2022年9月7日水曜日

お違和い

世の中をぱっと見回すだけで、「自分ならこうするのに。なぜこうしないんだろう」と気になってしまうモノゴトがいくつも見つかるのが「普通」である。

そこでつい、「世の違和感に気づく自分は、(普通とは違って)優れている」と感じがちである。でもそうじゃない。「世の違和感に気づくこと」は、人間のわりと基本的な能力だ。だれもが違和感に気づくことで人間をやっている。「気づけた自分が偉い」というものではない。

これはおそらく脳がそういうふうにできているのだと思うけれども、我々は、「気づけた自分が偉い(……快感!)」という、ゆがんだ報酬系を、知らないうちに身につけているのではないかと思う。あるいは生まれ持っているのかもしれない。



認知のしくみは、「こうあれかし」からズレているものを真っ先に見つけてチェックする。いつまでも止まって動かない背景の中で、急に視野を横切るように小さい虫が飛べば、人はそれをめざとく見つける。飛行機がフライト中にキャビンが轟音で満たされている中、となりで寝ていたおじさんが「魔法少女……」とつぶやけば我々の耳は必ずそれを聞きつける。外界の刺激が、絶対値として大きいか小さいかではなく、「それまでそこにはなかった」ことを重視して、認知するようになっているわけだ。


この話は、視力や聴力といった、五感を直接駆使するものに限らない。もっと複雑なシチュエーションであっても、ぼくらは「何か違う」ものを見つけ出すことが得意だ。

たとえば、何かの情報に対して「自分ならこうする」という動きが、自分の中で定型化している状況を考える。ある種の定石になっている、と言ってもいいだろう。「ああ来たらこう返す、こう来たらああ動く」。

そして、いざその情報が自分ではなく他人に降りかかったときに、他人が自分とは違う対処をしたとする。その瞬間の、「あっ違うことしてる」という気持ちは、かなり原始的な刺激として脳を揺らす。

押しボタン式の横断歩道にたどり着いて、ボタンを押した人が、ボタンを押した直後にまだ信号が変わっていないのに、「もういいや!」とばかりに走り出すとき、それを車の中から見ているぼくは、「なら押すなや!」とツッコミたくなる。別にそんな、他人が何をしていようが、どうでもいいはずなのに。

Zoom会議の最中、ずっとヘッドセットのマイクを右手で触っている司会者を見ると、「何をかっこつけてんだよ……!」とツッコミたくなる。「それでははじめさせていただきたくお願い存じます。」みたいに敬語が過剰(あるいは誤用)だったりすると、「日本語しっかりせえよ!」とツッコミたくなる。でも別にそれをほっといたからって誰の生活が苦しくなるわけでもないのにね。




「自分ならこうするのに。なぜこうしないんだ」が進化の過程でぼくらの脳に残った理由がおそらくある。人間は、自分が見聞きして経験した内容だけで人生を組み立てることがむずかしいのだろう。狭い視野、限られた行動時間で、偶然自分と出会ったものだけに対処してレベル上げをやっていては、将来やってくる「初見の中ボス」に打ち倒されてしまう。したがって、他者にふりかかった状況と、他者がそれに対応した内容とを、自分だったらどうするか、と自分にインストールするのだ。「あいつ俺と違うことしてんな! 俺ならぜったいこうする」とロールプレイをすることが、たとえではなく真の意味でその人の「体験」になっている。


だからぼくらはいつでも、「なんであいつこんなことしてんだ?」と人にツッコミを入れる。本能で。普通に。しかし不思議なことに、「人の違和感に気づける俺カッコイイ」という報酬系が、近年では若干過剰に作動しているように思われ、それはおそらく、人類が過去にないほどに他人を見ることができるようになったからで、それは脳が進化したのではなくてデバイスが進化したからなのだが、つまり、気づきすぎる自分もカッコ良く感じられている状況は、ちょっとしたバグというか仕様のずれなのであるが、そのことに気づかずに「違いに気づける自分サイコー」となっている状態に強い違和感がある。気づけた~