2023年4月28日金曜日

DIPが腱鞘炎

AIの話してる人全般に飽きちゃった。自分もけっこう話してたのに。でもなんか、その、これでもかこれでもかと「AIを使った未来」の話ばっかりしてる人は、うーん、その……みんな瞳孔開いてる感じがして……怖い。もうちょっと現実見たら? AIを使わないクリエイターは滅びる、みたいなこと言ってなんか意味あんの? 世の中に圧を与える立場でいられることに酔ってるんじゃないの、それ?

まあ他人のことはいいや。ぼくはAI関係の記事から少しずつ距離をおくようになって、まあでも読まないわけにはいかないんだけどそれはきっと首相動静とかダウ平均株価くらいにしか興味をひかないものになりつつある。では代わりに何を考えているかっていうと、もちろん、脳のことをずっと考えている。ウフフ、AIと脳は一緒だね。待て、違うよぜんぜん違う。脳も機械もほとんどいっしょなんていう意見をたまに見るけれど(カズレーザーあたりがすぐ言いそう)、脳にはグリアや液性因子による調節があるし、シナプスはそのままに神経伝達物質の種類を変えるなんていう荒技だってあるから、単純なゼロイチのオンオフシグナルよりももう少しアナログな運用をされているのでコンピュータとは微妙に異なるシステムのはずだと思っている。コンピュータの性能をまっすぐ上げていっても最終的に脳と同じものにはならないだろうっていう予感があるのだ。そこはだんだんずれていくんだと思う。肉体があるかないかが重要だっていう人もいるけどそこが本質なんじゃなくて、肉体という膨大な量のセンサーの閾値を常時アナログにコントロールしているバックグラウンドの負荷のでかさに本質があるのではないか。だったら、コンピュータにも大量のセンサーを取り付けてフィードバック機構を設けつつ、アナログな調整もいれればいいじゃんって? うーんそういう発想はたぶん20年以上前に「ファジー理論」あたりでけっこうやりつくしたんじゃないかなあ。今もやってるのかもしれないけれど、あまりよく知らない。そもそも、コンピュータと脳を同じにする必要がないので、人間の知能を再現したい一部の学者以外にはあまり興味を持たれていないようにも思う(それでも十分いっぱいいるかなあ)。それこそ、人の脳って決して完全なものではないし、コンピュータは狭い領域であればもっとずっと上のほうを目指すことができる、目指す方向性が違うんだから無理に寄せてこなくてもねえ。

ところで、哲学者がたまにAIのことを考えているようなんだけど、いまのところ、AIに対して正面から切り込んだ哲学者はあんまりおもしろいことを言えていない気がする。哲学者はほとんどの業種の人より確実に頭がよくて、たとえば医者あたりと比べるともう確実に優秀で、雲泥の差っていうくらいに論理的思考力が高くて、とうの医者であるぼくなんかはへこむしかないんだけど、でも、AIや医学に関する哲学者のしゃべりはごくわずかな例外を除いて「先行研究に対する勉強が足りなすぎ」と思うことばかりだ。なんか土俵にまるで立てていないように思う。それはまあしょうがないことなんだろうなと、今ならわかる。学問の種別を問わず、「すでにそれに取り組んできた人たちのあゆみ」を無視して新しいことを言うのは本当に大変なことなのだろう。学問の中心部で蠢いているのは試行錯誤の歴史なのだ。センスと才能で組み立てられない理論というものはあるんだなということをずっと考え続けている。


改行もしないで詰め詰めの文章を書いているけれど最近のぼくは実生活でもこんな感じらしい。同じ職場にやってきたよう先輩に指摘された。研修医などに教えるときの情報量が多すぎるのだそうだ。参ったなーもっと教え上手な人に来てもらわないと、当科では「普通の人」が育たなくなってしまう。知ったことではない。異常な人しか育てたくない。このままにします。

2023年4月27日木曜日

病理の話(771) アンクラシファイドファイヤ

「山火事」の映像を見たことがあるだろうか。あるいはティッシュを燃やすとかでもいい(サイズ感がずいぶん違うけれど)。

炎が燃え広がっていくにつれて、灰になった領域がじわじわと面積を広げていく。

ろうそくや焚き火のように、一箇所に燃やすべきものを集めて付けた火と、山火事や焼き畑のような「移動しながら燃えていく火」では何かがちがう。焼き畑では、駅伝のゴールテープのような細い幅をもった面の部分が炎につつまれて、そのテープ状の炎が外側に向かってじわじわと移動していく、その過程には「塗りつぶし感」がある。そのつど燃料を供給され、同じところで煌々と燃え続ける火とはニュアンスが異なると思う。

キャンプファイヤを見ているとみんな「落ち着く」という。でも、焼き畑だとなぜか焦燥感をかきたてられる。これは単に火に対する根源的な恐怖があるからとかではなくて、決まったところが燃えていない、この先どこがどう燃えるかわからない、不安定で未定なイメージによるのではないか。

そして炎が通り過ぎていくと一気に「静寂」となる。メリハリが利いている。ティッシュを燃やした場合は火が通り過ぎたあとには空隙しか残らないが、焼き畑の場合は、焼けた雑草が灰となって折り重なって、色を失って、凪ぐ。安定する。「決着した」、と感じる。




話は一気に変わって、ここからは医療の話である。

人は具合が悪くなると病院に行く。あるいは、調子はさほど悪くなくても、検査などで病院に行ったほうがいいよとすすめられることもある。いろいろな理由で病院を訪れたあと、何をするかというと、自分の中に生じている不具合を医者に「名付け」てもらう。これを診断という。

病気に名前がつくことで、その名前に応じた治療がわかる。A病ならばBという薬が効く、C病ならばDという手術が効果的であるというように、診断と治療とのあいだには対応がある。

だから診断はビシッと決まるべきだ。

しかし、この、「診断」というものは、じつは確定した概念とは限らない。どこかの分厚い教科書に事実として書き込んであるとか、すごい権威を持った医者が「こういうときはA病としなさい」と定義しているわけではないのだ。

医学は長年研究されているから、たとえば、「がん」のような病気の診断にはある程度決まったやり方がある。CTや内視鏡、あるいは病理によってこのような形が見えたら「○○がん」と診断する、という流れはわりと安定している。

しかし、「がん」になる前の病態、いわゆる「前がん病変」と呼ばれるものは、まだまだ研究が行われている最中だ。体の中にどれくらいの異常があれば、それを「がんの芽」と呼んでいいかに関しては、まだ決まった説がないことも多い。

ぼくはこういう、診断の根拠が決まっていないジャンルを目にすると、ふと、焼き畑のイメージを思い浮かべる。この火がどこまでを灰にするのか、燃え切った灰が肥料になることで、次の畑の肥料として使えるようになるのがどこまでなのか、面積が決まっていない感じ。

真ん中は、すっかり燃え終わってだいぶ経つ。そこは「安定」している。がん研究の中心部には「すでにわかっていること」が多く存在するということ。

しかし、へりの部分ではまだまだ炎がぱちぱち言っている。今燃えているところはいずれ灰になるだろう、つまり今「激論」が行われている領域はそのうち安定する。がん研究の最先端の成果もいつかおそらく安定するのだ。研究は必ず前に進むのだから。

しかし、これからどちらに火が及んでいくかは完全に未決である。ほんとうはもっとあっちの方にも畑を(火を)広げて行きたいと思っても、うまく火がつかないこともある。研究の火はどんどん広げなければならない。それは黙って見ているだけでは思い通りにならないことでもある。

「診断」は非常に大事な行為であり、先人達の研究によって多くのことがわかるようになってきているが、フィールド全体を見渡すと、「未決」の領域がまだまだたくさんある。おそらくいつまでもあるだろう。



病理診断でたまに用いられる言葉に、Unclassified lesion(アンクラシファイド・リージョン)というのがある。日本語になおすと、「未分類の領域」。「がん」ほどには診断学が確定しておらず、なんと名前を付けてよいかまだ決まっていない病気、くらいの意味だ。

この先の研究でどちらに転ぶかまだわからない、そんな病変。

そこに「火を付けて」、将来の役に立てることができるのか、それとも火が途中で消えてしまうのかは、ひとえに、心に炎を宿した病理医がその領域に足を踏み込むか否かにかかっている。

2023年4月26日水曜日

肝銘を受ける

出張先で爪切りを買った。キータッチのときに爪が引っかかるのがいやで、普段からこまめに切っている。爪のメンテナンスについては、元をたどると子どもの頃に呼んだ「エルマー」か何かのなかに、「指というのはもっとも相手に近づく場所なのだからきれいにしておかなければいけない」という一文を見つけたことが大きい。それ以来、なるべく爪を伸ばさず、人を傷つけないようにしようと肝に銘じている。


「肝に銘じる」んだなあ。脳とか心に銘じるわけではないのだ。なぜ肝なんだろう。腹部を損傷して死亡したときにまろび出てくるからか? 脳は頭蓋骨に、心臓は肋骨に覆われていてうまく出てこないから……。いや、肝臓だって靱帯に支えられているからそう簡単には出てこないはずである。

「胴体を袈裟斬りにしたときによく見えるから」みたいなざんこくな理由ではなくてもう少ししっくりくる理由があるはずなのだ。なぜ肝なのか。肝心、とか、肝腎、とか、あるいはキモなどと呼ばれるが、昔の人からするとやはり肝臓というのは「心が入っているわけではないのだがなんかめちゃくちゃ重要な場所なのだろう」ということを思わせる臓器だったわけだ。鉄分の含有量が大きくてしっかり詰まっているから、いかにも何か強い仕事をしている臓器に見えたということだろうか。それとも、馬や豚などのキモを焼いて食べると滋養によいということが薬膳的に知られていたからなのだろうか。それにしても「銘じる」とはどういうことか? この言葉はほかには墓碑銘とか刀剣に名前を彫るという意味でしか目にする機会がない。肝臓の表面に何かを刻印する? そんなことがイメージ的にあり得るのだろうか?


逆に考えると体の中でひとつ「何かの銘を刻む」臓器を探すとしたらたしかに肝臓が一番よいのかもしれない。腎臓は後腹膜に包まれていて見るのがむずかしいし、胃や腸はふにゃふにゃしていて何かを書き込める気がしない。脾臓も表面はわりとシワシワだ。肝臓だけがつるっとして、つやっとして、彫刻刀でなにかを彫り入れても大丈夫そうなイメージがあるにはある。


もしくは……肝臓にはときどき肋骨の痕がへこんで残ることがある。コルセット・リバーと言って、コルセットのようなもので長く体を締め付けていた人、あるいはそもそも痩せ型の人は、肝臓が肋骨に長時間押さえつけられることで表面に溝状のくぼみができてしまうのだ(健康に悪影響はない)。あるいはそういうのを目にした人が、「肝臓にはなにか、人生が刻印されているのだなあ」と感じた可能性もある。


と、ここまで書いて、そういえばググってないなと思っていくつか調べてみたけれどパシッとはまるエピソードなどは見られなかった。唯一、「古今集(?)には銘肝という言葉がある」というくだりを見つけた。「此琵琶の秘曲を銘肝し侍る」……でもこれでもう一度ググってもうまく出てこない。真偽は不明である。


琵琶をかき抱いて弾くとき、琵琶はちょうど肝臓の前にやってくる。ガリガリに老いた僧が琵琶をつま弾きながら衰弱して死んだあと、朽ち果てていくむくろを見た人は肝臓のあたりに何かが刻まれていると想像したのだろうか。


2023年4月25日火曜日

病理の話(770) マンガ家がカメラを教わるのにも近いかと

ぼくの勤める「病理診断科」には、さまざまな研修医が勉強しにやってくる。でも、その多くは、病理医を目指していない。内科や外科など、将来の道は別にあるのだが、研修の過程で病理が役に立つということをわかっていて、あるいは将来、病理医とうまく協力しながら自分の仕事をするために、あえて研修の時期に病理にやってくるのである。


イメージとしては……。プロのサッカー選手になりたい人が、ある時期にストレッチやマッサージのプロに弟子入りする、みたいな感じだろうか。将来、自分の手で人をもみほぐしたいわけではないが、サッカーにおいて傷めやすい筋肉や筋のことを学んだり、より効果的なセルフストレッチのやり方を学んだりできる。それはきっとサッカーを続けていく上で役に立つだろう。将来病理医になるつもりがない人が、病理診断を学ぶというのも、これに近い気がする。


さて、将来病理医になりたいと思ってぼくのところにやってくる初期研修医(医者になって1、2年目の人)は、たとえば3か月とか半年といった、ある程度長いスパンで勉強をすることが多い。人によっては2年の初期研修のうち10か月程度を病理に捧げるツワモノもいるが、逆にほかの領域の勉強がしにくくなるので、まあ平均的には6,7か月くらいが多いと思う。

一方で、消化器内科や血液内科、皮膚科、産婦人科など、病理医以外の科に進みたい人は、ここではせいぜい1か月くらいしか勉強しない。ぼくはそれでいいと思っている。サッカー選手が理学療法士に2年も弟子入りするのはちょっと長いなと思うだろう。本職にするわけではないのだから。そして、1か月で効果的な勉強をするにあたって、何が大事かというと……ぶっちゃけ……「ぼく」が大事だ。


「ぼく」が大事だ(2回言いました)。


より正確にいえば、「指導医の下準備」が欠かせない。たとえば皮膚科医になりたい人が病理に来たら、あらかじめ、「こういう皮膚病の標本を先に見ておけば将来役に立つだろう」というのをぼくが把握しておく必要がある。なにせ1か月しかないから、数年に一度しかお目にかからないような病気に出会うことはめったにない。でも医学の勉強というのは出会う頻度の高い順に学べばいいというものではないのだ。「たまにしか遭遇しないけれど、絶対に知っておいたほうがいい病気」というのがある。そこを指導医が導かないと、自学自習で1か月ではどうにもならない。


たとえば今、ぼくのもとには「来年から血液内科医を目指したい研修医」が来ている。研修の初日に、パソコンで過去の症例を検索する方法を教え、プレパラートの出し方、教科書の使い方を教えた。これで基本的には、自分で興味のある病気について検索をし、プレパラートを出して勉強することができる。ただし、どのような順番で血液の病気を勉強すべきかについては、ある程度ぼくが指示している。ここがたぶんすごく大事なんだと思う。

もっとも順番は強制ではない。これまでの研修の間に自分が担当した症例などに興味があれば、その都度わきみちに逸れてもらうことも自由だ。

毎日、ある程度の頻度でぼくと一緒にプレパラートを見て、ああでもないこうでもないと細胞の見方や臨床のありようについて議論をしていくうち、最初の1週間ではただ言われたままに顕微鏡を覗いていた研修医が、次第に自分の興味をひろげて疑問をもち、ぼくにたずねてきたりするようになる。


こういうことを何年かやっていて最近思うのだが、将来病理医になるつもりがない人に病理を教えるのは、ぼくという病理医にとってめちゃくちゃ勉強になる。病理診断科の立場から見ているプレパラートを、臨床の立場で「並べ替えて」見ていくうちに、疾患同士のつながりが新たに見えてきたり、これまで言語化しきっていなかった病理用語が脳にすっと入ってきたりする。よく言われていることだが、教えることは自分のためにもなる。しかも「病理医を育てればそれだけで十分」ではないようだ。病理にはちょっとしか興味がない、普通の医者になりたいと思っている人に病理を教えることで、確実に何かのスイッチが入りどこかがブーストする。ふしぎなもんだよな。

2023年4月24日月曜日

必死でやってる人たちのために

チェックアウトの時間が正午であった。助かる。今日は午後のイベントに顔を出し、夜の飛行機で札幌に帰る予定で、午前中はなにもせずに休むことにした。とりあえず下のコンビニでジャンプを買ってくる。いったん履いたスラックスをあらためて脱いでベッドに横になる。呪術の設定が初見で頭に入ってくる人ってどれくらいいるんだろう。


病理学会で下関、そこから東京に移動して日本医学会総会の博覧会。土日を挟んでの4泊5日、こんなに職場を空けたのは主任部長になって以来はじめてのことだ。ウェブで確認できないアドレスのメールがおそらく溜まっているだろう。明日のことは明日考える。今は黙ってジャンプを読む。昨日買ってきたオーザックが口内炎を刺す。


医学会総会の広報を手伝ってくれたドクターの一人はこう言った。「医者たちが必死でやってるのを見ていると、なんとか助けてやらないとな、って思うんですよ」。見返りのない利他の理由をたずねると、「どうせ我々医者なんてものは、ひとりじゃ何もできない。もっとしんどい働き方をしている他科の医者、メディカルスタッフ、そういう人たちがおぜん立てした場所でかろうじて働かせてもらっているだけなわけです。そんな自分に対して引け目みたいなものが常にある。そして誰かが困っていそうだったらそこを助けにいく」


自分が「あっ、今、感じ入ったな、俺」と思ったとき、心がけていることがある。相手のセリフに応答する自分のセリフをなるべく減らすということ。勝手に要約しない。会話の流れを自分中心にしない。感動したならひたすら受け止める。NHKのインタビューがそういう形式になっていることが多い。相手が何かをしゃべったあと、アナウンサーやインタビュアーはうなずくばかりでコメントをつけ足さない。民放ではこういうやり方はまず見ない。インタビュー企画の場合、最後は必ず見目麗しいアナウンサーや視聴率を持っている芸人が一言よけいなことを言ってそのコーナーが終わるようになっている。ぼくはあれがうっすら下品だと感じるようになっている。


今回の宿は秋葉原にとった。昼飯を食おうと検索すると「昭和食堂」というのが出てきて、まあ近いからここでいいかと向かってみると店の外に行列ができている。並んでまで食おうと思わずきびすを返し、ホテルに戻る道すがら、居酒屋のランチ営業の看板を見つけてそこに入る。すぐに入れる。生姜焼き定食をご飯少なめで。野菜がだいぶたくさん盛られている。マヨネーズ要りませんと言っておけばよかったなと少し思う。あっという間に食う。居酒屋のランチが結局のところ安牌なんだよなという思いを新たにする。ホテルに戻ったらチェックアウトの時間を少し過ぎていた。従業員に詫びながらトランクを引く。これから信頼できる仲間たちが運営するイベント。マルキューブのオープンステージには俳優の宮地真緒さんが登壇する。ウィズニュースの水野編集長とNHKのフジマッツ。医者ふたり。それを見届けてから札幌に帰る。このイベントを単発で終わらせないためにはどうしたらいいかと頭をひねる。必死でやってくれている人たちのために何かできないだろうかということを意識してずっと考えていく。

2023年4月21日金曜日

病理の話(769) 語るように見る

病理医が顕微鏡で細胞をみて何をするかというと、それはもちろん(?)、「病理診断」をする。細胞の様子から病名をつけたり、その病気がどれだけ進行しているかをおしはかったりするのだ。

この説明はぼくも、いろんなところで何百回もやってきた。しかし、こないだふと、「そういえばぼくらは顕微鏡をみるときに診断以外のこともしているなあ」と思いついた。

たとえばぼくらがケガをすると、血が出て、かさぶたができて、傷口の部分に肉が再生して、最終的にかさぶたがはがれて「なおる」のだけれど、ケガが大きいとキズの部分が「ひきつれ」を起こすことがあるだろう。このひきつれた部分を顕微鏡で観察すると、線維とよばれるものが増えていることがわかる。ひきつれるなんて迷惑だ、と思うかもしれないが、人体にとってみれば、大きすぎる「ヒフの穴」は埋めるのが大変なので、周囲の肉を寄せて隙間を埋めることは目的にかなっている。

今の、「線維が増えている」というのは、何か病名をつけたわけではなくて、「そこで何が起こっているか」を説明したものだ。とても広い意味ではこれも病理診断に含んでもいいかもしれないけれど、病名Aとか病名Bといった「分類」とは違って、具体的に人体の細胞がどうはたらいているかを描写しているのである。

で、病理医はこの、「何が起こっているかを描写」する仕事をけっこうやっている。


たとえば我々は、昔ある部位に出血があったことを「痕跡」から見抜くことができる。血が出ると、赤血球の中に含まれているヘモグロビンというタンパク質が出血部に漏れ出すのだが、このヘモグロビンには鉄分が含まれており(だから貧血というと鉄のサプリを飲まされるわけだ)、鉄分は出血のあとで組織のあちこちに溜まる。したがって、顕微鏡で細胞を見ているときに、どこかに鉄成分が見つかったら昔そこには出血があったのだということがわかる。

さらに、鉄成分といっしょに新鮮な赤血球も見えたら何を考えるか?

「昔出血していた証拠がある」+「今まさに出血している(出血なう)」=くり返し出血するような病態が隠れている

ここまで考えると、少しずつ「病理診断」に近づく。なんらかの病気がひそんでいるのではないかということだからだ。




ツイッターの合言葉といえば「いまどうしてる?」であるが、病理医が顕微鏡で細胞をみるとき、そこから得られる情報というのは、「いまなにしてた?」であるし、「昔なにしてた?」でもある。我々が病理診断レポートに「病名」だけを書くのを仕事にしていたら、あるいはAIによって我々の仕事は減ったかもしれない。しかし、状態をしらべて過去に何が起こったかを予測し、主治医とコミュニケーションを取りながら病気のメカニズムを解明していくという過程において、AIができることはあまりにも無力だ。「組織所見から文章を生成できるんですよ」? いやいや……そんな「これまでの病理報告書に書かれていた内容の最大公約数」だけで人体の観察を終わらせていいと思ってるなら、それでいいんだけどさ、それって医学の進歩から背を向けるってことですよ。AIにはちゃんと仕事を与えるけれど、AIだけにまかせられるほど病理診断は狭い仕事ではない。



2023年4月20日木曜日

途上とうたかた

パソコンや車がちょっとずつ古い。ジャケットもパンツも少しずつヨレている。経年劣化の真っ最中。いずれ、いずれも、買い換える。それまでの間の、少し不安な、不安定な時期を、一番長く生きている。

整った身なり、十全な道具、なにもかも満たされた状態で生活することはまずない。仕事するときも、いつだって中古品や劣化品をそれとなくうまく使いこなしながらやりすごす。遊ぶときも寝るときも、めしを食うときもだ。それはあたかも、ぼくらが24時間満腹であることがないのと似ている。ご飯を食べた直後以外に腹が膨れきっていることはない。まだがまんできるか、もうペコペコか、そういう状態のほうが、1日の中では圧倒的に多い。



対外仕事をひとつ終えるたびに、「実績」と書いたエクセルファイルに、日付と場所と、講演や発表や論文のタイトルなどを書いてまとめている。どれもこれも、発表の当日まではずっと緊張していて、必死で取り組んできたものばかりで、世に出した瞬間に一瞬だけ満足して、その後は急速に、感情が空腹へと向かって突き進む。

「めしにしましょう」の中で、小林銅蟲の化身である青梅川おめがは、「原稿ってすごいですよね、完成以外の時間は全部未完成なんですよ」という意味のことを言った。ぼくはこれこそが真実だし人生だなと思ったのだ。満たされていない時間が99%。できあがった瞬間に一瞬だけ満たされて、また次の充足へ向かって「途上」をやっていく。



「鬼滅の刃」がジャンプで連載されている間、「これがいつか終わってしまうのが惜しいなあ」という気持ちがあった。「ちはやふる」も「阿・吽」にも同じ気持ちを感じた。今は「ワンピース」に対してそういう気持ちでいる。人におすすめするときに、連載中のマンガをすすめると、「終わったらまとめて読むよ」という人がいて、その感覚はぼく自身もとてもよくわかるのだけれど、「完結したマンガ」では味わえない類いの感動というのがある。「いつか終わるけどまだ終わっていない状態」のみによって刺激される報酬系がある。それはたとえば野球の試合を再放送で見る人がほとんどいないこととも似ているかもしれない、つまりは「同じ時間を生きる」ということの尊さなのだろう。しかし、一方で、ぼくらはつまるところ、最高の感動や最高の満足の「途中」ばかり消費していると言うこともできる。いつか○○するために、と目標を立ててえっちらおっちら道すがら、その途上で人生の99%を過ごしていることに、もう少し自覚的であったほうがいいのかもなと、今となっては……なんだかある程度のところにたどり着いてしまったのかもしれないと感じる日が増えた今日のぼくは思う。『これ描いて死ね』が連載している間にみんなも読んでおいたほうがいいと思うよ。

2023年4月19日水曜日

病理の話(768) ネガで見るみたいな話

皮膚とか粘膜の表面には細胞がみっちりと並んでいる。これらの細胞はどれもこれも生きているから、酸素や栄養を必要とする。

ではそのような酸素や栄養はどこからやってくるかというと、当然のことながら血液が運んでくるのである。このため人体には心臓という強力なポンプがあり、体のすみずみにまで血管を張り巡らせて酸素や栄養を行き渡らせるのだ。

我々が住む家やマンションに、ライフラインとしての水道や電気が張り巡らされているのと似ている。

ただ、電線と血管が違うところがひとつある。電線は家の中にまで突き刺さって入り込んでいくが、血管は細胞の中を貫通することはない。

イメージとしては、毛細血管が道路。道路にはタクシー(赤血球)やウーバーイーツの自転車(一部のタンパク質)が走っており、タクシーや自転車からときおり人(酸素や栄養)が降りて、道沿いの家やマンションや店(各種の細胞)に入っていくかんじだ。



そのままイメージをふくらませてみよう。

ぼくらは、「道」の地図をみるだけで、なんとなく家の建ち方を想像することができる。あとえば、京都や札幌のような碁盤の目の街並みでは、道と道の間にどのようなサイズで建物が建っているかわかる。



規則正しい道の中に、突然がばっと道のないスペースがあらわれたら、そこには学校や病院、ショッピングモール、ときには植物園などの「でかい敷地を必要とするなにか」があるはずだ。


で、これと同じことを、医者は病気のカタチを見極めるときにやっている。




俗に「胃カメラ」と呼ばれる検査がある。口から細い筒状のスコープを飲み込んで(途中、喉を通るときには医者や看護師から「ごっくん、ってしてください」と指示をされるので、例え話ではなく本当に飲み込む)、胃の検査を行う。このとき、胃だけではなくノドや食道の検査にも用いる。なにせ通り道だからね。


食道の表面は重層扁平上皮とよばれる細胞によって覆われている。重層、すなわち地層のように折り重なった細胞であり、食べ物などが一日に何度も食道を通過しても、食道の壁に穴があかない。かなり防御力の強い細胞だ。

で、この、防御力の強さゆえ……胃カメラで表面を見ても、なんだかのっぺりと硬そうで、異常があるのかないのか判断するのがけっこう難しい。

そこで医者が用いるのが、「建物ではなく道路を見る」という手段である。建物、すなわち細胞を見るのではなく、建物と建物のすきまを走行している血管をあえて見るのだ。

血管の中には血球が通過しており、特に「赤血球」はその名のとおり赤い。そこで、胃カメラのレンズのところに特殊なフィルターを用意して、「赤い血球が詰まっている構造物を強調する」という処理をかける。すると、血管走行だけが浮き彫りになってよく見えるようになる。

血管はあくまで酸素や栄養を運ぶためのインフラだ。しかし、重層扁平上皮細胞になんらかの異常が生じて、形が変わっている場合には、側を走る血管の走行も乱れる。これによって間接的に細胞の挙動をおしはかろうというテクいやりかたなのである。



そんなまどろっこしいことをしなくても、細胞を直で見る方法はないの? と思われるかもしれない。あるにはあるのだ。しかし、これはまあなんというか、技術のあやというか、たまたまというか、つまりは偶然なのだと思うのだけれど、今ある技術の中ではなぜか血管を見ることで間接的に細胞の挙動をしらべるのがかなりキレ味鋭い。なんで? と言われても……うーん……グーグルマップでも道を強調した画像のほうが見やすいからみんなそっちを使うでしょ? 縁辺がシャープなほうがいいんじゃないかなあ。



ちなみに顕微鏡を用いた病理診断では、血管を見て細胞を予測することはしない。だって細胞が直接見えるからね。





2023年4月18日火曜日

脳だけが旅をする

モンハン(モンスターハンター)をちまちまやっている。今さら? という感じだが、いいのだ。

きっかけは、十二国記を読み終わって積み本が一通り片付いたことと、出張が増えることで読みたい医学書を読む時間(≒飛行機に乗っている時間)が確保できる分、ほかの時間を本以外にあてることが可能になったことによる。

後者はちょっとわかりづらいかもしれない。感染症禍からこっち、ほぼ移動なしでZoom会議を織り交ぜながらデスクに激詰めし、珍しく家にいるときはほとんど本を読んでいたので家族にも心配された。これはもう、年を取ったからそういうモードに収まったのであって、この先もずっとそうかなと思っていたのだけれど、近頃オンサイト(現地)での出張が戻ってきて、「移動中に本を読む」という昔のルーティンも復活したことで、昔はそういえばゲームもしてたっけな、みたいにかつての生活のサイクルを思い出したのである。

しばらくぶりでSwitchのコントローラを握ると指がなれない。RとLとZRとZLが特にやばい。このままでは、楽しみにしていたブレスオブザワイルドの続編もうまくやれないだろう。なおたしかゼルダはカメラ移動の設定がモンハンと違った気もするので、今さらモンハンをゴリゴリやったところでゼルダが安心してできるようにはならない気もするが、それはまあ設定をいじってなんとかする。リハビリ中である。


書いていて思いだしたが「久々にゲームやりてぇな」と感じたきっかけはほかにもある。というか今から書くきっかけが一番でかいかもしれない。何かというと、永田泰大さんの名著『ファイナルファンタジーXIプレイ日記 ヴァナ・ディール滞在記』がKindle版で再版されたことである。なんと20年越しの復刊。巻末には追加テキストもついているので一度読んだ人にもおすすめだし、というか、これは何度も何度も読んでいいタイプの本である。絶妙に良い。たしか27万字くらいあるとの噂で実際にすごく長いがまったく気にならない。この本を読むことによって、「ゲームを定期的にやる暮らし」の楽しさが再インストールされたのだと思う。


ぼくは近頃、普通の人生というものは少しずつつまらなくなっていくものだと感じており、それをあきらめることにも慣れていた。友情、恋愛、学業、進路、訓練、労務、旅行、食事、趣味、どれもこれも、昔考えていたところにたどり着いたものはひとつもない上に(レベルがどうとか以前に方角がまるで違う)、20代ほどの派手なイベントもないしレベルアップの効果音も鳴らない。今のぼくは30代後半までに登坂したなだらかかつ雑草の激しい山を頂上からすべりの悪いそりにのってゆっくり滑走しているようなイメージなのである。つまらないというかそういうものなのだろうなとほとんど納得してしまっている。だからこそ……ゲームをやることで、あの切なく厳しかった青春の日々のいい部分だけを「古書取り寄せ」的に再び自分のものとしたい……なんていうわかりやすいモチベーションもじつのところはぜんぜんない。そんなにゲームに期待してない、今さらゲームをやったところで昔ほど無垢に楽しめるなんてまったく信じてもいない。


ただ、不思議なもので、これはたとえば「お散歩」とか「ドライブ」に似ているなあと感じるのだけれど、ゲームの際に指をちまちま動かしていくことは、足を動かすとかハンドルを握るといった動作といっしょでとっくに脳内で半自動化されているから(多少リハビリが要るにはせよ)、それ自体がおもしろいわけではない。しかしゲームをすると、指からというわけではなく「ゲームをしている時間そのものから」それなりの刺激が脳にインプットされる。レベルアップのファンファーレとかモンスターを倒した快感から刺激を得るというのともちょっと違う。何かを食べたとかどこかで写真を撮ったという個別のホルモン活性化だけが散歩やドライブの醍醐味ではないのと一緒だと思う。脳と指が、徒歩や運転と同じようにキョロキョロ・キョトキョトしつづけることで、ひとつの場所に止まっていては感じられない刺激を微妙に得ていく、「ある程度長い時間の浪費」に総体として何かが起こっているなあと感じるのである。つまらなさなんて別に解消されないまま、意識がときおりポンポンと小さくジャンプして飛び移っていく時間、これがつまり脳だけが旅をするということだよなと思った。このブログでは何度も書いてきたことではある。

2023年4月17日月曜日

病理の話(767) ずーーーーっと考えてる

ぼくが一番よく浸っているのが医療業界なので、医者についての話をする。ただしこれは医者に限った話ではないとは思う。


医者は日常を過ごす。毎日異なる患者を診て、外来に出たり病棟を回ったり、処方を考えたり診察をしたり、論文を書いたり研究会に出たりと、さまざまな医業をこなす。

すると、1日の中でも思考はつぎつぎと移り変わって、朝にはリウマチ・膠原病内科的事案を考えていたが昼には血液内科的なことを考えており夜には消化器外科的なことを考えて翌朝には血液検査についてのことを考えている、なんてことになる。何科であってもよくある。

そして、1か月も経つと、月の頭に考えていたことからは遠く離れていく。あれだけ悩んで時間を費やしていた案件なのにいったんの決着を見るとあっという間に忘れる。

そういう人がこの世界にはけっこう多いと思う。


でも、「ひとつの案件について何ヶ月も考え続けているタイプの医者」もいる。


ふだん一緒に働いている医者、あるいはツイッターやメッセンジャーでたまに会話をする医者の中にもいる。リプライのスレッドが、何週間かおきにぽつり、ぽつりと伸びていく感じ。診断理論についての会話が細々と続いていくツリー。誰かと短期間にガッと集中して話し合って、暫定的な結論をもとめて、それでいったんよしとして次の話題に飛び立っていくのではなく、何日経っても、何週間空いても、ふとしたときに思い返して「そういえばあの話題、こうも考えられるなあ」と、また同じ部屋に戻ってくるようなやりとりである。


なお、何ヶ月も何年もひとつの話題に戻ってくるようなタイプの思考が、必ずしもその人にとって「一番大事な話」ではなかったりもするのでおもしろい。これは人による。一番大事な話を年単位で続けている人ももちろんいる。

重要だから時間をかけているとは限らない。人生をかけてどうこうしたい話題じゃないこともある。「時間をかけて考えなければ!」と決意・奮起しているのではなく、気づいたらこの話題にときどき戻ってきちゃうなあという、ときどき顔を出す喫茶店くらいの雰囲気だったりする。



ぼくにもたぶんそういう部分がある。そういう部分とそうじゃない部分がある、と言ったほうがいいだろう。



朝から手術検体の病理診断をする。胃がんで切除された胃まるごと、肝臓がんで取ってきた肝臓の一部、肺がんで取ってきた肺の一葉などを診断していくにあたり、ひとつの臓器、ひとりの患者を通り過ぎるたびに、参照する取扱い規約(本)は変わるし、細胞に対する目の付け所も変わる。80代の女性の右側結腸病変と、40代の男性の直腸下部の病変とでは考えなければいけない病名が異なる。リンパ節と骨髄で用いる免疫染色の種類がだいぶ違う。頭をどんどん切り替える。臨床医から電話がかかってきて、

臨床医「先生今いいですか? 一昨日の患者さんのことなんですけど……」

ぼく「はい、いいですよ。ちなみに一昨日の患者さんいっぱいいるのでIDを教えてください」

みたいなやりとりをする。

全く違う病気、ぜんぜん違う主治医、千差万別の患者を相手にして朝から夕方まで働く。

そろそろ周りが暗くなってきたな、タイミングで、ふと、ある特定の病気の診断方法を考えはじめる。脳にはどうやらそういう領域がある。コロコロ案件をとっかえひっかえしながら対処していく、忙しい定食屋のカウンターみたいな場所がある一方で、「この部屋は自由に使っていいんで、しばらくの間は荷物置いて自由に使ってくださいねー、片付けとかも別にそんなにしなくていいんで。最後退室するときにきれいにしといてください」みたいな、レンタルルームみたいな場所があるのだ。

そこにときどき立ち寄って、半年くらい考え続けていることの続きを考えるのである。

40を越えて以降、「長時間ひとつのことを考えていてもいい部屋」が、脳の中に2つか3つかある。そのうち1,2個には、「書きかけの論文」を置いてある。マンスリーマンション的に案件を住まわせている。なにがしかの仕事が終わるたびにその部屋に顔を出し、保留していた考えを再開する。



非常に優秀な先輩、臨床をバリバリやりながら質のいい論文をジャンジャン量産しているタイプの人は、常時複数の案件を入れ替わり立ち替わりこなしながらも、脳の中に「しばらく考え続けることのできる部屋」を20個くらい持っているように思う。お気に入りの喫茶店とかバーが何軒もある、みたいな感じというか……。ぼくは長期間考え続けることができる部屋はせいぜい3個なので、うらやましい気持ちがある。



このような話をすると、「わかるわー、俺も家族のこととか子どもの進路のこととかはそういう部屋に入れてある」みたいなことを言う人がいるのだけれど、今のぼくの話は家庭や趣味のような仕事以外の話まで考えて書いてはいない。そうではなくて、「仕事」というひとつのジャンルの中でも、思考のしかたというか費やす時間にいくつかのバリエーションがあるのだよということを言いたくて書いている。「俺はそのマンスリーマンションにぜんぶ違う人間を住まわせてるから仕事に割くスペースはないわ」とかそういう話を聞きたいわけではない。

2023年4月14日金曜日

ヒトはAIの仲人である

「揚げ足を取る」という言葉があるが、この場合の「あげ」は「揚げ」なのだな。「上げる」ではないんだ。

もちろん「揚」と「上」では、語源というか字義にいろいろ違いがあるのだろう。ほかに「挙げる」というのもあるな。日本語は複雑である。

ちょっとググった限りだと、「上げる」と「揚げる」の違いはなんだかわかるようでわからない。「揚げる」は高く掲げることです、と書いてあるページもあったが、「揚げ足を取る」の場合の揚げるは別に高く掲げているわけではない気がする。相撲とか柔道をイメージすると、相手が技を掛けたり移動したりするために足をフッと浮かせたところをすかさず取りにいって、相手をすっ転ばせることが「揚げ足を取る」のニュアンスだ。そこから転じて、相手が何かをするたびに「転ばせてやろう」という悪意を込めてその足を(若干卑劣な感じで)取りにいくのが「揚げ足を取る」であろう。別に、テコンドーのねりちゃぎ(カカト落とし)のように振り上げた足を取りに行くわけではない。だったら、「揚げるは高く掲げること」とするのは、ちょっと説明が狭いと思う。

ところで天ぷらはなぜ「揚げる」んだろうなあ。



こういうことをずっと考えている人たちが丁寧に作っているのが漢和辞典だ。漢字の細かい違いを調べようと思ったら漢和辞典にあたるのがいい。で、今、手元に漢和辞典はない。職場に置いておくべきかもしれない。一冊買ったら当分困らないだろう、これから20年くらい、職場でツイッターをすることを考えれば、漢和辞典の1冊くらい、買っておいても損はないはず。

ネットでは無理だ。うそばっかり書いてある。

だからそれを集めて知ったかぶるAIでもだめだ。ネットにある知識が元になっている限りは。

「ちょろっと考える」と、「念入りに考える」は脳のまったく別の部分を使っている。そのときまでに蓄積した経験を忘却によって錬磨して「道具」にしたものと、たまたまそのとき自分の周り(空間的・時間的な意味で)にあるいくつかの刺激に対して脳が常時微弱に反応している状態とがあわさって、「そのとき、その場所でしか成り立たない、再現性に乏しい脳の定常状態」というのが成り立つ。そこに新たに何かが入力されると、そのとき特有の反応を瞬間的に返す。この一連の入出力が「ちょろっと考える」で、ブラックボックス性が高く、ある意味AI的でもある。これに対して、入力内容を構造的に分析したり、カスケード的に因果をおいかけたり、比較・対比・照合したりといった理詰めの検討を行うほうが「念入りに考える」で、昔の人類は後者のめんどうなほうをAIにやらせようとしていたきらいがある。直感こそはヒトの脳に固有のスキルだと偉ぶっていた懐かしい時代の話。


そして漢字の使い分けというのはおそらくほとんどの場面で直感的に、AI的に行うものであり、だからこそ圧倒的な経験をベースにほとんど理論の裏付けをしないまま運用できる文章生成AIが我々の生活に入り込んでくるのだけれど、「ではなぜ揚げると上げるを我々はなんとなく使い分けるのか、その根本の部分にはどんな理論やデータがひそんでいるのか」といった「ちょっと念入りに知りたい話」については、AIにしてもヒトの脳にしても「漢和辞典的なもの」を介さないと深部のうまみのあるところまでたどり着かない。となれば誰もがすぐに考え付くこと、「漢和辞典をAIで作るにはどうしたらいいのか?」


そのへんはヒトが考えることではないのかもしれない。考え方の異なる複数のAIに対話させながら、あとはAI者どうしでよろしくやってくれ。

2023年4月13日木曜日

病理の話(766) カリフォルニアの娘とChatGPTの息子

今日は……普段あまり書かないようにしている「揶揄」をモチーフとした記事なので、苦手な人は薄目で読んでください。



ひとつ例をあげる。

ある人が重い病気にかかって、家族や周囲の人たち、そして病院のスタッフといろいろ相談しながら、どう治療を進めていこうかと頭を悩ませている。どの選択をしても、病気がカラッとよくなることは残念ながらないようだ。悲しいことだが、最終的には、今かかっている病気で亡くなることになるのではないか、ということを、誰もがうっすらと理解している。

医療者は、似たような境遇にたどりついた患者と出会ったことが何度もある。その経験を元に、もっと巨大なデータ・エビデンスも加味して、患者たちと時間をかけて話し合う。この先、どういう未来があり得るのか。この先、患者とその周りの人びとにとって何が大切なのか。この先、患者と周りの人びとがどう生きたいのかを丹念に相談する。

そして患者は、「これ以上積極的な治療はしない。治療をしても副作用とメリットとをてんびんにかけたときにあまりいいことがないし、残された時間を自分らしく使うことに使いたい」と考える。つらいことだが、これからの時間を自分らしく生き抜くことに使っていこうと決意するのだ。

結果、これまで病気のことを黙っていた仕事相手や、あるいは「遠くに住む子ども」などに、「私はもう治らない。もう治療はしない。しかし、すぐ死ぬわけではない。これからも自分らしく生きていく」と連絡をする。

「遠くに住む子ども」はとても驚く。

成人してだいぶ立つ子どもが実家を出てからだいぶ経つ。遠方で、自分の家族と共に平和に暮らしている。クリスマスや正月あたりでは親とも連絡をとるが、普段はほとんど没交渉だ。だからここ数年、親が病気に人知れず苦しんでいたことも気づいていない。

当然、血相を変えて親の元に飛んでくる。

そして、医療者に強い口調で詰め寄るのである。

「親がこの病気で死ぬなんてありえない! 治療をやめるなんてもってのほかだ! できる限りの治療を尽くしてなんとしてでも生き延びさせろ! 治療をしないなんて親を見捨てるつもりか! 訴えるぞ!」



医療者はびっくりする。

患者もびっくりする。

けっこうな時間をかけて、医療者たちと相談をして、自分の病気がもう治らないことを理解し、覚悟し、今後の暮らし方について納得したつもりだったのだ。しかし、自分の子どもがそうやって医療者に詰め寄っていることを見ているうちに、「そうか、普通はもっと闘病するべきなのか」という気持ちや、「子どもにとってはまだ自分が生きていないと困るのだろうな」という気持ちが湧き上がってくる。「治らないとわかっていても、もう少し子どもの目の前で闘病しないと、子どもがかわいそうだ」という気持ちも出てくるかもしれない。

そして医療者は頭を抱える。

「これまで患者の人生を知ろうともせず、支えもせず、遠くで勝手にやっていたくせに、最後になって急にしゃしゃり出てきて、患者がすでに納得している治療方針に横やりをいれて話を振り出しにもどすなんて……」

「親の気持ちをぜんぜん理解せずにただ医療者に向かって怒鳴り続けるこの子どもは、なんなんだ?」




このような現象、じつは非常に多いと言われている。アメリカでは、なんと「カリフォルニアの娘症候群」というふしぎな名前で呼ばれているらしい。以下、ウィキペディア。


カリフォルニアから来た娘症候群(The Daughter from California syndrome)とは、これまで疎遠だった親族が、近辺の親族と医療関係者の間で時間をかけて培われた合意に反して、死にゆく高齢患者のケアに異議を唱えたり、医療チームに患者の延命のための積極的な手段を追求するよう主張したりする状況を表す言葉である。

「娘」となっているが、性別や血縁の関係性は問わない。 「カリフォルニアから来た娘」は、しばしば怒りっぽく、自己評価が高く、明晰と自認し、情報通を自称する。対象の高齢患者とその介護者、医療関係者との同意を否定し、安らかな終末を阻害するとされる。”


”医療関係者によると、「カリフォルニアから来た娘」は高齢患者の生活やケアから遠ざかっていたため、患者の悪化の程度にしばしば驚かされ、医学的に可能なことについて非現実的な期待を持ってしまうことにある。 また不在であったことに罪悪感を感じ、再び介護者としての役割を果たそうとする心理もある”





さて。


話は急に飛ぶのだが、近年はやりの「AIで医師の仕事が奪われる論」を見ているとき、ぼくはなぜかこの「カリフォルニアの娘」の話を思い出す。そして、以下のような架空のウィキペディア記事を執筆してしまうのである。理由? まあそこまでは書かないけれどなんとなく察していただきたいなって感じである。すみません、これが冒頭に書いた「揶揄」というやつです。





AIのあたりから来た息子症候群(The Son from from around the ChatGPT)とは、これまで医療と疎遠だった非医療者が、医療関係者たちの間で時間をかけて培われた診療概念に反して、これまでの医療に異議を唱えたり、過剰に積極的なAI導入を追求するよう主張したりする状況を表す言葉である。

「息子」となっているが、性別や血縁の関係性は問わない。 「AIのあたりから来た息子」は、しばしば怒りっぽく、自己評価が高く、明晰と自認し、情報通を自称する。対象の医療者や研究者のこれまでの仕事を卑下し、業務の理解を阻害するとされる。”


”医療関係者によると、「AIのあたりから来た息子」は医療の実際やケアの現場から遠ざかっているため、AI的に可能なことについて非現実的な期待を持ってしまう。 また自分が医療と没交渉であることに罪悪感を感じ、助力者もしくはコメンテーターとしての役割を果たそうとする心理もある”


2023年4月12日水曜日

布教のテクニック

「ケアを描いた映画」の試写会に誘われた。内容に興味はあったが、会場は東京だしほかの仕事も多くてどうしても時間がとれない。ご縁がなかったということで……と断りの連絡を入れたら、スタッフの方がかわりにオンラインで試写できるURLを送ってくださった。へえ、そんなことできるのか、それはすごいなあと思いつつ、結局上映の1時間半が捻出できなくて、メールボックスにいつまでもURLを置いておいたまま、とうとう先日一般公開がはじまってしまった。せっかく送ってもらったのに申し訳なかった。

こうなることはわかっていた。しかし、せいぜい1時間半ちょっとの映画ならなんとかなるかも、などとちょっと色気を出してしまったのがよくなかった。あらかじめ無理だと断っておけば、映画の広報側もそのぶんまた別の人を探すことができたであろう。反省しているし落ち込んでいる。


ぼくは、人に何かをすすめられること自体がそもそも苦手なのだなと思うことはある。ただし自分のタイミングで「目に留まる」のは大丈夫だ、だからTwitterでは推しへの愛を叫ぶ人たちを好んでリストにぶち込んでおり、何か新しいものを摂取したいなと思ったらリストをザッピングして、「おっこれはおもしろそうだな」と見つけて即買いして大正解、みたいなことがよく起こる。けれども、いわゆる「向こうに起点がある」タイプのおすすめだと、どうもスッと受け入れられない。

いいから読んでよ、と送られてきた本、すなわち献本は、相手が友人であるケースを除いて送り返す。たとえ、届いた本がいかにもおもしろそうだったとしても、自分の心の動きより早く誰かに「おすすめの圧」を送られた時点で、そのプロダクトは楽しく鑑賞できなくなってしまう。以前、これを書店で見つけていたら喜んで買っただろうな、という本が短い手紙と共に何の事前連絡もなく送られてきて、自腹で版元に送り返したときは、まったく損な性格だなと思ったし、それこそ版元にとっても著者にとっても「1冊売れるチャンス」を逸したわけで、なんだか全方位に何もいいことが起こっていないなあと肩を落とした。


そういえば、ぼくが子どものころ、父母はたまに新しい本を買ったり本棚に置いたりしていたが、それをぼくに「読んでごらん」と手渡すことはなく、居間のテーブルの上にトンと置いて、あとはぼくら兄弟が興味を示そうが示さなかろうがしばらくそのままにしていた。振り返ってみれば、うちの中にはあちこちに本があったけれどぼくはその大半を全く読まないまま大人になった。父親も「たまにはこういう本も読んでみたら」というわずかな圧すらぼくにかけることはなかった。戦争と平和はいまだに読んだことがない。阿Q正伝、蟹工船あたりも未読。しかし本棚にあったような記憶だけはずっとある。ぼくは、知らないうちに積ん読に包まれて大人になっていた。

父親が置いた本の中でぼくがその日たまたまピンと来て手に取った本の量は、全体から比すればごくごくわずかである。しかしその印象は強烈で、ただし必ずしも文芸でもなくて、たとえば相対性理論に関するマンガであったり、NHK・地球大紀行のマンガだったりしたのだけれども、これらはその後長くぼくの精神を救う大事な柱になった。ぼくは本を自分で選ぶ喜びを残してくれた親に感謝している。父や母がどこまで意図していたかはわからないけれど、「自分が起点となってある本を好きになるということ」と、「誰かの圧によってある本を好きにさせられること」の、(ぼくにとっての)大きな違いを、親はなんとなく心の中で理解していたのではないかと思う。

なお、ぶっちゃけ、自分の息子の側には、ぼくはそこまで上手に本を置けていない。まあ本なんて読まなくても大人になれるのであまり本のことばかり気にしてもしょうがないのだけれど、ぼくがもう少し父親のような距離感で本を置けていたら、あるいはぼくが感じた喜びの一部を息子にも経験してもらえたのもな……とエゴイスティックに自戒することもある。そして息子は息子で、ぼくのおすすめとは違う角度でたまに本を読んでいつのまにか動かされているようなのだ。




ところで今のぼくは、家族や友人などにいきなり本をすすめられることもあるが、そういうときはわりと素直に読んでみるようになった。あきらかに加齢によって精神の調整力が上がっている。

家族や友人は、ぼくとどれだけ仲が良くても、必ずぼくと違う形状のアンテナを張り巡らせている。世の中から受け取る刺激の種類、脳内への伝達方法、脳内での処理の仕方などは100%ぼくと違う。だから、家族や友人がすすめる本の大半はぼくとは完全にはマッチしない。しかし、それまでに築いた関係性がある人からすすめられた本の場合は、「なるほどぼくとこのように違う人は、こういう本にこんな喜びを見いだせるのか」というところまで踏み込んだ読書をできる。だから、ある程度見知った人から「これ読んでみてよ」という圧が来ても、今のぼくは耐えられるし、それを前向きに楽しむこともできる。

しかしまったく知らない人からいきなりおすすめされてピンと来ないままとりあえず読む本が良かった記憶はほとんどない。献本には手書きで謝罪の手紙を付けて送り返す。毎回、出会い方が悪かったなと思う。何度か、献本を送り返したあとに、「でも本自体はおもしろそうだから自分で買って読んでみよう」と思って購入したことがあるのだが、それらの本はなんとぜんぶつまらなかった。やっぱりなあ、と思った。このあたりの話は、推し語り・富強活動をするオタクにとってはおそらく周知の事実なのではないかと思われる。

2023年4月11日火曜日

病理の話(765) サンダーよりもサンダース

病理医という職業はけっこう珍しいほうだと思うが、その珍しいものの中にもさらに、仕事のスタイルの違いがある。イーブイがシャワーズに進化するかサンダースに進化するかブースターに進化するかで違う、みたいな話を今日はする。

「病理診断」という仕事を主にやっている病理医がいる一方で、「研究」をメインに働いている病理医がいる。「診断」と「研究」を両方やる、二刀流みたいなタイプもいる。

まずは診断と研究のふたつに分けてみたけれど、診断とか研究の中にも、さらにバリエーションがある。


そのため、病理医を100人集めたらみんなすごく気が合って話が合うかというと、そんなことはぜんぜんない。お互いにやっていることも興味の向く先もけっこう違うからだ。

もっとも、病理医ばかりをいっぱい集めて観察すると、なんとなく、ひねくれ方というか、ニッチなものへの好奇心の強さみたいなものがそこそこ共通しているような気もする。「たしかに元は同じイーブイだったんだなあ」みたいな。




さて、今日は「病理医の研究」についてもう少し詳しく見てみよう。
いろんな研究がある。


・顕微鏡で細胞がどう見えたら、患者がどうなるのかを「分類」する

・顕微鏡で細胞を分類するにあたって、どのような見え方に着目すればいいかを「指摘」、もしくは「発見」する

・分類とか発見の結果をもとに、何百例、何千例と症例を集めて、「統計処理」をすることで、分類や発見が「どれだけ利用価値があるか」を定める

・病気の患者に薬を投与して、効くか効かないかを調べる……のは、あんまり病理医はやらないかな? でもやっている人もいる。

・患者からとってきた細胞を特殊な方法で処理して、病気の原因となっている遺伝子やタンパクなどを調べる

・患者とは関係ない実験用の細胞を用いて、遺伝子やタンパクなどを調べる(もはや病気とも関係ない)


こうして書いてみると見事にバラバラだ。ただ、実際の研究者たちの顔を思い浮かべてみると、病理医という医師がかかわっているだけあって、「病気」を相手にしている割合が多い。

まれに病気と関係ない研究をしている病理医もいるが、やっぱり多くの人は病気を研究している。

生命科学の研究自体は、理学部とか農学部のような、医者ではないジャンルの方々も取り組んでいる。そして必ずしも病気を対象にしているわけではない。しかし、医師はやはり、病気をなんとかしようというモチベーションが高いように思う。




ところで……ほかのさまざまな生命科学研究者に混じって、病理医という特殊な職業人が、あえて研究をするメリットがあるのでしょうか? みたいな質問を受けることがある。

研究をするなら純粋な研究者になればよい、ということだ。わざわざ医師免許をとり、病理専門医のようなマニアックな資格をとってから、診断や治療をせずに研究をするなんて、「遠回り」なのではないか、ということだ。 



でも、「病理医になってから研究をする」メリットは、けっこうあると思っている。

病理医は、ほかの医者と比べてもかなり多くの病気に触れる立場だ。患者から採取されてきた細胞や臓器(患者の一部)を相手に仕事をする分、ふつうの医者よりも経験する症例数が数倍~10数倍くらい多い。

その経験の量が、病気にかかわる研究をするにあたっては、やはり武器になると思う。「病気をなおす」とか、「病気を予防する」という目的にまっすぐ進もうと思ったら、やはり医療の現場をよく知っているほうが有利な部分もあると思うのだ。

加えてマニアックなことを言うと、細胞の形の変化を日常的に目にしている病理医だけが気づける、「勘所」がある気がする。ぼくの個人の意見ではなく、かなり多くの病理医がそう思っている(専門の医学雑誌などでもそういう意見を目にする)。形態学的なアプローチからオミックス解析を試みる、みたいな(専門用語ですみません)。




雷属性のポケモンがほしいというだけならサンダースでなくてもいい。しかし、元がイーブイであったことに意味があるんじゃないか、みたいなことを、今日のぼくは書いている。サンダーでもいいんだけど、やっぱりサンダースがいいと感じる場面があるということだ。「なぜ?」と言われると、これはもう、ちょっぴり理屈を越えていて、思い入れみたいな部分も大きいのだけれど、たぶん、こうかはばつぐんなのである。

2023年4月10日月曜日

無精の継続

カフェインをなるべく避けるくらしを続けている。たまにソイラテくらいのものを飲むことはあるが、コーヒーとなると月に1度飲むか飲まないか、くらいまで頻度が落ちた。ペットボトルのお茶は玄米茶とかジャスミン/さんぴん茶くらいしか買わない。

元を辿れば15年ほど前、頻脈を気にして、摂りすぎていたカフェインを減らそうと試みたのがきっかけではあった。しかし今となってはもう、なんというか、単に習慣になってしまっただけで、確たる理由があってカフェイン断ちを継続しているわけではぜんぜんない。

ふと気づく。コーヒーをときおり楽しむ人のほうが人生が楽しそうであると。だからコーヒーくらい再開してもいいのになと思う。でもしない。

外食についても旅行についても、なにについても言えることだ。なんとなくあらゆることから遠ざかっていることに明確な理由なんてない。思い切ってまた昔のように近寄っていけばいいのだ。しかし、いったん静止した慣性を破るのがめんどう。その程度の理由で外食も旅行も断ってしまっている・

そんなぼくは、たまに「そんなに本が読めたら楽しいだろうな」と言われる。これも根っこの部分はいっしょなのかもなと思う。本くらい誰だって読もうと思えば読める。本を読まないひとたちが「どうも字が読めなくて~」とか言うのは、ぼくが旅行くらいすればいいじゃんと言われたときに「つい出不精で~」と言っているのと構造的にはたいしてかわらないのではなかろうか。変えるのがおっくうなのだ。動かすのがめんどうなのだ。長年動かさないでいた家電やソファをいざエイヤッと動かしたときにホコリまみれの床が出てくることがひたすらめんどくさいのだ。


めんどうくさがらずに何にでも取り組む人が偉いわけじゃないし有能なわけでもない。それは単に「チャレンジし続けるという等速直線運動の慣性に従っているだけ」に見える。その人にとっては逆に、次々と新しいことにチャレンジするのではなくじっと腰を据えてひとつのことを極めるのがめんどうでしょうがないはずなのだ。だからいいのだ。しかしうらやましい。なぜなら今のぼくは「新しいことにチャレンジする」なんていう加速度を自分の人生にかけることが究極的におっくうで仕方がないからだ。


人生なにごとも挑戦だ、という人の、本人の近況をたずねると、新しいことを一切やっておらず継続・持続の毎日だったりする。挑戦してないじゃんと言うと、「私にとっては一つのことをコツコツ続けること自体が、子どもの頃どうしてもできなかったことであり、挑戦なのだ……」みたいなことを恍惚として答えたので笑ってしまった。それは正論だよ。まったくよくわかっているなあと思う。

2023年4月7日金曜日

病理の話(764) 黒いレポートを白めに調節する

※本日のブログは最後にかなり実践的な話になりますが、前半だけなんとなく読んでいただければ……伝えたいことはほぼぜんぶ前半に書いてます。


WITCH WATCHというマンガがあってかなり好きである(作・篠原健太)。この中に出てくる真桑先生というのが、推し絵師(注:自分の教え子)に向かって長文の感想DMを送り付けるタイプの堂々たる隠れオタクなのだが、DMを読んだクック(教え子)がひとこと、

「黒っ」

と言うシーンがある。

画面が文字で(特に画数の多い漢字で)埋め尽くされた様子を「黒い」と呼ぶのは、わりと頻用される表現だと思うし、ツイ市民にはわりとよく認知されている。ただしこれがまったくピンと来ない人というのもけっこういる。特に……医者。なんでそんなに画面まっくろにしちゃうの? えっこれ市民向けポスターだよね? 情報つめこめばいいと思ってるの? 何度目を疑ったことか。

いや、ま、情報のつめこみは必ずしも悪ではないというか、ニーズにもよるし、喜ばれることもあるけど、これ、一目見て黒いよ? ポスター真っ黒だよ? 黒渦アップ現代だよ?

うーむ情報をいっぱい叩き込めばいいってもんじゃないんだけどな。叩き込むことがエンタメになる世界もあるけど、そこはTPOだと思うんだよな。

そもそも、「病理医」という単語からして四角くて黒い。宅配伝票を書くとき、「病理診断科」をボールペンで書いていると最後の「科」以外がぜんぶ黒くて四角くてげんなりすることがある。内科、外科あたりはまだいいのだけれど、腫瘍内科とか肝胆膵内科とかだともうほぼ暗黒である。小児アレルギー科は癒やし(?)。緩和ケア科は前半が真っ黒で後半は白い。

専門用語ってのはとにかく黒い。見やすさよりも正確性と情報量を重視している文化圏で漢字が増えるのは当たり前といえば当たり前なのだが、それにしても、である。



で、えー、ここからは病理診断報告書、すなわち病理レポートの話をする。

(※「病理診断報告書」という単語を、「病理レポート」にするというのも黒さを嫌うムーブである。)

病理レポートを読むのは患者(シロウト)ではなくて主治医(プロ)だ。したがって、文章の黒さがどうとか、読みやすい長さで書けとか、漢字を開けとか、そういうことは考えずにとにかく推論過程と結論をエビデンスにもとづいてあますところなく書き切ることが重要だと指導する病理医は多い。でも、ぼくはやっぱり、病理レポートも読みやすいに越したことはないと思う。

なぜならレポートを読む主治医も医者である以前に人だからだ。文章が硬くて黒いとがっくりする。がっくりするけど仕事だからいちおう読む。その「いちおう読む」は、ときに見逃しや読み違いの元となる。

医学は厳密であればあるほど尊い。しかし、医療というのは学問にコミュニケーションをプラスしなければ成り立たない。

「レポートの読みづらさ」によって、患者のよこで電子カルテをひらいた主治医がピクッとなって、伝達にアワワとなってしまってはいけない。



病理レポートを書くときには、黒さを調節する必要がある。ぼくがよくやるのは、

「断端は陰性です」

という言葉を、

「断端は陰性(-)です」

と書く方法だ。陰性 or 陽性の区別は疲れた目には負担であるが、(-)と(+)は(フォントのサイズ的にも)違いがわかりやすい。


漢字に加えて英語を併記することもある。日本語でまっくろになったレポートの中に突然英単語が混じると、そこに目が惹き付けられるだろうと思ってのことだ。「類内膜癌と診断します」、ではなく、「類内膜癌 endometrioid carcinoma と診断します」、と書く。あらゆる診断で英語名を付けるのではなく、「この領域って似たような文字数の診断が多いよなー」というときにあえて付ける。


そして、ひとつのレポート内で、前半に簡潔なまとめをいったん書いておき、後半で詳細を述べるという配置の工夫をすることも多い。今日のブログの冒頭に「※」で書いておいたような注釈を、ぼくは病理レポートでもやっている。たとえばこんな感じだ。


後述する理由により○○○と診断します。詳細は組織所見については後半部をご参照ください。

【規約事項】

~~~

【組織所見の詳細】

~~~


レポートが長くなるなーと思ったらこの書き方をする。



以上のような調節は、病理医が全員やるべきだとまでは思わないが、たぶん、そういうとこに気を配ったほうが普通に主治医からのフィードバックが多くなって、結果として病理医にとってのメリットも増える……気がする……ので、なるほどと思って下さった病理医の方はぜひお試しください。

2023年4月6日木曜日

アマチュア推薦文

推しについての文章を、だいたい600字から800字くらいを目安に書いてくれと頼まれた。いま3000字ちょっとになっている。これをそのまま「愛情があふれて3000字になってしまいました、ごめんねテヘペロ」と提出してしまうと、いかにも近年のイキリnoteムーブメントっぽくて、いささか恥ずかしい。そもそも、「文字数が多ければ多いほど情熱が深い」というのは嘘だと思う。仮にももの書きのプロならば、素人が3000字、5000字を費やさなければ語れない情熱を、800字に濃縮できてナンボであろう。連ツイは悪! 俳人は神!


そしてぼくはべつにもの書きのプロではないので3000字ちょっとの推薦文をそのまま送る。しょうがない。そういう残念さも含めてご依頼いただいているはずなのだ。掲載は誌面ではなくウェブ上だから長くてもなんとかなる。長文になってしまったことでウェブの集客力が落ち、結果として推しマンガの売り上げがあまり伸びなかったとしたらそれは責任を取らなければいけないが、おそらくこのマンガの場合、溢れる思いをせき止めずに語る私の文章を見てピンと来た「同類」が、「なるほどなるほど いい大人を感想失禁させるタイプのマンガか。それは買い甲斐がある……」と判断してくれることは間違いない。だから大丈夫。そういえば、推薦文の一部を抜粋して帯や店頭資料にも使わせてくれという依頼も同時に来ていたが、うん、抜粋しまくれるから大丈夫大丈夫。


……などと勝手なことを考えている。


***


『○○○○』がおもしろい。小細工なしで述べるが私はこのマンガがとにかく好きだ。シャドウと白のバランスからして大好物。センス抜群のセリフ回しが素晴らしいし描き文字のバランスも絶妙である。ストーリーの都合で動くキャラが一人も(一体も)いないことにぐっと来る。配置された悪人がいないが小癪な人間がいっぱいいるのも最高だ。暴力はなくても小さな裂創が耐えないことに情操を撫でられる。(ときどき)無重力環境で暮らす人類のヘアスタイル・衣服・アクセサリーの中立進化っぷりに納得する。絵画的ビープ音が脳にダイレクトに響き渡るくらいには○○○○の環世界に没入している。シャバいカレーが100点なところも、スペースコロニー内のエレベーターのアナウンスでコリオリ力の注意喚起をするところも、宇宙船内部の商店が船内備品の予備であるという仕組みも、「関西宙空」がおそらく関西宇宙空港の略称であろうことも、ジヒ港でアディさんのジャケ写について長広舌を奮うシヤが背負ったリュックがC44柄なのも、全部が満点、すみずみまで偏愛している。


蛇足だが、○○○○○○○○○には性癖をダイレクトに抉られる。


読んでこれほどよく唸るマンガも珍しい。うまいなあ。じわる。テクい。へぇとため息が出て、ほぅと背中を伸ばす。そして、ときどき猛烈に切なくなる。リンジンたちのCNNのリカレントな演算が意図せず産み出す幼弱な情動に、現実と物語の壁を越えて触れた……と感じた次の瞬間、斥力ではね返される。世界の核心に漸近まではできても接着することは決してできない距離感。ハードSFの良作にしか生み出せない贅沢な落ち着かなさが「切な良い」。自分ごとになんてさせてくれない、けれどものぞき見までなら許してくれる、アンビバレントな手招きに、自律神経がひやっとする瞬間がたまらない。規定航路をダミーに任せ、目的のために規律と全体を利用しながら微速前進するゆかいな旅路。可聴域を越えたところに響く愛の言葉。いい。


***


だいたいこの5倍くらいある。削ってまとめようかな、と、1日置いた原稿を見直していたらさらに文章量が増えてしまった。どうしようもない。そういうものである。


2023年4月5日水曜日

病理の話(763) きれいな写真を撮ったところで

意図を理解しないままにまずはスタイルだけを真似する、という初学者のムーブを、わりと応援している。「なぜその動きが必要なのかはわからないけれど、とりあえずかっこいいから真似しました」というやつだ。野球、サッカー、あらゆるスポーツで、小学生や中学生に頻繁にみられる現象である。


WBCでも有名になった元オリックス・現レッドソックスの吉田正尚は、スイングのあとに非常に大きなフォロースルーをとる。あれがかっこいいと思って小学生は真似をする。ただし、振り切ったあとにバットから片手を離すだけでよいバッティングができるわけではない。スイングの最中に回転モーメントを最も効率的に進行させるべく、上肢、体幹、下肢すべての動きが「となりのパートと連動するように」動いていることこそが重要であって、てきとうにスイングしたあとに片手を離すだけでボールがよく飛ぶということではない。


同様のことはイチロー(初期~中期)の振り子打法、さらには古くは王貞治の一本足打法などにも言えることである。ガワだけ真似してもすぐに打てるようにはならない。しかし、ガワから入ってその競技をやっている最中の自分を好きになり、動きや形状の合理性を理解するための第一歩を踏みしめることには大きな意味があるだろう。


ひるがえって病理診断である。報告書を記す際、自分がビビッと来る上司・先輩の文章を真似するところからはじめる。顕微鏡写真(顕微鏡でのぞいたミクロの様子を撮影したもの)の撮り方についても、まずは見よう見まねだ。ひとつひとつの文言、あるいは写真1枚の構図・画角について、深い意図のすべてを察することなくまずは形態的に模倣することが病理学を修める第一歩かな、と思っている。


昔は病理学の勉強といえばもっぱら「模写」であった。もっとも、ぼくはこの細胞像をスケッチするという医学部のカリキュラムにはあまり効果がないと思っている。画力というファクターが人によって違いすぎて、本来たどり着くべき「いかに勘所を押さえて(デフォルメも含めて)描くか」を達成できる人の数が少なすぎるからだ。全員が全員、教育や指導の奥底にある深いものに触れられるわけではない。

絵心のない医学生でも、知識があれば教授が喜ぶイラストを描けるというのは一種のファンタジーである。実際のところ、細胞像をイラスト化するにあたって、形態学的な要点を掴むスピードは画力の高さに比例する(つまり普通の絵がうまい人はやっぱり学術的な絵のセンスも高いということ)。

時間ばかりかかる「細胞像のスケッチ」よりも、写真を撮らせればいいのにな、と思うことがある。機材の数的に難しかったのは昔の話だ、今はiPadを使って授業をやることも多いし、QRコードを用意してスマホでスクショさせればよいのだからあえて医学生に色鉛筆を用いさせる意味もない。顕微鏡画像のどこが大事なのかを考えてもらい、ここぞという「診断に関しての決定的な画角」をスクショしてもらって提出させればいい。もちろん、最初は医学生もよくわからずに写真を撮るだろうし、最後まで病理学の意味に触れないまま単位を取って去っていく者も多いだろうが、子どもがプロスポーツ選手のガワをモノマネすることから始めるのとおなじように、プロ病理医のガワを真似てもらえばよいのではないかと思う。



ところで、ツイッターを見ていると、まれに、とっくに現場で働いているはずの中年病理医が、いまだに「ガワ」だけ真似して撮った写真をツイートして素人にチヤホヤされているのを見ることがある。切り出しの割線を提示しない実体顕微鏡写真と組織像を並列で提示してなんの意味がある? NBI画像と比べるでもなくただホルマリン固定後の標本の血管像だけを提示して何を示したいのか? 「なぜそのスタイルで写真を用意するのか」の意味をまったくおさえずに、「映え」だけを狙った写真を投稿して承認欲求を満たそうとしていることがバレバレである。しかもそのような「病理診断的クオリティのない写真」に、専門外の医者が「とてもきれいな写真ですね! 病理医がこんなにきれいな写真を撮ってくれるとうれしいです」などと言っていいねをつけていたりするからさらに驚く。草野球で振り子打法を真似てカッコつけるのはいいとして、「私はイチロー並みの打撃センスがあります」とうそぶくのは飲み会のネタだけにしておいてほしいし、「今日河川敷でプロ野球選手を見たんだよ」と吹聴するのもエイプリルフールだけにしてほしい。

2023年4月4日火曜日

自罰と克己のブログ

必死で生きるのってけっこう難しいよなーと思う。

より具体的に言うと、

「必死でいる自分の滑稽さに気づいてなお、その滑稽さを引き受けて、必死な状態を維持し続けること」

がめちゃくちゃ困難だ。ほぼ芸当ではないかと感じる。


必死とか没入とか熱中といった状態は、自覚していない間しか入り込めない。そのような状態である自分に気づいた瞬間に、ジュン!と冷や水がかけられて、熱は冷める。ほんとうに、油断していると瞬間的に、ふっと悟ってしまう。たとえばそれは中学生とか高校生くらいからもうそういう基質を持ち合わせていたようにも思うのだけれど、「気づいたら必死→あわてて冷める」のがいやなので、「最初から必死にならないように念入りに気配りする」ようになる。常に冷や水の中に両脚を突っ込んで、一時的にも自分が何かにのめり込むことがないように、常時自分を外から(?)監視する。


そういう冷め方をするようになってしばらく時が経ち、あるとき、何か、乗り越えなければいけないものをうまく乗り越えられなかったときに、揺り戻しのようなものがやってくる。具体的には「本当は、何かをするためには顔を真っ赤にしなきゃだめだったのかも……」という後悔がやってくる。ここでいう「顔を真っ赤に」には二つの意味が含まれる。力を入れて踏ん張っているから顔が真っ赤になるというのと、熱心に何かに打ち込んでいる自分が恥ずかしいから顔が真っ赤になるのとがあわさって、赤+赤=真っ赤。

常に冷めた状態でいる訓練をし、それで日常のさまざまなタスクをこなしていくうち、どうにも自分には越えられない壁があると感じたときに襲ってくる逆襲の感情。「もしかして、あのころ恥ずかしくてもとりあえず必死にやっておいたなら、今ごろはうまくいっていたんじゃないか」。


ただし感情の向く先はここ一箇所ではない。「もっと必死になっておけばよかった」と後悔しているかたわら、全然必死さを醸し出さずにスマートに「いい仕事」をしている人を目にしてまた違った悔しさを感じることもある。もし、昔の自分が汗と恥をかいて必死にがんばったとしても(そしてじつは認めたくないがそういう側面は確かにあった)、結局自分の能力というか才能ではあのスマートな人のようには何かを達成できなかったのではないか(だから今も達成できていない)と、逆方向の後悔に引き裂かれる。「必死になっていたほうがよかったんじゃないか」VS「必死になったところで何も変わらなかったのではないか」の戦いは、長く続いて、必ず膠着する。


そんな川中島に疲れ果ててとぼとぼと歩いていると、「目の前にあるものに没入し、必死でもなく、恥ずかしげもなく、ただ朴訥にコツコツ何かを続けている人」を見ることがある。それがひどくうらやましく感じる。

世間的には大事とされることを次々投げ出してきた自分とはどこか違う。

しかし、じつはおそらく自分の中にも、多少はそういう没入型の性質もある。つまりどこか違うのだが全部違うわけではない。たしかにぼくは、英会話は続かなかったし、バンド活動も続かなかったが、ツイッターは続いているしブログもこうして書いている。まるで熱中してこなかったみたいに書いたけど、ゲームはけっこう長くやったし剣道もちょっと続いた。無心でダラダラ続けて手になじんだものがないわけではない。

ただし自分が仕事の上で役立てられるスキルがそのダラダラで身についたかというと、ついてはいない。あるいは他人からチヤホヤされがちな華やかさの役には立っていない。ダラダラ続けてしまうのではなくコツコツ達成するがよかった。そこまでではない。

道ばたで出会ったコツコツマンも、それで何かを達成しているかというと、少なくとも本人はそこまでではないよと言いそうである、それはわかっている、でも、なんというか、自分のダラダラとは違うように思えて、ひたすらうらやましい。



「発達障害」などと呼ばれるクソ分類でいうと、今日の話はADHDぎみのぼくがASDぎみの人をうらやんでいる、みたいな話になっている。しかし本当はぼくの中にもその両方の、いや、そんな分類だけでは分けきれない、こんぺいとうのように全方位に凹凸のある混在した性質がうねっている。ADHD的行動によって後悔することもあればASD的行動によって後悔することもある。

なんというか、自分の中にある持ち物を確認して、これはこういうときにこんな跳ね方をする、こっちはあのような場合に重しになる、みたいなことを、何度も何度も念入りに、必死に没入してコツコツと反省し後悔し続けてきた結果、今こうして、スラスラと自罰と克己のブログが15分くらいで書けてしまう人間になっている。それによって何かが達成され何かキラキラしたものが手に入ったわけでは、もちろんないにしろ。

2023年4月3日月曜日

病理の話(762) ダブルチェックと責任の所在

患者が主治医の前で自分の痛みや苦しさを語る。あるいは、自分では特に症状を感じていなくても、健康診断などで指摘された数字に驚いて主治医にたずねる。

そこで主治医は、患者の話を聞き、診察をし、血液検査を行ったりレントゲンや超音波などの画像検査を駆使したりして、最終的に、患者に「見立て」を話す。あなたの体には、こういうことが起こっていると思いますよ、と、診断をくだすのである。

このとき判断を行うのは主治医ひとり……かのように思われる。実際、そういう科もたくさんある。内科系ではひとりの主治医が責任を持っているケースがけっこう多いだろう。そういえば、歯医者もたいていはひとりで決断して実行している。

しかし、すべての医者がひとりでものごとを決定しているわけではない。


たとえば外科。

医師免許という御旗のもとに、患者の体にキズをつけることを許された医者たちは、手術を行って患者の病気を治す。手術の前に病気を診断し、病気がどれくらい広がっているかをおしはかり、どのような手術がふさわしいかと決めるときには、基本的に、複数の医師が相談をする。人が足りなすぎるとか超緊急という限られたケース以外で、一人の医者が手術をするケースは少なくなってきている。規模にもよるが。

「ブラック・ジャック」のようなマンガが、外科医たるもの、患者を見て「すぐオペだ!」と判断してさっさとお腹を開く、みたいなイメージをもたらし、その後のマンガ、小説、ドラマなどでも同じようなシーンがくり返し描かれている。しかし、手術をはじめとする「患者への介入(患者になにがしかの手をくだすこと)」を考えるとき、チーム制こそが原則だ。

チーム制、すなわち複数の医師が患者を診る。「主治医が複数いる」言い換えてもいいだろう。ただし、それだと患者や看護師などが誰に声をかけてよいかわからなくなるし、事務的な意味もあって建前上の主治医はひとりに決める。でも決断がその主治医だけにゆだねられるわけではない。外科に所属する複数の医師が患者のデータをいっしょに見て、ああでもないこうでもないとディスカッションをした上で方針が決定される。

最終的に責任をひとりで負う内科医と、方針自体は合議で決めておき、電気メスをふるうという手技に対してひとりで責任を負う外科医。どちらも背負っているものは大きく、どちらが楽だとか言えるものではないが、医師といってもいろいろな責任の取り方があるということである。







さて病理医はどうか。

「診断を下す医者」であるから、患者に対する発言に、最終的には個人で責任を負うべきだと(ぼくは)考える。その点は内科医と似ているかなーと思う。ただ、内科医とは決定的に違う点もある。

たとえば、ひとりの患者に対して、内科医が何人も集まって来て、足を触ったり胸の音を聴いたりというのはあまり気持ちのいい光景ではない。コントもしくは拷問のように見えてしまう。だから、内科系の主治医は基本的にひとりで患者の前であれこれと話をしたり手当てをしたりする。

しかし、病理医の場合はそんな気遣いをする必要はない。ひとたび患者から取ってきた細胞は、誰が何度見てもかまわない。集まってこようが、順番に矯めつ眇めつしようが大丈夫だ。丁寧に診断をするために複数の病理医が顕微鏡を覗いて相談するということがよくある。

つまり、病理診断は「連名」で出されうる。チーム制がありえるのだ。

ひとりがまず診断を書いて、その報告書を読みながら別の病理医があらためて細胞をみて考えるというワークフローのことをダブルチェックという。特殊な顕微鏡を用いて、同じ細胞を同時にみながら相談することもあるが(それこそ外科医のカンファレンスのように)、それよりも、「ファースト」と呼ばれる病理医がまず診断を書いておき、「セカンド」や「チェッカー」、「ロッカー」(診断をロックする人という意味)があらためて内容を精査してから診断書を発行するパターンが多く存在する。



「診断書」というのはなかなかクセモノである。音声ではなく書き文字としてあとに残るから、ニュアンスでなんとなく伝えるというやり方は基本的に許されないし、玉虫色の診断というのも好まれない。国語力が必要。誤読されるような文章を診断書に書いてはだめ。どうとでも取れるような診断なんて病理診断としては使いづらくてしょうがない。医療業界では珍しく、きちんと断定することが必須である。たとえば、以下のように。

・これはがんである。(ドン!)
・ここにがんはない。(ドン!)
・ここにがんがあるかないかは判断できない。(ドン!)

「最後のは断定してないじゃん」と思った人がいるかもしれないが、そんなことはない。「判断できない」ということを断定している。これが非常に重要なことである。

あとから別の病理医が顕微鏡をみて、「いやいや、この細胞像なら、がんと言い切ることは可能だろう」と言ったら、最初の病理医が誤診をしたと言われる。それが病理医の世界だ。「えっ、それは厳しい」と思う人もいるだろう(たぶん医者でもそう思う)。たしかに、「後から診た医者のほうが、情報が多い分、診断に近づきやすい」ということはある。「後医は名医」などという格言もあるくらいだ。ひとりの病理医ががんと診断でき、もうひとりが「がんかどうかわからない」と言う事自体はしょうがない。ただし、その場合、

・ここにがんがあるかないかは判断できない!(ドン!)

だったら許されるのだが、

・ここにがんがあるかないかは判断できないと思います……いや……ぼくができないだけかも……

だと責任を問われる。なぜ? それは、つまり、「おめーが診断できねぇんなら有識者に聞きに行けや!!」がありうるからだ。内科医ではあまり想像できないシチュエーションだろうが、病理診断ならプレパラートを郵送して専門家に診てもらったり、電子化してネット上で他の病理医の意見を聞くということが可能だ。「自信が無いからわかりません」で撤退するような病理医は、できる仕事をやりきっていないと判断されることがある。


たいていの病理医が「がん」だとわかるものを、ある一人の病理医が「がん」だとわからなかったとしたら、わからない病理医にあたった主治医や患者はそれだけ無駄な検査をくり返さなければいけない。それが単純に不利益だということもある。もちろん、人間には限界というものがある。「神の目」みたいな病理医にしか診断できない病気もある。「判断ができません」という人に本気で怒る医療者は実際には少ない。まあしょうがないかな……という気持ちもある。でも、同じことを患者の前で言えるだろうか? 「自分は何度みてもこの細胞から診断はくだせない」という「決断」だけはビシッと決めなければいけない。理由も添える必要がある。
「とれている細胞の量が少なすぎる。こんな細胞だけで診断を下したらヤケドするぞ!(ドン!)」「これはいかにもがんっぽい細胞だが、こういう形をした細胞が一定の確率でがんじゃなくて炎症のことはあるんだ。今回の検査だけで診断をするのは時期尚早である、細胞を取り直せ!(ドン!)」
判断の筋道と材料が明示されれば、「わからない」すらも断定することができる。なんか今日は調子悪いから、わからないって書いとこ、だけはやってはいけない。なんかぼく最近自信がないから全部の診断に「断定はできません」って書いとこ、なんて病理医は存在してはいけない。それが病理医として責任を負うということだ。



まあなんか脅すように書いたけれど、病理診断には病理医なりの責任のとりかたが凝縮されている。それはおそらく内科医や外科医とは別種の重さであり、それをなんとかするためのひとつの手段が「ダブルチェック」。すなわち複数人でみるということにある。まあ、ダブルチェックで複数の病理医の名前が診断書に書かれていたからといって、誤診の責任が半分になるなんてことはないのだけれど、誤字脱字のたぐいを直してくれるだけでもだいぶ違うので、やっぱり病理診断は基本的に複数の目を通しておいたほうがよいとぼくは思う。早くAIが導入されるとチェックの頭数が増えて便利になるんだけどな。なにをチンタラ開発しているのか。