2023年4月10日月曜日

無精の継続

カフェインをなるべく避けるくらしを続けている。たまにソイラテくらいのものを飲むことはあるが、コーヒーとなると月に1度飲むか飲まないか、くらいまで頻度が落ちた。ペットボトルのお茶は玄米茶とかジャスミン/さんぴん茶くらいしか買わない。

元を辿れば15年ほど前、頻脈を気にして、摂りすぎていたカフェインを減らそうと試みたのがきっかけではあった。しかし今となってはもう、なんというか、単に習慣になってしまっただけで、確たる理由があってカフェイン断ちを継続しているわけではぜんぜんない。

ふと気づく。コーヒーをときおり楽しむ人のほうが人生が楽しそうであると。だからコーヒーくらい再開してもいいのになと思う。でもしない。

外食についても旅行についても、なにについても言えることだ。なんとなくあらゆることから遠ざかっていることに明確な理由なんてない。思い切ってまた昔のように近寄っていけばいいのだ。しかし、いったん静止した慣性を破るのがめんどう。その程度の理由で外食も旅行も断ってしまっている・

そんなぼくは、たまに「そんなに本が読めたら楽しいだろうな」と言われる。これも根っこの部分はいっしょなのかもなと思う。本くらい誰だって読もうと思えば読める。本を読まないひとたちが「どうも字が読めなくて~」とか言うのは、ぼくが旅行くらいすればいいじゃんと言われたときに「つい出不精で~」と言っているのと構造的にはたいしてかわらないのではなかろうか。変えるのがおっくうなのだ。動かすのがめんどうなのだ。長年動かさないでいた家電やソファをいざエイヤッと動かしたときにホコリまみれの床が出てくることがひたすらめんどくさいのだ。


めんどうくさがらずに何にでも取り組む人が偉いわけじゃないし有能なわけでもない。それは単に「チャレンジし続けるという等速直線運動の慣性に従っているだけ」に見える。その人にとっては逆に、次々と新しいことにチャレンジするのではなくじっと腰を据えてひとつのことを極めるのがめんどうでしょうがないはずなのだ。だからいいのだ。しかしうらやましい。なぜなら今のぼくは「新しいことにチャレンジする」なんていう加速度を自分の人生にかけることが究極的におっくうで仕方がないからだ。


人生なにごとも挑戦だ、という人の、本人の近況をたずねると、新しいことを一切やっておらず継続・持続の毎日だったりする。挑戦してないじゃんと言うと、「私にとっては一つのことをコツコツ続けること自体が、子どもの頃どうしてもできなかったことであり、挑戦なのだ……」みたいなことを恍惚として答えたので笑ってしまった。それは正論だよ。まったくよくわかっているなあと思う。