2020年9月18日金曜日

まとまったことを話さない

「あとで文字にする前提」でしゃべらなければいけないことがある。


たいていの場合、いらっとする。自分に。


仕事のとき、よくある。病理学的な解説をするとか。学生相手に講義をするとか。


最近、医学以外の局面でもそういうことをたまにやっている。対談をする内容が文字おこしされますよ、とか、あとでこの会話は記事になるのでよろしくお願いします、とか。


その場の瞬発力だけでやりとりをしようとすると、思ってもいなかった内容を振られたときにしどろもどろになる。だからある程度、「こう来たらこう返す」という想定問答集みたいなものを用意しておかないといけない。


いけないのだが、最後までやらない。やれない。


完全に文章化したものを事前に準備してそれを読むだけとなると、もう、その会話自体に興味をなくしてしまう。「だったら最初から対話形式にせず、原稿で世に出せばいいではないか」と思って飽きてしまうのだ。


結局、そういうつまらないこだわりのために、人前で、よく恥をかく。





自分がしゃべった内容をあとで聞き返し、文章化すると気付くことがある。


ぼくの会話はやけに遠回りが多かったり、省略が多かったり、繰り返しが多かったりする。


本質的な議論を少しそれた部分で細部に延々とこだわっていたりすることもある。


頭を抱えてしまう。




やはり、過不足なく理路整然と原稿を読むようなしゃべりをやるべきなのか?


たぶん、「やるべき」なのだ。それはわかっている。





そもそもぼくは自分の「即興」をあまり信用していない。


完全にスジナシで進行する演劇的なものを見ていると、「はいはい才能を見せたいんだね」と鼻白んでしまうというのもあるが、実際そのとおりで、ラップバトルにしても、大喜利にしても、あれらを自分の即興力だけでやれるとは全く思わない。才能も努力も届いていないのがわかる。


だから、完全にその場の勢いでなんとかなるなんて全く思っていない。


人前で話すときは、「事前に準備を十分にやっておきたい」し、「会話内容を深く考えた末にきちんと言葉を選びたい」のだが、それを事前に「文字のかたちで原稿にまでしてしまう」と、思考の言語化しきれなかった部分をおっことしてしまう気がしていやなのだ。


究極的な理想を言えば……


「言語の直前」まで考えて、あともうひと研磨すれば「文字になる」というところまで思考を準備してそこでやめたい。


「原稿」にする直前の、ぎりぎりの状態でしゃべりたいのだ。




……うまくいくわけがない。





きれいにまとまったことを話したくない。事前にまとめきりたくない。その場でまとめたい。このバランス感覚は単なる美意識のようなもので、根拠に理屈が通ってはいないのだ。でも、そうしたいから、そうしていくことになる。残念なことだ。それで人に迷惑をかける。かけ続けている。これからもかける。




このブログにしても、本当はあと「ひと練り」したほうが、通常の文章になるのかもしれないのだが、どうもぼくは研磨の余力を残した状態のものを置いておきたいのだと思う。