2022年9月30日金曜日

病理の話(701) 見えないものを見ようとして

病院ではさまざまな検査が行われる。血液検査、心電図、そして各種の画像検査などだ。

いずれも病気を見出し、病名をつけ、病気がどれだけ広がっているかをしらべるのに非常にべんりである。


医療機器の進歩はすばらしい。たとえば、超音波検査はすごいぞ。「エコー検査」と呼んでもいい。妊婦さんのお腹にあてて赤ちゃんのようすを調べたりできるので、ご存じの方も多いだろう。

超音波の利点はいろいろあるのだが、まず、「リアルタイム性」がいい。CTやMRIだとまずは患者さんを寝かせて写真をいっぱい撮り、あとで専門の知識を持った人が複数の写真をじっくり見て病気を見つけ出す。一方で超音波は、検査担当者が自分で超音波の出る機械(プローブ)をお腹に押し当てて、動かすとその様子がすぐに手元のモニタに映るから、リアルタイム性が段違いだ。患者と医療者が会話しながら検査することも可能であるから、「どこが痛いか」を確かめながらその部分を見ることができる。おまけに、解像度が高くて細かい構造までよく見える。

さて、この超音波検査、音を物体にあててその反射を見るものなので、音の性質を利用していろいろと特殊な現象をみることが可能である。

たとえば、救急車のピーポー音の変化で有名なドップラー効果を用いて、体内の血流がどっち向きに動いているかを検出するドップラー検査と呼ばれる機能が有名。これはつまり、「流れ」を見ることができるということだ。

ほかにも、音波の散乱や屈折などをさまざまな形で検出することで、物体の「硬さ」や「粘性」を推しはかることもできる。メーカーごとに、研究者達が技術の粋を尽くしている。

音波の性質を知り抜いた音響工学者たちが、超音波検査機器の開発を進めてくれたからこそ、可能になった技術だ。

臓器や病気のシルエットだけでなく、流れ、硬さ、粘性といったものを測定できるのが、超音波検査のよいところなのである。



ところで、「流れ、硬さ、粘性」はいずれも、病理診断が苦手とするものだ。つまりは弱点。

病理診断は、患者から摘出してきた臓器を直接目で見て、ホルマリンという薬剤で固定して、それをナイフで切り出して、プレパラートに乗せて色を付けて観察する。お腹の中で血が巡った状態の臓器を、リアルタイムで見ることはできないわけだ。となると、血液の流れはどうやっても観察できない。

たとえば、渋谷のスクランブル交差点を「写真に撮る」と、人びとのダイナミックな動きを直接見ることはできなくなるだろう。それに似ている。


「いや、渋谷だったら、人びとの姿勢や顔の方向を考えれば、人びとの動きくらいだいたいわかるよ。」


という人もいるだろう。実際、病理医も、すでに動きをとめてしまった細胞を見ながら、「こいつらはこっちに向かって配列していそうだな」「この血管の中身はこっちに向かっているだろうな」なんてことを解釈する。


しかし、やはり動画ほどはわからない。人びとが混雑の中をどうやってすり抜けて歩いているか(※粘性みたいなもの)は、やはり、動画で見てはじめてわかる……まあ、超音波検査ではかる「粘性」はそういうのとはまたちょっと違うんだけど。




病理医は、「直接見ることができないものを推理する」ということをする。たぶんこの領域には水分量が多いな、ということを、周りに出現している炎症細胞や間質の成分の比率などから推しはかったりする。見えません、わかりません、だけで片付けようとはしない。

しかし、それに限界があるということもまたよく知っている。だから優れた病理医は、病理組織プレパラートの情報だけですべてを決めようとせず、他の医療者が検査をした結果を診断に盛り込むようになる。内視鏡、CT、MRI、そして超音波検査から得られた、「その検査ならではの情報」を用いることで、病理医の診断もまた豊潤になっていくのである。見えないものを見ようとするならば顕微鏡ばかりのぞきこんでいてはだめなのだ。

2022年9月29日木曜日

ほほを赤らめる必要はない

積み立てNISAを調べようと思ってはや数年経つ、さっきとうとう重い腰を上げて検索したのも結局はNASAについてだった。NASAの日本語訳はアメリカ航空宇宙局と米国国家航空宇宙局の二通りがあるということをはじめて知った(Wikipedia情報)。


ふるさと納税についても長年「やったほうがいい」と言われ続けていたが、はじめたのはつい2年前だ。やってみたらこんなに便利なものはないとすぐにわかる。乾燥スープやトイレットペーパーなど、何もしなければ税金として払って終わりの部分が衣食住へのプチサービスになって返ってくるのだから福祉的ですらある。もっと早く始めていればよかった。


何に付けてもそうである。良いものなんだからすぐにやればいい、と言われれば言われるほど、動き出しがめんどうだと感じてなかなかはじめようとしない。慣性の法則によって、止まっている物体はそのまま泊まり続ける。宿泊すんな、ATOKはもうちょっと適切な漢字変換についてよく考えてほしい。さておき、止まっているものを動かすのは大変なことなのだ……自分のことだけど。



人に(というかぼくに)行動を起こさせるにあたっては、「おすすめ」だけではだめなのだろう。ぼく自身の感性ならぬ慣性を思いながら考える。ずっと座ってパソコンを叩き続けていたある日、腰がどうにも痛くなって、やばい、このままだと仕事が続けられなくなると思って、やにわに太もものストレッチをはじめ、寝る前にも念入りに前屈やら何やらやるようになって、3週間くらいで腰痛が引いて事なきを得た、みたいな場合、行動のきっかけとなったのは「ストレッチをすると体にいい」という前向きな情報ではなく、慣性的静止状態をかき乱すベクトル(=腰痛)に対する反作用のほうだ。それくらい、自分からは動かない。実際に損が発生してから、やれやれしょうがない、とばかりにマイナスをゼロに戻すためのムーブにとりかかる。手遅れという言葉が頭をよぎるが、即時対応のカスタマーサポートと呼べばそこまで印象は悪くない。


言い換えれば「自分の殻からの出不精」の話なのだが、これ、普通に考えて、大多数の人も五十歩百歩な気はする。たとえば医療情報のことを考えてほしい。「やっておいたらあなたの健康にいいことがあるよ」をその通りにやってくれる人など、まったくいないというわけではないが多数派とも言いがたい。

いやいやそんなことないよ、たとえば健康診断とか、病気にかかる前にちゃんと受けてるもの、という人も出てきそうだが、本当にそうだろうか。「すでに社会の多くの人がやっているから、やらないと(自分だけが取り残されて)損」という構造が見えているからこそ、つまりは「潜在的に損になりかねない」という実感が湧いているからこそ、ワクチンとか健康診断のような一次予防、二次予防にかんする行動を起こすのではないか。少しいじわるな見方だけれども。

「バランスの良い食事をしてときどき運動をすると健康が長く続きますよ」というのははっきり言って最強の医療情報だ。しかし、「まわりにやっている人がいる」か、「過去に不健康に苦しんだことがある」といった、顕在・潜在を問わず自分がいったん損の側に入った状態でないと、普通の人はなかなか食事も運動もテコ入れしようとはしないものである。

なのに、我々医療者はすぐ、「ただしい医療情報を世の中に行き渡らせれば、人びとはそのように動いてくれるはずだ、なぜなら人間は根本の部分で理知的であり、いい情報を手に入れれば必ず使うからだ」みたいな夢を見ている。「夢を見る人間はそのままずっと夢を見続ける」という慣性の法則がそこに働いている可能性がある。正しくても有用でも人は動かない。

でも、損をちらつかせて行動変容というのも、ぶっちゃけ見飽きた。ワクチンを打たないとこんなに病気のリスクが上がります、という「正しさ」で、人の行動をどうにかしようというアイディア、今日のブログにぼくが書いてきたものを踏まえるとまったくもっておっしゃるとおりなんだけど、その気根の部分がどうにも気にくわない。なんかもうちょっと、「つい……言われたとおりに……やってみた///」みたいに、ほほを赤らめながら行動にうつる人を増やす方策はないものか? 推しに無限に課金する、みたいなノリで、よりよい医療情報をどんどん行動に結びつけてくれる人が、もっと増えるためには、われわれはいったいどこでどのように動けばいいのだろうか? ……ああ、動かないとだめなのか……。

2022年9月28日水曜日

病理の話(700) 思ってた病気と違うんだけど

患者の体の中からとってきた臓器や小さなカケラを、目でじっくり見て、さらに顕微鏡を使ってめちゃくちゃ見て、病理診断報告書を書く。

この、「顕微鏡を使って」というのが、われわれの仕事の特徴である。病院にはさまざまな職業人がいるけれど、連日顕微鏡を見ている部門というのは病理検査室以外にはほとんどない(まったくない、とは言わないところがいかにもサイエンスである)。

顕微鏡を見るというのは、かなりオリジナリティがある仕事だ。

細胞の見方には、150年の病理学の歴史でつちかわれてきたテクニックがある。核や細胞質の性状、細胞の配列、複数の細胞がどのように混ざっているか、免疫組織化学という技法で病気に特有のタンパク質をいかに検出するかなど、いずれも「顕微鏡でしかわからない」。

そのため、ときに、困った「ズレ」が生じる。

どことどこがズレるかというと?

「顕微鏡以外の手段でさんざん患者のことを見てきた主治医と、顕微鏡という特殊な手段で別の角度から患者の病気を解き明かす病理医」との間でズレが起こるのだ。




「えっ、○○病!? ほんとうですか!」


主治医がこのようにびっくり仰天する、というシーン、あまり起こってはほしくないものだが、実際、年に一、二度くらい起こる。

一年で万を超える病理診断・細胞診断をしていく中で、その大半は「主治医が思ったとおりの結果」になるが、たまに、病理診断と「臨床診断(主治医の診断)」が異なることがある。

いちばんわかりやすい(しかしあまり起こって欲しくない)のは、たとえば、「主治医はがんだと思って手術をしたのだけれど、とってみたらがんじゃなかった」というパターンである。病気の種類(診断名)が違うということ。

ほかにも、「主治医はがんが○センチくらい広がっていると思って手術をしたけれど、とってみたら○ミリしかなかった」みたいなことも起こる。病気の進展度合いが違うということ。



主治医は、患者に話を聞き、血液検査を行い、超音波、CT、MRI、内視鏡など、さまざまなツールで病気をあきらかにしようと努力するが、それらはあくまで「体の外から、中で起こっていることを推測する」ものである。決して病気をじっさいに取り出してきて自分で眺められるわけではない。

これに対し病理診断は、「実際にモノを体の中からとってきて、直接みる」のであるから、解像度が段違いである。そりゃあ、手術の前の「主治医の予測」が病理診断とはずれることはあるだろう。医学がいくら進歩したとしても、である。

最近の主治医は「そういうズレが起こること」をあらかじめわかっている。だから、手術の前に「これはぜったいこういう病気ですよ!」なんてことは言わない。あくまで体外からの推論なのだから、さまざまな理由で外れるかもしれないし、仮に予想がはずれたとしても患者に不利益があまり及ばないように対策を考えておくことのほうが大事だ。そして、そういう「両面作戦」を展開しながらも、心の中では、「まあがんの確率が高いだろうな」くらいのことを考えている。

それが病理診断とズレるというのは、もし万全の手をうっており、患者の不利益を利益が上回る状況をきちんと作っていたとしても、やはり、主治医にとっては、ショックなのである。





で、今日言いたいのはこの先の話だ。

病理診断報告書で、「A病」という診断をくだしたあとに、主治医がびっくりして電話をかけてきたとする。

「あ、あの、あの患者さん! A病なんですか!! B病だと思ったんですけれども……」

主治医の予測と病理診断が違っていた場合に、病理医がなんと答えるべきか。ちょっと考えてみてほしい。







/) /)
( 'ㅅ') Thinking time






/) /)
( 'ㅅ') おわり







【ダメな例】

病理医「はい、A病でしたよ。B病ではないですね。ほら、顕微鏡でA病の証拠が揃っていますからね。これを見てください。細胞の配列は○○ですね。しかも免疫染色は□□が陽性でした。教科書にも書いてあります。間違いなくA病です。」

↑これがダメな例だ。しかし、けっこう、やっている病理医がいる。

今の何がだめだかおわかりだろうか? ヒントは今日のブログの冒頭にさかのぼる(ウサギが無駄にスペースを稼いでいるのでがんばって戻ってみてください)。


”顕微鏡というのは、オリジナリティあふれる仕事であり、病院の中で顕微鏡を日常的に使っている人というのは病理医以外にほとんどいない” という意味のことを、冒頭で書いた。


となるとだ。

「顕微鏡でA病に見えたからA病ですよ」という言葉は、主治医からすると、「(なにやらわからないツールを使える人だけがわかる理屈で)A病ですよ(と説得されている)」に聞こえる。

それでは、やさしくないではないか。

主治医が、なぜ、A病でないものをA病だと考えて手術に入ったのかが説明できないといけない。「顕微鏡で見たらそうだったからだ」では納得が得られない。「病理医しかわからない理屈でA病と診断しました」では主治医も患者も詳しいことが全くわからないのである。

これではまるでAIに判断されるのといっしょだ。「よーわからんけどAIがそう言ってたからそうなんやで」。そこに親切さのカケラもない。



【のぞましい例】

病理医「はい、A病でしたよ。じつは、A病がこのような細胞形態をとるときには、主治医の先生が行ったこの画像検査で、B病と似てくる可能性があります。なぜなら、A病とB病の細胞配列が、このように(顕微鏡画像を見せて)似ているからです。現代の画像検査の性質上、これらを区別するには解像度が足りないのです。」


↑これくらいは説明したい。「顕微鏡で見ている病理医が正しい、お前らは間違っている」ではなくて、主治医が使った「さまざまなツール」でなぜA病とB病の区別がつかなかったのかを、病理医なりに考えて共有するということだ。



これをやると、主治医は、自分の診断が病理診断とズレるたびに勉強することができるし、さらに言えば、「全国のあちこちで今日も起こっているであろうズレ」を防止するための方策を開発することも可能になる。ひとりの患者を、主治医と病理医、それぞれ違う立場から、違うツールを用いて調べていく過程で生じたズレには必ず理由があり、医学は終わりなき進化の過程でそのズレを少しずつ乗り越えられるはずなのだ。病理医だけが「俺顕微鏡見てるから最強~」などとドヤっている場合ではない。

2022年9月27日火曜日

ワークマンのジャケットなら毎日洗える

出勤してから気づいたこと、今日は髪型が変だった。なんか横のところがはねてた。しかしもう夕方だ。おそらく誰も、気にも留めなかっただろう。というかそもそも今日は人とあまり会話をしていない。

前提として、ぼくはそういう働き方が可能である。作家や絵師あたりと近いかもしれない。多少髪型がおかしくても、服がだめでも、人と会わなければどうということはない。清潔にしていないと自分にダメージがくるけれど、センスが悪いだけなら人に迷惑をかけない。

ただし、前提とは別に、自分がそういう方面のキャラクタになりつつあるということも十分に考えている。変化をうながしたのは経験と加齢の両方だ。20~30代の自己顕示欲はもう少し自分の見た目とダイレクトに紐付いていた。たとえばそれは病理診断文を臨床に届けるときにも言えた。「デスクでビシッとした格好をして働いている俺が書いた仕事を受け取ってくれ」という念の込め方をしていたと思う。毎日スーツを着て出勤していたのは「上級医になめられないため」であり、かつ、「しっかりした自分から生まれてくる仕事にみんな敬意を払って欲しいから」という理由が確実にあった。

しかし仕事の実績が積み上がっていくことで、「見た目を加味しなくても尊重される」という立場にじわじわと近づき……。


いや、ちがうか、加齢によって「見た目がおとろえたこと」でかえって信頼感が増したのか。これも広い意味では「見た目で尊重されている」ということになるのではないか。

「髪型を気にしないくらいの見た目を保ったほうが有利なポジション」に、今のぼくはいるのだ。



肌つやがいい人間が正論を言えばイキリと思われがちなカンファレンスで、くすんだ顔色のぼくが一言ふたこと所見を足すとみんな「おお~」と納得してくれる。臨床医がスーツで参加している学会で、ワイシャツの上に安いジャケットを羽織ったぼくがZoom画面にうつると「ここからは病理の時間」と言わんばかりに空気が切り替わる。複数人が納得するために調整をはかるとき、「ヨレた」見た目でいることは、思いのほか役に立つ。


これをぼくは長いこと待ち望んでいた。


理論よりも貫禄、パッションよりもエクスペリエンスで話がすすんでいく社会に、半分憤りつつ、「はやく自分も、にじみ出るオーラだけで仕事がラクに進む立場にたどりつきたい」と、20代、いや10代くらいのときから熱望してきた。


今それが叶っている。


いざこの場に座ってみると、見えるのは無数の「熱意ある若者たち」と、「経験だけでしがみついている中年たち」だった。百鬼夜行をしずかに絵巻に描いている気分である。


そういえば鏡を見なくなったなあと思ってトイレで自分の顔を見ると適度に疲れて適度に陰を背負っていて、いかにも頼りになりそうなので笑ってしまった。20代よりもずっと服飾雑貨の知識が増えたはずなのにこんなに正しくヨレヨレになっているのは素敵なことだ。人は見た目が9割である、ただし、その9割をどう使うかについてはわりと複雑な解が複数存在する。清潔であることだけは忘れてはいけない。しかしぼくが着るべきはアルマーニのジャケットではないのだ。

2022年9月26日月曜日

病理の話(699) マリオとルイージくらいの違い

体の中にある細胞には、ほんとうにいろいろな種類があるのだけれど、これを

ざっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっくりと

2種類にわけることができる。



「上皮」と「非上皮」だ。



上皮、すなわち「上の皮」と書く細胞は、その名のとおり、体の表面を覆っている。たとえば皮膚をつくりあげているメインの細胞は、扁平上皮(へんぺいじょうひ)と呼ばれる細胞だ。国道にたとえると、アスファルトの部分が扁平上皮である。なぜ国道?


さて、上皮イコール皮膚の細胞かというと、そうではない。胃、小腸、大腸などの粘膜面(食べ物が通る面)を覆っている細胞もまた上皮だ。これらは腺上皮(せんじょうひ)と呼ばれる。国道にたとえると、トンネルに入ったときのアスファルトやトンネルの壁の塗装の部分が腺上皮である。なぜ国道?


ほかにも、腎臓から膀胱に尿が運ばれていくルートを「尿管」というのだが、この尿管というトンネルの内側は尿路上皮(にょうろじょうひ)に覆われている。


上皮がある場所に共通するのは、「そのまま道をたどっていくと、体の外にたどりつく」ということだ。胃腸を通るたべものは、そのまますすんでいくと肛門から外に出ていくだろう。腎臓で作られた尿は、尿管を通り、膀胱を経由し、尿道を通って、やはり外に出ていく。つまりトンネルを突き進んでいくとかならず国道に出るということだ。なぜ国道?


体の外にはさまざまなバイキンやらウイルスやらが住んでいる。隕石が落ちてきたり、光が降りそそいだりもする。これらが体内に侵入するといろいろと問題がある。だから、外と面する部分では、アスファルト的に体を守ってくれる細胞が必要で、その役割を果たすのが「上皮」である。


今まで挙げてきたように、上皮にもいろいろ種類があって、扁平上皮、腺上皮、尿路上皮など多彩である。これらはすべて形が違うし働き方も違うのだけれど、上記の「アスファルト的防御」を果たすために共通の仕組みをかねそなえている。それが何かと言うと、

「細胞がしっかりしていて、細胞同士ががっちりくっつけること」

なのだ。

上皮が、外からやってくる刺激にいちいちヘロヘロ負けていては困る。物理的な刺激や、ケミカルな刺激に、細胞が右往左往していてはだめだ。したがって、数ある上皮細胞はすべて、細胞の中に「サイトケラチン」と呼ばれる強靱な骨格があり、かつ、上皮細胞同士はまるでジグソーパズルやレゴのようにがっちり周囲の細胞と結合する。

骨格と、結合性。このふたつが上皮細胞に固有の性質なのである。




アスファルト(上皮)以外の細胞はどうかというと……たとえば筋肉とか神経とか脂肪のような、表面には出てこないが大事な機能を持っている細胞たちのことを考えると、これらは、「サイトケラチン」という細胞骨格をもたないし、細胞同士が結合する強さも上皮ほど強くない。たとえば筋肉の細胞は、骨格によってしっかり硬くあることよりも、伸び縮みして力を発揮することのほうが大事だし、隣同士のすべての細胞とぴったりひっついてスキマを埋めることよりも、決まった2箇所を引き寄せるはたらきのほうが根本的である。

骨格は上皮ほど強くなく、結合性も上皮ほどではない。これらは筋肉、神経、脂肪、血球、線維芽細胞など、多くの「非上皮」に共通するのだ。






というわけで、体の中の細胞は「上皮」か「非上皮」かのどちらかに分けられるのだが、じつは非上皮の中に、「ちょっと上皮っぽい」細胞が混じっている。

中皮細胞という。

中! じゃあ下皮細胞もあるの? いや、下皮はない。内皮はあるのだが。

中皮細胞はどこにあるかというと……お腹のうちがわ、「腹膜」を覆っている。あるいは、胃や腸の外側……食べ物が通る側ではなく、うーん、そうだな、なんて言ったらいいかな、あっそうだ、

「外科医がお腹をあけて、胃を採ろうと思ってヒョイと手で持ち上げたときに、外科医の手が触れる側」

を覆っている。



腹膜とか、臓器の外側というのは、いちおう「覆い」ではあるので、それなりにぴったりと細胞同士がくっついている必要がある。しかし、どこまで歩いていっても、上皮のある場所とは違って体外につながることはない。地下帝国みたいなものだ。お腹の中は無菌状態で、物理的な刺激もくわわることなく、光だって当たらないから、強い刺激を受ける機会はない。

だから上皮ほど細胞骨格は強くなくていいし、上皮ほど結合性も強くなくていいのである。



中皮細胞を顕微鏡でながめると、(プロの病理医でもない限り)上皮細胞と見間違えてしまうことが多い。基本的に中皮は上皮とそっくりで、形だけではなかなか区別がつかない。細胞骨格(サイトケラチン)も持っているので、なあんだ、これほとんど上皮じゃん、と思ってしまうこともある。

しかし、よくよく細胞をしらべてみると、モノホンの上皮ほどには細胞骨格が強靱ではないし、細胞の結合性も少し弱いし、ほかにもちょっとずつ違いがある。上皮と中皮はマリオとルイージくらい違う。昔のファミコンだとドットレベルではほぼ違いがなく、色で見分けるしかない(ゲームボーイだと無理)。しかし、Nintendo Switchくらいきれいに描き分けると明らかに別モノである。ただ、マリオとクッパ、マリオとピーチ姫の違いとくらべると、マリオとルイージの違いは微々たるものである。それくらいの差で、人体は細胞の配置を使い分けている。

2022年9月22日木曜日

17進法の奇跡

前より少しのんびりめの5時台に起きるようになった近頃、かえって眠気が増してしまった。そういうことがある。

よく言われていることとして、睡眠には周期があって、たとえば1時間半くらいおきに眠りが深くなったり浅くなったりするという。だから、睡眠時間を30分くらいずらすとかえって、眠りが深いときに起きなければいけなくなって辛くなるそうだ。

もっともこの話は、最新の医学では否定されていた気もする。ただ、まあ、医学は医学だ、医学であり医学でしかない。医学はその時点での妥当な解であるが、ぼくらは何も、問題を解くために生きているわけではない。生きるための目的なんてそもそもない。

医学的には根拠が薄い肌感覚として、「単純に眠る時間を30分だけ延ばしてもあまり効果がない」というのはぼく自身、感じ取っている。これを、睡眠を自分の都合でコントロールしようと思っても、体がそれについてくるとは限らない、と言えば、医学も怒らないし、体もヘソを曲げないだろう。




人間が数を無意識に「10進法」で考えているのは、人間の指が10本だからだ、みたいな話を犬が言っていた。というか犬は『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の話をしており、その中に出てきた話を引用したのだけれど、ま、総和で見れば「犬が言っていた」でよいだろう。この世でいかにも「法則」とか「ドグマ」みたいに見えているものも、実際にはさほどかっこいい理由でそうなったわけではなくて、それこそ「人間の指の本数」みたいな偶然の残念因子によってぼくらが「うまくできてるなあ」と思わされているだけだったりする。そういうことがよくある。

「母なる惑星、地球。暗くこごえた宇宙の中で、なぜこの星だけがほどよく温かく、しかも酸素に満ちあふれているのか? まさに奇跡である」という解釈をするのは勝手だけれど、因果は逆だ。「たまたま温かくて酸素がある環境で生命が育まれただけ」である。宇宙のあちこちをさがすと「もう少し狂った暑さで酸素もぜんぜんないが、生命がいる」という状態はあり得る。ここにたまたま意志をもって観察する人間がいるから勝手に奇跡と感じて騒いでいるだけなのだ。地球外生命体すべてが固有の奇跡を持っているだろう。その奇跡は人類からは推しはかりようもない。

「我々がたまたま17個の集積回路を相互接続して荷電溶媒の濃度勾配をコントロールする生命だったからこそ、4つの恒星によって昼夜昼夕昼夕昼夜朝夜朝夜朝夜朝昼夕の周期で一日を過ごすこの星に適合できたのだ、奇跡だ!」

みたいな話が宇宙のどこかで交わされているだろう。それを奇跡と呼ぶならば、ぼくが睡眠を30分延ばしてより快適な睡眠ライフを送ることもまた、「たまたまフィットしただけ」という意味で確実に奇跡なのである。いや、送れてないのだけれど。

2022年9月21日水曜日

病理の話(698) ターンオーバーをみる

細胞には寿命がある。しかも、細胞ごとに生きていられる時間が異なる。

ある細胞が、どれくらい長生きできるかを知る方法……というか、目安みたいなものがある。それは、「刺激が多い場所で働いている細胞は早く入れ替わる(死ぬ)」というものだ。



たとえば、皮膚の表面を覆っている細胞は、それなりのスピードで入れ替わっている。これは、皮膚が常に外界からの刺激にさらされているからだ。表面には常在菌がくっついているが、たまに「体の中に入り込むとヤバイ菌」がとりつく。小さな切り傷・すり傷のようなものが常にできている。そこで、細胞の回転を速くすることで、表面についた傷や異物、わるものを、細胞の死骸ごとポロポロ落っことしてしまえばいいのである。それが「あか」だ。


逆に、あまり外界からの刺激がやってこない部分にある細胞は、寿命が長くて、そんなに頻繁にはターンオーバーしない。毛細血管の壁を作っている細胞とか、筋肉とか脂肪などは、そこそこ寿命が長いのである。なお、しょっちゅう「パワー!」とかやってる芸人の筋肉はある意味「刺激を受けている」ので、この限りではないかもしれない。




さて、ここから一段難しい話、というか応用編に入ろう。

皮膚に「炎症」があるときのことを考えるのだ。

なんらかの理由で、皮膚に「炎症」が起こっていると、細胞はなんと、みずからの寿命をコントロールする。ターンオーバーの速度を変えるのである。

「炎症」というのは基本的に、体内に侵入した病原体などを打ち倒すためのメカニズムであるが、これは重火器をもって凶悪犯を駆逐するようなもので、一般の家屋にもふつうに被害が出る。

つまり「炎症」があると、まだ寿命を迎えていない細胞も死んでしまうのだ。皮膚は表面で角質になってはがれおちるはずだが、それが角質になる前に死んでしまう。そのまま放っておくと皮膚が穴だらけになってしまうだろう。

そこで、「炎症」があるとき、しかもその「炎症」が皮膚の細胞に刺激を与えているときには、皮膚のターンオーバーするスピードが上がる。「壊れそう!? わかったァ! 急いで作り直すぜェ!」という感じである。

その結果、皮膚はどうなるかというと、しばしば、「もとの皮膚より分厚くなってしまう」ことがある。ターンオーバーするスピードを必要以上にあげてしまったために、まわりとバランスがとれなくなるわけだ。

あるいは、「まわりの皮膚とくらべて、角質の部分が厚くなる」こともある。カカトの裏側と同じような硬さが、皮膚炎が起こった場所に見られることがあるが、あれは「ターンオーバーの速度をいじった結果」起こっていると考えるといい。




このことを病理診断(顕微鏡診断)に応用することができる。細胞をみて、「あっ、ターンオーバーの異常があるな」と思ったら、そこにはおそらく「炎症」のようなメカニズムがあるということだ。炎症そのものを見つけなくても、細胞の新陳代謝がおかしいなというようすを見かけたら、「よく探せば炎症も見つかるのではないか」という気持ちになって、冷静に顕微鏡をみるべきなのである。



そうそう、ターンオーバー異常の原因は「炎症」だけではない。本来の細胞にはみられないほどの猛烈なスピードで、異常に細胞が増え続ける病気というのがある。「がん」である。したがって、がんと炎症というのは、まるで違う病態のように思えるのに、顕微鏡でみるとしばしば「似ている」場合がある。ここに病理診断の難しさの2~3割くらいが潜んでいると思ってよいだろう。似ているものを見分けるのは我々の責務であり、困難でもあるのだ。

2022年9月20日火曜日

そぞろの消失

日曜日の夜に手帳を見て、「今週は火曜日と木曜日はわりと余裕があるな」というのを頭に入れる。「月曜日と水曜日と金曜日は、診断と会議でぎっちりだから、論文の手直しは火曜日に、原稿を書くのは木曜日にやろう」と考えておく。

月曜日がくるとメールが届いて、今週どこかでウェブ会議をしましょうと言われる。SlackからもChatworkからも、Facebook messengerからも連絡が入る。火曜日と木曜日が空いているので片っ端から予定を埋めていく。

そうやって一週間を過ごす。土曜日になって手帳を見返すと、「今週は火曜日と木曜日が一番忙しかったな……」という感じになっている。フリクション(消せるボールペン)がほしい。手帳が汚い。


こういう週が続いた。


おかげでちかごろは、あらかじめ決まった仕事が入っていてこれ以上は働けないだろうと思える日……上の例で言うなら月曜日と水曜日と金曜日……の、朝、昼飯を食った後、そして夜の会議と会議の間、ときにはZoom会議中に、論文や原稿を書く。教科書を読んだりPDFをまとめたりするのもそういう時間だ。どうせ火曜日と木曜日はつぶれるだろうからだ。

最初から忙しいとわかっている日は、脳がそのつもりでキリッとしているから、じつは仕事がしやすい日である。

「予備日」ほど、直前に入った急な仕事をやるのに使わなければならない。また、そういう仕事は頼む方も頼まれるほうも、事前にねんいりに考えていないことが多いので、働きながらフィックスしていくというか、自動車を運転しながらパンク修理を進めるみたいなかんじになってしまう。

こうして逆転が起こる。倒錯と言ってもよいかもしれない。

「今日はヒマな日」と口に出すのが、ときに「フラグ」だと言われる理由がわかる気がする。

油断している日ほど忙しくなるのだ。



とはいえ最近はうまく油断することが必要だなと感じる場面も多い。ずっと気を張っていたら疲れてしまう、という理由はあるが、それ以上に、そもそも「気」というのは同じテンションで張り続ける洗濯ヒモのような存在ではなくて、勢いを付けて引っ張ったり緩めたりをくり返すことで、何かをはね返したり飛ばしたりする力をまとう、弓とかパチンコのようなものなのだと思う。緊張と弛緩のどちらかが大事なのではなく、両方あわせてひとつの「運動」になるということ。

たとえば、創造……はぼくはそんなにしないけど、調整を必要とするタイプの、脳の複数箇所を同時に動かすような仕事のときには、安定したテンションと瞬時の爆発力の両方が求められる気がする。顕微鏡を見て診断を考えることひとつとっても、典型的な病気のことばかり同じテンションで考えていると数十~数百例に一度の割合で、「普通の思考回路だと騙されてしまう、難しい病理組織像」に出会ったときに、頭が真っ白になってしまうというか、「どうやってもいつも通りのことしか思い浮かばなくなってしまって、非典型的でまれな病態について頭が思い至らなくなる」のである。


それがわかっているからこそ、仕事と仕事の合間にバッファをもうけて、ひとつ診断するたびにツイッターに気をそらして頭をフラットにして、みたいな、集中と拡散を交互にくり返すような働き方をずっとしてきたのだが、最近はその、「ゆるめるための時間」に飛び込んで来る仕事が多くてちょっとハラハラしている。人と関係する数が増えてきたからしょうがない。30代くらいまで、狭い範囲に全力を集中できたことが幸せだったのだ。今までぼーっと眺める程度だった、ぼくが20代くらいのときに40代、50代で、何かでかい仕事をするわけでもなく部下のサポートばかりしていた人たちのことを最近はよく思い出す。彼らもこういう時間を過ごしていたのだろう。なるほどなと思う。なるほどなあ、と思う。

2022年9月16日金曜日

病理の話(697) プレパラートを送ります

患者さんの体の中からとってきた臓器を目で見て、病気があるところをスルドク見出し、その部分をプレパラートにして(技師さんありがとうございます)、顕微鏡で見るのが病理医のおおまかな仕事である。


プレパラートは、基本的に、H&E染色という方法で細胞に色を付けてある。この染め方は一部が機械化されているが、昔ながらの「手染め」をする機会もある。手染めのイメージをお話ししよう。


ガラスプレパラートに、うすーく(4マイクロメートルくらい)切った組織が乗っかっている。どれくらい薄いかというと、持ち上げたら向こうが透けて見えるくらい薄い。髪の毛の細さがだいたい80マイクロメートルだというから、その20分の1しかない、と言ったら伝わるだろうか。ティッシュやセロファン(最近見ないが……)よりも薄いだろう。今調べてみたら、セロファンテープなどに用いられている「セロファン」の厚さはだいたい20マイクロメートル前後。ああ、やはり、組織片のほうが薄いのだ。そして、おまけにもろい。


この薄くてもろい、はかないペラッペラが、ガラスプレパラートの上にのっている。それを特殊な溶液の中にジャボンジャボンと漬ける。

「ハンカチの手染め」を見たことがある人はいるだろうか? マジでああいう感じだ。漬けては引き上げ、漬けては引き上げ、洗って、色止めをして、みたいな行程で染め上がっていく。原始的だが最も有効なのだ。


H&E染色は「2色染め」である。細胞の中にある構造の、電荷の違いを利用して、ヘマトキシリンという青紫の色素と、エオジンというピンクっぽい色素とで細胞を染め分ける。これによって、特に細胞の「核」とよばれる構造物が非常によく見える。核以外にも細胞膜とか細胞質のようすまで、色味というか……質感というか……キメというか……とにかくいろいろ豊潤につたわってくる。とても便利な染色だ。



さて、このように染めたプレパラートは、たまーに、他の病院に貸し出される。これ、今まであまり書いてこなかった。


たとえば、うちの病院でぼくが診断したプレパラートを、ほかの病院や大学の人が「貸して欲しい」と言ってくることがある。えっ、うちのだからだめだよ、とは言わない。なぜならプレパラートは「患者さんのためのもの」だからだ。物質的な資産としては当院のものだけど、そこから得られる情報は、患者さんのために活用されるべきである。

なぜほかの病院や大学が、うちの病院で作ったプレパラートに興味を持つのか?

それは、患者さんが当院から「ほかの病院や大学」に移ったからである。

……えっ、逃げられたんですか?

ちがう。いや、違わないこともあるかもしれないけれどあまりそういうのは聞かない。そうじゃなくて、現代の医療においては、患者さんはけっこうすぐ他の病院に移動するのだ。たとえば以下のような理由で。


・診断はうちで付けたけど、治療は大学でやる。機械が大がかりなので大学でしかできない、などの理由。

・診断はうちで付けて、治療もうちでやろうと思ったけど、患者さんが転勤することになった。だから今後は、転勤した先の病院にかかってもらう。

・診断はうちで付けたけど、患者さんがそもそも遠いところから来ていた(北海道の病院ではよくある話だ)。毎回当院まで通うのは大変だから、地元の病院で診療を続けよう。


こういうとき、患者さんがほかの病院にかかるならば、「プレパラートもその病院に貸し出して見てもらう」のがスジなのである。



われわれ病理医は、「病理診断報告書」を書く。そこには、主治医がこの先治療を進めていく上で必要な情報がほぼほぼ書いてある。

しかし、じつは、プレパラート自体が内包している情報というのはもっとずっと豊かなのだ。報告書にどれだけ書いても伝えきれないニュアンスみたいなものがある。

だから、プレパラートを直接みておくというのは、診療を行う施設にとってはいろいろ意味がある。

具体的にはこうだ。


「2年前に○○(臓器名)にこのような病気が出て、当院で手術して、その病気をとった。プレパラートにして当院に保管済みである。そして、今回、あらたに□□(さっきとは違う臓器名)に、また病気が出てきた。今回の病気は、前回の病気と関係あるのだろうか? まったく別に、あたらしく出てきた違う病気なのだろうか?」


2年前も今回も、当院に患者さんがかかっているならば、ぼくは過去のプレパラートと今の病気とを見比べることができる。しかし、この2年間で患者さんが引っ越ししていた場合、あらたに出てきた病気を診断する病理医は、ぼくではないかもしれない。

そういうときに、ぼくの元に電話がかかってくる。


「もしもし、A病院の○○と言います。2年前に貴院(あなたの病院という意味)で手術された、○○(臓器名)のプレパラートを、拝見させていただけないでしょうか?」


そうだよね、見比べたいよね、わかるよ。ぼくは保管してある過去のプレパラートを引っ張り出してきて、専用の容器に詰め、緩衝材(プチプチ)の入った封筒に入れて、お手紙を書いて、A病院に送る。送料はこっちもちだ。そうやって陰でプレパラートの貸借が行われている。そこまでしないと診療というのはなかなか前に進んでいかないものである。

2022年9月15日木曜日

書く理由

身振りと声でしか伝わらないことがあり、絵と注釈でしか伝えられないことがあり、文章でしか伝えられないことがある。さらに、短時間で強い印象を与えることでしか伝わらないことがあり、長時間かけて何度も体験し直すことではじめて伝わることもある。




解剖生理学の本を書いているのだが、話の通じる医療者に原稿を見せると、「うーん、普段ここまで考えずに働いてるんだけど、やっぱこういうのって、本で勉強しておいたほうがいいのかなあ」という返事が来た。かなり本質的な感想であるなあと感じた。

臨床現場でよく言われることとして、「学生時代に習った解剖生理の知識は、現場にいるときにこそ必要だと思うんだけど、今になるともう勉強する機会がない」というのがある。非常に多くの医療者が同じようなことを言う。しかし、ならば、世の中には「社会に出てから学べる解剖生理学の教科書」がもっとあっていいはずだ。なのにそういう教科書があまりない(あるけどそこまで売れていない)ということは、つまり、現場で役に立つ解剖生理の知識というものが、「本からでは伝わりにくい」タイプのものだと(少なくとも現場の人びとには)思われているからではなかろうか。

ここにはいろいろな理由があるだろう。学生時代の座学にうんざりした人にとって、頭から順番に読むタイプの長文にそもそも抵抗があるとか、その場その場で必要な知識をスマホで調べているうちになんとなく現場で必要な分の知識は補えてしまうとか。




今日の文章の冒頭に、

「身振りと声でしか伝わらないことがあり、絵と注釈でしか伝えられないことがあり、文章でしか伝えられないことがある。さらに、短時間で強い印象を与えることでしか伝わらないことがあり、長時間かけて何度も体験し直すことではじめて伝わることもある。」

と書いた。いかにも、「だからいろいろな伝え方を模索すべきだ。」と続けたくなるタイプの文章だ。

しかし、世の中にある大半のものは、すでに、適材適所の「伝わりやすさ」に応じてわりと適切に配置されている。解剖生理学の本が少ないのは、「それが本だと伝わりにくいから」という側面が確実にあるだろう。たぶん、動画であるとか、現場の経験であるとか、そういったもののほうが若干伝わりやすく、文章が苦手とする分野だから駆逐されてしまう、「ある種の選択圧を受けている」。


それなのに解剖生理学のはなしを文章で書こうとしているぼくは、何に抵抗しようとしているのか?

いや、抵抗というか、これは単に欲望で動いているのではないだろうか。

「この話を文章で書けるほどに俺はきちんと理解したぞ!」と、誰に対しても、あるいは過去の自分に対しても、見せつけたいのではないか。




えぐい結論になってしまった。

2022年9月14日水曜日

病理の話(696) 主治医のために写真を撮ります

けっこうよく頼まれるタイプの仕事がある。電話がかかってきて、だいたいこんな感じで切り出される。



医師「○○科の△△です、今よろしいですか? ありがとうございます。じつは、写真を撮っていただきたいんですが……」

ぼく「OK、そしたら一番いい衣装着てスタジオにおいでよ😉」




これをやったらたぶんぼくはもうここにはいない。

実際にはこうである。



医師「○○科の△△です、今よろしいですか? ありがとうございます。じつは、写真を撮っていただきたいんですが……」

ぼく「はい、かしこまりました。では(患者さんの)IDか病理番号を教えてください」

医師「~~です」

ぼく「ありがとうございます。どのような症例を、どう発表なさいますか?



発表。学会発表である。

臨床医が病理医に「写真を撮って欲しい」という場合、それは、病理検査室ですでに撮影してある臓器の生写真か、あるいは、病理医が診断するときに見たプレパラートの拡大写真をほしいということなのだ。

患者からとってきた臓器を切って、肉眼で見て、写真を撮って証拠として保全し、さらに切り出してプレパラートを作成し、顕微鏡で見て診断をするのが病理診断。

この病理診断は、確度がとても高く、いかなる細胞がどのように配列しているかによって病気の種類や広がりがよくわかる。

なので、臨床医が「珍しい病気」や「教育的な症例」、「非典型的な経過をたどった患者」などを学会で発表してほかの医療者に見せようと思うとき、病理学的な証拠を添えるのは非常に大事なことなのだ。

イメージとしては水戸黄門の印籠に近いものがある。「これを見ろ! 文句ないだろう!」という印象を与える。


で、ぼくは、このように主治医から「写真を撮ってくれ」と依頼をされると、これまでの経験に基づき、「臨床医がどういう発表をしたがっているのか、どういう病理写真があると便利なのか」を予想して、顕微鏡写真を撮影するのである。



医師「……はい、今度の外科学会地方会で(※ひとつの例です)、A病だと思って手術したらじつはB病だった、という発表をします。その病理の写真をいただきたいのです」

ぼく「かしこまりました。発表の形式はオーラル(口頭発表)ですか、ポスターですか?」

医師「オーラルで、発表6分、質疑3分です」

ぼく「では病理にはあまり時間かけられないですね。それでは、パワポスライド1枚に4枚程度の写真をレイアウトしたものをお渡しします。発表はいつですか?」

医師「近くて申し訳ないんですが、再来週の土曜日です」

ぼく「わかりました、じゃあ今週中にご準備しますので、できたらご連絡しますね」

医師「よろしくお願いします!」




病理医がプレパラートの写真を撮るにはそれなりに時間がかかる。臨床医が発表する内容を理解して、「どういう写真を撮ってわたせば、その主治医が発表しやすいか」というところをよく考える。ときには、提示する学会のタイプに応じて、写真の撮り方を変えたりもする。

具体的には、たとえば……。CT画像とプレパラートの組織像とを照らし合わるのが一般的な学会の発表ならば、CTと「同じ向き」で病気があらわれている写真を、少し引きの、ロングショット気味の画角で撮影すると聴衆のウケがいい。

逆に、拡大内視鏡という、細かく臓器の表面を観察するためのデバイスを用いる学会では、プレパラートの写真もしっかり拡大をあげて、主治医が内視鏡でみたものとうまく照らし合わせられるようなズームアップ気味の画角を用いる。

消化管系の学会ならば細胞のおりなす高次構造を解説すると主治医が知りたいことに答えやすく、軟部腫瘍系の学会ならば免疫染色のデータをわかりやすく一覧にすると親切だ。


そういったことを考えながら、しまってあるプレパラートを出して整理して写真をとるのに、若い病理医や忙しい病理医だと、1週間~2週間くらいはかかってしまう。写真くらいすぐ撮れるやろ、というものでもないのだ。「ウォーリーを探せ!」の絵本の中から、ウォーリーと、ウォーリーに似ているけれど間違いそうなのが両方入った画角の拡大写真を撮れ、と注文されたらきっとすぐには撮れないだろう、それと似ているかもしれない。


何より、臨床医の学会発表のスタイルをわかっていないと、病理医はうまく写真が撮れない。これはどう説明したらいいだろうなあ……俳優さんが、雑誌にポートレートを送ってくれといわれて、はいはいいつものこれでいいですね、と宣材写真を送ったら、違う、今回はゲーム雑誌だから、ゲームをしているところの写真が欲しいんだ、みたいにあとから注文を出される、みたいな感じだろうか。病理の写真が使われる場面にもいろいろな種類があり、病理の説明にあまり時間をかけたくない発表と、病理こそがメインとなる発表では写真の撮り方も変わってくる。


ぼくは主治医からのオファーになれているほうの病理医なので、だいたい数日で写真を撮ってしまう。この数日というのも、実際には、「一つの症例に2時間じっくり向き合うだけのスケジュールを捻出するのに数日かかる」だけで、写真自体はあっという間にご用意できる。ただ、写真を撮ったあとで臨床医に、「プレゼンにうまくハマるかどうか確認」してもらう必要があるので、やっぱり早めに相談してくれたほうが何かといい。正しく便利に病理をお使いください。

2022年9月13日火曜日

ボールひとつぶん

金土日で急いでやるべき仕事はすべて片付いたので、月曜日の午前中は少し集中して教科書の校正をしようと思った。しかし、いざキーボードに手を下ろすと、爪が伸びていることに気づく。昨日まではわからなかったのに。1日で、いや昨日は夜まで働いていたからつまりは半日で、わずか0コンマ数ミリの違いのはずなのだけれど、爪は確実に伸びてキータッチをジャマする。

あるいは、夜は指先がわずかにむくんでいて、朝になってそのむくみが取れた分、爪の伸びが顕在化してくるのかもしれない、なんてことを思う。頭の中に湧き上がったインスピレーションをいったん保留して、爪を切る。両手10本切りそろえたころには、インスピレーション(笑)はとっくに陳腐化していて、(このくだらないアイディアの何にそんなに興奮していたのだろう……)と、爪切り後賢者モードに突入している。




先日から読んでいる本は、学校やオフィスの建築構造、あるいはデスクのレイアウトが人びとの仕事や生活にどのように影響を与えるのか、みたいなことを、ぼくのぺらっぺらの語彙ではなしに、もっと重厚に考えていて、読んでいてすごく楽しい。ただし、仮にぼくはオフィスがもっとクリエイティブなデザインにだったとして、YOGIBOとかめちゃくちゃいっぱいあって、フリースペースのどこで顕微鏡を見ても大丈夫で、コーヒーメーカーのところでみんなが談笑できてアイディアの交換もできて、動線によって次々と新しい出会いが生まれてセレンディピティ! みたいなことを言われても、爪の伸びひとつで「集中できねえな。」と思って朝からゴミ箱のあるところで爪を切ることから仕事をはじめるのだろう、と思った。「爪も含めて環境だ」とも言えるから、環境が仕事に影響するという考察自体は間違ってはいないだろう。


そして、こういうことを考えているときに、「爪を短く切っておくことがいい仕事の秘訣。」みたいに安直に結論をするのではなくて、「爪を短く切れば集中できると自分に言い聞かせているぼく自身のパーソナリティ」というものにも目を向けることは可能だ。実際そこまでやらないと、そのへんを歩いている若者をとっつかまえて、「いいか、爪を切るんだ。伸びた爪は素早いキータッチの敵だからな。」みたいなことを言う老害に成り果てることになる。なお、爪を切るだけでいい仕事ができるようにはもちろんならない。そういう問題もある。


環境が自分の仕事を手伝うのではないし、自分が環境を無視して何かを為せるわけでもない。環境と自分が溶け合った状態で、相互作用を及ぼし合っているうちに、「ぼくと環境との間」から仕事が飛び出してくる、あるいは噴き出してくるような間欠泉のイメージ。何かが噴き出てくる場所は自分の中からボールひとつぶん体の外に離れたところにある。YOGIBOに座ってPCを膝に乗せればいい仕事ができるというのはぼくにとっては幻想だが、そういう環境とのマッチングによって何かを噴き出させる人も、きっと世の中には何パーセントか混じっているのだろうから、環境を整えていい仕事をしましょうというのは大枠では賛成している。ただし、そういうときに、自分の中からお湯が沸いてくると思っている人をみると、うん、ボールひとつぶんずれた自己認識だな、と感じるのである。

2022年9月12日月曜日

病理の話(695) ある日の専門家との会話にて彼は気を遣っていた

うちにバイトに来てくださっている病理の先生と、一緒に顕微鏡を見ながら(数人で同時に見られるタイプの顕微鏡というのがあるのだ)、ある患者の病理診断をどのように書くかという話をしていた。

ある患者……臨床診断:がん。

主治医はこの病変が、とある種のがんだと思っている。しかし、細胞を見ずにそれががんだと言い切ることはできない。世の中には、「がんに似た見た目を示す、がんではない病気」もいっぱいあるからだ。そこで主治医は、病気の表面から細胞を採取する。これを病理医にみてもらって、がんか、がんでないかを判断させるのだ。

そして病理医である我々は今、それを見ている。

がんではない。

一目でわかる。

組織を構成する細胞は明らかにがんとは異なる細胞によってできている。ぼくはふと、「ああよかった」と思うが、すぐに思い直す。「がんでないなら、なんなんだ」

組織の表面に整然と配列する細胞のすぐ下、顕微鏡でなければ見えない部分に、たくさんの炎症細胞がある。これらは、何らかの刺激に反応して出てきた、体内の警察部隊だ。

炎症というのはいわゆる暴力的な解決方法で、細菌やウイルス、毒素のようなものを攻撃して倒してくれる。その際に、周囲にある「善良な組織」にもとばっちりのような被害がおよぶ。炎症自体は体をまもるために必要なのだけれど、まるで警察が犯人に向かって発砲して、その弾が商店街のお店のガラスを突き破る、みたいに、「正義の暴力」は善良な人びとをも傷つけることがある。

この炎症によって、組織の表面にならんでいた細胞にも悪影響が出たのだろう。配列がみだれ、構築がおかしくなることで、「あたかもがんのように」表面から見たときに異常が生じる。



というわけで、ぼくは病理診断を、「がんではありません。炎症です」と書こうとした。そしたらバイトの病理医が言うのだ。

「主治医はがんを疑っていますので、報告書に単純に『がんではないです』というとびっくりしてしまいます。」

……たしかに。医者も人間だ。思っていたものと違う検査結果が返ってきたら、まずは「驚く」だろう。

「ですから、驚かせるだけではなくて、根拠を詳しく述べて納得してもらいましょう。さらに、『なぜあなたはこれをがんと見間違えたのか』についても、報告書を読めば感じ取れるような説明をするのがよいと思います」

なるほど大事なことだなと思った。「お前の診断は違うぞ。病理医が顕微鏡を見た結果のほうが正しい。」と、大上段から唐竹割りにするような報告書を書いても、主治医はにわかには受け入れられない。……いや、スネて結果を無視するみたいなことはしないのだが、「なんでだよ。俺にはがんに見えたんだよ」と、モヤモヤする思いが残ることは間違いない。

そこで、「なぜこの病気は、がんではないのに、がんに見えたのか」を説明するところまでやるのが病理学だということだ。ぼくらにはそれができる。「似ていたから間違えたんですよ」で解説を終わらせず、「なぜ似ていたのか」のところも解析するということだ。




当院では複数の病理医にバイトに来てもらっている。バイトの先生方は、週に1度、あるいはそれより少ない頻度でしかいらっしゃらないので、数日かかるような仕事をふることはできないし、事務作業をあてがうのももったいない。あくまで限定的な仕事しかしてもらえないのだけれど、それでも非常に助かっている。

「助かっている」理由のひとつが、バイトで外から病理医を呼ぶことで、「自分とは違う病理医の、診断書の書き方・考え方を見て学ぶことができる」ということだ。

「病理医にはそれぞれ、主治医のためにこうしたらよいのではないかと考え抜いた信念」みたいなものがある。複数の病理医がいればそれだけやり方も多く存在する。たとえば今例にあげた病理医は、「主治医にとても上手に気を遣える人」であった。主治医の「誤診」を病理医がレスキューして終わるだけではなく、その間違いがなぜ起こったのかというメカニズムまで解明して伝えてあげることで、主治医は次に似たような患者をみたときに、「同じ間違いをおかさなくなる」かもしれない。そういうことのくり返しが医療の精度をあげていく。


バイト助かる。バイト最高だ。しかしあまり雇いすぎると、病院の事務におこられる。「きみんとこ、売上げには貢献してないのに(※病理医は患者に処方をしないし手術などもしないので、病院に大きなもうけを与えることができない)、ずいぶん人を雇おうとするね?」すみません、人件費って一番高いですよね。なぜなら、人が複数いて経験を伝え合うことこそが、医療従事者にとっても患者にとっても、最高の環境を保証してくれるからですよね。マジすんません。気を付けます。来期は。たぶん。

2022年9月9日金曜日

否定によるアイデンティティ

「テレビなんて見てないよ」がある種の合い言葉であった20年前にぼくらは学生だった。「大衆と違うことをしている」というところが自我の境界面をつくる上でとても大事だった。

そして、今や、みんながみんな、違うことをやっている。「大衆」がなくなった。「Twitterで今いちばん有名なネタ」を家族や友人にふっても10%くらいしか理解を得られないのは昔とかわらないけれど、「バリバリの陽キャが最近ハマっているポップな音楽」も社会の10%未満の人しか理解できない。最大公約数的な文化がいつのまにかなくなっている。

そして、おもしろいことに、昼間のTwitterでトレンドにあがるのは、朝ドラやラヴィット、月曜日であれば大河ドラマの感想ばかり。少なくとも見た目上は、テレビがトレンドを席巻しているのだから驚く。

各人の趣味が拡散しすぎてマジョリティが消失した結果、受像機の所有割合が高くて、即時性・共時性にかんしてほかの媒体よりもやや優位な「テレビ」が、ほかのコンテンツの獲得票数が下がった中で「頭ひとつ取り残された」かのように、毎日トレンド上位に躍り出る。もっともこれもかりそめの順位なのだ、世の多くの人びとは、ラヴィットをやっている時間には仕事や学校でスマホから離れている。「今日川島が言っててトレンドにもなったアレ、見てた?」と周りにたずねて答えが返ってくることはめったにないだろう。1億のうち数百万人「だけ」が見て、その中の100人くらいが声を出して盛り上がることを「トレンド」と呼ぶ。



長らく引用し続けてもうオリジナルのトークを忘れてしまったけれど、昔、福山雅治がラジオで、「今の子どもは親に対する反抗期というのがないらしい。なぜなら、親以外にも学ぶべきセンセイ、センパイが、大量にネットの中にいて、親だけを見て育つということがないからだ。親を見て育ち、自然と親に似て、自分だけのアイデンティティを作る上で親から決別して親との違いを出すことが、昔の子どもにとっては必要だったから反抗期があった。でも今は、親と違うものを見て、親と違う人間に最初から育つ。だから、親に反抗する必要がないし、親もまた『たまに参照できる先』でしかないのだ」と言っていた。ぼくはこの話が好きでずっと覚えている。

そして、「トレンド」とか「みんなが盛り上がっていること」みたいな話も、これと根っこの部分で共通しているのではないかと思う。

親や学友、同僚などの、リアルに距離を詰められる人、と共有できるものの数がどんどん減っている。「テレビなんて見てないよ」だけではもはやアイデンティティにはなりようもない、なぜなら、「見ていない人のほうが多い」からだ。相違が増えた世の中で、「何かを否定すること」をもって自分の境界面を定めようとすることは無理ゲーに等しい。今もなお、中年以降の、社会的地位がそれなりにあるタイプの人が、

「私はテレビなんてくだらないものは見ないからなあ」

「Twitterはぜんぜんやってません。この先やろうとも思いません」

みたいなことを平気で口に出す。否定でアイデンティティを作らなければいけなかった昔の人間だな、という感想である。社会への反抗期はあなたにとっては必要だったのだろう。しかしそれはもう流行らない。今はそういう世の中ではないのだ。テレビもTwitterも見ないからそのことに気づけなかったのではないか。

2022年9月8日木曜日

病理の話(694) 仕事で忙しいときに教育をするということ

初期研修医(医学部を出て1年目、2年目の、医者になりたての人たち)を対象とした勉強会をやっている。


もともと、10年くらい前にはじまったこの勉強会は、長い間ぼくが司会をやっていた。ぼく(患者を直接診ない病理医)が、(患者を直接診る医者を目指す)研修医たちのための勉強会をやる理由は、毎週水曜日の朝8時~8時半という多くの臨床医たちにとって激烈にいそがしい時間帯に、定期的に研修医を集めて会を開けるのが当時ぼくしかいなかったからである。


勉強会では、「診断」(病名を決めたり、病気の広がっている範囲を確認したりすること)については教えることができる。しかし、処置や治療については、そういった普通の医者の仕事を日頃から一切やっていないぼくはまるで教えることができない。


そこで、多くの科の医者たちがかわるがわる、「ちょっと頼りない病理医が開く勉強会」に交代で出てくれたのだ。そうやって複数の上級医たちに支えられて、なんとかかんとか、若手医師を教育してきたのである。




医者はほかの社会人と同様に普通にいそがしい。自分の仕事、自分の勉強で手一杯だ。したがって、他人を教えることに時間を使えるかどうかは、本人の熱意とかはわりと関係なく、「仕事がそもそも終わっているかどうか」に依存する。しかし、そんなことを言っているといつまでたっても若手教育などはできない。また、昔の技術職のように、「教えないから背中を見て盗め」では、膨大な医学の知識や繊細な医術の知恵はとてもではないけれど学びきれない。

したがって、現代の医療職はある程度、「忙しい者同士がみんなで補い合いながら若手を教育する」ことに自覚的でなければいけない。そこで、まずはぼくのような、患者が目の前に現れない仕事をしている分、自分の裁量で仕事時間を自由に定められる人間が、朝に研修医たちを集めておき、司会という名の役割で実際には研修医たちと一緒になって、医療のあれこれを学んでいくという機会を設定したのであった。



これがすごくよくて……という程ではなかったがまあわりと、それなりにうまくいって、長年この勉強会は存続してきた。そして1年ちょっと前に状況がかわった。熱心な臨床医たちのひとりがぼくに代わって司会を担当してくださることになったのだ。忙しいはずなのにありがたいことである。そして、結局はこの臨床医のような、「属人的な献身」に頼らないと、研修医教育というものはうまく回っていかないので、なんというか、ありがたいし、もう少しなんとかみんなを楽にできんかなあ、なんてことを考えている。




最近ぼくは勉強会をちょっとサボり気味だったんだけど(昔も今もおかげさまで忙しい)、先日ひさびさに顔を出した。すると勉強会のレベルは確かに上がっていた。すばらしい。

会に出ている上級医が研修医に向かってたずねる。

「こないだ話した……『○○という状態にいる患者が菌血症になったとき、まずはどんな薬を投与するべきか』、という話題について、調べてみた?」

すると研修医はこう答えた。

「はい、ガイドラインを調べてみたんですが、詳しい記載はありませんでした。」

すると別の上級医がそれに応答する。

「ガイドラインは大事だよね。だからまずそこから調べるのはとてもいいことだ。ただし、ガイドラインは、日常診療の最大公約数的なことまでしか書かれていないことが多い。現場の実運用では、多くの医者に幅広く用いられるガイドラインよりも、もう少し詳細な例にコミットした、いわゆる『有名な教科書』まで探ってみたほうがいいよ」

そして別の上級医も言い添える。

「そうだね、たとえば青木眞先生の本とかね。あれは読んでおいたほうがいいな」


みんなこうして、お互いに忙しいんだけど教育をするのは、たぶん、言葉を投げかけて学んでほしいと思う先に、若い研修医だけではなく、「今の自分の分身」みたいなものがいるからかもしれないと、ふと思った。上級医たちが口にした内容は、必ずしも研修医だけに向けた話ではなく、自分たちの勉強にもなる話なのだ。他者のためだけに勉強会をやり続けられるほどぼくらはヒマではないし体力があるわけでもない。どことなく、「自分のためにもなる」という利得……インセンティブ……があるからこそ、こういう教育を続けていけるんだろうなあと、ふと思った。

2022年9月7日水曜日

お違和い

世の中をぱっと見回すだけで、「自分ならこうするのに。なぜこうしないんだろう」と気になってしまうモノゴトがいくつも見つかるのが「普通」である。

そこでつい、「世の違和感に気づく自分は、(普通とは違って)優れている」と感じがちである。でもそうじゃない。「世の違和感に気づくこと」は、人間のわりと基本的な能力だ。だれもが違和感に気づくことで人間をやっている。「気づけた自分が偉い」というものではない。

これはおそらく脳がそういうふうにできているのだと思うけれども、我々は、「気づけた自分が偉い(……快感!)」という、ゆがんだ報酬系を、知らないうちに身につけているのではないかと思う。あるいは生まれ持っているのかもしれない。



認知のしくみは、「こうあれかし」からズレているものを真っ先に見つけてチェックする。いつまでも止まって動かない背景の中で、急に視野を横切るように小さい虫が飛べば、人はそれをめざとく見つける。飛行機がフライト中にキャビンが轟音で満たされている中、となりで寝ていたおじさんが「魔法少女……」とつぶやけば我々の耳は必ずそれを聞きつける。外界の刺激が、絶対値として大きいか小さいかではなく、「それまでそこにはなかった」ことを重視して、認知するようになっているわけだ。


この話は、視力や聴力といった、五感を直接駆使するものに限らない。もっと複雑なシチュエーションであっても、ぼくらは「何か違う」ものを見つけ出すことが得意だ。

たとえば、何かの情報に対して「自分ならこうする」という動きが、自分の中で定型化している状況を考える。ある種の定石になっている、と言ってもいいだろう。「ああ来たらこう返す、こう来たらああ動く」。

そして、いざその情報が自分ではなく他人に降りかかったときに、他人が自分とは違う対処をしたとする。その瞬間の、「あっ違うことしてる」という気持ちは、かなり原始的な刺激として脳を揺らす。

押しボタン式の横断歩道にたどり着いて、ボタンを押した人が、ボタンを押した直後にまだ信号が変わっていないのに、「もういいや!」とばかりに走り出すとき、それを車の中から見ているぼくは、「なら押すなや!」とツッコミたくなる。別にそんな、他人が何をしていようが、どうでもいいはずなのに。

Zoom会議の最中、ずっとヘッドセットのマイクを右手で触っている司会者を見ると、「何をかっこつけてんだよ……!」とツッコミたくなる。「それでははじめさせていただきたくお願い存じます。」みたいに敬語が過剰(あるいは誤用)だったりすると、「日本語しっかりせえよ!」とツッコミたくなる。でも別にそれをほっといたからって誰の生活が苦しくなるわけでもないのにね。




「自分ならこうするのに。なぜこうしないんだ」が進化の過程でぼくらの脳に残った理由がおそらくある。人間は、自分が見聞きして経験した内容だけで人生を組み立てることがむずかしいのだろう。狭い視野、限られた行動時間で、偶然自分と出会ったものだけに対処してレベル上げをやっていては、将来やってくる「初見の中ボス」に打ち倒されてしまう。したがって、他者にふりかかった状況と、他者がそれに対応した内容とを、自分だったらどうするか、と自分にインストールするのだ。「あいつ俺と違うことしてんな! 俺ならぜったいこうする」とロールプレイをすることが、たとえではなく真の意味でその人の「体験」になっている。


だからぼくらはいつでも、「なんであいつこんなことしてんだ?」と人にツッコミを入れる。本能で。普通に。しかし不思議なことに、「人の違和感に気づける俺カッコイイ」という報酬系が、近年では若干過剰に作動しているように思われ、それはおそらく、人類が過去にないほどに他人を見ることができるようになったからで、それは脳が進化したのではなくてデバイスが進化したからなのだが、つまり、気づきすぎる自分もカッコ良く感じられている状況は、ちょっとしたバグというか仕様のずれなのであるが、そのことに気づかずに「違いに気づける自分サイコー」となっている状態に強い違和感がある。気づけた~

2022年9月6日火曜日

病理の話(693) ディスクレパンシー

「ディスク・レパンシー」ではない。強いて書くなら「ディス・クレパンシー」である。


Discrepancy:不一致。くらべてみたときに「うまく理屈が合わない」ことを言う。この言葉は、医療の世界ではしばしば耳にする。


具体的にはこういう感じだ。


「主治医がCTを見て、ここにこのようなサイズの病気があると診断しました。そして手術をしました。摘出された臓器に対して、病理医がねんいりに病気をみて、顕微鏡も使って細かく確認してみたところ、事前に臨床医がCTから予測していたサイズよりも、病気のサイズがかなり大きかったことがわかりました。臨床診断と病理診断の間にディスクレパンシー(不一致)がありました。理由はなぜなのでしょうか?」


しちめんどうくさく書いたけれど本当によくあることである。病気の診断名自体はあっているし、治療法も問題ないので、患者にとっての不利益も生じていないのだが、ただ、「主治医が手術の前に見立てていた病気のサイズが本当のサイズよりも少し小さかった」ことは、主治医をくやしがらせる。(※外科医は、そういうこともあると知っているので、あらかじめ病気よりも広い範囲を手術でとってくるようにしているから、見立てより実際の病気がでかかったとしても、たいていはうまくとりきれる)。


ではなぜこのようなディスクレパンシーが生じるのか。いろいろな理由がある。そして、その「いろいろな理由」は、主に病理医によってもたらされる。


例としてはこうだ。


「この病気は、まんなかではぎっちりと細胞の詰まった姿をしていますので、CTでも捉えやすいです。しかし、へりの部分では、細胞がまばらに飛び散っているんですね。CTにうつる限界というのがあるので、へりの部分のようすは、完全には捉えきれなかったのでしょう。」


あるいは、こういうパターンもある。


「一見、病気のようにうつっていたこの部分、じつはメインの病気とは関係ない、べつのできごとによるものです。ここを病気だと考えてしまったために、本来の病気のサイズがわかりにくくなったのでしょう。」


最終的には解像度の差になってくる。病理診断はたいていの場合、主治医たちが見ているCTやMRI、内視鏡、超音波よりもはるかに細かい範囲で病気を見ることができるから、主治医が予測する病気の性状よりも、病理医がみている病気の姿のほうが「本来の姿に近い」。

となると、ディスクレパンシーという言葉を使うのも、ほんとうはおかしいのだ。「不一致」にふくまれるニュアンスは、単に二者が合っていないというだけのものだが、じっさいには「主治医の診断が少し間違っている」(病理診断はより正しい情報を提供するので、それと比べることで発覚する)だけのことが多い。「正解と見比べると不一致」なんてまどろっこしいことを言わず、「不正解例」と称すればよい……。



が、われわれは慣習的にも、あるいは本来の意味的にも、ディスクレパンシー(不一致)という言葉を使うようにしている。それは、「病理診断が答えに近い」という言い方が、どことなく下品だな、と感じるからだろう。患者にとっての「正解」とは、その病気が細胞レベルでどういう性状をしているか、の部分ではなく、「どういう姿の病気であろうと、それにどう対処すればいいか、どのような手段で立ち向かえば病気を『いなす』ことができるか」の部分に存在するはずだ。主治医と病理医がクイズを出し合って解き合っている風景など患者にはオマケみたいなものである。病理医のほうが正解だ、などとうそぶいたところで、それが主治医と患者の二人三脚を良くしていかないのならば意味がない。


だからぼくらはいつもディスクレパンシーという言葉を使う。生身の患者を想定して、「我々が同じものを違うように解釈してしまうのはなぜか」をきっちりと詰め、そして、患者の診療にフィードバックすることだけを考えるために。

2022年9月5日月曜日

ぼくらにも関係のあるCM構造

全国系の研究会(医療関係者が集まっていろいろ意見を戦わせたり人の話を聞いたりする場所)に呼ばれて講演をすることがあるのだが、その研究会の事務作業もろもろについては、これまで、製薬企業が仲介していることが多かった。

「薬屋さんのおてつだい」によって医療者たちは勉強場所を手に入れていたということだ。

ホテルの大きなホールを借りるとか。案内パンフレットをあちこちの病院にくばるとか。場の用意、告知、当日のさまざまな差配などが、製薬会社の社員たちによってなされていた。

さらに言えば、講師を呼ぶ場合の交通費、宿泊費、講演料なども製薬会社がもつ。

費用がすべて企業の財布から出て、医療者たちは一切金を払わずに、勉強をすることができる。

いいことだらけのようだが、もちろん、企業にも「狙い」がある。研究会においては、金を出した企業がCMを打つのだ。

講師がしゃべるまえに10分ほど「製品紹介」が入ったり、配付されるボールペンに薬の名前が入っていたりする。露骨なものになると、研究会の中で「企業の製品を使った結果おこったよいこと」を発表する医者が混じっていたりする。

いかにもCM的でロコツだなあと思いながらも、「よくなった患者がいてよかったね」という気持ちでなんとかバランスをとる、みたいなことにもなりうる。



構造としては、我々が長年テレビをタダで見てきたことに近い。テレビ番組の制作や配信にかかる費用は、そのほとんどが広告料金によって成り立っていて、スポンサーが怒るような番組をつくることは御法度だ、みたいな話は誰もが耳にしたことがあるだろう。

これとまったく同じシステムが医療の世界にも存在した。



ぼくは病理医であり薬を出さないので、日頃、製薬会社の方々がデスクを訪れることはまずないのだけれど、講演をたのまれると営業の人たちがいきなりやってくる。だいたい以下のような流れだ。

まず、どこぞのエライ医者から電話がかかってきて、「来年の○月に、どこそこで講演してくれませんか?」と頼まれる。その人は研究会の「代表世話人」というやつで、会の趣旨について、医者が何人くらいいて、研究会で扱う臓器は何で、病気は何で、ぼくにしゃべってほしい内容はこれこれこうだ、と教えてくれる。エライ人から頼まれるとうれしいので、「尽力します!」などと答える。するとそのエライ人は、「ありがとうございます、やあ、よかった。つきましては○○製薬の人がこのあとの事務作業をしてくれるので、よろしくお願いします。」と言う。ぼくはそこで、はあ、○○製薬ですか、なるほどわかりました、と答える。すると数日して○○製薬の人がデスクにやってきて、「このたびは弊社の共催する研究会でご講演くださるということで誠にありがとうございました、つきましては交通・宿泊のご相談をさせていただき、かつ、当日お話しいただくプレゼンの内容チェックなどもさせていただいて……」と言われる。あっ、主催はあのエライ人たちじゃないんですか? と聞くと、いえ、主催は研究会ですが、われわれ共催でしてモゴモゴ、などと言う。


ん? とここで疑問に思うべきなのである。いろいろあるけれど、たとえばここだ。


「当日話すプレゼンの内容チェック」。


なんで製薬会社のひとがぼくの専門講演の内容に口出しをする? 共催だから??


このチェック、実際に受けてみると、だいたいがコンプライアンスがらみである。プレゼンの中に用いられたデータに「自施設から提供しました」の断り書きを入れてくれ、とか、画像を撮影した日にちをマスクするのを忘れている写真がここに1枚あったから直してくれ、とか、この文章については根拠となる論文を書いてくれ、とか言われる。ま、わりと、おっしゃるとおりの指摘なのだ。少し拍子抜けする。

「製薬会社の得になるような一文を入れてくれ」みたいなことを言われるのかと思ったがそんなことは今までなかった。

むしろ逆で、かかわった企業や、そのライバル企業の薬について書いてある部分はめちゃくちゃ厳重にチェックされ、「科学的根拠のないCMっぽいことを言うと、あとでめちゃくちゃ問題になるんで、絶対にやめてくださいね!」とくる。

スポンサーが自分たちの都合のいいように口を出すというより……そうだな、下品でやりすぎなテレビ番組が放映されると、スポンサーのほうにまで怒りの矛先が向くことになるだろう。「なぜこんな番組に金を出したんだ、不買運動します」みたいに。あれを防ぐためのチェックを受けているかんじである。


スポンサー側から「先生のためにもなりますので」の圧を受けながら、プレゼンの細かい修正を行って、当日しゃべって、たくさんの医療者と交流をし、次はあの学会でこういう発表をしようなどと打ち合わせをやって、研究会から(でも本当はスポンサードしている製薬企業から)報酬をもらって、講演は終わる。





さて、最近のぼくは、そういうのがとても面倒に感じるようになった。企業が交通・宿泊を出すと言ってもZoomでしゃべればいいので、たいていの研究会では現地に行くのを断るから、別に企業の人から連絡をとってもらう必要はない。Zoom URLを発行するのが企業だったりすると連絡せざるを得ないけれど、近年は、ぼくを含めた多くの医者が、「手弁当」で、自分たちで研究会をつくって、Zoomを自腹でプロ契約にして、多くの医療者相手に配信することになれてきた。

ほんとうは、間に製薬会社が入ったほうが見栄えがよく、すみずみまで気持ちをくばってもらえるのだけれど、自分たちの勉強のために自分たちで汗をかくことはそもそも当然である。ふんぞりかえって事務作業を完全に他人任せにしてきた今までのほうがちょっとおかしいかなと感じるのだ。

コンプライアンスでガチガチにかためられたプレゼンチェックを受けなくていいというのは功罪両方あって、「このあとスタッフがおいしくいただきました」的な表示をジャンジャンプレゼンに入れさせられるのは噴飯物だが、「ここ、患者さんの個人情報を消しわすれていますよ」というのを指摘してもらえるのはありがたい。似たようなことがあちこちにある。企業が間に入ったからいい、悪いとはっきり二択で語れるようなものではない。これまでの企業の取り組みには感謝しているし、すごいことをやってくださっていたのだなという気持ちももちろんある。やっぱり、「企業が幅広い医療者に声をかけてくれるおかげで研究会が盛り上がる」という面は確実にあったんだよな。

でも、医者自身が事務作業をいとわず、広報力をもってしっかりがんばれば、学問の場にCM的な時間をさしこまなくても済む分、時間効率よく勉強ができる。SNS時代がどうとか、個人が発信者になる時代だとかいう話を全部真に受けるほど、ぼくはSNSを軽く考えてはいないので、企業なんていなくても自分たちで全部できるぞと胸を張って言うようなことは今後もないのだが、できれば、なんというか、自分たちのための勉強なのだから、自分たちできちんと責任をとっていきたいな、という気持ちは持ち続けていたい。雨後のタケノコのように勃興した「医師が自分たちだけでやっている研究会」はさまざまな問題を抱えていて、無数にできてはボコボコつぶれて新陳代謝が激しいが、そのうち安定するだろう。試行錯誤をくりかえすことをやめてしまってはだめなのだと思う。

2022年9月2日金曜日

病理の話(692) 5W1Hをひとつお忘れですよ

 以前にこのような記事を書いた。


病理の話(691) 5W1Hって偏ってるよね


でもこれ読んだ人にすぐ言われたんだけど……5W1Hの分類をぼくが普通にまちがっている。


What:何が?
Where:どこ?
When:いつ?
Why:なぜ?
Which:どっち?
How:どのように?


いやいや、whichじゃなくて「who:誰が?」だよね。うっかりしてたわ。



この記事の意図は「病理診断を書くときに5W1Hを意識すると強い」ということなんだけど、診断を書くときに「誰が?」を意識するという概念があまりなかったので、ついうっかり、which(どっち?=選択)を入閣させてしまった。5W1H改造内閣である。



記事には冒頭付近に追記をして「whoを忘れてました」と書いてヨシとした。


しかし、その後、(……よく考えると、病理診断を書くときにWHOも意識するよなー)ということに気づいた。

WHO。世界保健機関である(ダジャレじゃん)。





病理診断のための教科書はいっぱいあるのだが、なかでも、WHO:世界保健機関が策定している、通称blue bookと呼ばれる本を用いて、多くのがんの診断が行われる。





ここには世界中の医師・学者がまとめてきた論文をもとに、全身のあらゆるがんの疫学、診断のヒント、分類などが詰めこまれている。ちなみに1冊だけではなく、臓器ごとにわかれていて何冊もある。上の写真は「消化器」、すなわち胃腸、食道、肝臓、膵臓、胆道などがまとまっている号だ。



というわけで真の5W1Hを考えても病理診断はできる。whoはWHOである!



……とまあダジャレ的に終わってもよかったのだけれど、もう少し考えてみよう。「who:誰が?」を考えながら診断をするということも、じつはある。



病気というものは、どのような年齢の、どのような性別の患者かによって、出る頻度がガラッと変わるのである。つまり、顕微鏡で細胞だけを見るときに、その細胞が「どういう患者から採取されたか」……すなわち「誰から採取されたか」によって、考える診断が変わってくるのだ。

たとえば、膵臓の粘液性嚢胞腫瘍(ねんえきせいのうほうせんしゅ:MCN)という病気がある。けっこう珍しいがたまに遭遇する。この病気は、なんと、男性には発生しないことで有名だ。女性にしか出ないのだ。

したがって、細胞をみて、「あっMCNだな」と思っても、その患者が男性だった場合には、「違うのか、MCNに似た姿を示す別の病気なのだな」と考えをあらためなければいけない。

かつて、男性だけどMCNを発症した、という患者の報告がわずかにあった。しかし、そのような症例は、後に再検討したところ、次のふたつのパターンにあてはまることがわかった。

1.MCNという診断が間違っていた。

2.男性だと思ったが男性ではなかった。

「2.」がびっくりであるが少し考えると納得する。外性器の表現型は男性だったが、体内には女性の痕跡も残っていた、ということだ。これがいわゆる両性具有だったのかどうかまでは確かめていないけれど……。



「えっ、細胞みるだけでなんでもわかるわけではないの?」



いやいや、細胞って超むずかしいからね。典型的な病気だとまあ細胞だけでもわかるんだけど、ふつうの病理医は、顕微鏡だけではなくて、血液検査のデータ、CTや内視鏡などの画像、そして、患者がどういう人なのか、どういう生活を送ってきているのか、年齢、性別、タバコは、酒は、これまでにかかってきた病気は……みたいなことを全部総合して、なんとか診断にたどり着こうとする。


したがって、「病理診断報告書に書くかどうか」はともかくとして、病理医はやっぱり「5W1H」をすべて意識しているのだ。whichを加えたら6W1Hだなあ。


……あっ、whoseは……?

2022年9月1日木曜日

やふー

メールの送信者欄に自分の名前を書いていない人から連絡がくると、ああ、SNS世代だなーと思う。


なんだ「やふー」って。

ああ、複数使っているメールのクライアントごとに、「やふー」とか「じーめーる」とか表示させている感じかな?




たとえばGmailウェブクライアントを使っていると、同じ人から届くメールは一連のスレッドになる(ことが多い)から、「やふー」氏のスタイルでもなんとかなるのかもしれない。LINEでもSlackでもなく未だにE-mailを使い続けている我々の仕事スタイルに問題があるという自己批判も可能である。

しかし、システムはともかく、仕事相手が4桁いるぼくの元に、署名も過去のメールの引用もついていない連絡がくる確率はいまのところ1%未満だ。となるとまあ、なんか、今日のところ、「ひとまずこの人がなんとかしてくんねぇかな……」と考えてしまうし、ひるんでしまう。



医者は初期研修が終わると最も若くても26歳、ぼくとメールのやりとりをするような世代となると一番若くて30歳くらい。SNSネイティブ世代がついに30代に突入した、という理解でよいのだろう。こうして緩やかに世代交代する。

30代前半の人間たちがもたらす違和感の裏側、写真に対するネガのようなものをきちんと見ると、「若い人によってもたらされたように見えるこのやりづらさは、じつは自分たちに内在している何らかの特性によるものかもしれない」と考える機会が与えられる。知らず知らずのうちに自分が「当然」としてしまったものが、おもいのほか「偶然」の積み重ねでたまたまそうなっただけで、理屈もなければ筋道もなかったりすることがままあるので、いったん自己を振り返ることは大事だと思う。いっぽうで、多くの人間たちが10年以上かけて作り上げて今残っているシステムは、「ボールが高い所から転がり落ちた結果、どうやってもここにたどり着く」みたいにそれ以外のルートが選べない場合もままあるし、経年による選択圧を超えてなお残っているだけあってそれ以外のシステムより世界に適応する何かが含まれているかもしれない。いつもいつも「古いシステムが悪い」とだけ言っていてもだめなのだろうなという気持ちもある。



でも宛名「やふー」はねぇよな。「あいみょん」とかならまだ許せるんだが「やふー」はない。そこはセンスの問題だ。しかしセンスという言葉ほど根拠の乏しい、複雑系の出力だけを見ているような、ある意味AI的な言葉もなかなかないな、という気もしないではない。