2020年11月27日金曜日

陰口

ある人の目に留まらない場所で、あるいは、「ぎりぎり目に留まるかもしれないけれど、目に留まらないだろうという建前のもとで」、人が人の悪口を言っている。


本人に直接言っているわけではないので、これはつまり「相手のことを思って」言っているわけではないのだと思う。ものかげで言う悪口のことを「かげ口」というが、まさに、光あるところではなく、何かの陰に隠れるようにして、自分のために行う行為だ。


陰口は、「陰口を言った本人にとってメリットがあるから行われる行為」。


メリット? そんなもんないよ、言いたいから言っているだけだ、と思っている人もいるかもしれない。しかし人間というものは、あるいは脳というものは、とてもうまくできていて、無意識の行動、無自覚の行動にも長い目で見てみるといろいろと合理性があることが多い。


では、陰口というのは、脳が何を目標として行っているものなのか?




腹の中に不満がたまっていく、という表現がある。人間はストレスを抱えたときにぼんやりとした不満のような感情を腹部で知覚することがある。おそらく、あなたも経験したことがあるのではないか。

そして、この腹の中にたまった不満をゲボッと吐き出して楽になりたいとき、人間は陰口を言う。「溜飲を下げる」という言葉があるが、むしろ溜飲が上がって上がって口から漏れてしまったものが陰口なのだ。

まとめると、陰口とは感情の吐瀉物なのだと思う。




ここまで何も新しいことは言っていないし、これからも新しいことは言わないが、今日のブログに書いておきたいのは、ここから先のことだ。





SNSで誰かが誰かの陰口を言っている。


それに「いいね」を付ける人。


あれはなんなんだ。


他人の吐瀉物を愛でている。


本人はもしかすると、吐くほど不満をため込んだ人がようやくゲボッと吐き出した汚い陰口を目にして、吐いた人の背中をさするつもりで、いたわっているつもりで、おつかれさん、もっと吐いていいんだよ、と、「いいね」を付けているのかもしれないが。


タイムライン上に残るのは、「いいねにまみれた吐瀉物」のほう。そのことに想像力が到らないのだろうかと、本当に不思議な気持ちになる。


陰口もまた自分を守る行動だ。だから、陰口を言っている人に「寄り添い」、「傾聴する」タイプの人は、その人をだいじに思う気持ちを出してやればいい。それは良いことだと思う。


しかし吐瀉物にいいねしてどうする。


なぜそれが見えないのか。




嘔吐は反射だ。自分では制御できないことがある。究極的なことを言えば、陰口というのは本人にとってアラートサインであり、言ってはいけないとわかっていてもつい口から出てしまう類いのものであったりもする。


だから、仮に自分がその陰口の対象だったとしても、陰口ひとつで激怒することはないし、「よっぽど腹に不満をため込んでいるんだな」くらいの想像でなんだか落ち着いてしまうものなのだけれど。


誰かへの陰口に「いいね」がついているのを見るときのほうが、怖い。愛でるという行為は反射ではないからだ。「いいね」は自覚的に行うものである。「吐瀉物をよかれと思っていいねする」ほど汚い5・7・5があろうか?


「反射的に推す」というオタクの方便がある。「尊すぎて判断力がなくなった」というオタクもいる。しかし、そういうオタクは往々にして、多弁で、語彙も豊富であり、むしろ大脳新皮質を無限にブン回して「推し」を慎重に吟味している。「反射的にいいねを推す」と公言する人に限って、いいねの対象は論理的に選ばれているものだ。


吐瀉物に反射していいねをつけている人がいるのだとしたら。


ぼくはそれは、だいぶ異常なことだと思う。