2023年2月14日火曜日

病理の話(746) 患者から金を取らずに

病理診断においては、免疫染色という手法を用いることがある。


ガラスプレパラートに乗っけた細胞は、通常、H&E(ヘマトキシリン&エオジン)という二種類の色素によって色を付ける。H&Eは情報が多いのに安価なため、すべての病理診断の基本である。

昔は、臨床検査技師が、染色液の中にガラスをがしゃがしゃ突っ込んで色を付けていた。最近は多くの病院で自動化されているけれども、迅速組織診断などの限られた場面では未だに手染めが行われる。けっこう手順が多くて複雑なので、ぼくのような現在40代の病理医だと詳しいやりかたを習っていないため自分ではプレパラートを染めることができない。現在70代くらいの病理医は染色法にも詳しいので頭が上がらない。さておき。

このH&E染色は安くて便利で毎日何百枚も行われる。ランニングコストはタダではないが二束三文と言ってもいい。ただ、この便利な染色だけでは診断が終わらない。


ときに、病気を診断するにあたって、細胞の色や形を見るだけでは不十分なことがある。その細胞が密かに持ち合わせているある種のタンパク質、これを見つけるか見つけないかが診断を左右する、ということがある。ときには、ある治療薬を使って効くか効かないかを判断するために、特定のタンパク質の検索がどうしても必要だ、なんてこともある。そういうときに伝家の宝刀として使うのが「免疫染色」だ。


免疫染色は、細胞の中にあるタンパクにだけくっつく「抗体」を用いた染色法である。ほかのタンパクにはくっつかず、これぞというタンパクだけにくっつくコバンザメ的な加工がしてあって、その抗体をさらに別の方法で色づけすることで、間接的にタンパク質のある場所だけが茶色く認識できる。タンパク質がダマになっていれば茶色の色素もダマになるし、タンパク質が細胞の表面の膜に整然と並んでいれば、茶色の色素も細胞膜のところをきっちりとハイライトする。


で、この、抗体がクソ高い。小指より細いチューブの中に、液体に溶かされた抗体が100 μLほど入ったもので70000円とか130000円とかする。ちなみにヤクルト1本が65 mLで40円だ。65 mLイコール65000 μLである。ヤクルトの650分の1の分量しか含まれていない抗体の値段が70000円ということは、えーと、仮にヤクルト1本分の抗体を用意したならば4550万円ということになる。たしかロナウジーニョの乗っていた車が4500万だったがそれより高い。どうだ。我々は、ロナウジーニョのロールスロイスよりも末端価格の高いものを使って診断をしているのだ!!


もっとも100 μLくらいの量が入った抗体を1回で使い切るわけではない。使うときはこれをさらに10倍とか100倍にうすめて使うこともあるし、原液のまま使うタイプの抗体でも20回くらいは使える。したがって、どんなに高い抗体でも1検査あたり70000円かかるわけではない……が運が悪いと4000円くらい抗体に値段がかかることになる。おまけに免疫染色には、抗体以外にもいくつか試薬が必要だからもっと金がかかる。じゃあそのお金、どうするのかというと、当然患者から徴収すると思うだろう? 病院はそうやって患者から金を巻き上げているのだと、あなたはきっと思うだろう?


否!


ちがうのである。


免疫染色は使える場面、使う数が決められていて、それを越えた使い方をすると患者からお金をいただけない。

まず、免疫染色を1種類使うと、患者からある程度のお金をいただくことはできる。その額は一般に4000円。ただし患者負担は3割(※一例)なので、自己負担は免疫染色1個につき、1200円ということだ。外来で1200円余計にとられたらムカつくだろう。それなりのランチが1回食べられるではないか。

しかし、じつは免疫染色は2個使っても3個使っても4個使っても、病院は4000円しかもらえないのである。ここがポイントだ。個数に応じてお金が増えていくのではないのだ。すると、試薬の値段にもよるのだけれど、だいたい抗体を4種類使ったあたりで、病院が確実に赤字になる。そして、この「4種類の免疫染色」というのを、我々病理医はそこそこの確率で必要とするのである。


いくらなんでもそれでは検査室が、病院がかわいそうではないか、ということで、ある厳しい条件を満たしたときのみ、4つ以上免疫染色をするとさらに追加で12000円(患者負担は3600円)を請求することができる……のだが、これも、抗体を4つ以上、たとえば8個とか12個とか使っても一律で12000円なのである。悪性リンパ腫や軟部腫瘍などの診断では、抗体4個で診断がつくということは基本的にあり得ないので、追加の12000円をいただいてもぎりぎりトントンか、ヘタをするとやっぱり赤字、ということが十分に起こる。


患者のために正しい診断を出そう、よりよい治療のために病気を詳しく調べようと思っても、患者からは抗体代をいただけない。おかしいと思うか? いや、皆さんは思わないかもしれないな。だってこれが医療費抑制の仕組みだということがわかるだろうから。

病理医が悪い心を起こして、「抗体じゃんじゃん使って病院を儲けさせよう」と思ってもできない。だからむしろいい制度じゃないか、と思う人もいるだろう。でもそれは病院にとってはいささか酷だろう。

さらに言うと、入院患者の場合は包括支払いといって、病理でどのような検査を追加しても患者からは決まった額以上のお金をとれない。さっきの追加料金うんぬんというのも全部意味がなくなる。入院患者に対して、病理医が検索をすればするほど病院は赤字になるようにできている。


というわけで、病院経営者から見ると、病理医ががんばればがんばるほど経営は厳しくなっていくのだ。もっとも、我々市民からするとゲッと思う金額の抗体も、病院にあるその他の消耗品、あるいは薬剤や手術の器具などと比べると、だいぶお求めやすいので、経営会議で病理医の使う抗体だけがやり玉にあがって赤字解消のために病理は検査を減らしなさいみたいなことを言われることは……まあ……ない……ということになっている。けれども病理医は経営のことを、もちろん考えるけれども、それ以上に、病院内の知の守護神として、患者のために、あるいは学問のために、必要な検索を(金に多少の糸目しかつけずに)ゴリゴリやっていくべき職業なのだ! 院長は今日のブログを読まないでください。