2020年9月4日金曜日

書き終わってから思い出したけどKOEIの本じゃないかな

10年弱を振り返るのは10年経ってからにしようかと思ったのだが、ある程度素材がそろったので、今の段階で書けることを書いておこう。


ぼくはどう考えてもTwitterをやったことで「書くこと」に対するなにかがかわった。もちろん「Twitterをやらなかった世界線のぼく」と「今のぼく」とを比べなければ真の意味でのTwitterの効能というのはわからないのだけれど、「Twitter以前」に書いていたもの、「Twitter 5年経過時」に書いていたもの、そして「今」書いているものを比べると、これはおそらくTwitterをやったことによる変化だろうな、というものがいくつか指摘できる。


その一番大きいものは、「まとまる前に書き始めて、書き終わることでまとまる」というタイプの書き方を修得したということだ。


Twitterやブログのおかげで、アウトプットに対するハードルが下がった。思考の原木みたいなものを、「手の向くまま」に言葉のカンナで削って削って、最終的に彫刻的な何かができればよし、そのまま送信。一方で、途中まで掘り進めていた仏像めいたものが途中でポッキリと折れてしまっても「筋が悪かったな、メンゴ」と、ぺこりと謝って送信して、それはそれとしてまた次の木へ移る、みたいなかんじ。



たった今思い出したのだけれど、ぼくはもともとこの、「書きながら考える」ことに、ほとんど病的といってもいいくらいにあこがれていた。大学くらいの時期にはあれこれと試行錯誤もした。そして、なかなかしっくりこないでいた。


でも今、Twitterを通り過ぎることで、「あのときなりたかった姿」に、少し近づきつつあるのかもしれないなと急に感じた。




あこがれのきっかけ。


高校生か大学生くらいの時期に読んだ漫画……詳しくは思い出せない、たぶんアンソロジー的な漫画だった、あるいはゲーム「信長の野望」の関連商品だったろうか? どうも違う気もするが、細部はまあいい。


その中に掲載されていた漫画のひとつに、ワンパクな青年・織田信長が出てくる。それを近くでずっと見てきた幼なじみの美女、そして、寄り添うじいや……だったか……忘れてしまった……がいた。もやとかすみの向こうにかろうじてある記憶。もどかしい。


じいや(仮)が、このようにしゃべるシーン。


「(織田信長という人は)考えてから行動するタイプではない。しかし、行動しながら深く素早く考えている……」


ほかのシーンは一切覚えていないのだがぼくはこのシーンになぜか心を掴まれた。ひどくあこがれたのだ。別に織田信長のことが好きだとか尊敬しているとか、歴史上の人物を気取りたいとか風雲児願望があるとか、そういったことはなかったのに、なぜかこのセリフにだけ猛烈に取り付かれた。


そしてぼくはそれからずっと、20年以上経過して元ネタの絵も本のタイトルも思い出せなくなってもなおセリフだけは覚えているほどに、「行動する前に考えず、しかし行動しながら考えて行動を微調整していくことで人になんらかのものを与える人」になりたがっていたのだ。




ふしぎな話だ。


Twitterやって10年か~この間ぼくは何かかわったのかな~、みたいなきっかけがなければ、エピソードも、自分がなりたいと思っていた概念も、すべて忘却の彼方にあった。かろうじて思い出したことで、20年以上の時を経て、昔のぼくと今のぼくがつながった。





ふと思う。高校・大学時代のぼくというのはもう9割方死去しているのかもしれない。昔のぼくは些細なきっかけで生き返る。しかし油断するとまた死んでいく。


……書いてみて、うん、この表現は微妙だな、でも人間は生きながらどんどん死んでいくということもあるかもしれないな、もう少しこの考え方はあたためておこう、という気になって、出来の悪さにメンゴとなりながら、それでも消さずに、投稿ボタンをクリックする。