2022年9月27日火曜日

ワークマンのジャケットなら毎日洗える

出勤してから気づいたこと、今日は髪型が変だった。なんか横のところがはねてた。しかしもう夕方だ。おそらく誰も、気にも留めなかっただろう。というかそもそも今日は人とあまり会話をしていない。

前提として、ぼくはそういう働き方が可能である。作家や絵師あたりと近いかもしれない。多少髪型がおかしくても、服がだめでも、人と会わなければどうということはない。清潔にしていないと自分にダメージがくるけれど、センスが悪いだけなら人に迷惑をかけない。

ただし、前提とは別に、自分がそういう方面のキャラクタになりつつあるということも十分に考えている。変化をうながしたのは経験と加齢の両方だ。20~30代の自己顕示欲はもう少し自分の見た目とダイレクトに紐付いていた。たとえばそれは病理診断文を臨床に届けるときにも言えた。「デスクでビシッとした格好をして働いている俺が書いた仕事を受け取ってくれ」という念の込め方をしていたと思う。毎日スーツを着て出勤していたのは「上級医になめられないため」であり、かつ、「しっかりした自分から生まれてくる仕事にみんな敬意を払って欲しいから」という理由が確実にあった。

しかし仕事の実績が積み上がっていくことで、「見た目を加味しなくても尊重される」という立場にじわじわと近づき……。


いや、ちがうか、加齢によって「見た目がおとろえたこと」でかえって信頼感が増したのか。これも広い意味では「見た目で尊重されている」ということになるのではないか。

「髪型を気にしないくらいの見た目を保ったほうが有利なポジション」に、今のぼくはいるのだ。



肌つやがいい人間が正論を言えばイキリと思われがちなカンファレンスで、くすんだ顔色のぼくが一言ふたこと所見を足すとみんな「おお~」と納得してくれる。臨床医がスーツで参加している学会で、ワイシャツの上に安いジャケットを羽織ったぼくがZoom画面にうつると「ここからは病理の時間」と言わんばかりに空気が切り替わる。複数人が納得するために調整をはかるとき、「ヨレた」見た目でいることは、思いのほか役に立つ。


これをぼくは長いこと待ち望んでいた。


理論よりも貫禄、パッションよりもエクスペリエンスで話がすすんでいく社会に、半分憤りつつ、「はやく自分も、にじみ出るオーラだけで仕事がラクに進む立場にたどりつきたい」と、20代、いや10代くらいのときから熱望してきた。


今それが叶っている。


いざこの場に座ってみると、見えるのは無数の「熱意ある若者たち」と、「経験だけでしがみついている中年たち」だった。百鬼夜行をしずかに絵巻に描いている気分である。


そういえば鏡を見なくなったなあと思ってトイレで自分の顔を見ると適度に疲れて適度に陰を背負っていて、いかにも頼りになりそうなので笑ってしまった。20代よりもずっと服飾雑貨の知識が増えたはずなのにこんなに正しくヨレヨレになっているのは素敵なことだ。人は見た目が9割である、ただし、その9割をどう使うかについてはわりと複雑な解が複数存在する。清潔であることだけは忘れてはいけない。しかしぼくが着るべきはアルマーニのジャケットではないのだ。