2023年1月31日火曜日

病理の話(741) エチオロジーとパソジェネシス

タイトルだけ書いてみてほとんどエヴァンゲリオンじゃんと思った。今日の内容は、最近ぼくが気になっていることです。以下も、知ってることを書いたものじゃなくて、「調べながら書いたもの」になります。


先日、ある講演を聴いた。講師はぼくが大学院にいたときの一つ上の先輩で、国立感染症研究所の感染病理学部門の部長。米国CDC(感染症医療の元締めみたいなとこ)へ留学されていたこともある。最近の業績もものすごい。責任著者としてつい最近Natureにオミクロン関連の論文が載ったりもしている(しかもそれだけじゃないのですごい)。


講演はすごくおもしろかった。ただし今日ぼくが書きたいのは、講演の本筋とはちょっと離れる。


部長は、講演の冒頭で、

「感染症の病理学で調べるべきことは2つあると思う」

と言った。

それが今日のブログのタイトルであるエチオロジー(etiology)とパソジェネシス(pathogenesis)である。

こうしていきなり「英単語で殴られた」場合、まずやることはグーグル検索ではなかろうか。ぼくも「なんじゃそれ」と思ったのでまずググった。


エチオロジーの日本語訳は「病因」。病気の原因。

そして、パソジェネシスをググると、同じ「病因」。

あらまあ、ググるだけだと両者の違いがわかりにくい。手強いね。

お察しのとおり、このふたつはニュアンスが異なるのだけれど。


部長の話やその後調べた話を総合すると、エチオロジーの意味は「病気の原因そのもの」で、パソジェネシスのほうは「病気が成り立つメカニズム」だという。

例をあげて考えよう。


「昨日の夜からノドに違和感があり、今朝になって発熱して急に全身のだるさが出現し、ノドの痛みも強くなったので病院に行って検査したらコロナだねと言われた」

この方の病気のエチオロジー(病気の原因)は、「新型コロナウイルスが体に侵入したこと」である。

「エチオロジーを知るには検査すればいいってこと? わかりやすいね!」

まあそうなんだけど……etiologyがいつもわかりやすいとは限らない。そもそも、新型コロナは昔は未知の感染症だった。「なんか高熱が出て風邪症状が出てたいへんな病気が出てきたぞ?」となって、世界中の科学者が「この病気のエチオロジー(病因)はなんなんだ!?」とやっきになって調べてようやく、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)というウイルスが同定された。

エチオロジー(≒SARS-CoV-2)がわかったからこそ、ウイルスに対する検査試薬が開発され、培養細胞などを用いた研究も編み出され、ワクチンや治療薬も模索できるようになった。

病気のエチオロジーを知ることは、医学の進歩にとって不可欠である。

そして、ぼくらはつい、「原因がわかれば病気は倒せる!」と思ってしまいがちだ。

でも、じつはエチオロジーだけでは足りない。



病気を解き明かすにあたって、調べるべきは「原因」だけではない。エチオロジーから、何がどのように連鎖して、患者の具合が悪くなっていくのかという、「原因が結果にむすびついていくメカニズム」を知らないといけないのだ。これがパソジェネシスである。


パソジェネシス pathogenesisの「パソ」は、病理学 pathologyという単語にも用いられている。これらは病という意味だ。

そして、ジェネシスは、新世紀エヴァンゲリオン Neon-genesis Evangerionにも使われているように、創世記(あれ?そういえば新世紀ってこっちの「紀」なんだな)という意味を持つ。創世記、すなわち神がどのように世界を創っていったかという「形成過程」をあらわすのである。病気という世界がどのように形成されていったか……がパソジェネシスに込められた意味となる。ジェネレータ、とかとも同じ語源だろう(ちゃんと調べてないけど)。


では、新型コロナウイルス感染症のパソジェネシスとはどんなかんじか?


SARS-CoV-2というウイルスは、細胞の「あるパーツ」を好んで取り付き、細胞の中に入り込む。そして、その細胞の中でぐんぐんと増殖し、周囲の細胞に次々感染していく。ただし、どのような細胞であっても中で増えられるかというと、じつはそうではない。たとえば肺のII型上皮という細胞の中ではバリバリウイルスが増えるが、マクロファージという細胞の中では増えることができないようである。肝臓だとか心臓といった細胞の中にもウイルスは感染できるのだけれど、そこで肺のII型上皮と同じくらい増えられるかというと、「増えるときもあるが、増えないときもある」ようだ。どうもウイルスにも居心地のよい場所と、居づらい場所とがあるらしい。

そして、SARS-CoV-2は一部の細胞でただ増えるだけではなくて、細胞に変化を来す。つまりは「悪さをする」。これが症状を来すメカニズムのひとつめだ。でも、ひとつでしかない。

新型コロナ感染症においてはウイルスそのものだけが問題になるのではない。そのウイルスを攻撃して排除しようとする「免疫」という名の警察が、強い武力をもってウイルスを攻撃するあまり、周囲の細胞まで攻撃してしまう、いわゆる過剰防衛によって体がダメージを受ける。こちらのほうが問題なのではないかと言われている。

怪獣が現れて街を破壊するとき、ウルトラマンがやってきて怪獣と戦うと余計に街が壊れるだろう。しかし、怪獣を放っておくとほかの街にも被害が出るかもしれず、とりあえずその街だけ壊されるのは仕方ない。とはいえ、ウルトラマンが怪獣を倒そうとするあまり、強すぎる技を使ってしまえば無駄に街を破壊することになるだろう。ここはバランス問題なのだ。おまけに、ウルトラマンにもいろんな種類があって、スペシウム光線を使うやつだとか、アイスラッガーを使うやつだとか、さまざまだ。免疫もこれに似ている。人それぞれに備えている「ウルトラマン」の種類が微妙に違っていて、同じ怪獣がやってきたとしても街(=人体)の破壊のされ方が異なる。

たとえば患者が若いか、年をとっているか。

ワクチンを打っているか、いないか。

すでにコロナにかかったことがあるか、ないか。

そういった状況が複雑にからみあって、同じエチオロジー(SARS-CoV-2感染)であったとしても、その後たどる経過(パソジェネシス)が人によって異なる。



エチオロジーとパソジェネシス、「病原体」と「メカニズム」。その両方を研究し、対策を考えることが、感染病理学でやることだと部長は言った。そしてこれは感染症に限った話だけではなく、あらゆる病気でやることだよね、とも。なるほど、病理学で調べるべきものは、病気の原因とメカニズム、両方なんだな。よくわかりました。

2023年1月30日月曜日

医師が選びとるべきセリフについて

けっこう偉い人から、学会の広報仕事に関して、

「学会の仕事にはお金が出せないけれど、医師が学会の仕事をするのはあたりまえのことだ。むしろ、○○学会で仕事をしたという名誉と実績が得られることを喜んでほしい」

みたいなことを言われたことがある。

バカじゃないの、と思った。どんなやりがい搾取だよ。令和にもなって……と。



しかし、その後、自分のこの反応をふりかえって、「言い過ぎかも」と思うようになった。



「バカじゃないの」や「仕事なんだから金を出すシステムを用意しろよ」というのは、ぼくの物語からとうぜん出てくるべきセリフである。

しかし、ぼくの物語は、偉い人たちの物語と同じではない。

物語ごとに倫理や正義がある。

バカかどうかは物語によって決まる。




ある物語を用いて生きている人、生きてきた人を外からみると、欠点や難点が目に付くものだ。

「もっといいやり方があるのに」「さほど意味のないことを熱心にやるんだな」「それだと誰かが傷つくだろうに」「もっと上手にやれるはずなのに」。

そうやって、自分の持っている物語と誰かの歩んできた物語とを比較して、自分のほうがいいのにとやる仕草に、少しずつ飽きてきた。

その人として歩んで、その人の目で何かを見て、感じて、それをくり返して、積み上げたところから出てきたセリフを、外部の物語を生きる人が早急にバカにするのは、いかがなものかという気持ちがここのところ強まってきている。



「老人のわがまま」のような、わりと簡単に行使されがちな理屈で、自分の物語のほうが正しいはずだと瞬間的に断言するのは暴力的なのではないか。




必要以上にノーマスクノーマスクと宣言してまわる人たち。ワクチンが打てない理由があるならともかく、不特定多数の他人に向かってワクチンを打つなとシュプレヒコールして回る人たち。標準治療を否定してあやしい医療に誘導しようとする人たち。そういう人たちに対して、近年、医師の側から「バカじゃないの」という声がもれてくることがある。

でも、医師が選びとるべきセリフがそれでいいのだろうか。

エビデンス、科学、統計、そういったものに照らし合わせて「向こうの物語が間違っている」と感じることはいい、それ自体はぼくも妥当だと思っている。

しかし、かけるべき言葉が「バカじゃないの」でいいのだろうか。

向こうの物語を必要以上に尊重すべきだとは思わない。ぼくらにはぼくらの物語がある。

しかし、物語間の断絶を、科学のひとことで埋め尽くす仕草は、はたして知的営為と言えるのだろうか。

それは暴力ではないのか。

きれいごとなのは承知の上だ。

言葉のこと、気持ちのこと、こころのことを考え足りないままに、倫理や正義を語っても、それはぼくらの物語に過ぎないのではないかということを、ぼくは何度も考えているのだが、こうして言葉にして、自分で読み直してみると、うーん、まだまだ考えたりないかもしれないなあと思う。

2023年1月27日金曜日

病理の話(740) それってわざわざ違う名前付ける必要ありますか

※今日の内容は、抽象的に書くとわけがわからなくなるので、意図的に具体的な疾病名を出す。しかし、これは特定の患者さんを思い浮かべて書いている話ではない。教科書を見ながら「この病気とこちらの病気の話をしよう」と決めて話しているニュアンスだとご理解いただきたい。



胃に出る病気で、「胃底腺型腺癌(いていせんがたせんがん)」というのがある。日本人によって発見され、定義されたものだ。現在はWHO分類にも名称が掲載されていて、世界的に認められた概念といえる。

小さくてまだあまり育っていない「がん」の中に、まれに特殊な性質をもったものが混じっていることがわかって名付けられた。大きく育ったがんではその特殊な性質が失われてしまうため、がんがまだ小さいときでないと診断することが難しい。胃カメラの技術が非常に進歩していて「早期のがん」が見つかりやすい国=日本から報告されたのも納得である。

その後、この病気に似ているがちょっと違う病気として、「胃底腺粘膜型腺癌(いていせんねんまくがたせんがん)」や、「胃固有腺型胃癌(いこゆうせんがたせんがん)」、「胃幽門腺粘膜型腺癌(いゆうもんせんねんまくがたせんがん)」などが次々と提唱された。……現場の医者や研究者たちはおおまじめだが、いざこうして並べてみるとなんだかジョークのようである。まるで、トゲナシトゲトゲ、トゲアリトゲナシトゲトゲ、みたいなネーミングセンスではないか。

新種が発見されるたびに、すでにわかっている「品種」との違いを強調するため、元々あった病気の名前をちょっといじるのでこういうことになる。タンポポという花があり、それをセイヨウタンポポとニホンタンポポに分け、ニホンタンポポをエゾタンポポ、トウカイタンポポ、カンサイタンポポに細分類し……やっていることはいっしょだ。


ただし、病気の名付けは、昆虫や植物とは異なる部分もある。「その名付けをすることで、患者や医療者に何か得があるのか?」ということを、けっこうシビアに問われ続けるのである。


先ほど書いた胃底腺粘膜型や胃固有腺粘膜型、胃幽門腺粘膜型などは、「細かく分けたところであまり意味がないのではないか」という議論が続いている。

「ぜんぶまとめて胃型腺癌」でもいいんじゃないかということ。一理ある。でも、ある意味、ヘラクレスオオカブトとコーカサスオーカブトをまとめてカブトムシでいいじゃねぇかというのに似ている。がんばって見つけて名付けた人たちはムッとするし、専門の研究者たち(総じてオタク気質あり)も口をそろえて「バカ野郎、ぜんぜん違ェよ」と怒る。

もちろん、違う名前をつけたところで、同じ検査をして、同じ手術をして、患者がその後どうなるか(元気に生き延びられるのか、それとも転移・再発するリスクがあるのか)が全く変わらないのならば、いたずらに医療従事者たちを混乱させないように、名前をわかりやすくするのが医療のつとめだ。

それでもなお、名前を分ける理由があるんじゃないか、新種を見つけたほうがいいんじゃないか、という気持ちが、一部の研究者たちにはある。


たとえば胃底腺型腺癌と胃底腺粘膜型腺癌、このふたつ、名前はめちゃくちゃよく似ているのだが、胃カメラで見たときの見た目がまるで違うのだ。前者はときに内視鏡医に見逃されるほど「わかりにくい」。後者は比較的発見されやすい。

前者は周囲の粘膜にとけこみやすい性質をもっている。ニンジャが壁にへばりついて、壁と同じもようの布で隠れているようなことをやる。なまいきな病気だ。「取れば治る」のだが、「見つけて取るのが難しい」。

となれば、やはり、両者には別の名前をつけておいたほうがいいだろう。見つかりにくい方の病変をいかに見つけるかは臨床研究の大テーマだ。どういう病気が見つかりにくいのかを見極めるにあたっては、きちんと名前が分けて付けられていたほうがよかろう。そのほうが、長い目でみて患者のためにも、医療者のためにもなる。

「発見のしやすさ」というファクターが、両者を分ける意義につながるということだ。

今すでに分けられている病名には、たいてい、なんらかの意義があって、臨床現場で便利に用いられている。そこらへんはうまくできている。



ちなみに、病気の「見つかりやすさ・見つかりにくさ」という性質は、病理医が顕微鏡でプレパラートを見ても、(慣れていないと)わかりづらい。なぜなら、病理医が見ているのは、胃カメラを持った主治医が「なんとか見つけて取ってきた病変」に限られるからだ。

非常に上手に粘膜に隠れた「上級のニンジャ」は、手術されないから、病理医の手元にプレパラートとして届くこともない。病理医が見ているのは「中級・下級のニンジャ」ばかりということになるだろう。このことは常に頭の片隅になければならない。

病気の性状、さらには「名付け」を考えるにあたって、病理診断だけで議論を進めることはできない。他科の医療者たちと仲良くやることで、「名付け」の根拠が整っていく。「なぜわざわざ新種として命名したのか」をきちんと説明できることが肝要だ。余談だが、WHO分類はときおり改訂され、「以前にはあった病名」が改訂のたびに消去されていく。この病気の名付けはまずかった、というのを、今日も世界中の研究者たちが反省しまくっている証拠とも言える。

2023年1月26日木曜日

良く効く睡眠導入剤

昔じぶんで書いた本を読みたいのだが、これがなかなか、うまく読めない。

読んでいる最中に「これもう知ってる……」と感じてつまんなくなってしまうというのがその理由だ。

ぼくが本に書いてきた内容は、そもそも日頃から頭の中でよく考えていたことばかりである。それをさらに、執筆や編集作業中に何度も読み返すから、余計に脳に焼き付いてしまっている。発想や展開がわかってしまっており驚きようがない。読書の楽しみの何割かが削がれてしまっているということだ。

一念発起して読み始めても、四分の一も読み進めずにがくがくと居眠りしてしまう。一般向け書籍はもちろん、教科書であってもだ。仕事で病理の説明をするときに「この話は前に本に書いたなあ……」と思って自著を探って読んでいるうちに寝てしまう。困る。

自著を読みながらぐっすり寝ている姿を人にみられようものなら、「よっぽどつまらない教科書なんですね」などと言われそうだ。くやしい。本当はおもしろいのに!



……。



じつはこの、「本当はおもしろい」の部分を疑うこともあって、それが一番ぞっとする。



執筆者であるぼくの記憶をぜんぶ消して、いち読者として自分が書いたものを読んだとして、はたして、「うわあこの本には知らないことがいっぱい出てくる、おもしろいなあ!」とか、「なんて読みやすくてわかりやすい本なんだ、頭にスイスイ入ってくるぞ!」と、思えるだろうか、ぼくの書いたものは。

そこを疑ってしまうことがある。そうなるとドツボである。

依頼してくれる人がいるからには、いちおう商業のレベルで通用する文章力は持っているのだろうと信じたいが、もはやよくわからない。「過去に本を出しているからには書けるだろう」くらいの感覚で依頼してくる人もいたかもしれないし、「ツイッターでフォロワー数が多いから売れるだろう」と、文章や内容とは関係ない部分での依頼だってあったはずだ。

ぼくがこれを読んで寝てしまうのは、「内容を知っているから」ではなくて、「文章が眠たくなるから」ではないのか……と、ときどき自分を疑っている。



実際に10代、20代のころのぼくは、二回りくらい年の離れたおじさんおばさんの書く文章を、どこか眠たいなあと感じていたのではなかったか。もっとわかりやすく書けないのか、もっとフランクに書けないのか、あるいは逆に、「若者に必要以上にこびやがって、気持ち悪い」などと考えていたのではなかったか。その頃のぼくが何度も何度も新陳代謝して、四十路も半ばのぼくの中には当時のおもかげも記憶もほとんどなくなってしまっていて、そのぼくが書いているものが自然と「中年の眠たい文章」になっていない保証がない。

だから自分の書いたものを読み直す。できれば読みづらさに気づきたい。もっと読み手にわかりやすく感じ取ってもらえるような文章を書きたい。でも途中で寝てしまうのである。理由はもちろん、「自分で書いたものは展開が読めるから」……。

そうだろうか。

ぼくはかつて、同じマンガを何度も何度も読み返す子どもだったはずだ。ピッコロのセリフもリルルのセリフもアインシュタイン博士のセリフも覚えるくらい何度も読んで楽しんでいた。それがなぜ、自分の本だとできないのか。もっとやり方があるのではないか。もっとうまく書けたはずだったのではないか。次に書く機会があったら「自分であっても寝ずに最後まで一気読みできる」ような本を書きたい、そう思いながらあの本もあの本も書いたのだけれど、残念ながら今のぼくはどれを読んでも30分くらいですやすや眠ってしまうのである。

2023年1月25日水曜日

病理の話(739) DNAと遺伝子

人体の中にあるほとんどすべての細胞は「核」を持っていて、中には細胞の部品をつくるための設計図である「DNA」が詰めこまれている。

けっこう有名な話だ。細胞にはDNAがあるというのは、いまどきの小学生でもけっこう知っているのではないか。

ただし、DNAというのは、デオキシリボ核酸 DeoxyliboNucleic Acidの略称である。素材の名前にすぎない。

「細胞核の中にはDNAが詰まっている」というのは、「本の中にはたくさんの紙が詰まっている」と同じような言い方なのである。

ぼくがいきなりあなたの肩にポンと手をあてて、こっちを振り向かせて、「本にはたくさんの紙が詰まっているんだよ。」と言ったら、なんかこいつ変だなと思わないだろうか。ちょっと不自然な言い方だなと思うだろう。

紙の本に含まれているのは物性だけではなくて「情報」だ。だから「紙が詰まっている」と素材だけの話をすると、不自然に聞こえる。

おなじように、「細胞核の中にDNAが詰まっている」というのも、情報のことを考慮していない言い方なのである。



DNAに書かれているものは「細胞の部品を作るための情報」だ。DNAの配列(塩基配列)に応じて、リボソームという場所でアミノ酸が順番に結合してタンパク質が形作られる。非常に多くの種類のタンパク質が、細胞の壁や柱に相当する支えになり、細胞の手足に相当するさまざまな部品になり、細胞の口や肛門にあたるチャネルやトランスポーターになる。

「情報を持った物質」が核に入っていると言いたいときには「DNAが詰まっている」ではなくて「遺伝子が詰まっている」と呼ぶといい。「本の中にたくさんの情報が詰まっている」と、「細胞核にたくさんの遺伝子が詰まっている」は、同じテンションで読むことができる。




ところで、遺伝子には遺伝という単語が入っている。遺伝、すなわち、親から受け継いだのか? と思いがちだが、実際には両親から受け継いだ手札が「シャッフル」されているので、そのまま受け継がれているとは限らない。親とはまるで違うタンパク質を作るケースもいっぱいあるのだ。DNAというとケミカルなイメージで、遺伝子というと急に親族の顔を思い浮かべる、みたいなニュアンスもある言葉なのだけれど、じっさいにはDNAは「紙」、遺伝子は「情報」くらいの理解でよいと思われる。

なにをごちゃごちゃ言っとんねん、と思われるだろうか?

いや、ま、そうなんだけどさ。




たとえば「がん細胞には遺伝子の異常がある」という一文を読んでどれだけ正確に意図を読めるだろうかという話を考える。遺伝子の異常……つまり……がんになったのは親のせいだ! みたいな連想をしてしまう人はいないだろうか? くりかえすけれども遺伝子というのは「情報」くらいの意味であって、遺伝する・しないとはそこまで大きく関わらないと思ったほうがいい。遺伝子異常を有する病気がぜんぶ遺伝するわけではない(遺伝しない病気のほうが多い)。ほら、こうして、言葉の定義だけでだいぶ誤解が解消されるのだけれど、まあねえ……言葉を正しく使うのってすげえめんどくせぇ≪口語表現≫からね。

2023年1月24日火曜日

フォーメーション元に戻してくれましぇんか

感染症が猛威をふるっているときは、病棟の編成が変更になる。ほかの患者に感染を広げないためにさまざまな対処が行われ、看護師などのスタッフが平時よりも多く必要となるため、他部署の運用を縮小することで対処する。

加えて、人工呼吸器を用いた診療の数が増えると、それを管理する麻酔科医などが多忙になり、ピタゴラスイッチ的に手術にまわす麻酔科医が足りなくなる。

ほか、手術予定だった人が感染してしまい手術が延期になる、みたいなケースもある。

こういうことが全部くみあわさって、結果として、「感染症が増えると手術件数が減る」という現象が起こる。



何が言いたいか。

「第○波」がやってくるたびに病棟がしっちゃかめっちゃかに忙しくなるが、手術や検査の件数はむしろ減り、つまりは、病理医がヒマになるのである。プレパラートを見る数がだいたい1割~2割くらい減る。


かわりにこの3年でぼくは、臨床医やAIエンジニアなどと組んで論文を書いた。診断の仕事が減った分、研究をすればいい。Zoomが普及したことでオンラインの仕事も増え、国際講演も何度か行った。中国四川省、山東省、香港、ヤンゴン(ミャンマー)、そしてキーウ(ウクライナ)。

もともと、ぼくの仕事はプレパラートを見るだけではなく、他科の医療従事者たちと一緒に研究や教育をやるウェイトが大きい。プレパラートを見る数が減ったからといって、仕事がごっそり減るわけではない。


ただ……なんというか、「要」であるのはやはり顕微鏡仕事だなあと思う。

顕微鏡を用いてプレパラートをのぞきこむ仕事の絶対数が減ると、ほかにどれだけ論文や原稿やパワポを作り込んでいようとも、心のどこかが「なんとなくヒマなんだよな……」という不全な気持ちにひたる。ずっと足下が水に浸かっているような感覚だ。じんわりと寒さにやられてしびれつづけている感じがする。




昔、マンガ・機動警察パトレイバーで、後藤隊長が自宅で野球中継を見ているシーンがあった。実況が「主軸が乗ってくるとチームもうまくいく」と言うと、後藤隊長は「主軸がね。」とひとり相づちを打ちながら、篠原遊馬の不調を気に掛ける。

物語の主人公が泉野明(1号機パイロット)であることは間違いないのだけれど、チームで仕事をするときには野明のような「目立つポイントゲッター」だけではなくて、なんというか「要石」の存在が大事なんだよな、と思わせられた。


で、話をぼくの手元にもどすと、ぼくはチームで仕事をすることも多いが自分の脳だけを使って黙々と働いていることも多い。団体戦的に働くシーンと個人戦的に働くシーンでいうと4:6で個人戦のほうが多いということだ。しかし、じつは、一人で働いているように見えても脳内があたかもチーム戦のような様相を呈していることがあるなあと、ずっと感じていた。脳の中で、複数の異なる働き方をするぼくが、こなしている仕事ごとに前に出たり後ろに下がったりしながら脳内でバランスをとっている。顕微鏡を診るのが得意なぼくと、画像と病理の対比をするのが得意なぼくと、カンファレンスで臨床医たちと議論をするのが得意なぼくと、原稿を書くぼくと、論文を書くぼくはそれぞれ微妙に違うぼくだ。そして、違うぼくたちが脳内でたまにディスカッションをしていることがある。

ぼくの脳からもっとも目立つ成果として世の中に飛び出ていく仕事は学術講演であり研究会での病理解説であり、それはもう間違いがないので、脳内で一番幅を利かせていてしゃべり口調にも自信があるのは講演者・解説者としてのぼくである。脳内俺チームのポイントゲッターだ。しかし、「主軸」はそこではなくて、たぶん顕微鏡を診るときのぼくなのである。これはもう、感覚でそうなのだとしか言いようがなくて、理屈を整然と説明することはできない。



感染症禍によって顕微鏡を診る頻度が1割減るだけでチームの意気がなんとなく下がっているように思われる。そんなことではいかんぞと、原稿チームや教育チームなどが顕微鏡チームのぼくを励ましている。後藤隊長は篠原遊馬をスナックに連れて行った。言いたいことがあるのならば全部吐き出しちゃいなさいよ、と言った。あれがぼくの中でも今まさに行われている。

2023年1月23日月曜日

病理の話(738) ハイオクとレギュラーくらいの差と言っていい

若い病理医の書いた診断書や、大学の研究者がバイトで書いている診断書を読むと、ときに、「正常と異常の線引き」が甘いなと感じることがある。

例として、大腸の粘膜をチョンとつまんでとってくる「生検」という検査のことを書く。

腸炎がひどいときに、これはどうもふつうの「食あたり」とは違うんじゃないか、何か特殊な病気があるんじゃないかと主治医が疑って、大腸カメラをやって粘膜をつまんでくることがある。患者からすると、下痢に苦しんでいるときにさらに肛門からカメラを入れられるわけで、たまったものではないが、そうやって原因があきらかになれば治療法が変わるかもしれないので、申し訳ないのだけれどちょっと我慢してもらうことになる。

患者にけっこうな負担をかけて採取してきた「粘膜」をプレパラートにして、病理医が顕微鏡でみる。するとそこには、上皮という種類の細胞が輪郭を形作っていて、陰窩(いんか)とよばれるミクロの穴ボコがいっぱいあいた構造を形成している。さらに、上皮細胞におおわれた間質と呼ばれるスペースに、いくらかの白血球がコロコロ認められる。この白血球、すなわち炎症細胞が、なにか悪さをしているのではないか、それによって粘膜に炎症が起こって、下痢を引き起こしているのではないか、と考えていく。

ここで、あまり経験のない病理医は、白血球がちょろちょろ見られた時点で、「ああこれは炎症ですね。腸炎です。」と診断を書きがちだ。なにせ、主治医が「腸炎だ」と言っているので、病理医としても炎症細胞がみられたら「なるほど腸炎だ」とつい話を揃えたくなるのである。

しかし、じつは、健康で下痢などまったくしていない人の大腸粘膜を見ても、ある程度の白血球は認められる。つまり、「白血球がいる=炎症」とは言えない。

ゼロイチでいるかいないかを見るのではなくて、量を見なければいけない。

そもそも正常の大腸だとどれくらいの炎症細胞がいるものなのか……どれくらいなら「いて良いのか」を知っている必要がある。たとえば、大腸がんに対する手術でとってきた大腸の、「がんから遠く離れた粘膜」を病理標本にして観察すれば、ほぼ正常の大腸粘膜のようすを見て覚えることはできるだろう。そういうことをどれだけ積み重ねているかという話だ。

「がん細胞がそこにいる・いない」のようなデジタル診断のほうが、言い方は悪いが、少し簡単である。腸炎のほうが病理診断が難しいということはままある。ある細胞がどれだけ多く存在すれば異常か、を見極めるには「ものさし」がないといけない。そのものさしは教科書を読んでいるだけだとなかなか手に入らない。


では、そのような「量的な評価のあまい病理医」が見て書いた診断によって、誰かが困るかというと……実際にはあまり困る人がいない。主治医は患者の全体をみながら、この人は腸炎だな、それも軽症だな/中等症だな/重症だなと、病理診断以外の部分できちんと評価をしているので、病理医が多少ずれた診断を書いたところで、主治医も「あれ? 思ってたより炎症が強かったのかな? でもまあ、病理に見てもらった粘膜はほんのひとつまみだし、一部しか見ていないから微妙にぼくらの見立てとずれたのかな」くらいにしか思わず、大勢に影響はない。

でもそういう主治医が、転勤によって違う施設の病理医の書いた報告書をみると、途端にキレ味の良さに驚くことになる。自分の思った通りの、いや、思った以上のニュアンスが病理診断書から得られて、臨床のさまざまな判断が少しずつ改善されていく。

これらは「誤診」ほど派手で患者に迷惑をかけまくる話とは違うのだけれど、「加湿器を部屋に置く」みたいな「長年丁寧にやっていると必ずいいことがある」的な話に近い。あるいは、ハイオクもレギュラーもどっちもガソリンだけど、ハイオク推奨のエンジンにレギュラーガソリンを入れるといずれ壊れる、みたいな話と言ってもいいだろう。「量的な評価」は病理医の仕事の中では地味なのであまり重要視されていないきらいもあるが、量的なセンスをきちんと身につけることで主治医や患者にとっていいことがいずれ必ず出てくるのである。

2023年1月20日金曜日

伴走の拒否

あるとき誰かが何かを感じたとして。

その感情そのものを余すところなく言語化したものよりも、誰かがそれを「感じた瞬間の情景」を丁寧に描いたもののほうが好きである。

「何を感じたのか」が直接書かれていなければいないほど、その人はどう感じたのだろうと思いを巡らせている時間が豊かになる。

感情が直接描写されていない以上、「なるほどこういう気持ちだったんだな」と確信できることはなくなるが、「こうだったのかもしれない……」と長く続く余韻のようなものを楽しみ続けることができる。

あるいは、筆者の横に立って、同じ風景を見ながら、微妙に違うことを考えつつも時間を共有している、そんな状況こそが好きなのかもしれない。



でも、ぼく自身はそういう文章を書けない。書かないのではなく書けない。本当は書きたいのだが、うまくいかないのだ。

何かを感じたら、どう感じたかを自分の言葉でどんどん書いてしまう。

情景を書くにしても、結局、その情景のうちどれが脳に届いたか、それがなぜ自分の心を揺らしたのかを書いてしまう。

だらしないな、と思う。

本当は読んだ人に勝手に思い浮かべてもらうほうがいいのだ。でも、わかっていてもできない。

誰かに横に立ってもらうような文章を書きたいと何度か思ったことがある。でもできない。



ぼくの感情をぼく自身が言語化して確定することでかえって狭めてしまう。ぼくの感情に本来存在したはずの、言語化できない部分を誰かに探ってもらうことを放棄している。拒否しているのかもしれない。拒否しているのは他人の解釈だけではなく、後に自ら振り返ることも含めてなのだ。未来の自分からの再解釈すらも拒否している。ほんとうは、過去の自分は違うことも考えていたかもしれないのに、感情のうち言葉が追いついた部分だけが記憶に残り、言葉が追いつかなかった部分の感情が捨てられているから、「そのとき」の自分の感情に追いつけることがないし、横に立つこともできない。



ブログが続いているのはなぜだろうと考える。誰かが見ていることがモチベーションになって続いているというのならば、できるだけ自分の理想とする文章に近いものを書けばいいし、実際に書こうと努力してもいるのだけれど、自分の感情を端からどんどん言語化してしまうクセが抜けない。2回に1回「病理の話」と名付けて医学書に載っているミニコラムくらいの情報を書き殴っているのもおそらく「自分の感情以外のものを書く訓練」という側面があったはずだ。しかし油断すると病理の話にすら自分の感情が書き記されていることがあって驚く。ほら、今また、「驚く」と書いてしまっている。



読みたいものと書きたいものが一致しない。余白と余韻の豊かなものを読みたいのに、キータッチをはじめるとぼくの指はいつも脳の中をまさぐって、この事実がどのシナプスを発火させたのか、何と何がつながって何を新たに思い付いたのかを細部まで言語化した状態で書き留める。その瞬間、はっきりアドレナリンが出ている。誤作動ではないかと思う。「なぜか」を追究する。感情のカスケードを上流に向かって辿る。遡っている間中ずっと感じたことを書き留めながら。



昨年よいと思った本、奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』にしろ、豆塚エリ『しにたい気持ちが消えるまで』にしろ、著者たちは自身がどう考えたのかを直接的にはあまり書いていない。だからぼくは著者と違う時空にいながら隣に立って同じものを見るように何かを感じ続けることができた。同じようなことができたらどれだけ素敵だろうかと思う。わかっているのになお自分の心ばかりに光を当てている。誰かに探ってもらうことをせずに。それほどまでにぼくは他人を信用していない、とまとめるのは乱暴だろうか。当たらずとも遠からずだった感情が言葉によって固定されていく。

2023年1月19日木曜日

病理の話(737) 文学的な診断

病理診断報告書に、「文学的な文章」を書いてはだめだ。特に、読む人によってどのような意味にも取りうることを書くのは最悪。だって、診断だから。

ある領域の専門である主治医Aはがんだと思えるが、違う領域でがんばっている主治医Bが読むとがんじゃないように思える、みたいな診断文を書けば、患者は路頭ならぬ病棟に迷ってしまうだろう。

定義から定理を導くように。数学的に。世界の誰が見てもその意味にしかとれない、という診断書を書くことが、病理医の責務である。



ただし……じつは、「読む人の立場によってどうとでもとれる病理診断」を、あえて書くこともある。これは高等技術であり、少なくとも日常的にやるべきことではない。

ある領域での専門性を内外に認められている病理医が、深い洞察のもとに、限られたシチュエーションで、そのような玉虫色のレポートを記載することがある。

「含意のある病理診断」、「多義的な病理診断」。

それはどういうときに書かれるのか?




病理診断は、今の患者がどんな病気にかかっているかという「現在」を読み解くツールであるが、同時に、その患者がこれからどういう経過をたどるかを予想する、すなわち「未来」を読み解くツールでもある。

未来予測。

天気予報みたいなもの。

正答率100%ということはありえないにしろ、ゴリッゴリに極めれば、明日の天気はもちろん、1週間分くらいの天気はほぼ必発で当てることができる。病理診断もこれに近いものがある。数年ぶんくらいの予測ならかなり精度高く行うことができる。

ただし、病理診断が天気予報と違うのは、天気予報が雨を予測したからといって、雲を吹き飛ばすなどの「対策」は打たない(せいぜい傘を持つくらいのことしかできない)のに対し、病理診断で「がん」とついたならば、そこで臓器を摘出するなどの「おおがかりな対策」が取られることである。

治療が施されることにより、患者の運命は変わる。予測していた未来がやってこないように細工をするのである。むしろ、予測した未来(たとえば、死)が起こらないほうが、患者と医者にとってはよいことであろう。

ただし、予報の結果に介入すると、少々困ったことも起こる。

未来予測の答え合わせができないのである。




今から100年くらい前は、がんと言えばイコール死の病であった。発見したところで治療法はなかった。がんと言う病気は、転移し、患者を死に至らしめるもの以外には存在しなかった。診断はシンプルであり、「転移」や「死」を見つければよかった。

しかし、その後、診断方法や治療方法が進歩し、「がん」でも人が死ににくくなった。すると、診断の意味が少しずつ変わりはじめる。

たとえば、早期がんや表在がんという概念。

まだ転移していない、あるいは転移していたとしてもがんのごく近くにしか転移していない時点で、がんのある部分だけを手術などで切り取ってしまえば、患者はある程度の確率で生き延びる。いずれ死ぬという運命を変えることができる。

このとき、「がん」という診断は、昔のそれとはだいぶ意味が変わっている。「転移し、人を死に至らしめる病」から、「転移するかもしれない、いずれ患者が死ぬかもしれない病」になる。

「かもしれない」が入った。

おわかりのように、これが入ると入らないとでは雲泥の差だ。



さらには、粘膜内がんとか前がん病変などと言われるもの。これらはもはや、かつての「がん」の特徴を一部しか備えていない。

「転移するかもしれない、いずれ患者が死ぬかもしれない」どころか、「今すぐには転移しないし、患者が死ぬこともない」のである。

「がん」とは別モノではないかと言いたくなるだろう。

しかし、治療せずに放置しておくと、数年後に転移するかもしれないし、数年後に死ぬかもしれない。



長年にわたって、さまざまな患者のデータが収集され、「今はまだがんっぽくないけれど放置しておくとそこからがんに成長する病気の特徴」が割り出されている。病理医はそのような特徴を慎重に見出し、「がんだ」と診断する=放置しておけばいずれ患者を死に至らしめると「予測」する。

でもその予測の成否を確かめるのはなかなかにして難しい。なにせ治療で取ってしまうのだから。放っておけば患者は数年後、数十年後に死ぬかもしれないとなれば、放っておく理由はない。しかしとってしまえば答え合わせができない。



このような病気を「がん」と診断することにはかなりの根拠を必要とする。膨大な量のデータを元に統計学的な解析をして、今目の前にある病気と「同じような形状」をした病気が過去にあり、それを放置したらどうなったかというのをたくさん集めてきてはじめて、まだ転移も浸潤もしていないような細胞をがんと言い切れるようになる……いや、どれだけ集めても、言い切れないこともある。

そういう「言い切れなさ」を、どのように病理診断に書き留めるか。

ひとつのやりかたとして……「がんである確率がこれくらいある。がんじゃないかもしれないけれど、放置しておくと気持ち悪いから、その病気はとってしまったほうがいいよ」という考え方。患者にも納得されやすい。不安なら、がんであろうがなかろうが、ぜんぶとってしまいましょうか。ああそうですね、お願いします。

でも、このやり方がいつも許されるわけではない。胃にできたポリープ状の病気をチョンと摘まんで取るといったって、その治療のせいで血が出るかもしれないから、十分に気を付けてとらなければいけない。まして、たとえば皮膚や乳腺にできた病変を、「不安だからチョンととりましょう」なんて言ったって、だいじな体に傷が付くのを許せない人だっているだろう。がんならまだ仕方ないと言えるかもしれない。でも、がんでなかったら……? とらなくていいものをとって、それで傷が残るなんて……。


このようなケースで必要なことは、未来予測という「不安定な、確実性の低いもの」を、がんかがんでないかという二択問題に落とし込むことをせずに、「どういう根拠で、これがよりがんらしいのか、あるいはがんっぽくないのか」をきちんと書き留めるということだ。病理医ががんだと言ったからがん、みたいな雑な議論ではない。主治医も、患者も、どれだけの資料がこれまでにあり、どのような根拠があってこの病気をがんだと言うのか、あるいはがんでないと言うのかをきちんと理解するべきなのである。

そして、あらゆる証拠をもとに、たとえば令和元年には「ごく早期のがん」と診断されていた病気が、その後さらにデータが増えて解析を重ねた結果、「どうもがんとするには根拠が足りない」と判断されることもある。

細胞の「顔つき」は、令和元年だろうが、令和5年だろうが、変わっているわけではない。しかし、積み上げていった医学的なデータが違う方向を指し示すことはありうる。

そのような、狭間の病気。

端境にある病気。

この類いの病気に、確定的な診断をドンと付けることをせずに、「文学的な病理診断」を延々と書き連ねるタイプの病理医は実在するのである。どうとでも解釈できるという意味ではない。どの時点で誰がどうやって見るかによって未来予測が変わりうるという「事実」をそのまま書くということだ。


くり返すがこれは高等技術であり、少なくとも日常的にやるべきことではない。かつ、それを書いた病理医と、読む主治医、さらには患者との間の信頼関係が完全にできあがっていないとだめなのだ。「病理医の独りよがり」で勝手にレポートを「文学化」したところで適切な医療にはつながらない。文学を用いたコミュニケーションには文脈の共有が必要なのである。

2023年1月18日水曜日

あえたね

「あえて嫌われ役を演じる」みたいな話をとんと聞かなくなった。


一昔前は、誰かを指導するにあたって、

「たとえ嫌われようが、言わなければいけないことがあるし、それを言うのは上司である私しかいない」

みたいなことを言う人がいろんな場所にいた気がする。でも、たぶん絶滅したんじゃないか。

「言わなければいけないこと」を、イコール、「聞いてもらわなければいけないこと」と考えれば、絶滅した理由もわかる。なにせ、嫌われてしまった時点で相手は聞く耳を持たなくなるのだ。言いたいことを言っても意味がない。

昔は、立場的に「嫌いでも、イヤでも、聞かなければいけない関係」というのが今より強かったのだろう。だから嫌われ役にも効能があった。「上司である私しかいない」が説得力を持っていた。でも今はそういう関係がだんだん成り立たなくなっている。嫌いなら離れればよい、二度と自分の上司として見ない。職場での立場がどうあろうが、話はすべて聞き流して、自分が本当に成長できそうな言葉を発してくれる「真の上司」を探して20秒くらい検索すればすぐ代わりが見つかる。

嫌われ役とか第二の父親とか徒弟制度みたいなもの、若い人の間ではもう通用しないだろう。




ただ、そういうのはあくまで若い人とその周りで起こっていることでもある。そもそも若い人って人口比的にも少ない。20%はいないよね。10%ちょっとじゃないか。

となると残りの80数パーセントは未だに、原則的には古い価値観とシステムを引きずっているはずだ。世の中はいつも「新しさ」に注目するからなんとなく自分たちも若い人たちの感覚に合わせようとがんばるけれど、本当はそれほど人間は急に新しくなれない。たぶんまだあちこちに「あえて嫌われ役を演じる」みたいな人はうようよしている。


若い人の絶対数が減り、若い人の中でも少数の上司についていこうという人の割合が昔より少ないので、つまりはものすごいスピードで「相手をしてくれる若い人」が減っているのだけれど、上司の側はぜんぜん減らないし何なら昔よりもいっぱいいる。余りものの上司がいない若者に向かって「あえて嫌われ役」をやるのはむなしすぎる。だったらその「嫌われ先」をどこにするかというと、上司どうしでやっている気がする。

ぼくら上司年代の人間は、互いを若い人の代替にしているのではなかろうか。

年齢は同じくらいかもしれないけれど、すくなくともこの部分では自分に比べて経験がないはずだ、キャリアは同じくらいかもしれないけれど、この領域の知識を得る機会はなかったはずだ、みたいな他部門の上司をどこかからか探してきて、それを勝手に「若い人」の代わりにして、「あえての嫌われ役」を果たして恍惚としている。それを受け止めるほうもまた別角度の上司に過ぎないので、「あえて嫌われた」ことに対してロコツに「あえて嫌い返す」。あえて引用RTして公開でケンカ。芝居じみたニセモノのケンカ。「我々のやりとりをサイレント・マジョリティである今どきの若い人がみることで、きっと何かを感じて、いい方に進んでくれるはず」まで行くとさすがにキツいなーと思う、いもしない若い人を勝手に脳内で増産してまで「あえての嫌われ役」を演じたいのだ。



あえてじゃなくていいから、普通に好かれるやり方をすればいいのに、あえてじゃないとだめらしい。あえてないとあえてないと震える。えっこの曲ってもう12年前なの? 年を取るわけだ。

2023年1月17日火曜日

病理の話(736) 勤める場所によりけりという話

ぼくは500床程度の中規模病院に勤める病理医である。自分の病院で患者から採取された検体のほかに、関連病院として北海道内にある3病院からの検体も請け負って診断をしている。

新型コロナウイルス感染症の影響で、病床の一部に今までよりも豊富にスタッフを投入しなければいけなくなったことなどにより、人手や病床数が少し減り、検査や手術の件数も減っている。だいたい年間で9500件程度の組織診を行っていたのが、今では8000に満たない。とは言え、今もなお、それなりの量ではある。

これだけあれば、医療の全領域をまんべんなく診断しているかというと……そんなことはぜんぜんない。

たとえば当院には脳神経外科がないので、脳腫瘍のたぐいは一切出てこない。だからぼくはかれこれ15年近く、脳腫瘍をほとんど診断していない。また、若年の軟部腫瘍・骨腫瘍もほとんど診断する機会がない。「腎生検」もみない。

つまりは偏りがあるということだ。ぼくの場合、消化管(特に胃腸)、肝臓、膵臓、胆道(胆管や胆嚢)、肺、乳腺、悪性リンパ腫などをみる機会が一番多い。皮膚はそれなり。婦人科や泌尿器科からの検体は同僚のほうがよく見ている。

このような環境にいるとどうなるかというと、胃腸や肝臓などの病理診断に少しずつ詳しくなる。

簡単な話だ。自分の経験する機会が多い病気の専門家に「なる」。




大学病院に勤めている病理医は、より多くの臓器の診断をしている。かつ、大学には難しい診断、珍しい診断を受けている患者が多い。だから大学の病理医はいろんな臓器に出る珍しい病気のことをよく知っている。一方で、胃炎とか腸炎などはぼくのほうが大学の病理医よりも詳しい……なんてこともある。大学なら医療の全部をみているということもない。すべてに完璧に詳しい病理医というのはなかなかいない。全国を探すとまれにありとあらゆる臓器の診断に通じているスゴ腕もいるが、両手で数えれば足りるくらいではないかと思う。

最初から病理診断すべてに精通しようとすることをあきらめ、「どこかの臓器に特化した病理医」を目指す生き方もある。顕微鏡診断だけでなく、遺伝子の検査や研究なども行いながら、これぞと思ったひとつの臓器、ひとつの病気のことだけ考えてマニアックに突き進んでいく。傾向として、私立医大の病理部や、国公立・私立を問わず大学院の病理学講座には、なにか1,2の臓器にひたすら詳しくなって尖った専門性の中で暮らしている病理医が多いように思う。欧米もそういう傾向があるとのことだが(超絶偉い人以外を)実際に見たわけではないのでそこはよくわからない。





勤める病院のタイプによって病理医としての生き方まで変わる。

そのため、病理医が「職場の異動」をする際には、けっこうめんどくさいことになる。

たとえば大学病院にいた病理医が大学以外の病院に就職すると、その病院の診断に慣れるまでにそれなりの時間がかかる。最低でも3年は見ておいたほうがいい。大学では見たことのない病気をたくさん診断するのはなかなか大変だ。難しい病気や珍しい病気がなければ楽勝ということは全くない。コモン=よくある病気に病理診断をするにはある種の知恵が必要で、その知恵は必ずしも知識だけで構成されておらずわりと複雑な対処をしないと身につかない。

逆も言える。市中病院で多くのコモンな病気を診断してきた病理医であっても、大学病院特有の病気を病理診断しようとすると、まず歯が立たない。ぼくが今から大学に移るということには現実味がまったくない。ただし、大学病院のほうが、総じて病理医の人数が多いため、頼れる同僚がいれば乗り越えられる気はする。

いちばん問題となるのは、市中病院から別の市中病院へと移動する場合だろう。慣れない臓器が提出され、今までと違うやり方で診断をしなければいけないのに、自分のほかに頼れる病理医がいないという状況が、市中病院の場合にはあり得る(大学ほど人が多くない)。すると、今まで1件15分で終わっていた診断に2時間、3時間とかけなければいけない。文献や教科書を見ることも必要だが、自分より前にその病院に勤めていた病理医がどういう文章を残してきたのか、みたいなことをしっかりしらべて報告書を書かないと、病理医が変わったとたんに診断の様式もガラッとかわりました、では主治医も困る。これに慣れるにもやはり3年は見ておいたほうがいい……のだが、大学と異なり市中病院の場合、仕事に慣れない状態で3年間も働いているとほかの医者からの評判があっという間に落ちてしまう(大学は異勤が多いためか人が多いためかわりとなんとかなる印象がある)。だから最初の半年でできるだけ徹夜して一日でも早く仕事に慣れる、みたいなムーブをとらざるを得ない。けど人間はそんなに徹夜できないので、ま、結局、「主治医は困ってるかもしれないけれど知ったことではない」みたいな病理医が誕生することになる……なった(一応過去形にしておく)。



このような、病理医の転勤のつらさをよくわかっている大学医局・高次医療センターでは、若い病理医を育てるにあたって、あらかじめ複数の病院で連携して「数年ごとに異勤することを前提とした教育プログラム」を作っていることがある。若いうちからさまざまな病理の現場に触れておけば、自分が将来病理専門医となったときに、複数の職場から自分にあったところを選べて便利だろう。

いいことしかないように思えるが、実際に転勤ベースの教育を運用すると、属人的な面であたりはずれが出てくる。あらゆる職場で均等に勉強ができるわけではなく、指導医や環境との相性というのが必ずあるし、結婚や子育てなどでしんどい時期にあちこち引っ越しすることが追加のストレスになってしまったりもする。

かといって、自分の生活を変えたくないばっかりに、最初に勤めた大学から動こうとせずにずっと同じ場所で診断し続けていると、教授交代などのさまざまな理由でその大学に居づらくなったときに、大学以外の場所で診断するためのスキルをあらたに身につけることができず(そもそも別病院で働く訓練をしたことがない)、市中病院ですごくちぐはぐな診断をしながら過去の栄光だけを振りかざす「老害」になってしまうこともある……あった(いちおう過去形にしておく)。



病理医という職業自体がレアなのに、その中にも多彩なキャリアがあるので、これといった成功の方程式みたいなものは存在しない。そんなのどの職業だって一緒でしょ、と感じるのが一般の社会人だとは思うけれど、心臓血管外科とか脳神経外科などの技術一本系の科だとあきらかな推奨キャリアパスが存在していることも多く、先輩達のマネをしていればとりあえずハズレはなかったりする。就職場所えらびの難しさはマイナー科の宿命だ。

かつて、ぼくの元にも、これから病理医を目指す若手が押しかけてきて、病院を見学してもらい、大学の話とかもしようかと言いながらいっしょにご飯を食べたりお酒を飲んだりしたものだが、最近のご時世だとそういう宴会的なキャリア相談もまず行えない。Spotifyのライブラリのように個人がそれぞれ違う知識をストックして独自のタイムラインを形成する今の医療教育で、ぼくら中年は彼らにとっての「サブスク体験コンテンツ」でしかなく、一瞬すれ違ってまたすぐ他人になる関係である。こうしてぼくが書いた文章も誰かにドンズバ突き刺さるということもなく、ただ、誰かの人生を微調整する可能性がなくはない、くらいのことしかない。そうわかってなお書いている。

2023年1月16日月曜日

切ない名刺

働くふりをするのに忙しい医者というのがいる。そういう医者のなにが問題かというと、働かないことではない、周囲との信頼関係をきちんと作れていないことだ。

まわりに信頼されていないために、大事な仕事が回ってこない。したがって本人は基本的にヒマである。ただ、いつも忙しいふりをしている。ひとつの仕事をダラダラと引き延ばしたり、本当は仕事ではないことを仕事のように見せかけたり、教育を担当していないにもかかわらず若手向けのメッセージをツイッターに書いたりする。

具体的に誰かのことを思い浮かべているというわけではないのだけれど、たまに見かける人たちを数人くらい足し合わせて平均をとると、だいたいそういうことになっている。ツイッターのくだりだけは想像で書いたが、あとは現実にそういうことになっている。



なんかこいつ具体的に働かないで働くふりばかりしているなあ、という人をよくよくしらべてみると、とにかく周囲のスタッフからの評判が悪い。「あいつには任せられない」という空気が感じ取れる。働くふりをする人というのは、働きたくても働かせてもらえていない。それはたぶん無能だからではなくて、周囲に信頼されていないからだ。しかし本人はそういうときに「なぜ俺はこんなに優秀なのに仕事が回ってこないんだ」と憤っていたりする。怒るポイントが違うし、怒る相手も違う。周囲との関係はさらに悪くなっていく。

周囲に信頼されるために必要なのは別にコミュニケーション能力などではない。とにかく、お互いに「仕事上のやりとり」をしているかどうかに尽きる。過去に頼んだ仕事をしっかりやってくれたとか、逆に、過去に的確に仕事を振ってくれたとか、そういうことの積み重ねが、「職場での信頼関係」というものになっていく。プライベートの交友とは毛色が異なる。



問題となる医者には2種類あり、ここまで書いてきたような働かないタイプと、働けば働くほど人に迷惑をかけるタイプだ。前者は仕事をしていないので患者に害はなさそうだが、その分、まわりにいるスタッフたちの負担が増え、現場猫的にトラブルが積み重なっていき、患者に害を及ぼす。これに対して、後者は直接患者に害を及ぼす。ただ、医療というのもなかなかうまくできていて、直接患者に害をなすような問題は基本的に周りから指摘される。その指摘をうけてなおそのままのスタイルを崩さない医者というのも昔はいた。ヤブ医者と呼ばれるような医者は何度間違いをおかして何度周りから糾弾されようともまったく耳を貸さないものだったが、最近そういう人は激減しているように思う。みんな少しずつ繊細になっているのかもしれない。結果として、近年問題となる医者の多くは「働かないタイプ」だ。なぜ働かないのかというと、冒頭の話につながる。



ぼくはそういう「働かない医者」になるのが怖くてワーカホリック気味になっている。忙しい、すなわち周りから信頼されている証拠ですよ、と、強迫観念に返事をするようなムーブで忙しさをそのままにしているのだと思う。ぼくの仕事の忙しさは「周囲からもらった仕事をうれしそうにいくらでもやっていくこと」によって構成される。まわりとの関係が切れて仕事がなくなることが一番怖い。だからやりとりを欠かさないし、自分の体力を超えた量のタスクがあってもどこか「これでまた信頼関係が築ける」と思って少しホッとするところがある。そういうぼくを見ながらインターネットにいる知らない医者がたまに「あんなに働くなんて、ひとつひとつの仕事に対して責任を果たしているとは思えない。多忙で体を壊したら誰かに迷惑をかけてしまうのだからそういうのはよくない」と言うのだが、全く間違ってはいなくてその通りだなあと思うけれども、信頼がなくなって依頼が減って仕事が少なくなってヒマになった自分のほうがしんどいのだ。そっちのほうが体も心も壊す気がする。どっちも壊れるくらいだったら体を適度に削りながら心を保つほうをぼくは選んでしまう。正月にはだいぶ食って太った。これでまた1年くらいは削りに耐えられるのではないかと思ってホッとしている。ホッとすることが仕事においては何より必要なのだ。今日もぼくは忙しさをアピールして自分は周りから信頼されているのだということを言って回っているのだと思う。

2023年1月13日金曜日

病理の話(735) 中間報告という強靱なタスク

このブログは年の瀬に書いている。仕事納めの日だ。今日は一年の中でもそこそこ特殊な業務をやる日。自分の手元からまだ離せないタイプの仕事にどんどん「中間報告」をする日。



病理診断というのは、早いものであれば、依頼書を1分で読み、顕微鏡を5秒見て、診断書を1分で書いて終わってしまう。顕微鏡を覗くのには一般的にさほどの時間を要しない。臨床医との関係が良好ならば多くの事前情報を効率的に入手した状態で顕微鏡をみることができ、そういうケースではチェックしなければいけない項目も明確なので余計に早い。

病理医といえば顕微鏡、みたいなイメージがあるけれど、プロ野球選手が試合の最中に一瞬ずつしかバットを振らないように(だいたいうろうろしたり守備をしたり座ったりしている時間のほうが長いだろう)、病理医もここぞというときに顕微鏡を「一閃」すればよい仕事である。


しかし、その一方で、たった1枚の診断書を書くのに数時間、数日を要することもある。

ひとりの患者から採取された検体をプレパラートにするときには、小指の爪の切りカスくらいの小さな検体ひとつをプレパラート1枚に載せて終わりのこともあれば、SDカードくらいのサイズの検体を載せたプレパラートを50枚以上用意することもある。目を通すべき検体の「面積」はさまざまであり、5秒ではとても見切れないケースがある。

ただ、プレパラートの枚数とか面積だけが負担の源というわけでもない。根本的に患者の病気が「難しい」場合がある。

依頼書を読んだあとに電子カルテを何時間も眺め、血液検査結果やCT/MRIなどの画像所見も念入りにチェックし、患者の複雑な情報を頭に叩き込まないと、「顕微鏡を見るところまでたどり着けない」ことがたまにある。原発不明癌、原因不明の胸腹水、血管炎疑い症例、膠原病疑い症例、造血器系腫瘍疑い症例……。

なんとかプレパラートを見始めても、そういう症例のときは、秒で診断が決まることはまずない。延々と教科書や論文を見比べながら、「免疫染色」を追加オーダーし(施行に日単位の時間がかかる)、外部の病理医に相談し、数日経って免疫染色が仕上がってきたらそれをまた見て……とやっていると、あっという間に1週間くらい経ってしまう。この間、別の仕事をしながらも、頭はなんとなくその患者の病理組織像に持っていかれている。


こうして、「時間がかかるタイプの病理診断」がある。

するとわきあがってくる問題。「診断がつくまでの間、患者や主治医は何を思うか」なのだ。

病理診断がつかなければ、患者や主治医はその分、待たされる。病理診断が決まらないと治療が進んでいかない。

そういうときに病理医はどのようにふるまうべきか。


1週間なら1週間、2週間なら2週間、時間を要する診断のときには、患者を直接担当している主治医とひたすらコミュニケーションしていく。これが大原則であり、病理医の仕事の要にあたる。「こっからは病理でやっとくんで、結果が出るまで問い合わせないでください」みたいな病理医は最悪である(しかしたまにいる)。

今こうして悩んでいます、今ここまではわかりましたがここがまだわかりませんと、主治医と情報を随時共有していくのがいい。ただし、四六時中ばんばん電話したらそれはそれで迷惑なので、あらかじめ「次の情報は○日後に出せそうなので、時間/興味があったら連絡してください」と主治医に伝えておくとよい。

なぜ「途中経過」を伝えたほうがいいのか。

まず、1,2週間の間、患者の状態が変わらないとは限らない。どんどん悪くなっているかもしれない。あるいは、逆に、ひどかったはずの病勢がすっと落ち着いてくるかもしれない。そういったものに主治医は逐一対応している。確定診断ができればピンポイントで病気と戦うための治療をはじめるが、仮に、確定まで至らずとも、「おそらくこの病気である」という情報さえあれば、ひとまずの1,2週間をやりすごすための中間的治療をはじめることができたりする。

また、途中経過を共有することは、主治医や患者にだけメリットがあるわけではない。病理医の側にもメリットをもたらす。なぜなら、経過が変化していくこと自体に診断のヒントとなる情報が隠れているからだ。検体を提出した1週間前にはわからなかったことが、病理診断に頭を悩ませているうちに、臨床の検査でわかっているかもしれない。



というわけで病理医は、診断が確定したら報告書を書くが、「診断がまだ決まっていなくても」主治医と連絡をとる。

で、ここでひとつ落とし穴がある。

年末年始などの長期休みでは、主治医とも、あるいは患者とも、連絡が取りづらくなる。

となれば、この間、難しい病理診断は宙ぶらりんになる。

まったく診断がわかりません、のまま年越しをするというのは、患者にとっても、主治医にとっても、そして何より病理医にとっても、負担が大きくリスクもはらむ。

だから、仕事納めまでに決着がつかなそうな診断には、平時よりもさらに念入りに、「丁寧な中間報告」をしておく必要がある。


「どうがんばっても年内に診断は完遂できないが、現状ここまではわかっている、この治療だったらスタートすることもできるだろう、この治療はいったん待ったほうがいいかもしれない、年明けにこれくらいの時間をかけて診断を終わらせる」

といった綿密なレポートを、仕事納めの日には書くべきなのである。まあ、できれば仕事納めの前日くらいまでに書けるといいのだが、検体作成の都合でどうがんばっても仕事納めの日にしか仕上がらないプレパラートというものもあるので。


患者の病気は待ってくれないのに、カレンダーのせいで診断が遅れる、みたいなことは患者にとって腹立たしいだろうが医療者にとっても大きなストレスである。だからなるべくそのようなことが減るように、医療者たちは長年の経験を駆使して、「年末の遅れがなるべく患者に悪影響をもたらさないように」検査の順番を適宜早めたり、診断のプロセスが年末年始にかからないようにしたりする。それでも年末年始にひっかかってしまう「難しい病理診断」というのは、総数としては多くない、多くないが、必ずある。そのような症例に対し、精魂込めて中間報告を出すのが年の瀬の病理検査室の光景となっている。

2023年1月12日木曜日

ランスライフ

オーディオテクニカのマイクにかぶせるポップガード(息が当たる部分のカバー)、すごく単純な構造……というかまさかの輪ゴムでマイクにひっかける形式で、笑ってしまった。




ちょっとよじれてるけど見逃してほしい。直してもまたよじれるのだ。

最初に同梱されていた黒い輪ゴムは、あっという間に切れてしまった。しばらく普通の輪ゴムで代用していたのだけれど、色味がダサいので、検査室のあちこちを探して黒い輪ゴムを2本見つけて、今このようになっている。もうちょっとやりようがなかったのだろうかと思うが機能的にはたしかに問題がない。


こういう「やりすごし」は人生の醍醐味……とまでは言わないけれど、人生の醤油味……というのもへんか、人生の隠し味……カレーに牛乳みたいなものかもな……なんてことを少し感じる。



ところで大人の社会は雑なやり過ごしに厳しいものである。前にスーツを買い直したとき、ジャケットのボタンをきっちりとめていれば見られないだろうと思ってしまむらで見つけた1000円しないベルトをしていたら、同席者(医者)に「ベルトもちゃんとしてください」と言われたので心底おどろいた。これってロングスカートはいてたのにパンツ見られるみたいなものじゃないですか、と反論(?)したら、ぼくの例え話を完全にスルーした上で、いや、そういう細かいファッションに気を遣ってない人ってなんとなく見てわかるんで、ベルトとか目が行っちゃうんですよねと、未必の故意で痴漢しましたみたいなテンションでとうとうとぼくのファッションをセンスごと殴ってくるので、怖くなってニフラムを唱えたけれどぼくよりレベルが高かったので消えてくれなかった。ザラキも効かなかった。

その人はかつて、しょっちゅう飛行機に乗って用もないのに海外に行くのが趣味であり人生だと言って、英語の通じないくらいの外国で現地の医者とワインを飲みながら写真をインスタにあげ、「世界のどこにいても仕事はできるから」、「昨日はパリのカフェで論文の査読をした」、「今日はローマの高級ホテルから研究費の申請を出した」と、ノマド的にバリバリ仕事をしていた人で、ほんとバイタリティのある人だな(それにしてはなかなか偉くならないな)と思っていたのだが、感染症禍になって海外に行けなくなるやいなや、

「世界はすっかり変わってしまった。」

みたいなクソキャッチコピーを毎日インスタに投稿するようになり(Facebookはもっとすごいと思うのだけれどあいにくFacebookの友人申請は消去した)、それでいて「昨日は論文の査読をした」「今日は研究費の申請を出した」と結局やっていることは大してかわらなかったりもする。お前の世界べつに変わってないんじゃないの? と言いたかったけれど、その人に言わせると、「私はその場を適当にやりすごすようなことはせず、いつも自分の最大の攻撃力で仕事をし、最高のコミュニケーションをとり続ける」のが信条なのだそうで、つまりは常時全力で生きていると言いたいらしい。そのくせ「年間何十万マイルも貯まってさすがに使い途がないw」みたいな生産性ゼロのクソツイートを平気で垂れ流しているので全力でそれかよと少しかわいそうにもなるのだけれど、ともかく、「やりすごさないタイプ」なのだという。

そういう人のもとには似た人ばかりが集まってきて、どんどん「やりすごさない系濃度」が高まり、結果的に浸透圧がすごいことになって、ある意味では水分をめちゃくちゃ引き込むグリコサミノグリカンもしくは尿素クリームみてぇな感じでいわゆる求心力を発揮しているのだけれど、ぼくから見るともはやその人は尿素というより尿細管に近いところがあって、つまりはおしっこを作り出すシステム、ナトリウムや水分ならぬお金や名声をいったん手放すのだけれど同じ界隈ですぐに再吸収して、結局クラスタの外にはもらさず内側にため込んでいく、そのためにATPを延々と使い続けているみたいな感じにも見える。もちろん、そういうシステムでばりばりやっている人がいるからこそ「世界」に適度な量のお金が流れていくし流れすぎることもないのだろうなあと感心しつつも、しょんべんみてぇな人生だなと少し笑ってザラキーマをぼそっと唱えてみたりもする。効かない。


必要なのはアストロンだと思うのだ。戦闘の切り札にはならないし、何かが少し好転することもないのだけれど、なんとなくその瞬間をやりすごしているうちに、「敵」のMPが少し減っている、みたいな姿勢。ベルトは買いました。

2023年1月11日水曜日

病理の話(734) 柱となるかネコとなるか

体の中にある細胞にはいろんな種類がある。形はさまざま、持っている道具(タンパク質や糖脂質など)もいろいろだ。粘液や漿液(しょうえき)と呼ばれる液体を細胞の外に分泌するタイプの細胞、ホルモンを血管の中に分泌するタイプの細胞など、仕事のしかたも人(細胞)それぞれである。


で、そういう、いかにも人が道具を使って何かを生み出したり加工したりするようなタイプの「仕事」とは別に、多くの細胞に共通する働き方がある。それは「柱」や「壁」になるということだ。


重力があり運動量がかかる状態で暮らす我々人類は、いかにおいしいものを食べたからとて、重力でほっぺたを地面に落とすことがあってはならない。ちょっと走り出したら首と胴が離れました、もだめだろう。「互いにくっついて、しっかりと形状を保つ」という働きが多くの細胞に搭載されている必要がある。


細胞はある程度の硬さを持っていなければいけないということだ。これを実現するために、細胞骨格と呼ばれる物質がさまざまな種類の細胞に認められる。たとえば上皮細胞というタイプの細胞には、サイトケラチンというタンパク質が含まれており、細胞のかたちを強固に保つ役に立っている。


一方で、すべての細胞が硬く構築を保っているというのも不具合をまねく。たとえば線維芽細胞という細胞は、体のどこかにスキマが空いたらそれを補修するためにスルスルと移動して、線維という名の「土のう」を作って穴埋めする。こいつは狭いところでもおかまいなしに移動できることこそが存在意義となる、言ってみればネコ的な柔軟さこそが必要であり、強靱な細胞骨格はむしろジャマになるからサイトケラチンは持たない。かわりにビメンチンというタンパクが細胞の形をそれなりに整えてくれる。


サイトケラチンもビメンチンも、どちらもチュウ関係フィラメント……違う、それでも医師の持つPCなのか、しっかりしてくれ……中間径フィラメントというタンパク質だ。細胞骨格を担当するという意味ではいっしょなのだが、細胞にしっかりとした「柱」であってほしいのか、それとも「ネコ」的なふにゃふにゃであってほしいのかによって、骨格部分のタンパク質を変えているということである。


これらの細胞骨格を一切もたない細胞というのは少ないから、病理医は中間径フィラメントなどの細胞骨格担当タンパクに対する免疫染色をもちいて、その細胞が「本来はどういう働きをしたいやつなのか」をあきらかにすることができる。サイトケラチンが染まれば上皮系、ビメンチンが染まれば間葉系、といった感じで。

もっとも、ビメンチンが染まる細胞なんていっぱいあるので(線維芽細胞だけではなく、血球系もそうだし、脂肪細胞も染まるし、神経だって筋肉だって染まるのだ)、骨格だけで細胞の細かい差を見極めようというのもまた無理な話だ。レントゲンだけで善人と悪人を見分けることが難しいのと似ているかもしれない。


2023年1月10日火曜日

謝罪

「ニセ医学の人」とTwitter上でバトルすることで、相手の炎上商法に付き合ってしまうのがイヤだ、という意味のことを、ぼくはずいぶん長いこと言ってきた。

あるいは、やさしい医療情報を丁寧に発信することをせずに、ひたすら世のあちこちから不適切な医療情報を見つけてきてはこきおろす、みたいなタイプのツイバトル医療者から距離をとってきた。

しかし、今になって、少し思うことがある。



最近、「根拠の乏しい医療を声高に語る人」や、「暴力的な言動で標準医療を否定する人」を眺めていると、どうも、そのような人たちの一部は、過去に医療によって大きく傷つけられた経験があったり、あるいは医療に関連することで家族や大事な知人とトラブルになったことがある人のようだとわかってきた。

全員ではないと思う。

本来、個別に見ていかなければだめな話だ。

しかし、個別に見るのはゆっくりやるとして、全体をざっと眺めてみると、少なくとも一部には、過去につけられた傷、あるいは今抱えている傷によって強い人間不信に陥っている人が混じっている。

ぬぐいきれない医療への怒りが、ニセの医学によって医療体制を攻撃するためのモチベーションになっている。

そういう人たちのアカウントのホームを見に行き、ツイートを眺めると、医療にかぎらずあらゆる対話が攻撃によって組み立てられていたりする。誰かを殴ったことによる作用と反作用を使って、もっぱら意思疎通を試みている。

対人関係のコミュニケーションを怒りによって駆動している。



そういう人たちをぼくらが一斉に、「迷惑だなあ、いかに傷があるからって周りに攻撃性を向けられてはたまらない」という目で見て、距離をとれば、その人たちは孤立していくことになる。

しかし、どうも、攻撃的な人たちは今のところ孤立していない。

なぜか?

それは、一部の攻撃的な医療従事者が、彼らに対して「暴力で返す」というタイプのコミュニケーションを行っているからではないかと思う。



武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いを「両軍のコミュニケーション」と呼ぶなんてとんでもないことである。なにせそこでは人が死んでいるのだから。しかし、最良の形でのコミュニケーションではもちろんないにしろ、戦争もまたひとつのコミュニケートのかたちだ。結果的に互いの断絶をより深める結果になろうとも、殴り合っている間はそこに、差し出すモノと受け取るモノとの交換が成り立っていると、(残酷にも)言うことができる。



ぼくはかねてより、

「ニセ医学の人たちと真っ向から殴り合うなんてなんの効果もない、彼らをそれで黙らせることはできないし、むしろ周りに『こんなニセ医学もあるんだよ』と広告するような逆効果すら生まれている」

と言ってきた。この意見は今でも変わらない。

しかし、この意見とはまったく別の観点で、ニセ医学 vs 標準医療の戦いにはある意義があるのかもしれないと思う。

それは、「ニセ医学の人たちを本当の意味で孤立させない」というものだ。

攻撃的な人への、ケア。

多くの人びとを不適切な医療に巻き込み、公衆衛生をぐらつかせ、社会的には犯罪とすら言える行動をしている人たちを、一部の医療者たちは殲滅しようとして毎日ボコスカ殴りかかっている。しかしそれがこれまで実を結んだことはない。近藤誠さんもとうとう自説を保ったまま鬼籍に入った。あれだけわかりやすい悪の権化すら医療者たちは倒すことができなかった。

でもその無益な(とぼくが断言していた)戦いによって、じつは「ニセ医学の人たち」は殴り合いというコミュニケーションを続けることができ、彼らは真の孤独に追い込まなくて済んだのではないか、という、極めて残酷な予想を、ぼくは頭の中から追い払うことができないでいる。



世界と没交渉になることは怖い。人間の尊厳にかかわることだ。

ワクチン忌避を煽り、検査、診断、治療に対する不適切なデマを流し続ける人であっても人間だ。どれだけ社会に悪影響を与えた人であっても、社会から「ロックダウン」していいとは、今のぼくは思わない。だったら一部の、攻撃していることで自分の脳が喜ぶような器質を有する医療者たちの戦いは無駄ではなかったのではないかと考えることができる。ぼくは攻撃的な医療者たちに謝らなければならない。あなたがたのおかげで、反科学、反医療的な人びとをケアすることができたのに、これまでずいぶんと失礼なことを言い続けてしまったことに対して。そして感謝しなければいけない。あなたがたのケンカのおかげで、ニセ医学の人たちも、最低限度の生きる権利を確保できたのだということに。

2023年1月6日金曜日

病理の話(733) どの物語を用いるか

かつて、フレンチ・パラドックスという言葉があった。


”フランスでは動物性脂肪の摂取量が非常に多いのに、心血管系イベントによる死亡率が低い。これはパラドックス(矛盾)だ!”


鼻息が荒い。

今にして思えば、心血管系イベントを語るにあたってリスクが「動物性脂肪」だけというのはずいぶん少ないな、と、目を細めて眺めてしまう。でも当時は、医療の専門家たちでさえもこのような「雑なストーリー」におおまじめに悩んでいた。



ある病気にかかる、あるいはそれで死ぬという現象は、1,2個のファクターで左右されるものではない。

「アルゼンチン代表はメッシのおかげで優勝した」と言うのはまあファン心理として許すにしても、「アルゼンチン代表のゴールキーパーがボールをとめたのはメッシのおかげだ」はさすがに言い過ぎだと思うだろう。

言うまでもなく、アルゼンチン代表がワールドカップで優勝したのは、メッシをはじめとする多くの代表選手、スタッフ、協会関係者、そして国民などの無数のファクターががんばったり圧をかけたりした結果であり、かつ、そこには絶対に運もあった。

なのに「ぜんぶメッシのおかげ」というのはそこそこ暴論だ。

それと一緒で、「心血管系イベントが増えるのは動物性脂肪によるものだ!」と考えるのも短絡である。ほかにもやまほどファクターがあるのだから。

でもこの短絡的なストーリーを、おおまじめに研究した人たちがいっぱいいた。荒唐無稽な物語であっても、「なぜ?」をつきつめるのはよいことだ。しかし、短絡的なものの考え方のままで突き進むと、結論もしばしば、ねじまがる。



かつての研究者たちは考えた。

”フランスでは動物性脂肪の摂取量が非常に多いのに、心血管系イベントによる死亡率が低い。パラドックス(矛盾)だ……なぜだろう? フランス人だけが、なにか、心臓や血管にいいことをしているのではないか。フランスの特徴……フランスのアイデンティティ……フランスの誇り……。そうか! 赤ワインだ!”

もはやギャグでは? とツッコみたくもなるが、くり返すけれども研究者たちはおおまじめである。ファクターが無数にあるということを考慮せず、かってに作り出した虚構のパラドックスに慌て、それを単一ファクター「赤ワイン」で解決しようとした。

まず、何人かの研究者が、「赤ワインを適量飲むと体にいい」というデータを提出した。フランスは勢いづいて、国をあげて、大規模な医療統計プロジェクトに取り組んだ。「赤ワインを飲む人」と「赤ワインをあまり飲まない人」の 2 群を比較する観察研究を行ったのである。

でも、そこはさすがに研究者。「赤ワインを飲む人の側に、過剰に健康な人が含まれていないかどうか」みたいな偏り(バイアス)を、慎重にとりのぞくことにした。街からランダムに「赤ワインを飲んでいる人」を連れてきて研究をしてはだめ。たまたま選んだその人たちだけにあった特有の事情が、心血管系イベントになんらかの影響をおよぼしているかもしれない。

年齢・性別など多くの因子について、きちんと「標準化」を行った。片方の群だけ年齢が妙に高いとか、男性の量が妙に多いとか、喫煙者が多いといった、といったバイアスをできるだけ減らした。

そして……大規模なデータ解析の末に「赤ワインを飲んでいるほうが、どうやら健康らしいぞ!」というデータが出た。お国もお酒会社も大喜びである。

でも、周囲がお祭り騒ぎで国の威信(赤ワイン)を褒めそやす中、本当の研究者たちはそこで立ち止まろうとはしなかった。いくつもの別の統計を確認していった。すると、研究によっては、どうも、赤ワインの効果はあまり大きくない……というか、別に効果はないのでは? というデータもけっこう出てくる。ただその結果はけっこう長い間、あまり知られなかった。

なんとこのときの影響は今にも及んでいる。赤ワインのポリフェノールが体にいい、レスベラトロールが寿命を延ばす、みたいな話、聞いたことないだろうか? これらはすべて、当時の研究に端を発したものだ。



その後、ある研究者が、ひとつの事実に気づいた。「赤ワインをたしなむ人」は、「赤ワインを飲まない人」に比べるとちょっとだけ年収が高いということに。

年収?

そんなものが死亡統計に影響を与えるのだろうか……と、なかば半信半疑ながらも、データを再整理した。年収による差が出ないように、母集団を調整したのである。すると、赤ワインを飲む人も飲まない人も、心血管系イベントの発生頻度は変わらなくなってしまった。

こうして、「赤ワインが健康にいい!」というストーリーは、(統計データを基に組み上げたはずだったが)どうやら信用してはいけないらしいぞという結論が遅ればせながら世に広まった。



直感的には信じがたいかもしれないが(あるいは逆にめちゃくちゃ納得されるかもしれないが)、血圧とか脂質などという血液のデータをしらべるよりも、「年収」のほうが健康を繁栄している場合がある。

残念ながら、かつての医療研究者たちは、被験者に年収なんて尋ねなかった。でも、年収こそは、健康に影響を与える大きな、しかも複合的なファクターだった。年収が違うと、「赤ワインを飲んでいる時間以外の行動」に差が出る。おつまみとして健康によさそうな食品を食べているかどうか、ストレスが日常的にかかっているかどうか、職場環境の日照条件や空気のきれいさ、家族や周りの人びととのコミュニケーションが良好かどうか……。こういったファクターを一切アンケートで聴取せずに、「赤ワインを飲んでいる側と飲んでいない側、ワイン以外のファクターはぜんぶ揃えておきました」なんて、言うのは簡単だけど実際にはすごく難しい。

結局、当時の研究者たちは、「年収の差を考慮にいれないデータ」を大量に用いて統計をとり、「赤ワインは健康にいいらしい!」という不適切な結論にたどり着いてしまった。でも、まあ、個人的には、当時の研究者を責めることはできないなあとも思う。や、そりゃ、言われないと、わかんないよな。

医療系の研究をする際のアンケートといえば、タバコは吸っていますか、運動はしていますか、昔なにか大きな病気をしましたか、家族に病気の人はいますか、あたりが定番である。こうして聞き取った結果を基に統計処理を行う。しかし、そもそも、このような「yes or no」の質問だけで、その人の暮らしすべてが聞き取れるだろうか? ここが統計の難しいところだ。


フランスの悲劇は、おそらくもうひとつある。研究者たちも、国民も、どこか、「赤ワインが健康によかったらいいな……」という希望をデータに託してしまった。本来であれば、「赤ワインだけで健康が統計学的にぐっとよくなるなんて、何か、ほかにファクターがあるのではないか?」と疑ってかかるくらいがちょうどいいのだけれど、「やったあフランスの誇り! 赤ワインが買った!」となって思考停止してしまった。


自分たちが選び取りたかったストーリーを統計の中に見出してしまったことが、フレンチ・パラドックスをめぐる研究失敗のひとつの原因だったとぼくは考える。




バイアスをとりのぞくにはかなり専門的な知識が必要だし、何より手間がかかる。現場から出てきたデータはすべて貴重なものだが、そのデータが合っているか間違っているか以上に、「それをどう解釈するか」にあたっては本当に慎重な姿勢と透徹な知性と冗長な時間が必要になる。「フレンチ・パラドックスの誤解決」によって世界はそのことに気づいた。しかし、それをすぐに忘れてしまうのもまた世界である。

人は、「自分の都合のいいようにデータを読み解く」という楽観性によって、このつらい世の中をやり過ごしているのかもしれない。研究者か非医療者かを問わず、だれもが。

2023年1月5日木曜日

最近のドラクエは道具袋にも名前を付けられる

職場で使っている膝掛けがプーさんなのでそろそろ買い換えたい。プーさんが「HI YA !」って言ってる。ひや? 日本酒か?


買い換えたところで誰かが見るわけでも評価するわけでもないのだけれど、これはぼくが毎日見る。そして毎日すこしずつなんらかの形で心を微弱に動かされている。人間はひたすら脳の微調整をくり返しながら生きていくので、毎日「HI YA?」と些細な刺激を受け続けていれば10年後にはなんらかのかたちで変成が起こっているだろう。プーさんによって。それはどうもあまりうれしいことではないんじゃないかなと考える。




手袋の毛玉、ニットのほつれ、靴紐の黒ずみ、そういったものも、もはや誰も見ていないとしても自分の五感に何かの信号を送り続けているので、だから、買い換える。そうやって購買行動を正当化する。


とかくいろいろなことを正当化して暮らしている。こうするには理由があるんだ、これを選んだからには論理があるのだと、誰に告げる必要もないケースであっても自分の中にはたいていなんらかの言い訳を用意している。そういう種類の臆病さと同居し、そういう種類の卑怯さに餌をやって飼い慣らす。




まだ正式に決まった話ではないのだが、ある有名な人と対談をしませんかという企画をもちかけられて、直感的に「うわぁ楽しそう」と思って、ひとまず近しい関係者の間ではやりましょうやりましょうということになった。もちろん今後の感染状況やらイベントスペースの都合やらによって左右されるのだけれど、たぶん実現するだろう。このタイミングでふわりと思い出したことがある。かつてぼくは渋谷パルコのイベントスペース「ほぼ日曜日」で写真家の幡野広志さんと対談をさせてもらった。あのときも会場に向かう道すがら、「ぼくは今日、あそこで対談をしていいんだ」という理由をいくつも考えて脳内の道具袋にしのばせておいた。中盤のきついダンジョンに突入する際に、「いのりのゆびわ」を預かり所から受け取って道具袋に大事に入れておくように。MPが足りなくなったときに備えて、あるいは、実際に使わないにしてもお守りのように。


稚内に本を売りに来た浅生鴨さんに会いに行ったときも、オンラインイベントでZoom越しに壇蜜さんと話したときも、ウェブコンテンツの取材で小籔千豊さんと出会ったときもぼくは、誰にたずねられたわけでもないのに「そうすることになった理由」を綿密に用意しておいた。実際、誰にもたずねられなかった。世の中の誰がどこで何をしていたからといって、お互いにそれに因果の調査などいちいちしない全放置時代。ぼくが何かの理由を語らなければいけないことはない。ぼくは何も説明しなくていい。わかっているのに、それとは別に、おそらくは自分の微調整のために、自分で自分のシグナル伝達経路を解き明かすようにぼくは行動の理由を用意して袋の中にストックする癖が止まらない。

2023年1月4日水曜日

病理の話(732) イチゴ大福を考えた人は天才だと思う

患者の体の中からとってきたものをプレパラートに加工する。それを顕微鏡で見るのが病理医の仕事だ。


この「プレパラートに加工する」の部分は臨床検査技師という専門職が行う。むかしの病理医はプレパラート作成をできる人がいたというが、ぼくはできないし、ぼくと同世代の人でプレパラートが作れる人もほとんどいないだろう。高度な技術なのでそこは分業した方がいいのである。素人が作ったプレパラートは汚くて見づらいし……。


なぜ素人が作ると汚くて見づらくなるかというと、もちろん、「熟練の技術」がいくつか使われているからだ。


髪の毛の何倍も薄い、4 μmという薄さに組織を切る「薄切」と呼ばれる作業は、カンナがけのような工程で行われる。このカンナ=ミクロトームをうまく使うのが難しい。パラフィンというロウに埋め込んだ組織をミクロトームというおばけカンナでシャッ、シャッと切って、ぺらりとはがれてきた薄い切片をピンセットでそっとつまんで水の上にうかべる。すると水の上で薄い切片がハラッ……と少し広がる。ここがくしゃっとなると台無しだ。そのあと、ガラスにそっと拾い上げて、温めながら少し乾燥させる。和紙づくりを思わせるような機材にかこまれて、マクロとミクロの接点みたいな部分で標本作製が行われる。


さて、ちょっと想像していただきたいのだけれど、硬いところとやわらかいところが混ざった検体をシャッと切るのは大変なのだ。フワッフワッのシュークリームの上にブドウをひとつぶのせ、ブドウとシュークリームをいっぺんにナイフで真っ二つに切ることを考えて欲しい。ブドウに刃物をのっけて力を入れたらシュークリームがべちゃっとなるであろう。こういうときはまずシュークリーム側から切っていって、シュークリームを切り終えたあとにブドウに力を入れればいいじゃん、みたいなことを、我々はモノを切るときに無意識にやっているのだけれど、これ、ブドウがシュークリームの上にのっかっているからできる技であって、ブドウとシュークリームが交互に、ミルフィーユ的に混じっていたらそうもいくまい。ていうかブドウとシュークリームって味の組み合わせがよくない。なんでブドウにしたんだ。関係ないけどイチゴ大福を考えた人は天才だと思う。

組織片もただそのまま切るだけだと、硬いものと柔らかいものとが入り混じっていたときにうまく均一に切れない。そこで、先ほど少し話したパラフィンというロウに埋め込む。このとき、ロウは組織の周りだけではなく、組織内部にも浸透させておく。ロウ人形状態にするのだ。そうすれば、組織片は中からも外からもロウに支えられて、わりと硬さが均質になるので、切りやすくなる。


この「組織片をロウ人形化する」際に、さまざまな液体を使用する。パラフィンを組織にしみ込ませるにあたって水分が多いとジャマなので、まずはアルコールに付けて、検体の中の水分をとりのぞく。しかしアルコールもパラフィンにとってはジャマなので、別の有機溶媒を用いて今度はアルコールをとりのぞく。だったらなんでアルコール使うの! とツッコミたくなるが、この順番でやらないとうまくいかないのだ。念入りに複数の溶液に浸ける過程で、組織の中からは水分や油分が浸みだし、かわりにその部分にパラフィンが入り込んでいく。マニアックな豆知識だが、プレパラートを顕微鏡でみたときに、丸い細胞膜につつまれた泡のような空隙があったら、それはもともと脂肪があった場所である。アルコールやキシレンに次々と浸しているうちに脂肪が流れ出してしまったところが空間として白く残るのだ。


化学の実験の手順みたいなことを延々と読まされて朝からうんざりした人もいるかもしれないが、病理医はこういう内容を覚えておかないと、顕微鏡を見たときに、「ここなんで穴が空いてるんだろう? そうか! この病気は細胞を穴だらけにするのか!」みたいなとんちんかんなことを言い出す。顕微鏡で見えているものは、プレパラートを作る過程で本来の組織がすこしだけ成分変化したものだということを忘れてはいけない。「ワクチンを打ったあとの組織を顕微鏡でみたらここに血栓がこんなに!」という写真をインターネットで見つけてどれどれと見に行ったら血栓ではなく動脈硬化の石灰化、みたいなことがあった。ただ見ればいいってもんじゃない。理屈を知らないと意味が浮かび上がってこない。見たいように見るというのは不誠実だ。本来の姿を脳内で補完しながら見てこその顕微鏡なのである。