2020年2月28日金曜日

法隆寺は建てられない

つぶされないためにどう立ち回るか、みたいな話があって、立ち回った人をつぶしてはだめだ、という倫理もある。

「出る釘は打たれる」という9文字の、リズムの、この独特の、あきらめを誘うような哀愁はいったいなんなのだ!

かつて、ある哲学者が、

「世に名を残す哲学者というのは結局、いかに短いフレーズで人を刺せるか、そういう能力がある。本質と多少ずれていても何度も何度も噛んで味わっているうちに本来の味がにじみ出てくるようなフレーズ。」

と言っていたのだけれど、ぼくはこの「出る釘」こそは、そういう「味のこもったフレーズ」だと思う。

ところで、この言い回しが生まれた時の釘というのは、今とは違ってもうすこし練度の低い鉄でできていたのではないかな、ということを考える。打たれて刺さったら頭の部分がぐしゃぐしゃになってしまう、そしてそのぐしゃぐしゃになった頭によって周りの木材にしっかりと噛んで固定されるタイプの釘だった、ということはないだろうか?

あるいはこんなことも考える。打たれた釘は歯止めとなり、痕跡となる。それが仕事なのだ。そういうことをふくめての「出る釘は打たれる」だったとしたらどうか? ぼくらは釘が打たれるというと釘の頭上にトゲトゲのフキダシみたいな衝撃マークが出るシーンばかりを思い浮かべるけれど、でも、釘の本質というのは、本来打たれることで何かを留めるところにある。打たれなければ意味がない。首までずっぽり木材の中に埋まって初めて釘は釘なのである。「出るネジが打たれ」たらかわいそうだ(ひねってあげないといけない)が、「出る釘」は打たれてなんぼではないか。




ぼくは出る釘よりも出るネジがいい。飛び出ていたらみんながねじくり回してくれるのだ。逆回転すればまた飛び出てくることができる。不可逆な釘よりも可逆なネジ。回転モーメントを進行方向に伝えるネジ。出るネジになる。打たれることがある。

そういうことをずっと考えている。




2020年2月27日木曜日

病理の話(418) リンパ節を見る

「リンパ節」という名称自体、なんというか、なじみがまったくないわけではないんだけれど、それってなんなの的な「衣」をまんべんなくまとっている正体のよくわからないナニモノカである。

リンパってのがよくわからない。

ダイエットの文脈でたまに聞くくらいだ。

老廃物がどうとかいうやつである。



で、ま、そういうなんとなく知っているものをきちんと解説すると、一部の人は驚喜して目を輝かせてくれるのだけれど、大多数の人は「はいはいサイエンスサイエンス」となってチャンネルをかえてしまう。さあどうするか! 

……どうしようもないのでそのまま進める。ここを「どうにかしよう」と思うジャンルのブログもある。しかしぼくのやってるこのブログに関していうとそういうところは基本的に容赦ないので、サイエンスコミュニケーションの新しいやり方として一石を投じたりはしない。あきらめてほしい。




で、リンパ節とは何かというとこれは全身にある「道ばたの交番」だと理解している。

体のなかには「道」がいっぱいあるが、中でも酸素や栄養の運搬に用いる動脈は基本的に高圧・高速で、心臓から体の隅々までわずか1秒程度でビュンビュン血液を送り込んでいるから、交番なんて置く必要はない(現実の高速道路にも交番はないだろう)。

行きはよいよい帰りは怖いの静脈は低速・低圧。ただし静脈に流れ込んでいる血液もまた、基本的にあまり不純物は多く入っておらず、原則的に交番による管理は必要としていない。輸送用道路でありイッパンジンが多く行き来する場所ではない、ということだ。

体のあちこちに生じた不純物、老廃物的なものは、静脈ではなくてリンパ管という別の道に流し込む。リンパ管は静脈の一種なのだが、脂っこい、不純物がまじったような物質を運ぶために特別に用意されている。このリンパ管の周りには定期的に交番が配置されていて、そこには警備員が大量に駐屯しているのである。まあほんとに人体というのはよく出来ている。

警備員、すなわち白血球は、マンガ・アニメ「はたらく細胞」でいちやく有名になった。これらはリンパ節という交番に大量に存在しており、さらに全身の血液に乗ってうろついてもいる。警察署・交番があり、巡回もしているということでまさに警備員とか警察という雰囲気なのだ。




やれやれようやく「リンパ節が交番である」という説明まで終わった。リンパ節は全身に何個くらいあるんだろう。数えたことがない。所轄の警察署みたいにでかいやつだけでも100個くらいあるのかな。公園横にある交番チックなものだとその何倍もある。

そして、体の中にばい菌とかウイルスが入って来て、治安が悪くなって警備員との戦闘がはじまると、しばしば、交番や警察署内の人員が増員される。人間社会の警察署は増員されたからといって建物自体が大きくなることはないが、人体にあるリンパ節は「サザエさんのエンディングに出てくる家」のようにぐにょんぐにょんなので、警備員が増員されると建物自体が大きくなる。つまり、「はれる」。

「かぜのときに首のリンパがこりこりはれる」のはこれだ。




で、通常、リンパ節というのは、炎症がおさまったら……つまり警備員の奮闘が終わったらまた元のサイズに戻るのだが、これが戻らないときにはなんらかの異常が起きている。

「腫れ続ける」のは不自然なのである。腫れたら戻って欲しい。

ずーっと炎症をくり返しているような病気を持っていればリンパ節が腫れっぱなしになることはあるが、警察官の中にワルモノが混じっている状態……すなわち悪性リンパ腫とよばれるがんがあると、リンパ節が腫れっぱなしになることはある。

だから医者は「何ヶ月もずっと腫れているリンパ節」という話を聞くと、考える。



「リンパ節が腫れ続ける病態っていくつかあったよなあ……炎症……IgG4関連疾患……木村病……サルコイドーシス……あと……悪性リンパ腫もか……」




そしてさまざまな検査をする。で、そのあと、リンパ節を体からほじりだして(麻酔をかけて、皮膚に小さな切れ込みをいれて1cmくらいのリンパ節をころっととってきたりする)、病理検査室にわたす。




ここでようやく病理が登場だ。リンパ節が腫れている原因をさぐる。顕微鏡を用いて、そこにいる警備員たちの点呼を取る。配置を確認する。顔色をうかがう。

部署にわかれてきちんと整列していれば、がんではないだろうなと考える。

本来あるべき部署がいっさい見えなくなっていて、リンパ節の中に、顔つきの悪い細胞がみっしりつまって、一様になってしまっていたら、これは悪性リンパ腫かもしれない。

で、この、「悪性リンパ腫かもしれない」となってからが、かなりマニアックでコアな知能の使い方をする。




悪性リンパ腫というのはほかの臓器のがんに比べて、「どの遺伝子に異常があるからがんになったか」というのが見えやすい。いわゆる責任遺伝子とよばれる、「お前がくるったからがんになっちまった、戦犯的なDNA」というのがけっこうはっきりビシッとわかるケースが多い。逆にいうと、胃がんとか乳がんとか肺がんなどではそういう「悪の元締め」まではわからないことのほうが多いのだ。たいていのがんは育つまでに複数の異常が積み重なっているので、原因をこれとひとつに絞ることは難しい。しかしリンパ腫は違う。「原因が見えやすい」。

原因が見えると何がうれしいかというと、どのDNAの異常(たいていは染色体異常)があるかによって、治療が細かく変わるのだ。だから病理医は、リンパ節にあるのが「がん」だとわかった時点で検索を終えるのではなく、必ず、遺伝子レベルでプロファイリングをすすめる。

2時間ものの刑事ドラマ・探偵ドラマで、主人公がコートを翻しながら崖の上で容疑者から動機を聞くシーンがあるだろう? あれぼくあんまり好きじゃない。そういうのは警察官の仕事じゃないだろうと思う。法廷でやれ、と思う。

それといっしょで、普段の病理医は、がんを見つけても「原因」というか「がん細胞にとっての動機」までは探らない。そもそも探れない。たいていのがんは動機がひとつじゃないから。

でもリンパ腫は「動機」が1個あって、そこをねちねち付くことで、がんをぶっ倒せる確率が高くなるのだ。だから病理医の仕事もほかの病気に比べて多少ねちっこくなる。




はいはいサイエンスサイエンス。ていうかサスペンス?

2020年2月26日水曜日

トビウオ

自分と同じような信念をもってやっている他人がいる。

彼らはがんばって、いろいろやりくりしている。乗り切ろうとしている。

ぼくは微力ながら手伝おうと思った。自分の職能を考えて、いくつか事務的な部分を補助することができそうだ。

とりあえずもうすこし人手がいる。

だから、外部の人に協力を求めるメールを送った。




そしたら、こんな返事がかえってきた。

「このイベントに対する、あなた自身の思いはどうなんですか?」

うーん。

ぼくは考え込んでしまった。




いや、別に、ぼく自身の思いが「疑われた」から考えこんだわけではない。

そうではなく、一発のメールで思いが「伝わりきらなかった」ことに脳がおどろいた。

加えて、心が納得をしていた。




確かにどこか他人事だったのだ。

熱意を語ることはできる。理論的に何をやっていったら場が熱くなるだろうかということもよくわかる。必要なもの、用意すべき金。きちんと一個ずつ、楽しそうに乗り切っていくだけの覚悟もあった。

けれどもそれらを冷めた目で見ている自分もいた。

冷徹な感触が、メールの一部にわずかににじんでいたのかもしれない。

見抜かれた。





その目でメールを読み返してみると、確かに、

「彼らは全力です。ぼくもそれを応援したいのです。」

たとえばこの一行。

人を見るに長けた人からはどうみえたろうか。

思わず「あ」と声を出してしまう。

これは観客席からの目線ではないか。





誰かのため、という言葉のばくぜんとした最大公約数感。

何かのため、という意義のピントの合わなさ。

そういったものをどうナレーションするかということを、これまで、ずっと考えてきたつもりではあったのだが、やはりどこか中央の芯みたいなものが抜けていたのかもしれない。





ぼくは年々、人と話をし「続け」ることが苦痛になっている。なっている? 

かつて、今以上に、人と話をし続けるのが苦痛だったあのころの正直な気持ち、「そんなことを考えてはいけないよ」と抑圧され続けてきた本心、おじさんとして平和に暮らしていくために身につけた外套の部分。

いろいろなきっかけで、少しずつはがれて、ぼくは正直になりつつある。

苦痛になっている、のではなくて、苦痛を否定しないことにした。

近頃は人と深く話をするのにうんざりしている自分をそのまま許してしまっている。

「そういうの」は、文字でやればいいと思っている。

けれど……。

ぼくの文字はそこまできちんと伝えられていないのだ。冒頭のやりとりであれっと感じた。

伝える必要のないところまで伝わってしまっているとも言える。伝えたいことと伝わってしまうことの両方が制御できていない。





まるで萎縮を伴う進化のようだ。虫垂が一部の機能を除いてほとんど萎縮してしまったように、ぼくは、会話についても、文字を書くことについても、小さく削いでアッペンデックス的にしてしまおうと思っている。SNSが一番いい。SNSは自分のごく一部だけを使ってやりとりができる。それ以上のコミュニケーションが必要なのはもっぱら、公衆の衛生的で、公共の福祉的で、学問の啓蒙的な部分ばかりだ。

意識の海面をトビウオのように跳ねるようなタイプのコミュニケーションが一番居心地がいい。





その上で、ぼくは残念ながら、「何かがかきまぜられた風景をみることに刹那的な享楽を感じるタイプ」のようだ。トビウオのままでいればいいのに時折少しだけ深海に目が向いてしまう事がある。

飛ばないトビウオはただのウオである。味が悪い分、始末も悪い。

2020年2月25日火曜日

病理の話(417) 肝生検を見る

大腸ポリープ、乳腺針生検、肺生検と、病理で実際にどういうことを見ているのかみたいなシリーズをとうとつに始めている。なんか最初は適当だったのだけれど、これ、このままシリーズ化したらどこまで行けるのかな、とおもしろいので、これからもしばらく続けることにする。



で、肝臓だ。肝臓にも針を刺して、細胞をとってくる場合がある。それを病理医がみる。となったらもちろん読者のみなさんは、「今度は肝臓のがんの話をするのだな」と思うのではなかろうか。

でも違うのだ。肝臓のがんは滅多に針で刺さない。

肝臓にできたカタマリを、がんかがんでないかと判断するのは、近年ではたいていの場合、というかほとんどの場合、CTとMRIと超音波でやってしまう。病理で細胞をみるところまではやらない。これにはさまざまな理由があるのだけれど、一番ざっくりと説明するならば、「CTとMRIと超音波を駆使することで、十分に精度高くがんかどうかを判断できる」からである。結局ぼくらが診断という行為でやっていることは未来予測なので、未来が十分に読めて、その後の行動方針が決まるのであれば、必ずしも病理診断に「絶対」を求めなくてもいいのである。

では、病理医は肝臓の「針生検」で、何をみるのか?

答えは、「肝炎」である。(肝炎しか見ないわけじゃないけど今回のテーマは肝炎にする)




肝臓は沈黙の臓器などと呼ばれているがそもそもあらゆる臓器は基本的に沈黙している。うるさい臓器なんてものは声帯くらいのものだろう。冗談はさておき、肝臓は人体の中で最大の臓器であり(脳もだけど)、非常に多くの役割を果たしていて、栄養の貯蔵、毒素の分解、さまざまなタンパク質の合成など、例えるならば工場と市場とゴミ処理場が一緒になったみたいな、フリクリで町の外れに経っていた謎の工場みたいな(この例えはわかる人だけでいいです)、かなり無敵感の強い最強臓器である。

で、この肝臓は、ほかの臓器とはいろいろな意味で異なっているというか高機能なのだけれど、特に、「再生能力」を持っているというのがすごい、普通の臓器は一度壊れたら壊れっぱなし、あるいは再生するにしてもそのスピードは相当遅くてなかなか元通りには戻らない。しかし肝臓は再生スピードがかなり速いので多少欠損してもある程度復活できてしまう。それくらいすさまじい、強キャラ臓器なのである。

しかし、それでも、肝臓はある種の刺激によって継続的にダメージを受けることがある。これだけ強い肝臓にダメージを与える下手人って誰なんだよ、とたずねると、納得の答えが返ってくる。

1.一部のウイルス

2.アルコール

3.脂肪

4.体内の免疫システム

5.クスリとかハーブとか漢方とかそういうやつ

なんだよバラバラじゃん、と思われるかもしれないが共通点がある。それは、「肝臓を一瞬攻撃して終わる物じゃない」ということだ。たとえば肝炎ウイルスと呼ばれるウイルスは、肝臓を一瞬攻撃してそれでおしまい、という急性肝炎パターンをとることもあるが、その何割かが「慢性感染」に移行する。持続的に肝臓にとりついて、長年にわたって肝臓を攻撃し続ける。再生能力の強い肝臓も、毎日のようにいじめられ続けているとたまったものではなく、次第にその機能が低下していく。

アルコールもそうだ。毎日飲むから毎日解毒。アルコールを分解した産物もまた解毒。これを毎日毎日やっているとやはり肝臓はへばってしまう。

肝臓は工場の役割をすると言ったけれど、脂肪が不良在庫のように肝臓の中に溜まり続けると、これがまた謎の低酸素ストレスみたいなものを肝臓にちくちくと与え続けることがある。あくまでも「ことがある」だけれど。

さらには免疫……アトピーとかぜんそくとか、リウマチとか、さまざまな「自己免疫疾患」があるけれど、肝臓にも自己免疫性肝炎という特殊な病気があり、ほんらいであれば体を守ってくれるはずの自分の免疫システムがなぜか肝臓という大事な臓器を攻撃し続けることがある。

そして薬剤。これすごくだいじ。なんでも飲みすぎはよくない。また相性みたいなものもある。そして勘所があって、西洋医学のお薬だけが肝臓にダメージを与えるわけではないのだな。生薬とかハーブとか香草みたいなものを「継続的に」飲み続けると結果的にそれが「継続的に」肝臓にパンチを食らわせ続けているということもある。




で、肝炎。これがまた多彩な症状を引き起こすのだけれど、その原因が上に書いたように多彩で……あ、ピンと来た読者もいるかな……つまりは原因に応じて治療を変えないといけないのだ。

臨床医は血液検査を注意深くみて、ウイルスの感染とか患者の日常生活などを丹念に聞き取りながら、肝臓に炎症が起こっている原因をさぐり、文字通り「さじ加減」を尽くして肝臓の治療をする。

最近の肝臓内科医はみんな優秀だ。たいていの場合、原因はそこそこはっきりするし、治療も方向性が定まる。

しかし、肝臓という最大の臓器に、長年にわたってダメージを与え続けた敵の正体はなかなかにして悪辣なことも多く、たとえば、脂肪肝から続発する肝炎だと思っていたけれどどうも自己免疫性肝炎もオーバーラップしているのではないか、みたいに、臨床医が、「難しさにピンとくる」ケースがそこそこある。




そういうときに病理医がぬっと登場する。

臨床医は肝臓を針で刺す。一説によると、針で刺して得られる肝臓の細胞は、肝臓全体の60000分の1くらいしかないという。味噌汁の味見をするにしてももうすこし量をなめるだろう。しかしこれだけあると、肝臓の細胞に、

・どのようなダメージが起こっており

・どのように肝臓が荒廃し

・どのような原因が顔を出しているか

を見ることができる。



これはえらく難しい病理診断で、世には達人と呼ばれる人がいるのだがその達人たちの診断手法、さらには昔の人たちが必死で集めた知見を集積した教科書などを駆使して、なんとかかんとか診断をしていくのだけれど、その際に、細胞だけではなく、臨床医がこれまでに集めてきたあらゆる「臨床医からみた情報」も使いこなさないと到底診断にはたどり着かない。

その診断も、「肝炎です。マル。」みたいな診断名だけ付けて終わりというものではない。

「自己免疫性肝炎の性質が垣間見えるから、ステロイドを用いた治療をもうすこし本腰いれてやったら今以上に効果が出るんじゃないか」

みたいな、「さじ加減に口を出す」みたいなことをする。




肝生検や腎生検、筋肉の生検、皮膚生検などは、しばしばこういう、「臨床医のさじ加減」に影響するタイプの病理診断が求められる。けっこうコミュニケーションしないといけない。患者とコミュニケーションするのとは全く違うスキルである。コミュニケーションというか、「使えるものは臨床医でも使う精神」というか……。

2020年2月21日金曜日

シャンドラの灯をともせ

今年の冬は雪の降り方がふしぎである。まあ気象というのは必ずふしぎで、理不尽で、無意味で、不合理なものなのだが、それにしてもだ。

ずーっと雪が少なかった。年を越してもほとんど雪かきをしなくて済んだ。

ところが2月の頭に、(札幌としては)信じられない量の雪がどかっと降って、2車線だった道路がすべて1車線になってしまった。道路の雪を脇に避けると、道の左右に雪山ができて、どうしても道幅が狭くなってしまうのである。渋滞がひどいことになる。視界も悪くていろいろあぶない。札幌の交通はたった一日でパニックになってしまった。

そしてぼくもまたちょっと違う意味でパニックとなった。豪雪が降った日、ぼくの車のワイパーが壊れてしまったのだ。

フロントガラスに一晩で大量の雪が乗っかり、ワイパーの収納スペースに圧がかかり、かつそこが一度車内の気温によって溶けてまた固まったのだろう、大量の雪をひっしで落としてからエンジンをかけたはずが、ワイパーの根元が十分に解氷されておらず、エンジン始動時にオンのままになっていたワイパーがぐっと動こうとして変な音を立てた。

ふつうワイパーというのは、左右がきちんと同期して動く。IKKOさんのどんだけーの動きを左右同期してやるイメージである(知らない人はいないだろうが)。

しかし右のワイパーが30度しか動かなくなったのだ。すると、左のワイパーが右のワイパーを無理矢理追い越してしまう。追い越す瞬間に乗り上げるのでバキバキうるさい。追い越した後は「X JAPAN」的な配置になる。つまりはワイパーがクロスするのである。モンスターワイパーXだ。ぼくは運転しながら笑ってしまった。しかし笑い事ではない。雨ならばまだしも、まだ降り続いている雪がフロントガラスを覆うとき、ワイパーがXで留まってしまうと、いちばん大切な運転席前方の視界の、特に右上付近がまったく除雪されない。降り積もった雪は重力に従ってズズッと下に降りていく。そこに無情のXジャンプである。バキバキXだ。これでは運転ができないのだ。

少し走るたびに、コンビニの駐車場などに避難して、かなしくフロントガラスの雪をおとす(それ用の道具がある)。


スノーブラシの画像なんて初めて貼った。まあこういうアイテムがある。このブラシの部分を使ってモンワイXの上に積もった雪をかき落とす。もちろんこの間も自分の頭や肩には無慈悲な雪が降り積もる。あせって落とした雪はすべて自分の太ももや足に積もる。まあ寒いので溶けないから払い落とせばいいのだけれども。びしょびしょにはならないけれども。頭だけはびしょびしょになる。なぜなら冷酷動物であるぼくにもかろうじて10度くらいの体温はあるからだ。

腹が立ってワイパーをひっぱったらベキと音がして、右のワイパーは今度は90度立った場所で停止してしまった。しかしこれで左のワイパーは快適に動くだろう。そう信じて車の中に戻る。しばらく左のワイパーだけがシャコーシャコーと動いている。するとなんとしばらく経つにつれて右のワイパーがうずうずし始めるのである!

「お……おれだって……おれだってワイパーなんだ」

知ったことか黙ってろ

しかし右のワイパーはまた同期しようとして小刻みに震え、ついには滝沢、じゃなかったバキンと音を立ててまた元の水平位置についてヨーイドン、そしたら今度こそちゃんと動くのかな、と期待するではないか。しかしたった2回動いただけであとはまた30度までで動きをやめてしまうのである。引退して口を出さないと決めたのに3回目の会合でつい口を出してしまい結果的に会をぐちゃぐちゃにする町内会の老害みたいなことをする(特定の個人を思い浮かべて書いているわけではありません)。

結局数日後にディーラーに持っていったらワイパー自体はすぐに直った。なんかちょっと歯車からずれただけだったらしい。しかし一度ずれた歯車は直してもまた外れやすいのだという。そのあたりもなんだかちょっと擬人化しやすいなーと思ったし、そういえば今日のブログでは天気の話をしようと思っていたのにずっとワイパーの話ばかりしてしまった。一度歯車が外れると人間様であってもこの程度なのである。

2020年2月20日木曜日

病理の話(416) 肺生検を見る

今から書くことは肺に限った話ではないが、病気というのは、「びまん性」に臓器全体に広がるものと、「限局性」に臓器の一部にカタマリを作るものがある。

「びまん性」などと言う言葉は日常生活ではまず使わないのだが……。

イメージとしては、町の片隅にある小高い丘に登ってもらって、町の方を見下ろして、夕暮れを待つ。

夕焼けが差し込むと、町全体がぱあっと、オレンジ色と銀色のまざったような輝きに包まれる。視界ぜんぶの色彩がいっせいにかわるだろう。

あれを「びまん性に色がかわる」と表現する……ことができるが……まあ誰もそういう言い方はしないのだけれど……びまん性とはつまりそういうイメージだ。全体的に、広範に、全般に、ざっと病気として変化すること。



たとえば肺という臓器を考えた時に、右と左にある肺の、たとえば片方、あるいは両方が、「びまん性」にやられると、それはもう苦しくってしょうがない。

肺全体にびまん性の炎症とか浮腫が起これば、ざあっと全体の機能が落ちてしまうので、呼吸が困難になる。そういうときは胸部レントゲンやCTでだいたいの雰囲気をつかみつつ、ただちに治療に移って「びまん性」の変化をなんとかしないといけない。

一方で、病気が「びまん性」ではなく「限局性」だった場合は……?

一部分に限局して病気が存在する、すなわちカタマリを作っている場合。このときは肺全体の機能はさほど落ちない。仮にカタマリが1cmであっても、3cmであっても、なんなら5cmであってもそうそう症状は出ない。

「びまん性」と「限局性」とはこうも違う、ということである。





ただ、この「限局したカタマリ」ががんだと、後々命に関わる「ことが多い」。

だからカタマリができると、「びまん性の病変」の時とは違って、そのカタマリを作っている細胞がなんなのかを、実際に細胞を採って調べる作業が必要になる。治療もしたいのだが、その治療方法(標準治療)は、カタマリの原因によって大きく変わってくる。




ここからは乳腺針生検のときの話(病理の話(415))ともリンクする。




肺にカタマリを作る病気というとまずは「がん」が思い浮かぶ。肺がんはタバコとの関連が有名だが、タバコに関係するがんとしないがんがあるので、「喫煙していないから肺のカタマリはがんではない」みたいなことは全く言えない。

次にカタマリを作る病気というと「結核」とか、「カビ(真菌症)」も考える。これらはがんではないけれど、ときおり命に関わるので、血液検査やCT検査などを駆使してなんとか正体を暴いておかなければいけない。

あとは「昔の肺炎のあとが引きつれているだけ」というのもある。火事になったあとの空き地みたいなかんじ。これもカタマリっぽく見えることがある(小さめ)。

乳房(おっぱい)に比べると、肺の結節が「がん」である確率はそこそこ高いように思う。乳房は女性ホルモンの影響を受けるので、人生の中で大きくなったり小さくなったりと「動く」臓器だから、その分、がんではないカタマリもできやすいイメージがある。でも肺は基本的にガス交換(酸素を吸って二酸化炭素を吐く)のための臓器だから、そもそも、カタマリができる意味がわからない。

ということで肺のカタマリを、気管支内視鏡を使って、気道を経由してつまんでとったり、胸の外側から針で狙ったりして、細胞採取する。

そこにがん細胞がいるかいないか。

病理医はまずそこを気にする。そしてがん細胞がいるとわかったら、そこから、「標準治療」のために、多数の遺伝子検査を行う。

現代の肺がん治療は本当に多彩だ。カタマリを作っているものが「がん」だとわかったからといって、それでみんなに同じ治療をするわけではない。そのがんがどれくらい広がっているか(病期)に加えて、細胞がどういう性質を持っているか、細胞のもつプログラム(DNA)のエラーの種類までも調べ尽くす。

EGFRという遺伝子に異常があれば、その異常に対応したクスリを。

ALKという遺伝子に異常があれば、EGFRのときとは違うクスリを。

ROS-1という遺伝子。

BRAFという遺伝子。

これらひとつひとつに対応するクスリが次々と開発されているのである。患者が苦しい思いをして、気管支鏡を飲んで、肺から爪の垢程度のサイズの細胞をとってきたら、その細胞をとことん利用し尽くすのが病理検査室の役目だ。

「遺伝子変異と治療とがリンクしている臓器」では、病理検査室の仕事が多い。

肺がん、乳がん、大腸がん。あとは一部の胃がん。血液のがん。軟部腫瘍……。

たいていのがんは、今や、「がんです」だけでは標準治療が決まらない時代である。




こういう話にめっぽう強いのは腫瘍内科医だ。

最近ドラマに出てくるから知名度が少し上がってきただろう。

彼らはめちゃくちゃ頭がいい。抗がん剤の濃度を常に計算するために電卓を持ち歩いているイメージがある(偏見)。

あと、病理医のことを、究極的にはあまり信頼していない。「病理あってこその臨床ですから」と口では言うんだけれど、実際には、「もっと俺らのことを勉強してしっかり遺伝子検査をアップデートしとけよボケ」みたいなプレッシャーを感じることがある。

けれど彼らはそれを言うに足るだけの頭脳を持ち、毎日さまざまなストレスに晒されて、多くの患者と寄り添いながら医学の最先端の情報を常に集めている。




がんの病理診断は大変だ。腫瘍内科医に見捨てられるような病理診断をしていると、いつか本当に、お役御免になってしまう。「そろそろ人じゃなくていいな、AIでいいだろう」と、病理医を真っ先に見限るのはたぶん腫瘍内科医だと思う。それくらい彼らの仕事はすごい。崇高である。

で、まあ、こっちとしても、必死で彼らの知識に付いていこうと勉強し続ける。特に、肺がんの病理診断においてはとにかく「どれだけ勉強しているか」が切れ味を左右する。そういう個人的な印象を持っている。

2020年2月19日水曜日

いきる担当ではなく

『「いき」の構造』は九鬼周造だが、「飽き」についての本もないかな、といろいろ検索してみた。

あまり検索では出てこない。

むかし、エリック・カンデルの本の中に「飽きの効用」みたいなものが出てきたかもしれないが、よく覚えていない。カンデルじゃなくてラマチャンドランかもしれないし、D.J.リンデンかもしれない。

言い古されていることではある(と思う)けれど、今のぼくら人類が持っている、一見不合理で、損をするタイプの行動……中でも、

・飽きる

・集中できない

・気が散る

といった、いずれも思考がひとつのところに落ち着いていないタイプの性格というか気質は、単に役立たずな特性というわけでもなく、人類が現代に生き残ってきた上で必要な「ぶれ」だったのだ、という考え方がある(たしか)。

誰かが飽きて違う事をやりはじめるからこそ、多様性が生まれる……みたいな。

つまんねぇ仮説だけど、言いたいことはすごく腑に落ちる。




以上のことは、たぶんどこかに書かれているのだけれど、ぼくがここで文献を引きながらひとつひとつ解説する気はおこらない。そういうのはまじめな医者にまかせる。

ぼくはふまじめで飽きっぽいタイプの科学者なので、うん、もう病理医のことは科学者と呼んでも差し支えなかろう、でもよく考えると世の中の大半の病理医はぼくよりもっとまじめに科学をやっているから、ぼくはやっぱりどちらかというと臨床家なのだろうな、話がそれたね、ぼくはふまじめで飽きっぽいタイプの臨床家なので、いちいち文献を引かないと厳密な話ができないタイプの学術だけやっていると疲れてしまう。

疲れてもやれよ、という人もいる。まあそういう人はがんばってほしい。ぼくも疲れるのは嫌いじゃない。そういうのは気が向いたときに気が向いた内容でやる。

たまには文献なんてうっちゃらかして、仮説に仮説を重ねるタイプの雑な文章を書きたい。こういう話は、だんだん、コンプライアンス的に厳しくなっていく……。





ぼくはあらゆることに飽きる世界で「飽きる担当」を引き受けながら、アクセス数の伸びないブログに好き勝手なことを書き続けているわけだが、最近、そういうのはみんなが見る可能性があるインターネットではなく同人誌でやればいいじゃないかと言われたことがある。インターネットが億兆の民衆にとって等しくつながるネットワークだと勘違いしがちな人が言いそうなことだ。ブロッコリーの8時方向にあるフサフサと11時方向にあるフサフサは決して交わることがない。ネットワークとは断絶と断絶を見かけ上つないだだけのなんちゃって曼荼羅だがそれは曼荼羅の本質でもある。曼荼羅はフクザツになればなるほど個人の知性で全貌を見渡すことが不可能になる。本来、インターネットこそは「同人誌即売スペース」なのだ。それを今さら、何を言っているんだこいつは、と思った。しかし、同時に、自分のそういう強めの主張にも飽きてしまって、そうだな、同人誌でも出すか、ネットワーク上には自分のパーソナリティの1/3くらい、表層の上澄みもしくは深部の不純物だけを置いておけばいい、という気分になった。

そうすれば飽きずにやっていける。

そうすれば飽きてもやっていける。

ぼくは同人誌を作ろうと思う。やるなら随筆しかない。随意に書いたものを置いておけない時代なのだ。いや、それは時代じゃなく、本質なのだが。

2020年2月18日火曜日

病理の話(415) 乳腺針生検を見る

乳房(おっぱい)にできる「しこり」、あるいはちょっとした違和感みたいなもの、誰もが心配することだろう。非常に有名な病気があるからだ。それは「乳がん」である。

しかし、乳房にはほかにもさまざまなカタマリ(部分的・局所的な変化)が出うる。

何かしこりが触れたと思ったら必ず乳がんかというと、実はそうでもない。というか、けっこうな確率で、乳がん以外のナニモノカであることがある。

もし乳がんであれば、手術で取り除くとか、ホルモン治療を行うとか、あるいはそれらを組み合わせるとか、ときには抗がん剤を用いるなど、乳がんのタイプや広がりの程度によって、細かく「標準治療」を行う。

標準治療を拒否することもできる。けれどもそれはたいていの場合、患者にとっていい結果をもたらさない。




……ここまで、「けっこうな確率で」とか、「たいていの場合」とか、いかにも患者をルーレットの数字になぞらえて、統計で語るような言い草をしてしまったが……。

患者ひとりひとりにsolitudeな人生があり、患者は常にひとつの「絶対」なのであって、パーセントで語られても困る、というのが、多くの人間の共通した認識だろう。




誰もが「絶対」が欲しいのである。そんなものは哲学の世界にすら存在しないのだけれど。




だから患者も医者も、信頼できるひとつの指標に従うことを望む。それが病理診断である。






乳房にできたしこりに針を刺す。人間、誰しも、ピアス以外の穴など開けたことがないのがふつうだ(あとはせいぜい虫歯の治療くらいか)。だから針を刺すというとかなり驚かれる。申し訳ない。

しかし針を刺すことで、乳房のカタマリを構成している細胞をとってくることができる。

細胞ひとつひとつをバラにしてとってくるのではなく、できれば、細胞同士の配列がわかるように、ある程度つながった断片をとってくることが望ましい。

そこにある細胞の「ふるまいかた」によって、このしこりが、がんなのか、がんではないのかがわかるからだ。





細胞には核がある。この核にはDNAが詰めこまれている。がんは「異常に増殖する」し、「異常なはたらきをする」ので、プログラムエラーを多くもつ。プログラム、すなわち、DNAのエラーは、DNAの入れ物である核のカタチの異常として反映されることが多い。

だから、顕微鏡で細胞の核をみることで、そいつがチンピラとして道を踏み外してしまっているかどうか(がん化しているかどうか)が予測できる。

さらに、細胞の核だけではなく、細胞自体がどのように繋がり合っているか。

周りの組織に対して、おとなしく寄り添うように配列しているか、あるいは周りを破壊してしみ込んでいこうと(浸潤)しているかをていねいに見る。

このとき、HE染色というひとつの「染め方」で細胞を染めて見るわけだが、ほかにも様々な染め物を駆使することが多い。

「免疫染色」(正式名称は免疫組織化学)というケミカルな手法もよく使う。

とにかくさまざまな方法で細胞の振る舞い方を「予測」する……。




また出た! 「予測」だ。

あくまでこうなのだ。

確率、とか、たいていの場合、とか、予測、とか……。





患者は常に孤高の存在。世の中にただひとつ。だから「絶対」が知りたい。どう「すべき」なのかを知りたい。

でも人間は神ではないので、未来のことは誰にもわからない。

わからないからこそ、推測、予測をくり返していくのだけれど、とにかく少しでも精度が高くなるように、とにかく少しでも「将来」に近づけるようにと、手を尽くす。

最後に尽くされる手が病理診断である。乳房に針を刺してまで、「これがどういうふるまいをする細胞か」を、予測するのだ。





病理診断の前に、内科や外科の連中も、ある程度の予測はしている。

乳房のカタマリが、周りに対してしみ込んでいるかどうかは、超音波やMRIなどの検査でもかなりわかる。

乳房のカタマリが、体の血管からどれくらい血液を奪っているか、どれくらい激しく代謝しているかも、造影検査などでかなりわかる。

だから予測はそうとういいところまでいく。「たぶんがんだろう」「たぶん良性の、線維腺腫だろう」「たぶん良性の、乳腺症だろう」……。

これらの予測の先に、最後に細胞をみる病理医がくだすものが病理診断。

これも本当は「予測」である。でも人はときに、病理診断を「最後の審判」と呼び、病理医を「裁判長」と呼び、病理診断のことを「絶対」と呼ぶ。




ぼくはその気持ちがわかるから、乳房に刺して採られた3×1 mm程度の針生検検体を、多少自分の寿命を削りながらみて、考えて、絶対を書く、たとえそれが神様のいう「真の絶対」からはほど遠いものであろうとも、結局のところ最後は、病理医がいうことに全員が従うことになる。

その予測が正しいと信じて全員が同じ方向を向く。




病理診断をするというのはそういうことだ。

2020年2月17日月曜日

ぶっちゃけ受験でもしてみようかと思ってしまった

ある哲学者が、高度な数学や物理学、さらには生命科学や医学の話を「机上の論」として完璧に理解しているのをみて、そうだよな、哲学こそはそういうジャンルだよなあ、と、妙に納得してしまった。

哲学の定義はうまく語れないのだけれど、世界の「仕組みたち」を語る学問であり、世界の「仕組みたち」を語ることで「自分をわかろうとする」ナニモノカではあると思う。

だから哲学者たちはいろいろな手法で、世に無限にある「システムズ」を解釈している。ブンガクとかブンケイの手法だけ使ってやっているわけではない。

世にあるすべての「了解するためのワザ」は、それが哲学っぽくなくても哲学の道具になっているのだ。そのことを最近思い知った。

腑に落ちた。

哲学というのは言葉で遊ぶ学問ではなかった。ぶっちゃけ、実用性がない思考あそびだと思っていた。いや、そこまで痛烈に、意識的に哲学をバカにしたことはなかったと思うけれど、なんとなく情動として、無意識と意識の中間くらいのところで、ぼくはまだ哲学をなめていたのだと思う。

最近、哲学者たちが語る科学論の解像度が高すぎることに、ぼくはちょっとがっくり来た。科学者よりよっぽど語れるのだ、参ってしまう。彼らにないものは「実際に手を動かすこと」だけ? いや、そういう虚勢すらも、いつまで張っていられるものか……。




「哲学は所詮文系だと思っていた」。

「理系の理屈」なら、ぼくらの方が上だと内心感じていた。

正直にうちのめされている。

この年になっても相変わらず未熟であることに。気づくヒントはそこら中にあったのに。







最近は毎日のように哲学に関係のある本を読んでいる。いずれもぼくをきっちり殴ってくる。

殴られるがままだ。いい言葉が無数にある……。



言葉! 言葉! 言葉だ!



ここ数年のぼくのキーワードは「複雑系」であり「劇場」。

このあたりのことば、語彙、表現方法みたいなものを、この先にどんどん広げていこうと思ったら、ぼくは哲学を真剣にやっていくべきなのかもな、と、今はそういう気持ちでいる。とにかく無限に本を読むしかない。有限の外。自閉的な今。境界線の引き直し。断片。切断。あーこれぼくが知らなかったぼくじゃん……。

2020年2月14日金曜日

病理の話(414) 大腸ポリープを見る

大腸を、大腸カメラで覗いていく検査がある。下部消化管・内視鏡検査と呼ぶ。

この検査は、「ポリープ」などのできものを探し出すことができる。ほかにもいろいろできる検査だけれども、基本的には各種のできものを発見することが目標となる。

「できものがないことを確認して、安心したい」。これはみんなの願いだろう。




できものが見つかると、医者も患者も一瞬「あっ」と思う。たとえばそれがポリープと呼ばれる、Google mapの目的地表示の赤いピンみたいなかたちの、粘膜から飛び出たタイプの病変だと、横でカメラを一緒に見ている患者からしても一目瞭然でわかる。

ただし、ポリープにもいろいろなタイプがある。まち針みたいな形状のものもあれば、東京ドームみたいな半球状のものもある。さらには、ポリープという名称がそもそも用いられないような、平べったくて、色調や模様がわずかに変わっていることで何かあると気づけるような……背景の生地とほとんど同じ柄のアップリケ、とでも言うべきか……素人目にはすぐはわからないかたちの病変も見つかることがある。近年はカメラの解像度がよくなったので、いろいろな形状の病変が前よりも見つかりやすくなった。

ポリープなどが見つかった場合、後日あらためて再検査をするケースも多い。しかしそのポリープが「いかにもとりやすそうなサイズ・形状」をしている場合、大腸カメラの先からマジックハンド(鉗子:かんし)やスネア(投げ縄みたいなやつ)や特殊なナイフ(省略)などを出して、その場でポリープを切り取って治療してしまうこともある。



さて、ポリープとは言ってみれば「できもの」なわけだが、このできもの、なぜできたのか、というところはなかなか大切である。



「気まぐれ」? 細胞に気まぐれがありうるかという議論は実はすごくむずかしいのだけれど、実際、気まぐれですとしかいいようのない、実は放っておいてもさほど悪影響がないような、「たちのいい」病変であることはある。

一方、ポリープが、がんをはじめとする様々な病気の「出始めの姿」であることもあって、こちらの場合は緊張してことに当たらなければいけない。

「たいしたものじゃない」のか、「慎重に対処しなきゃいけない」のかの差は大きい。俗に「良悪」、「よいものかわるいものか」などと表現する。細胞のよし悪しだ。

細胞のよし悪しは、ポリープを表面から目で見ているだけでは決着がつかないので悩ましい。かなりいい線まで予測はできるのだが確信をもっていい悪いとは言えない。だから、顕微鏡で細胞の性状に肉薄することが必要となる。顕微鏡での診断を加えることで、自信をもって「このポリープは、いいものか、悪いものか」を言えるようになる。




大腸カメラで採られるポリープの多くは、がんではない。けれども、「ときにがんのことがある」から、医者としても患者としても決着を付けておきたい気分となる。

そして、実際には、「がんまではたどり着いていないけれど、放っておくとそのうちがんになったであろう病気」のことがけっこうある。

放っておくとがん。

前がん病変などと呼ばれる。

がんというのは、ある日突然そこにがんが生まれるという類いの病気ではない(昔はそういうタイプのがんもあるとされたが、最近はどうも、がんになる前の細胞にはほとんどの場合、ある種の徴候があるのではないかという説の方が濃厚。ただしその徴候が目に見えるかどうかは別で、というか、むしろ目に見えないことが多い)。

細胞の中にあるDNAに、時間とともに少しずつ異常が蓄積して、がんに向けて一歩一歩すすんでいくようなイメージ。すなわち、「がんの手前」が存在する。前がん病変(ぜんがんびょうへん)などという。

大腸では、「腺腫(せんしゅ)」という病気が前がん病変の代表だ。ほかにもいくつかある。




細胞は、好き勝手に生まれて育って働いているわけではなく、細胞の中に入っているDNAによって行動や成分があらかじめプログラムされている。このプログラムにエラーが蓄積していくと、細胞のかたち自体が変化していく。

腺腫もがんもプログラムエラーをもつ。がんに近づくにつれて、プログラムエラーの数はどんどん増えていくため、がんに近づけば近づくほど、細胞の見た目や振る舞いにも異常が出始める。

顕微鏡をみることで、その細胞にどれくらいのエラーが起こっているのかを、細胞の成分や振る舞いの異常によって判断することができるのだ。




と、まあ、何度も書きすぎていい加減飽きてきたような内容のことを書いたが(最近書いてなかったから一周回って新鮮だったけれど)、ここからはもうすこし実務的な話を書いて終わる。





ポリープを前にした病理医は、ポリープを構成している細胞を拡大して観察する。このとき、顕微鏡の倍率としては20倍くらいからスタートし、40倍、100倍、200倍くらいまでを普通に使いこなす。ときには600倍くらいまで拡大してチェックすることもある。

と、数字を並べてもなんだかよくわからないだろう。そこで、もうすこしイメージしやすい話を試みる。




ポリープのサイズが8 mmだとしよう。直径8 mmの球状の「頭部」に、こけしのボディのような茎をつけたところを想像して欲しい。これが、大腸の粘膜からピヨッと立っていた。それを、山菜を採るようなイメージで、内視鏡医が根元からつまみとってきた。では今からこれを顕微鏡で見てみよう。

病理の顕微鏡はその性質上、「割面」(断面)を見るしくみになっている。山菜を表面から観察するのではなく、包丁で縦に割って、断面の部分にある細胞をみるのだ。確かにこのほうが、病気の中にある細胞をきちんと見ることができそうだ。




さて、この8 mmのポリープというのは、実感としてだいたいどれくらいの大きさだろう?

ぼくは今、自分の「小指の爪」の大きさを定規ではかってみた。

横が9 mm、たてが10 mmくらい。

ぼくより少し小柄な方であれば、「8 mmのポリープ」はだいたい小指の爪くらいと考えればいい。具体的にイメージできただろうか。

ついでにそのまま爪をみてほしい。

小指の爪は、根元に少し白い部分があるとか、少し縦に筋が入っているとか、先日爪切りをしたときの名残で先が少しとがっているだとか、いろいろ変化があるだろう。

これらの、目で見てもわかる変化については、「顕微鏡の20倍」でよりはっきりと確認することができる。

たとえば、ポリープの表面にある細かな凹凸の理由が、そこにある細胞がタテヨコにどのように並んでいたからだ、みたいな、「構造の由来」を探ることが可能となる。

倍率を少しあげて「40倍」にする。病理医にとっては馴染みのある倍率で、一般に「弱拡大(じゃっかくだい)」というと40倍くらいをさすことがおおい。

細胞の配列が20倍よりもより見やすくなる。極めるとこの時点ですでに、細胞内にある「核」と呼ばれる構造の異常が見える。

20倍のときは、渋谷交差点の人混みをどこかのビルの10階くらいから眺めて、人がどうやって動いているかをなんとなく見ていたかんじ。

これが40倍になると、交差点の角にあるスタバの2階席から、人の顔までいちおう見えるようになってくるイメージ。

そして100倍となると細胞の細かい構造がわかりやすくなってきて、200倍、400倍まで上げると細胞ひとつひとつの「顔つき」がはっきり見えるようになる。

細胞の顔つきは、細胞核の形状、色調、核膜の厚さ、大小の不同性、中に含まれている核質(クロマチン)の濃度など、ほんとうにマニアックな項目によってチェックする。さらには身につけているもの……すなわち細胞質内にある構造物を確認したり、細胞膜の性状をみたり……。




顕微鏡の世界にひたりまくったあとで、病理医はあらためて「20倍」や「40倍」の世界に帰ってくる。ズームアップからロングショットに戻る。

そして、「細胞たち」が「どれくらい周りを破壊しているか、あるいは破壊しようとしているか」という挙動を確認しなおす。破壊がなく、破壊の徴候もまったくなければ、「良性」。細胞による能動的な破壊現象があれば「悪性」。破壊はまだないんだけれどもこの先破壊しそうだという統計の裏打ちがある挙動を示したら「悪性」もしくは「前がん病変」という判断になっていく。




のりのりで書いてたら長くなっちゃった、ここまで長いとだめだな。次は別の病変について書こうと思ってたけどもうすこし短く書きます。


2020年2月13日木曜日

2倍にしよう

前にも書いたっけ、わからんけどいちおう書いておく。

最近「コーチング」を受けている。お試し期間だ。そしていろいろわかったことがある。とても雑なまとめなので「ばか、そんなんじゃねぇよ」と言いたい人もいるだろう。でも知ったことではない。

「コーチング」というのがなんなのか知らない人もいるだろうか?

いちおうWikipedia的なものを貼っておくので知らない人は各自読むといい。読まなくてもいい。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%B0

コーチングは自己啓発本と似ている、というかコーチングの最中に「自己啓発的なものには興味があるか」とたずねられた。要はこちらがけっこうしゃべるタイプの自己啓発セミナー、だと思えばいいと思う。

コーチングの真髄みたいなものはよくわからない。なにせまだお試し期間だからだ。とりあえずここまでの間にやっていることは、自分を肯定し、自分のやれる範囲ぎりぎりまでやっている自分の仕事を肯定し、自分の行動にほこりをもってこれからやることがもっとよくなる、みたいなかんじ。

はなっからうさんくさく感じていた。

しかし知人がコーチングの資格を取ったというのでおもしろそうだからうけることにした。数万円のツボくらいまでなら買って社会勉強にしてツイッターのネタにして本を書いて売りさばいて印税にして儲けるのもいいかなと本気で思った

そしたらけっこういろいろなことがわかった。




まず、コーチングとは、ある程度のカネをかけて、色気とか性的な刺激のまったく存在しないクリーンな場所で、「嬢」的存在の人(男女問わない)に話しを聞いてもらうことで一気にストレスがとれてなにか明日からうまくいくような気がしてくるサービスであり、これはつまり、「無性的サービス」もしくは「クリーンなキャバクラもしくはホストクラブ」であるということがわかった。

何をしゃべってもいいよ、自分がありのままの感情を出していいよ、思ったことを躊躇しなくていいよと言われ、次第に「できないこと」ではなく「できそうなこと」に意識を向けられ、つっかえつっかえしゃべってもまったく問題なく、相手の会話を大して聞く必要がないまま自分ばかりがしゃべり続けることができる。

これはキャバクラだ。なお、ぼくはいわゆるキャバクラや高級クラブ、サロン的なものには一切行ったことがないので、ほんとうは行ったこともないキャバクラを例えに出すのはおかしいのかもしれない、しかし、このようなコーチングのやり方に対してとにかくずっと「これが楽しい人はいるだろうな」という感触を得た。

行ったことがないからわからないけれどいわゆる銀座の会員制の超高級クラブというのは、美しい女性が、性的なにおわせを多少なりともふくめつつ経営者などにコーチングを施す場所なのではないか、というよくわからない予感まで沸いてくるのだ。



その上でさらに踏み込んだことをいうと、コーチングというサービスはおそらく宗教と「同じ路線の対極」にあるのだと思う。

その人の中にあるネガティブな部分をどうやり過ごしていくか、究極的なことを言うと人間の根源に必ずあるはずの死や存在、時間への「恐怖」とどう折り合いをつけるかという点で一部の人に猛烈にぴったりはまるのが宗教だろうと思う。

そして、人間の根源にもしかしたらあるのではないかと思われる、夢や希望、打算、勝算、そういったものへの「恐怖」とどう折り合いをつけるかという点で一部の人に猛烈にぴったりはまるのがコーチングや自己啓発セミナーなのだ。後者はときに宗教的と言われるがなるほどと思う。




不幸にしてぼくはどうやらコーチング的なものはあまり向いていない、しかし、コーチングを受けることで、「コーチングを受けているであろう世の勝ち組の方々」の心が、わからずとも理解できるようにはなってきた。

また、これはおそらくコーチングの効果そのものだと思うのだけれども、自分に対してのことを恥ずかしげもなく人に語り続ける……自分の内面について他人に語る……オエッ……という作業をある程度決まった時間くり返していると、自分に対してのゲボみたいな感情がきちんと言語化され、ここは見てはいるけど見ていないふりをしていた、ここは語ったつもりできちんと独り言をいっていなかった、みたいな部分が次から次へと可視化・可聴化されてくる、その点はほんとうにおもしろい。




そしてぼくはつくづく思った、病や死に対する恐怖を語ることをやろうと心のどこかで思い続けているぼくとコーチングの相性は最悪であるが、しかし、かといって、宗教とだけ会話をしていても片手落ちである。宗教とコーチング双方のスピリチュアルな部分にある程度足を踏み入れ、熱に表皮を焦がされながら何かを持って帰ってきてはじめてぼくは、

bio-psyco-socio-spiritual

な医療の現場で何かを語ることができるようになる……かもしれない……それはすばらしいことだ……かもしれませんね……

などとまだけっこう迷っている。とりあえずそろそろコーチングをやめようかと思う。けっこうなカネを捨てた。ツボこそ買ってはいないが、同じ額を捨てるならば、プレステ4とニーア・オートマタを買ってやっていたほうがおそらくぼくの人生はもっと輝いていたはずである。まあニーアをやっても輝かないタイプの人のほうが世の中には多いのだろう。お互い違う持ち場でがんばっていこうぜ、としか言いようがないのである。

2020年2月12日水曜日

病理の話(413) 病理解剖の話

先日、それなりに病理のことをよく知っている業界人と話していて、「あっ、そこ説明を受ける機会ないんだ!」と思ったことがあったので、今日はその話をする。



病理解剖という仕事がある。

病気で亡くなった人の、死因、さらには「死に至るまでの経過中に、医療者や患者、さらには患者の家族などが腑に落ちなかったこと」を調べるために、解剖をするのだ。

どうやらこの「解剖」という字面が強すぎて、みんなはなんだか「腑分け(ふわけ)」するんでしょ、というイメージを持っているようである。

でも実は臓器を取り出して見ておしまいではないのだ。




取り出した臓器を、見て、さらにその一部を切り出して、プレパラートにして、細胞まで確認する。ここまでやって病理解剖なのだ。むしろこの「ミクロまで確認する作業」がないと病理解剖とは言えない。

マクロ的に臓器をみて考える作業自体も大切なのだが、巨視的な変化については進歩した画像診断、すなわちCTとかMRIの力で、解剖するまでもなくかなり確認できる。

すぐれた画像診断を用いてもなお、医療者たちが頭をひねり、患者も家族もいまいち納得できないような経過を辿った場合、そこには「肉眼では捉えられないレベルのやや珍しい異常」が隠れている場合がある。

だから顕微鏡診断を足すことが非常に重要なのである……。




さらに言うと、顕微鏡でみてもなおワカラナイことも多い。

人体に起こっていた異常が、マクロ(肉眼でみえる)、ミクロ(顕微鏡でなんとか見える)、だけとは限らない。

たとえばダイナミズム(動的な動きに異常がある。止め絵だとわからない)の異常。

あるいは液体の成分(血液の中に含まれているものの割合)の異常。

そういったものは、顕微鏡では捕まえられない。

だから病理解剖まで行った人の検索をする際には、あらゆる臨床データ、検査結果などがレポートにがんがん盛り込まれる。

病理検査室から吐き出される病理診断報告書の中で一番ボリュームが多いのが病理解剖レポートである。全身見てるわけだし、そりゃそうなんだけど。顕微鏡以外のデータもいっぱい考慮されているから。





で、悲しいことに(?)、この病理解剖は、健康保険が利かない。

死んだ患者のために行われる診断に、遺族からお金をとることは、実際問題としてかなり厳しい。そりゃないよと思われるだろう。

だから病理解剖は病院の赤字になる。

おわかりだろうか。




1.病理検査室で一番ボリュームのあるレポートを書くために、

2.病理検査室で一番手間をかけて、

3.病理医の知識をフル動員して、

4.大量の時間と手間を惜しまず注ぎ込んで行う病理解剖診断すべてが、

5.まるまる赤字。





そりゃ病理解剖の件数も減るだろうという話だ。しかし、ねえ……。うん……まあ言いたいことはいっぱいあるんだけどとりあえずここまでにしとく。

病理解剖は今後も減り続ける。赤字だからというよりも、ほかのやり方で病気の検索が可能になっているという技術革新的な理由がでかい。けど絶対に赤字だから減ってるという理由も一因にはなってると思う。ここなんで未だに放置されてるのか。まあ気持ちはわかるけれど。問題に着手するのが20年以上遅かったという気もする。

2020年2月10日月曜日

リンクワーカーという文化

最近まれに思うことなんだけど。

たとえば、Aさんという人がいて、彼がそれはもう自信満々で。

Aさん「おれさあ、世の中に足りないモノがあると気づいたんだよ。○○っていうサービスがあったらいいと思わねぇ!??」

みたいなことを言うんだよ。

そこに、誰かが無慈悲につっこむ。

Bさん「もうあるじゃん。□□ってそれやってるよ」

って答えたとするやん。「実はもうある」と。「Aさんが知らないだけだぞ」と。




そしたらAさんみたいな人ってどういう顔する?




(なんだあんのか、じゃ商売にはなんねぇな)




みたいな顔することあるね。




あと、こういうパターンもある。




Aさん「いやあるのかもしれねぇけど少なくとも俺のところにはその情報届いてなかったわけやん? てことは、せっかくサービスがあるのにそれを周知徹底・広告広報・宣伝する力が足りてないってことやん? じゃそのサービスを世に広く知らしめる意味でもあらためて俺がやったらええと思わん?」




うるせえなこいつ。キャラ変えよう。神の力でキャラを変えます。





性格のいいAさん「そうでしたか、存じ上げなくて大変恐縮です。つい、そのようなニーズがあるだろうと気づいてはしゃいでしまいました。私はそのサービスを知らなかったので、すでに○○が世にあるということを知る事ができてとてもうれしいです。そして、このサービスはきっと私以外にも求めている人がいると思いますので、僭越ながらわたk




どういじってもうるせえ。まあいいや。





で、ま、何がいいたいかっていうと、たいていの商品とかアイディアとかサービスとかボランティア的なものって、世の中にすでにあって、誰かが考え付いて運用して、いいことも悪いことも探ってる最中で、同じようなことが今日もどこかで「再発明」され続けている。

なので、すでにあるものを繋いでコミュニティにぶち込むことには大きな価値があるんだけど、その、「すでにあるもの同士をつなぐ」ことが大事なのはいいとして、つなぐ人はどうやったら食っていけるのかなあ……。




Aさんが「自分が考え付いたと思ったらもう世の中でやってる人がいた」となった時点で、偏見かもしれんけど、モチベーションの半分くらいフッ飛んでると思うんだよね。

でもそこで立ち直ったAさんが、「知名度が低いサービスを必要としている人につなげる商売をやりますわ!」ってニヤァって笑うところがなかなか想像できんのだ。

カネに汚そうな、でも実はいい人なのかもしれない、ちょっとうっとうしいしゃべり方をするAさんを、本当に儲けさせながら、実際にそのサービスを世の中に広く伝えていくためにはどこでカネを生んだらいいのか。




税金しかないの? そうだろうか?

クラウドファンディング? そうだろうか?




みたいな話を、最近まれに思っていた。





西先生の『社会的処方』を読んでから、「まれ」が「しょっちゅう」に変わろうとしている。うーんなんかできるのかなあ。

2020年2月7日金曜日

病理の話(412) 復権虫メガネ

ぼくら大人は、ぶっちゃけて言うと虫メガネをなめていると思う。

たとえば指紋を見てみたらいい。ぎょっとするから。ミステリーサークルで騒いでいる場合ではない。あなたの指先や手にはすでに無数の「宇宙人の仕業」がちみつに走っているのだ! みたいな。

そういえば、指紋って指のどこまで続いていると思う? 最初の関節のところじゃないんだよね。たいていの人は。あらためて見てみたらおどろくよ。

まあいまどき手元に虫メガネがある人も減ったかもしれんけど……。

拡大するだけでけっこうびっくりする、という幼児体験みたいなものを忘れて顕微鏡の話をしても盛り上がらないんだよな。




さて虫メガネを手に入れたとして(ポチっとけ)、指紋ばかり見ていてもうらぶれた所轄の刑事みたいな気持ちになるだろうから、もうすこしべつのものを見ることにする。

次はネットに入れずに洗濯して毛玉まみれになったぼくのズボンを見る。

さらに手近な街路樹の下に落ちている葉っぱの葉脈を……しまった北海道は冬だ。

だったら雪の結晶を見よう。サイエンス! サイエーンス!




と、このペースでずっと虫メガネをやりつづけているとそのうち、「もっと拡大したい」という気持ちになるものなのだ。人間はみな、常に、「もっと拡大したい」という本心を抑え込んで生きている。この抑圧を解放して人前でしゃべっているのがベンチャー企業の経営者だと考えればいい。「拡大したい欲求」は人間の三大欲の四番目にある。

で、拡大をあげていくと……

ちょっとここでヘッタクソな図を描くがついてきてほしい。





これっくらいの

__________________



おべんっとばっこの底板に

__________________ ←板だけ




光線 光線 ちょっとあてて


↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ ←光線

__________________ ←板だけ




単位面積あたりの光線の数を

     ここを観察
   ←―――――――→ 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ ←光線

__________________ ←板だけ





歌うのめんどくせえから普通に話そう。こうやって外界の光があたっている物質を観察するとき、観察する範囲をどんどんクローズアップしていくとどうなるか?


ここだけを観察
   ←→ 

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ ←光線

__________________ ←板だけ





当然、観察範囲が小さくなれば、光線(矢印)の量が少なくなるだろう。

つまり小さい範囲を拡大すればするほど、「暗くなる」のである。

実は人間がこのまま特にカネもかけずに何かを拡大して見ていこうとするとき、拡大できる倍率としては虫メガネくらいが限界なのだ。

そこで、ある程度以上(たとえば100倍くらい)にものを拡大してみたいときには、光量を増やさないといけない。

ところが残念なことに、物質に表面から強い光を当ててもなんだかある一定以上の光だとうまくいかなくなるのだ。散乱するからなのかな? ハレーションでも起こすのかな? 詳しくは知らん(物理の人はたぶん知ってる)けどなんかうまくいかんのです。

そこで、昔の人はえらいな、ある程度以上の倍率で何かを拡大する、つまりは顕微鏡を使うときには、ものに対して上から光を当てるんじゃなくて、

下から光を当てる

ことにしたのである。

いやいやそれだと影絵になるべや、と突っ込みたくなるがそうではない。

拡大を上げまくるときには、見たいものをペラッペラに薄く切って、それはもうミシュラン2つ星の割烹のシェフがやるかつらむき見たいにペラッペラにして、下から光を当てる。

そうするとぺらぺらに切られたミクロなものの断面がきっちり透過光で観察できるようになるのである。





指紋くらいをみるならそのまま反射光で見ていいのだ。

けれども、指紋を作っている表皮の皮丘や皮溝を細胞レベル(!)で見ようと思ったら、断面処理をして下から光を当てる。これが一番なのである。





ということで顕微鏡で細胞見るマンたちは基本的にぺらっぺら細胞ばかり見ている。長くなったので続きはまたいずれ。まあ何度も書いてきたけれど……。

2020年2月6日木曜日

日本の夏

学会発表、学術講演、あるいはまれに呼ばれるイベント登壇などの際にいつも思う。

何度やっても緊張しないことはないし、事前にいっぱいいろいろ考えていても頭は真っ白になる。そしてあとで録画などを見直すとたいてい浮き足立っている。

リアルでぼくを目にする人々は、ぼくの「浮き足だったところ」しか見ない。ふだんのぼくを存分に感じていただくことはできない。必ず、緊張して頭が真っ白になったぼくと一期一会する。

なんとも申し訳ないなと思う。

本来のパフォーマンスではない、

ごめんなさい、ここまでしか出せなかった、いつもそうやって謝罪の気持ちでいっぱいだった。



……しかし、となると、一度呼ばれた人にもう一度呼ばれるときには、それは、「浮き足だったぼく」に価値を感じてくださったということになる。

このことに最近気づいた。

あれっ、と。




ということは緊張したぼくでいいのか?






同じ人に2回、3回と呼ばれて似たような機会でしゃべると、だんだん慣れてくる。緊張していることはしているが、初回ほどガチガチではない。事前にいっぱい考えていたことが本番にも反映されるようになる。

つまりようやく本来の力が出てくるのだ。

しかし。

その、慣れてきた、本来の自分に近いモノを出した会心の講演に対しては、聴衆のリアクションが初回よりも「微妙」なことがある。




なんとも味がある話じゃないか! なんでだよ!






たぶん、本来のぼくは他人とコミュニケーションを取るには過剰なのだ。選ぶ言葉の種類も、提示するイメージの数も。

それが緊張によって削減されることで、むしろユーザーフレンドリーになる。初期Androidのごちゃごちゃアプリまみれスマホよりも、iPhoneのシンプルUIのほうが圧倒的に人気だったことを思い出す。

ガチガチに緊張しているときのぼくの方が、ユーザーにとってはむしろスペックが高い……というか……単純に使いやすいのだ。なんというか脱力してしまう。





世にはさまざまな「講演の達人」がいる。

「大舞台に強い人」「リアルな駆け引きを重視して事前の打ち合わせをしない人」「ここぞというときにそれまで一度も使ったことがない名言を出す人」など。

ぼくは最近思うのである。彼らも、もしかすると、緊張を解いた自分のほうが評判が悪い……というか、緊張した自分のクオリティのほうが安定しているために、あえてそうやって、緊張を高めるような「準備」をしているだけなのではないか? と。

無手勝流でやっている、とうそぶいているひとは、すでに立ち居振る舞いがナチュラルボーン格闘姿勢なだけなのではないか? と。





いやー俺にはできねえなあ。緊張した方がいいのか緊張しない方がいいのか、よくわからなくなってきた。次回の講演でどのような精神状態でいればいいか決まらない。決められない。決められる気がしない。

緊張感が高まっていく。

2020年2月5日水曜日

病理の話(411) 診断の哲学なんていらない

……と、患者はいいそうだ。

治療こそが医療だろうと。

治してナンボだろうと。病気の名前がついたからどうなのだ、と。



で、まあそういう気持ちは一部の医療者も持っていて、自分の手を動かして患者の状態がぐっとよくなること、たとえば外科手術であるとか、投薬であるとか、そういった行為で患者から「よくなりました光線」を浴びることで生き延びているタイプの医療者もいっぱいいる。

保険診療外にもいる。マッサージする人とかそうだ。自分の手の先でだれかの癒やしが得られたら気持ちいいだろう。

そういう人たちは、ときおり、診断という行為にどこか冷たい目線を浴びせている。

病名を決めるだけでは医療は進まないよだとか。

病気を決めると同時に治療を同時に進めないと、それは医術にはならないよとか。




でもここにはもうすこし奥深い話がある。





診断という行為は、病名を決めること「だけではない」。

その病気がどれくらい進行しているかを決めるものでもある……。

というか、もうすこしまじめに本質的なことを書くと、診断というのは、

「今後どうなるかを予測する行為」

に直結する。




1.診断とは病名を決めることです。

2.診断とは未来予測です。




1と2ではまるでニュアンスが違うではないか。単なる病名当てゲームではないのだ。





未来を予測することはある種のギャンブルで、診断というのもそれなりにギャンブル性をおびることがあるのだが、そこを科学、あるいはエビデンスというゴリゴリの数字でなんとか「いろんな人がトクできるようなギャンブル」にすり替えていく。これが医療における「診断」だ。

ある病気の診断と、進行度が決まることで、医療者は行動方針を決定する。世間一般的に言われている「ギャンブル」に従って行動を決めるというのは怖い。だから、怖くないように、「勝つか負けるか」ではなく、「トータルで勝つ感じで」ベットできるよう、サイエンス(科学)を投入する。この科学がどれだけ精度が高いかが勝負のポイントだ。というか科学がないと本当にギャンブルになる。科学があるからこそ医療がそれなりに納得できる話になるのだ。

なおこのギャンブルには胴元がいない。その意味で、理不尽なルールは存在しない。ルーレットは操作されていないし、ディーラーはウラでカードをいじっていない。科学を惜しみなく投入することで、一般的なギャンブルよりかなりいい確率で勝負ができる。

ギャンブルの例えがしっくりこない点がほかにもある。たとえば、勝負が一瞬では終わらない点は、普通のギャンブルとは少々違うかもしれない。

どちらかというと、「めちゃくちゃに上手な株式のやりくり」に近いかもしれない。

患者に薬を飲んでもらうこと。手術をしようと話し合うこと。放射線を当てようということ。そういった「処置」や「治療」が行われるたび、さらにその先どうなるかというのをあらためて予測するのが「診断」だ。診断は一瞬では終わらないのである。

だまって座ればぴたりと当たる方式の医療というのは例外的なのだ。まあたいていの人はその場で結果がわかるロトくじみたいなものが簡単で楽だと思っているだろうけれど……。医療でそれをやると損しかしない。だいたいロトくじで食ってる人が世の中にいるか?




ぼくの好きな将棋の例え話をひとつ。

将棋は、盤面にコマを並べた瞬間に予測して、それで終わるようなゲームではない。

刻一刻とうごめく盤面の状況をみながら推理を「重ねがけ」していくゲームだろう。診断もこれに近いものがある。まあゲームではないけれど。






というような「診断の哲学」は、実際に病気で悩んでいる人からするとどうでもいいことだ。そういう話はいいから治療をしてくれ、となる。

だから最後にもうひとつだけ言いたい。

人間は心をもつ。

人間以外は知らない。人間は心をもつ。

人間の心は、「先がわからない不安」を、まるで原罪のように宿し続けている。心のコアにある不安からくる症状は、決して「気のせい」などではなく、本質的なものだ。病気というのは具体的な痛みや苦しみも困ったものだけれど、それと同じくらい、「不安」をもたらすからやばいのだ。

診断にはこの「不安」をやわらげる治療的効果がある。……と、思う。

患者、そしてときには医療者も、「いったいこの苦しみはどこから来ているのだろうか」と不安を抱えながら医療に望む。

そこに「診断」という名の塗り薬をもっていってそっと塗る。病理診断にはそういう効果が間違いなくある。




強いて言うならばこれは哲学の話だ。

2020年2月4日火曜日

わからない人はそれでいいですという言葉も同種

個人の感情と、公共の福祉のために使う頭脳とは別である。しかし問題は感情が頭脳をかなりドライブしていることだ。ブーストをかけていると言ってもいい。ブレーキになることもある。

そのことは、ほとんどの人間が、生きていく途中で気づく。感情と頭脳とを分離したほうがよい場面があるとわかる。

「感情と頭脳を分離した方がいいな、という悟りに辿りついた人」を見極める方法がある。今日はこのライフハックをご紹介したい。




「感情と頭脳を分離しないと仕事なんてできないよね」の人を見極めるには、その人の発言を少しさかのぼってみよう。

すると高確率で、「ある言葉」が出てくる。

このような言葉だ。









「自分は、自分にできることを淡々とやるだけです。それがどこかで小さく役に立つと信じて。」








先に言っておくがエビデンスなし。理論構築なし。仮説形成なし。勘である。








「自分にできることをやるだけです」の人は、過去に、「感情によって頭脳の回転数がめちゃくちゃに下がってしまい、にっちもさっちもいかなくなったシーン」を経験している。必ずと言っていい。勘だけど。絶対である。勘だけど。

それだけ。








残酷なことを付け加えると、ぼくは、「自分にできることをやるだけの人」をあわれむ目線を持っている。上から目線に聞こえるだろう、申し訳ない、しかしこれは上だろうが下だろうがもうしょうがない。そういう目線はあるのだ。なぜなら、そのような人は必ず傷ついている。ぼくはそれを勘で知っているのだ。ちなみに勘による知性を人は無知と言う。

ぼくは自分にできないことをやれる人々を集めてくる仕事をする。自分にできることをやるとそういうことになると思う。何も知らないまま。何もわからないくせに。

2020年2月3日月曜日

病理の話(410) 科学に対する信頼

自分にとってはかなり難しいことを書こうと思うので、みなさんは適当なところで今日の仕事に戻ってくれればと思う。


科学というのは時間と共にどんどん整備されていく。

かつて教わったのは、「真実」というものがどこかにあって、そこに漸近線のように少しずつ近づいていくのが科学なのだという話だ。時間経過とともに、科学はどんどん真実に近づいていくのだが、決して真実と交差することはない。ただし必ず真実に近づいていく、そういうイメージでいる、という科学者の話を聞いたことがある。

しかし最近はどうもそうではないんじゃないかな、と思うようになってきた。

「真実」というのがあるとしたらそれをコインに例えよう。世の中は、そのコインに、白い紙を一枚かぶせた状態である。ただ紙を眺めてもウラにあるコインが何円のコインなのか、そもそも日本のコインなのか、というかそもそもコインなのかどうかすらわからない。なので、紙のこちら側にいるぼくらは、紙を撫でて凹凸を感じたり、鉛筆を使って上からシャッシャとなぞることで「真実のレリーフ」を部分的に浮き上がらせたりする。

そうやって、紙の向こうにあるコインが本当はこんな模様をしているのだろうという推測を何度も何度も行って、論理学を使ってその推測が正しいんじゃないかなというのをみんなで確認しあう行為が科学なのではないか。

そして問題はこのコイン自体も時とともに変化していくということなのだ。コインが誰かによってときおり入れ替えられているのか、あるいはコインがその成分的にだんだん錆びていくものなのかは紙のこちらからは全く見えない。おまけにコインは1枚ではない。おそらく世の中にある貨幣すべてを足したよりも多い数のコインが紙の向こうに、こちらからは決して見えない形で、「宙に浮いている」。テーブルに置いてあるイメージでぼくの話を読んでいたかも知れないが、実はそのテーブルすらも当てにならない。

そんなことでは真実なんていつまでも捕まえることはできないし、実は、真実なんていうものは組み合わせとタイミングによって浮かび上がるもので、偶然の産物で、確定すること自体がナンセンスなのではないか、という気になってくる。

でも、ふとした瞬間に、紙のこちら側にいるぼくらが紙をぐっとコインの側に押し当てて、そこでなぞった模様、感じた模様は確かにコインのそれなのだ。科学というのはこの「紙を押し当てて向こうを探ろうとする行動」を、1秒間に18回ほどやる行為である。1秒間に18回というと、人間の目が、パラパラ漫画をあたかも動画に錯覚してしまうくらいの感覚だ(と、かなり古い本に書かれていた)。だからぼくらは真実探しが常にリアルタイムで行われていると感じる。けれどもほんとうは断片の積み重ねなのだ。その意味でも真実からはほど遠い。

ほど遠いけれど、でも、それで十分なところがこの世の中にはあって、実は、紙の向こう側にあるコインのだいたいの雰囲気がつかめていれば、ぼくらはばくぜんと、「今いくらくらいのお金を持っているんだな、ぼくらは」と、あんしんできる。

それが科学というものだったりしないだろうか、と、ちょっと呆然とした気分で眺めている。まあ、必ずしも紙があるとは限らないのだけれど。