2020年11月4日水曜日

代わりに言わないということ

https://soar-world.com/2020/10/21/annirie/


↑これがいい記事だなーと思ったんでツイッターで紹介した。その際のツイートをここにもはりつけておく。



”発信力の弱い人、伝える力がない人に「勝手になりかわって」「代弁して」伝えようとする人が激増している昨今、「代わりに言わない」ことをこれほどやさしく解体した記事はめったに出てこない。朝からすばらしいものを読んだ”






最近、リツイートで回ってくる「バズりツイート」の多くが、


”なんかうまいこと言える人が誰かの代わりに何かを言ってやった”


という体裁をとっているのが内心気になっていた。

あるいは、これは「世の中一般の傾向ではない」かもしれない。

ぼくがフォローしている11万人(≒ぼくをフォローした12万人の中で、ぼくがフォローを返そうと思うくらいには人間であるひとたち)が、そういうツイートを好きなだけかもしれない。

すなわちぼく自身が持つ傾向なのかもしれない。

以下は自戒込みで言う。


「誰かの代わりに何かを言ってやるぜ!」がリツイートされやすい環境にぼくはいる。




リツイートのボタンは、ときに「よく言った!」「共感する!」みたいな気持ちを込めて押すものだと思うので、「強い代弁者」のツイートは拡散されやすいだろうな、と思う。


でもぼくはだんだん「代わりに言ってやるぜ!」の暴力にうんざりしつつある。


弱き者――具体的にどういう人たちなのかは場合による――が、ほんとうは世の中に言いたいことがあるとする。たとえば「いじめっこに怒鳴り返してやりたい」とか、「今の世の中でつらい思いをしている」とか、「関係性の中で黙ってしまっている」とする。

そういうときに、「強き者」が出てきて、代わりに声を上げることに、功罪の功ばかりがあるとはぼくには思えない。やはりそこにはゆがみがあると思う。

代弁というのはあくまで代理の声である。あとから出てきた声のでかい人が何かを語る時、それが、「最初の繊細な人」の気持ちを8割背負っていればよいほうだろう。実際には、6割も背負えていない、4割しかあっていない。そんなもんだと思う。人間は他者の気持ちをそこまで正確に推し量れない。


代弁によって大衆の溜飲を下げるタイプの「メディア」あるいは「バズツイート」にはとりこぼしたニュアンスがあるのだ。それはもう、絶対にある。それをわかった上で利用するならいい、しょうがない。欠点を飲んでなお利点が魅力的ならどんどん使えばいい。


しかし、「代弁された者」の気持ちはおそらくずっと明かされなくなる。そういう構造にちゃんと気づけるかどうかだ。


くだんの記事はそこに繊細だと思った。ツイートのあと、ウィズニュースの水野さんとか、NHKの藤松さんとか、ごく少数の「代弁者であることの暴力性」に気づいているであろう人の顔を思い浮かべた。そういう人を真似していくしかない。ぼくはそう思う。