2023年2月10日金曜日

病理の話(745) 直感的にそれは病気

病理医が細胞をみるために、プレパラートを顕微鏡に乗せて覗き込むとき、文字通り「瞬間的に」、具体的に言えば0.1秒未満で「あっ、がんだ……」とわかってしまうことがある。

プロの病理医の使う顕微鏡が高性能だから、細胞の様子も瞬間的にわかるのだろう……と思われたかもしれないが、そうではない。

そもそも顕微鏡をみるときは、いきなり最強倍率で観察したりはしない。ズームをかけすぎると、取ってきた検体のどこを見ているのかわけがわからなくなるからだ。まずはロングショットの、最低倍率から観察をスタートするのがいい。

一般的な病理医は、20倍→40倍→100倍→200倍→400倍→600倍の6段階の倍率を使いこなす。倍率の高いレンズはそれだけ値段も高価だ。しかし、その高いレンズまでたどりつくことなく、最初の「20倍」だけでがんだと半ば確信できてしまうということである。



とはいえ、倍率をあげなければ細胞の細かな様子はわからない。細胞膜、すなわち輪郭部分のかたちがどうなっているかとか、核内にどういう模様が見えるかといった情報は、弱拡大では集めようがない。

でも、拡大を上げずとも、「細胞が異常に増えて群れている」ことは十分わかる。

渋谷のスクランブル交差点を上から見下ろす絵面を思い浮かべて欲しい。遠くから見ていると、通行人ひとりひとりの着ているものや表情などはわからない。それを知りたければオペラグラスで一人ずつ拡大してみないとだめだ。しかし、たくさんの人がそこにいることだけならすぐにわかる。

サッカーワールドカップやハロウィンなど、イベントがあって大量の人が繰り出すと、「密度が上がる」こともわかるだろう。

これといっしょで、細胞密度、あるいは複数の細胞がおりなす構築物(組み体操みたいなものだ)の密度は、顕微鏡の拡大を上げなくてもよくわかる。

さらにいえば、視野の左と右、上と下とで、細胞の密度に「ムラ」があるかどうかも大事な情報だ。

細胞の密度やムラがいつもと違うというのは、細胞が「おかしな増え方をしている」か、「なかなか死なない」か、「へんな移動をしている」のいずれかの異常があるということを意味する。正常の人体においては、細胞は決まったタイミングで決まった数だけ増え、決まった場所に配置されて、決まったタイミングで新陳代謝して入れ替わる。それが狂うことで密度が高くなったり、本来とは異なるムラが生じたりする。

がんという病気の本質は、特定の細胞が「異常増殖」することにあると言っていい。ミクロの世界で生じた異常は、積み重なって、細胞の密度の異常へとつながるのである。だから、病理医は必ずしも顕微鏡の倍率をあげなくても、一瞬で俯瞰して「あっ、がんかも」という判断をすることができる。




……もっとも、経験を積んだ病理医は、拡大を挙げる前から「この細胞には毛が生えてそうだな」とか、「この細胞はたぶん拡大すると神経内分泌系の分化を持っているだろうな」みたいなことを直感的に感じ取っていたりもする。ときには、雑踏の中からタレントだけを見つけ出すかのように、少数の異常な細胞だけを、拡大倍率をあげずに「あっいそうだ」と感じ取ることもある。こちらはちょっと説明が難しい。一種の達人技だからだ。おそらくは、テクスチャの違いとか、背景情報の違いなどが、言語化より手前の段階で脳にインプットされているからできることなのだろう。でもこれをなるべく言語化して後輩に伝えていきたいと思い、かつてそういう内容の本を書いたことがある。あんまり売れなかった。まだ在庫あります(笑)。


Dr.ヤンデルの病理トレイル 「病理」と「病理医」と「病理の仕事」を徹底的に言語化してみました』(金芳堂)