2020年9月25日金曜日

病理の話(457) 病理医以外にとっての病理学

「いい医者になるために学ぶべきコト論」みたいなものは定期的に話題になっている。


「何はなくても接遇! 人と触れあう仕事です! 接し方を学ぶことこそは授業でやるべき。」


「いやいや統計学だろう。エビデンスが構築されるときのイメージを持っていなければ西洋医学の徒としては働けない。」


「感染症じゃないか? あらゆる科に勤務するにあたって絶対に感染症の知識だけは使うのだから。」


「ケアの話が大事だ。キュアは誰もが国家試験で勉強する。病を視るのではなく人を看ろ。」


「経営についてのセンスが大事だ。商売で医療をやっていこうとするならね。」



お察しのとおり、これはもう、きりがない。義務教育で何を学ぶべきか論と似ている。あちらを学べばこちらに注ぎ込む時間がなくなる。優先順位を付けようにも、人の働き方は多様すぎて、大事なものリストは個々人ごとに異なってくるので難しい。


結局のところ、学ぶ方が、「自分はこれをやろう」とまっすぐ前を向いて、いいモチベーションをもって学ぶことのほうが大事である。教えるほうが一方的に「これを知っていないとだめだ」と語りかけることには、意味はあると思うのだが、なにせ力がない。


そういうことがわかっている教育者たちは、「使うか使わないかは君たちの自由だけど、いつでも学べるようにここに置いておくからね」と、情報をストックすることになる。





さて、医師、あるいは医療者のほとんどが「病理学」を学ぶべきかどうかというのは難しい問題だ。「病の理」という意味の広い病理学は必ず習っているのでそこはベースラインとしてここでは問わないこととする。もっとアドバンスの知識、「病理医が日常的に用いている応用病理学」を学ぶべきなのか? 医療者として人生の中で一度は「病理医のもとで」学んだ方が役に立つのだろうか?


人による、としか言えないのだが、いちおうぼくは「役に立つような学び方はある」とだけ書いておく。いつかこれを読んで、「なるほど自分のモチベーションと合いそうだな」と思う人のために。




まず、病理医がやるような「顕微鏡の勉強」というのはほとんどしなくてもいい。それはテレビを見るためにテレビ内部の構造を理解する、あるいはパソコンを使うためにCPUの理論を理解することに近い。ほとんど必要ないと思う。


では何をするか? 2つのシチュエーションに応じて2つの回答を置いておく。


【1.あなたが形態診断をする医者だったら】


「形態診断」というのは、CTやMRI、超音波、内視鏡などを使って、「病気のカタチ」をみることで診断をする仕事だ。放射線科医というのがその代表だが、たとえば外科医は手術の前に必ずこれらの画像をみて、体内で病気がどのように広がっているのかを確認するし、内視鏡医(消化器内科、呼吸器内科など)は、カメラで病気を目視して診療方針を考える。


こういう人たちにとって、病理診断という「もうひとつの形態診断」のエッセンスを学ぶことは、直接日常診療の役に立つ。自分が画像で/肉眼で見たモノは、病理で顕微鏡を使うとこうやって見えるのか、なるほど! と、「見えると見えるを照らし合わせる」。


これに必要な訓練期間はだいたい3か月である。自分が診療に使う臓器「だけ」、自分が興味をもっている病気「だけ」をじっくり照らし合わせて理解する作業の、レベル1とレベル2くらいの部分はだいたい3か月で修得できる。もちろんそれ以上の時間を投入してもいいのだが、レベル3以上を目指すには半年あっても1年あっても足りないことも多い。そもそも自分の本職で忙しいひとたちが、3か月以上もの長い期間を病理のために使うことは難しい。従って、「3か月で初歩を習い、かつ、3か月で病理医と仲良くなって、それ以降はいつでも相談できるような関係性を築く」ことができれば十分である。



【2.あなたが全身を診る内科タイプであったら】


病気というのはすべてがすべて「カタチ」をもち「カタマリ」を作るわけではない。というか、心不全にしても糖尿病にしても、肺炎にしてもSLEにしても、潰瘍性大腸炎にしても慢性肝炎にしても、IgA腎症にしても便秘にしても、これらはマクロ(肉眼)でどこかにカタマリができることが病態の本質なのではなく、血液をはじめとする液性の因子や、さらには体内がさまざまな物質を用いてクロストークし、歩調を合わせて体調を整えているはたらきそのものが乱れることによって起こる。


こういう病気を扱う人たちが、病理診断を「顕微鏡でカタチをみるもの」だと考えている場合、病理診断科に3か月いようが1年いようがほとんど何も学べない。「見えると見えるを照らし合わせる」にならないからだ。


すなわち、この場合、病理学のコアにある、「見えないものを見えるものと照らし合わせる」をやらないといけない。この訓練をするにはコツがいる。


具体的には何をすれば「肉眼ではよく見えない病気を、病理学で診る」ことが学べるのか? これにはひとつの模範的な回答がある。CPC(クリニコ・パソロジカル・カンファレンス)と呼ばれる、院内のでかいお祭りみたいなカンファにしっかり出るということだ。それも、「病理医側の人間として、カンファの準備をする」ことで。


CPCでは、解剖例をはじめとする「全身に異常がある状態」の患者を振り返り、主治医が患者とともに歩んだ顛末を確認し、すべての検査値を遡って、最終的には病理解剖を行った病理医がみたありとあらゆる「見えた変化」と照らし合わせる、ということをする。この中に入ってしっかり学ぶと、一人の死んでしまった患者から、ものすごい量の知識と経験をセットにして自分の中に吸収することができる。


ただし、現在、全国の病院ではこのCPCの数が激減している。なぜならば解剖の数が減っているからだ。解剖というのは患者や遺族、主治医にとって、疑問を解消するために行う側面が強いが、医学が進歩すると「現場での疑問」の多くは解剖などせずともほぼ解決してしまう。


ただ、疑問がないからといって解剖をやらないのは、「学び終わった医師」にとっては悪いことではないのだが、本当は「学び終わった医師」などというのはこの世にいない。全員が「学び中」なので、解剖をやると必ずあっと驚くような発見がある。それは、体の中にあるのが「カタマリを作る病気」であるかどうかとは関係がない。


ある一つの病気を軸に、全身でどのようなことが起こったのかを、病理医が必死で考える。臓器をみながら。


病理医がそこまでやってくれるということを知って、臨床医は、だったらできる振り返りを全部やってやろうじゃないかと、あらゆるデータを再確認していく。照らし合わせる。


これがめちゃくちゃに役に立つ。しかし、しっかりやらないと役に立たない。


今、感染症禍において、「感染防御のシステムを備えた解剖室」自体が少ないため、解剖の例数は激減している。さらに言えば、感染症禍の前から、解剖数自体は減少の一途を辿っている。くり返すが臨床医も患者も家族も、患者が亡くなっても「ほとんど」疑問はないので、解剖をやるモチベーションまで届かないのだ。しかし、一部の大学病院などでは、今でも数多くの解剖をやっており、CPCも多数行っている。


狙い目はそこだ。臨床医として病理学を学ぶことで自分の診療の役に立てようと思ったら、「CPCを無限にやっている病理」で学ぶのが一番強力だと思う。そしてこの場合、解剖の件数、CPC開催までの準備期間などを考えると、おそらく3か月では研修は足りない。半年以上はかかる。




……【1.】と【2.】で文章量が違う。手間もしんどさも違うのだ。だからぼくは基本的に、臨床医が「形態診断」をやりたい場合には積極的に病理診断科に短期留学することを勧めている。しかし、臨床医が「内科としての実力を伸ばしたい」という意図で病理研修を希望する場合、これらのことを話し合いながら、「それはほんとうに病理でやったほうがいいのか」「あなたは結局何が学びたいのか」「それは病理医と友達になるだけで解決する願いだったりはしないか」というのを綿密に相談するようにしている。