2023年2月28日火曜日

じつと指を見る

「文章を入力するときに、ガチャガチャターンと大きな音を立てるのは下品だよなと思っているので、なるべくキーボードを優しく叩くようにしています」

ぼくがそう言うと、

「優しく叩く、ってそこそこ矛盾してるよね」

と返された。そうか。そうかもしれない。思えば、英語だとキータッチ、すなわち「触る」である。ブラインドタッチという言葉もある。日本語だとずいぶん強めの言葉を用いるんだなあ。


こうして文章を打ちながら、あらためて自分の手元を見てみる。まじまじ眺めながら文字を打っていくと不思議な気分になる。ブラインドで入力することこそが至高と思ってずっとやってきたけど、むしろモニタを見ずに手元だけ見ながら入力していくほうが身体のふしぎさをダイレクトに感じることができておもしろいかもしれない。あえて強く「叩いて」みたり、なるべく音を出さないようにロロロロッとなで回してみたりする。左手はわりとどっしりしていて、右手はかなり左右に忙しく動く。その都度、手の甲の筋や指の節の部分などがぴくりぴくりと反応し、あるいは入力に使っていない指が次の入力に備えてぷるっと震えたり緊張したり、これまであまり気づいていなかった指や手の予備動作、もしくは重心の移動みたいなものまでもだんだん見えてくるようになる。

じっくり見ていると、どうやらキーボード入力のときにやっていることは「叩く」でも「触る」でもないようだ。打鍵という言葉があるが、「打つ」とも違う。押下(おうか)するというほど指を押し込んで下げているわけでもない。内科医が次々と聴診器を違う所に当てていくような、水平移動のイメージのほうがむしろ近い気がする。這うような、うろうろするような、ゴミ拾い、芝刈り、雪かき、麻薬探知犬。樹皮の表面をペタペタとあちこち触りながら維管束を流れる水分量を感じ取る樹木のお医者さん。ああ、点字ブロック!

自分の手を見ながら他人事のように考える。よく動くなあこの指。もう25年以上もキーボードで入力しているから、歩いたり食べたりするのと同じくらい無意識に体が動く。それをあらためて「見ようと思って見る」。


書き留める、という言葉があって、たしかにボールペンや万年筆で何かを書いているときには「書いて留める」というニュアンスがしっくりくるのだけれど、キーボード入力では書いて留めている感覚から少し離れてくる。「探り探り」という言葉がポンと浮かぶ。そうだな、PCで文章を打つ作業は探り探りだ。指を這わせて脳のシワをなぞっていく。カーテンのひだの中、ドーナツの穴の奥、Oddi括約筋の締め付ける先。なでて探って積もらせていく。叩かず、打たず。

2023年2月27日月曜日

病理の話(750) いつもと違うとわかっただけでラッキーである

顕微鏡で見た細胞の姿が、あまり記憶にない。

いつも診断している病気とどこか違う。

ああ、と小さく声を出して、いったん顕微鏡から目を離して少し考える。

これはわかるまで時間がかかりそうだなあ……と思う。きちんと診断を付けることができるだろうかと、少し不安にもなる。いかにも難しい細胞像だ。



しかし、じつは、この時点で少しだけ安心している自分もいる。このニュアンスは非常に細かいががんばってついてきて欲しい。

なぜ安心しているのか。それは、「いつもの病気じゃない」ということがわかっているからだ。

やばい、難しい、しっかり調べなきゃ! と気合いを入れている時点でかなりラッキーである。



じつは、病理医の誤診で最悪のパターンは、「難しくて診断を間違えた」ではなくて、「いつものアレだと思いこんでいたが、じつはアレじゃなかった」というものだ。

この場合、病理医は、診断の時点で「間違うのが怖いなあとすら思っていない」。いやな症例だとも難しい症例だとも気づかないまま、いつものやつだと判断して堂々と誤診しているのである。自分がやらかしたことに気づいていない。

あとになって、患者の経過が予想していたものと違うとか、一般によく効くはずの治療がぜんぜん効かないなどの指摘をうけて、あわてて見直してはじめて気づく。

マジで怖い。

「診断が難しい」ならば、報告書にそう書いておけば主治医も患者も(困惑しながらも)納得してくれる。しかし、こちらがいつも通りに出した診断がときどき間違っているとなると……ウウ、今こうして書いているだけでも背筋がぞっとする。


「ああ、いつものやつだな」と誤認することこそを病理医は怖れる。

だから複数の病理医の目でダブルチェックをかけたり、過去の誤診例などを飽きずに勉強して(「しくじり先生」である)、日々、誤診が減るように努力をするのだ。



一般に「細胞の顔付き」などと呼称される、細胞像。

・核のサイズ

・核の形状

・細胞質のかたち

・細胞質の色合い

・細胞内含有物

・細胞膜の様子

これらを見ることで、細胞の持つ性質や由来などを見抜くのが病理診断である。


さらに言えば、「顔付き」だけではなく、「ふるまい」も見る。顕微鏡で集められる情報はとても多い。こちらの細胞は徒党を組んでカタマリを作っているとか、あちらの細胞は一列に並んでいるとか、その細胞はあたかも試験管のような構造を作っているとか、そことそこの細胞は結合性が弱くてあまりくっつこうとしない、など……。

本来、人体の中では細胞が秩序を持って適材適所に、さまざまな構造を形成して仕事に励んでいる。しかし病気になると、「ふるまい」がおかしくなる。増えてはいけないところで増えたり、本来入ってはいけないところに入り込んだりするから異常とわかる。


「顔付き」や「ふるまい」を見ながら、この病気は「胃の印環細胞癌」だとか、こちらの病気は「大腸癌の転移」だとかいったように診断をしていく。しかしこのとき、病気の細胞ばかりをクローズアップしていると間違える。Aという病気によく似たBという病気。Cという病気によく似たDという「病気ですらない変化」。

印環細胞癌は炎症によって破壊された幽門腺と似るし、脂肪を貪食したマクロファージにもどことなく似ている。大腸癌の転移だと思ったがどうも調べてみると大腸癌なんてこの人にはそもそもないらしい、まてよ、冷静に、慎重に、あらゆる情報を総合して考え直すとこれは子宮内膜症だ……。


アレとコレが似ているから気を付けなきゃ、という注意喚起には終わりがない。Myxoid fibrosarcomaとmyxoid liposarcomaが似ているのはまだわかるが、浸潤性膵管癌の初期病変かと思いきやintraductal tubulopapillary neoplasm, high-gradeの初期病変でした、みたいなのになると9割の病理医が「何を言っているんだ?」と思うだろうし、肝細胞癌と同じ顔付きをしているがよくみるとそこかしこに肝細胞腺腫の雰囲気が残っているってことあるよねなんていうと9割5分の病理医がヤメテクレッと叫ぶだろう。


だから……病理医はずっとしんどい。勉強し続けないと怖くてしょうがないのである。

顕微鏡を見て、「あっこれは難しい病気だ、見たことのない病気だ」と思うとき、どこか安心している自分がいるというのも、今となってはみなさんなんとなくおわかりなのではないか。「難しい」とわかっていれば対処のしようがある。遠隔コンサルテーションでもなんでも使って有識者の意見を聞きながら、主治医ともじっくり相談して話を進めていけばいい。もちろんこれだって簡単ではない、ストレスでもある、大変だ、しかし! いつものアレだという誤診ほど怖いものはない!

2023年2月24日金曜日

管理職の言い訳

ポイント溜めるより先にやることがある。月の会費をまじめに払い続けているにもかかわらず、12月はたった一度しかジムに行かなかった。1月に至ってはゼロ回である。これほど説得力のある無駄遣いもあるまい。人前では、雪かきで汗だくになっているから運動しなくていい、とうそぶいているがもちろん言い訳だ。体重も血圧も雪かきだけではまるで落ちない。週に一度でもいいから運動を習慣にすべきである。走ること、筋トレすることから逃げてはいけない。これからのぼくはどんどん腰も頸も足腰も肩も弱っていく、それはもう明日の天気よりもはっきりした確定的な未来である。今後少しでも長く座り仕事を続けていくためには今から地道なメンテナンスをするに越したことはない。理論も統計も完璧に理解している。しかし休日は本を読みながら寝てしまうし、平日に時間があると大須賀とTwitter spacesなどをやってしまう。中動態どころか能動態でさぼっている。責任の所在ははっきりしている。

ぼくは昔からこうだ。アマゾンプライムビデオも月に1本も見ていないからプライム会員の会費は無駄になっている。最近とりわけ忙しくてたまたま今の時期だけズボラ……というわけでもない。振り返ってみれば20年前にも、更新していないホームページのサーバ料金を年単位で払い続けていたり、車を停めていない駐車場の月極料金を払っていたりした。たぶんそういう性格、というか欠失がある。




出勤前に雪かきを終えたあとすぐに出かけたかったのだがさすがに疲れたので、天気予報でも見つつ少し座ろうと思ってテレビを付けたら、「管理職になりたくない若者」のインタビュー映像が残っていた。仕事が増えて定時に帰れないのはイヤだから管理職になりたくないです、と街頭の若者が言う。家族や自分のために使う時間を割いてまで責任と給料を増やしたいとは思わないです、とデート中の若者が言う。一方、30代くらいの人は家庭を支えるために給料を増やしたいから管理職になれと言われたらなると思う、みたいなことをしぶしぶ言う。みんな自分のこと、そして自分の拡張現実であるところの家族のことを言う。ぼくが今管理職をやっているモチベーションの多くは、どちらかというと自分のためというよりも、「ぼくがこの事務仕事を代わりに片付けておくから若い人たちは存分に自分のやりたい勉強をするといい」という使命感にあるのだが、インタビューされたとしてそのように答えても編集的に選んでもらえないだろうなという気がした。

ふりかえってみれば、20代のぼくも30代のぼくも、自分とその延長のことしか考えていなかったけれど、それを許してくれた上司や職場や社会に恩があるなとだんだんわかってきて、こんどは順番的に自分が返さなければいけないと思っている。管理職というのはなりたくてなるものではない。なりたくない人の代わりになるものなのだ。それがいいところなのだ。そして、このようないわゆる「美談」を持ち出してまで、「自分のために時間を使うことがへたくそである」という論を、丁寧に、詰め将棋を解くかのように進めて、結局はジムをさぼっていることの口実にする。事務仕事が忙しいからジム仕事に行けない。オチまで完備。そういうことである。そういうところである。

2023年2月22日水曜日

病理の話(749) 人体の基本は出し入れである

「理系(とされるもの)の諸問題」の多くは、的確な理路があれば語り方が1通りに決まるというわけじゃなくて、レイヤーごとに答え方が変わる。たったひとつの真実を見抜くというコナン君は一見理系っぽいが、じつは理系あるあるの疑問に答えるのはけっこうヘタなのではないかと思う。

一例をあげる。「どうして夕焼けは赤いの?」。これには光の散乱を説明することによる「物理学的な答え方」ができる。ググるとレイリー散乱の話とかが必ず出てくるしそこそこ有名だろう。しかし、この回答はあくまで、「物理学で説明しやすい範囲」でしか答えていない。この質問が持つ豊潤なニュアンスの一部を拾い切れていないのだ。たとえば、「なぜ人間は夕焼けを赤やオレンジという概念で理解するの? 青や緑ではだめなの?」と書き換えるとわかりやすいだろうか。火や血、あるいは肌色などと、夕焼けが物理学的には似た波長であるという説明自体はいい、それはわかった。しかし、それらを我々が「赤」と認識している理由に必然性はあるのだろうか、という疑問に物理だけで答えるのは難しい。ストIIの2Pカラーのようにぜんぶ青になっている世界線だってあり得たかもしれないわけで、ぼくらはもしかすると青を暖色系と呼んでいたかもしれない。ぼくらがいっせいに「赤」という概念で把握できているというのはなんなのか。あるいは、ぼくの言う赤とあなたが言う赤はじつは違うのか。……こういった脳科学的・認知科学的な話については、物理学的説明だけではうまく回答できない。「どうして夕焼けを見ると人間は感動するの?」になるとさらに難しい。物理学だけでも進化生物学だけでも、文化人類学的アプローチだけでもだめである。複合しないといけない。おもしろくなってきやがった。


これ系の話でぼくが立場的に一番耳にするのはなにかな……と考えてみた。「生命って結局なんなの?」というざっくりとした質問がなにげに一番多い気がする。一見雑だが十分に奥深い。大学生に合コンで適当に語ってもらってもいっこうにかまわないチャラさを持つ一方で、とうのたった病理医が40を越えてなおネチネチ考えるに足る懐の広さもある。

「生命って結局なんなの?」という質問にも学問のジャンルごとに答えがある。ひとまず解剖生理学的な解釈を試みると、「生命とは結局、命続く限りなんらかの出し入れを行っているもの」となる。生命には必ず膜というか境界があって、それを境に内外がしっかりわかれていて、かつ、栄養を取り込んで不要なものを出すという仕組みが絶対にあって、ここが生理学的には本質だ。もちろん代謝の話を化学(バケガク)的には違った角度から解説することもできるし、種の保存こそが生命の本質という遺伝学的(?)な解説も可能なのだがいったん落ち着いて解剖生理学の話につきあってほしい。とにかく出し入れしているのである。ついでにいうと栄養や水分を取り込みつつ外敵ははね返すという選択制も見逃せない。取り入れる穴、出す穴が肉眼的にわかるタイプの生物がいる一方で、生化学的な穴……チャネルやトランスポーターと呼ばれるもので細胞膜などに(ときに開閉式の)穴を開けて内外で物質をやりとりするタイプの極小生命・細胞もあるからサイズ的にもバリエーションがある。たとえば哺乳類の場合、この出し入れを体表でやろうとせず、口から肛門につながる内的な通路を作ってそこを複雑化させて、出し入れのもろさを体内に格納している。けどまあやってることは結局出し入れだ。

さあ、このように解剖生理学的な答えをしたとして、「生命とは?」という質問すべてに答えたことになるだろうか? ならないだろう。生命ってそれ以外にも切り口・語り口あるよね、と誰もが反論したくなるに決まっている。メシとウンコとセックスの話だけで「生命とは?」を語るのはしんどい。ああ、だから、世界各地にさまざまな信仰や文化が存在するのか……とまで言うとちょっと極論しすぎかもしれないが。解剖生理学のレイヤーだけで語られても困る、しかし、解剖生理学のレイヤーだって知っておいて損はない。



夕焼けにしても生命にしても言えることなのだが、これらには複数の「正解っぽい仮説」がある。誰かが正解を言って終わりにならない。生命とは! とか、動物とは! みたいな話を、年に一度くらい、居酒屋でガンガン盛り上がりながらしゃべってみたいものである。コロナ終わんねぇかな。

2023年2月21日火曜日

舵をときおり一度切る

そこまで強烈に傾向があるってわけでもないんだけど、このブログ、記事タイトルが体言止めのことが多いなと思った。最近ちらっと見て思っただけだけど。もう少し文章っぽいタイトルも付けているように思っていたのだがそうでもなかった。自分で勝手に思い描いていた印象と実際の姿が異なるというのは、ほんとうによくあることである。


……という書き出しで、ぼくはおそらく今日、「セルフイメージと実際のずれ」みたいなことを書くつもりだった。しかし、その文章の結論、すなわちブログ記事の着地点が「どうやってずれを埋めていくか」、つまり差を縮めていくかになるだろうなと気づいたところで、それはなんだかつまらんなあと感じて指が止まった。


この歳になって、「ずれ続けながら走り続けているもの」がおもしろいと感じるようになっている。補正するばかりが目標だときつい。理想に向かって微調整をし続ける人生はしんどい。「正解」がわからないままなんとなく感覚的に、右左にちょんちょんとハンドルを切る。マリオカートのゴーストみたいな「正解の走行パターン」に自分をフィックスしていくのではなく、何からどこまでずらそうとしているのかもわからないままにあれよあれよとずれていく方がリアルな過ごし方だと思える。

理想とか真実とか本来の場所みたいなものに調整しようと試みるのは人の常だ。なんらかの目標を定めて「こうあろう」と「目指す」のは本能に近い。けれど、結局は、もともと行こうと思っていたルートからジワジワ外れていく。目で指していたものとは違うものが前に現れる。それが趣深いし興味がある。調整とか修正と言う言葉を使っている時点でもう違うのかもしれない。微弱に舵を取ってはいる。ただしレールに合わせるのではなく、あるいは道に沿うのでもなく、太陽や星を見ながらざっくりと波間を航行していくような……と書くと航海士に怒られるだろうか。「私たちだってちゃんと調整してるんだ」とばかりに。でもワインディングロードの例えよりもヴォヤージュの例えのほうがやっぱりしっくりくる。腕がないと難破するというが噴火湾の中をするする対岸に渡っていく毎日でもよいではないか。



ブログ記事に体言止めが多いことをどう修正していこうか……と思ったがそれももう気にするのはやめにする。書き終えた文章をざっと見て気になった部分をピックアップしてタイトルに据える日はどうしたってフレーズの抜き書きになるからそれはもちろん体言止めっぽくなるだろう。手癖、脳癖がそうしたいというならばそうさせておけばいい。気づいたころにふと俯瞰して「なんか違うな」と思った日にぼくはおそらく無意識に舵を少しだけ切るだろう。その程度でよい。右の道か左の道かと選択するほどのことでもない、舵をときおり一、二度ほど切るような船旅の話。

2023年2月20日月曜日

病理の話(748) 時間外の病理

珍しい病気の相談を受けている。ほかの病理医が診断に苦慮して、ぼくのところに標本を持ってきた。……と、こうやって書くと、病理医が小脇にプレパラートボックスを抱えてえっちらおっちらぼくのところにやってきたようにも思えるが、正確ではない。

バーチャルスライドと言って、PC上のデータで転送してもらって、それをPCで見て考えるのである。オンラインコンサルテーション、などと呼ぶ。

顕微鏡ではなくPCの画面で顕微鏡像を検討して議論をするスタイル。5年前には考えられなかったやり方が、あっという間に当たり前になってしまった。


只今の時間は19時をすぎたところ。

日中鳴り止まなかった電話の相談も今はほとんどかかってこない。安心してじっくりと、「ほかの病理医が難しいと言ったいわくつきの症例」について考えをめぐらせる。

さすがに難しい。いろいろと教科書を引く。文献を探す。オンラインの勉強会のログをたどって、過去に似たような症例が提示されていなかったかどうかを探す。


すべてボランティアだ。

病理診断のコンサルトに支払いは発生しない。

病理医同士は、基本的に、相談するにあたってお金のやりとりをしない。




なんでそんな、仕事でもないことをやるのか、時間外に……ということを、たまに今どきの若い医者から尋ねられることがある。

それは義務ですか? 働き方としては歪んでいるのでは?

こう尋ねられたら、正直に答える。

義務ではないし、働いているとも言えない。これは自分にとっての研鑽であり、職務を越えた社会貢献でもあって、やりたい人だけがやればいい。

ただし、そこで説明を終えてしまうとフェアではないと思うので、続きも言う。

「そういう機会を捕まえてでも貪欲に勉強をしないと、病理医としての能力が足りなくなる」。

周りから望まれる仕事を多少なりともやろうと思ったら、時間外の勉強をせずにはいられない。


「業務時間外で、無収入で、ボランティアで、病理のことを考える」。いかにもキツそうに聞こえる。したくない人はしなくていい。しかし、それではもう、ぜんぜん足りない。足りないまま給料をもらい続けることもできる。しかしぼくは「足りない病理医だな」と言われたらこの仕事をやっている意味がないように思う。

実際、「勤務時間内だけで勉強を終わらせている病理医」はいるのだけれど、そういう人の中にぼくがすごいなと思うプレゼンをする人は一人もいない。本当に一人たりとも知らない。脳の筋力がないなーと感じる。


病理医は、切ったり縫ったり投薬したりといったあらゆる「手技、処置、処方」をやらない、脳だけで働く仕事である。一方で、当たり前の事だが、病理医以外の臨床医ももちろん脳は使いまくっている。そういう、「日頃から脳を使っている臨床医」がいざというときに頼るのが病理医だ。「手技や処置をしなくていい分、脳はすごいんだろ?」と期待されて頼られるのが病理医である。その期待に答えられる脳でいようと思ったら、いわゆる「9時5時」内に勉強を終わらせることは普通に無理だ。


プロ野球選手はトレーニングを短い時間しかしない、なんていう話と比べられて、「時間外に勉強しなきゃいけない医師の働き方は今後改善すべきだ」みたいなことを言う医学生もまれにいる。しかし解像度が足りないと思う。

たしかにプロ野球選手は、筋肉に負荷をかける時間を短くコンパクトにまとめている傾向がある。しかし、運動を離れている時間も、食事や睡眠、リラックス方法など、すべて「野球にいい影響をもたらすように」調整しているだろう。プロ野球選手を引き合いに出すなら、そこまで真似しないとスジが通らない。

「9時5時」の間には職務として脳を使い、それを過ぎても「仕事を見越して気を抜きすぎず」、アフタータイムにはアフタータイムなりの脳の使い方をする。

それが病理医として臨床医の中で仕事をしようと思った場合の作法ではないかと、ぼくは考える。



ただし、業務時間外にお金ももらわずに、人の為に診断を考えて勉強もする、それで十分よくやっているのだから、昼間と比べて自らを多少甘やかせることは必要ではないかと思う。音楽を聴きながらPCに向き合うとか。たまに病理とまるで関係ない本を読んでみるとか。疲れたなと思ったらどうせ脳もうまく働かないのだから、さっさとあきらめて家に帰るとか。バリエーションをもたせることが続ける秘訣だ。続けないと役に立てない。役に立たないなら病理医でいる意味がない。

2023年2月17日金曜日

伐採の風景

東京の地下鉄に揺られながら生きづらさのことを考えていた。改札を通り抜けて壁に掲示されている地図を見ていると、改札の中で女の人がぴょんと跳ねたのが目の端に映った。とっさにぼくは、変な女がいる、近寄らないでおこう、改札を越えてからでよかった、と思ったが、なにやら女は駅員を呼んでいるらしい。すぐに出てきた駅員は女とふたことみこと何やら言葉を交わして階段の方へダッシュしていった。「具合悪そうな人がいるんです」という声が聞こえた気もして、ぼくは少しその場を動けないでいた。病人かもしれないが酔っ払いかもしれないし、ケンカかもしれないと思った。「でも、ならばぼくにできることはないだろう」と自分の声が脳内に響いた。

「ならば」とはなんだろうか、自分でもよくわからない。

改札の中にとって返して「何か手助けしましょうか」と声をかけることもできたはずだが体は全く動かなかった。駅のホームでのトラブルならば、成人男性が数人いたほうが役に立つはずである。しかしこのときのぼくは「もう改札を出てしまったからなあ」というエクスキューズで、目の前に起こっている事故・事件の場から急速に逃げだそうとしていた。



前の晩、羽田から品川に向かったときのこと。折り返し運転の京急に、ぼくより若いサラリーマンがノーマスクで前後不覚となり座席で寝こけていた。どこから乗ってきたのかわからないがおそらく目的地は羽田ではなかったのだろう。品川と羽田の間のどこかに自宅があるのかなと思ったし、もし行く先が羽田だとしても、こいつの乗るはずだった飛行機はもうとっくに飛び立っているはずの時間であった。そもそも男の手持ちの荷物はリュックひとつでおよそどこかに行く雰囲気はなかった。そのリュックは、穴守稲荷あたりの振動で男の腹を滑り落ち、盛大に床に仰向けになって、チャックからスマホが飛び出した。あまり混んでいない車内ではもちろん誰も拾わないし声をかけないし男を起こしもしなかった。どうせ酔っ払いだろうしトラブルに巻き込まれるのはいやだ。いびきもかかないしゲロも吐いていないし、このまま放置しておけば終電が終わった後に駅員にどこかの駅で起こされるだろう。それで十分ではないかとぼくも思ったしみんなも思っていたと思う。次の瞬間にでも男の目がかっと開いてぼくの目とあったらいやだから、見守りもせずに意識をその空間分だけ切り取る、もしくは刈り取るようにした。男はだらしなく座席で寝続けており、駅で電車が留まるたびに隣に平気で女性が座って、男のことを気にもせずにスマホを見始める。札幌ならきっとこのような酔っ払いの周りにはATフィールドのように人のいない空間ができるはずなのだがさすが東京は一般人のくぐってきた場数が違うと思った。ぼくももはや男のことが気にならなくなっていた。



女と駅員が改札階からいなくなったあと、壁の地図をスマホの地図と見比べながら、別にこうしてスマホでもう地図を出しているのだから駅の壁を見ている必要はないというのにどうにも動かない足を、ホームの中にいくでも地上に出るでもない足を、不思議に思っていた。行き先も完全にわかってこれ以上無駄に地図を見ていてもしょうがないのでぼくはようやく階段を登る。未練というには残してきた印象が黒く臭かった。階段を登るにつれてぼくは早足となった。まだ待ち合わせの時間にはだいぶ早く、近くで少し時間を潰していこうと思い、駅のすぐ横にあった喫茶店でラテを頼んで席に着いて遅めの昼飯とした。20分か、30分か、店を出ると、さっき出てきた地下鉄の階段の前に、消防車と救急車が止まっていて、ぼくは取り返しのつかない罪を犯していたことに気づいた。

ぼくがあのとき改札を逆に戻ってAEDでもタンカでもなんでも運んでいたら状況は変わっただろうか。いや、消防車と救急車が来る状況は変わらなかっただろう。他人が外から見ている状況としては何も変わらなかったはずだ。そして残酷なようだがおそらく倒れていた人の予後にもほとんど影響は与えられなかったのではないかと思う。しかし、あの場にいた、駅員を呼んだ女、駆けていった駅員、そしてホームで倒れていた、素性も年齢も性別も家族構成も好きな食べ物もこの先やりたいこともひとつとして思い浮かばないどこかの誰か、そういった間違いなく当事者であった人びとから見た主観的な状況は、おそらくぼくが介入することで何か変わっただろう。ぼくは状況を変えなかった。命のあるなし、結果の良し悪し、そういうものまで動かせたとは全く思わないが、ただ、「あああなたも来てくれた人か」と、「どこのどなたかわからないが駆けつけてくれたのか」と、そこにいた当事者たちにとって微弱に状況を変化させることはできたはずなのにぼくは直感的にいろいろと理由を付けてその場にいることを拒否した。ぼくはその変化を起こすだけのきっかけと手足と脳を持っており、一般的な医師ほどの救命能力は全く持たないにしても少なくとも善意の一般人として通りすがりの状況チェンジャーになる資格はあった。でもぼくはついさっき、その立場から逃げることで、人の命よりもなお少し複雑な何かをおそらく見殺しにしたのであった。店を出たところで呆然と立ちすくんでいるぼくの横を、風のように通り過ぎて喫茶店に入っていくスマホを握りしめた若い男と、一瞬目があったような気もしたが彼はおそらく昨日のぼくと同じように意識の中で風景を刈り取っており、ぼくはあの日からずっと跳ねた女と駅員の情景を夢に見続けている。

2023年2月16日木曜日

病理の話(747) 細胞まで見てるんだから決着しなさいよという圧

「人体からとってきた細胞を顕微鏡で見る」というのは、誰にとってもなかなかの一大事である。


患者からすると、「自分の細胞を顕微鏡であれこれ見る専門の人間がいる」ということに、まず……引くんじゃないかと思う。

そこまですんのかよ、というか。

なんかオオゴトになったなあ、というか。


そして、じつは主治医や看護師、検査担当の技師なども若干引いていたりする。血液検査にしてもCTなどの画像検査にしても、医療はいろいろ進歩していて、さまざまな病気を「患者にあまり負担をかけずに」診断できるようになっている昨今、それでも細胞を採取して病理医に見せないと決着がつかないというのだから……。


検査のための依頼書を書き、検体を入れるホルマリンの小瓶を用意し、細胞採取という工程をひとつ加えて、多くの人に追加で仕事をしてもらって、そうやってようやく細胞をとって、普段直接患者を見ていない「病理医」なる人間にわたして、時間をかけて細胞を見てもらうなんてのは、誰にとっても手間なのである。


だからこそ。


細胞を採って病理医が見たら、それで「決着!」としてほしい。

細胞なんて病気の正体そのものだろ! という感覚。


昔、ぼくが30歳をようやく少し越えたばかりのころ、非常に仲のいいベテラン循環器内科医にこう言われた。

「ぼくらはさあ、心臓を直接見なくても心臓のことがわかるように訓練していくわけだよ。それを君ら病理医はさあ、直接細胞見ちゃうってんだから、そりゃあわかるに決まってるよなあ!」

彼は悪気なんてない。病理医は全て見ているのだから、もちろん確定診断だってできるだろう、という信頼をそのまま口にした可能性もある。



しかし……。

実際には、そこまでして細胞を見てもわからないこともある。



とられてきた細胞がたしかに「おかしい」。核の色調が増し、形状が不規則になり、内部のクロマチン(染色体)の濃度も変で、細胞質のようすもなんだかいつもより濃くなっていて、これは少なくとも正常の細胞ではないな、ということはわかる。

しかし、それが「なぜおかしい」かを見抜くというのはまた別問題なのだ。病理医はよく、主治医に対してこのように電話をかける。


「確かに細胞には異型があるんですけど……反応性の異型か、腫瘍性の異型かは難しいです。」


※異型: 正常からのかけ離れ。正常ではないおかしいようす。

※反応性の異型: 炎症などによって細胞の周囲が荒らされることで、細胞にも異常が出てしまうこと。

※腫瘍性の異型: 細胞そのものに病気があって、それで細胞が異常だということ。


もし、とってきた細胞が「反応性の異型」を示しているだけならば、周囲の炎症を落ち着かせるための薬を飲めば、細胞の異常は影をひそめる。細胞自体が悪いのではなく、環境が悪いせいだからだ。

しかし、「腫瘍性」と判断した場合、その細胞は「デキモノ」だということだ。これは炎症を落ち着かせる薬を飲んでも治らない。細胞自体に異常の原因があるのだから、手術で採るなり、放射線で焼くなり、抗がん剤で叩くなり、別の方針を考えるべきなのである。


そしてこれらの区別がつかないとなると、みんな困る。主治医も困るし患者ももちろん困る。「細胞まで採ったのに……わからないの?」



で、そういうときに、病理医は一言……ふたこと……付け加える。


「もう一度採ってください」

もしくは、

「炎症を抑える薬を飲んでもらって3か月ほど時間を置いて、もう一度採ってください」

といったかんじだ。


細胞をちょっと採っただけでは、病気の全貌が見えているとは限らない。採る場所を変えたら、もっとわかりやすい像が出てくることがある。

また、周囲の環境が荒れているせいで細胞がおかしくなっているかも……と悩むならば、まずは周囲の環境を治してしまえばいい。そしてあらためて細胞を採りなおすのである。



病理医の言葉には強い責任が伴う。「細胞まで見てるんだから」、あたりまえのことだ。しかし、強い責任を果たすにあたって、わからないときはわからないと言うべきだし、追加で検体を採ることでわかる可能性があるならそう伝えるべきである。このあたりの判断と、主治医とのコミュニケーション、そして主治医と患者との関係をみすえた方針の提案は、病理医の仕事の数割を占めていると言っても過言ではない。だまって顕微鏡見て診断を書いて終わりではないのだ。

2023年2月15日水曜日

真の雑談

『違国日記』がすごい。最近10巻が出た。展開もセリフも絵も震えるほどかっこいいし、人間ここまで世界を創作できるものなのかと、脱帽しっぱなしである。そして、おそらく読む人みんな言うと思うのだけれど、「雑談」がいい。雑談の解像度がえぐい。



最近Podcastで、知人が「雑談」名義の番組をはじめた。ぼくも先輩といっしょにやっているPodcastで「複雑談」という(複雑な雑談の)回をときどき放送している。ためしにApple podcastで「雑談」というタイトルで検索したら出るわ出るわ、みんな雑談が大好きなのである。目的のない会話、緊張しなくていい会話、気の置けない関係の相手との会話。しかし、ぼくらがPodcastでやっている雑談なんて、違国日記のそれとくらべたら、まるで「雑談」ではないのである。

ぼくらがやっている雑談には雑さが足りない。意図まみれだ。欲望にまみれていると言ってもいい。ヤマがほしい、オチがほしい、話法を駆使してネタとしておもしろくなったほうがいい。「人志松本の酒のつまみになる話」がぼくらのやっている「自称雑談」の頂点であろう。これらを雑談と呼んではいけない、雑談に失礼なのではないかとすら思う。

違国日記にふんだんに出てくる真の雑談を一度でいいから見て欲しい。本人達が役に立つなんてまったく思ってない雑談。あらかじめ用意したものではない中動態の雑談。発射ではなく反射の雑談。無為の雑談。美しい。キャラクタにこんなことを言わせて、あとあとの展開でこう拾おう、みたいな漫画家の意図がにじんでいない。透き通っている。キャラクタは漫画家によって創造されたのではなく、おそらくその世界に本当に生きていて、漫画家はそれを高解像度で写し取る観察者なのだ。だから雑談が本当に雑談なのである。槙生や笠町くんが話すのは槙生や笠町くんがその日たまたま思い付いた瞬間的な印象。もしくは槙生や笠町くんが30年以上自分の心の中に積もらせてきた雪山のような心情からこぼれ落ちてきた雪のひとひら。朝とクラスメートの会話は何度読んでも「雑談」で、心の底からおそれいる。史上最高の雑談。そして、雑談する中から、本人達が具体的には一切言及していないものがちらちらと垣間見える漫画表現の粋。


『違国日記』の雑談を見てみるといい。あれを見たが最後、我々は、気楽に「番組で雑談しよう」なんて言えなくなるし、我々が雑談と名付けているものと違国日記とを同じ言葉で言い表そうとした今日のブログの価値もまたなくなっていく。対話でも座談会でもない、交換でも贈与でもない、自己啓発セミナーや売れっ子編集者などが名前を付けたことがない、田汲朝たちの雑談。

2023年2月14日火曜日

病理の話(746) 患者から金を取らずに

病理診断においては、免疫染色という手法を用いることがある。


ガラスプレパラートに乗っけた細胞は、通常、H&E(ヘマトキシリン&エオジン)という二種類の色素によって色を付ける。H&Eは情報が多いのに安価なため、すべての病理診断の基本である。

昔は、臨床検査技師が、染色液の中にガラスをがしゃがしゃ突っ込んで色を付けていた。最近は多くの病院で自動化されているけれども、迅速組織診断などの限られた場面では未だに手染めが行われる。けっこう手順が多くて複雑なので、ぼくのような現在40代の病理医だと詳しいやりかたを習っていないため自分ではプレパラートを染めることができない。現在70代くらいの病理医は染色法にも詳しいので頭が上がらない。さておき。

このH&E染色は安くて便利で毎日何百枚も行われる。ランニングコストはタダではないが二束三文と言ってもいい。ただ、この便利な染色だけでは診断が終わらない。


ときに、病気を診断するにあたって、細胞の色や形を見るだけでは不十分なことがある。その細胞が密かに持ち合わせているある種のタンパク質、これを見つけるか見つけないかが診断を左右する、ということがある。ときには、ある治療薬を使って効くか効かないかを判断するために、特定のタンパク質の検索がどうしても必要だ、なんてこともある。そういうときに伝家の宝刀として使うのが「免疫染色」だ。


免疫染色は、細胞の中にあるタンパクにだけくっつく「抗体」を用いた染色法である。ほかのタンパクにはくっつかず、これぞというタンパクだけにくっつくコバンザメ的な加工がしてあって、その抗体をさらに別の方法で色づけすることで、間接的にタンパク質のある場所だけが茶色く認識できる。タンパク質がダマになっていれば茶色の色素もダマになるし、タンパク質が細胞の表面の膜に整然と並んでいれば、茶色の色素も細胞膜のところをきっちりとハイライトする。


で、この、抗体がクソ高い。小指より細いチューブの中に、液体に溶かされた抗体が100 μLほど入ったもので70000円とか130000円とかする。ちなみにヤクルト1本が65 mLで40円だ。65 mLイコール65000 μLである。ヤクルトの650分の1の分量しか含まれていない抗体の値段が70000円ということは、えーと、仮にヤクルト1本分の抗体を用意したならば4550万円ということになる。たしかロナウジーニョの乗っていた車が4500万だったがそれより高い。どうだ。我々は、ロナウジーニョのロールスロイスよりも末端価格の高いものを使って診断をしているのだ!!


もっとも100 μLくらいの量が入った抗体を1回で使い切るわけではない。使うときはこれをさらに10倍とか100倍にうすめて使うこともあるし、原液のまま使うタイプの抗体でも20回くらいは使える。したがって、どんなに高い抗体でも1検査あたり70000円かかるわけではない……が運が悪いと4000円くらい抗体に値段がかかることになる。おまけに免疫染色には、抗体以外にもいくつか試薬が必要だからもっと金がかかる。じゃあそのお金、どうするのかというと、当然患者から徴収すると思うだろう? 病院はそうやって患者から金を巻き上げているのだと、あなたはきっと思うだろう?


否!


ちがうのである。


免疫染色は使える場面、使う数が決められていて、それを越えた使い方をすると患者からお金をいただけない。

まず、免疫染色を1種類使うと、患者からある程度のお金をいただくことはできる。その額は一般に4000円。ただし患者負担は3割(※一例)なので、自己負担は免疫染色1個につき、1200円ということだ。外来で1200円余計にとられたらムカつくだろう。それなりのランチが1回食べられるではないか。

しかし、じつは免疫染色は2個使っても3個使っても4個使っても、病院は4000円しかもらえないのである。ここがポイントだ。個数に応じてお金が増えていくのではないのだ。すると、試薬の値段にもよるのだけれど、だいたい抗体を4種類使ったあたりで、病院が確実に赤字になる。そして、この「4種類の免疫染色」というのを、我々病理医はそこそこの確率で必要とするのである。


いくらなんでもそれでは検査室が、病院がかわいそうではないか、ということで、ある厳しい条件を満たしたときのみ、4つ以上免疫染色をするとさらに追加で12000円(患者負担は3600円)を請求することができる……のだが、これも、抗体を4つ以上、たとえば8個とか12個とか使っても一律で12000円なのである。悪性リンパ腫や軟部腫瘍などの診断では、抗体4個で診断がつくということは基本的にあり得ないので、追加の12000円をいただいてもぎりぎりトントンか、ヘタをするとやっぱり赤字、ということが十分に起こる。


患者のために正しい診断を出そう、よりよい治療のために病気を詳しく調べようと思っても、患者からは抗体代をいただけない。おかしいと思うか? いや、皆さんは思わないかもしれないな。だってこれが医療費抑制の仕組みだということがわかるだろうから。

病理医が悪い心を起こして、「抗体じゃんじゃん使って病院を儲けさせよう」と思ってもできない。だからむしろいい制度じゃないか、と思う人もいるだろう。でもそれは病院にとってはいささか酷だろう。

さらに言うと、入院患者の場合は包括支払いといって、病理でどのような検査を追加しても患者からは決まった額以上のお金をとれない。さっきの追加料金うんぬんというのも全部意味がなくなる。入院患者に対して、病理医が検索をすればするほど病院は赤字になるようにできている。


というわけで、病院経営者から見ると、病理医ががんばればがんばるほど経営は厳しくなっていくのだ。もっとも、我々市民からするとゲッと思う金額の抗体も、病院にあるその他の消耗品、あるいは薬剤や手術の器具などと比べると、だいぶお求めやすいので、経営会議で病理医の使う抗体だけがやり玉にあがって赤字解消のために病理は検査を減らしなさいみたいなことを言われることは……まあ……ない……ということになっている。けれども病理医は経営のことを、もちろん考えるけれども、それ以上に、病院内の知の守護神として、患者のために、あるいは学問のために、必要な検索を(金に多少の糸目しかつけずに)ゴリゴリやっていくべき職業なのだ! 院長は今日のブログを読まないでください。

2023年2月13日月曜日

地帯まるごとパワースポット

よく寝てよく起きて出勤した。土曜日なのでのんびりである。昨日の夜から今朝までに届いたメールは大した数ではなかった。一通り返信を終えたら、次はリアルの郵便を仕分ける。マイナンバーカードをコピーして貼れ、みたいな人生の無駄ランキングトップ10入りする仕事を数分やる。まったくもうなんのためのマイナンバーカード制度なんだよ、みたいなことを脳内でぶつぶつ呟きながら。


もっとも、「無駄なことに愚痴を言っている状態」は、そこまで悪いことではないのかもしれない。いやなことも面倒なことも理不尽なことも、あまりいっぱいあるとしんどいけれども、ちょっとある分には、人生の構造の一部にテンションをかけて引き締めてくれるというか、微弱なストレスを与えることでかえって免疫の力を高めるというか、「細々といやがっている自分を俯瞰すると意外と活き活きして見えることに気づく」というか、とにかくダメなことばかりではない気もするのだ。こんなことをリアルタイムで愚痴っている人の前で言うとめちゃくちゃ怒られるから普段あまり言わないようにしているけれども、正直、不満も愚痴も出てこない人生というのは、苦みを消去した食事のようなもので、奥行きがなくバリエーションもなくつまらないのではないか。なけりゃないほどいい、という類いのものでもない。おそらく。あっていい。マイナンバーカード制度に愚痴る暮らしというものが。




話は変わるが最近、自分のしゃべりかたのクセが気になっている。より正確に言うと、「論述の展開にクセがあるために、話した内容をそのまま文字おこしすると読めたもんじゃなくなる現象」が気になっている。昔からずっと指摘されてきたこととして、ぼくはしゃべりがヘタだ。大学院を卒業する直前、学位審査が終わったあとでディスカッションを眺めていた偉い人から「見事なまでに煙に巻くしゃべりだったねえ」と言われたのが記憶に残っている。それ以来、「流暢で過剰」だとか、「聞いていて、その場ではわかるのだがあとでまとめようと思ってもまとめられない」とか、いろいろな表現で指摘を受けてきたが、全部一緒だと思う。20年来気を付けているが未だになおらない。特性というよりも生まれ持った基質に近い。

しゃべるときに、頭の中で思い浮かんだイメージのコアの部分を伝えようとする努力はしている。しかし、しゃべっている最中に、思い付いた端から、コアを修飾する言葉をどんどん付け足している。それを声で届ける分には、抑揚とか強弱とかの音声的な調整がかかっているためか、相手にもそれなりにわかってもらえるのだけれど、いざ文字おこしして文章にすると、修飾過剰でわけがわからなくなる。自分の発言を文字おこしにしてもらったものを昔は原稿チェックの段階でずいぶんと刈り込んでいた。しかし、今はもう、猥雑さすら感じられる修飾過剰な文章をそのままにしている。煩雑で渋滞したしゃべりであっても、明らかに不適切な内容だとかどう考えても聞き違いだろうという部分以外は、直さずに公開してもらう。ノーチェックで原稿掲載していただくことも増えてきた。

しゃべった内容を後日読み返すと、「ああ、これをしゃべっている最中に頭の中に別の話題が2つくらい追加で思い付いて、それらを全部まとめてしゃべろうと思ったんだよな」と、自分の思考の迂曲プロセスを追体験することになる。聞いていたほうは大変だろうし、記事にまとめたほうはもっと大変だったろうと思う。でも、それ以上に、「ぼくと同じ基質をもった人ならこの文章でもいろいろ受け取ってもらえるだろう」ということを、今は思う。



「しゃべりがヘタ」とか、「内容が込み入っていて難しい」という指摘をうけて、もっとわかりやすいように、伝わるように、要点がよく見えるように、自分のしゃべり方をなんとか整形しようと、ここ10年くらいがんばってきた。ツイッターのような短文の文化、誤読・誤解釈の横行する場所にひたっている以上、いかにコアの部分をすみやかに見せるかについて考えない日はない。しかし、それでも今はなんというか、無駄なところも含めての思考というか、混雑・回り道・分岐・渋滞などの道のりをすべて開示することにぼくの発信の本質があるように思う。それは「本尊」を取り囲む「境内」がまるごと意味を持つ感覚、あるいは「敷地」がある「樹海」すべてが鎮魂や葬祭の場になる感覚と似ている。自分の語りが迂遠であることは実際には誇るようなことではないのだけれど、その未整理の中に蓄積した私的な嗜好/指向/思考をまるごと見てもらった上で、それでもなお仕事をしてほしいと頼んでくれる人がいるならば、ぼくは今後はもう、ぐちゃぐちゃなままでもいいのかもなあ、みたいなことをときおり考える。だいいち、世間の大多数がわかりにくいと言ったときのぼくのしゃべりも、何度聞いてもぼくだけにとっては「しっくりくる」ものなのだから、これはもう、そういう無駄ごと抱える脳なのだと腹をくくるしかないと思うのだ。

2023年2月10日金曜日

病理の話(745) 直感的にそれは病気

病理医が細胞をみるために、プレパラートを顕微鏡に乗せて覗き込むとき、文字通り「瞬間的に」、具体的に言えば0.1秒未満で「あっ、がんだ……」とわかってしまうことがある。

プロの病理医の使う顕微鏡が高性能だから、細胞の様子も瞬間的にわかるのだろう……と思われたかもしれないが、そうではない。

そもそも顕微鏡をみるときは、いきなり最強倍率で観察したりはしない。ズームをかけすぎると、取ってきた検体のどこを見ているのかわけがわからなくなるからだ。まずはロングショットの、最低倍率から観察をスタートするのがいい。

一般的な病理医は、20倍→40倍→100倍→200倍→400倍→600倍の6段階の倍率を使いこなす。倍率の高いレンズはそれだけ値段も高価だ。しかし、その高いレンズまでたどりつくことなく、最初の「20倍」だけでがんだと半ば確信できてしまうということである。



とはいえ、倍率をあげなければ細胞の細かな様子はわからない。細胞膜、すなわち輪郭部分のかたちがどうなっているかとか、核内にどういう模様が見えるかといった情報は、弱拡大では集めようがない。

でも、拡大を上げずとも、「細胞が異常に増えて群れている」ことは十分わかる。

渋谷のスクランブル交差点を上から見下ろす絵面を思い浮かべて欲しい。遠くから見ていると、通行人ひとりひとりの着ているものや表情などはわからない。それを知りたければオペラグラスで一人ずつ拡大してみないとだめだ。しかし、たくさんの人がそこにいることだけならすぐにわかる。

サッカーワールドカップやハロウィンなど、イベントがあって大量の人が繰り出すと、「密度が上がる」こともわかるだろう。

これといっしょで、細胞密度、あるいは複数の細胞がおりなす構築物(組み体操みたいなものだ)の密度は、顕微鏡の拡大を上げなくてもよくわかる。

さらにいえば、視野の左と右、上と下とで、細胞の密度に「ムラ」があるかどうかも大事な情報だ。

細胞の密度やムラがいつもと違うというのは、細胞が「おかしな増え方をしている」か、「なかなか死なない」か、「へんな移動をしている」のいずれかの異常があるということを意味する。正常の人体においては、細胞は決まったタイミングで決まった数だけ増え、決まった場所に配置されて、決まったタイミングで新陳代謝して入れ替わる。それが狂うことで密度が高くなったり、本来とは異なるムラが生じたりする。

がんという病気の本質は、特定の細胞が「異常増殖」することにあると言っていい。ミクロの世界で生じた異常は、積み重なって、細胞の密度の異常へとつながるのである。だから、病理医は必ずしも顕微鏡の倍率をあげなくても、一瞬で俯瞰して「あっ、がんかも」という判断をすることができる。




……もっとも、経験を積んだ病理医は、拡大を挙げる前から「この細胞には毛が生えてそうだな」とか、「この細胞はたぶん拡大すると神経内分泌系の分化を持っているだろうな」みたいなことを直感的に感じ取っていたりもする。ときには、雑踏の中からタレントだけを見つけ出すかのように、少数の異常な細胞だけを、拡大倍率をあげずに「あっいそうだ」と感じ取ることもある。こちらはちょっと説明が難しい。一種の達人技だからだ。おそらくは、テクスチャの違いとか、背景情報の違いなどが、言語化より手前の段階で脳にインプットされているからできることなのだろう。でもこれをなるべく言語化して後輩に伝えていきたいと思い、かつてそういう内容の本を書いたことがある。あんまり売れなかった。まだ在庫あります(笑)。


Dr.ヤンデルの病理トレイル 「病理」と「病理医」と「病理の仕事」を徹底的に言語化してみました』(金芳堂)

2023年2月9日木曜日

生きる術

東京のセブンイレブンでパエリアみたいなのを買った。ビリヤニだったかもしれないしドライカレーだったかもしれないが、あまりよく覚えていない。だいたい弁当のタイトルが長すぎるのである。何が書いてあるかを見ずになんとなくパッケージの形状と色味だけで味を予想する。それがだいたい合ってるのだから、コンビニの食品というのはすごいなと思うし、なんだか肩を落とす感じにもなる。


ペイペイの画面を表示させつつ店員さんに温めてくださいと言ったらそこに電子レンジがあるから使えと言われた。札幌のコンビニだとたいてい店員の背中側に温めスペースがあるのだが、確かに東京では入り口そばにレンジがあるよなあと今さら気づく。弁当を受け取ってレンジに向かい、誰が触ったかわからない扉を開けて中に弁当を突っ込んで、言われたとおりの7番のボタンを押す。やや過剰な振動音と共に庫内がオレンジ色に光る。しばらく待っていると包装のビニールだかラップだかがグワッと膨張しはじめた。なるほど破裂するのか、と思ってそのまま見ているとぎりぎりのタイミングで温めが終わって、ふくらんだ包装が急激にしぼんでいく。結果的によかったが店員は本当に7番と言ったんだったか。間違えたのではないか。3円で買ったレジ袋の中に弁当を入れる。冷えたビールやお茶の類いは出張のトートバッグの中に突っ込んである。


deleteCの表彰式に出席するため虎ノ門ヒルズに出かけた帰りだ。新橋虎ノ門アパホテルは、1階が死ぬほどギラギラで、部屋もこうだったらどうしようとハラハラしたが部屋は至って普通だった。トートをベッドに置いて椅子を引き、椅子にトートを移してチャックを開け、500 mL缶を3本冷蔵庫に入れて冷蔵庫のスイッチをオンにして、4本目のビールは冷蔵庫にしまわずにプルタブを開け、コートを脱ぐ前にまず一口飲んでしまう。これでもう今日はどこにも運転できない! という独り言を無音でつぶやく。東京出張なのだからそもそも車に乗っていないのだがクセになっている。お茶は冷蔵庫に入れず、未開封のままテレビの横に置いておく。朝になったら開けて飲むだろう。ぬるくていいのだ。レジ袋の中から弁当を出し、ちょっと湯気がついた袋の内側を外に裏返して、風呂場の扉のフックにかけて乾かす。あとで下着を入れる袋にし、札幌に帰宅したら今度は車のゴミ箱の袋にする。3円も払った袋だから何度も再利用するつもりである。ビールをもう一口飲み、コートを脱ぎ、スーツのジャケットも脱いでハンガーにかけ、ネクタイを外してまるめてトートの奥に入れる。ワイシャツもズボンも全部脱いで、もしユニクロで売っていても絶対に買わない形状のホテル感あふれたワンピース型部屋着に着替える。パエリアもしくはビリヤニを食べながらビールを飲んでいく。できればこの弁当ひとつでビール2本を飲んでおきたいと思う。


人にいっぱい会って疲れた。初対面の人ににこやかに話しかけ、deleteCのロゴを背景に何枚も写真を撮ってインスタやツイッターにあげた。こんな陽キャムーブをしたのは初めてだ、しかしやってみるとすごく簡単だった。自分の心なんて一切消費しなくても行動自体は可能だった。型どおりに動けばいいだけなのだ。自意識を休眠させて、顔面の筋肉を決まった方向に動かせばそれは笑顔になり、相手からは抜群の笑顔のお返しが届く。ああ、こんなに簡単なことだった。


deleteCのイベントの後半は、○人組を作ってのワークショップだったのだけれど、まるでぼくの脳とは関係なく体が、手が、口がするすると動いて、誰と組んだものかと思案している引っ込み思案の人たちに次々声をかけていくぼくがいた。あっという間にグループができた。若い頃には絶対にできなかった「社交」が今は容易だ。理由はぼんやりとだけれどわかっている。「陽キャという型」を演じることで今日は誰かの役に立てるという自覚。ボランティア、プロボノのひとつのかたち。ニコニコとするのが今日の仕事だった。たくさんの人に話しかけ、ハッシュタグをつけてツイートすることが「しづらい、できない」人の代わりにぼくが今日ここにいる理由だった。ぼくはもう中年なのだから背負って引き受けるのは当たり前なのだ。


3本目のビールを開け、deleteCの会場から持ち帰ったシンポテトの試供品に手を伸ばす。リプライを見て返事をする。恐縮です。おそれいります。ありがとうございます。よろしゅうございました。感謝とへりくだりを20回ほどくり返す。フォローしてくださった人のホームを見に行ってフォローを返す。ハッシュタグ #deleteCを探してリツイートをかける。リアルもネットも変わらないのだなと思った。


ぼくは今、本当に大人になった、と思う。社会で生きていく術を身につけたとはっきりわかる。ああ、息子にはまだこんなことをしなくていいよと言いたい。君にもおそらく、ぼくと同じ能力があるけれど、こうやって動き回るのは40を越えてからでいいと思う。ぼくは社交能力が低くてこれまで損してきたこともいくつかあったと思うけれど、今あらためて社交をこなせるようになって思う、今、おじさんになってからできればぜんぜんいい。20代、30代に、こんなことができる必要なんて、少なくともぼくにはなかったのではないかと思う。やれるようになって、わかる。社交なんて自分を何も変えてくれない。ぼくはずっと、荒れ地に枝豆のツルがひょろひょろと伸びていくように、コミュニケーション不全環境で話したり聞いたりすることがつらいなと思いながらやってきて、それでもなんだかぼくになれたのだ。

2023年2月8日水曜日

病理の話(744) 顕微鏡でわかんねえこと

くやしいがそういうものもあるのでちゃんと書いておこうシリーズ。

顕微鏡を用いた病理組織診断ではわからないこと。


1.「動き」

病理診断は、手術で摘出してきた臓器や、臓器の一部(ひとつまみ)を対象とする。とってきた臓器には当然のことながら血流がない。ホルマリンで固定し、色素で色をつけて、どれだけ詳細に観察しても「血液が流れているところ」はみられない。

そのため、たとえば心臓の弁膜症のような、「動きがわるくなる病気」についてはあまり貢献できない。循環器内科(心臓や血管をみる専門の科)の医者は、ごく限られたケースをのぞいて病理診断をオーダーしない。

心臓の動きを見るならプレパラートよりも超音波検査がいい。エコーというやつだ。ドックンドックンリアルタイムで脈を打つ心臓の壁の動きや、太い血管の中を流れる血流のはやさ・向きなどは病理よりもエコーのほうがはるかによくわかる。


2.「ウイルス」

細胞にウイルスがとりついて異常を引き起こすとき、その細胞が「形を変える」ことはある。奇怪な形状になって「あっ、何かのウイルスにとりつかれたな!」というのが顕微鏡でわかる。しかし、ウイルスにやられた全ての細胞が形を変えるわけではない……というかたいていは形がかわらないからあてにならない。なおウイルスの粒子そのものは小さすぎて光学顕微鏡では見えない。細菌はかろうじて見えるが、常在菌なのか病原菌なのかわからないこともある。顕微鏡は基本的に病原体探しには向かない。

むりに病理医が顕微鏡で見るよりも、感染検査室のような場所で専門のやりかたで検討したほうがよっぽど早くて正確である。


3.「血液に溶けているものの変化」

健康診断などで目にする「血糖」、「コレステロール」、「ビリルビン」などの、血液に溶け込んでいる物質は、「溶け込んでいる」というだけあって顕微鏡では見えない。糖尿病の患者において血中にどれだけ糖があるかとか、女性ホルモンが血中で多くなっているか少なくなっているかとかはぜんぜんわからない。

もちろん、これらの「溶け込んでいる物質」の変化によって、臓器に次第に目に見える変化が出てくることはあるので、そういう変化を見つけて間接的に「溶けているものの異常」を見出すことはできる。でもあくまで間接的である。




今見てきた理由で、循環器内科、感染症内科、代謝・内分泌内科からはあまり病理診断の依頼が多く出てこない。

しかし、じつは、「循環器病理学」も「感染症病理学」も、「代謝病理学」も「内分泌病理学」もきちんとした学問として存在する。病院でルーチンとして行う「組織診断」と、顕微鏡以外のあらゆる証拠をもとに病気のあれこれを解明する「病理学」とは意味が違うのだ。病の理はどんな病気に対しても存在する。ただそれを病理検査室で顕微鏡を用いてときあかすべきかどうかはケースバイケースだということである。

2023年2月7日火曜日

原基があれば何でもできる

年末年始に体力を戻してから、今年こそは急がずあわてずゆっくり働こうと思ってやってきたのだが1か月で仕事に追いつかれた。朝、一日を俯瞰して、だいたいこういう感じのスケジュールになるだろうなと思っても、昼すぎには新たな予定がいくつも入ってきて、夕方くらいには朝思っていたのとは違うやりかたで仕事をしている。

一息ついたときにタイムラインを見ても、Twitterのアルゴリズムが変わったせいか、前ほどには達人の読書感想文や脱力したネタツイが飛び込んでこない。以前はもう少しぼくの癒やしにフィックスしていたが、今のタイムラインからは基本的に違和感を受け取る。「あれっ」「おやっ」がくり返される。

経営陣が商売としてTwitterを存続させようと思うなら当然の戦略だろう。

いつもと同じメンバー、代わり映えのない話題、強いイベントがなくバトルも起こらない日常系アニメのようなタイムラインでは、人も金も動かない。そこには違和があるべきだ。行動と課金のきっかけとして。

今のSNSは違和感の巣窟である。差異を強調する場所。

差異とは水位の差だ。高い方から低い方にエネルギーが移動する。右が高くなることもあれば左が高くなることもある。差異のある場所でぼくらは何かを手に入れたり、与えたり、奪われたり、かすめとられたりする。うねる水流。撹拌される社会、欲望、自由。かき混ぜられて泡が立つ。油分は泡になることで香りをまとい、味になる。

だから誰もが差を作り出そうとする。

ところで我々の脳にはおそらく本能的に、ルーティンの平穏で安心したいと感じる部分がある。差異ばかりでは疲れてしまうから? いや、非ルーティン的なものへの注意力を高めるためではなかろうか。いつもと違う人が現れればそれは敵かもしれない。いつもと違う味がすればそれは毒かもしれない。差異を鋭敏に感じ取るために、ふだんは五感を平板に保つ。ベースとして不動の領域があって、ときにあらわれる違いの部分が際立つ。

朝に思い描いていたものとまるで違う仕事をしている夕方に、いつもどおりのタイムラインを期待してTwitterを開いても、そこから違和感ばかり受け取るようになった昨今のぼくは、だから前よりも疲れている。細かな差異にいちいち気づけなくなっている。敵と味方の区別が付きづらくなる。毒と薬が同じ顔に見える。基準を取り戻したほうがいい。原基を定めてはじめて世界が定量できるのだ。

2023年2月6日月曜日

病理の話(743) 比べてみようホトトギス

顕微鏡をみて、細胞のおりなす高次構造(アーキテクチャー)や、質感・キメ(テクスチャー)などから、これがいったいどういう性質の細胞かというのを考えていくのが、病理診断のキホンのキである。


なぜ形やキメの細かさから細胞の「性質」がわかるのかというと、過去に膨大な照らしあわせが行われているからだ。


――例:通常の細胞とくらべると細胞同士の繋がり方がおかしく、粘液の産生度合いが狂っていて、カタマリのあちこちで壊死に陥っている――


こんな細胞は、過去の科学の積み重ねによればがんであることがわかっている。放っておくとどんどん増殖して転移して患者の命を脅かすと予測できる。


太字にした部分が一番大事だ。細胞の形や模様がおかしいときに、病理医が「ああ、がんだなあ」と判断する根拠は病理医の直感や印象などではない。医学の歴史が積み重ねてきたデータと照らし合わせ、「こういうパターンが見られたらがんだよ」という研究結果がわかっているときのみ、顕微鏡を診るだけでがんかがんじゃないかが判断できる。


ただ……直感や印象「を根拠として診断を決める」わけではないが、直感や印象「が診断のプロセスにかなり影響する」ことは、ままある。


たとえば、膨大な量の診断=照らしあわせをしていると、必ず「迷う例」が出てくる。

見比べるという行為は、似ているところを探す行為だ。パターンがすごく似ていれば迷わない。しかし中途半端に似ていれば迷うだろう。さらに言えば、モノマネ芸人の例をあげるまでもなく、「姿かたちはめちゃくちゃ似ているんだけど、中身はそもそも別人」というケースもある。

そういう「迷い」を払拭するために、病理医は、なるべく多くの「過去のデータ」を知っていなければいけないし、必要に応じてそのような根拠をすばやく探し出す能力が求められる。しかしいつもいつもうまくいくわけではない。

パターンとパターンの狭間のような症例にたまに出会う。このような見た目を根拠として採用すれば「がんっぽい」が、あのような見た目を採用すると逆に「がんじゃないっぽい」なあ……なんてことはそれなりに生じる。

そういうときは、過去のデータと比べるにあたっての視点を増やすとよい。たとえば、プレパラートに乗った細胞にはH&E染色という手法で色が付けられているが、これを別のものに変えてみる。H&E染色は、細胞内にある核とそれ以外の物質とで微妙に電荷が異なることを利用して細胞の色を染め分けているのだけれど、ほかにも染色方法はある。粘液を見やすくする染色、弾性線維(だんせいせんい)を見やすくする染色などを使った方が、その人に何が起こっているかを「過去のデータと見比べやすい」こともあるわけだ。



というわけでとにかく比べる、比較する。照らし合わせる。これが科学的な診断において絶対に忘れてはいけないことである。しかし、こう書くと、誰しもが思い付くことがある。


「完全に未知の病気だったらどうするの?」

「今までわかっていなかった病気だってあるでしょう? たとえば、新型コロナみたいに」


つまり比較する対象がないことはないのか、ということだ。結論からいうと、「未知の病気であっても既知の病気と比べる」のが大原則である。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)はもともとあったSARSコロナウイルスなどと比較されて研究が進んでいったのは記憶に新しい。


比べることがベースにある。孤高の独断というのは存在しない。そして、比べ続けていると、たいてい、「過去にデータをこうやって扱っていたけど、今はこういう解釈をしたほうがいいかもな……」みたいな反省も出てくる。そうやって科学は常に刷新されていくのだ。

2023年2月3日金曜日

外部から外部へのアドバイスを内部から読む

「医療分野で新しく商売をしたい人に向けて書かれたコンサル資料」を見る機会があった。こちとら医療現場で古典的な商売をしている人であるから、資料の対象読者ではないけれど、おもしろそうなのでほくほくと読んでみた。そしてやっぱり笑ってしまった。


まず、

・世の中の動きがすごい速い! ぼーっとしてると置いていかれる

という雰囲気が、資料の全編にちりばめられていてすごい。「今日のこの資料に書いている内容を、ひとつでも知らなかったのならば、危うく時代遅れになるところだったんですよ!」みたいなメッセージ性が強い。徹底的に危機感を煽ってくる。あせってページをめくらないといけない。細かいところを読まずにすっ飛ばしたくなる。でもそこでぐっとがまんして、実際に何が書いてあるかを精読していく。

すると、気づく。仮にも医療ジャンルの話であるにもかかわらず、

・医療の専門的な情報は一切出てこない

ということに。

このへんで、あれっおかしいな、という気持ちになる。医療で商売したい人向けなのにこんなに医療の知識が出てこなくてよいのかな?


……でもこれはよく考えたら当たり前のことかもしれない。医療業界で新しく商売を始めたい人が見るべきは、医療者(現場の専門家)の手からあふれてくる部分、すなわち医療者だけでは解決できない部分であろう。医療者がとっくに知ってわかって対応しているところに商機はない。医療者の手に余る部分にこそ、新たに商売が入り込む隙がある。

……だからといって、ここまで専門情報をないがしろにされているのも不自然だと思うけどなあ……くらいの不信感を持ったまま読み進めていく。すると、これは資料作成者のクセなのかもしれないけれど、

・二言目にはすぐ医療従事者の仕事を奪おうとする

ので笑ってしまった。「これまでの医療に替わる技術です」「時代は一気に変わり医療現場の風景も大変革します」「従来のように人がちまちま診断するシステムは長続きしないでしょう」「入れ替わるのはあっという間です」。いつのまにか、現場の人の手からあふれるどころか現場の人ごと取り替えてしまうのだ。

この部分を自動化すると患者にも国民にも医療者にもいいことがあるぞ。

この部分に外部から人を入れることで医療業界全体が楽になるし得をするぞ。

まあその流れ自体はいいことだと思う。冷蔵庫が市販されたときに、これまで店や道ばたで氷を打っていた氷屋さんはどんどん廃業したが、国民にとっては便利になるほうが圧倒的によかった。それと一緒といえば一緒である。


しかし、ここまでの話をまとめると、やはり少しおかしいなと感じてしまう。要はこの資料は、

・専門的な知識の話をしないまま、仕事だけ奪うススメ

になってしまっているのだ。ぼくらの仕事が将来なくなるかもしれないってところはしょうがないとしても、代わりに入ってくる人たちが現場の知識ゼロってのはよくないんじゃないの?


でもまあコンサルタントにとっては、新しい商機を探す人たちにそれっぽいことをしゃべってコンサルタント料金をとれればそこで仕事は完結するわけで、「仕事が入れ替わりそうな雰囲気」を定期的に世に出せれば十分であり、実際に現場でどういうニーズが生まれどういう困難が生じているのかにはぶっちゃけ興味もないのだろう。


そう考えると極めて優れた資料なんだろうな。このコンサル、いいスーツ着てるんだろうな。なんか腹立つな。

2023年2月2日木曜日

病理の話(742) 急ぐタイプの病理診断

「一刻をあらそう病理診断」というのがたまにある。

一番有名なのは、術中迅速診断だ。

手術の最中、患者のお腹がまだひらかれている間(あるいは患者のお腹に腹腔鏡が入れられている間)に、外科医が患者のお腹の中から「勘所」の細胞を採取して、病理の部屋に届ける。

病理の部屋では、細胞が適切に処理されてプレパラートに乗っけられ、病理医はそれを顕微鏡で見て、どういった細胞が取れてきたのかを判断する。

この判断のあいだ、手術中の外科医は手を止めている。判断の種類によってそこからの手術の流れが変わるからだ。

たとえば胃を取る手術ならば、胃と食道を切り離したはしっこの部分(食道との境界部)をリング状に切り取って、病理検査室でプレパラートにする。このリング内にがんがなければ、「手術でがんは無事とりきれた」と判定できる。もし切れ端の部分にがんがあれば、「がんは食道のほうに進んで行っている」とわかり、外科医はそのまま追加で食道も少し切り取って、がんを体の中に残さないようにする。

この判断を手術の最中にやってしまうというのがポイントだ。胃を切ってお腹を縫って、後日、「じつはがんは取り切れていませんでした、また手術をやりなおしましょう」だと、患者も外科医もがっくりしてしまうから、お腹を開いているあいだに判定して、その場で決着をつける。このとき必要なのは、「普通は1日かけてプレパラートを作っている工程を10分に短縮する技術」と、「たった10分で作った(いつもより品質の低い)プレパラートをすばやく見て誤診しないための技術」である。前者は臨床検査技師の腕に、後者は病理医の腕にかかっている。

1分でも早くみたほうがいい。なにせその間、手術はストップしているのだから。

(※外科医の中には、病理の判断をまつ間、ほかの部分の手術を進ませているちゃっかり者(?)もいる。)

でも、ここで誤診すると大変なことになる。本来は1日がかりで調整するプレパラートをたった10分で作るため、いつもよりもはるかにクオリティの低いプレパラートになるので、細胞も見づらいのだが、それは言い訳にならない。

「ゆっくり急いでじっくり手早く」見る必要があるのだ。



ではそれ以外の病理診断は急がなくていいのか?

たとえば、主治医が「これはがんかもしれないな……」と思って、体の中から細胞をつまんでとってくるとき。

ぼくのような病理医は、「がんの診断なんて1日でも早く付けたほうがいいに決まってる!」と思いがちだ。

でも、実際には、1週間とか2週間という決められた期限のうちに診断を出せば、患者にとっても主治医にとっても不利益にならないパターンのほうが多い。「可能な限り早く診断を!」と急ぎまくってミスをするより、じっくり診断したほうがいいという考え方もある。

そもそも主治医は、患者の体から細胞をとって病理に渡したあと、ほかにやることがないわけではない。チェックすべきは細胞だけではないのだ。たとえば心臓の機能はどうだとか、肺の機能はどうだといった、患者のほかの情報を探ることが必要である。病理のほかにもいろいろと検査を同時並行で行っている。

そういうとき、病理医だけが「がんがありました!」と情報を出しても、主治医はほかの情報が出そろうまで患者に説明しない場合がある。主治医と患者は、「がんか、がんじゃないか」だけに興味があるのではなく、それががんだとしたら今後どうしたらいいかまで含めて考えていかなければいけない。病理診断だけ急いでもあまり意味がないというわけだ。



とはいえ、患者の病気がどんどん悪化しているようなケースで、「一刻も早く細胞の診断の結果を知りたい」ということもあるにはある。そういうときは、病理の部屋に提出する依頼書に、

「至急」

と書いて赤丸で囲っておく。あるいは目立つ色をしたクリアファイルの中に依頼書を入れて出すこともあるし、主治医が病理医に直接電話をして、「急いでください!」と言うこともある。そういうときはぼくも一切躊躇せず、すべての活動を後回しにして1分でも早く診断を出そうと思って動き回る。ケースバイケース、コミュニケーションイズインポータントです。


2023年2月1日水曜日

矢印をつまむ

これを書いている日は全国的に天気が悪い。強烈な低気圧によって各地が大荒れで、北海道のニュースを見ても列車の運休の情報がひっきりなしに飛び込んで来る。そんな中、すきまを縫うように走っている電車に乗ってでかけた人がいて、不要不急の外出はお控えくださいとあれだけ連呼されていても人間はやはり出かけてしまうものなのだと感じたし、そんな人間たちを短期間とは言えステイホームさせた感染症と、そのおそろしさを増幅させた「噂話」は荒天よりも強いことにあきれるばかりだ。一瞬、人びとを引きこもらせたのはメディアの力だと書こうかと思ったが、どうも今回に限っていえば、メディアがいっせいに騒ぎ立てた「から」というよりも、手元のスマホから不気味な空気が感じ取れた「から」家に引きこもった人たちのほうが多かったような気がする。


「から」、「ので」、「によって」。ぼくはすぐに因果を繋ぎたがる。AからBへと矢印を引きたがる。

でも、「○○だから△△」というように、原因と結果が個別に対応しているケースは、実際にはおもいのほか少ない。


アルゼンチンが優勝するのはメッシがいた「から」。そうだろうか。チームにはほかにも選手がいて、守備の役割もいれば、メッシにパスを出す役もいれば、メッシからパスをもらう人もいる。もっと言えば、監督やコーチが立てた戦術にも勝因はあったろうし、メディカルスタッフや衣食住を確保するメンバーだって貢献しただろう。国がサッカーに打ち込める環境であったこと、国民に幅広くサッカーを愛するムードがしみ込んでいたこととも無縁ではないはずだ。勝利のもとをたどってメッシひとりに帰着できるほど、サッカーの因果関係は単純ではない。


これがいわゆる複雑系というやつだ。将棋で勝つためには飛車を取ればいい、なんて一言で表現できるわけがない。紅白に選ばれるには秋元康にプロデュースしてもらえばいい、なんて一言で商機を掴めるわけもない。確実なことを言おうと思ったら、確率でしかものを語れなくなる。毎年検診を受けていても見つからないがんはあるし、ワクチンをしていても病気にかかることも残念ながらある。


そして、「だからこそ」、どこかの場所で何かを言う際には、複雑であることをわかった上で、そこから逃げないままに、「なんらかの矢印を引く」という立場をあえてとったほうがいいかもな、と思うことがある。ひとつの矢印ですべてを説明できるなんて思っていないし、相手に思わせてもいけないけれど、ぼくの目からはこの矢印が何度も見えるということと、この矢印で現象を近似するとわりとよいことがあるんじゃないかということを、対話の相手にきちんと伝えることが必要だ。それをやめてしまってはさみしいなという気持ちがある。

自分の言葉が「かもしれない」や「だろう」や「確率的には」や「傾向として」だけで構成されていくことには、しゃべる相手に対する申し訳なさや、すべてが偶然の積み重ねでしかないのだということを思い知らされることへの不安がある。ともすれば自分の示した矢印に「責任をとれ」と詰め寄られることの多い時代だけど、常時、何億という数の矢印が体の周りをヒュンヒュン飛び交っている状況で、そのひとつを手でつまんでしげしげと眺める時間はあっていいのではないかと思う。