2020年2月28日金曜日

法隆寺は建てられない

つぶされないためにどう立ち回るか、みたいな話があって、立ち回った人をつぶしてはだめだ、という倫理もある。

「出る釘は打たれる」という9文字の、リズムの、この独特の、あきらめを誘うような哀愁はいったいなんなのだ!

かつて、ある哲学者が、

「世に名を残す哲学者というのは結局、いかに短いフレーズで人を刺せるか、そういう能力がある。本質と多少ずれていても何度も何度も噛んで味わっているうちに本来の味がにじみ出てくるようなフレーズ。」

と言っていたのだけれど、ぼくはこの「出る釘」こそは、そういう「味のこもったフレーズ」だと思う。

ところで、この言い回しが生まれた時の釘というのは、今とは違ってもうすこし練度の低い鉄でできていたのではないかな、ということを考える。打たれて刺さったら頭の部分がぐしゃぐしゃになってしまう、そしてそのぐしゃぐしゃになった頭によって周りの木材にしっかりと噛んで固定されるタイプの釘だった、ということはないだろうか?

あるいはこんなことも考える。打たれた釘は歯止めとなり、痕跡となる。それが仕事なのだ。そういうことをふくめての「出る釘は打たれる」だったとしたらどうか? ぼくらは釘が打たれるというと釘の頭上にトゲトゲのフキダシみたいな衝撃マークが出るシーンばかりを思い浮かべるけれど、でも、釘の本質というのは、本来打たれることで何かを留めるところにある。打たれなければ意味がない。首までずっぽり木材の中に埋まって初めて釘は釘なのである。「出るネジが打たれ」たらかわいそうだ(ひねってあげないといけない)が、「出る釘」は打たれてなんぼではないか。




ぼくは出る釘よりも出るネジがいい。飛び出ていたらみんながねじくり回してくれるのだ。逆回転すればまた飛び出てくることができる。不可逆な釘よりも可逆なネジ。回転モーメントを進行方向に伝えるネジ。出るネジになる。打たれることがある。

そういうことをずっと考えている。