自分と同じような信念をもってやっている他人がいる。
彼らはがんばって、いろいろやりくりしている。乗り切ろうとしている。
ぼくは微力ながら手伝おうと思った。自分の職能を考えて、いくつか事務的な部分を補助することができそうだ。
とりあえずもうすこし人手がいる。
だから、外部の人に協力を求めるメールを送った。
そしたら、こんな返事がかえってきた。
「このイベントに対する、あなた自身の思いはどうなんですか?」
うーん。
ぼくは考え込んでしまった。
いや、別に、ぼく自身の思いが「疑われた」から考えこんだわけではない。
そうではなく、一発のメールで思いが「伝わりきらなかった」ことに脳がおどろいた。
加えて、心が納得をしていた。
確かにどこか他人事だったのだ。
熱意を語ることはできる。理論的に何をやっていったら場が熱くなるだろうかということもよくわかる。必要なもの、用意すべき金。きちんと一個ずつ、楽しそうに乗り切っていくだけの覚悟もあった。
けれどもそれらを冷めた目で見ている自分もいた。
冷徹な感触が、メールの一部にわずかににじんでいたのかもしれない。
見抜かれた。
その目でメールを読み返してみると、確かに、
「彼らは全力です。ぼくもそれを応援したいのです。」
たとえばこの一行。
人を見るに長けた人からはどうみえたろうか。
思わず「あ」と声を出してしまう。
これは観客席からの目線ではないか。
誰かのため、という言葉のばくぜんとした最大公約数感。
何かのため、という意義のピントの合わなさ。
そういったものをどうナレーションするかということを、これまで、ずっと考えてきたつもりではあったのだが、やはりどこか中央の芯みたいなものが抜けていたのかもしれない。
ぼくは年々、人と話をし「続け」ることが苦痛になっている。なっている?
かつて、今以上に、人と話をし続けるのが苦痛だったあのころの正直な気持ち、「そんなことを考えてはいけないよ」と抑圧され続けてきた本心、おじさんとして平和に暮らしていくために身につけた外套の部分。
いろいろなきっかけで、少しずつはがれて、ぼくは正直になりつつある。
苦痛になっている、のではなくて、苦痛を否定しないことにした。
近頃は人と深く話をするのにうんざりしている自分をそのまま許してしまっている。
「そういうの」は、文字でやればいいと思っている。
けれど……。
ぼくの文字はそこまできちんと伝えられていないのだ。冒頭のやりとりであれっと感じた。
伝える必要のないところまで伝わってしまっているとも言える。伝えたいことと伝わってしまうことの両方が制御できていない。
まるで萎縮を伴う進化のようだ。虫垂が一部の機能を除いてほとんど萎縮してしまったように、ぼくは、会話についても、文字を書くことについても、小さく削いでアッペンデックス的にしてしまおうと思っている。SNSが一番いい。SNSは自分のごく一部だけを使ってやりとりができる。それ以上のコミュニケーションが必要なのはもっぱら、公衆の衛生的で、公共の福祉的で、学問の啓蒙的な部分ばかりだ。
意識の海面をトビウオのように跳ねるようなタイプのコミュニケーションが一番居心地がいい。
その上で、ぼくは残念ながら、「何かがかきまぜられた風景をみることに刹那的な享楽を感じるタイプ」のようだ。トビウオのままでいればいいのに時折少しだけ深海に目が向いてしまう事がある。
飛ばないトビウオはただのウオである。味が悪い分、始末も悪い。