今から書くことは肺に限った話ではないが、病気というのは、「びまん性」に臓器全体に広がるものと、「限局性」に臓器の一部にカタマリを作るものがある。
「びまん性」などと言う言葉は日常生活ではまず使わないのだが……。
イメージとしては、町の片隅にある小高い丘に登ってもらって、町の方を見下ろして、夕暮れを待つ。
夕焼けが差し込むと、町全体がぱあっと、オレンジ色と銀色のまざったような輝きに包まれる。視界ぜんぶの色彩がいっせいにかわるだろう。
あれを「びまん性に色がかわる」と表現する……ことができるが……まあ誰もそういう言い方はしないのだけれど……びまん性とはつまりそういうイメージだ。全体的に、広範に、全般に、ざっと病気として変化すること。
たとえば肺という臓器を考えた時に、右と左にある肺の、たとえば片方、あるいは両方が、「びまん性」にやられると、それはもう苦しくってしょうがない。
肺全体にびまん性の炎症とか浮腫が起これば、ざあっと全体の機能が落ちてしまうので、呼吸が困難になる。そういうときは胸部レントゲンやCTでだいたいの雰囲気をつかみつつ、ただちに治療に移って「びまん性」の変化をなんとかしないといけない。
一方で、病気が「びまん性」ではなく「限局性」だった場合は……?
一部分に限局して病気が存在する、すなわちカタマリを作っている場合。このときは肺全体の機能はさほど落ちない。仮にカタマリが1cmであっても、3cmであっても、なんなら5cmであってもそうそう症状は出ない。
「びまん性」と「限局性」とはこうも違う、ということである。
ただ、この「限局したカタマリ」ががんだと、後々命に関わる「ことが多い」。
だからカタマリができると、「びまん性の病変」の時とは違って、そのカタマリを作っている細胞がなんなのかを、実際に細胞を採って調べる作業が必要になる。治療もしたいのだが、その治療方法(標準治療)は、カタマリの原因によって大きく変わってくる。
ここからは乳腺針生検のときの話(病理の話(415))ともリンクする。
肺にカタマリを作る病気というとまずは「がん」が思い浮かぶ。肺がんはタバコとの関連が有名だが、タバコに関係するがんとしないがんがあるので、「喫煙していないから肺のカタマリはがんではない」みたいなことは全く言えない。
次にカタマリを作る病気というと「結核」とか、「カビ(真菌症)」も考える。これらはがんではないけれど、ときおり命に関わるので、血液検査やCT検査などを駆使してなんとか正体を暴いておかなければいけない。
あとは「昔の肺炎のあとが引きつれているだけ」というのもある。火事になったあとの空き地みたいなかんじ。これもカタマリっぽく見えることがある(小さめ)。
乳房(おっぱい)に比べると、肺の結節が「がん」である確率はそこそこ高いように思う。乳房は女性ホルモンの影響を受けるので、人生の中で大きくなったり小さくなったりと「動く」臓器だから、その分、がんではないカタマリもできやすいイメージがある。でも肺は基本的にガス交換(酸素を吸って二酸化炭素を吐く)のための臓器だから、そもそも、カタマリができる意味がわからない。
ということで肺のカタマリを、気管支内視鏡を使って、気道を経由してつまんでとったり、胸の外側から針で狙ったりして、細胞採取する。
そこにがん細胞がいるかいないか。
病理医はまずそこを気にする。そしてがん細胞がいるとわかったら、そこから、「標準治療」のために、多数の遺伝子検査を行う。
現代の肺がん治療は本当に多彩だ。カタマリを作っているものが「がん」だとわかったからといって、それでみんなに同じ治療をするわけではない。そのがんがどれくらい広がっているか(病期)に加えて、細胞がどういう性質を持っているか、細胞のもつプログラム(DNA)のエラーの種類までも調べ尽くす。
EGFRという遺伝子に異常があれば、その異常に対応したクスリを。
ALKという遺伝子に異常があれば、EGFRのときとは違うクスリを。
ROS-1という遺伝子。
BRAFという遺伝子。
これらひとつひとつに対応するクスリが次々と開発されているのである。患者が苦しい思いをして、気管支鏡を飲んで、肺から爪の垢程度のサイズの細胞をとってきたら、その細胞をとことん利用し尽くすのが病理検査室の役目だ。
「遺伝子変異と治療とがリンクしている臓器」では、病理検査室の仕事が多い。
肺がん、乳がん、大腸がん。あとは一部の胃がん。血液のがん。軟部腫瘍……。
たいていのがんは、今や、「がんです」だけでは標準治療が決まらない時代である。
こういう話にめっぽう強いのは腫瘍内科医だ。
最近ドラマに出てくるから知名度が少し上がってきただろう。
彼らはめちゃくちゃ頭がいい。抗がん剤の濃度を常に計算するために電卓を持ち歩いているイメージがある(偏見)。
あと、病理医のことを、究極的にはあまり信頼していない。「病理あってこその臨床ですから」と口では言うんだけれど、実際には、「もっと俺らのことを勉強してしっかり遺伝子検査をアップデートしとけよボケ」みたいなプレッシャーを感じることがある。
けれど彼らはそれを言うに足るだけの頭脳を持ち、毎日さまざまなストレスに晒されて、多くの患者と寄り添いながら医学の最先端の情報を常に集めている。
がんの病理診断は大変だ。腫瘍内科医に見捨てられるような病理診断をしていると、いつか本当に、お役御免になってしまう。「そろそろ人じゃなくていいな、AIでいいだろう」と、病理医を真っ先に見限るのはたぶん腫瘍内科医だと思う。それくらい彼らの仕事はすごい。崇高である。
で、まあ、こっちとしても、必死で彼らの知識に付いていこうと勉強し続ける。特に、肺がんの病理診断においてはとにかく「どれだけ勉強しているか」が切れ味を左右する。そういう個人的な印象を持っている。