2023年5月31日水曜日

どこまでも現実

お茶を飲んでいる最中にあくびをして、お茶を口の端からぜんぶこぼしたことある? ぼくはある。今。そういう眠さの中でブログを書いている。田島列島『みちかとまり』の1巻が出たので買った。そして読んだ。猛烈な勢いで心が揺さぶられて、マンガの世界から現実にいったん戻ってきてみるとぐらぐらとめまいがしてすごく眠くなってしまった。そしてノドもカラカラに乾いていた。だからお茶とあくびを同時に試してみたのである。結果、ワイシャツがデロデロに濡れた。なんだか夢の中のようだなあと思った。


Am J Surg Patholの最新号読む。このように「○○を読む」ではなく「○○読む」と書くのは『本の雑誌』で長いこと連載をしていた故・坪内祐三の真似だなと思う。ぼくはいくつも真似をしている。若い頃は、誰かの真似をしていることをナイショにしたままで模倣していた。だから昔書いた文章には、今にして思えばあの人から影響を受けて書いたということがバレバレの文体などがたくさん使われている。小説だけではなくマンガなどの影響もたくさん受けている。自分が昔書いた物を読むと、だから、すごく照れてしまう。照れの先に過去が置いてある。


Am J Surg Patholの最新号のあとは、ネコノスから届いた北野勇作の「シリーズ 百字劇場」の最新作読む。『ねこラジオ』という。この文庫本は3部作になっていて、1ページに1つずつ、たった100字で書かれた小説が載っている。巻末にQRコードがあり、全話解説のホームページ(note)にたどり着く。この全話解説のほうが本文よりも文字数が多いうえにひとつの読み物となっている。「メタな世界のほうがでかい」ということである。確かに、よく考えるとたいていのものごとは、メタの世界のほうがでかい。なるほどなあと思う。そして、最新作読む、と書いておいてアレだが、じつはまだ読んでいない。巻末QRコードが確かにワークしていることを確認して、そこでいったん一息入れてしまった。


先日、「主任部長面談」というのがあり、しかし主任部長とは誰かというとぼくのことであって、ぼくの面談する相手というのは院長と事務部長なのである。一年に一度、主任部長として部門のアレコレを院長や事務部長に報告するというものだ。このことを知人の会社役員に話したら「えっ、信じられない」と言った。おそらく、院長すなわち社長的存在とコミュニケーションするのが一年に一度というのが少なすぎる、という意味で信じられないと言ったのであろう。そんなわけないのだ。駐車場や廊下で会って挨拶するし、事務部長ともけっこう頻繁に相談事をしている。職場が公的に決める「面談の場」という、堅苦しくしかつめらしい場所が一年に一回あるということを「信じられない」と断ずる程度の人なのだなと思うし、それはまあわからなければ無理もないだろうなと思う。今ふと思い付いたことだけれど、何かを見て「信じられない……」とつぶやく人の9割は、単純に「自分の暮らしている領域以外の知識が全く足りていないことを自分で受け入れられていない」のだと思う。他人の庭を信じることはできないのが普通だ。それを受け入れられない人ほど「信じられない」と言う。



東京での文フリ(文学フリマ)が先日終わった。過去最高の規模だったとの話である。我がTLにも幾人かが参加したと見え、文フリで買った本というハッシュタグの元にたくさんの見なれない本が並んでとても楽しそうだった。ぼくはもう何年も、「いずれ文フリにフラジャイル全話解説の同人誌を出します」と言っているがちっとも進んでいない。具体的にはまだ3巻の途中までしかできていないのだ。こんなことでは、令和5年5月23日現在「25巻」まで出ているフラジャイルの全話解説を終えるまでにあと20年くらいかかってしまうことになる。20年も経ったらフラジャイルはきっと75巻くらいになっているだろう。そうしたら全話解説を作るのにまたそこから40年くらい経ってしまう。そしたらフラジャイルは125巻に達しているだろう。原作者、マンガ家、読者(ぼく)の誰が先に倒れるかのチキンレースとなる。もう少しペースを上げなければいけない。仕事を減らしたい。減らしてフラジャイルの解説本の原稿を書くのだ。しかしその前にゼルダをクリアしなければいけないのである。まるで夢のような話なのだ。

2023年5月30日火曜日

病理の話(781) 朝と夜とでガラッと変わる

職場で、ぼくのデスクの上にある蛍光灯が切れた。うちの職場では近年、蛍光灯が切れた順番にLED蛍光灯に取り替えている箇所が多く、たぶんぼくの頭上のものもLEDのやつに変わるはずである。

というわけで現在、施設課に新しい蛍光灯を持ってきてもらうまでの間、頭上の明かりがない状態で仕事をしている。このタイミングで顕微鏡を見ると、「細胞の色が変わって見える」のでおもしろい。てきめんに違う。そうそう、明かりの具合によって細胞って変わって見えるんだよなー、ということを思い出し、あらためて心に刻む。



ぼくらが仕事で使う顕微鏡は、プレパラートの下に強い光源を置いて、何枚かのフィルターを通して白色光に変換してからプレパラートを照らすタイプだ。小学生の使うような、周囲の光を鏡で反射するタイプのものではない。だから、部屋の明るさや照明の色と、のぞきこんでいる視野とは関係しないはずなのだが……現実にはけっこう変わって見える。

あまり知られていないのだけれどぼくらが顕微鏡を見るとき、目を接眼レンズにぴったりくっつけることはない。それだとうまく見えない。目と接眼レンズの間は、目とメガネくらいの距離を空けておくのがコツである。この隙間がおそらく関係している。中心視野はもっぱらレンズの中の光景を捉えているのだけれど、「辺縁視」が目とレンズの隙間から、部屋の明るさを見るともなしに見ているのだろう。その明るさが、中心視野の色味にも影響を与えているのだと思うのだ。

たとえば朝に顕微鏡を見たときと、夜に顕微鏡を見たときでは、細胞の「悪そうなかんじ」が異なって見える。これは有名な話だ。一般的に、夜に顕微鏡を見たほうが「一見して、がんっぽく見える」と言われている。そんな、病理医のライフスタイルによってがんかがんじゃないかが決まっちゃうってことですか? と質問されると、いや、そこまで直感だけで診断してないし、いくつものセーフティネットを用意しているから大丈夫ですよ……と答えたいけれど、そういう現象があると気づいていない若い病理医などは、しばしば腺腫と癌の区別を朝昼で微妙に変えていたりする。だからきちんと教えておかないといけない。知っておけば対策ができる。

レンズの中に見ている細胞を、知らず知らずのうちに、周囲の明るさとの差分で判断しているということ。いったんそういうものだとわかると脳内で補正がかけられるのだが、知らないとまずい。



これに関連して……。ぼくら病理医は複数人で一緒に顕微鏡を見るということをする。集合顕微鏡というのがあって、ひとつの顕微鏡からいくつものぞき穴(接眼レンズ)が伸びていて(鏡筒というのを四方に伸ばすのだ)、これでいっぺんに同じ視野を見る。

そうすることで、ベテランがどの細胞を見てどう考えたのかを、若手が学んだり、人によって意見の異なる難しい診断の相談をしたりする。

で、ベテランドクターにこの集合顕微鏡で細胞の見方を学んだあと、自分のデスクに帰ってきて、自分の顕微鏡で細胞を見ると、なんだか違って見える、みたいなこともよくある。

これにも、集合顕微鏡がある場所と自分のデスクとの明るさの差が関係していることがある。まあほかにも、顕微鏡が変われば光源の色が微妙に変わるとか、視野が変わるとかレンズのクオリティ(≒値段)が変わるとかいろいろあるんだけど、そういう見え方の違いを脳内でうまく補正しないと、安定した細胞診断はくだせない。



こういう補正に関してはAIのほうが得意だよね、みたいなことも、よく話している。けれどまあ、人間の脳って本当に優秀なので、そういうものだとわかっていればなんとかなるもんだよ。

2023年5月29日月曜日

見たことのない大人

ゼルダが生活の中に割り込んだことで、時間外の業務が若干苦痛になり、本を読む時間も半減した。一方で、運転中はゲームができないし本も読めないので、あいかわらずポッドキャストの時間となっており、そこはゼルダによって侵食されない。そういえば畑仕事の最中もポッドキャストだ。音のコンテンツって、音同士でしかバッティングしないんだなと感じる。ラジオが復権してきている理由がなんとなくわかる。

ぼくは30代半ば以降になって本を読む頻度がとても増えたのだけれど、この理由をなんとなく「文字に強くなったから」だと思っていた。しかし、違うね、これはゲームをしなくなったからだったんだ。

たまに人から、「そんなに本ばかり読んでいるのすごいですね、子どものころからずっとそうだったんですか?」などと言われることがあり、「すごくはないですし、子どものころはたいして読んでいませんでしたよ」と答えていたのだけれど、そう、子どものころはファミコンをしていたからやっぱり本は読んでいなかった。ドラえもんやドラゴンボールの単行本を何度も読み直したくらいだ。ゲームというのは目と指と口(ああでもないこうでもないと言う)をまとめてもっていく娯楽だったし、かつてゲームがいた場所に外食もゴルフも旅行も詰めこんでいない今、本を読む時間が多くなるのは必然である。

音に使っている時間は、音以外では補填がきかないので、音同士でやりくりする。20代のころはオルタナやエモコアばかりを聴いていた。今はその時間がたいていポッドキャストになっている。冷静に考えるとこの変化もけっこうエグい。



先日、約25年前に付き合っていた女性とメッセンジャーで雑談をしていたところ、その女性が(実際に自分がなってみると)アラフィフってこんなもんだったかなあ、みたいなことを言う。まあそうだよな、そういうことを言いたくなるよな、と同調する。もう少し具体的にこの同調のメカニズムを述べると、10代や20代の時間を共有していない間柄の人が周りにだんだん増えてくるにつれて、めったに合わない古い知人と話すときはつい「昔の自分が思っていた大人の姿と、自分がいざその段階にたどり着いたときに考えている自分の姿とが一致しない」みたいな話題を(普段言えない分)ここぞとばかりに言いたくなるよな、という点で納得したのである。

25年前も1日は24時間あったはずだが、あの頃のぼくと今のぼくが同じ長さの1日を暮らしていることをうまく実感できない。昔のぼくと今のぼくはまったく一繋がりではなく、途中で宇宙の意志か何かによって新たな記憶を植え付けられていてもわからない。当時、教科書以外の本は何を読んだのだろうかと思って、(ニセモノかもしれない)遠い記憶を探ると、たしか19歳ではじめたホームページに書評を書いていたはずで、そこにはたしか沢木耕太郎、北村薫、宮部みゆき、京極夏彦、馳星周など、いくぶんJ-POP的なものも含めて小説を何度か取り上げたはずだ。しかしあるいは読書量は月1冊にも満たなかったのではないかという気がする。あの頃のぼくは剣道部にいたり、塾や家庭教師でバイトをしたり、大学そばのカネサビルで朝まで酒を飲んだり、そういう非仕事・非勉強・非読書・非音楽的なもので時間をフルに満たしていた。まるで今とは違ったのだ。となれば、当然、20代の自分の目に映る40代なかばの人間というのも、今の自分の周りにいる40代の人間とは違ったクラスタの人でしかないし、ていうか今のぼくだって20代のぼくの周りにはいなかった。今のぼくは20代がうろちょろしている居酒屋には行かないし、剣道もしていないし、バイト先にだっていないのだ。ここ何年も、「20代のぼく」を彷彿とさせるような人間と同席する機会がない。あの頃、20代のぼくと会っていた40代というのはいったいどこにいた誰だったのか。そういう大人達を見て「40代とはこういうものか」と想像していたであろう当時のぼくが、今のぼくを想像することは無理なのだ。アラフィフとはこんなものだったのか、という意外性はつまり、「そんな40代の人間を見たこともないし聞いたこともない」という20代のぼくの叫びによって肯定される。いや、あるいは、ラジオだけはぼくに「40代のぼく」を想像させる可能性はあったのかもしれない。でも当時のぼくの耳はポッドキャストではなくiPodのナンバーガールによって満たされていた。向井秀徳も当時はまだ30代に過ぎなかった。



今の10代、20代は、「中年の遊び場」であるTwitterをたまに見に来てはいるようだし、ぼくがネット上でどういうことを言っているかをぼんやりと目にすることもあるだろう。あくまで偏った40代であるが、そういう姿を見て「ああ、40代とはこういう感じなのか」という仮の映像を本人の中で醸成していく。確信して言えるが、それはあなたの40代ではありえないし、あなたもまた40代になってみれば「へぇ、40代って自分でやってみるとこういうことになるのか」と少なからぬ驚きを得ることになるだろう。そして、あなたがたがぼくを「わかりあえない他人」と思っている以上に、20代のころのぼくは40代のぼくを自分とは思えないはずである。しかし、ラッキーなことに40代のぼくは20代のぼくとコミュニケーションを取ることがかなわない。20代のぼくが40代のぼくとの断絶に心を痛めたりADHDやASD、神経症の器質を悪化させたりするリスクもなく、すべては一方的に未来にいるほうのぼくが引き受けてしまえばそれでなんとかなってしまう。大人として当然のことを粛々とこなす。

2023年5月26日金曜日

病理の話(780) 後医は名医でなければならない

患者が病院を訪れる。医者は、問診を行い、検査を出し、生活方法を指導したり薬を出したりして、患者とともに二人三脚をはじめる。

時間とともに、たいていの病気はよくなっていく。

しかし、ときに、患者の病気がなかなか良くならないことがある。薬が合わないのかも、と思って別の薬を試してみたりする。あるいは、もっと別の病気なのではないかと思って、「最初の治療が効かなかった」という情報を加味して、検査を追加し、病気を細かく調べ直していったりもする。

事細かに調べ直した結果、「どうやらA病ではなくて、B病のようだ」と考え直すことがある。A病に対する薬をやめて、代わりにB病に対する薬を出す。

すると、それが効く。なるほど、本当はB病だったのだなとわかる。



患者からすると、おいおい、最初から一発でB病と診断してくれよ、という気持ちになる。でもこれはけっこう難しいことなのだ。





唐突ですが、シルエットクイズをやりましょう。これは何の動物でしょうか?



ある動物の一部分です。おわかりになりますか?

わからない? ではもう少し詳しく見てみましょう。どうやって詳しく見ますか?

もうちょっと広い範囲を見てみたい? OK、では情報を広げてみます。


はい、広げました。だいぶはっきりしています。ぼくはわかるよ。これ。答え知ってるから。でも皆さんはどうでしょうね。

見る範囲を広げればもう少しわかるかと思ったでしょう? たとえば、動物の顔の一部だとしたら、範囲を広げたらいずれ目とか鼻とかが出てくるもんね。見える範囲を広げるってのは確かに重要だよね。

でも、今回の場合は、もしかしたら、範囲を広げるんじゃなくて、別の検査……じゃなかった、画像処理をしたほうがわかりやすいかもなあ。

大サービスです。色付けてみましょうか! シルエットクイズじゃなくなるけど!

はい、どうぞ!


さあ、これだけ検査をしたんだからそろそろわかってほしいなあ。ぼくは完全にわかりますよ、これ。どう見てもそうじゃん。あっでも、答えがわかってないで見るとどう見えるのかな……。

ほっそい馬とかじゃないです。

わかんない? じゃあもっと検査を……じゃなかった画像処理を追加しましょう。もっともっと、広い範囲を見せてほしいですよねえ。

はい! もうわかりましたね。いやあ、時間かかったなあ。




……いやあ……まだわかんない人いっぱいいそうだなあ、と思った。答えを出そう。これはシカである。




最初の段階では、色がわからないシルエットになり、ツノの部分だけが、上下ひっくり返って表示されていた。

答えがわかってから見ると、一番さいしょの小さい画像はともかく、次の画像は「確かにツノだなあ」とわかる人も多いのではないか。

でも、答えがわからないで見ていたみなさんは、3枚目でも、なんなら4枚目でも、「なんだこれ? 足か? 細い馬か?」くらいにしか思っていなかった可能性もある。



さらに言えば、3枚目の画像で「細い馬!」と答えを言ったとして、そこでピンポンともブーとも音が鳴らず、正解がわからなかったらどうか。

答えは知らんけどまあ「細い馬ってことにしとこ」ってなって、その後の治療がはじまる……じゃなかった、それでクイズは終わる。

あくまで、「これは細い馬ではありません」とぼくが答えの一部を提示したから、回答者はその後も「じゃあトリの足かな」「いや、何かのツノだろう」と、次の推理をし続けることができるのである。





答えがわかってから振り返ると、最初に「画像の見える範囲を大きくする」のに加えて、「画像を回転して見せて欲しい」と言えば、もう少し早い段階で答えにたどり着いたかもしれない。少なくとも4枚目の段階でピンと来た人は多かったろう。

けれど、シルエットクイズで「画像を回転させて考える」というのは、必ずしも一般的な発想の範囲ではないと思う。

我々には、習慣やしきたりなどによって、「こういう問題が出たら、まずはこうやって考える」という順序がある。これを最初から崩せる人というのはあまりいない。クイズマニアだとそういう訓練を受けているかもしれないが、診療の現場はクイズではないので、難問を他人より早く解くためのテクニックではなく、できるだけ多くの患者に適用できる一般的な考え方がまずは好まれる。

だから最初からシルエットを回転させるような発想には至らない。

けれど、答えを見てからだと、「あーあの段階で回転させていたらなー!」と、後付けでいろいろ言うことができるのだ。



医者の診断もときにこれに近い。リアルタイムで、いつも通りに検索していると、思った通りの答えにたどり着かないことはままある。そして、「この答えは違いますよ」という情報を得てさらに検索を進めることで、つまり時間をかけることで、なんとか正しい診断にたどり着ける。それをあとから振り返って、

「バカだなあ、ひっくり返ったシカのツノのことだってあるんだから、まずは画像を回転させなきゃ!」

と言えるのは、後付けだからだ。




医者の世界には、「後医は名医」という言葉がある。

「なかなか診断の付かない難しい病気にかかっており、いくつもの病院で検査を受けたがわからなかった。しかしその後、専門的な病院に紹介されたら一発で診断がついた。やっぱり専門家はすごいな」と解釈されるケースをたまに目にする。患者は後に診た医者のほうを尊敬し、感謝しがちだ。

でも、じつは「患者を診るのが後になればなるほど、診断は有利」という側面がある。ぼくも含めて、大きめの病院でさまざまな人から相談を受ける医者は、常に「後に診る医者だから、先に診る医者よりも有利なんだ」という気持ちを忘れてはいけない。そうしないと、「前医はこんなクイズも解けなかったのか、無能だなあ」みたいな、ひどい思い違いをしてしまうことになる。

「後医は名医」というのは、つまり、警句なのだ。自戒のための。慢心しすぎないための。そもそも、後に診る医者は、前に診る医者よりも、正しい診断に近づきやすいのだから、その有利さに頭を下げつつ、実際に名医で居続けられるように一層の努力をするべきなのだ。

2023年5月25日木曜日

気道4次元バイパスの効能

みんな気を遣って「大丈夫、そこはたいした問題じゃないから」「気にしなくていい、こっちをしっかり教えてくれれば」と言ってくれるし、実際、このひとつのミスで誰かが実害を被ることもなくて、つまりはまあ、「OKOK! 次、気を付けよう!」くらいで先に進めばいいって、わかってはいるんだけど、それはもうまったくそうなんだけど、がっくりと落ち込む(ぼくの心の中に占めるウェイト的には)重大なミスをした直後にこのブログを書いています。


ミスした直後にブログ!? 何を考えているんだ! まじめに働き珠恵! とお怒りの方は……こんなところにはこないと思うが……あと珠恵って誰……逆である。自分にとって決定的なミスなので、メンタルがズタボロになっており、こんな状態でルーティンの仕事なんてとてもできそうにないから、手の甲に脳をのっけてひたすらキータッチしつつ精神をクーリングダウンしているのである。


ミスの構造的な原因を言語化していく。

いつもはこういう流れで取り組んでいる仕事を、今回はたまたま特殊な案件が重なって、違うやりかたでいつもより綿密に取り組んだために、かえっていつも機械的に、もしくは半分自動的にやっているタスクの部分をごっそりやり忘れた。ではこのミスを次からなくすためにはどうするか? 指さし確認、声に出しての確認、仕事を系統立てて、感覚だけでぶんまわさずに、いつも同じ手順に立ち戻ることで抜けや落ちを防止する。

ヒューマンエラーというのは必ず起こりうる。抜け落ちやすい人間の心理をシステムでカヴァーすることが、組織で働く際のキーポイントだ。わかっている。わかってはいる。その上で、声帯から吐息をもらさずに気管にバイパスした4次元空間に吐息を逃がすことで無声のまま叫ぶのである。


「ウワァー俺がもっとしっかりしていればァー!!!」


声帯を震わせない吐息は4次元空間にぽつねんと置かれた音叉を震わせる。音叉は足下がぼくの脳に繋がっていて、脳がいつまでもブルブルと小刻みにしびれているような感覚になる。職場の周りの人たちはひたすらぼくのため息を聞いているかもしれないが、そのため息、本来であれば声帯を震わせて絶叫になっていたはずのものなのだ、4次元バイパスこれだけ静かになったというbefore afterを写真に撮って病理学会の特別シンポジウムで会場に供覧したい。



だいぶ落ち着いてきたのでまた仕事に戻ります。言語化、文章化、ルーティン化、一見つまんなく見えるこれらにぼくはずっと助けられてきて、でもときどき飛び出て新しいことをしようとする、そういう「欲が出た瞬間」こそはミスが起こりやすい瞬間でもあるということだ。チッキショー

2023年5月24日水曜日

病理の話(779) 語りかけてくるような診断

語りかけてくるような教科書が好きである。

と言っても、口語体で書いてあればよいというものでもない。

ら抜き言葉をたまに使うとか、フィラー(「まあ」「えー」「そのー」などの調子をとる声)をあえて書き込むだとか、なんとなくくだけた文体で書かれた教科書が、最近は増えた。親しみやすさは増すと思うが、必ずしも読みやすいわけではない。

どちらかというと、「きちんと対象読者のことを意識して書かれているかどうか」がカギだ。


アカデミアの記録の中には、たとえ誰も読まないだろうと予測されても、とにかく書いて残しておくことが大事だと言わんばかりの堅苦しいものが多い。これに対して、はっきりと読者の顔や反応を思い浮かべて書かれた教科書がある。項目の配置順、小見出しの頻度、図表の入れ方、Q&Aコーナーやコラムなどの分量。これらが、「読者がわかりやすいと感じるように」配置されているとぐっとくる。「著者の知識を披露するため」だけだとけっこう読みづらい。

「この本を開く人は、いったいどういうタイミングで、何に困って読もうとしているのか」が意図された教科書というのは本当に美しいと思う。

ときには、読んでいるこちらの顔をまるで見通しているかのように、「あっ、今の説明ちょっと難しいな」と感じたところですかさず解説を挟んでくれるタイプの本がある。

ボリュームたっぷりの知識が表になっているとき、「これ、全部覚えるのは大変だな……」と感じた次のページに、著者自身の経験、痛い目に遭った記憶、こういう気づきで診断が先に進むんだよといった、実務運用上の知恵が書かれていたりすると感動する。

読んでいて得られるものが多い。
ぐいぐいと深い所まで連れて行ってくれる。



まあでも、お堅い本にはお堅い本なりの役立ち方があるので。語りかけてくる本だけになればいいとも思わない。

国語辞典を集めて読み比べて楽しむタイプの人もいるように、医学辞書を端から通読して知恵を高めていくタイプの医者もいる。

いろんな本があるからいいのだ。みなさんもこれについては納得していただけるだろう。





さて、今日は「病理の話」なので、ここからは病理診断の話をする。

病理医が顕微鏡を見て、患者の細胞に診断を付けるとき、「病理診断報告書」を書く。いわゆる病理レポートである。

このレポートにも、文体がある。ぼくはレポートの文体を、主治医の性格や担当科のしきたりなどにあわせて、使い分ける。

まず、手術検体は基本的に箇条書きからスタートする。

病変サイズ:
病変の形状:
組織診断:
分化度:
深達度:
浸潤様式:
脈管侵襲:
断端:

など。病気の種類によって異なる。

病理医の中には、箇条書き項目を最後に回して、まずは細胞のようすを説明するところから始めるタイプの人も多い。

しかし、手術した主治医の大半は、まず「箇条書き」を読みたがっている。だからぼくは箇条書きの項目から書く。



なぜ執刀医は箇条書きの内容を先に知りたがるのか? それは、病理レポートを見たあとの行動と関係がある。

彼らは、病理レポートに書いてある内容から、すばやく要点を切り取って、自分の所属する学会の様式にしたがって記録を付けなければいけない。

消化器外科、婦人科、耳鼻科、泌尿器科、心臓血管外科など、ほとんどの科では、自分たちが行っている手術ごとに「病理レポートのこの部分をメモしろ」と指定されたデータベースが運用されている。このデータベースを埋めるのには労力が要るし、人に任せると病理レポートを自分で読む機会を失うので、執刀医が自らやっていることが多い。

患者ごとの細かな差異は、患者にじっくり説明をするときまでに情報収集すればよい。しかし、データベースへの登録作業はある意味機械的に行われる。この部分でつまづくと、仕事に余計な時間とストレスがかかる。

そこで、病理診断が毎回同じ書式で箇条書きになっていると、執刀医はレポートが読みやすい。「この病理医はここにサイズを書いてくれるんだよな」と、慣れてもらえればいいなと思っている。だから、平時はなるべく、書式をいじらずに同じ書き方をする。印刷すればいつも同じくらいの位置に同じ内容が書いている、みたいな感じだ(最近はモニタで見るけど)。



ただし、外科医などが手術の前に、このように話しかけてきた場合……。

「あー市原さあ、今度の○曜日に手術する人、あれすごく気になるんだよねー。癌は癌でいいと思うんだけどなんかいつもと感じが違うのよ。手術のあと、病理で見て何かわかったら教えてね」

このように、手術をしながら「この癌はなぜいつもと違う挙動を示しているんだろう」と執刀医がいつもと違う興味の持ち方をしているとき。

ぼくは病理レポートを、「箇条書き」から始めず、なんらかの説明を先に入れるようにしている。そういうときは書き方を変えるのだ。



所見: 非典型的な病像を呈する○○癌です。□□が特徴的で、▼▼▼。詳細は本文の後半で記載します。

(後略)


箇条書きの前に、この但し書きを入れるか入れないかで、「病理レポートをきちんと読んでくれるかどうか」がだいぶ変わる。実際に執刀医たちに話を聞いてみたが、あのレポートの書き方はわかりやすかったわ、と、わりと評判が良い。



ほか、手術ではなく「生検」と呼ばれるタイプの病理診断では、箇条書きにせずに文章にしたほうが好まれるケースもある。

主治医、科、患者の病気などによって書き方を少しずつ変えるのがよいと思う。



そんな、めんどくさい……と思われるかもしれない。あまりに病理診断のプロセスがめんどうだと、病理医のモチベーションが落ちて診断効率も下がり、ミスも起こしやすくなるから、ほどほどにしておいたほうがいいのかもしれない。けど、病理医のためではなく主治医のため、さらには患者のためを思うなら、できるだけ読みやすいレポートを書くのがぼくらの勤めだと思う。ちゃんと読み手に向かって届ける気がある病理レポートは美しい。個人の感想です。

2023年5月23日火曜日

ゼルダをやる仕事

家の後ろにある小さな小さな、横に細い感じの畑を耕して、石灰を捲き、その1週間後には堆肥も混ぜ込んだ。そして今週(この記事を書いている週)に、はよいよ苗を植えよう……と思っていたのだが、スーッと気温が下がってしまったので延期にした。

以前、春の陽気にあわせて苗を植えたはいいが、その後1週間以上にわたって気温が10度台前半となってしまって苗が死んでしまったことがある。それ以来すこし慎重になっている。トマトもキュウリもそんなに急がなくてもきちんと育つ。来週末でよいだろう。

そう思って週間天気を見たら、今週は平日がやけに暖かい日が続き、土日はまたストンと寒くなるようだ。なかなか苗を植える機会は来なさそうだ。まあ、6月に入ってからでいいかもしれない。

畑の仕事がないと週末にやることは読書かジムでのランニングだ。しかしゼルダの新作が出たので一部の本以外の予定をすべて消去してゼルダに回す。活字摂取も運動も不足するのだがかえって健康になる。やりたいゲームが出るとそういう生活が半年くらい続く。

ただ、今回は1年続くかもしれない。学会・研究会や講演の仕事がけっこうな勢いでZoomから現地開催に切り替わったからだ。Zoom開催ならば、移動や宿泊の手間がなかったのでその分をゼルダに回せたけれど、現地開催だとなかなかそうはいかない。ぼくは移動中にはゲームをしない。特にゼルダはできない。先日、地面から生えてきた手の魔物を爆弾矢でプチプチ倒したら「アレ」に変化して、めちゃくちゃ大きい声で驚いてしまった。そういうのを公共交通機関の中でやってはいけない。二周目ならやれるかもしれない。

先輩ドクターたちはよく、飛行機の中で論文の手直しなどをしていて、あれは偉いなあと思い、一時期は真似をしようとした。でもなんかうまくいかなかった。論文だけではなく、講演用パワポの準備なども無理だ。職場以外だとうまく仕事ができない。かつては、「顕微鏡が職場にしかないから」かなと思っていたけれど、どうやらそういうことでもないらしい。脳が場所と紐付いて運用モードを勝手に切り替えてしまう、みたいな感じである。

場所、時間帯、用いているデバイスなど、さまざまなものが脳と紐付いて、無意識の部分、バックグラウンドの部分で下準備をすすめる。軽くて高性能のPCを持ち歩けばスタバでも働けるでしょうと言われても、たぶんそれはぼくには無理だろうなとわかる。バーチャルスライドスキャナによってプレパラートをデジタル化しておけば自宅でも病理診断ができる未来が来ますと言われて、VPNの設定以前に、ぼくは自宅で仕事なんかしたくないという気持ちが強い。Wordひとつで事足りるはずの依頼原稿すら家では書けない。

このブログはたまに出張先のホテルで書くことがあるけれど、あとで読み直すとだいたい「ホテルにいる」ということしか書いていない。職場のデスクで早朝に書くのが一番安定している。

ところでぼくの脳は、職場でゼルダをできるのだろうか。ちょっと興味がある。始業前、終業後、誰もスタッフのいなくなった病理検査室で試しにゼルダをやってみたとして、それでぼくの脳はいつものようにリンクの冒険に感動できるのだろうか。

2023年5月22日月曜日

病理の話(778) 広い机ほしい

ぼくは今の職場で、病理医として特に不自由なく働いているのだが、たまにお迎えする出張医や大学の先生方は、「いまどきこんな古くさい診断室でよくやってるね」という顔をする(あるいは実際にそう言ってのけた教授もいる)。


ふるくさい? そうかなあ。でもまあそうかもなあ。最近のオフィスではまず見ることのない、昭和の職員室にあったような重厚なデスクは左右に謎の引き出しがいっぱいあって、昔のフィルムの残骸やらレターセットやら外付けフロッピーディスクやらが詰めこまれている。たぶんよく探すと発煙筒とか入ってるんじゃないか(怖くなって探しましたがありませんでした)。でも真空管はあった(!)。


大きな机の上に顕微鏡がひとつ。その右側に診断用のデスクトップPCを置いている。これで最低限、診断に必要な道具はある。顕微鏡の左側は少し広めにスペースを空けておく。ここにマッペ(プレパラート入れ)を置いて、左手でプレパラートをツカミ上げて顕微鏡にのっけて観察をするわけだ。顕微鏡の右側、デスクトップPCの手前には、病理診断の「依頼書」を置いて眺めればよい。


と、デスク1個でなんとかなりそうな感じで書いてみたけれど、実際に仕事をしてみるとこれではいかにもスペースが足りない。教科書を置けないから毎回膝の上で広げることになるし、マッペ(プレパラート入れ)を複数扱おうと思うともう置く場所がない。それにインターネットに接続した私物PCを置く場所がまったくないではないか。難しい診断のときに論文を参照したり、免疫染色の検索に便利なウェブサイト(vade mecum)を参照したりするのにあたって、診断以外にもう一台のPCは必須である。


だからデスクの横に、L字の配置になるように、もうひとつのデスクが必要となる。ぼくの場合はそこにはデスクではなく、背の高い棚(デスクになる引きだし付き)を置いて私物PCを配置している。でも本当はこのL字でもまだスペースが足りなくて、メインデスクの右側の引き出しを空けてその上に板を張って、簡易的にデスクを広げて、作業スペースがコの字になるようにしているわけである。


左下に映ってるのはたぶん手と肘だが異形みたいになっててどうしてこうなった


椅子の上に載って写真を撮った。ぼくの後ろ側には本棚があって、教科書や雑誌やフラジャイルがみっちり詰めこまれている。




いまどきの病理検査室は普通、もっとオシャレなのだという。デュアルモニタがアームで釣ってあってデスクの上は広く、何十年前から敷かれている結露よけ(窓に近いから)のカーペットが床と癒着して剥がせなくなっているなんてこともない。病理医の横にはバリスタマシンが置かれており、頭脳労働にふさわしい余裕と性能を兼ね備えた、パソロジスト・コックピット(病理医の運転席)になっているのだそうだ。先日当科を訪れた某教授は言った、「院長にかけあってもう少しいい部屋をもらえるよう頼んでみようか?」それにぼくは答えた、「穴熊が気に入ってるんで大丈夫です、そんなことよりWSIスキャナが欲しいです」



人の欲望は歪み、社会の善意を受け流していく。


2023年5月19日金曜日

ゴーダブリューイチエイチ

次の美容室でパーマかけてもらおうと思って、前回トップを少し長めに残してもらっていたのに、いざ予約する段になってふつうにカットだけの申し込みをしてしまい、パーマの予定は先延ばしになった。

こういううっかりがなくならない。

もはやパーマをかけようがかけなかろうが、中年人生の何かが大きく動くわけではないので、これをひとつ忘れたところで、さほどダメージがあるわけでもないし、ぶっちゃけどうでもいいのだけれど、やろうと思っていたことをすっかり忘れたという事実に軽くへこむことを無理に「へこむことないよ!」と矯正する必要もない。そんな自己啓発本とかnoteの有料マガジンみたいな心持ちでなんでもポジティブに変換するのもどうかと思う。うっかりしたらへこめばいい。そこを抑制しなくてもいい。


シンプルな予定はすっ飛ばしてしまう。

逆に、込み入った案件はすっ飛ばせない。

というか、すっ飛ばさなかった(無事に行動した)場合の原理は、どんどん複雑化している。「なぜ自分はこうするのか」を説明できない。やりたいこと、やりたくないこと、「なぜ?」と5回連続で自分に尋ねようと思うと、せいぜい2、3回目くらいで「いや、別に理由はないんだよなあ」になることも増えた。行動するに至る経路が毎回長い。だらだらと迂曲している。だから「why」も「how」も辿れない。水流に流されて、自分でときどき腕で水をかいたりしているうちに、どこかのほとりにいつのまにかたどり着いており、周囲を見渡すとけもの道が一本あって、ほかにさほどの選択肢もないので、とりあえず道だと思える方角に歩いてゆく、みたいな感じ。

そういうのに慣れてしまったから、逆に(逆の逆に)、理由から行動までがシンプルな行動を忘れてしまうのだと思う。

「トップの髪の毛をあまり短くしないように切ってもらって、次にパーマをかける、だから次回の美容室の予約は2時間枠でとる」くらいだとシンプルすぎて広がりがないので脳がおざなりにしてしまうんだろう。

「まだ数日はシャンプーが残っているけれどコンディショナーが先に切れたから、帰りにドラッグストアに寄ってシャンプーとコンディショナーの両方を買う」くらいは百発百中で忘れる。どうでもいい、と感じてしまう。往々にして帰宅直後に思い出す。脱いだばかりのジャケットをまた羽織る。

どうでもいいのだ、そんなシンプルなものわすれ。ただ、へこむことはへこむ。



「中動態」を用いて人間の行動を言い表す哲学の手さばきに感動したのは何年前のことだったか。たしかに今なお腑に落ちる。自分がまさに能動でも受動でもない部分で動いているのだということを、他人からいただいた言葉で納得する。ただし、その納得も、おそらくは近似的で姑息的な言語化のたまものであって、ほんとうは、中動態という理解以外にも解釈のしようはあるのだろうな、みたいなことを思う。

たとえば、思考はときおり「チンダル現象」を示しているのではないかと感じることがある。光の一部が散乱したものを見て、ああ、あの光は今こちらからあちらに向かって差し込んでいるのだな、とぼくらの目は判断できる。それと同じように、誰かの思考が何かにぶつかって散乱したものをぼくらは見て、ああ、あの人は今、あそこを照らそうとしているのだな、と端から考え、勝手にその人の行動原理を一本道で予測する。しかし本当は、思ったより複雑な散乱が生じていて、それによって元の光のおおわくの筋道が可視化されているように思えるけれど、では散乱した光は光ではないのか? という話。そも散乱によって部屋全体が明るくなっているのでは? という話。



一本道を軽視すらしている自分の脳にすこしへこむ。でも、そうなってしまった。そういう場所にたどり着いてしまった。「why」も「how」もわからない。ほかのWもじつはぜんぶわからないのだけれど。

2023年5月18日木曜日

病理の話(777) オカルトは勉強のきっかけに

「病理の話」が通算で777回目というキリのいい数字である。そこで今日は、病理診断における「なんかついてる」という感覚の話をする。



「生検」と呼ばれる検査がある。胃カメラをやって胃粘膜をちょっとつまんでくるとか、皮膚の色の変わった部分をチョンとつまんでくるとか、体の外から乳腺や肝臓めがけて特殊な針を刺すとか(※ちゃんと部分麻酔してます)、いろんな方法で組織を少しだけとってくる。

お味噌汁を味見するようなものだ。「一部分だけ見て全体をおしはかる」。

で、この生検を、ぼくの場合、1日に50~180個くらい見る。曜日によって検査の多い日と少ない日があるが、ある曜日はコンスタントに150個前後見ている。1つのプレパラートを1分で見て報告書を書くとすると2時間半かかるはずだが、実際にはもう少しかかっており3時間半くらい。

(※仕事は生検だけではなく、ほかにも手術検体の診断などがあります。)

生検は、1人の患者から1個だけ採取されることもあるし、場合によっては10個以上採取されることもある。

担当する科はさまざまで、消化器内科、外科、婦人科、泌尿器科、耳鼻科など、あちこちの検体が提出される。

1年に5000~6000人くらいの患者の病理診断にかかわる。生検の個数(プレパラートの枚数)はちゃんと数えてないけど、およそ15000~20000個、くらいだろうか。


このボリューム感をわかっていただいた上で。


「今週は○○病の人ばかり来るなあ!」みたいなことがある。


胃に発生した○○病。皮膚に発生した○○病。リンパ節に発生した○○病。1週間のうちに、同じ病気が3回も!

○○病自体はめったに目にすることがないのに、たまたま、違う患者の違う臓器から、連日おなじ病気が検出されるわけである。


こういうとき、瞬間的に「最近のぼくは、○○病についてる」と感じる。ただしこの「ついてる」はニュアンスが難しい。少なくとも、ラッキーという意味ではない。漢字であらわすなら「憑」に近いだろうか? でも、「憑かれてる」とか「憑いてる」と書いてしまうと、心の中にある何かからずれていく気がする。ひらがなで表すしかない。「何かに自分がついている」という感じ。「最近のぼくは○○病のテリトリーの中に入り込んでいる」みたいなイメージ。迷い込んでいる。多少オカルトチックにとらえているかもしれない。非科学的だ、なぜなら個人の感覚の話だからだ。


科学者だから、次の瞬間には、なぜそんな珍しいことが起こるかを考えてしまう。最近流行しているある食べ物が病気の原因なのでは……テレビでその病気が紹介されたから患者が気になって来院している……新型コロナのワクチンのせいなのではないか……。因果関係を無責任にさぐりまくる。ここまで含めて人の性だろう。


本当は単なる偶然である。年間に15000回、病気や正常の組織を診まくっていれば、たまたま近い期間のうちに似たような病気に出会うことはある。確率をちゃんと計算してはいないけれど、たぶん5年とか10年に1度くらい、そういうことは普通に起こりうる。


ぼくが職場の同僚と、昨日ばったり札幌駅で出会って、その翌週にもばったりサッポロファクトリーで出会ったとして、それを新型コロナワクチンのせいだと言う人はいないだろう。「たまたまだね」「人生にはそういうことがあるよね」と考えて終わり。

病気との出会いもそれといっしょである。

「もしや……何かが……?」と考えるのはよい。それを自分で無理矢理おさえこもうとは思わない。ただし考え付いたらすぐに検証して、証拠がなければきちんと棄却する。それを迅速に、でも丁寧にやる。


さて、「偶然」だと納得したら、「わあ777が揃った~」みたいに「わあ珍しい病気をたまたま3つも見た~」で終わらせてはだめだと思う。「偶然」を利用して、さらに一段高いところを目指す。

ある時期にたまたま似たような病気を何度も目にしたら、その病気に詳しくなるチャンスだ。

日頃、診断のために必要な勉強は欠かさないけれど、病気はいっぱいあるので自然と勉強も広く浅くなりがちである。

「なんだか近頃は○○病に立て続けに遭遇したから、最新の治療法も含めて勉強しておこうかな」と考えることができれば、○○病について普段よりも深めに勉強するチャンスである。



まれに、実際に社会でその○○病がぐんぐん増加しているという話にたどりつくこともある。偶然ではなく必然的に、その病気に出会う頻度が高くなっていたケースだ。めったにないが皆無ではない。そういうときも、勉強を深めておけば役に立つ。「そのうち勉強しよう」だと、本当にその病気が増えていた場合に対処が遅れる。「あっ、なんか○○病づいてる」と思ったらすかさず勉強をはじめる。きっかけがオカルトであっても対策はしておくのだ。

でもまあ実際には、2,3回まとめて遭遇した病気にその後10年くらい出会わないなんてことのほうが多い。でも、いいのだ。勉強して悪いことはなにもない。10年に2人しか出会わないような病気に、15年後にまた出会ったとき、ぼくの脳は「あっあのとき勉強したアレだ!」と、まるで進研ゼミのCMみたいに活性化してくれる。

15年前に国立がん研究センター中央病院に半年だけいた。そこでしか出会ったことのないごく珍しい病気というのがあった。ぼくはそのとき、たまたま、2例似たような症例を経験し、いっぱい勉強して、いつかこれに出会ったら絶対に診断できるようにしておこう、と心に決めた。そこから10年ちょっと経ったある日、本当にその病気に遭遇して、ぼくは2秒で診断にたどり着いた。あのとき、「これも何かの縁かもな」と思って、しっかり勉強しておいて本当によかったと、10数年越しで自分に拍手を送ったのであった。

2023年5月17日水曜日

5類になったらフォロワーが増えた

ここ1年を振り返ってみると、日本医学会総会の広報を手伝ったり、ほかの医療者のイベント告知を手伝ったり、ときにオンラインイベントで誰かと対談したりしていた。全体的にまじめにおとなしく暮らしていたということだ。そして、Twitterのフォロワーはぜんぜん増えなかった。


しかし、5月8日に「5類」で社会が盛り上がったタイミングくらいから、なぜかフォロワーがぐっと増えた。原因はわからない。少なくともぼくはTwitterの運用のしかたを変えていないし、とりわけ何かがバズったということもないので不思議だった。ゴールデンウィークで社会の何かが変わったのかもしれないし、たまたま凍結されていた人がこのあたりでたっぷり解除されたのかもしれない。そしてぼくはなぜか、「5類になったらフォロワーが増えた」という気持ちになった。風が吹いて桶屋が儲かったよりも強引な話だけれど、実感としてはそうなのだ。だからそのように書いておく。




この1年を振り返ってみると、少なからぬ量のひとびとが、「医者はもういいよ」「医者のいうことはもう聞きたくないんだよ」というモードに入っていたように思う。特に、第8波が終わって、次は5月の上旬くらいに第9波がくるだろうという予測が出された4月の上旬くらいから、あきらかに医者に対する風当たりが強くなったと感じた。「今回ばかりはもう医者に好き勝手なことを言わせたくない、GWで旅行に行くといったら行く! 宴会をするといったらする! 5類に入るといったら入るんだ!」みたいな雰囲気を、他方面から受け取ったのは果たしてぼくだけだったろうか? 「もう黙っててくれ!」みたいなことを直接投げかけてくる人もちらほらいた。

おそらく、医者はこれまでにないほど鬱陶しがられ、また怖れられていた。「連休明けに5類になるからといって、ウイルスの性質が変わるわけでもなく、感染対策を減らしていいとも思わない」……みたいなことを、医者が言い出して、連休がだいなしになり、5類もとりやめになるのではないかと、少なからぬ人びとが危惧していたのかもしれない。しかし、実際のところ、「5類になっても気を引き締めたままでいましょう」なんて、ぼくは言わなかったし、じつはけっこうな量の医者も言わなかった。これはあきらめたとか、いじわるをしたとか、義務を放棄したというわけではなくて、なんとなく、もう伝わる人には伝わっているから、これ以上言わなくてもいいかな、みたいな感じだったように思う。

そもそも、言葉と態度の悪いひとたちは、5類になる前からずっと医者を叩いていたし、ワクチンもてきとうで、飲み会にも行きまくり、こっそり感染してもラッキーなことに無症状で、だからまわりにうつしまくって、でもそのことに気づいても気づかないふりをしていた。5類になるだいぶ前から、とっくに引き締めなんてなかった。そんな人たちに向けて、医者がわざわざ「5類になっても気を引き締めて!」なんて言ったところで、恨みを買うばかりで意味なんてない。逆にきっちりしている人は5類になっても変わらずにきっちりやる。となれば、誰にとっても5類なんて関係ない。だからぼくは特段のメッセージを出すこともなく5類の日を迎えた。ひとことだけ、「別に我々はこれからも変わらない」というツイートだけをしたけれど、それが大してバズったわけでもない。



しかし、なんか、フタを開けてみたら、「5類」は明らかに何かを変えた。ウイルスは変わってない、感染対策も変わってない。しかし社会の空気が一気に変わった気がする。タイムラインは前より少しだけ狂乱の度合いを高めた。そういえば、岡田育さんという古参のツイッタラーは、あいつぐイーロン・マスクのTwitter改変に業を煮やしてTwitterを去った。つまりは5類以外にもいろんなことがあったのだけれど、そういう「ざわめき」みたいなものが、5類のタイミングでドカドカやってきた。そしてなぜかぼくのフォロワーは少し増えた。



岡田育さんがTwitterをやめた日記を読みながら、かつて何度も読み返した「Sim City」の攻略本のことを思い出した。もう詳しくは忘れてしまったけど、たしかこの本の中に、「原発はぶっ壊れたけどぼくはまだテームズ川のほとりに住んでいる――」みたいなザ・クラッシュの歌詞が載っていたのだ。Twitterはぶっ壊れたけどぼくはまだタイムラインのほとりに住んでいる。「街」をテーマにしたあの詩が正確にはいったいどんなものだったのか、それが知りたくてぼくはネットで古本屋をあさり、1991年の攻略本を250円くらいで購入した。そのうち届く。モノポリーの世界チャンピオンのエッセイや、しりあがり寿のマンガが掲載された、あの素敵な攻略本が、ぼろぼろに日焼けした状態のあまりよくない状態のやつが、相変わらずほとりに住んでいるぼくのもとにもうすぐ届く。

2023年5月16日火曜日

病理の話(776) ドコモダケはきっと毒キノコ

今日は病理医の誤診について。


どう説明したらいいかな……と思っていろいろ考えていたのだが、ひとつ思い付いた。山にキノコを採りに行くときのことを考えればいい。


ブナの木の下にわっさり生えているキノコを見て、「あっシイタケだ。ラッキー」と思って近寄って、なんかいつものシイタケより大きいな、と気になりつつも、

「まあ……珍しいシイタケなんだろ」

と思って持って帰って食べたら、1時間も経たずに幻覚を見ながら吐いてひどいめにあったとする(架空のエピソードです)。

お察しの通り、これはシイタケに似ている毒キノコ、ツキヨタケだったのである。

こういうタイプの誤診が、病理医には起こりうる。


いつも診断している病気。毎日とは言わないけれど、毎週、あるいは月に何度か、くらいの頻度で目にする病気。しかし、たまに、「いつもとよく似ているんだけどちょっと気になるなあ」という症例に遭遇することがある。

そこで、

「まあ……珍しい○○がんなんだろ」

なんてサラッと流してしまうと、誤診が起こる。

しかもこれ、病理医は、自分が誤診したことになかなか気づけない。なぜなら、病理診断が間違っていると気づける人は(初期には)ほとんどいないからだ。

主治医は、病理医の診断をもとに治療を選ぶ。A病ならAに効く薬、B病ならBに効く放射線、C病ならCに効く手術。その治療が、仮にいつもより効きが悪ければ、「おい……病理医さんよ、診断間違ってんじゃねぇか?」と気づくことができるだろうか?

いや、そう簡単でもない。

治療というのはいろんな理由で効いたり効かなかったりする。そもそも、診断が合っていても治療が効かないことはある。体質とか、病気のタイプの細かな差とか、いろいろな理由で。

診断が合っていたほうが、「治療の打率がいい」ことは間違いない。だからぼくら病理医はがんばって「正しい診断」を出す。でも、それが本当に正しかったのかどうかを確認するには、かなり戦略的な、テクい振り返りをやらないといけない。

なにせ、「診断は間違っていて、治療もあんまりよく効かなかったんだけど、体内の免疫の力でなんとか病気を抑え込んでいる患者」なんてのもいたりするので難しい。この場合、主治医も患者も満足しているから病理医が怒られることはない。となればこのミス、誰が気づける?



さて、話をキノコに戻そう(病理の話なのにキノコに戻るなよ、というツッコミも出そうだが)。

ツキヨタケのことを知らない人は、「なんかでかいシイタケだな」としか思えない。だから「誤診」をすることになる。

では、ぼくらはツキヨタケを勉強するしかないのだが、具体的にどのように勉強するのか?

まずはそもそも「ツキヨタケというキノコがある」ことを知る。第一歩。

それがシイタケに似ることがある、と知る。図鑑を適当に読んでいても気づかないことがあるので注意。いろんなキノコを順番に見ているだけでは、「どれとどれが似ているな」まで考え付かなかったりする。解説が細かい本を読むといいかも。あるいは、実際に間違ったことがある人の話を聞くといいかも。

そして、「ツキヨタケの中でも、とくに、シイタケに似ているパターンがあって、そういうときはこうやって見えるものだ」というのをできるだけ具体的に学ぶ。

逆に、「シイタケの中でツキヨタケに似るパターン」も知っておくといい。せっかく食べられるキノコだったのに、ツキヨタケだと思って採らずに帰ってしまった、みたいな誤診もあるのだ。

そうそう、「過去にツキヨタケとシイタケを見間違えた人は、どのような山で、どのような木の下で、そういう勘違いをしたのか」まで学んでおくといいだろう。見た目だけじゃなくてシチュエーションをおさえる。

「見間違えた人は長く歩いていて疲れていた」みたいな情報もあなどりがたい。

「夜中にツキヨタケを見ると光っている(!)からまず間違えないけれど、昼間だとシイタケと見間違えやすい」みたいな話も出てきたりする。

「シイタケ、シイタケとかき集めているなかで、たまたまツキヨタケを見かけたとき、どういう発想のもとにピンとくればいいか?」みたいな思考実験もしておくべきだ。ベテランの匠の業だってもれなく手に入れよう。



こういう訓練をこなした上ではじめて、山でキノコが狩れる。

ただし、採取できるのはシイタケだけだ。ナメタケやエノキはあぶない。松茸もやめたほうがいいだろう。ぼくらが勉強したのはまだ「シイタケに似ている毒キノコ」だけだ。

そもそも、「シロウトは山でキノコを採らない方がいい」という考え方もあると思う。



でも病理医は、「診断しなければいい」というわけにはいかない。

シロウトのままではだめだ。

誤診に備えて、「似ているもの同士」を見比べる訓練をする。「知らないとわからない」ものがいっぱいあるから相当がんばらないといけない。


IgG4関連硬化性疾患と、progressive transformation of germinal center (PTGC)と、florid variantのfollicular lymphomaを知らずに、nodular lymphocyte predominant Hodgkin lymphomaを病理診断するのは危険だし、この話をここで終わりにすると、ある程度経験のある病理医からは、「えっimmune deficiency and dysregulationは考えなくていいの?」などと突っ込まれてしまう。これらのうち一つでも知らないものがあるまま病理診断をしているのだとしたら、それはもう、毎日山でシイタケを採って暮らしている人と同じくらい危ないことなのである。

2023年5月15日月曜日

符丁が必要な教育

「Twitterにおけるおじさんの一人称として最適なものは何か教えてくれ」というツイートがRTで回ってきて、それはもちろん「小生」だろうと思って、元ツイのスレッドを開いたら一番上に「小生」があったし、そのツイートをRTした人も直後に「小生」しか思い付かないと書いていて、これはもう「小生」で決まりだなと思ったし、こういうところがツイ仕草として一般市民の感覚からキモくズレていくのだろうなと感じた。


上記の一文がちょうど140文字! ……だったらかっこよかったのだが実際には200字くらいある。ぼくから出力される文章は、そこまでTwitterに最適化されているわけではなかった。よいことである。そこに最適化されてどうする。


背景情報が必要なことばかりを普段から口にしている。Twitterをやっていない人がGoogleで「病理」を検索してこのブログに流れ着いてくる可能性を無視して、Twitterを長年やっていないと読めないような符丁まみれの文章を書いてしまう。

長年かけてじわじわと、今いるポジション、職務、人付き合いによって、ぼくの周りに前提が増えていて、そういうのをまったく知らないところからやってきた人に語りかける言葉が少なくなっている。


長年小学校の先生をやっている人は偉いなあ。

毎年新たな子どもたちがやってきて、4月には「いちから」何かを教える、それをずっとくり返しているのだから本当に偉い。時代に合わせて少しずつ教材をブラッシュアップさせつつ、人として最初に学んでおいたほうがいい話、大人がとっくに「常識」にしてしまった内容を、レベル1から順番に語っていくという仕事。その根気、その職能にあこがれる。ぼくはもう、病理1年目の人に教える言葉を持たない。

先日、プロ野球の吉井理人コーチが書いた本を読んでみた。「最高のコーチは教えない」というので、どういうことかなと思うと、とにかく選手に自分の現状をみずから解析させることを重視しており、コーチが現役時代にうまくいったやり方を一方的に教えるのではだめだというのである。コーチに合ったやりかたがマッチしない選手を潰してしまうからだ。

野球がうまくなるために必要なことの中で、「全員が知っておくといいこと」、すなわちコーチが毎回誰にでも伝えられることが何かあるかというと……それが、「自分が自分をきちんと言語化できる能力」なのだ。それに気づいた吉井コーチはとにかく選手の話を聞く。「今日はなぜうまくいったと思う?」「今日はなぜ打たれてしまったのだと思う?」選手が自分を解析して言葉にするプロセスを大事にしていく。ああ、これはいいことだ、と思った。

しかし吉井コーチもじつは試行錯誤中なのだという(本が出たのは今から5年くらい前)。プロ野球の場合、選手自身にゆっくり気づいて成長してもらっているうちに球団を解雇される、かなり厳しめのサバイバルレースが当たり前なので、あまりに自主性に任せてしまうと育つ前にプロ野球選手を辞めざるを得なくなってしまうからだろう。だからどうしたって、最初に最低限の技術、トレーニング法とか配球の考え方とかそういった部分を、上意下達で教えなければいけないこともある。それはそうだろうなと思う。


そこで思い出したのが小学校教師のことだった。小学校の先生は、たぶんプロ野球のピッチングコーチ以上に、「生徒の自主性に任せてだけいてはだめ」な教育場面をいっぱい経験している。交通ルールであるとか、食事のマナーであるとか、個人が自由にやってしまうと社会で苦労することになる部分も小学校では教えなければいけない。となると、自然と、「大人はこうするのが普通なんだ」という教え方になるはずである。しかしたまにベテランの小学校教師が、「生徒の自主性をすごく尊重している」としか言い様のないムーブを決めてくることがあって、どうやったんだろうといつも不思議に思う。


ぼくもいよいよ年齢的・キャリア的に教える立場だ。しかし相変わらず、「Twitterをやっていなければわからないネタツイ」みたいな感じで、ある程度病理をかじった人でないとおもしろみがわからない知恵みたいなものを語りたくなってしまう。ぼくには小学校の先生はやれないしピッチングコーチも勤まらない、そして、あるいは、病理診断学の講師としてもまだまだぜんぜんだめなのだろうなと肩を落とす。しょうがないじゃないか、ぼくはここまで、自分が病理医になることしか考えてこなかった。どうやったら病理医にすることができるのかなんて、まるで興味がなかった。プロ野球の若いピッチャーや、小学生たちと同じように。

2023年5月12日金曜日

病理の話(775) 比率や分布の異常をみる

顕微鏡で細胞を見て、その細胞の「顔付き」から病気の良し悪しを判断する――ごく簡単に病理診断のやりかたを述べるとこうである。

ただし、見ているものは必ずしも、「細胞1個の顔付き」だけではない。複数の細胞がどのような割合でそこに存在するか(比率)、複数の細胞がどこにどれだけ配置されているか(分布)といった、「たくさんの細胞のありよう」をも判断する。


たとえば「リンパ球」のことを考えてみよう。ただし、すぐにリンパ球のことを語るのではなく、ちょっと前フリの説明が必要である。


人体には、皮膚や粘膜といった「壁」があって、内部に異物や細菌、ウイルスなどが入ってこないように厳重な防御がなされている。しかし、敵を内部に侵入させないことは大事だが、同時に、栄養を体内に取り込むこともしなければいけない。となると、「扉」を閉じたままではだめだ。あまりに厳重に防御を固めてしまうと、逆に兵糧攻めのような状態に陥ってしまう。

そこで人体は、皮膚のような場所では防御をしっかり固めつつも、胃腸の粘膜あたりではわりと防御をゆるめて、食物の吸収を行うようにしている。

となると、だれもが気にするだろう。「胃腸から敵が入って来たらどうするの?」と。

そういうのを見分けて退治するシステムが別にある。おなじみの「免疫」である。

たとえば小腸の粘膜の中には、免疫細胞がうろちょろしている。普段、その数は少ない。警備員みたいなイメージで、定期的に体内を循環しながら小腸にも目を配る、という感じだ。

そして、粘膜の中で、免疫細胞たちはさらに細かな役割分担をしている。

粘膜といっても実は分厚い。人の目からみると薄い布くらいの厚さしかないのだが、顕微鏡で見るとそこそこの厚さをもっていることがわかる。この粘膜の、一番表面に近いあたりには、「形質細胞」と呼ばれる特殊な免疫細胞がうろちょろしている。

形質細胞は、特殊なタンパク質を外敵に投げつける。これはコンビニの防犯に用いられているカラーボールみたいなもので、敵にくっつくことでそれ自体が嫌がらせとなるし、カラーを目印にしてほかの警備員たちがよってたかってやってきて敵をボコる。

カラーボール投げつけ隊は、外敵が入って来やすい、粘膜の表面部分で敵を待っている。

一方で、粘膜のもっと深い部分には、形質細胞ではなくて、B細胞とかT細胞などと言われる別の警備員(免疫細胞)がいる。

これは分業だ。免疫細胞ごとに、自分の得意とする場所を守るようになっている。



さて、前フリはここまでである。主治医が患者に内視鏡をして、小腸の粘膜を小さな爪切りみたいなものでプチンととってくる。その小さなカケラを病理医が顕微鏡で見る。

粘膜を拡大する。

いちばん表面の部分に、形質細胞ではない、B細胞がたくさん詰まっているとする。

細胞1つ1つの形にはさほど異常がないように見える。「顔付き」はあまり病気っぽくない。しかし、「表面に形質細胞ではない免疫細胞がいる」というのは異常なのだ。

ここでピンとくる。

「あっ、分布の異常がある!」

顔付きは悪くないのだが、分業体制がおかしい。

これを、見た目がわかりやすいヤクザではなく、スーツを着て一般人に擬態したインテリヤクザなのではないかと考えることで、病理医は検査を追加して、免疫細胞に異常のある病気なのではないかと診断を深めていく。


顕微鏡の倍率を上げてもわからないことがある。むしろ、全体をフワッと見て、配置や色ムラがおかしいと気づくことで、診断が前に進むことがあるのだ。

2023年5月11日木曜日

マリオの映画見たい

noteあたりではしばしば、「映画をみることで、自分とは異なる人生に没入することができるのがいい」という趣旨のことを読む。それは全くその通りだな、と思う。

で、話がちょっとずれるのだけれど、映画をみてごくたまに、「自分の人生そのものが映画化されることはないんだよなー」という謎の感情が湧いてくることもある。つまり、自分の平凡な人生は映画にはなりようがないな、みたいな。あきらめ。卑屈? なんかそういった感情がちょっとだけ。美男美女が艱難辛苦の末に熱い抱擁を交わすストーリーにどう感情移入しろと? みたいな話。

さて、今公開中の「マリオの映画」を見に行った人たちの感想を読むと、これは今までの映画の感想とはすこーし違うっぽいなあと思う。「俺たちが知っているマリオがそのまま映画になってる!」「なんだかんだで私たちはマリオの経験をいっぱい積んでいたんだなあってことをあらためて思い出した」「スクリーンに出ているものがいちいち『あれだ!』ってわかる体験って久しぶり」みたいな。

似たような感想は、「原作が先にある映画」でも出てくると言えば出てくる、鬼滅の刃やスラムダンクの原作が好きな人が「そうそう! そのシーンを劇場で見たかったんだよ!」と言うのと近いかも?

でも、そういうのとマリオの映画は本質的に違う気もする。炭治郎やら煉獄さんやら宮城リョータをマンガで読んで知っている人が、再現性異常~と言ってよろこぶのもすばらしいことだが、マリオは、何せ、「自分がマリオだったことがある人」がみて喜んでいるのだ。

ぼくらは炭治郎であったことも煉獄さんであったことも宮城リョータであったこともないが、マリオなら演ったことがあるのである。それを踏まえてのNintendoのCM「It's you, Mario」なのだ。マリオを映画で見るというのは、これまでならほとんどの人にとってあり得なかった、「自分の人生がそのまま映画になったものを見る」という体験なのだと思う。すでに同じようなことを言ってる人もたくさんいそうだな。だってマリオだからな。みんなマリオになったことがあるんだもの。

2023年5月10日水曜日

病理の話(774) ウォーリーを見つけたあとの話

たとえば……。

あ、今回の「たとえば」は、現実の症例を一切モデルにしないよう、かなり念入りに考えております。自分の経験だけでなく、さまざまな場所で読んだ医学雑誌の内容や教科書の話を組み合わせています。そうしないと「これ、私がモデルなのでは?」と思われてしまうからね。いいですか? そうとう考えて作った創作だということですよ。それを踏まえた上で。



たとえば、小児に胃カメラをして、粘膜をちょんとつまんでくる。それを病理医が顕微鏡で見て、「ああ好中球がいるなあ」と、「所見」を見つける。

次に病理医がやるべきことは、病理診断書に「好中球がいます。胃炎です」と書くこと……ではない。

小児の胃に好中球が出ているというのはそこそこの異常事態だ。だったらその異常を「ある」と書いて自分の仕事は終わりだと安心してはいけない。その異常が「なぜ」生じているか、仮説をきちんと形成して、主治医に連絡する。そこまでやるのが病理診断である。


ここであげられる仮説は以下のようなものだ。

・ピロリ菌がいる

・炎症性腸疾患などの特殊な病気にかかっている

・それ以外(超マニアックで個人の特定にもつながりかねないので省略)


子どもの胃に好中球がいた。すると仮説がいくつか思い浮かぶ。そしたらすぐに、数珠つなぎ的に、「仮説を検証するための所見」を探しにいく。この間0.01秒、くらいのノリである。


好中球を見つけたら瞬時にピロリ菌感染があるかどうかを追加で探す。子どもの急激な胃炎症状には、ピロリ菌が関与している可能性がある。好中球を見つけて安心してはだめだ。

で、がんばって菌を探すが、結局小さな小さな胃粘膜のカケラの中にピロリ菌は見つからなかった。

そこですかさず仮説を先に進める。

・ピロリ菌は胃のほかの場所に隠れているが、今見ている粘膜の場所にはたまたまいなかった

・炎症性腸疾患などの特殊な病気である

・その他

ひとつ所見が得られるたびに、頭の中で動かす仮説がヌルヌル変化する。ピロリ菌がいない、とわかった時点で、ついでに胃粘膜の表層にある細胞が「ピロリ菌がいるときの変化」をしているかどうかも同時に探っている。「ピロリくせぇな」みたいな像というのがあるのでそれを探している。しかし今回は、それもなかった。ピロリくささがだいぶ減る。となると……ピロリ菌以外の原因で好中球が出ていたのではないか。こうして、炎症性腸疾患やその他の病気の可能性が上がっていく。だったら次は何を探すか? Focally enhanced gastritisか? 粘膜深部の形質細胞か? 毛細血管周囲になにか所見はないか……?




病理診断は「ウォーリーを探せ!」に似ている、とぼく自身も言ったことがある。ただしウォーリーを見つけて終わりではない点が異なる。ウォーリーが滑り台の陰にいたら、「ウォーリーが滑り台の陰にいるときにほかの場所にいがちなキャラ」をセットで探すのが我々の仕事だ。ウォーリーがスーツを着ていたら、「今日はなぜウォーリーはスーツなのだろう、そうか、家族の誕生日なのかもしれない。だったら近場のレストランでそういう準備が行われているはずだ」とレストランに目を向けるのも我々の仕事だ。ウォーリーを探して見つけて終わりでよいなら機械学習で十分こなせる仕事である。その先の部分でああでもないこうでもないと考え続けることに醍醐味がある。


……醍醐味はそこにある。ただし、単純に、ウォーリーを探すのがうまい人だと、毎日の仕事のひとつひとつから無数に達成感を得られるので、それはそれで大事なことかもしれない。


2023年5月9日火曜日

一番うまいのはかけ

卵がない。店によるけど手に入りづらい。スーパーだと売ってることが多い。ただし時間帯による。ドラッグストアだとぜんぜん入荷してない。コンビニだといける場合がある。つまり、場所と時間によって、卵が手に入ったり入らなかったりする。限定品みたいだ。


鳥インフルエンザの影響で北海道内の卵の流通が破綻していて、全国でどれだけニュースになっているかわからないんだけど今ほんとうに北海道は大変なのである。で、ま、卵がないのはしょうがないなと思ってみんながんばって適応している。飲食店は大変だろうな。ここでふしぎなのは丸亀製麺のレギュレーションだ。


「生卵を使ったメニューは停止しています」ならわかる。しかし、有名な「かまたまうどん」は普通に今も売っているし、生卵も出てくる。そして温泉卵メニューが中止になっているのであった。ぱっと想像できない理由があるのだろう。

元々丸亀製麺はおそらく複数の仕入れ先から卵を入手している。鳥に食べさせるエサの色によって黄身の色も変わることを利用し、メニューごとに使う卵を変えていたから、今こうして卵が手に入りづらい状況の中で、比較的まだ流通が保たれている部分の卵の「色」などさまざまな理由から「かまたまはOK、温玉とろたまはなし」みたいな複雑なことになっているのだろう。


先日、とろたまうどんを食べたいなと思って丸亀に行ったらメニューから消されているのだ。とろたまがないのか、まあしょうがないな、と思いつつ、あれっと思って店員に、試しにこう伝えてみた。「あの……かまたまの並にとろろをトッピングするのはできるんですか?」


「ッシャセェ!! ディキャァァス!! カマタマイッチョ!!」


できた。ほとんどとろたまなのにな、と思いつつ、でもたぶんメニューとして出してるとろたまにはもう少し細かい調整があるのかもな、なんてことを思った。食ってみたが「とろたま」と「かまたま+とろろ」の違いはぼくにはわからなかった。UCCを飲んで違いがわかるように訓練しなければいけない。




卵焼きは売っている。サラダの中身が変わるらしい。焼き肉屋で溶き卵が出ない悲しみに直面した男がいた。卵ひとつでここまで非日常感が出るとは思わなかった。卵アレルギーの人もニュースを真剣に眺めている。一本の筋道だけで考えてもわからない。卵かけご飯が食べたくなるがぼくは今日ものりたまをご飯にかけて食べる。のりたまは普通に売っている。

2023年5月8日月曜日

病理の話(773) いち病理医のリアル

ぼく「ではいっしょに顕微鏡を見てみましょう」


病理の専攻医(これから病理専門医をとる人)「はい、よろしくお願いします」


ぼく「弱拡大で見て、まずこの……辺縁の部分で、病変がグアッと立ち上がっています。周囲の非癌粘膜を、癌が下から押し上げているわけです。この部分から癌になる。ここからこっちが癌である」


専攻医「はい」


ぼく「ざっと進展範囲を見ると、このあたりは固有筋層までの浸潤。ここもぎりぎり固有筋層までかな。ここは固有筋層を越えているようにも見えますが難しいですね。ほかの切片も見てみましょう」


専攻医「はい」


ぼく「ああ、こちらだと漿膜下層まで達しています。漿膜面への露呈はないようですね」


専攻医「はい」


ぼく「では次に組織像を見ましょう。まず……このあたりはひとつの基底膜に対してひとつの管腔がありますね、トポロジー的に考えると試験管状の構造物をただ曲げるだけで達成できる形状ということです、こういうところは高分化 tub1 相当と判定します。ただし先ほどから弱拡大でざっと見てきた限り、どうもこの方はtub1だけではおさまらない領域を随所に混在していますね、たとえばここは管腔の中に乳頭状に腫瘍成分が伸び出てくる部分が認められます。しかも領域をもっている。一部だけちょっと、じゃなくてこの腺管やこちらの腺管などある程度まとまった部分で内腔への乳頭状の構築が見てとれるわけですね。こういうところを当院ではtub1-papと表現しています。一部が乳頭状 papillaryであるということです」


専攻医「うわ」


ぼく「さらにこちらでは、ひとつの基底に対して中身の管腔が複数ある。頭の中で試験管をどうねじっても、このレンコンのような切り口にはならないわけです、有名なcribriformすなわち篩(ふるい)状のパターンですね、これがあるとtub2と判定する。ただし、cribriformがなくても、tub1の試験管構造からトポロジー的に離れているなと考えられた場合にはtub2という記載をしてよいのではないか、というのが我々の考え方です。たとえばこのように複数方向に分岐している場合や、試験管と比べて逸脱が激しい小型の管腔、不規則な管腔、こういったものはtub2の要素ありとする」


専攻医「うわ……」


ぼく「そしてこのように視野を動かしながら見ていくと……ここはtub1でよい、すっと動かして、こちらはtub1-papくらいかな、すっと動かして、こちらはまたtub1、すっと動かす、そしてこちらはtub2が混じり始めている、うーんだから今のところだとtub1>pap,tub2くらいかな、でもほかの切片も見てみよう、するとtub2がもう少し混じってくるかな、頭の中で病変の比率をリアルタイムで更新していくわけです、今のこの視野を見てしまうとtub1=tub2>papくらいでもいいかもしれない……」


専攻医「うわうわ なるほど わかってきました、なるほど病理医ってリアルタイムで考えている話をぜんぶ言語にするとこんな風になってるんですね」


ぼく「えっそこ」


専攻医「なんというか……思考の結果ばかりを教わってきたので……思考の途中の段階をここまでダダ漏れにする人はじめて見ました」


ぼく「えっそこ」


たまたま近くで聞いていたよう先輩「あの教え方で頭に入る人はめったにいないよ(笑)」


ぼく「(笑)」

2023年5月2日火曜日

ワークとライフにきっちり線を引くことが本当に必要なことなのか考えてみた

2019年に、ウェブメディア「Dybe!」に寄稿をした。フォロワーの反応は中の上といったところで、自分としてはわりとしっかり書けたなと思った記事であった。先日、ひさびさに見に行ってみたらデッドリンクとなっており、Dybe! はいつのまにかサイトごと消失していた。調べるとどうやら2022年にサービス終了していたらしい。


サ終にあたりぼくらには何の連絡もなかったし、著作権がどうなってるのかもよくわからないのだが、とりあえずぼくの手元に残っている校正前の原稿をコピペしてここに残しておく。


***


「Dybe!」の編集者がぼくのツイッターアカウントをフォローしてくれたので、フォローを返した。すると、ものの1,2時間でDMが来た。


ツイッターのDMそのものには詳細な要件は書かれていなかった。Facebookページの方にメッセージを送ったから読んでくれ、とだけあった。渾身のFacebookメッセージを絶対見落とされてなるものかという強い意志を感じた。バリバリ働くタイプの人だなあ。


メッセージを読むとそこにはまず、ぼくの著作を読んだというアピールがあり(フフッ)、その後にようやく本来の要件が書かれていた。

 

「『ワークとライフの境界線がない働き方』について書いてくれんかの?」


こんなオーキド博士みたいな口調ではなかったけれど、このオファーを受けないと物語は始まらないんだろうな、と漠然と感じさせるような文面だった。

ワークとライフの境界線がない働き方……か。確かに、ぼくはそこにあまり線を引かないほうの人間である。



世の中には、座右の銘的なものを胸に抱いて、真実一路堂々と生きている人がいる一方で、もう少しぼんやりと、その場その場でマアこんなもんかナーくらいの気持ちで日々をやりくりしている人もいる。ぼくはどちらかというとその場しのぎ型の人間で、というか、現代に生きるたいていの人はそれほど強固なポリシーで暮らしていないんじゃないかと思わなくもないのだが、とにかくぼくは、「朝食は絶対に米!」とか、「横断歩道を渡るときは右足から!」とか、「ホームランを打ったら天に指を突き上げる!」みたいな強い決め事は持っていないし、「ワークとライフはきっちりわけないとだめ!」とも思っていない。いつだって、何に対したって、さじ加減はこんなもんかナーくらいの気持ちでフワフワしている。


「ワークはライフとは別! 勤務中には自分の都合でツイッターなんかしちゃだめ!」という線を引くのが面倒だ。


「5時を過ぎたら仕事のメールなんて読まないよ! ライフとワークは別!」という線を引くのがおっくうなのである。


今期、「私、定時で帰ります」というドラマを楽しく見ているが(吉高由里子さんがんばってください)、ぼくには6時に退勤しても6時10分までビールが安く飲めるなじみの中華料理店というのが存在しないので、あのドラマは好きだけれど、定時で帰ることをポリシーにはできない。これは別にぼくの心根がブラック企業だからだというわけでもないと思う。単に、そこに線を引かないということにすぎない。


「今日は夕方4時まで働いたら疲れたから、4時から5時の間はツイッターでも見とくかな」という日がある。あんまり馬鹿正直に書くと事務長に怒られるかな。でも、別にいっつも時短勤務しているわけじゃない。「気づいたら深夜2時だけど、この顕微鏡写真だけ撮っちゃったほうが明日楽しく働けそうだな」という日もある。これはこれで怒られるかな。誰に怒られるかというと、「働かないことは悪だ、と線を引く人」や、「働きすぎることは悪だ、と線を引く人」に怒られる。前者はフレックスで令和、後者はブラックで昭和、ときっちり分けられるものでもない。そういうのが融合してできているのがぼくなのだ。

……自信あって言うわけではないけれど、おそらくは、みなさんだって、そうだ。



ぼくがこうしてカタカタ書いて、あなたが今こうして読んでいるようなWeb記事においては、「線を引くタイプのエントリ」が好まれる。

世の中にものがあふれていて、考え方も飽和している中、完全に新しいアイディアを生み出してドスンと皆さんの前にお示しするというのは、思った以上に難しいことだ。陳腐な言い方だけれど、「誰も思いついたことのないアイディア」はたいてい誰かが思いついたあとだし、「自分だけが見つけた真実」はたいていどこかに書いてある。

そんな中、いまだにWeb記事でなんかうまいことを言っている人は、今さら何を生み出し、何を語っているのか。ここにはからくりというか、メソッドがある。


・みんながそれまでも漠然と思っていたことに、なんかうまい言葉をあてはめる

・みんなが今までも見ていた物事を、きっちり区切って分類する


これだ。

完全に新しいことを生み出しているのではなく、古い物事を新しく区切り直して目新しさを産んでいる。

世にいうクリエイティブと呼ばれた仕事を丁寧に解析すると、結構な割合でクリエイト(創造)というよりクラシフィケイト(分類)とノミネート(任命・配置)とアプリケート(適用)だということに気づく。横文字を多用することでぼくの知的レベルを高く見せようという魂胆が透けてきたので話を日本語に戻すが、つまり、「まっさらな画用紙に新しく描いたもの」のではなく、「すでに画用紙に描いてあるものを、線で区切ったり、囲ったりすることで、新しい見せ方になったもの」に、人は惹かれ、集まってくるのだ。


優れた書き手はきれいに線を引く。


物事の境界線を引き直してリネームする。


「あなたはこう考えているかもしれないけれど、ちょっと視点を変えて、こう考えてみたらどうだろう」。


実際にそこにあるものは何も変わっていないのに、捉え方ひとつ、心のありようひとつで、世界が違って見えてくる。これはエネルギー効率的にすばらしいことだ。実際にそこにあるものが何も変わっていないということは、つまりそこには労力が働いていないし、なんのエネルギーも注がれていないということだからだ。見る角度を変えるだけ。数歩回り込むだけ。「区切り直し」て「とらえ直し」て「名前を付け直す」だけで、心が楽になったり、明日への活力が湧いてきたりする。


かつてナンシー関という人がいた。今はマツコ・デラックスという人がいる。昔も今もタモリという人がいる。


彼女らはみな、境界線を引き直す達人だった。


昭和から令和まで一貫して、当意即妙にうまいことを言う人があこがれを集め、引用され、ぼくらがさも何か新しいものをつかんだかのような気にさせてくれる。


ぼくらはかつて、テレビCMに胸を突かれ、大ヒットドラマのセリフひとつをリフレインし、ベストセラー小説の提示する生き方に賛否両論を集め、すでにそこにあった物事に絶妙の境界線を引かされてきた。


ワークとライフをどう分けるか? これだって要は境界線の引き方ひとつである。


だから昔はワークライフバランスという言葉にある種の普遍性があった。

 

でも、昔と今では少々状況が変わった。このことは知っておいたほうがいい。



かつて、線を引き直す人というのは一流コラムニストや自己啓発本の著者であり、テレビコメンテーターやラジオDJであった。「うまいことを言える人」は誰もがその名を知る著名人ばかりだった。あるいは親や祖父母が「うまく背中を押してくれた」「目からウロコを落としてくれた」こともあったろう。


でも、家族や直近の上司をかき集めたところで、ぼくらが参照できる「境界線を引き直す人の数」は、せいぜい10人、20人くらいのレベルであった。自分でいったん引いた線を疑う機会も少なかった。


今は違う。


SNSに日替わりで、無数の「線の引き方」が提示される。ぼくらは毎日違う人を尊敬できる。参照できるアイディアの数、師匠の数が、無限に増えた。おかげで、ほかの誰とも違う、オーダーメード方式の線がたやすく引けるし、極論すれば毎日違う線を引くこともできる。


ある人は「ワークをライフのように楽しむための気の持ちよう」を語り、ある人は「ワークを手段と割り切ってライフのためにエネルギーを振り分けろ」と言う。


ある人が5時に引いた境界線を、ある人が26時に引き直す。ぼくらはそれらを毎日参照しながら、何度も何度も線を引き直し、自分にあった線の位置を探っていく。



ぼくは冒頭にこう書いた。


 “世の中には、座右の銘的なものを胸に抱いて、真実一路堂々と生きている人がいる一方で、もう少しぼんやりと、その場その場でマアこんなもんかナーくらいの気持ちで日々をやりくりしている人もいる。ぼくはどちらかというとその場しのぎ型の人間で、というか、現代に生きるたいていの人はそれほど強固なポリシーで暮らしていないんじゃないかと思わなくもない”


現代は、スマホにその時流れている言葉に従って、その場をいかにうまくしのぐかという時代であると思う。


座右の銘がどうとか言っている人は考え方が古い。


一つのことわざとか偉人の名言を後生大事にして生きていける時代ではないのだ。


ぼくらは電車のホームでぼんやりスマホをフリックしているだけで、無意識のうちに無数のコラムニストたちに触れ、多様すぎる価値観によって自分の線を分単位で引き直す。


ワークとライフのバランスはこうしたほうがいいよ、みたいな最適解なんてもうない。ぼくらは一つの価値観では暮らせない人間に進化してしまった。退化とは言わない。退化と言ってしまったら悲しすぎる。


ぼくらが気にするべきは、ワークライフバランスみたいな旧元号時代の言葉ではない。


いつだって、「今日の名言」を大事にしながら、毎日少しずつ変わっていく自分の心に、それでも誠実に向き合っていくしかないのだと思う。



お気づきの方もいるかもしれない。実はぼくはこの記事の中で、「線を引かないやり方をしたほうがいいんじゃないのかなー」という線を引いた。


線を引く人と引かない人というクラスタを、対立事項として皆さんの頭の中に浮き立たせた。


線を引かないほうがラクだぜ、という、自己啓発本のような言葉を用意した。


こんなおじさんの話をまじめに聞かない方がいい。後生大事に抱えるような言葉はここにはない。というかどこにもない。線を引くやり方と線を引かないやり方の境界線だって、ほんとうは、もう少しあいまいなはずなのだから。

 


2023年5月1日月曜日

病理の話(772) ないことが異常

けっこう前の話なのだが、ある珍しい病気の診断に携わった。「診断に携わった」だなんて、ずいぶんと回りくどい言い方だな、と感じる方もいるかもしれないが、ほんとうにこういうイメージだったのだ。自分ひとりで診断をビシッと決めたなんてとても言えない、さまざまな人の協力と、あと、運にも助けられて、なんとかかんとか診断にたどり着いた。そのときぼくは多少なりとも貢献はしたと思う。しかしぼくだけでは絶対に無理だった。


どんな病気だったかというと……。患者は大人なのだけれど、この病気というか病態そのものは、おそらく子どものころからあったのではないか、という話だった。ある臓器に、がんではないのだが不思議な異常があらわれ、なんでこんなことになるのかなといろいろ調べていくうちに、とある珍しい病名が候補として浮上したのである。


その病名を付けるにあたっては、いくつかの根拠が必要だった。そして、「ある臓器」の一部が切り取られ、病理のぼくのもとにやってきた。ぼくはその臓器をつぶさに観察したのだが、はっきり言って、これといった「特殊な病理組織像」が見いだせなかったのである。


だからぼくは正直にこのように書いた。


「ある病気であることを示す所見は見られません。とはいえ、ある病気を否定することも難しいです。ほかの病気かもしれないが、この病気かもしれない。決められません」


これでは何も言っていないのといっしょだ。しかし、結局、この臓器をいくらみても、診断にはたどり着かないのであった。


後日、患者の別の臓器から、さらに検体が採取された。そこには、前回の臓器とはまるで異なる、あきらかな「異常」を見出すことができた。びっくりして、その病名の診断基準を確認し、無事患者の病名は確定したのである。


というわけで、最初に取った臓器Aでは診断が付かなかったが、次に取った臓器Bでなんとか診断に至った。各方面に感謝して、話はこれで終わり……にはならなかった。



先日の病理学会で、たまたまお目にかかったある臓器の大家に、ぼくの診断の話が伝わった。そして、「最初に取ってきた臓器ではやはり診断は難しかったでしょうね」という。患者には申し訳ないが、ぼくはちょっとだけ安心した。ああ、やはり最初に取ったものだけでは診断はできなかったのだな。なにせ、患者は最初の検査で診断がつかなかったために、次にまた別の場所から細胞を取るハメになったわけで。手間もかかったし時間もかかってしまったが、とりあえず最初の判断は間違っていなかったのだなあと思って安心をしたのだ。

しかしその偉い先生は続けた。

「私でも、最初の臓器をみるだけで確定診断はできなかったと思います。しかし……確定はできないけれど、疑うことくらいはできたかもしれない。」

ぼくはびっくりした。

えっ、最初のアレで? そんなばかな。だって、何も、特殊な所見がなかったんですよ。

すると偉い先生は言った。

「いや、それなんですけどね……。ここ、見た目に異常はありますよね。でも、ふつうの病気でこういう異常があったら、ここにさらに、Aという病態が起こっていないとおかしくないですか?」

ぼくはしばらく考えて、文字通り声をあげた。「あっ!」




彼の言っているのはこういうことだ。

ある交通事故現場のことを考えて欲しい。立ち退きを拒んでいた古い定食屋に、軽トラックがつっこんだ。壁は大破。店主はとても悲しんでいるが、それ以上に怒っている。「俺がいつまでも立ち退かないからいやがらせを受けたんだ!」 しかし証拠がない。

運転手は「いやあ……居眠りしちゃいまして」と言っている。

運転手に悪意があることを疑うにしても、証拠がない、ふつうの事故だと言って終わるかどうか。もう一歩踏み込めるかどうか。

たとえば、「車が家に突っ込んでいるのに、ブレーキ痕がなかった」というのはどうだろう。故意の証拠になるだろうか?

いや、ならないだろう。なにせ運転手は寝ていたというのだから。眠っていたらブレーキは踏めない。これは証拠にはならない。

そして、運転手はたしかに、顔をハンドルにぶつけてケガをしていた。だから故意ではないというのだ。

しかし……運転手は「肝心なところにケガしていなかった」。シートベルトが肩に食い込んだときのキズがなかったのだ。これはつまり、運転手が衝突の瞬間に、手で踏ん張ることができたことを示す。さらには、自分がぎりぎりほどよいケガをするくらいに加減したのではないかと思われる。




つまり、「証拠があるかどうか」を探すにあたっては、何かが「ある」ことだけをさがしていてはだめなのだ。そのシチュエーションなら本来あるはずのものが「ない」ことにも目を配らなければいけない。



くだんの偉い先生は言った。「先生、このような変化がある場合、近くには線維化がないとおかしくないですか? 線維化がないのにこんな変化だけが起こっているということが、そもそも異常なのです。こういうことが起こりうるパターンは限られています」

ふぎゃあ。ぼくはのけぞった。偉い先生は続けて、「私がこれを診断したとして、最初の段階ですぐに病名を言えたかというと、それはたぶん無理だったんですけれどね。そこまではっきりした証拠ではありませんから」と言って笑った。本当にそうなのだろうか、それとも気遣ってくださったのだろうかと、ぼくは数日悩んで、さまざまな文献を読んで勉強し、どうやらその先生が言っていたことは別にぼくへの忖度ではなく、本当にそうらしいと気づいてちょっとだけ安堵したのだけれど、「先生、もう少しわかることがありますよ」と言われた瞬間のドキドキは今もなお残っている。病理診断、難しい、奥が深い。