が均質に増殖しておりがんと判断します。」

異型、というのは「正常からのかけはなれ」という意味だ。異型を有する、すなわち、「ふつうじゃない」くらいの意味である。今の一文には実際ほとんど意味がない。がんだからがんです、と言っているのと近い。でも、病理医は、こう書く。「異型」というのが具体的に何を意味するのかをしっかり吟味した上で、主治医や患者を振り落とさないために表現を簡単にまとめて、「異型を有する」と書く。ほんとうは裏でいろいろ考えている。

2023年9月27日水曜日

病みと光

大分市で書店イベントをやった。豆塚エリさんとご一緒した。会場からの質問コーナーで、最前列に座っていた方から「違和感の表明」があり、ぐっと来た。


その方の違和感とはなにか。


「豆塚さんが1年前に出された書籍『しにたい気持ちが消えるまで』を途中まで読み、いかにもつらく苦しい記憶が書かれている。だから今日もそういうイベントなのだと思っていたが、今日は豆塚さんもヤンデルも語り口が割と明るく、ニコニコしていて、そこが解せない」
というのである。


その男性とはトークイベントの最中何度も目があった。会場がわっと盛り上がっているときも深く沈み込んだような目をしていて、ニコリともしないでいる。なんとなく、うっすらと、「自らの辛さと書籍にある辛さとを寄り添わせながら、痛みや苦しみの記憶をゆっくりと殺している最中」なのではないかと感じていた。

なので、会場からの質問でその方が真っ先に手をあげたときに、内心、(来た!)と思った。

「お二人が楽しそうにお話しされていることに違和感がある」。だろうな、と思ったぼくは、トークイベントの間にぼんやりと用意していた「矢」を放つことにした。


しかし、矢を弓につがえたところで、少し考えて、いったん弦を緩め、まずはほかの聴衆の方々にもライトにわかっていただきたいこととして、以下のようなことを言った。


「ありがとうございます。まず、『しにたい気持ちが消えるまで』については、これ、読み終わった方の多くが似たようなことをおっしゃるんですけれども、内容は非常に重く真剣な本ですが、なぜか読み終わると読後感としては明るさが待っているんですね(ここで会場の幾人かがうなずかれる)。全編にわたって鬱鬱としずみこむだけの本ではない。ご質問をくださった方は、現在読み途中、とのことですが、できれば最後までゆっくりと読み通してみてください。そうしてから、今日の我々のテンションを思い出してみていただければと思います。最後まで読み終えると、なぜ我々が本日基本的にポジティブな精神状態でお話ししているのか、なんとなくわかるのではないかと思います。」


会場の多くはそれで納得をしたように見えた。その空気が凪ぐのを待って、あらためて矢をつがえる。

最初の答えはわかりやすい。「じつは明るさを内包した本なのだ」と述べることは売り上げにもつながるから書店イベントとしても適切だろう。

しかし、ぼくが本当に言いたかったのは、次に控えめに語ったほうのことだった。



「我々が日々こうしてポジティブに暮らしていることと、心の中につらさを抱えたままでいることとは矛盾しないと思うんですよね。」



ぼくは生きづらさを抱えたまま、まさに名の通り、病理医ヤンデルとして人前でニコニコと話をしている。そのことを、少し口調を変えて、軽く付け加えた。

微妙に話がずれたことに気づいた人は何人いただろうか。

質問者は軽く目を見開いた。



「ヤンデレ」「ヤンデル」といった語感を利用したアカウント名は、「医者なのに病んでいるの?」「ネットにどっぷりとはまっているから病んでるってこと?」と、見る人の心に波風を立てるための装置であり、「ヤンデルって名乗ってるのにわりと真面目なことを言うんだね」も、「あれだけの連ツイをするなんてアカウント名通り病んでるなあ」も、およそ思惑通りのリアクションである。

しかし、12年前、実際にその名を名乗り言霊を引き受けるにあたって、今だから言えることだが、ぼくは本当に病んではいないのか、あるいはそのまま真っ直ぐ病んでいるのかという疑問を、自らに対してだいぶ長いこと問いかけた。世のあちこちにいる真に病んだ人をあざわらうような展開にはならないか。シャレで病んでいるフリをすることの失礼さはいかばかりか。ミイラ取りがミイラになる感覚で自分の精神が実際に壊れていくことはないか。ぼくは本当に病んでいるということはないのか。

結論として、ぼくは本当にヤンデルのかもな、というまとめのもと、ぼくは病理医ヤンデルをはじめ、いつしかそれを内面化した。



「病み」は、どこかに固定された状態を指すわけではなく、ゆらぎ、振動する概念である。座標が指定できるようなものでもなく、ある体積のどこかに確率として存在する電子雲のようなものだ。笑わない人の目をみながらぼくはずっと考えていた。「自殺未遂をしたのに、病んでいるのに、なぜ今そうして笑っていられるのか」という質問が出る根底には、みずからの居る場所が淵の底、部屋の片隅、暗闇の一点にしかないという思考があるのではないか。しかし本当はそうではないのだ。ぼくと同じように、人は病んでいながら笑っていいし、病みながら同時にすこやかであることもあり得る。逆に笑っていながら病みを抱えているのも自然なことなのだ。ぼくはそういうことを言いたかった。12年以上ずっと言いたかった。それがぼくの矢であった。質問者はいつまでも考えていた。

2023年9月26日火曜日

病理の話(820) 採算と診断と自腹

病院にも経営という概念がある。たくさんの専門家を雇うための人件費が必要だし、医薬品や医療器具を買ったりメンテナンスしたりするのにもお金がかかる。

そのお金はどこから出てくるのかというと、当然患者が払うわけだが、自分にかかったお金を全部払おうと思うととんでもない額になる。お腹を壊して病院にかかってちょっと点滴打ってもらっただけでも、仮に全額払おうとすると何万円とかかる。びっくりするかもしれないが、それだけの試薬とシステムを使っているのが現代の医療だ。

それでは大変なので、日本では、病気になった個人がその場で全額を支払わなくてもいいような仕組みがある。国民が支払っている健康保険料をプールして、本来患者が支払うべき額の7割~9割をまかなう財源とする。

社会が個人を支えている。

マンモスに跳ね飛ばされた狩人が自分の体力だけで生きるか死ぬかとやっていた時代とはわけが違う。

ひとりがくるしんでいたら世間で支える。ひとりひとりが社会の一員として未来の誰かを助けている。



したがって病院の収入もざっくりと7割くらいは国民全体に支えてもらっていることになる。(※ほかにも税制の優遇とか行政からの支援金とかもあるけど、ここでは雰囲気で話しているので正確性については大目に見て欲しい)

となれば、医療従事者はちゃんと節約すべきだ。社会に助けられて医療を担わせてもらっている以上、社会のために無駄遣いは削っていかなければいけない。

そのためには個々の医療従事者がちゃんと経営感覚をもって日々診療にあたる必要がある。人助けならいくらお金を使ってもいいというのは発想が貧困だ。あるひとりに湯水のようにお金を使ったせいで翌日やってきたべつのひとりを助けられないかもしれない、というジレンマに敏感であったほうがいい。


たとえば、やってもやらなくても診療方針が変わらない検査をポンポンオーダーしてはいけない。患者のためになるならばまだしも、「その検査値を医療従事者が見てみたいから」というだけで検査を出してはだめだ。

とはいえ、病理診断学をやっていると「経営的にはだめなんだけどこの検査はやっておきたいなあ」という場面がたまにある。

この検査の結果が白と出るか黒と出るかで、患者の治療が大きく変わるわけではないし、患者がこの先どうなるかという未来予測にもさほど役に立たないのだけれど、病気の正体に半歩くらい近づける、医学の進歩に貢献できる、みたいなシーンが難しい。100%進歩するというならいいが、2%くらいの低確率で2 mmくらい前に進むかも……くらいの話に患者や社会から預かったお金を注ぎ込むのはバランスとしてちょっとなーという感じである。

例としては「腫瘍細胞を切片から切り抜いてきて、病気の中だけに存在する異常なタンパク質や遺伝子の変化を特殊な方法で調べる」みたいなものだ。

1回調べるのに数万~数十万円かかる。患者の治療に直結するわけではないので、医療保険で国が負担をカバーしてくれるわけもなく、患者にもお金を請求することができない。

ではそのお金はどこから出るのか?

ひとつの回答が「研究費」だ。

研究費の出所はいろいろあって、科研費のように国が別の予算を立てて「このお金は科学の進歩のために使おうね」とあちこちの了解を得たお金であったり、病院が経営判断の中で「これくらいのお金は医療スタッフの研究にあてよう」とあらかじめよけておいてくれたお金であったりする。いずれも診療で動く金額に比べるとスズメの涙であるが、まれに、大型の研究予算なんてのもあって、もちろん競争率が激しいし優秀な研究者のもとにしか届かない(大須賀覚あたりはそういう予算をときどき引っ張っているから偉い)。

米国では民間から病院への寄付が膨大な金額になっていて、寄付金を用いて潤沢な研究を行っている場合も多い。しかし日本ではそういう関係性は少ない。

あわてて現場の研究者たちがクラファンをはじめたりしている。ただしクラファンはピンキリなので応援しやすいものとしにくいものがあるけれど。


ぼくも、たまに研究費を使って、病気の解析を少し深く行ったり、似たような症例をいくつか集めて解析をやり直したりということをやる。

ただ、研究費だけでやりたいことができるわけではない。

日常に潜む細かな検査、ひとつひとつは数千円くらいだったりする、そういったものを毎回研究費でなんとかできるかというと、少額なためにかえって面倒になったりもする。

あるいは、診療を続けていくための勉強にかかるお金。本とか出張とか。それもぜんぶ研究費でなんとかする……というのは実際むりである。

そこで「自腹」となる。教科書を買い、研究会や学会に通い、まれに簡易な遺伝子検査にかかる数万円を自分で支払って結果を確認する、みたいなやりかた。

これは下策だ。よくないと思う。医療従事者や研究者の仕事は社会と互助関係にあったほうがよく、個人の気持ちでなんとかしてしまうとシステムが腐っていく。

なので若い人には同じことをやらせたくない。なるべく研究費を取っておいて、若い人がやりたいこと、勉強したいことを病院の予算で応援できるようにあちこち奔走する。結果、自分のために使える予算がなくなるので、また自腹を切るのだが、若い人が上にあがってきたときに困るので、根本的に研究費を増額できるように別の手段を考えて少しずつ調整を進めていく。

こういうことをずっとやっている。



「自腹構造」のような歪みを見つけて、「よくないよ! なんとかお金をもってこないとだめだよ!」とやいのやいの言う人がときにあらわれる。

そういう人たちが、実際に現場に何か役に立つ提言をしてくれたり、財源を付けてくれたりすることはない。善意からの発言だろうけれど、申し訳ないが言いたいだけなのだろうなと感じる。

ぼくだってそんなことはとっくにわかっているのだ。だから、歪んだ構造を少しずつ少しずつ直しながら、「修理が追いつくスピードよりもすばやく研究したがっている自分の心」を癒やすために自腹を切ることもまだ続いている。

あとに続く人には同じことをさせたくない。しかし、ぼく自身がそうすることを、外野から止められても困るのだ。ぼくが何かを追究したい心だけがストップしてしまうことに、外野の人間が責任を取れるわけではない。ぼくが最後の自腹世代だと言われることが目標である。