2023年2月16日木曜日

病理の話(747) 細胞まで見てるんだから決着しなさいよという圧

「人体からとってきた細胞を顕微鏡で見る」というのは、誰にとってもなかなかの一大事である。


患者からすると、「自分の細胞を顕微鏡であれこれ見る専門の人間がいる」ということに、まず……引くんじゃないかと思う。

そこまですんのかよ、というか。

なんかオオゴトになったなあ、というか。


そして、じつは主治医や看護師、検査担当の技師なども若干引いていたりする。血液検査にしてもCTなどの画像検査にしても、医療はいろいろ進歩していて、さまざまな病気を「患者にあまり負担をかけずに」診断できるようになっている昨今、それでも細胞を採取して病理医に見せないと決着がつかないというのだから……。


検査のための依頼書を書き、検体を入れるホルマリンの小瓶を用意し、細胞採取という工程をひとつ加えて、多くの人に追加で仕事をしてもらって、そうやってようやく細胞をとって、普段直接患者を見ていない「病理医」なる人間にわたして、時間をかけて細胞を見てもらうなんてのは、誰にとっても手間なのである。


だからこそ。


細胞を採って病理医が見たら、それで「決着!」としてほしい。

細胞なんて病気の正体そのものだろ! という感覚。


昔、ぼくが30歳をようやく少し越えたばかりのころ、非常に仲のいいベテラン循環器内科医にこう言われた。

「ぼくらはさあ、心臓を直接見なくても心臓のことがわかるように訓練していくわけだよ。それを君ら病理医はさあ、直接細胞見ちゃうってんだから、そりゃあわかるに決まってるよなあ!」

彼は悪気なんてない。病理医は全て見ているのだから、もちろん確定診断だってできるだろう、という信頼をそのまま口にした可能性もある。



しかし……。

実際には、そこまでして細胞を見てもわからないこともある。



とられてきた細胞がたしかに「おかしい」。核の色調が増し、形状が不規則になり、内部のクロマチン(染色体)の濃度も変で、細胞質のようすもなんだかいつもより濃くなっていて、これは少なくとも正常の細胞ではないな、ということはわかる。

しかし、それが「なぜおかしい」かを見抜くというのはまた別問題なのだ。病理医はよく、主治医に対してこのように電話をかける。


「確かに細胞には異型があるんですけど……反応性の異型か、腫瘍性の異型かは難しいです。」


※異型: 正常からのかけ離れ。正常ではないおかしいようす。

※反応性の異型: 炎症などによって細胞の周囲が荒らされることで、細胞にも異常が出てしまうこと。

※腫瘍性の異型: 細胞そのものに病気があって、それで細胞が異常だということ。


もし、とってきた細胞が「反応性の異型」を示しているだけならば、周囲の炎症を落ち着かせるための薬を飲めば、細胞の異常は影をひそめる。細胞自体が悪いのではなく、環境が悪いせいだからだ。

しかし、「腫瘍性」と判断した場合、その細胞は「デキモノ」だということだ。これは炎症を落ち着かせる薬を飲んでも治らない。細胞自体に異常の原因があるのだから、手術で採るなり、放射線で焼くなり、抗がん剤で叩くなり、別の方針を考えるべきなのである。


そしてこれらの区別がつかないとなると、みんな困る。主治医も困るし患者ももちろん困る。「細胞まで採ったのに……わからないの?」



で、そういうときに、病理医は一言……ふたこと……付け加える。


「もう一度採ってください」

もしくは、

「炎症を抑える薬を飲んでもらって3か月ほど時間を置いて、もう一度採ってください」

といったかんじだ。


細胞をちょっと採っただけでは、病気の全貌が見えているとは限らない。採る場所を変えたら、もっとわかりやすい像が出てくることがある。

また、周囲の環境が荒れているせいで細胞がおかしくなっているかも……と悩むならば、まずは周囲の環境を治してしまえばいい。そしてあらためて細胞を採りなおすのである。



病理医の言葉には強い責任が伴う。「細胞まで見てるんだから」、あたりまえのことだ。しかし、強い責任を果たすにあたって、わからないときはわからないと言うべきだし、追加で検体を採ることでわかる可能性があるならそう伝えるべきである。このあたりの判断と、主治医とのコミュニケーション、そして主治医と患者との関係をみすえた方針の提案は、病理医の仕事の数割を占めていると言っても過言ではない。だまって顕微鏡見て診断を書いて終わりではないのだ。