2020年9月30日水曜日

そういえばカウボーイビバップもみてたわ

アニメをそんなにいっぱい見ていないので、アニメをきちんと履修している人からしばしばアニメをおすすめしてもらう。


お前はまず攻殻機動隊のイノセンスを見ろと言われている。あと、蟲師を見るべきだと言われた。小林さんちのメイドラゴンを見ろと言われた。四畳半神話体系を見ろと言われた。ほかにもいろいろと言われた。


なるほどなーと思うし、きちんと見たら「うれしいに決まってる」ことまでわかっている。


とりあえず空き時間をつぎはぎしているうちにいつかたどり着くだろうと思っている。




これまで見てきたアニメってなんだろうと思った。先日ポッドキャスト「いんよう!」の中では、自分が子どものころに見ていたアニメを中心に、ドラえもんガンダムドラゴンボールワタルエヴァンゲリオンパトレイバーくらいまでしか思い出せなかった。


ぼくのことを雑にオタクだと思っている知人が何人かいる。立ち居振る舞い職業的にはこいつオタクなはずだと決めつけている人たちだ。そういう人たちはインターネットとオタクとがほぼ同じ意味だと思っていたりする。でもぼくは気質がオタクっぽく見えるだけで、実績はちっともオタクじゃない。


そもそもぼくは「これは見るべき」と人がすすめたものはなるべく見ることにしている。「言の葉の庭」にしても、「けものフレンズ」にしても、「映像研には手を出すな!」にしても、短く強く「見るべき」と言われて、たまたまその日の夜に時間があったのですかさず見たら、しっかりとおもしろかった。人のおすすめに乗るといいことがある。


これ、どちらかというとオタク気質ではなくて、「スナオな気質」によるものである。


あえて対立概念として書いてしまったのだけれどここをしっかり説明する。ぼくから見た印象に過ぎないが、生粋のオタクはむしろ他人の意見に対してスナオではないほうが多い気がする。それは悪い意味ではぜんぜんなくて、「外部から入ってきた情報を、自分の中にあるものときちんとすりあわせて、整合性を確認してからでないと是非を判断しない」という慎重な姿勢だ。自分の中でコンテンツをコンテキストにまで練り上げるタイプの人は、他人から急に何かをおすすめされたからと言って、自分の身柄をそれに簡単にあずけたりしない。


でも、ぼくはわりとホイホイしらないおじさんの言う事についていく。防犯意識の芽生えていない子どものような精神だ。これはオタク気質とはおそらく競合する性格だろう。




ところで、世間にある情報の大半は、「本質的には既存の商品と何一つ変わらないものを、情報を付加することで新商品として売るため、すなわち元からあったものを無理矢理新しく見せかけるための道具」であると思う。


無防備にテレビやネットを見たとき、そこに映っているものは、「新しくもないのに新しいという顔をして何かを売っている姿」ばかりであると感じる。たとえばスマホ、毎シーズンごとに新商品が出るが、生産側の都合はともかく、ネットの表層から得られる情報としては前の商品の違いが一切わからない。そこにはただ「新しい」という言葉だけが踊っているように見える。もちろん掘り進んでいけば先進性があるのだろうが、そもそもネットワーク上の情報はそこまでたどりついていない、ただひたすら「新しくなったよ」と連呼するばかりだ、99%が古いのに、最後にラベルする情報の部分が新しいというだけで、ぼくらは「おっ、新製品か」と思えるように退化している。


細かな差異を拡張して「うわーここが新しい」と言うモードにみんなが慣れてしまっている。すると、自然と、「ちょっとおすすめされたくらいで全部吸収していたらこちらの身が持たない」ということに気づく。


つまり世に「おすすめ情報」が氾濫して、新しくないものを新しいとダマして売ろうとしている姿勢が氾濫するにつけ、我々はその情報のほとんどを廃棄して、自分なりに「これは本当に新しい」と思うものを選んで摂取するモードに入る。


だからもはやほとんどの人は「おすすめされたくらいでは動かない」。その意味では一億総オタク時代がすぐそこまで、いや、すでにその中にいるのかもしれないとすら思う。



ただぼくはその意味では脳のアップデートが遅れたのだろう。


「いいよ」と言われればそれを摂取する気持ちがまだけっこう残っている。


そして摂取して実際に、「すばらしいなあ」と、おどろきとよろこびを持ってそれに満足するのだ。これはオタク気質ではないと思う。


ぼくは、けっこうな量のコンテンツを、「誰かがうれしそうにおすすめしている姿を見るだけでうれしくなって、商品本来の価値が200%くらいにブーストされた状態」になってから「履修」している。最近は特にそうだ。「誰かの表情」を新しく付加することで価値を増やさなければ、ぼくはもはやコンテンツ自体をまっすぐ楽しむことができなくなるのかもしれない。それは、あるいは、「もう新しいものなんてない」と、心のどこかで強い絶望を抱えているからなのかもしれない。




と、思い付くままに書いてみたのだけれど、いい作品を見て感動しているときの自分の心は、「新しいかどうか」についてはほとんど触れていない。これははっきりしている。「新しい」ということはぼくの中で、特に言語化する以前の部分ではおそらく価値ではないのだ。それなのに、「もう新しいものなんてない」という文字の羅列を見ていると、ひどく悲しい気分になる。もしかするとぼくは、新しいかどうかに関わらずコンテンツを楽しむ人間であるのに、その一方で、「いつか新しいものを見てみたい」と熱望しているのだろうか?

2020年9月29日火曜日

病理の話(458) ISO15189

「国際標準化機構」という、人々の理解をはなっから拒むタイプの名称を有する団体がある。漢字が暴力的だ。ちなみに英語だと、International Organization of Standardizationという。長いので略称がある。ISO。

……IOSじゃないのかよ! なんでだよ! と思わずナイツの塙みたいなツッコミをしたくなる。

で、このISOが何をしているかというと、電気、通信、鉱工業、農業、医療などの分野で、「国際的にやりかたを統一しましょうよ」という呼びかけと、足並みを揃えるための号令をかけている。

公共性があって国民みんなの役に立つような業務においては、仕事内容を「さじ加減」で好き勝手にやっては困る。

そこで、たとえば医療でいうと、そうだな……例をあげると……

だれもが理解しやすい例がいいよな……

「病理検査室の業務」などはISO認証を受けることができるのである。あれっ意味がわからないですね。すみませんね。




まあ何を言いたいかというと、病理検査室のありようも、ISOという外の野郎ども……じゃなかった第三者機関によって、「きみんとこはしっかりやってるね」「きみんとこはここがちょっと雑じゃないかな?」などとチェックをうけることができるのだ。病理検査室がこのチェックをうけて認証をうけたからといって、病院がめちゃくちゃ儲かるなんてコトはないのだけれど、ほかの分野では病院がちょっと儲かる(インセンティブが得られる)場合もあるので、まあ病理もしっかりやっとくかーてなことになるのである。

ぼくの勤める野戦病院でも、病理検査室のISO認証をそのうち受けようね、という話は考えている。まだやってないけど。たぶんそのうちやる。これすごく大変なのだ。委員長みたいな人たちに一日見回ってもらわないといけない。委員長はツンデレである。




さて病理検査室が外部から「よくやってるね」と評価される基準にはどんなものがあるか?

「病理と臨床 2020 Vol.38 No.9 826-831」の中で、丸顔でおだやかで人当たりがやさしいことで有名な柳内先生が解説されているのでこれを使って簡単に説明すると……

・プレパラートの作製方法がきちんとしているか
・免疫染色がうまく染められているか
・術中迅速組織診がきちんとやれているか
・細胞診がしっかりやれているか
・病理診断はばっちりか

みたいな感じである。うわーこれだけだとすごいあいまい。

で、具体的には、運用マニュアルが整備されているか、業務で出す文章のチェック機構が働いているか、品質管理や精度管理(※今は精度保証ということも多い)ができているか、みたいなことを逐一チェックされる。すげーみられる。

そもそも人が足りてるか、みたいなことも勘案される。




で、なんかそういうチェック項目を全部見ていて、フフッと思ってしまったことがひとつあったので、今日はそれを紹介して終わる。


「施設、環境」というチェック項目の中に、「静かで中断されない検査環境の提供」という項目があるのだ。これ、一瞬見逃してしまうところだった。

「静かで中断されない」ってどうやってチェックするのかな?

柳内先生の文章を読み進めていくとこう書いてあった。



「細胞診のスクリーニングで、(検査士の)肩が触れるような動線や配置は問題となる」




おーそんなとこまでチェックするのか。まあ職場環境って結局そういうことだよなあ。




項目をみる限り、うちの検査室はすべての項目に適合しているようには見える。でもこういうのは、自分たちで「やってるやってる」と宣言するだけではなく、外部の目からチェックしてもらうことにも意義はあるんだろう。まだ市中病院で病理検査室のISO認証を獲得している病院はあまり多くないのだけれど、これに関しては、ぼくが主任部長であるうちに、獲得しておいたほうがいいだろうな、と思っている。

2020年9月28日月曜日

脳だけが旅をする

 自分の稼働キャパを越えたときにツイートをする。ぼくはこれはよくやる。「やべええ」とか「忙しいいい」などとつぶやくやつだ。


しかし実際、自分の稼働キャパを下回っているときのツイートのほうが、問題なのかもしれない。


「まだやりたい、まだやれる」ってやつ。「時間を持て余している」。「ひまをひまとして享受できない」。



もっとのんびりしたらいい。やることがないならツイートなんかしないで「なにもしないことをする」をやったほうがいいのだ。なのに、つい、城の石垣を作る際に大きい石を積み終わってからスキマに小さい石をはめ込んでいくように、空いた部分、空いた部分、すべてに石を積めようとする。




水曜どうでしょうのディレクターの嬉野雅道さんが昔書いていた、とぼくも何度か書いた話題。


彼の奥さんはとにかく何かをしていないと落ち着かないタイプだそうだ。しかし、バイクを駆って旅をしているときは、旅先の宿でも落ち着いている。「のんびり」している。嬉野さんはそれに気づいて尋ねてみた。


「旅先だとのんびりできているみたいだけど、どうして?」


すると奥さんはこう答えたそうだ。


「そういえばそうだね。たぶん、『旅をしている』からかなあ。旅先ではのんびりしていても、決して何もしていないわけじゃない。そのときは『旅をしている』ということで、納得できている」




ぼくは最近よく、嬉野さんの奥さんの境地がいいなと思う。もはや自分の「何かをしていないと落ち着かない」という気性は治らないし治すものでもない。というかそれは異常ですらないのだ、おそらく。


だとしたら、ぼくが根本的に「ゆっくり、何もしない」ためには、バックグラウンドに何か、旅のようなものを配置しておけばよいのだろう。そうすれば、「今のぼくは旅をしているから、他に何もしなくていいだろう」という考えにたどり着ける。そして休める。




……なんてことを何度か書いているこのブログの名前。

たぶん由来の一部はそのへんにある。

2020年9月25日金曜日

病理の話(457) 病理医以外にとっての病理学

「いい医者になるために学ぶべきコト論」みたいなものは定期的に話題になっている。


「何はなくても接遇! 人と触れあう仕事です! 接し方を学ぶことこそは授業でやるべき。」


「いやいや統計学だろう。エビデンスが構築されるときのイメージを持っていなければ西洋医学の徒としては働けない。」


「感染症じゃないか? あらゆる科に勤務するにあたって絶対に感染症の知識だけは使うのだから。」


「ケアの話が大事だ。キュアは誰もが国家試験で勉強する。病を視るのではなく人を看ろ。」


「経営についてのセンスが大事だ。商売で医療をやっていこうとするならね。」



お察しのとおり、これはもう、きりがない。義務教育で何を学ぶべきか論と似ている。あちらを学べばこちらに注ぎ込む時間がなくなる。優先順位を付けようにも、人の働き方は多様すぎて、大事なものリストは個々人ごとに異なってくるので難しい。


結局のところ、学ぶ方が、「自分はこれをやろう」とまっすぐ前を向いて、いいモチベーションをもって学ぶことのほうが大事である。教えるほうが一方的に「これを知っていないとだめだ」と語りかけることには、意味はあると思うのだが、なにせ力がない。


そういうことがわかっている教育者たちは、「使うか使わないかは君たちの自由だけど、いつでも学べるようにここに置いておくからね」と、情報をストックすることになる。





さて、医師、あるいは医療者のほとんどが「病理学」を学ぶべきかどうかというのは難しい問題だ。「病の理」という意味の広い病理学は必ず習っているのでそこはベースラインとしてここでは問わないこととする。もっとアドバンスの知識、「病理医が日常的に用いている応用病理学」を学ぶべきなのか? 医療者として人生の中で一度は「病理医のもとで」学んだ方が役に立つのだろうか?


人による、としか言えないのだが、いちおうぼくは「役に立つような学び方はある」とだけ書いておく。いつかこれを読んで、「なるほど自分のモチベーションと合いそうだな」と思う人のために。




まず、病理医がやるような「顕微鏡の勉強」というのはほとんどしなくてもいい。それはテレビを見るためにテレビ内部の構造を理解する、あるいはパソコンを使うためにCPUの理論を理解することに近い。ほとんど必要ないと思う。


では何をするか? 2つのシチュエーションに応じて2つの回答を置いておく。


【1.あなたが形態診断をする医者だったら】


「形態診断」というのは、CTやMRI、超音波、内視鏡などを使って、「病気のカタチ」をみることで診断をする仕事だ。放射線科医というのがその代表だが、たとえば外科医は手術の前に必ずこれらの画像をみて、体内で病気がどのように広がっているのかを確認するし、内視鏡医(消化器内科、呼吸器内科など)は、カメラで病気を目視して診療方針を考える。


こういう人たちにとって、病理診断という「もうひとつの形態診断」のエッセンスを学ぶことは、直接日常診療の役に立つ。自分が画像で/肉眼で見たモノは、病理で顕微鏡を使うとこうやって見えるのか、なるほど! と、「見えると見えるを照らし合わせる」。


これに必要な訓練期間はだいたい3か月である。自分が診療に使う臓器「だけ」、自分が興味をもっている病気「だけ」をじっくり照らし合わせて理解する作業の、レベル1とレベル2くらいの部分はだいたい3か月で修得できる。もちろんそれ以上の時間を投入してもいいのだが、レベル3以上を目指すには半年あっても1年あっても足りないことも多い。そもそも自分の本職で忙しいひとたちが、3か月以上もの長い期間を病理のために使うことは難しい。従って、「3か月で初歩を習い、かつ、3か月で病理医と仲良くなって、それ以降はいつでも相談できるような関係性を築く」ことができれば十分である。



【2.あなたが全身を診る内科タイプであったら】


病気というのはすべてがすべて「カタチ」をもち「カタマリ」を作るわけではない。というか、心不全にしても糖尿病にしても、肺炎にしてもSLEにしても、潰瘍性大腸炎にしても慢性肝炎にしても、IgA腎症にしても便秘にしても、これらはマクロ(肉眼)でどこかにカタマリができることが病態の本質なのではなく、血液をはじめとする液性の因子や、さらには体内がさまざまな物質を用いてクロストークし、歩調を合わせて体調を整えているはたらきそのものが乱れることによって起こる。


こういう病気を扱う人たちが、病理診断を「顕微鏡でカタチをみるもの」だと考えている場合、病理診断科に3か月いようが1年いようがほとんど何も学べない。「見えると見えるを照らし合わせる」にならないからだ。


すなわち、この場合、病理学のコアにある、「見えないものを見えるものと照らし合わせる」をやらないといけない。この訓練をするにはコツがいる。


具体的には何をすれば「肉眼ではよく見えない病気を、病理学で診る」ことが学べるのか? これにはひとつの模範的な回答がある。CPC(クリニコ・パソロジカル・カンファレンス)と呼ばれる、院内のでかいお祭りみたいなカンファにしっかり出るということだ。それも、「病理医側の人間として、カンファの準備をする」ことで。


CPCでは、解剖例をはじめとする「全身に異常がある状態」の患者を振り返り、主治医が患者とともに歩んだ顛末を確認し、すべての検査値を遡って、最終的には病理解剖を行った病理医がみたありとあらゆる「見えた変化」と照らし合わせる、ということをする。この中に入ってしっかり学ぶと、一人の死んでしまった患者から、ものすごい量の知識と経験をセットにして自分の中に吸収することができる。


ただし、現在、全国の病院ではこのCPCの数が激減している。なぜならば解剖の数が減っているからだ。解剖というのは患者や遺族、主治医にとって、疑問を解消するために行う側面が強いが、医学が進歩すると「現場での疑問」の多くは解剖などせずともほぼ解決してしまう。


ただ、疑問がないからといって解剖をやらないのは、「学び終わった医師」にとっては悪いことではないのだが、本当は「学び終わった医師」などというのはこの世にいない。全員が「学び中」なので、解剖をやると必ずあっと驚くような発見がある。それは、体の中にあるのが「カタマリを作る病気」であるかどうかとは関係がない。


ある一つの病気を軸に、全身でどのようなことが起こったのかを、病理医が必死で考える。臓器をみながら。


病理医がそこまでやってくれるということを知って、臨床医は、だったらできる振り返りを全部やってやろうじゃないかと、あらゆるデータを再確認していく。照らし合わせる。


これがめちゃくちゃに役に立つ。しかし、しっかりやらないと役に立たない。


今、感染症禍において、「感染防御のシステムを備えた解剖室」自体が少ないため、解剖の例数は激減している。さらに言えば、感染症禍の前から、解剖数自体は減少の一途を辿っている。くり返すが臨床医も患者も家族も、患者が亡くなっても「ほとんど」疑問はないので、解剖をやるモチベーションまで届かないのだ。しかし、一部の大学病院などでは、今でも数多くの解剖をやっており、CPCも多数行っている。


狙い目はそこだ。臨床医として病理学を学ぶことで自分の診療の役に立てようと思ったら、「CPCを無限にやっている病理」で学ぶのが一番強力だと思う。そしてこの場合、解剖の件数、CPC開催までの準備期間などを考えると、おそらく3か月では研修は足りない。半年以上はかかる。




……【1.】と【2.】で文章量が違う。手間もしんどさも違うのだ。だからぼくは基本的に、臨床医が「形態診断」をやりたい場合には積極的に病理診断科に短期留学することを勧めている。しかし、臨床医が「内科としての実力を伸ばしたい」という意図で病理研修を希望する場合、これらのことを話し合いながら、「それはほんとうに病理でやったほうがいいのか」「あなたは結局何が学びたいのか」「それは病理医と友達になるだけで解決する願いだったりはしないか」というのを綿密に相談するようにしている。

2020年9月24日木曜日

追いつかれる

油断をすると追いつかれる。何に追いつかれるかというと、「焦って目の前の仕事をひたすらこなさなければいけない自分」に追いつかれる。


たとえばこのブログをぼくは基本的に5日分書きためている。たとえば今日のこれは、公開の1週間前の同じ曜日に書いている。平日毎日更新して、土日は更新がないので、5日分ストックすると、「もし自分が1週間くらいブログが書けない事態に陥っても」更新をストップさせなくてすむ。


しかしこれの本末が転倒する。まあ、最初からこうなるだろうということはわかってはいたのだが。


「3日ほど忙しくなって、ブログが書けなくなって、ふと息をついたときにストックが2日分になっていると、あわてて記事を3つ書いてストックを5日分に戻さなければ気が済まない」。


こうして、「念の為」で余裕を持たせていた部分だったはずが、それがノルマに変化してしまっていて、ぼくは「5日分もストックがあれば安心だ」の人間から、「2日分しかストックがない、もうだめだ」の人間へとすみやかに移行している。





 油断をすると追いつかれる。何に追いつかれるかというと、「焦って目の前の仕事をひたすらこなさなければいけない自分」に追いつかれる。


仕事そのもののデッドラインに追いつかれるわけではないのだ。「ここまでやっておかないと不安だ」という気持ちに追いつかれる。だからぼくはいつも仕事の締め切りを必ず守る、どれだけ忙しくても依頼より遅れて何かを出すということはまずあり得ない。しかしそこに余裕は一切無いのだ。たとえば締め切りが10月30日の原稿があったとしたら、自分で勝手に締め切りの線を9月30日に引き直して、そこまでに終わらないと世界が終わる、という気分になっている。本当は1か月も余裕があるのに。


いつも焦って目の前の仕事をひたすらこなしている。「それ、そんなに急いでやるべきことなの?」と言われても。



なんだかそういうのがいやになってきたので最近は仕事自体をあまり受けなくなった。といってもここでいう「仕事」というのは、本来は空き時間にやっていたはずの、片手間の書き仕事、業務や学術とは関係がない一般向けの文章を揃えるものであり、いつの間にかこれがぼくのなかで完全に「仕事」になっているのでほとほとうんざりする。これは本当は仕事ではなかったはずなのだ。締め切りはほんとうは1か月以上先だったはずなのだ。なのに、今日もぼくは、「明日がしめきりの! 仕事が! おわらない!」と言って頭を抱えている。

2020年9月23日水曜日

病理の話(456) 診断の意味が時代ごとにかわっていくということ

それなりに昔。食道がんという病気を見た医師は、「手術」を頭のどこかにおいて診療していた。


この患者に手術をすれば命を延ばせるだろうか……?


そういうことをたいていの食道がん患者の前で考えていた。


このとき、病理医は、主治医の判断を後押しする。その食道の病気がほんとうに「食道がん」なのかどうかを、細胞を直接みるという裏技で確定する。


「食道がんかあ……じゃあ手術だな」と考えて手術したら、実はがんではありませんでした、ということでは困るからだ。「たぶん食道がんだろう」を「まず間違いなく食道がんである」と決めるのに病理医は活躍したし、その先には「手術」という選択肢が控えていた。




そして時代が進むと治療が進歩する。


「手術」のほかに……食道がんがまだあまり深くしみこんでいなければ、胃カメラ(食道カメラ)を使って、スコープの先端から出るマジックハンドを使ってがんの部分だけ切り取ってしまうという手法。


あるいは、食道がんの場合は放射線照射とか抗がん剤がかなり効くということがわかり、手術をせずに(あるいは小さく切り取ってから)放射線と抗がん剤を使って「複合的に倒す」という方法。


さらには、「がん細胞に特殊な薬を投与して、その薬によってレーザー光への感度を上昇させておいて、レーザーをあててがんだけをぶっ倒す」という方法。




こうやって「治療」が進歩すると、「食道がんかあ……手術しようかな」と考えていた主治医の、やることが増える。




「食道がんかあ… → 手術しようかな

         → カメラで切ろうかな

         → カメラで切ってから放射線と抗がん剤かな

         → カメラで切って考えてから追加で手術かな

         → カメラで切ってあとしばらく様子をみてから考え直すかな

         → …… 」




判断が増える。すると、病理医のやることも、増える。


細胞をみるという裏技で、「それががんであるか」だけではなく、「どういう性質のがんか」「どういう治療法をすれば制御できるか」みたいな観点で、病気をどこまでも追いかけていくことになる。






昔の教科書より、今の教科書の方が、必ず分厚い。


科学はいつだって後の世の方が複雑になる。病理診断もそれはいっしょ、なぜなら、診断の向こうには治療があり、臨床医の判断があり、その判断は時代ごとに必ず複雑になっていくからだ。ブロッコリーがどんどん細かく分岐していくように、サイエンスは細かく分岐し、病理医はそれを幹のほうからみて、さあどこまで追いかけるかなと考える。

2020年9月18日金曜日

まとまったことを話さない

「あとで文字にする前提」でしゃべらなければいけないことがある。


たいていの場合、いらっとする。自分に。


仕事のとき、よくある。病理学的な解説をするとか。学生相手に講義をするとか。


最近、医学以外の局面でもそういうことをたまにやっている。対談をする内容が文字おこしされますよ、とか、あとでこの会話は記事になるのでよろしくお願いします、とか。


その場の瞬発力だけでやりとりをしようとすると、思ってもいなかった内容を振られたときにしどろもどろになる。だからある程度、「こう来たらこう返す」という想定問答集みたいなものを用意しておかないといけない。


いけないのだが、最後までやらない。やれない。


完全に文章化したものを事前に準備してそれを読むだけとなると、もう、その会話自体に興味をなくしてしまう。「だったら最初から対話形式にせず、原稿で世に出せばいいではないか」と思って飽きてしまうのだ。


結局、そういうつまらないこだわりのために、人前で、よく恥をかく。





自分がしゃべった内容をあとで聞き返し、文章化すると気付くことがある。


ぼくの会話はやけに遠回りが多かったり、省略が多かったり、繰り返しが多かったりする。


本質的な議論を少しそれた部分で細部に延々とこだわっていたりすることもある。


頭を抱えてしまう。




やはり、過不足なく理路整然と原稿を読むようなしゃべりをやるべきなのか?


たぶん、「やるべき」なのだ。それはわかっている。





そもそもぼくは自分の「即興」をあまり信用していない。


完全にスジナシで進行する演劇的なものを見ていると、「はいはい才能を見せたいんだね」と鼻白んでしまうというのもあるが、実際そのとおりで、ラップバトルにしても、大喜利にしても、あれらを自分の即興力だけでやれるとは全く思わない。才能も努力も届いていないのがわかる。


だから、完全にその場の勢いでなんとかなるなんて全く思っていない。


人前で話すときは、「事前に準備を十分にやっておきたい」し、「会話内容を深く考えた末にきちんと言葉を選びたい」のだが、それを事前に「文字のかたちで原稿にまでしてしまう」と、思考の言語化しきれなかった部分をおっことしてしまう気がしていやなのだ。


究極的な理想を言えば……


「言語の直前」まで考えて、あともうひと研磨すれば「文字になる」というところまで思考を準備してそこでやめたい。


「原稿」にする直前の、ぎりぎりの状態でしゃべりたいのだ。




……うまくいくわけがない。





きれいにまとまったことを話したくない。事前にまとめきりたくない。その場でまとめたい。このバランス感覚は単なる美意識のようなもので、根拠に理屈が通ってはいないのだ。でも、そうしたいから、そうしていくことになる。残念なことだ。それで人に迷惑をかける。かけ続けている。これからもかける。




このブログにしても、本当はあと「ひと練り」したほうが、通常の文章になるのかもしれないのだが、どうもぼくは研磨の余力を残した状態のものを置いておきたいのだと思う。

2020年9月17日木曜日

病理の話(455) ホルマリンの時間しばり

 体の中からとってきた臓器、そのまま置いとくと、腐る。当たり前だが腐る。


腐るというのはどういうことか? 細菌や真菌(カビ)がはえて、微生物たちの力によりさまざまに分解されてしまうということだ。


だからただちに防腐処理をしないといけない。そうしないと、「わざわざ手術で採るほどの苦労をして、体外に取り出した病気を、きちんと検索できなくなる」。


防腐処理ということで防腐剤をぶっかけるればよいか?


実は取り出した臓器には、腐るリスク以外にもいろいろと「不都合」があるのだ。


たとえば、体から採ったばかりの臓器には血液がけっこう多く含まれている。これをそのままにしておくと、血液の中に含まれている赤血球が「溶血」(ぶちこわれ)して、周りに鉄分などが漏れ出す。


(よく、血が足りないときは鉄分とれっていうでしょう。あの鉄ってのは、赤血球の中に入っています。かなりべんりに使われているがその話はいずれまた)


あと、血液だけではなくて、消化液なども含まれている。胃なら胃液。膵臓なら膵液。これらは容易に組織を破壊する。


そして、なにより、「体から取り出した細胞は、我先に死んでいく」のである。これがやっかいだ。取り出したまましばらく放っておくと、血流の循環がないわけだから、粘膜のもろい部分の細胞などはあっというまにぼろぼろと死んでいく。


手術で採ってくるような病気の多くは、人体と同じように「細胞でできている」。これが、酸欠と栄養不足によってバタバタ死んでしまうと、「手術で採るほどの苦労をして、体内に取り出してきた病気を、十分に調べる前に」……このくだりさっきもやったな。



とにかく、人間というのはよくばりなのだ。病気を採って一件落着、では終わらせない。犯人を逮捕したらすぐ刑務所にぶちこんでしまうのではなく、洗いざらい「自白させる」。つまりは顕微鏡でめっちゃ見る。そこまでやって病気を丸裸にするのが現代医療である。



しかし、腐ったり、酸欠で細胞が死んだり、消化液で溶かされたりしては困るのである。警察が犯人を取り調べる前に、組のモノによって容疑者が暗殺されてはいけないのだ。



だからホルマリンを使う!




現代で使われているのは10%中性緩衝ホルマリンというものが主だが、これがかなり高機能で、すばらしいことになっている。こいつにつけ込むと、


・腐らない! 

・細胞が「固定」されて時間が止まったかのように形状が保たれる!

・血が抜ける!

・消化液の効果も消える!


まーすばらしい、いいことばかりなのだ!




ところがホルマリンには弱点もある。まず、漬けすぎているとよくない。「過固定」と呼ばれる状態になってしまう。すると、顕微鏡でみるときの様々な「色素」がうまく入らなくなる。免疫染色という手法も厳しくなる。


何より、あまり長くホルマリンに付けていると、病気の遺伝子検査などがうまくできなくなる。現代医療ではこれはちとまずい。


そこで、臓器を取り外したら、ただちにホルマリンに漬け……


「24時間後~72時間後のあいだに、取り出す」ということになっているのである。取り出して何をするかというと、病理医が顕微鏡で見たり、遺伝子検索をするための様々な別処理にかけなければいけない……。


なんだけっこう時間に余裕があるじゃん、とか言っていてはいけないのだ。具体的にこの「24時間~72時間しばり」のつらさをお話ししよう。



木曜日の夜に手術が終わったとする。そうだな、夜7時に臓器が病理検査室に運ばれてきたとします。


で、そこでホルマリンに漬けるね。


24時間はホルマリンに漬けていないと、細胞が十分に「固定」されない。じゃあ24時間後っていつだ?


金曜日の夜7時ですね。もうスタッフみんな帰ってるよ。明日にしようよ。


翌日、土曜日の7時には、48時間が経過しています。スタッフはみんなお休みですね。


翌々日、日曜日の7時に、72時間に達します。あら、まだスタッフいないよ。


月曜日の朝、出勤して、さあ臓器をホルマリンからとりだすと……なんともう84時間以上が経過しているのだ。これでは臓器の中にある遺伝子の部品、特にRNAは壊れ始めているとされる。


そう、組織を扱うときに「時間の縛り」があって、それが患者の検査にダイレクトに影響するとき、ぼくらは、手術が終わった時間と休日から逆算して、「どこかで休日出勤」しなければいけなくなる。


「病理医は患者の都合に合わせなくていいからフレックス勤務でいいよね」みたいなことを言えていたのは昔の話だ。


今は化学物質の特性を考え、遺伝子検査などの都合を考えなければいけない。患者は説得もできるがRNAを説得するわけにはいかない。「できれば月曜日までがんばってくれ」なんて言っても聞いてはくれないのである。



2020年9月16日水曜日

該当例がしばらくないときに書かないと角が立つ話

誰かが何かを言ったとき、特にそれが「疑問形」で語られたときに、グーグルで検索するとある程度の答えが出てくることがある。

しかし、その答えをひっさげて、悩んでいる相手に、「ほら、こういうことですよ!」と教えても、まずいいことは起こらない。

なぜなら、その相手は、グーグルで調べた結果に納得がいかなくて悩んでいるかもしれないからだ。

あるいは、その相手は、グーグルで調べた結果を踏まえてなお、一段深いところで悩んでいるかもしれないからだ。



今の時代、ネットで悩みを表明する人が、ネットで検索をしていないわけがない。

「通り一遍の検索をしても出てこないレベルの疑問」だからこそ、その人は疑問をSNSの海に流して一縷の望みにかけている。

ひととおり調べてはみたんだけど、二択問題ではない、正誤問題ではない、もう少しニュアンスの微細な部分で悩んでいる、そういう人に、

安易に「Googleで調べたら出ましたよ!」と声をかけてはいけない。

「そんなことはもうやり終わっている」のだ。







人は自分が手に入れた武器を「相手はまだ持っていないだろう」と思い込んでしまう傾向がある。よく考えたらそんなことはめったにない。なぜ自分だけがラッキーにも、他人に先んじて強力な武器を手に入れられるものだと信じられるのか?




いや、違うか、「自分だけは特別優れている」と信じなければ、「自分は先に真実にたどりつくはずだ」と心の底から確信していなければ、厳しい進化の過程を乗り越えてくることなどできなかったのかもしれない。





ネットで悩んでいる人に、Googleで調べたにすぎない浅い答えを持って嬉々としてかけつける人のアイコンはたいてい笑っている。

幸せなのだろうと思う。幸せということは生きるのがうまいのだ。すなわち生き残っていくだろう。

「そんなことはもう知ってるよ」とくり返し答えなければいけない悩める人のほうが、あるいは淘汰されていくのかもしれない。

2020年9月15日火曜日

病理の話(454) 数字をどう見るか

たとえば血圧が140と聞くと「少し高めかな」なんて感じてしまう。なんとか茶とかなんとか潤とかを摂取しないとまずいかな、なんて感じてしまう。


けれども実際には、この血圧、数字の絶対値を聞いただけでよい悪いと判断できるものでもない。


普段、血圧の上が120くらいだった人が、2年くらいかけて平均140くらいまで上がったというのなら、それは食事における塩分の量だとか、日頃の運動が不足したとか、仕事が忙しいとか、さまざまな理由で「実際に血圧が上昇しつつある」のかなと思う。


一方で、20年以上血圧の上が150,160くらいだった人が、80歳を越えて、医療者の指導を受けることになり、140くらいまで低くできてきた、というと、これは「だいぶがんばったなあ」みたいな感覚になるだろう。


(80歳以上の方の血圧をどこまで下げるべきか、については今日も新しい論文がどこかで出ているような話題なので深入りはしませんが、今日はなんとなくの感覚で読んで下さい)





数字というのは基準ではあるが、ぱっと見て「あっ高い! まずい!」とか「あっ低い! やばい!」と判断できるたぐいのものではない。そういうことはいろんな場所で語られる。「単に数字に引っ張られてはいけないよ」みたいな話を、医療に限らず、経済とか、お天気とか、いろんな場面で耳にする。


けれども人間というのは不思議なもので、特に文字として描かれている数字に異常に反応してしまうものなのだ。



5


9


6


3


と書いてあるだけでぼくらはなんとなく数字をじっと見てしまうだろう。








一方、こうしてひらがなだと「なんか無意味なことやってるな」くらいにしか思わない。ぼくらは本能的に「数字をきちんと意味としてとらえようとする」習性があるのかもしれない。だったら、そういう習性をわかった上で、あまり数字に振り回されないようにしないといけないのだ。




ちなみに5963はごくろうさんである。ほかに意味は込めなかった。





どこが病理の話なのかって?


今日、最初にブログを書き始めたとき、


”ザンクトガレン・コンセンサスミーティングで決定された、乳腺・浸潤性乳管癌の分類のためのKi-67ラベリング・インデックス、14%がカットオフ値だと言われておりみんなもそれをまじめに守っているけれど、あの14%という値が「目分量」でてきとうに決められたデータを元にしている”


という教訓めいた話をしようかと思っていたのだ。でも、数字ばかりが目を引いておもしろくない。もっと言えば、我々は海外の言葉をカタカナにすると、意味なんてまったくわからなくてもついそこに目を引き寄せられてしまう……。


これでは何も伝わらないなと思って、数字やカタカナについて考える回に切り替えたのだ。そしてぼくは「どこが病理の話なのかって?」より前にはカタカナを一文字も使わないようにした。


おそらく、なのだけれど、「ブログ」という言葉を目にしたときに、読者の多くは「無意識にハッとした」のではないかと思う。数字、カタカナには、そういう、「内容や意味とは関係なく、読む人をハッとさせる効果」があり、だから医療において数字やカタカナがいっぱい出てくると、私たちは本質が一切わかっていなくても「なんだか読んだつもり」になってしまう。


そういう回でした。チャオ

2020年9月14日月曜日

明るい火に虫は焼かれる

「ファン」を多く集める商品が世の中にいっぱいある。それをはたから見ていると、「途中からそこに入っていくのは無理だな」と尻込みしつつ、いずれ自分も何かのファンになるのだろうか、とぼんやり考える。


アイドル。アニメ。映画。野球。


将棋。フィギュアスケート。Netflixの韓流ドラマ。十二国記。


これらのどれにも今のところドはまりすることはなく、しかし、これらのどれかにドはまりした人たちの言葉を見るのは好き、という状態が、長いこと続いている。自分がはまっていなくても、はまった喜びを語る人の言葉は心地よいものだ。


一方、気づかないうちに自分の言葉も、「常連向け」の色をまとい、「ぼくをあまり知らない人」には届きづらくなっている。これをすごく広い意味で、雑に語るならば、「ぼくもいつのまにかファン向けの言葉を使っている」と言える。ぼくの言葉に納得する人、追いかける人というのは小規模なファンなのだ。プロのコンテンツほどではないにしろ。


いやいやクリエイター気取りかよ、と言われたくないのでもっと根本的な話をする。


特定の友人とだけ、話がめちゃくちゃ合う、みたいなことを言う人は、今日の文脈で言うならばきっとその人のファンなのであろう。そういった友人とばかり話をしていると、前提情報がどんどん蓄積されていって、会話の根っこのところはもはやくり返し語る必要がなくなる。すると、細部に宿っている神の部分ばかり話し合うことができるようになり、意思伝達がスピーディになって、ストレスも消える。


一方、特定の友人との会話に途中から入ってきた人に、いちから説明をするのはおっくうで、めんどうで、手間がかかる。自然と壁ができる。「囲い込み」となる。





病院に通って、医者に会って、「なんともないよ、大丈夫」と言われたら、薬がなくても安心してしまうという話がある。家族が言っても看護師が言っても安心しなかった「大丈夫だよ」という言葉を、「医師免許を持っている医者」が使うとわかりやすく効く、みたいな文脈だ。全員がそうだとは言わないが。

で、今日の話でいうと、医者が大丈夫だよと言うだけでほんとうに大丈夫になるタイプの人はきっと、「医者のファン」なのだろうと思う。

これについてはファンという言葉を使うのではなくて「医者の権威性によって安心している」と言い換えることもできるのだけれど、好意的にとらえるために「ファン」という言葉を使っている。



逆に「なぜ医者の言葉だけで安心できるのか?」と考える人もいる。「大丈夫って言うだけじゃなくて、きちんと薬を出してくれよ」と言いたくなる人が確かにいる。こういう人たちはおそらく「薬のファン」なのであろう。



ファンベースという本があまりに良すぎるためか、最近SNSで「ファン」という言葉を使うと、「ファンを喜ばせながらお金を稼ぐ」「ファンといっしょになってコンテンツを盛り上げる」という話に直結してしまうのだが、ファンとはある意味「自らすすんでそのものが持つ権威性に溺れてたのしむ人」であって、ファンベースで何かをやるというのはいかに自分のコンテンツの権威性を狭い範囲相手に高めるか、いかに「気のおけない友人的存在」を外に作っていくか、みたいな話だ。商売に限った話ではない。そして、ファンベースは囲い込みだということをあらためて最近感じる。それの何がいけないか?





「それでは全員は救えない」





と最澄みたいなことを思うのだ。これはいい悪いではない、ファンベースは医療の一部しか担えない、そのことをわかった上でその戦略をどこまでとるか、という話。

2020年9月11日金曜日

病理の話(453) はたらくぼくらのこまかな覚え書き

ブログ以外で書くこともあるまい、おじさんの小言みたいになってしまうが、病理医をやる上で知っておいたほうがいいこと、そして病理医以外にはまったく役に立たないことをリストアップしてみる。とりいそぎ(?)。



1.プレパラートのガラス面をべたっと持ってはいけない。

(指紋が付く。指紋から劣化する。角を持とう。)


2.プレパラートに点を打つ(顕微鏡をみながらヨコからペンでマークする)とき、水性ペン派と油性ペン派がいる。水性ペンは水で洗い流せるし油性ペンはジエチルエーテルやアルコールで洗い流せる。だから、あとは好みだよね、などと言うが、後日きれいな標本写真を撮ろうと思ったら、いちいち有機溶媒で拭かなきゃいけない油性ペンよりも水性ペンのほうが便利である。


3.臓器の肉眼写真を撮影するとき、大事なのは血をきれいに拭き取ることである。体感で1分以上、血をそのままにしておくと血液内の色素が標本にうつって色が悪くなる。するとマクロ診断の精度が(体感で)0.5%くらい落ちる。


4.臓器の肉眼写真を撮影するとき、昔はルーラーを写真の下や右下にあたる部分にしっかりと置いたが、今はデジタル写真を自在に加工する時代なので、「どこでもいいから邪魔にならない場所」に置いたほうがあとあと使いやすい。しかし、研究会などでベテランの病理医が「好き勝手な場所にルーラーを置いた写真」を見ると、怒髪天を突く勢いでつっこんでくることがあるので、「どういう場所で出す写真なのか」をあらかじめ予測しておく。


5.依頼書に「がんですか?」と書かれていたら、病理診断報告書(レポート)には「がんです。」「がんではないです。」と答える。聞かれたことには答える。その上で、「がんだとは思いますが、○○の影響で難しいです」とか「がんですが特殊ながんです」などと味付けをしていく。中心質問に答えずに辺縁部からチマチマダラダラ説明をするのはよくない(これは好みの問題ではなくわりと普遍的に)。そういうのは読んでいて寝る。


6.ただし、どれだけ冗長で読みにくい病理レポートを書くとしても、その書き手(である病理医、つまりあなた)のキャラクターが仕事相手のドクター全般に愛されているのならば、かまわない。「あなたの顔が思い浮かぶ状態」の人に書くならどんな文章でもきちんと読んでくれる。


7.メールを早く返すことのほうが、過不足なく十分な情報を返すことよりも優先する。Preliminary report(暫定報告)をまず出す。こちらが迷っているならば、まず迷っているので待ってくれとひとこと言う。これができない病理医からは人が離れていく。


8.メールの返事に「とりいそぎ。」と書くのは実はあまり印象が良くない。関係性が構築されきった相手にしか「とりいそぎ。」のニュアンスはうまく伝わらない。邪険にされているように思う。忙しいのに何だこいつ、という雰囲気を帯びる。ただし相手と自分の関係が盤石な場合にはこの限りではない。


9.朝顕微鏡をみるのと、夕方顕微鏡をみるのとでは、細胞の色温度やシャープネスが違って見えることがある。自分の中での判定基準が十分に言語化されていないときは、同じ検体をみるならば同じ時間帯にみたほうが、バイアスのない記憶を蓄積しやすい。


10.技師さんにタメ口を利かない。研修医にタメ口を利かない。通りすがりの業者さんや掃除の人たちにタメ口を利かない。可能であればすべての人にタメ口を利かない。それは礼儀を尽くせという意味だけではなく、むしろ、タメ口をとることで育まれるいびつな関係を作らないためである。



以上、とりいそぎ。

2020年9月10日木曜日

ルフィもワタルも強かった

若さというのはヤジロベエの芯が太いこと、ヤジロベエの腕の先についたおもりがしっかりしていること。あるいはヤジロベエといってもまるで傘の骨組みのように、無数の腕が出ていてどこからどう揺らされても安定して元に戻れることをいう。


この表現は、かつて自著で「ホメオスタシス」の説明のために使ったことがあるかもしれない。


中年のど真ん中を暮らすぼくは今、ヤジロベエに例えると腕が2本になった状態だ。ここからがおそらく長いのだと思う。2本の腕でバランスを取っているから、左からコツンと押されてもまた真ん中に戻るし、右からガンと叩かれてもまた真ん中に戻る。しかし一度押されたらしばらくの間はゆらゆらと揺れてバランスをとっていなければいけない。


そして前から押されるとけっこう弱い。


四方を環境に取り囲まれてコツンコツンと何かにぶつかり続けながら生活をする。四六時中ふらふらと揺れていることで真ん中を保つ。そういう状態なのでときおりぐっと調子が悪くなる。それは猛烈な眠さとして表現されたり、朝方に腸がぐるぐると大騒ぎをすることで表現されたり、不意に関節が痛くなったり、全身の筋肉が笑い出したりといった、いわゆる「ばくぜんと調子がわるい」状態につながる。


これと折り合いをつけるために、脳をほっぽらかしにした体が何を考えるかというと、これはもうとにかくじっと真ん中に戻って休む、あるいは、振り子のリズムを思い出しながらゆらゆら、ゆらゆらと揺れて息を整える。


その一方で脳は、「もうちょっとクルンクルンしても大丈夫、戻れるよ」だとか、「今度右から何か来たら前に避けよう、まあ前に避けたら棒から落ちるけど、そこは落ちないギリギリのラインで」などと、けっこう無茶なことを言ってキヒキヒと笑っている。




みんな知っているか。


ヤジロベエは頭がでかいとおっこちやすい。でもヤジロベエに頭がないと、ぼくらはそれを見てもなんだか感情移入ができないのだ。

2020年9月9日水曜日

病理の話(452) めんってなんすか

手術で胃とか肝臓とか肺とか乳腺などの臓器を一部切り取ってきたあと。


その中に含まれている病気を、肉眼で、あるいは顕微鏡を用いて、見て見て見まくる。このときうっすらと湧き出てくるのはリサイクル精神みたいなものだ。「とにかくあるものは全部すみずみまで活用してやるぜ!」という気持ち。


あるいは、「どうせ体の中から採ってきたんだ、体の中にあるときにはたどり着けなかった本質までとことん迫ってやるぜ!」という強い意志。


手術をする前に、臓器を体から取り外す前に、医者たちはよくよく検査して、よく考えて、「おそらくこういう病気であろう」という推測を、9割9分くらいの精度でゴリゴリ進めていく。


「胃がんだろう、漿膜下組織まで達しているだろう、リンパ節には2個ほど転移しているだろう、がん細胞が作る形状は『低分化腺癌』と呼ばれるものだろう……」


これらは本当にズバズバあたる。今の医学はすごいのだ。




それでも、実際に採ってきた病気を顕微鏡で診ることで、上の推測が、わずかーに修正されることがある。



「胃がんだった、漿膜下組織まで達していた、リンパ節3個に転移していた、がん細胞が作る形状は『低分化腺癌が95%で、高分化型管状腺癌と中分化型管状腺癌が5%だった』」



ただこれだけの変更であっても、その後の治療方針にわずかーに影響する「かも」しれない。まあ実際にはこの程度だとあまり影響はないんだけど……。

でもそこを見極めるのは病理医のとても大事な仕事のひとつである。




微弱な修正をくり返す。ほんのちょっとのずれを直し続ける。調理実習でガミガミうるさい家庭科の先生の気分で。とめはねはらいだけで1点減点する国語の先生の気分で……。




この修正が20年くらい積み重なると、その病院、その専門領域、さらには医学の「底」が少しだけ上がる。少しだけ進歩する。少しだけ確度が高くなる。




サッカーグラウンドの芝をメンテナンスする気分で。


出版前の本の誤字を探し出す気分で。


動物の爪を切りそろえるで。




メンテナンスをする。人は一生、自分の体をメンテナンスしながら暮らしていくものだが、我々は医学の体をメンテナンスし続けていく。

2020年9月8日火曜日

コードの長さは2メートル

「 自分のすべて」を使わずに世界と向き合う。そういうことばかりである。


「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」の話題を検索するとき、ぼくは自分が札幌に生まれて育ったこととか、剣道をやっていたこととか、両親や祖母、弟とどのような時間を過ごしていたかとか、学校でどういう勉強が好きだったかとか、どういう女の子のことをかわいいと思っていたかとか、受験勉強でどれくらい問題集を解いたかとか、大学時代にどういうバイトをしたかとか、そのころはじめたホームページで何を書いていたかとか、どういう音楽を聴きどういう本を読んでいたかとか、大学院ではどういう研究をしたかとか、病理専門医の修行をどこでしたかとか、そういった情報をまず使わずに「ゼルダの世界」と向き合っている。


そういうことばかりである。


違う人、違うコンテンツに向き合おうとするとき、自分の中から出してくる「コンセントに挿すプラグ」みたいなものが毎回異なっている。ぼくの心にはさまざまなプラグがぶら下がっていて、何と向き合うときにどのプラグを選ぶかはほとんど反射的に決定されている。ためしに違うプラグを挿そうとしてもうまくいかない、とりあえず十分な電力は供給されてこない。


平野啓一郎氏のいう「分人」という考え方でもいいのだが、どうも自分の中に複数の人間がいるという考え方よりも、「常に自分の一部分でしか接していないこと」、「常に完璧な自分ではなく自分以下のパーツだけで接すること」という感覚のほうがぼくの中ではしっくりくる。ひとつひとつが「人」と呼べるほど完璧なパーツではない。常に「以下」であるということ、これは哲学によって教えられた、なるほどそうだなと腑に落ちている。


そのような「以下」の部分で外界と接続しては切断する。接続しては切断する。違うモノにプラグを挿そうと思えば、コードの長さには限界があるから、どこかは引っこ抜かなければいけない。どこかにつながろうと思えばどこかは切らなければいけない。


だからぼくはAntaaという集まりのインタビューでこのように問われた時に、このように答えたのだ。


「Q. あなたにとって、『つながり』とはなんですか?」


「A. ぼくにとってのつながりは、接続と切断をくり返すことです」




そしたら信用している編集者にツイッターで笑われた。「今度から私もそう答えよう」。


だろ、これはなんというか、「つながればいい」と思っている人を軽く殴る印象をもった言葉だけれど、その実、「それこそがつながることの本質だろう」と本気でぼくが思っている内容そのものでもある。

2020年9月7日月曜日

病理の話(451) 一緒に顕微鏡をみる

これまで多くの病理医と出会った。


学会で出会う病理医とは、学問の話をしたり趣味の話をしたりする。どういうことを考えるタイプなのか、どういう言葉使いをするタイプなのか、みたいなことは、会って話すことでそこそこわかる。……別に病理医に限った話ではないが。


ただ、「どういう病理診断をするタイプなのか」に関しては、会って話すだけではわからない。もっと専門的に見極める方法がある。



ある病理医がどういう診断をする人なのかを端的におしはかる方法として、「その人が書いた病理診断報告書(レポート)を読む」というのがあげられる。


自分が診て考えた細胞のすがたを、他人にわかりやすく伝えるために、どういう言葉使いをしており、どのように文章をレイアウトしており、どれくらいの写真を添付しているか。


レポートには、その病理医の人となりがにじみ出ている。


神経質そうか、おおざっぱか、みたいなこともだいたいわかる。「その人がどれだけ本気で患者のことを考えているか」みたいなものすら、伝わることがある。



けれどもたぶん、レポートだけでもまだ足りないのだ。本当に病理医としてのなにかを見ようと思ったら、「となりで一緒に顕微鏡を見る」以上の手段はないと思う。


といっても顕微鏡を二台並べて診断をするというわけではない。神社の境内で3DSを持ったふたりの子どもがそれぞれ違うゲームをやっているような姿を想像してはいけない。


そうではなくて、1台の顕微鏡を2人以上の病理医がみる手段があるのだ。


いや、別に、接眼レンズの前で顔をひっつけあって、「お前右目でみろよ、俺は左目でみるからな」と、付き合いたてのカップルがイヤホンを分け合うような姿を想像してはいけない。


便利な顕微鏡があるのだ。集合顕微鏡という。






中央の顕微鏡にプレパラートを乗せて、真ん中にいる人が「ドライブ」すると、鏡筒(きょうとう)のつながった先にある接眼レンズにも真ん中の顕微鏡と同じものが写る。正式には「ディスカッション顕微鏡」と呼ぶことが多いようだ。


なんのことはない、単純なメカニズムだが、この顕微鏡はけっこう高い。

写真のがいくらくらいしたか忘れてしまったけれど、似たモデルのをネットで探したら約300万円とあった。レボルバーもコンデンサーも手動モデルのくせに、ずいぶんと値段がする。まあそうか、光学機器は精度が命、レンズが多けりゃそれだけ高くもなるか。




で、このディスカッション顕微鏡で、他の病理医と一緒に顕微鏡を見ると、本当にいろいろなことがわかる。


拡大するタイミング。

細胞のどこに着目しているか。

高次構造の診断にどれくらい重きを置いているか。

主観的な判断を客観的に記載するためにしている工夫。

どの細胞所見をもとに診断をしようとしているか。

「落とし穴」を避けるためにどのような気配りをしているか。

「念のため」の動きをどれくらい入れているか……。



集合顕微鏡でいっしょに顕微鏡をみた病理医の数。ぼくの場合はこれまで……30~40人くらいだろうか? 大学で複数の病理医と一緒に働いていたことがあるほか、国立がん研究センター時代にも非常に多くの病理医に指導を受け、最近も難しい症例などでよく他施設の病理医に相談しにいく。けれどそれでも40人くらい。まあ、北海道に100人しかいない病理医に、そんなに頻繁に会えるものでもないのだけれど。


この40人がみごとに違う。おもしろいくらいに違う。


かつて同じ施設にいたことがある人たちの顕微鏡操作は似ている傾向がある。おもしろい。しかし、細かく見ていると、ひとりひとり少しずつ異なっている。


顕微鏡の動かし方が異なれば、必ず思考回路も異なっている。


違う動かし方、違う思考回路から、それでも同じ顕微鏡用語……組織所見用語が出てくるとき、ぼくは、「スッ」と感動する。


「ああ、違う道を通って同じ山に登っているんだなあ」





もっとも、流派が完全に違う病理医だと、かたほうがエベレストに、かたほうがK2に登っていたりすることもあるのだが……。

2020年9月4日金曜日

書き終わってから思い出したけどKOEIの本じゃないかな

10年弱を振り返るのは10年経ってからにしようかと思ったのだが、ある程度素材がそろったので、今の段階で書けることを書いておこう。


ぼくはどう考えてもTwitterをやったことで「書くこと」に対するなにかがかわった。もちろん「Twitterをやらなかった世界線のぼく」と「今のぼく」とを比べなければ真の意味でのTwitterの効能というのはわからないのだけれど、「Twitter以前」に書いていたもの、「Twitter 5年経過時」に書いていたもの、そして「今」書いているものを比べると、これはおそらくTwitterをやったことによる変化だろうな、というものがいくつか指摘できる。


その一番大きいものは、「まとまる前に書き始めて、書き終わることでまとまる」というタイプの書き方を修得したということだ。


Twitterやブログのおかげで、アウトプットに対するハードルが下がった。思考の原木みたいなものを、「手の向くまま」に言葉のカンナで削って削って、最終的に彫刻的な何かができればよし、そのまま送信。一方で、途中まで掘り進めていた仏像めいたものが途中でポッキリと折れてしまっても「筋が悪かったな、メンゴ」と、ぺこりと謝って送信して、それはそれとしてまた次の木へ移る、みたいなかんじ。



たった今思い出したのだけれど、ぼくはもともとこの、「書きながら考える」ことに、ほとんど病的といってもいいくらいにあこがれていた。大学くらいの時期にはあれこれと試行錯誤もした。そして、なかなかしっくりこないでいた。


でも今、Twitterを通り過ぎることで、「あのときなりたかった姿」に、少し近づきつつあるのかもしれないなと急に感じた。




あこがれのきっかけ。


高校生か大学生くらいの時期に読んだ漫画……詳しくは思い出せない、たぶんアンソロジー的な漫画だった、あるいはゲーム「信長の野望」の関連商品だったろうか? どうも違う気もするが、細部はまあいい。


その中に掲載されていた漫画のひとつに、ワンパクな青年・織田信長が出てくる。それを近くでずっと見てきた幼なじみの美女、そして、寄り添うじいや……だったか……忘れてしまった……がいた。もやとかすみの向こうにかろうじてある記憶。もどかしい。


じいや(仮)が、このようにしゃべるシーン。


「(織田信長という人は)考えてから行動するタイプではない。しかし、行動しながら深く素早く考えている……」


ほかのシーンは一切覚えていないのだがぼくはこのシーンになぜか心を掴まれた。ひどくあこがれたのだ。別に織田信長のことが好きだとか尊敬しているとか、歴史上の人物を気取りたいとか風雲児願望があるとか、そういったことはなかったのに、なぜかこのセリフにだけ猛烈に取り付かれた。


そしてぼくはそれからずっと、20年以上経過して元ネタの絵も本のタイトルも思い出せなくなってもなおセリフだけは覚えているほどに、「行動する前に考えず、しかし行動しながら考えて行動を微調整していくことで人になんらかのものを与える人」になりたがっていたのだ。




ふしぎな話だ。


Twitterやって10年か~この間ぼくは何かかわったのかな~、みたいなきっかけがなければ、エピソードも、自分がなりたいと思っていた概念も、すべて忘却の彼方にあった。かろうじて思い出したことで、20年以上の時を経て、昔のぼくと今のぼくがつながった。





ふと思う。高校・大学時代のぼくというのはもう9割方死去しているのかもしれない。昔のぼくは些細なきっかけで生き返る。しかし油断するとまた死んでいく。


……書いてみて、うん、この表現は微妙だな、でも人間は生きながらどんどん死んでいくということもあるかもしれないな、もう少しこの考え方はあたためておこう、という気になって、出来の悪さにメンゴとなりながら、それでも消さずに、投稿ボタンをクリックする。

2020年9月3日木曜日

病理の話(450) プロファイリングしまくりんぐ

 患者から採取してきた細胞を顕微鏡でみて「がん」だとわかったとする。


さてその「がん」をどうする?


手術でとる?


抗がん剤で叩く?


放射線をあてる?


こういった選択肢を考えるとき、「それががんである」という情報だけでは、足りない。




たとえばそのがんがどれくらいの大きさであるのか?


さらにはがんが臓器のどこまでしみ込んでいるのか?


これらをきちんと見極める。そのほうがより効果的な治療を選べる。


がんがどれくらい大きいかとか、どれくらい広がっているかといった話は、「がんの一部分をつまんでとってきただけの病理検体」ではわからない。CTやMRIのような「画像」を使って細かく検討することになる。




では、細胞をみてかんがえる病理診断は、「がんかどうか」しか判定していないのかというと……


実はそうでもない。というか、病理診断だからこそ調べられる、「治療に直結するようながんのより詳しい情報」がいくつかある。



有名なのは「がんの顔つき」。「がんがどれくらい悪いか」。


がんなんて全部悪人だろうというのは不正確である。小悪党から天下の大悪人まで、悪さにも段階があるのだ。細胞をみる場合には「異型度」や「分化度」とよばれる指標でこれをはかる。


「分化度がわるければがんの悪さが強い」。これはだいたいどこのがんでも通用する理屈である。ただ、それ以外にも、


「分化度がよいがんの場合が転移するときは肝臓に転移することが多く、分化度が悪いがんだと将来腹膜に転移しやすい」(※例:一部の胃癌の場合)


みたいに、将来の挙動に差が出てくる場合もある。ちなみにここからはかなりマニアックな話になってくる。


「深達度が粘膜下層までの大腸がんの場合、高分化型よりも低分化型のほうが将来リンパ節に転移するリスクはやや高い」


「深達度が漿膜下層におよぶ大腸がんの場合、高分化型だと肝臓へ、低分化型だとリンパ節へ転移する頻度が高くなる」


ほら、どんどん言葉が組み合わさっていく。テレビのクイズ番組のように、ひとつの質問にひとつの回答で答えるといったセットがうまくはまらなくなっていく。




時代が進む毎に、この、「がんを細かく分類する作業」はフクザツになっている。

もうほとんど悪ノリかというくらいに細かくわける。

今や、とってきた細胞の遺伝子を調べることも必要だ。

「EGFR, ROS-1のどちらかに変異があるか、もしくはALKのキメラ遺伝子が存在するかを調べる。BRAFもしらべておきたい。PD-L1の発現度合いはこれらとは別に調べておく必要がある」。

もはや何語でしゃべっているのか、というかんじだ。



なぜ「がんです。」で終わりではいけないのか?



それは、「がんです。」と一言でくくるには、がんが多様すぎるからである。付け加えると、「進行して再発したEGFR変異陽性の肺がんにのみ効果が期待できるお薬」みたいなものが開発されているのだ。


野球にたとえるなら、「内角高めにカーブが入ってきたときだけホームランを打てるバッター」みたいなものとでも言おうか?


ラグビーに例えるなら、「ポールの正面から40度ほど右に22メートル離れた位置から蹴ったときだけゴールを量産できるキッカー」とでも言えばいいか?


サッカーに例えるなら、「メッシがセンターフォワードにいるときだけ活躍する左サイドバックの選手」とでも言おうか?


とにかく、「そ、そ、そんな狭いシチュエーションでしか活躍できねぇのかよ!」という薬が、医療の世界には山ほどある。だからぼくらの仕事は時代を経るごとに増えていく。



最近ぼくは「事務員Y」を名乗ることがある。一日中、外注検査のための依頼用紙を書いたり印刷したりしているからだ。いいボールペンがほしい。

2020年9月2日水曜日

目に付くと耳に触るの差があるのかもなという話

8年くらい前から断続的に、「ツイキャス」というアプリを使って、いくつからんぼうな企画をやってきた。


NHKの「総合診療医ドクターG」を放送しているウラで勝手に副音声よろしく実況をつけてみたり、ハリソン内科学を音読して視聴者と盛り上がったり。


https://twitcasting.tv/dr_yandel/show/ (ツイキャス・血祭りスタジオ)


その後、ツイキャスを使う頻度はだんだん減ったが、かわりに、配信100回を越えたPodcast番組「いんよう!」や、YouTubeでの「SNS医療のカタチONLINE」につながっている。


https://inntoyoh.blogspot.com/ (Podcast・いんよう!)

https://www.youtube.com/channel/UCRiSbeoKbik6xtPC86YaqiA (SNS略)


なんだかんだで細々とやっている。



さて、最近ちょっと思うところがあり、ぼくの昔のツイキャスを聞き返してみた。


これがまた、思った以上に、配信のノイズや音量の調節の悪さが際立つ。対談企画だとツイキャスに加えてスカイプなどを利用するのだが、バックグラウンドに流れるシーシー雑音が邪魔だし、なんの遅延かわからないが双方の会話が少しずつずれていく。


当時から気づいてはいたが、今になって聞き直すとなおひどい。おそらく、「素人がやる放送なんてこんなもんだよ」って感じで、みなさんにはずいぶんとお目こぼしいただいていたのだろう。まったく申し訳なかった。よくこんな音質でみんな聞いてくれていたなあ。


もちろん、聞けなくはない。けれども、ノイズ混じりの音声や、ボリュームが微妙にマッチしていない放送というのは、思ったよりストレスフルである。




さて、あくまでぼくの場合。

古いビデオとか昔の写真といった、「映像・画質」が悪いからといって、実はそんなに気にならない。もっと見えればいいなとか、もっとはっきり見たいなと思うことこそあれ、「不快だ」とまでは感じない。


しかし音が悪いことは端的に言って「耳障り」だ。


映像の画質が悪いからと言って「目障り」とは(そこまで)思わないのに。


この差はなんだろう? と思った。




「目障り」ということばのイメージを掘っていく。目線にやたらと入り込んでくる大きな物体だとか、自分の目線を邪魔するような、ウゴメクデカブツといったものが思い浮かぶ。

対して「耳障り」のほうは? 暴走族のラウドな走行音? まあそういうのもあるけれど、逆に蚊の羽音だとか、誰かがびんぼうゆすりする音のように、小さいほうの音でも「カンに障る」ことはある。




今日は「病理の話」ではないのであまりガチガチの考察をするつもりはないのだけれど、あるいはこれらは動物の危機察知本能に基づくものかもしれないなと思う。


「視界不良の状況でわずかに見えるもの」と、「静謐な状況でわずかに聞こえてくる音」では、たぶん後者のほうがより危険が切迫しているのである。


野生動物を狩りにいくシーンを思い出して欲しい。なるべく身を隠して近づくだろう。でも、足下でカサリとでも音がしたらただちに獲物に逃げられてしまう。


たぶん動物は、「わずかに見える映像ノイズ」と、「わずかに聞こえる音声ノイズ」では、後者のほうが圧倒的にヤバい環境で生き延びてきたのではないか。だから、これだけ平和になった世の中で暮らしていても、YouTubeの音声がちょっと乱れただけで不快に感じてしまうのではないか。



あるいは……映像はきれいなのに、音声だけが乱れている状況というのが、ぼくらは一番苦手なのかも知れないな。


なんてことをふわふわと考えている。

2020年9月1日火曜日

病理の話(449) 顕微鏡内のモノサシ

 顕微鏡で細胞を見ているときに、レンズの向こうに見ているものの「サイズ感」を知りたくなることがある。


たとえば、がん細胞の「核」は、正常の細胞の核に比べると大きく膨らんでいることが多い。核の中には細胞をコントロールするプログラムが入っている。かの有名なDNAだ。


DNAのいれものである核が大きく膨れるというのはただ事では無く、したがって、「核がふくれる細胞」というのは基本的に異常だと考えて対処する。


ただ、ここで気になるのがサイズ感である。ふくれると言っても、どれくらいふくらんだら異常なのか? なんとなく、では診断にならない。だから基準が必要になる。


病理医が「サイズ」の基準として使うものは、基本的に、近隣に存在する「正常の細胞」だ。


たとえば大腸がんをみるならば、そのまわりにはがんになっていない「正常の粘膜」があるはずなので、そこにある細胞の核を見て、比べる。


正常の核に比べてサイズが2倍くらいになっている、というように、数字であらわすことができれば、世界のどこにいる人相手にも「その異常さ」が伝わるであろう。


病理診断をするときにはこのように、「ユニバーサルに誰にでも通じる基準」を持っていた方がいい。「ことばにできない」のがもてはやされるのは小田和正だけだ。





ただまあ基準が一つしか無いというのも心許ないので、たとえばぼくはいくつかの基準を持っている。


赤血球1個のサイズがだいたい6 μmくらいだ、というのはその一例である。(生体内の赤血球は7~8 μmと言われるが、ホルマリン固定後の顕微鏡プレパラートだと5~6 μmに見えることが多い)




そして、基準ではなくそのものずばり、サイズを測ってしまうこともできる。


「マイクロメーター」というのを使う。


右目の接眼レンズの中に……




内臓されている、モノサシ。上にちょっと見切れてる(スマホで写真撮ったのでボケててすみません)。



対物レンズ10倍×接眼レンズ10倍の100倍視野で、この小さな目盛りひとつが10 μm。



たとえば一部のがんの診断においては、がんがある領域からある領域に向けて「何百マイクロメートルほどしみ込んだか」によって、その後の治療方針に影響が出るほど細かい診断が行われる。


そういうとき、たとえばぼくが、「ざっくり1000マイクロメートルくらいじゃないッスかねー」と診断することはやはり許されないだろう。




……今の一文、ぼくにとっての「雑な人間」の基準が「ッス」であることがわかる。しょぼい基準である。