2020年11月2日月曜日

病理の話(470) 誰の役割だろうか

『がん医療の臨床倫理』(医学書院)というゴリゴリの本を読んでいたら、こんな話が出てきた。



「乳がんの患者さんがある検査をした。


その結果が出るまでの間、別室で待機してもらうことになった。

ところが、清掃だか何だかの都合(忘れた)で、その日は待機するスペースが空いてなくて、やむをえず、同じような境遇で待ち時間を過ごす別の患者と相席してもらった。


別室で同席した患者どうしは、互いに同じ病気だということで、お茶を飲みながら談笑し、互いの不安を語り合った。


後日、その患者は、『あの待ち合いでの時間が、病院で一番快適な時間だった』と述べた」




これを読んで思わず唸ってしまった。


病院には数多くの待ち時間があり、それは病院のシステム上、やむをえないものである。画像検査を行ったら、その結果がPCで見られるようになり、医者がそれを評価するまで、患者は待っていなければならない。このとき、医療者側は、「申し訳ないけど待っててください」と伝えるしかない……。


待たされている患者は、その間、不安な気持ちをひとりでどうにかしなければいけない。


ところが、病院が意図していなかった偶然により、たまたま似たような境遇の人と同席することで、不安な待ち時間が「経験を共有できる貴重な時間」に変わった。


患者にとってはほんとうに幸運なエピソードだったと思う。


ただ、これ、医療側が、意図して整備することはできないのだろうか?





病理診断というシステムひとつとっても、数多くの待ち時間が発生する。いずれも、検体を正しく保存し、標本をきっちりと作り、病理医がしっかりと考えるために必要な時間だ。しかし、結果を待っている医者や患者にとっては、単なる待ち時間でしかない。


ここにもっと上手に介入して医療全体に対する満足度を上げることができないんだろうか?




「そんなの病院の経営者ならとっくに考えてるよ」……とも思えない。だってそもそも医者側はさほど気にしてない、というか気にする余裕がないんだ。ぼくだって昨日まであんまり考えてなかった。必死で働いて少しでも待ち時間を短くすること、くらいしか考えてなかった。

そう、病理の結果を待つ患者や主治医にとっての「待ち時間」は、診断する病理医にとってはまさに「激烈にがんばっている勤務中」なのである。待っててくれ!としか言えない……。



でもなあ。



たとえば、「患者役の監査者」にたまに受診してもらって、待ち時間がどこにどれだけ存在しているかの統計をとる。そしてスマホとかけあわせて、待ち時間に「患者であれば知りたくなるであろうこと」をかわりに紹介できるような動画を流す。そうすれば、待ち時間を有効に使えるかもしれない。

あるいは、「待ち時間の裏で必死で働いているわれわれがやっていること」を、ちゃんと患者に伝えるのも効果があるかもしれない。「待つことになるのも当然だ」と患者に思ってもらうというのも手だろう。

病院内にWi-Fiを整備する、みたいなことも、福祉の一環としてやるべきことだよね。令和の時代、Wi-Fiは公共インフラだ。

今、儲かっている病院は、Wi-Fiくらい当然のように設置しているんだろうけれど、病院にもいろんな種類があって、保険医療上どれだけはたらいてもなかなか黒字が出ない、半分慈善事業みたいになって多くの患者をぎりぎり救っている病院もいっぱいある。そういうところには新規にWi-Fiを完備する予算なんてほとんどない(患者はいっせいにネットを使うのでそれなりに強いWi-Fiを整備しないといけないから思った以上に時間がかかる)。

すると、ここには税金を投入しないといけないのかなあ……。



今日の話は「病理の話」には見えないかもしれないけれど、病人にとって、「病気のために使う時間」というのは基本的に人生の損失なのだ。ヘンな話、治療で寿命を1日延ばせるとして、その1日が病院通いに費やされてしまったら、意味が無いと感じる人だっていっぱいいるだろう。となると、病院にいる時間を快適にするというのは、病気に直接対処するのと同じ意味を持つ。


「病人のまわりにある理」を考えるのも病理のひとつである、と言ったら、いいすぎだろうか? ぼくはこれを趣味で考えているのではない。自分の職能で解決できる部分がないかという視点で、おおくの医者が自分事として考えておかないといけないのではないか。そう思うのだ。