2020年11月30日月曜日

病理の話(479) 不安や不満が腹にたまるのはなぜか

前回の記事を書いていて思ったことをシンプルに書きますが。


われわれ、イライラしているときとか、不安なときとかに、「腹になにかが溜まるような」感覚を覚えることがある。これはなんだろう?


何が溜まっているのだろう? 重苦しいというか……「うえっぷ」となる感覚……。




今ぼくがわかっている限りでこの質問に答える。



自分にとって敵にあたるものを感じてイライラするとき、これから何が起こるのだろうかとおびえて体をちぢこまらせ、不安におびえるとき。


体の中では、交感神経がガッと興奮している。


交感神経は、「Fight and flight」にかかわる神経だ。日本語に訳すると、「バトルか、逃げるか」である。かつて森の中で暮らしていた人類が、肉食動物にばったり出会ってしまったとき、そこで踏みとどまって戦うか、あるいは脱兎の如く逃げ出すか。いずれにしても、人体はある程度共通の仕組みを発動する。


心臓をばくばくと動かして、全身の筋肉に、栄養を送り込んで、いつでも動けるように準備する。戦うにしろ、逃げるにしろ。


汗をかけ!


筋肉や脳以外に余計な栄養を送っている暇はない! メシ食ってる場合か! おしっこしてる場合か!


だから胃腸の動きをとめる。ご飯を消化するはたらきも最低限にする。胃腸がうごめくことはけっこうカロリーを使うのだ。戦うか、逃げるか、そんなときに腸を動かすことはリスクでしかない。ましてウンコしたくなったら困るだろう。膀胱だって勝手に収縮してもらってはだめだ。




すなわち「戦うか、逃げるか」というシチュエーションにであうと、あらゆる臓器、さらにはホルモンが総出で、「走ったり叩いたりする動きを最適化するために」人体が調整されるのである。




イライラする、あるいは不安でドキドキするとき、胃腸は動きをとめてじっとしており、動きの悪くなった胃腸は重く張ったように感じられる。


昔の人が「自分の胸に聞いてみろ!」と言ったのは、無意識に心臓がドキドキすることを自覚して「心は胸にある」と感じたからだろう。「溜飲が下がったわ~」とか、「腹オチしたわ~」というのは、リラックスをとりもどして胃腸がうごきはじめ、ウップと詰まっていた胃腸のはたらきが元のように戻ったことを意味するのではないかと思う。


ほかにもホルモンの話とかいろいろしなきゃいけないんだけど、今日はざっくりでいいや。

2020年11月27日金曜日

陰口

ある人の目に留まらない場所で、あるいは、「ぎりぎり目に留まるかもしれないけれど、目に留まらないだろうという建前のもとで」、人が人の悪口を言っている。


本人に直接言っているわけではないので、これはつまり「相手のことを思って」言っているわけではないのだと思う。ものかげで言う悪口のことを「かげ口」というが、まさに、光あるところではなく、何かの陰に隠れるようにして、自分のために行う行為だ。


陰口は、「陰口を言った本人にとってメリットがあるから行われる行為」。


メリット? そんなもんないよ、言いたいから言っているだけだ、と思っている人もいるかもしれない。しかし人間というものは、あるいは脳というものは、とてもうまくできていて、無意識の行動、無自覚の行動にも長い目で見てみるといろいろと合理性があることが多い。


では、陰口というのは、脳が何を目標として行っているものなのか?




腹の中に不満がたまっていく、という表現がある。人間はストレスを抱えたときにぼんやりとした不満のような感情を腹部で知覚することがある。おそらく、あなたも経験したことがあるのではないか。

そして、この腹の中にたまった不満をゲボッと吐き出して楽になりたいとき、人間は陰口を言う。「溜飲を下げる」という言葉があるが、むしろ溜飲が上がって上がって口から漏れてしまったものが陰口なのだ。

まとめると、陰口とは感情の吐瀉物なのだと思う。




ここまで何も新しいことは言っていないし、これからも新しいことは言わないが、今日のブログに書いておきたいのは、ここから先のことだ。





SNSで誰かが誰かの陰口を言っている。


それに「いいね」を付ける人。


あれはなんなんだ。


他人の吐瀉物を愛でている。


本人はもしかすると、吐くほど不満をため込んだ人がようやくゲボッと吐き出した汚い陰口を目にして、吐いた人の背中をさするつもりで、いたわっているつもりで、おつかれさん、もっと吐いていいんだよ、と、「いいね」を付けているのかもしれないが。


タイムライン上に残るのは、「いいねにまみれた吐瀉物」のほう。そのことに想像力が到らないのだろうかと、本当に不思議な気持ちになる。


陰口もまた自分を守る行動だ。だから、陰口を言っている人に「寄り添い」、「傾聴する」タイプの人は、その人をだいじに思う気持ちを出してやればいい。それは良いことだと思う。


しかし吐瀉物にいいねしてどうする。


なぜそれが見えないのか。




嘔吐は反射だ。自分では制御できないことがある。究極的なことを言えば、陰口というのは本人にとってアラートサインであり、言ってはいけないとわかっていてもつい口から出てしまう類いのものであったりもする。


だから、仮に自分がその陰口の対象だったとしても、陰口ひとつで激怒することはないし、「よっぽど腹に不満をため込んでいるんだな」くらいの想像でなんだか落ち着いてしまうものなのだけれど。


誰かへの陰口に「いいね」がついているのを見るときのほうが、怖い。愛でるという行為は反射ではないからだ。「いいね」は自覚的に行うものである。「吐瀉物をよかれと思っていいねする」ほど汚い5・7・5があろうか?


「反射的に推す」というオタクの方便がある。「尊すぎて判断力がなくなった」というオタクもいる。しかし、そういうオタクは往々にして、多弁で、語彙も豊富であり、むしろ大脳新皮質を無限にブン回して「推し」を慎重に吟味している。「反射的にいいねを推す」と公言する人に限って、いいねの対象は論理的に選ばれているものだ。


吐瀉物に反射していいねをつけている人がいるのだとしたら。


ぼくはそれは、だいぶ異常なことだと思う。

2020年11月26日木曜日

病理の話(478) 人体はウイルスとうまく戦う

こないだ読んだ本(『本当に使える症候学の話をしよう』じほう/髙橋良)に書いてあっておもしろかったことを紹介。



インフルエンザにかかったときなどに、「関節が痛くなる」ことがありますね。くだんの本には、「それって悪いことですか?」と書いてある。まあそこで一回驚く。


いや悪いに決まってるやんけ。


しかし、そこから著者は、「ではウイルス感染でなぜ関節が痛くなるのかを考えてみましょう」と話を展開する。


まず、ウイルスに感染したとき、人体はさまざまな方法でウイルスと戦おうとするのだが、このときに、「緊急警報発令」をして、全身の細胞にさまざまな対策を取らせる。警報の種類がいっぱいあるのだが、たとえばその一つはサイトカインと呼ばれている。


サイトカインと横文字を使うといきなり難しくなる気がしてならないが別に難しくない。


ウイルスがいるぜ、注意せよ、となったときに一部の細胞が、サイトカインという物質を血中に放出する。これは血液に乗って全身の細胞にはたらきかける。サイトカインとサイレンという言葉が、雰囲気としては少し似ているだろう。だからサイレンだと思えば良い。


ウィーンウィーン。サイレンが鳴る。


たとえば鼻にある細胞たちがサイレンを聞く(実際には血液に乗って流れてくるものを受け取る)。


すると、鼻の血管の中から、液体成分を周囲にじゃんじゃん漏れ出てくる。いや、そんなことしちゃだめだろ、と思いがちだが、この液状成分はウイルスにやられている細胞をぶっ倒すための「はたらく細胞」たちを運んだり、あるいは洪水の役割を果たして悪いやつらを押し流したりする。ウイルスと戦うためには血管の壁をスカスカにして液状成分を回りに漏らすことが役に立つのだ。


で、そんな洪水とかが起こるとどうなるかというと、鼻水が止まらなくなるのである。サイレンがなると鼻水が出る。


同様のことはあちこちで起こるのだけれど、たとえば、サイレンが鳴ったときに、鼻水ならぬ「肺水」が出てしまうとどうなる? 呼吸するためにスポンジのようにスカスカと空気を含んでいる肺に水が出てきたら、人間は溺れてしまうだろう。だから、このサイレンは、「肺には効かない」。人体というのはうまくやっているのだ。サイトカインが全身をめぐっても、肺はそれになかなか応答しない(というか、してしまった場合には重症肺炎となる)。


また、たとえば、サイレンが鳴ったときに、鼻水ならぬ「脳水」が出てしまうとどうなる? 脳というのは頭蓋骨に押し込められているから、ここに水が増えてくると一気に内圧が上がって、ひどいときは命に関わる。だからサイレンは基本的に「脳にも効かない」。人体というのはうまくやっているのだ。サイトカインが全身をめぐっても、脳はそれになかなか応答しない(というか、してしまった場合には脳炎とか髄膜炎になることもある)。


というわけで、人体は、外敵であるウイルスがやってきたときにサイレンならぬサイトカインを発して全身に反応してもらうのだけれど、このとき、サイレンが全部の臓器で同じように働くわけではない。ちゃんと呼応させる部分を選んでいる。


で、関節に関しては、「サイレンが効く」のだ。関節の中に水がじゃぶじゃぶ出て、鼻水ならぬ「関節水」状態になる。すると内圧が上がって、動くと痛くなる。これが、「インフルエンザにかかったときに関節が痛い」の正体だ。


ここで疑問をもとう。


なぜ肺や脳はきちんと守るのに、関節は守らないのか?


それは、「関節が痛むこと」によって、人体が損をするわけではなく、実は得をするからなのだ。どんな得をすると思う?




関節が痛い → 動くのがしんどい → 黙って寝ているしかない → 安静になる!




これだ! つまり一部のウイルスに感染したときには、人体は、「関節をあえて痛くする」ことで、人間がそれ以上無理して活動しないように休ませる、というのである。医者が口をすっぱくして「安静にして休んでください」と言っても、早めのパブロンだとか絶対に休めないあなたへエスタックだとか無茶なCMを見ながら人間は動いてしまうわけだが、ここでサイトカインが口をすっぱくして(?)、関節にサイレンを鳴らして痛みを出せば、さしもの有吉もそれ以上動けなくなるというわけである。





インフルエンザにかかったときなどに、「関節が痛くなる」ことがありますね。くだんの本には、「それって悪いことですか?」と書いてある。まあそこで一回驚く。

いや悪いに決まってるやんけ。

そして中身を読む。なるほど! よくできてるなあ!

そしてあらためて質問されてみよう。「関節が痛くなる、それって悪いことですか?」




……やっぱり悪いことだとは思うが……まあ……言いたいことはわかったよ!


2020年11月25日水曜日

拙者

「一人称が変な人が苦手」である。その人の全体が発する雰囲気と、その人が自称する「自らを呼ぶときのやりかた」が合っていないとき、うーん、大丈夫かなこの人……と思う。そして、嫌な予感はだいたい当たる。


他者に対して自分をどう呼称するかというのは意外と奥が深いと思う。「ぼく」はブログの一人称ではひらがなの「ぼく」を使うことが多いがこれもケースバイケースだ。「私」がマッチする場面というのもある。「私」で引っ張らないと完成しない文章があると感じる。「僕」のほうがいいと思う人もいるだろう。極論すれば「小生」がマッチするラジオ投稿というのもあるわけで、これはおそらくネクタイの色を選ぶとか(あるいはそもそもネクタイを締めないとか)、季節に応じて靴の色味を変えてみるのと同じ感覚でやるべきことなのではないか。


ぼく自身は、これまでにインターネットで構築してきたキャラクタに対して「ぼく」が一番しっくりくるのではないか、と思って「ぼく」を選んでいるのだけれど、「その一人称、変ですね」と誰かに言われたら再検討に入ってすごく悩むことになるだろう。自分は自分の最初の読者だが、最初だから一番尊重すべきとは全く思わない、「二番目の読者」が変だと言ったら一気に自信を無くす。「自分が他の目にどのように映っているか」を厳しく吟味しないで書いた文章というのはどのみち誰にも伝わらないのだ、そう、未来の自分ですら「この文章結局何を言いたいのかわからないな」と、過去の自分にダメ出しをすることがある。ましてや現在の他人に向けて何かを書くというときには。


と、ここまで書いていて思ったのだけれど、自分のことを何と呼ぶか、みたいなことは究極的にはどうでもいいことで、ぼくが誰かを瞬間的に判断するときには「その呼称を自分の前にコトンと置いてみて、その人自身がどのような目で眺めているか」という、メタ認知の視点……というと流行りの言葉であまりおもしろくないのだが要は俯瞰の度合いを見て「こいつ大丈夫かな」というのを推しはかっている。ここまでさらに書き足して思ったのだけれど、誰が何をどうやっていても本当のところはどうでもよく、最終的には他人がやる有様を自分にはね返してきて、「自分は他者にとってどうありたいか」というのを微調整することのほうがぼくにとっては大事だ。


40代になっても未だに一人称が下の名前である人を見て、周りにいる人たちがそれを「うわっ、キモ……」と口に出したときに、当の本人がニヤリとして「計算通り」とつぶやいているのかどうか。ぼくはそういうところを見ながら目の前にいる人間たち全ての不気味さを感じ取り、ひるがえって自分というものの境界線を何度も何度も何度も引き直しては「ぼく」の有り様を探っている。

2020年11月24日火曜日

病理の話(477) 運動不足解消のために医局に向かいます

「医局」という言葉にはいろいろな意味があるのだけれど、ぼくのように市中の中規模病院に勤めている場合、およそ2つの意味で使っている。

1.自分が所属している大学の科名のこと。

2.勤め先の医師休憩スペースのこと。


【1.自分が所属している大学の科名】
たとえばA大学の第一外科、略して一外(いちげ)出身で、B病院に勤めている外科医がいたとする。直接大学で勤めているわけではないのだが、一外の教授が人事権をもっていて、B病院で数年はたらいたら次はC病院に行きなさい、みたいに命令をされる。外科医の人生としてはよくあるパターンだ。さて11月も半ばをすぎて、一外の秘書さんからメールが届く。

「12月○日には医局の忘年会です」

この場合、「医局」という言葉は、外科医が所属する「第一外科」という科名そのものを指す。「あなたの/ぼくの所属先」くらいの意味だ。

この外科医は医局の忘年会に出席し、他病院でがんばっている友人や先輩たちと飲みながら、「今後の医局の動向」についてこっそりと話し合ったりもする。



【2.勤め先の医師休憩スペース】

なぜこちらにも医局という言葉を当てるのかよくわからない。ナースの詰め所のことをナースステーションというように、医者の詰め所のことはドクターステーションと呼べばいいような気もするのだが、必ずといっていいほど「医局」と呼ぶ。昔の中規模病院は、科ごとに医局がある(消化器内科と外科と産婦人科はそれぞれ個別に休憩スペースがある)ことが普通だったようだが、今では総合医局と言って、ひとつの大部屋に休憩スペースがあり、パーテーションで個人のデスクが仕切られていることが多い。

ぼくの勤める病院も総合医局制。初期研修医・後期研修医あわせて20名をのぞくすべての医者(120名くらい)が大きな部屋の中でパーテーションに仕切られて過ごす。もっとも、医者が医局のデスクにいる時間はあまり長くない。病棟にいることも、外来にいることも多いからだ。

医局には個人のデスクのほかに、20名くらいなら一緒に過ごせる程度のソファやテレビが置いてあるスペースもある。メジャーリーグで日本人が大活躍しているとか、オリンピックが盛り上がっているとか、大規模災害など、昼間っからテレビがうるさいときには医局のテレビ前に医者が集まっていることもある。コーヒーメーカーやポットが置いてあり、電子レンジも冷蔵庫もある。ただ、電子カルテ端末が複数設置されていることもあり、休憩スペースでダラダラすごす医者はあまり多くない。なんとなく仕事モードのまま小休止をする感覚だ。





ぼくは「医局」で過ごす時間はほとんどない。なぜなら、病理検査室の中にデスクがあり、そっちがメインだから。したがって医局のデスクは倉庫にしている。版が古くなった教科書や、学会が発刊する雑誌など、めったに読み返さない本を整頓して医局の本棚に並べる。あと、郵便物は基本的に医局に届く。

ぼくが医局を訪れるのは1日に1回、郵便をチェックしにいくときだけだ。もし、郵便物が病理のデスクに直接届けられるならば、ぼくは医局に顔を出さなくなるだろう。基本的にいつも病理にいるほうがラクである。

ただ、医局に顔を出さないと、他科の医師とのコミュニケーションチャンスが減ることもまた事実だ。医局の自分の机には、名刺を磁石で貼り付けて、横にメモを置いて、「基本的に病理にいます 市原」と書いておく。とにかく居場所をみんなに教えておく。そして郵便回収で医局に行くときは、さりげなく通りすがるドクターの顔を見る。何か言いたそうにしている人がたまにいる。そこで立ち止まって「はい」と声をかける。するとたちまちスルスルとそのとき困っている症例の話を教えてくれたりもする。



最近思うのだが、病理医のスキルとしてもっとも大事なのは「謎の存在にならないこと」ではないか。ふとしたときに相談できる関係でありたい。「そういえば病理にあいつがいたな……」と連想される人間でありたい。コミュニケーション能力と言ってしまうと大雑把すぎる気がする。ウェイ系のノリは必要ない。ただ、「あ、ちょっと相談してみっかな」までに相手の心を柔らかくする工夫というのはいるだろう。医局に郵便を取りに行くのは運動不足解消のためだけではない。一人でも多くの医師に「そういえばあの件……」と話しかけてもらうチャンスを、こっそり仕込んでおくということ。

2020年11月20日金曜日

大人だってほしい

タイムラインの流れがよろしくない。ツイッターはおすすめツイートを上に表示させる機能があり、ぼくが気になっている人ばかりをピックアップするので、ランダムにフォロー11万人のツイートを表示してくれるとは限らない。そのことがかえって不便に感じられることも多い。

だからぼくはサードパーティのクライアントを併用している。要は、Twitter Japanの公式アプリではないツイッター用アプリを使うということだ。

これによって、普段ほとんど会話もないけれど相互フォロー、という人々のツイートをたまに目にする。世の中で大きな事件があったときなどは、普段から交流のある人たちの反応も大事なのだけれど、ほとんど他人というレベルのフォロイーが何を言っているのかが気になる。

金曜日の夜にジブリをやっているときとか。

ワールドカップサッカーの予選中とか。

大統領選挙とか。

世の中が震撼しているときに、Twitter公式アプリでいつものように、巨大なフォロワー数をほこる「うまいことを言うやつら」のツイートばかりを見ていると、洗練されすぎていて、きれいすぎて、なんだか違うなーと思ったりもするのだ。ぜいたくなはなしだが。





新規感染者数の増加が止まらないある日。Twitter公式のタイムラインには「あらためて、手洗い、マスク、三密回避!」の常識的な声が並んでいた。これには何の問題もない。感染症対策の専門家も、あまねく人々にやさしい知恵を拡散したいともくろむインフルエンサーたちも、これらを世間に周知しようと一致団結していた。

そういうときに、別アプリで、「完全ランダムに表示されるタイムライン」を見る。

今日はこんなツイート(鍵アカウント)を見つけた。




ほしがきが
ほしいガキ

(※手を伸ばす子どもの写真付き)






そういうのがいい。ツイッターはそうであってほしい。

まあフリート機能ももう少し洗練されたらそうやって使えるようになるだろう。世界はどんどんよくなっていく。

2020年11月19日木曜日

病理の話(476) 解剖の効用

病理解剖は、病気で亡くなった患者さんの胸から腹までを開けて、中の臓器を観察し、ていねいに取り出し、最後に体を縫い合わせる。


切る場所は胸~腹である。顔や首に傷はつかない。手足も原則的にいじらない。


場合によっては脳を調べることもある。このときも、顔には傷が付かないように、髪の毛の部分などをうまく使って特殊な切り方をして、頭蓋骨をあけて中身だけを取り出して、またパカッと閉める。


つまり臓器は採りっぱなしだ。体の中に返さない。傷をきれいに縫い合わせてご遺体をきれいに拭いて、ちゃんとテープを貼って傷をかくして、服を着せれば、パッと見では解剖したとはわからない。





臓器を採りっぱなしにしてどうするか? 目で見る。細かいところまで見る。X線をあててCTで観察してわかったつもりになっていたものを、「じかに」見る。影絵とは違う、そのものを見ることは、圧倒的に解像度が高い。だから「直接見るといろいろわかる」ということになっている。


けどほんとうは、直接見てもわからないことはある。造影剤を用いてCTで検査した方がわかることだってある。


たとえば、解剖で臓器をいくら見たところで、生前そこにどのように血が流れていたのかはわからない。ダイナミズムは失われている。推測はできるが、「直接目で見たからなんでもわかるぜ!」というほどではない。


だからぼくたち病理医は、目で臓器を直接見るだけで終わらせない。せっかく取り外した臓器を、もっときちんとすみずみまで検索しないと、患者にも遺族にも申し訳ないだろう。


顕微鏡を使うのだ。全身のありとあらゆる臓器の、異常がありそうなところを徹底的に顕微鏡で調べていく。ここまでやるとさすがにいろいろなことがわかる……。





けど、今の医学というのは本当に優れているので、「そこまでしなくても」、たいていの病気は、患者が生きている間に、体を開くことなく、細胞を見ることもなく、臨床医によって言い当てられている。


代謝がどのように変化していたか。腫瘍がどこにどれくらい育っていたか。正常の機能がどれほど失われていたか。


患者本人の訴えを聞き、分厚い教科書何冊分にもなる診察方法で細やかに患者の全身を調べ、血液を見て、CTやMRIを見て……とやっているうちに、膨大な量の情報が主治医に流れ込み、患者の体に起こっていることの99%はすでに把握されている。




そこまでわかっている人体に対してあえて病理解剖をする意味が、令和2年現在、どれほどあるだろうか。





ぼくの持論を言う。


病理解剖をやっている最中……特に、臓器を検索している時間、平均して1時間半程度(※これ以外にも準備や後片付けがあることに注意)、ぼくら病理医は、主治医とずっと会話をしている。ぼくがメスやハサミを使って臓器を選り分けて体から取り出し、重さを量ったり写真を撮ったりしている間中、えんえんと、主治医や研修医たちと、「この患者について起こったこと」を話し合う。

この会話こそが病理解剖の意義だ、と思っている。




「手術をしたことがあるにしては、お腹の中はあまり癒着が多くないですね。」


「なるほど確かに。この方はあまり消化器症状をうったえることはなかったですよ」


「そうでしょうね。腸管の色はおかしくないですもんね。」


「ただときどきお腹を痛そうにしていたことがあって……それはどこが原因だったのなかあ。」


「正中ですか?」


「はい、心窩部ですね」


「となると内臓痛ですかね、あとで粘膜面も見てみましょうね」


「よろしくお願いします」


「そういえば亡くなる前の呼吸状態はどうだったんですか?」


「そんなに気になりませんでした。やはり今回は別の病気のほうが」


「ふむ、たしかに見た感じ、肺水腫はさほど強くないですね。でも背部ではちょっとうっ血があるかな」


「あ、最後の方でいちど吐いていますが」


「となると、右肺については気管支に沿って切り開いてあとでお見せしましょう。あれ、肝臓の色がすこし黄ばんでますね」


「あ、それは最後に使っていた抗癌剤の影響があるかもしれません」


「なるほど脂肪肝になるやつがありましたね。でもこれ、普通の脂肪肝とは色味が少し違う気もするなあ」


「肝機能自体はさほど……悪くなっていなかったですけれどね」


「そうですか。でもまあ肝臓は念のため見ておきましょう」





学術的に新しいことがわかるわけではない(そんなことはそうそうない。たまにある程度だ)。主治医があらかた予想していたことばかりが出てきてもいい。


「たぶんこうだろうな」をくり返して確度を高めて、日常診療を生き抜いている臨床医にとって、たまに遭遇する病理解剖で、「自分が予想していたものを違った角度から見せてくれる病理解剖」における病理医との対話は、……


……誤解をおそれずにいえば……


「interesting」なのだ。


楽しい(fun)ものではない。患者を看取った気持ちだってまだ整理されてはいない。もっとこうすればよかったという後悔もあるかもしれない。でも、とにかく、「患者に何が起こったか」を目の前で振り返り、医師免許をもった他部門のプロフェッショナル(病理医)と、医学のあらゆるジャンルに対してじっくり1時間以上も話し合うこと、これこそが、病理解剖の大きな意義のひとつなのだと思う。




患者の腹を開けて、


臨床医と病理医が、腹を割って話し合う。


みっつのお腹を大事にあけるのだ。そして対話をする。ここには確かに効用がある。対話できない病理医の行う病理解剖は、おそらく、今の医学にはもう、必要ない。「その程度の医学はもはや、臨床医もすでに持っている」からである。


2020年11月18日水曜日

退場者がいましたしPKもありましたからだいぶ長めに取られているようですね

早めに出勤するのが難しい季節となった。朝はいつまでも暗くて二度寝を誘う。でもそこはたいした問題じゃない。車通勤する人間にとって、冬はタイムロス祭りなのである。


除雪によって、道の両脇に雪山ができる真冬。歩道を潰すといろいろ問題がある(通学途中の小学生も困る)ので、雪の塊は車道にはみ出す。いつもの2車線が1車線に減るということだ。右折車や左折車があるたびにバスがひっかかり、生活道路ですら渋滞する。路肩にちょっとカチカチ停めている車などが現れたら大迷惑、冬の一時停車は重罪である。夏場あれだけ広かった道が半分以下になると、あらゆる道路の利便性がガタ落ちする。そんな中、もし出勤時刻を誤って、ラッシュアワーに車通勤してしまうと、20分乗車のはずが1時間、40分乗車のはずが2時間、だいたい夏場の3倍程度は車の中にいることになる。ラジオに詳しくなる。スポティファイに課金する。


だからぼくは夏のうちから6時台には出勤するように体を慣らしている。ラッシュアワーを外して早めに移動することは冬への備えとして欠かせない、早め早めに移動すれば、仮に遅れても7時半には職場に着くことが可能だ。おそらく豪雪地帯に住む人間はみなうなずいてくれると思うのだけれど、雪の季節に車通勤で8時半ぎりぎりに着くように家を出るというのは難しい。何度かやらかすことで人は学ぶ。



では早く起きて早く移動すれば、雪の影響は完全に避けられるか? 実はそういうわけにもいかない。


さあ出勤するぞと思った瞬間に外が雪だと、いろいろ時間がかかる。ぼくの車は青空駐車で、一晩雪が降ると車の上にも積もる。それを払い落とすのに時間がかかる。車がヒーターで暖まらないと窓がくもるから発進できない。けっきょく、家を出てから移動を開始するまでに20分とか1時間といった時間を費やすことになる。


けっこうな量の積雪があった日は、車のエンジンをかけてからアクセルを踏み込むまでの間に、軽く汗をかくほど動く。車の屋根の雪を落とし、窓の雪を削り、ワイパーの下に潜り込んだ雪をかき出す作業は、20代の時は気にならなかったが今にして思うと肉体労働だ。同じ事はもちろん帰宅の際にも起こる。


結局冬という季節は、1日が24時間なのではなく、23時間にも、22時間にもなるということだ。無心で雪と格闘する時間、車の中でチンタラすごす時間が、往復で1~2時間以上、夏よりも余計に費やされる。満員電車と違って自分ひとりの時間である点が利点だ。満員電車と違って吹雪の中で雪をどう払い落とすかを考えなければいけない点が欠点だ。



だからぼくはラジオが好きになっていったのかもしれない。冬の透明度の高い空気の中、まだ周りが暗いうちに凍結した路面をそろそろと移動するとき、FMラジオ、AMラジオ、Podcast、YouTube、さまざまなものにぼくは人生のタイムロス分を預けた。そこから得られたものが訳知り顔のDJの自分語りであっていいわけがない。クラシックも聴くようになったし、古いオルタナやプログレのアルバムなども聴き直せる。落語なんかもじっくり聴ける。なにより、時間があれば本を読んでいたぼくが「本を読まずに長時間黙っていること」をできるようになったのは、もしかすると冬と雪のおかげなのかもしれないなと思う。冬は人間を矯正する。タイムロスによってロスタイムが伸びていく、という感覚がある。

2020年11月17日火曜日

病理の話(475) そこになければないですね

先日、実際に現場で働く人(Aさん)に尋ねられた質問を、一部改変して載せる。なお、Aさんはベテラン放射線技師だ。現場で40年以上働いている。


Aさん「先生、胃カメラで胃の粘膜をつまんで、ピロリ菌がいるかどうかを検査することがありますよね」

ぼく「はい、ありますね」

Aさん「生検でピロリ菌の有無を判定するときの精度はどれくらいでしょうか。生検だと100%わかりますか?」




ぼく「いえ、残念ながら100%ではありません。ピロリ菌は確かに顕微鏡で見つけることができるのですが、小さい胃の検体内に目視できるピロリ菌の数はせいぜい5,6個ということが多いです。細胞が産生する粘液の中に、小さな『ねじれ棒』状の菌体が、数個見える、というのが典型的。運がいいと100個以上みつかることもありますが、菌だからいつもウジャウジャ見えるかというと、実はそうでもない……というか、たいてい、ごくわずかしか見つけられません。」

Aさん「なるほど、ちょっとしかいないものなんですね。」

ぼく「ええ、しかも胃の中のどこにいっぱいいるかは胃カメラで見ただけではまずわかりません。ですから、『たまたま粘膜をつまんだところにピロリ菌がいなかっただけ』で、ほかの場所にはたっぷりとピロリ菌がいる、というパターンも十分にあり得ます。」





Aさん「じゃあ、胃カメラで粘膜をつまんでピロリ菌を見つけるのはあまり効率がよくない、ということですよね。」

ぼく「実はそれが難しいところで……ピロリ菌がいるかいないかを100%判定できる検査というのはそもそも存在しないのです。尿素呼気試験にしても、血中抗体検査にしても、絶対、ということはない。でも、もし顕微鏡で『菌体を見つけることができたら』、そのときだけは100%ピロリ菌がいると断定していいんですよ。」

Aさん「なるほど、うまく見つかれば、それは100%であると。」

ぼく「はい。ピロリ菌の現行犯をつかまえることができれば感染は確定です。」

Aさん「でも、『ピロリ菌がいないこと』を証明するのは難しい、ということですね。」

ぼく「はい、その通りです。『そこになければないですね~』というのは、ピロリ菌の検鏡検査(顕微鏡を見て行う検査)では言えません。」





Aさん「ところで、検診だと、内視鏡医が、『ピロリ菌のいないきれいな胃ですね』などと言うことがありますが、あれはどうやって決めているのですか?」

ぼく「ピロリ菌に持続感染した胃は、炎症を起こして色味がかわったり、粘液の出方が変わったり、ひだの太さがかわったりするのです。そのような変化が一切なければ、胃カメラでのぞくかぎりは『ピロリ菌はいなさそう』と判定します。」

Aさん「本当にいないかどうかはわからないんですね。」

ぼく「胃粘膜がほとんど無傷なら、ピロリ菌はまず存在していないと見なしても大丈夫。ただし、むずかしいのは、ピロリ菌以外の理由で荒れた胃のときですね。」

Aさん「ピロリ菌以外、ですか?」

ぼく「はい、たとえば自己免疫性胃炎(A型胃炎)とか、薬剤性胃炎とか……。ピロリ菌がいなくても、胃が荒れることはあるんです。そういうときに、原因がピロリ菌じゃないことを証明するのが、そこそこ難しい。」

Aさん「胃を荒らす犯人にもいろいろいる、ってことなんですねえ。」





※チャットでの会話をアレンジしました。ほとんどそのままだけど。

2020年11月16日月曜日

つまらない他人のつまらない夢の話

起きてからもしばらく覚えているタイプの夢は、いずれ何かの役に立つから覚えておいたほうがいいよと脳に語りかけられているのではないかと思うのだ。だからなるべく覚えておくようにしている。


たとえば先日、起きる直前に見ていた夢は6本くらいあって、このうち1本目と6本目がつながっていた。2~4は忘れた。ぼくの脳は2~4番目の夢は事務的に見せていたのだが、1と6はぼくに覚えておいてほしかったんだと思う。


1本目にまず、ぼくは20年前の剣道部の後輩といっしょに大荷物をかついでレンタカーを借りた。そこに荷物を積み込む。レンタカー屋を発信する。そして札幌駅の北口風のたたずまいをした、東京西部のある駅(だとぼくは認識している)のロータリーに、エンジンキーをつけたままで車を留め、なぜか駅の構内に入っていくのだ。


そこにはセントレア駅のミュースカイ乗り場のように、改札の向こうの1階部分に複数の電車が停まるような構造をしていて、ぼくは電車を迷う。どれかに乗り込む。複雑な乗り継ぎをなんとかしないとと思って頭がいっぱいになる。もう後輩はいなくなっている。


そこから4つくらいのエピソードを立て続けに見るのだがここはどうしても思い出せない。


そして、夢としては珍しいことに、ぼくはいろいろな夢に翻弄された後で急に思うのだ。


「あっ、あの車、どうした?」と。




そして駅前に戻ると恐れていたとおり車はないのだ。いつの間にか戻ってきた後輩とともに嫌な汗をかく。レンタカー屋に行く。するとカウンターの向こうにはゴトウマサフミさんの自画像のような、長崎県のかたちをした複雑な髪型の男がふんぞりかえり、「困るんですよねー、そもそもあなた、○○保証入っていないでしょう」と言う。


ああそうか、ぼくは、車だけではなく、後輩の荷物の分までお金を払わなければいけないのか、それは困ったなあ、というところで目が覚める。外はひどい天気で、ときおりあられが窓を叩く音が聞こえてきて、ぼくはお手洗いに行き、トイレの窓から遠雷が光るのを見て秒数を数えた。


いつまでも音は聞こえてこなくて、次に目覚めたとき、ぼくはなぜか車の鍵を握りしめて布団の中にいた。





車を離れるときにはちゃんと鍵をかけよう。

2020年11月13日金曜日

病理の話(474) 病気のかたちをどう解析するか

人体がひどいめにあうとき、そこに「かたちのある病気」があるときと、「かたちとしては見えない病気」があるときとに分けることができる。


かたちのある病気の代表は「がん」である。でもほかにもいっぱいある。たとえばじんましんが「出る」とか、胃に「穴があく」とか、肺が「スッカスカになる」などというのは、いずれも、かたちの変化として確認することができる。


逆にかたちのない病気の代表は「高血圧」である。どこかに高血圧という物体があるわけではないし、高血圧によってただちにどこかの臓器が変形するわけでもない(※玄人向けにはもっと細かい話があるけどしない)。「高血糖」とか「高コレステロール血症」なんかもおなじだ。血液に溶け込んでいる成分の異常や、液体の流れ・分布の異常などは、「かたち」としてはわかりづらい。


「だから」かたちばかり見ていてもだめなんだよ、という考え方もある。


「でも」かたちを見ればけっこうわかる、という考え方もある。


要はいろんな見かたが必要なのだと思う。ぼくは職務として「かたちの変化をとらえる」ことをどこまでも勉強し続ける立場にいるが、「かたちではわからない病気」についても勉強しないと、ほかの医療者と話を合わせられなくなるので、がんばって両方勉強する。





さてかたちの変化をどう捉えるかについて。


まず大事なのはサイズだ。臓器にしても細胞にしても、あるいは細胞と細胞の距離関係にしても、人体というのはすべて「サイズ調整」をされている。かなり厳密に。だからこのサイズとか距離が乱れているなーと思ったらそこは絶対に見逃してはいけない。


次に大事なのは輪郭だ。心臓や肝臓や肺、あるいはウニョウニョ動くような胃や大腸も含めて、輪郭の部分が「いつも通り」なのか、「いつもと違う」のかを見極めることはとっても大事である。原則的に臓器の輪郭というのは、そのもの自体の「やわらかさ」と「張り」、「中に何が詰まっているか」、あと「重力」などによって決まっているのだけれど、そこにたとえば何か「硬く突っ張ってしまう病気」があると、輪郭が変わる。


大きめの臓器じゃなくても、細胞ひとつひとつの輪郭だって、スッとした弧を描いているときはいいのだが、カクカクと角張っていたら何かおかしいと思う。中身に何が起こったのかと考える。


そして大事なのはムラの有無だ。臓器、細胞、なににおいても言えることなのだけれど、ある程度、似たようなもの、同じような仕事をするものばかりが集まって、「似たもの同士」で仕事をするのが人体というものだ。肝臓の中には肝臓の役割を果たす細胞が集まっているし、胃には胃の役割を果たす細胞がきっちり存在する。だから、「周りとくらべて、ここだけ構成成分にムラがあるぞ」と思ったら、それは異常だ。何か普通ではないものがそこに増えていないと、そういうことは起こらない。


さらにマニアックなことをいうと、細胞どうしが作っている構造が、「ゆがみはじめている」ときは要注意。細胞というのは大工さんでもあるが部品そのものでもある。適切な量の細胞が、組み体操をしているとき、そこに秩序があれば、組み体操のピラミッドは左右対称で整ったかたちになる。しかし、中にイキった細胞が混じっていると、ピラミッドの右側だけやけに大きくなる、みたいなことが起こる。すると「左右非対称」になるだろう。そういったゆがみが積み重なると、構造が「蛇行」したり、「でこぼこ入り組み」になったりする。





これらの「かたち」を見る上で、地味に大事なのは、動きの止まった写真を見るスタイルだけでは限界があるということ。


「そのかたちが形成されるためには、どういう動きがあったのだろうか?」


と、頭の中で、ちょっと時間軸を動かす。「かたち」だけではなく「なりたち」に思いを馳せる。そうするとかなり切れ味が増す。





「なりたち」を想像する訓練には、「かたち」を見ないで病気のことを考えるといいかもしれない。すなわち、高血圧とか高血糖みたいな病気をどう想像していくかという、「かたちを考えない診断手法」を学ぶことが、めぐりめぐって「かたち」を診断することにつながっていくのではないか、と思っている。

2020年11月12日木曜日

世界の換わりとショートマイルドツイッタランド

新しい往復書簡マガジンのタイトルに悩んでいる。今日のブログのタイトルも「案」のひとつだったやつだ。


「言いたいだけやん」となったのでボツにした。


De Architectura(デ・アーキテクチュラ)という昔の建築の本をもじって、「De Textura」というのも考えた。しかしなんだかカッコつけすぎやんけ、と思ってボツ。


曼荼羅とワンダーランドをかけあわせて「マンダーランド」というのも考えたのだが、ぜんぜん見た目が美しくないのでボツ。


「Hook that's(複雑)」もボツ。


しっくりこねえ。




「しっくり」ってなんなんだ。「しっくり」とは擬音か? それとも擬態語か? しっくり。なぜこの言葉に日本人はある程度共通の感覚を呼び起こされるのか? 


「しっくり」ってふしぎだなあ。この語感がぼくらの脳の何を引き出すんだろう……。しっとり、とも違うし、ぴったり、とも違うし、じっくり、ともまるで違う。さっくり、とも違う。まさに「しっくり」しかしっくりこない感覚というのがあるんだよなあ。


言霊がどうとかいうけど英語圏の人に「しっくり」と言ってみたところできっとsickとかbig treeとかと聞き間違えるに決まっている。「しっくり」が通じるのはたぶん、中学生くらいまで日本語にひたった人だけのはずだ。そもそも言霊というのは、母国語の種類と言語修得レベルによって発動したりしなかったりするということなのだろうか? まあそうなのかもしれないし違うのかもしれないなあ。言葉なんて複雑系を通過して脳内にイメージを喚起させる最たるものだからなあ……。




「しっくり複雑系」ってマガジンのタイトルにどうだろう。だめか。「シックリ」だとアイヌ語っぽい。「複雑シックリクル」だと椎名林檎っぽくなっていけるか。いけない。




「ゲシュタルト崩壊後リサイクル」みたいなことになってきた。これマガジンのタイトルにいけるだろうか? 無理っぽい。ドツボだ。しっくりドツボ。「しっくりドツボ」? 弱いなー。

2020年11月11日水曜日

病理の話(473) 治療が診断になる

今日の話すごく難しい。まだ、ぼくの中でも、扱いかねている部分はある。実践……いや、実戦の中で鍛えられていかないといけないのかもしれない。



患者にとって、病院という場所は「治療のために」訪れるところである。


決して、「診断のために」訪れるわけではない。病名なんてどうでもいいからとにかく治して欲しい……


……とも言い切れないよね! ってことをぼくはこれまでずっと言ってきた。

人は、自分の体調不良の原因を言い当てられる、ただそれだけでちょっと癒やされるところがある。秋に決まって体調が悪くなるタイプの人が、あるとき「それは花粉ですよ。花粉症って春だけじゃないんだ」と言われて、なんだそうだったのか、と思って気分が少し晴れやかになったりする。つまり診断もけっこう大事なのだ。


けれど。


ま、診断すること自体はすばらしいことなんだけど、やっぱり治療でしょうよ、って話ですよ。そこはスッと話を通していいでしょう。治るに越したことはないんだ。




でね、ぼくは診断をする仕事(病理医)なので、やはりこの、診断に肩入れしている部分があったのだけれど、最近よく、「治療のほうが大事」ってことと、「治療自体も診断に影響する」ってことを両方考えている。


たとえば、胃のピロリ菌を除菌する(治療する)と、さまざまな病気がよくなる場合がある。胃炎や胃潰瘍もそうだが、MALTリンパ腫というややレアな病気は、リンパ腫(つまりがん)なのに、除菌で治ってしまうことがあるのだ。


で、この、MALTリンパ腫の病理診断ってけっこう難しいのである。細胞を見ただけでは決めきれないこともあり、細胞の表面に出ている特殊なタンパク質をフローサイトメトリーという検査で確認するとか、細胞の中にある染色体と呼ばれる構造を直接調べるとか、かなり込み入った検査を追加してようやく診断に到ることが多い。


MALTリンパ腫の「正確な診断」はそうとう難しい。しかし、このMALTリンパ腫の診断を簡単にするほうほうがあるのだ。それは何かというと……。


「ピロリ菌の除菌(治療)をして、どう変化するか見る」


診断が確定する前に、というか診断が8割方決まった段階で治療をしてしまうのだ。「これはおそらくMALTリンパ腫だな」くらいの時点で、つまり、「絶対にMALTリンパ腫ですよ」まではいかない時点で、一部の治療をはじめてしまう。


そして、「治療にどれくらい反応するか」を元に、あとから診断を付ける。そういうやり方がある。


いつもではないよ。それほど単純ではないから。でも、たまに、そういうことをする場合がある。




実はほかにもこういう「治療をしてみて、診断の参考にする」ということを、医者はよくやっている。名著『私は咳をこう診てきた」の中にもそういうケースが山ほど載っている。


えっ、診断が確定しないのに治療なんかしていいの? と思ってしまいがちな医者に対して、最近のぼくは、このようにコメントする。



「診断することが大事なの? 医者がこれだと決めた治療をすることが大事なの? まあそれらも大事なんだけど、結局、長い目で見て患者にとっていいことをしたかどうかが大事なんだよね」




これ、まだまだ、難しい。もっと考えていかなければいけない。そうしないと誠実になれない。

2020年11月10日火曜日

くものなかにいる

気づいたら10年経っていた。ツイッターをはじめたのが2010年の11月なのである。もっとも病理医ヤンデルというアカウントをはじめたのは2011年の4月。5か月間は別のアカウントで、「病理広報アカウント」を作るための情報収集をしていた。


そのアカウントは今はもうない。数年前まではあった。昔懐かしい「規制アカウント」(本来のアカウントがツイッターによってツイート規制されたときに出てくるためのアカウント)としても運用していたので、古いフォロワーはぼくの昔のアカウントを覚えているかもしれない。



気づいたら10年経っていた。今やすっかり「クラウドの中」にいる。インターネットやSNSは外付けハードディスクだよ、なんて言っていたのが懐かしい。当時はまだ、「脳が主」で、「ネットが従」だと思っていたのだ。


ネットを含めた社会が「意思の主体」であり、ぼくらは細胞にすぎないのである。それがわかるまでに10年かかってしまった。


もっとも、ぼくらは細胞だからと言って卑屈になることはない。人間は考える細胞なのである。葦よりだいぶ進化した。誇っていい。




「クラウドの中にいる」というのをどう表現しようかな、なんてのを今ちょうど考えていた。かつて、アメリカの気象台みたいなところ(正式名称忘れた)が、空を高さに応じて10段階に分類し、下から第1層、第2層、と便宜上呼ぶことにした。下から数えて9番目、すなわち成層圏のすぐ下あたりに、積乱雲が達する場所があるのだという。この、9番目の層を「クラウドナイン」と呼び、on the cloud nineと書くと「積乱雲の上」、すなわち天国を意味するのだと聞いたことがある。


ところがこのクラウドナインというフレーズ自体はコスられまくっており、今やウェブで検索すると、出るわ出るわ、美容室やらアクセサリーショップやら、名付けられまくっていて本来の意味を探すのに苦労する。世の中すぐに天にも昇るここちになりたがる。まあわかるが。



ためしに「クラウドワン」で検索すると、ウェブのクラウドサービスの会社がヒットする。


「クラウドツー」だと音楽だ。


「クラウドスリー」だと小説がでてきた。


「クラウドフォー」だとまたアプリ会社だ。


「クラウドファイブ」では本とか音楽が出てくる。


「クラウドシックス」はそこそこ人気のあるフュージョンバンドらしい。わりと新しい。


「クラウドセブン」はエステとバンド。日本になる。日本人は7が好きだ。


「クラウドエイト」がいきなりフィリピンパブだった。どういうことなんだ。


「クラウドナイン」はいっぱいある。


「クラウドテン」は楽曲のタイトル、そして、「クラウドナインよりさらに幸せなこと」を意味するのだという。


「クラウドイレブン」。絶対にそういう音楽あるだろ、と思ったらあった。


「クラウドトゥエルブ」。ロンドンにあるフィットネス系のお店だ。へえ。


「クラウドサーティーン」は急に洋服のブランド名になった。


「クラウドフォーティーン」。アメリカにある有限会社でマンガを扱っている。LGBTQ関連のものも扱うという。これって同人誌の会社なのかな?


「クラウドフィフティーン」。そういう楽曲がある。たいてい歌になるのだ。みんな考えることはいっしょだ。


「クラウドシックスティーン」。……ああっ!!






だ、だ、誰かがすでに! クラウド○○を探して記事にしてるじゃないか!!!





でもNAVERまとめはもうサービスがないので中身は見られなかった。Webarchives使ってもいいけどそこまで別に見たくはなかった。




とりあえずみんな雲の名前をタイトルにするのが大好きだ、ということがわかった。今度ぼくが何かの名前を付けるときにはCloud 42あたりにしておくか(年齢)。





と思ったら「Cloud forty-two」という名前の会社がすでにあった。ウェブ関係だそうだ。あきらめます。

2020年11月9日月曜日

病理の話(472) プレパラートの持ち方

指先がサラッサラッ、の人がいるとします。


清楚なかんじの大学生とか、あるいは、霞食ってる仙人とか、ドラえもんとか。


そういう人の指って、ほんとにアブラがぜんぜんついてない、と思いがちなんですよね。特にぼくくらいの、今42歳くらいの人はそういう感覚があると思う。


でも若い人や、あるいは、デジタルデバイスを使いこなしている人たちは、「人間の指先にアブラがねぇごどなんで、ねぇんだ!」ってことをよくご存じです。なぜなまった?


スマホなんてちょっとスッスしたら指紋つくでしょう?


テレビの回りを拭き掃除してるときにうっかり画面さわったら、あとで朝の光が差し込んだときとかにそこだけなんか汚くなってるのが見えたりするでしょう?


知ったかぶりしてメガネクイってするときにうっかりレンズさわったらそこだけ曇ってみづらくなるでしょう?




で、病理医の話なんですけど、顕微鏡でプレパラートを見るときの話ですよ、あの「ガラスプレパラート」ってやつをですね、べたっと指で持つと、そこに指紋が付くんですね。


その指紋の部分を顕微鏡で見るとね、なぜでしょう、これはもう言語化できないんですけど、油脂が強拡大されてですね、




ウワーーーーーーーーーー!




って病理医は発狂して寿命が80年ほど縮みます。かわいそう。


だからみなさんはガラスプレパラートを絶対に「直でベタ持ち」してはいけません。


ではどうするか? かんたんですね、ハンドパワーです。


触らずに持ち上げればいい。ただ、そうは言っても、夕方とか、疲れているときとか、ちょっとハンドパワー足りない日ってありますよね。


今日はそういう、「ハンドパワーでプレパラートを持ち上げられなくなったときのコツ」を、すごく丁寧にお伝えしますね。説明が長くなるかもしれませんが、おつきあいください。







こうやって持てばいい。





おしまい。

でもこれ本当に大事なので医学生諸君は覚えといてね。まあもうプレパラート触る実習もあんまりないんだけど(今はバーチャルスライドといってPCモニタで実習することが多いですね)。


2020年11月6日金曜日

新機種乗り換えキャッシュバックキャンペーン

充電器がポンコツだ。一晩差し込んでおいたはずなのに、出勤後気づいたらスマホの充電の残りが30%しかなかった。これでは退勤まで持たないかもしれない。



充電器だけじゃなくて、そもそものスマホ本体も、バッテリーが弱るのが早い。



……ゲームボーイはこんなに早くバッテリーがへたることはなかった。

Nintendo 3DSだって、Switchだってそうだ。スマホよりずっと楽しい機械はあんなに充電できたのに。なぜスマホではそれができないのか。

いっそ、任天堂がスマホつくってくれればいいのに……。



充電がすぐなくなるようになると、ぼくたちは新しいスマホを購入したりする。「そろそろ3年か~」なんて言いながら。

ひどい話だ。たった3年で買い換えるなんて。

残価設定型ローンを使って車を買ったことがないぼくにとって、3年で何かを買い換えることには抵抗感しかない。できれば5年は使いたい。

それでも早いと思うけれど。



購入してから毎日のようにアップデート、アップデートをくり返して、それで結局本体の容量がだんだんなくなって、動作が遅くなって、充電がもたなくなって……。

こんなに早くあきらめなければいけない家電というのは本当にどうかしている。

パソコンにも言えることだが。




3年でふるびてしまう家電。冷蔵庫やエアコン、テレビや洗濯機とくらべて何が違うのか、と考えると。

「脳神経」の代替品である、ということが思い浮かぶ。

目のかわりにカメラで見て、耳の代わりにマイクで聴く。脳の代わりに記憶する。心の代わりに考える。

そこまでやってしまう機械だと、たった3年の「古さ」がストレスになるということか。

あるいは、脳神経の代わりをするような機械というものは使うエネルギーがはんぱなくて、ほかの家電に使っているようなバッテリー技術をあてはめてもすぐに劣化してしまう、ということなのだろう。




よく考えたら、スマホの充電よりもはるかに燃費の悪いマシンをぼくは持っていた。

脳である。1日に3回くらいブドウ糖を補給しないといけない。もっと言えば、1分間に20回弱、呼吸して酸素を行き渡らせないといけない。こんなに燃費の悪いコンピュータで偉そうに、スマホをバカにしている場合ではなかった。



でもなあ。脳は3年で買い換えるわけではないしなあ……。




ふと思った。実はぼくの脳も、3年経つとまるっきり入れ替わっているのかもしれない。3年前に思っていたことの寄せ集めなんて、今や、もう何の役にも立たなかったりして。

2020年11月5日木曜日

病理の話(471) 言い古されたことを何度も言う

たとえばこの「病理の話」にしても、同じ事を何度も何度も書く。それはなぜかというと、みんな、この形式のブログではバックナンバーなんて見ないからである。


このブログのPV数を見ていて気づいたことがある。それは、公開して1年くらい経つ記事と、最近の記事のPV数が、さほど変わらないということだ。

つまり、時間が経てば経つほど読む人が増えるわけではない。公開直後にワッと読まれて、あとはもう、ほとんど読まれない。


そのことをウェブに詳しい人にたずねたら、「それはブログの構造の問題ですね」と言われた。「過去の関連記事」みたいなものを表示する機能がついていないと、今の人々は昔に遡ってどんどん読んでいくようなことをしないのだという。


あるいは、Google検索でひっかかりやすいように対策をしておけば、「昔の記事がバズる」こともあるだろう。けれどもぼくはこのブログに関してそういうことを一切やっていない。


自然と、「ときどき思い出したかのように、同じ話題を何度もしゃべる」という形式のブログになり、読者もだいたい固定されて、毎日様子を見に来る、みたいなかんじになっている。





で、今日の内容をなぜ「病理の話」に書くかということなんだけれども、このような「ときおり思い出したかのように一度言ったことをまた言う」というのは、病理診断の報告書を書く際に、あるいは臨床医と話し合う際に、けっこう大事なプロセスではないかと思っているのだ。


医者は、一度念入りに説明すれば何でも覚えられる……わけがない。医者はそこまで優秀ではない。18歳前後で人より早く情報処理ができるようになった、というだけで医学部に入学しているが、40前後になればその能力はとっくにたいていの社会人に追いつかれている。当然、一度説明したくらいでは頭に入らない(昔はそうじゃなかった、と言いたい人はいる)。


だから、「思い出したかのように説明する」のがとても重要だ。特に、病理診断のように、たいていの医者にとってはたまにしか触れない、たまにしか世話にならないジャンルに関しては。


「Ki-67免疫染色ですが、陽性細胞数も大事なんですけど分布がもっと大事なんですよ」


「TTF-1免疫染色の感度も特異度も100%ではないですからね」


「遺伝子再構成検査を提出する際にはホルマリン固定ではなくて、生理食塩水で軽くしめらせたガーゼの上に検体を直接のせて、すぐに検査室に持ってきてください」


「ぼくが矛盾しませんと書くときはあなたに賛成ですの意味ですが、ほかの病理医が矛盾しませんと書くときもそういうニュアンスだとは限りません」



こういったことは、何度も言う。忘れた頃に言う。くり返し言う。付き合いの長い上級医になると、若手を横に同席させた状態でぼくが説明をするとき、途中から微笑んでいる。でもそこで茶化すような人はいない。なぜなら、上級医になるとおそらくみんなが、「何度も言うことの重要性」をわかっているからだ。



で、当然、患者にも「何度も言う」ほうがいいと、ぼくは思う。しかしこのとき、一部の患者は、「こっちが忘れると思って何度も言いやがる、なめやがって」と思うことがあるらしい。たまにツイートでも目にする。


や、そういうことでもないんですけどね。でもまあ言い方の問題もあるだろうなあ。

2020年11月4日水曜日

代わりに言わないということ

https://soar-world.com/2020/10/21/annirie/


↑これがいい記事だなーと思ったんでツイッターで紹介した。その際のツイートをここにもはりつけておく。



”発信力の弱い人、伝える力がない人に「勝手になりかわって」「代弁して」伝えようとする人が激増している昨今、「代わりに言わない」ことをこれほどやさしく解体した記事はめったに出てこない。朝からすばらしいものを読んだ”






最近、リツイートで回ってくる「バズりツイート」の多くが、


”なんかうまいこと言える人が誰かの代わりに何かを言ってやった”


という体裁をとっているのが内心気になっていた。

あるいは、これは「世の中一般の傾向ではない」かもしれない。

ぼくがフォローしている11万人(≒ぼくをフォローした12万人の中で、ぼくがフォローを返そうと思うくらいには人間であるひとたち)が、そういうツイートを好きなだけかもしれない。

すなわちぼく自身が持つ傾向なのかもしれない。

以下は自戒込みで言う。


「誰かの代わりに何かを言ってやるぜ!」がリツイートされやすい環境にぼくはいる。




リツイートのボタンは、ときに「よく言った!」「共感する!」みたいな気持ちを込めて押すものだと思うので、「強い代弁者」のツイートは拡散されやすいだろうな、と思う。


でもぼくはだんだん「代わりに言ってやるぜ!」の暴力にうんざりしつつある。


弱き者――具体的にどういう人たちなのかは場合による――が、ほんとうは世の中に言いたいことがあるとする。たとえば「いじめっこに怒鳴り返してやりたい」とか、「今の世の中でつらい思いをしている」とか、「関係性の中で黙ってしまっている」とする。

そういうときに、「強き者」が出てきて、代わりに声を上げることに、功罪の功ばかりがあるとはぼくには思えない。やはりそこにはゆがみがあると思う。

代弁というのはあくまで代理の声である。あとから出てきた声のでかい人が何かを語る時、それが、「最初の繊細な人」の気持ちを8割背負っていればよいほうだろう。実際には、6割も背負えていない、4割しかあっていない。そんなもんだと思う。人間は他者の気持ちをそこまで正確に推し量れない。


代弁によって大衆の溜飲を下げるタイプの「メディア」あるいは「バズツイート」にはとりこぼしたニュアンスがあるのだ。それはもう、絶対にある。それをわかった上で利用するならいい、しょうがない。欠点を飲んでなお利点が魅力的ならどんどん使えばいい。


しかし、「代弁された者」の気持ちはおそらくずっと明かされなくなる。そういう構造にちゃんと気づけるかどうかだ。


くだんの記事はそこに繊細だと思った。ツイートのあと、ウィズニュースの水野さんとか、NHKの藤松さんとか、ごく少数の「代弁者であることの暴力性」に気づいているであろう人の顔を思い浮かべた。そういう人を真似していくしかない。ぼくはそう思う。

2020年11月2日月曜日

病理の話(470) 誰の役割だろうか

『がん医療の臨床倫理』(医学書院)というゴリゴリの本を読んでいたら、こんな話が出てきた。



「乳がんの患者さんがある検査をした。


その結果が出るまでの間、別室で待機してもらうことになった。

ところが、清掃だか何だかの都合(忘れた)で、その日は待機するスペースが空いてなくて、やむをえず、同じような境遇で待ち時間を過ごす別の患者と相席してもらった。


別室で同席した患者どうしは、互いに同じ病気だということで、お茶を飲みながら談笑し、互いの不安を語り合った。


後日、その患者は、『あの待ち合いでの時間が、病院で一番快適な時間だった』と述べた」




これを読んで思わず唸ってしまった。


病院には数多くの待ち時間があり、それは病院のシステム上、やむをえないものである。画像検査を行ったら、その結果がPCで見られるようになり、医者がそれを評価するまで、患者は待っていなければならない。このとき、医療者側は、「申し訳ないけど待っててください」と伝えるしかない……。


待たされている患者は、その間、不安な気持ちをひとりでどうにかしなければいけない。


ところが、病院が意図していなかった偶然により、たまたま似たような境遇の人と同席することで、不安な待ち時間が「経験を共有できる貴重な時間」に変わった。


患者にとってはほんとうに幸運なエピソードだったと思う。


ただ、これ、医療側が、意図して整備することはできないのだろうか?





病理診断というシステムひとつとっても、数多くの待ち時間が発生する。いずれも、検体を正しく保存し、標本をきっちりと作り、病理医がしっかりと考えるために必要な時間だ。しかし、結果を待っている医者や患者にとっては、単なる待ち時間でしかない。


ここにもっと上手に介入して医療全体に対する満足度を上げることができないんだろうか?




「そんなの病院の経営者ならとっくに考えてるよ」……とも思えない。だってそもそも医者側はさほど気にしてない、というか気にする余裕がないんだ。ぼくだって昨日まであんまり考えてなかった。必死で働いて少しでも待ち時間を短くすること、くらいしか考えてなかった。

そう、病理の結果を待つ患者や主治医にとっての「待ち時間」は、診断する病理医にとってはまさに「激烈にがんばっている勤務中」なのである。待っててくれ!としか言えない……。



でもなあ。



たとえば、「患者役の監査者」にたまに受診してもらって、待ち時間がどこにどれだけ存在しているかの統計をとる。そしてスマホとかけあわせて、待ち時間に「患者であれば知りたくなるであろうこと」をかわりに紹介できるような動画を流す。そうすれば、待ち時間を有効に使えるかもしれない。

あるいは、「待ち時間の裏で必死で働いているわれわれがやっていること」を、ちゃんと患者に伝えるのも効果があるかもしれない。「待つことになるのも当然だ」と患者に思ってもらうというのも手だろう。

病院内にWi-Fiを整備する、みたいなことも、福祉の一環としてやるべきことだよね。令和の時代、Wi-Fiは公共インフラだ。

今、儲かっている病院は、Wi-Fiくらい当然のように設置しているんだろうけれど、病院にもいろんな種類があって、保険医療上どれだけはたらいてもなかなか黒字が出ない、半分慈善事業みたいになって多くの患者をぎりぎり救っている病院もいっぱいある。そういうところには新規にWi-Fiを完備する予算なんてほとんどない(患者はいっせいにネットを使うのでそれなりに強いWi-Fiを整備しないといけないから思った以上に時間がかかる)。

すると、ここには税金を投入しないといけないのかなあ……。



今日の話は「病理の話」には見えないかもしれないけれど、病人にとって、「病気のために使う時間」というのは基本的に人生の損失なのだ。ヘンな話、治療で寿命を1日延ばせるとして、その1日が病院通いに費やされてしまったら、意味が無いと感じる人だっていっぱいいるだろう。となると、病院にいる時間を快適にするというのは、病気に直接対処するのと同じ意味を持つ。


「病人のまわりにある理」を考えるのも病理のひとつである、と言ったら、いいすぎだろうか? ぼくはこれを趣味で考えているのではない。自分の職能で解決できる部分がないかという視点で、おおくの医者が自分事として考えておかないといけないのではないか。そう思うのだ。