2023年1月19日木曜日

病理の話(737) 文学的な診断

病理診断報告書に、「文学的な文章」を書いてはだめだ。特に、読む人によってどのような意味にも取りうることを書くのは最悪。だって、診断だから。

ある領域の専門である主治医Aはがんだと思えるが、違う領域でがんばっている主治医Bが読むとがんじゃないように思える、みたいな診断文を書けば、患者は路頭ならぬ病棟に迷ってしまうだろう。

定義から定理を導くように。数学的に。世界の誰が見てもその意味にしかとれない、という診断書を書くことが、病理医の責務である。



ただし……じつは、「読む人の立場によってどうとでもとれる病理診断」を、あえて書くこともある。これは高等技術であり、少なくとも日常的にやるべきことではない。

ある領域での専門性を内外に認められている病理医が、深い洞察のもとに、限られたシチュエーションで、そのような玉虫色のレポートを記載することがある。

「含意のある病理診断」、「多義的な病理診断」。

それはどういうときに書かれるのか?




病理診断は、今の患者がどんな病気にかかっているかという「現在」を読み解くツールであるが、同時に、その患者がこれからどういう経過をたどるかを予想する、すなわち「未来」を読み解くツールでもある。

未来予測。

天気予報みたいなもの。

正答率100%ということはありえないにしろ、ゴリッゴリに極めれば、明日の天気はもちろん、1週間分くらいの天気はほぼ必発で当てることができる。病理診断もこれに近いものがある。数年ぶんくらいの予測ならかなり精度高く行うことができる。

ただし、病理診断が天気予報と違うのは、天気予報が雨を予測したからといって、雲を吹き飛ばすなどの「対策」は打たない(せいぜい傘を持つくらいのことしかできない)のに対し、病理診断で「がん」とついたならば、そこで臓器を摘出するなどの「おおがかりな対策」が取られることである。

治療が施されることにより、患者の運命は変わる。予測していた未来がやってこないように細工をするのである。むしろ、予測した未来(たとえば、死)が起こらないほうが、患者と医者にとってはよいことであろう。

ただし、予報の結果に介入すると、少々困ったことも起こる。

未来予測の答え合わせができないのである。




今から100年くらい前は、がんと言えばイコール死の病であった。発見したところで治療法はなかった。がんと言う病気は、転移し、患者を死に至らしめるもの以外には存在しなかった。診断はシンプルであり、「転移」や「死」を見つければよかった。

しかし、その後、診断方法や治療方法が進歩し、「がん」でも人が死ににくくなった。すると、診断の意味が少しずつ変わりはじめる。

たとえば、早期がんや表在がんという概念。

まだ転移していない、あるいは転移していたとしてもがんのごく近くにしか転移していない時点で、がんのある部分だけを手術などで切り取ってしまえば、患者はある程度の確率で生き延びる。いずれ死ぬという運命を変えることができる。

このとき、「がん」という診断は、昔のそれとはだいぶ意味が変わっている。「転移し、人を死に至らしめる病」から、「転移するかもしれない、いずれ患者が死ぬかもしれない病」になる。

「かもしれない」が入った。

おわかりのように、これが入ると入らないとでは雲泥の差だ。



さらには、粘膜内がんとか前がん病変などと言われるもの。これらはもはや、かつての「がん」の特徴を一部しか備えていない。

「転移するかもしれない、いずれ患者が死ぬかもしれない」どころか、「今すぐには転移しないし、患者が死ぬこともない」のである。

「がん」とは別モノではないかと言いたくなるだろう。

しかし、治療せずに放置しておくと、数年後に転移するかもしれないし、数年後に死ぬかもしれない。



長年にわたって、さまざまな患者のデータが収集され、「今はまだがんっぽくないけれど放置しておくとそこからがんに成長する病気の特徴」が割り出されている。病理医はそのような特徴を慎重に見出し、「がんだ」と診断する=放置しておけばいずれ患者を死に至らしめると「予測」する。

でもその予測の成否を確かめるのはなかなかにして難しい。なにせ治療で取ってしまうのだから。放っておけば患者は数年後、数十年後に死ぬかもしれないとなれば、放っておく理由はない。しかしとってしまえば答え合わせができない。



このような病気を「がん」と診断することにはかなりの根拠を必要とする。膨大な量のデータを元に統計学的な解析をして、今目の前にある病気と「同じような形状」をした病気が過去にあり、それを放置したらどうなったかというのをたくさん集めてきてはじめて、まだ転移も浸潤もしていないような細胞をがんと言い切れるようになる……いや、どれだけ集めても、言い切れないこともある。

そういう「言い切れなさ」を、どのように病理診断に書き留めるか。

ひとつのやりかたとして……「がんである確率がこれくらいある。がんじゃないかもしれないけれど、放置しておくと気持ち悪いから、その病気はとってしまったほうがいいよ」という考え方。患者にも納得されやすい。不安なら、がんであろうがなかろうが、ぜんぶとってしまいましょうか。ああそうですね、お願いします。

でも、このやり方がいつも許されるわけではない。胃にできたポリープ状の病気をチョンと摘まんで取るといったって、その治療のせいで血が出るかもしれないから、十分に気を付けてとらなければいけない。まして、たとえば皮膚や乳腺にできた病変を、「不安だからチョンととりましょう」なんて言ったって、だいじな体に傷が付くのを許せない人だっているだろう。がんならまだ仕方ないと言えるかもしれない。でも、がんでなかったら……? とらなくていいものをとって、それで傷が残るなんて……。


このようなケースで必要なことは、未来予測という「不安定な、確実性の低いもの」を、がんかがんでないかという二択問題に落とし込むことをせずに、「どういう根拠で、これがよりがんらしいのか、あるいはがんっぽくないのか」をきちんと書き留めるということだ。病理医ががんだと言ったからがん、みたいな雑な議論ではない。主治医も、患者も、どれだけの資料がこれまでにあり、どのような根拠があってこの病気をがんだと言うのか、あるいはがんでないと言うのかをきちんと理解するべきなのである。

そして、あらゆる証拠をもとに、たとえば令和元年には「ごく早期のがん」と診断されていた病気が、その後さらにデータが増えて解析を重ねた結果、「どうもがんとするには根拠が足りない」と判断されることもある。

細胞の「顔つき」は、令和元年だろうが、令和5年だろうが、変わっているわけではない。しかし、積み上げていった医学的なデータが違う方向を指し示すことはありうる。

そのような、狭間の病気。

端境にある病気。

この類いの病気に、確定的な診断をドンと付けることをせずに、「文学的な病理診断」を延々と書き連ねるタイプの病理医は実在するのである。どうとでも解釈できるという意味ではない。どの時点で誰がどうやって見るかによって未来予測が変わりうるという「事実」をそのまま書くということだ。


くり返すがこれは高等技術であり、少なくとも日常的にやるべきことではない。かつ、それを書いた病理医と、読む主治医、さらには患者との間の信頼関係が完全にできあがっていないとだめなのだ。「病理医の独りよがり」で勝手にレポートを「文学化」したところで適切な医療にはつながらない。文学を用いたコミュニケーションには文脈の共有が必要なのである。