2023年4月3日月曜日

病理の話(762) ダブルチェックと責任の所在

患者が主治医の前で自分の痛みや苦しさを語る。あるいは、自分では特に症状を感じていなくても、健康診断などで指摘された数字に驚いて主治医にたずねる。

そこで主治医は、患者の話を聞き、診察をし、血液検査を行ったりレントゲンや超音波などの画像検査を駆使したりして、最終的に、患者に「見立て」を話す。あなたの体には、こういうことが起こっていると思いますよ、と、診断をくだすのである。

このとき判断を行うのは主治医ひとり……かのように思われる。実際、そういう科もたくさんある。内科系ではひとりの主治医が責任を持っているケースがけっこう多いだろう。そういえば、歯医者もたいていはひとりで決断して実行している。

しかし、すべての医者がひとりでものごとを決定しているわけではない。


たとえば外科。

医師免許という御旗のもとに、患者の体にキズをつけることを許された医者たちは、手術を行って患者の病気を治す。手術の前に病気を診断し、病気がどれくらい広がっているかをおしはかり、どのような手術がふさわしいかと決めるときには、基本的に、複数の医師が相談をする。人が足りなすぎるとか超緊急という限られたケース以外で、一人の医者が手術をするケースは少なくなってきている。規模にもよるが。

「ブラック・ジャック」のようなマンガが、外科医たるもの、患者を見て「すぐオペだ!」と判断してさっさとお腹を開く、みたいなイメージをもたらし、その後のマンガ、小説、ドラマなどでも同じようなシーンがくり返し描かれている。しかし、手術をはじめとする「患者への介入(患者になにがしかの手をくだすこと)」を考えるとき、チーム制こそが原則だ。

チーム制、すなわち複数の医師が患者を診る。「主治医が複数いる」言い換えてもいいだろう。ただし、それだと患者や看護師などが誰に声をかけてよいかわからなくなるし、事務的な意味もあって建前上の主治医はひとりに決める。でも決断がその主治医だけにゆだねられるわけではない。外科に所属する複数の医師が患者のデータをいっしょに見て、ああでもないこうでもないとディスカッションをした上で方針が決定される。

最終的に責任をひとりで負う内科医と、方針自体は合議で決めておき、電気メスをふるうという手技に対してひとりで責任を負う外科医。どちらも背負っているものは大きく、どちらが楽だとか言えるものではないが、医師といってもいろいろな責任の取り方があるということである。







さて病理医はどうか。

「診断を下す医者」であるから、患者に対する発言に、最終的には個人で責任を負うべきだと(ぼくは)考える。その点は内科医と似ているかなーと思う。ただ、内科医とは決定的に違う点もある。

たとえば、ひとりの患者に対して、内科医が何人も集まって来て、足を触ったり胸の音を聴いたりというのはあまり気持ちのいい光景ではない。コントもしくは拷問のように見えてしまう。だから、内科系の主治医は基本的にひとりで患者の前であれこれと話をしたり手当てをしたりする。

しかし、病理医の場合はそんな気遣いをする必要はない。ひとたび患者から取ってきた細胞は、誰が何度見てもかまわない。集まってこようが、順番に矯めつ眇めつしようが大丈夫だ。丁寧に診断をするために複数の病理医が顕微鏡を覗いて相談するということがよくある。

つまり、病理診断は「連名」で出されうる。チーム制がありえるのだ。

ひとりがまず診断を書いて、その報告書を読みながら別の病理医があらためて細胞をみて考えるというワークフローのことをダブルチェックという。特殊な顕微鏡を用いて、同じ細胞を同時にみながら相談することもあるが(それこそ外科医のカンファレンスのように)、それよりも、「ファースト」と呼ばれる病理医がまず診断を書いておき、「セカンド」や「チェッカー」、「ロッカー」(診断をロックする人という意味)があらためて内容を精査してから診断書を発行するパターンが多く存在する。



「診断書」というのはなかなかクセモノである。音声ではなく書き文字としてあとに残るから、ニュアンスでなんとなく伝えるというやり方は基本的に許されないし、玉虫色の診断というのも好まれない。国語力が必要。誤読されるような文章を診断書に書いてはだめ。どうとでも取れるような診断なんて病理診断としては使いづらくてしょうがない。医療業界では珍しく、きちんと断定することが必須である。たとえば、以下のように。

・これはがんである。(ドン!)
・ここにがんはない。(ドン!)
・ここにがんがあるかないかは判断できない。(ドン!)

「最後のは断定してないじゃん」と思った人がいるかもしれないが、そんなことはない。「判断できない」ということを断定している。これが非常に重要なことである。

あとから別の病理医が顕微鏡をみて、「いやいや、この細胞像なら、がんと言い切ることは可能だろう」と言ったら、最初の病理医が誤診をしたと言われる。それが病理医の世界だ。「えっ、それは厳しい」と思う人もいるだろう(たぶん医者でもそう思う)。たしかに、「後から診た医者のほうが、情報が多い分、診断に近づきやすい」ということはある。「後医は名医」などという格言もあるくらいだ。ひとりの病理医ががんと診断でき、もうひとりが「がんかどうかわからない」と言う事自体はしょうがない。ただし、その場合、

・ここにがんがあるかないかは判断できない!(ドン!)

だったら許されるのだが、

・ここにがんがあるかないかは判断できないと思います……いや……ぼくができないだけかも……

だと責任を問われる。なぜ? それは、つまり、「おめーが診断できねぇんなら有識者に聞きに行けや!!」がありうるからだ。内科医ではあまり想像できないシチュエーションだろうが、病理診断ならプレパラートを郵送して専門家に診てもらったり、電子化してネット上で他の病理医の意見を聞くということが可能だ。「自信が無いからわかりません」で撤退するような病理医は、できる仕事をやりきっていないと判断されることがある。


たいていの病理医が「がん」だとわかるものを、ある一人の病理医が「がん」だとわからなかったとしたら、わからない病理医にあたった主治医や患者はそれだけ無駄な検査をくり返さなければいけない。それが単純に不利益だということもある。もちろん、人間には限界というものがある。「神の目」みたいな病理医にしか診断できない病気もある。「判断ができません」という人に本気で怒る医療者は実際には少ない。まあしょうがないかな……という気持ちもある。でも、同じことを患者の前で言えるだろうか? 「自分は何度みてもこの細胞から診断はくだせない」という「決断」だけはビシッと決めなければいけない。理由も添える必要がある。
「とれている細胞の量が少なすぎる。こんな細胞だけで診断を下したらヤケドするぞ!(ドン!)」「これはいかにもがんっぽい細胞だが、こういう形をした細胞が一定の確率でがんじゃなくて炎症のことはあるんだ。今回の検査だけで診断をするのは時期尚早である、細胞を取り直せ!(ドン!)」
判断の筋道と材料が明示されれば、「わからない」すらも断定することができる。なんか今日は調子悪いから、わからないって書いとこ、だけはやってはいけない。なんかぼく最近自信がないから全部の診断に「断定はできません」って書いとこ、なんて病理医は存在してはいけない。それが病理医として責任を負うということだ。



まあなんか脅すように書いたけれど、病理診断には病理医なりの責任のとりかたが凝縮されている。それはおそらく内科医や外科医とは別種の重さであり、それをなんとかするためのひとつの手段が「ダブルチェック」。すなわち複数人でみるということにある。まあ、ダブルチェックで複数の病理医の名前が診断書に書かれていたからといって、誤診の責任が半分になるなんてことはないのだけれど、誤字脱字のたぐいを直してくれるだけでもだいぶ違うので、やっぱり病理診断は基本的に複数の目を通しておいたほうがよいとぼくは思う。早くAIが導入されるとチェックの頭数が増えて便利になるんだけどな。なにをチンタラ開発しているのか。