2020年11月25日水曜日

拙者

「一人称が変な人が苦手」である。その人の全体が発する雰囲気と、その人が自称する「自らを呼ぶときのやりかた」が合っていないとき、うーん、大丈夫かなこの人……と思う。そして、嫌な予感はだいたい当たる。


他者に対して自分をどう呼称するかというのは意外と奥が深いと思う。「ぼく」はブログの一人称ではひらがなの「ぼく」を使うことが多いがこれもケースバイケースだ。「私」がマッチする場面というのもある。「私」で引っ張らないと完成しない文章があると感じる。「僕」のほうがいいと思う人もいるだろう。極論すれば「小生」がマッチするラジオ投稿というのもあるわけで、これはおそらくネクタイの色を選ぶとか(あるいはそもそもネクタイを締めないとか)、季節に応じて靴の色味を変えてみるのと同じ感覚でやるべきことなのではないか。


ぼく自身は、これまでにインターネットで構築してきたキャラクタに対して「ぼく」が一番しっくりくるのではないか、と思って「ぼく」を選んでいるのだけれど、「その一人称、変ですね」と誰かに言われたら再検討に入ってすごく悩むことになるだろう。自分は自分の最初の読者だが、最初だから一番尊重すべきとは全く思わない、「二番目の読者」が変だと言ったら一気に自信を無くす。「自分が他の目にどのように映っているか」を厳しく吟味しないで書いた文章というのはどのみち誰にも伝わらないのだ、そう、未来の自分ですら「この文章結局何を言いたいのかわからないな」と、過去の自分にダメ出しをすることがある。ましてや現在の他人に向けて何かを書くというときには。


と、ここまで書いていて思ったのだけれど、自分のことを何と呼ぶか、みたいなことは究極的にはどうでもいいことで、ぼくが誰かを瞬間的に判断するときには「その呼称を自分の前にコトンと置いてみて、その人自身がどのような目で眺めているか」という、メタ認知の視点……というと流行りの言葉であまりおもしろくないのだが要は俯瞰の度合いを見て「こいつ大丈夫かな」というのを推しはかっている。ここまでさらに書き足して思ったのだけれど、誰が何をどうやっていても本当のところはどうでもよく、最終的には他人がやる有様を自分にはね返してきて、「自分は他者にとってどうありたいか」というのを微調整することのほうがぼくにとっては大事だ。


40代になっても未だに一人称が下の名前である人を見て、周りにいる人たちがそれを「うわっ、キモ……」と口に出したときに、当の本人がニヤリとして「計算通り」とつぶやいているのかどうか。ぼくはそういうところを見ながら目の前にいる人間たち全ての不気味さを感じ取り、ひるがえって自分というものの境界線を何度も何度も何度も引き直しては「ぼく」の有り様を探っている。