2019年4月26日金曜日

今度特別編を書くのです

顕微鏡のレンズ周りに、パラフィンと呼ばれるロウのようなものがぱらぱらと、粉状になって落ちているので、ときどき掃除をする。

カメラのレンズを手入れする時に使うブロワーで、ボヒュボヒュと吹き飛ばしてしまうのが簡単だ。床はきちんと掃除機をかける。

ブロワー。

これほど風がぶろわああっっと出てきそうな名前もあるまい、と思う。

ブロー、という言葉だろ? 元は。髪をブローするみたいな。

ぶろおおおって風が出る感じがするもんな。わかるわかる。




でもボディーブローというときの「ブロー」はあんまりブローっぽくない。どっちかというとボディーゴボォとかボディーズボォとかボディーグフゥという感じではないか。

あのブローはなんのブローなんだ。

このへんでようやく検索をすればいいと気づく。




ググるとやはりボディーブローのブローも、髪をぶろーするのとおなじ「blow」であった。

なおラップの世界で用いられるblowはsucksと似たような、クソっぽい意味合いを含んでいるようだが、ここんところを深掘りはしていない。




なんでblowが「風が吹く」と「なぐる」の意味を持つのだろう。

どうやってググればいいのだ。語源とか由来とかと重ねて調べてみればいいのか?




ケンブリッジディクショナリー




だめだ。とにかく風が吹くっぽい意味と、殴るという意味が並列されているだけだ。ぼくが知りたいのは、なぜblowという同じスペルに、あまり似通っていないふたつの意味が重なっているかということなのだが……。




ようやく、

「古英語blāwan(風が吹く)、ラテン語flāre(風が吹く)と同系」

という記載だけはみつけた。吹き飛ばす、なくしてしまう、エリミネートする、みたいなニュアンスから後に「殴り飛ばす」と交差してしまったのだろうか。とにかくblowという言葉は調べれば調べるほど多くのニュアンスが出てくる。

しかしここまでくるともはや、言語学とか歴史的なニュアンスをわかっている人でないと太刀打ちできないな、ということがわかる。





最近よく言うし、このブログにも何度か書いていることなのだけれど、グーグルを含めた検索システム、さらにはインターネットというデータベース自体が、「歴史的な積み重ね」に対してかなり無力であるということが実感される。

誰かが書いた「歴史を考慮して、考察した文章」にたどりつけばいいが、グーグルに落ちているものだけを使って歴史を考察しようと思っても、昔のデータにはなかなかたどり着けない。情報量が爆発的に増大したこの10年くらいのノイズが強すぎる。

ネットに落ちている情報は、直近の10年のインフレーションが強すぎるのだ。20年くらい前の情報を探すためには、10年前に「10年前のことを書く。」とやってくれた人がいないと、まず見つからない。




巨人の肩の上に立つとかいうけれど、巨人のひざのあたりは、インターネットだけではほとんど評価できない。ひざがあったことはわかるが、ひざを見に行くことはできないのだ。

そんなことを考えながら、昨年、「巨人の膝の皿の陰」という連載を書いた。まあ大多数の人はみることができない雑誌なのだが……。いずれ何かの折にでも公開できたらいいなあとは思っている。


2019年4月25日木曜日

病理の話(318) 再度の検査が必要ですの場合

胃カメラや大腸カメラをやって、何かがみつかって、ドクターが言う。

「ちょっとつまんで検査に出しますね。」

乳腺をエコーで見ているドクターがあなたに語りかける。

「ここに針を刺して細胞を検査します。」

虫垂炎で虫垂をとった人に。

胆石症で胆のうをとった人に。

ドクターは説明をする、「とった臓器は病理に出します。」



人間の体の中からとられたモノが大きかろうが小さかろうが、とにかくとったモノは病理に回される。

そこでぼくらは待ち構えている。



さて検査にはそれなりの時間がかかる。

有機溶剤での処理をしたり、プレパラートに特殊な薬液で色を付けたりして、病理医が細胞をみるための準備をするのに、小さい検体であっても1日、大きな手術採取材料だと数日かかってしまう。

だから患者は検査の結果を知らされないまま、いったん家に帰されたり、病棟で不安な日々を過ごしたりする。




そして、病理診断レポートが返ってくる。

(どうでもいいけど書籍出版社の校正はレポートを「リポート」と修正しがちだが、個人的には病理報告書はリポートではなくレポートである。大半の病理医はレポートと発音しているはずだ。そもそも、ポケモンのセーブはレポートだし、Official髭男dismのアルバム名だってレポート。ぼくは一生レポートと言うだろう。リポートと直されるとむずむずする。閑話休題)

「がんではない。炎症。」

「がんだ。程度はこれくらい。性質はこうだ。」

「○○という病気の一部と考えられる。」

結果はさまざまだ。

主治医も、患者も、病理医が下した「病理診断」をみて、いささか検査というには複雑な文章を読んで、一喜一憂し、今後の計画を立てる。




悩ましいのは、以下のような診断が返ってくるときだ。

「わからない。」

おまけに、こう書いてあることもある。

「もう一度細胞をとってください。」「再検してください。」




患者も主治医もうんざりする。またあのカメラを飲まなければいけないのか。また針を刺さなければいけないのか……。

なぜだ。

細胞をとって見てもわからない、それを、もう一度とったからといって、今度はわかるものなのだろうか?





というわけで今日は「病理医がわからないという理由」や、「もう一度検査をする意味」について少し考えてみる。





たとえば、がんかもしれない部分をつまんで検査に出しても、がん細胞がわかりにくいことがある。

これは、がん細胞が「どうやってそこに存在しているか」によって決まる。

ぼくがいつもやるように、がん細胞をヤクザに例えよう。

ヤクザがアジトに集結しているとする。右を見ても左を見てもヤクザ。ヤクザ集団。おしくらヤクザ。

この一部分をつまんでとってくる。こういうときはどこを「つまんでも」ヤクザであろう。ヤクザ取り放題だ。

けれども、がん細胞はいつもアジトに集結しているわけではない。

しょっちゅう使う例え話で恐縮だが、シブヤの交差点のような雑踏に、15人のヤクザを放り込んでみよう。

すぐに数百人の善良な人々にまぎれてわからなくなるだろう。

交差点の一部を「つまんで」とってくる。さあそこにヤクザは含まれているだろうか?




「含まれていないことがある」。

含まれていなければ、病理医は診断できない。



再度検査をするときに大事なのは、「多めに細胞を採取する」とか、「広めに細胞を採取する」ことだ。

あまり大きく細胞をこそげとると、血が出たりするから、ここにはさじ加減が必要。なかなかたいへんである。




ほかにも。



ヤクザがそり込みリーゼント、全身にいれずみ、両手に拳銃とドスを持っていたら、たった一人のヤクザがシブヤの交差点にいたとしても、すぐにヤクザだとわかる。

けれどもヤクザの子分がリクスーで全身を決めており、頭はゆるふわニュアンスのワックスでアシメに整えていて(ただし黒髪にはしていて)、手には青山のセールで売っているようなブリーフケースを持って、シブヤの交差点にいたらどうだろう。

曜日によっては、「なんでここに就活生が?」という違和感はあるかもしれないが……。

少なくともヤクザだとは断定できないに違いない。




このように、「見た目のかけはなれが少ないタイプの病気」は、一度の検査ではなかなか悪人と断定できないことがある。

この場合も、何度か検査をやりなおすことで情報を集めると、診断の役に立つ。ある日はただ雑踏に立っていただけの就活生風の男が、次の日には雑踏でおっさんに肩をぶつけて怒号をはいていたら、あっ、何かおかしい、とわかるだろう。挙動をみるためには複数回の観察が有用である。





「細胞をみればぴたりと当たる」というのは実は嘘なのだ。

みるにしても、いろいろな見方がある。

ぱっと見でおかしいとわかる「かけはなれ」があればいいけれど、周囲の状況を考えてよくよく注意しないと気づかない「かけはなれ」もある。

普通の交差点に自動車があってもおかしくはないだろう。

でも、週末に歩行者天国となる場所に車がいたら異常であろう。

この場合、「車自体」をいくら見ても、異常とは気づけない。

「車の存在する場所とタイミング」がおかしいからこそ、異常とわかるのである。

これといっしょで、細胞をみる検査というのは、単に細胞だけを見ていてわかるものではない。

周囲との関係、さらにはその患者が抱えている背景をきちんと判断しないと、異常には気づけない。





というわけで「病理の再検査」が指示された人へ……。

お手数をおかけしてすみません。正しい診断のために、なにとぞよろしくお願いします。なんとか、診断を決められるよう、がんばります。

2019年4月24日水曜日

群ようこって一人ですか

ぼくはどうしても、ネアンデルタール人以前に住んでいたというナントカ人の名前を覚えられない。

なんだっけ。

デニッシュだかシャラポワだか、とにかくそんな名前の人がいたという。

……だめだ、義務教育でやってない部分は何度聞いても覚えられない。



「いくやまいまいおやいかさかさ、かやおてはたかやき」。

これはごろあわせだ。

伊藤博文、黒田清隆、山県有朋……。歴代の総理大臣を頭文字で覚えていくためのものだ。意味は無いと思う。とにかく機械的に覚えてしまった。

ぼくは大学入試センター試験を日本史で受験したので、今でもこの語呂合わせだけは覚えている。ところが肝心の人名はだいぶ忘れてしまった。

いくやま、の「ま」は誰だったか。

松方正義だ。そうだそうだ。

……そうだそうだと書いたけれど思いだしたわけではなく、もちろんググった。40の頭に松方正義は残っていられない。




義務教育+高等教育というのはなんだかんだで偉大だったのだなあ、ということを考えている。だいじなことはいっぱいあそこにあったのだ。けれども今や、ほとんど何も思い出せない。ぼくは高校1年生のときに世界史だって習ったはずなのに、序盤も序盤の「アッテムト文明」みたいなところしか、もう覚えていない……。



今確認したらアッテムトじゃなくてヒッタイトだった。ッとトしか合っていないではないか。鉄とか戦車の文明はヒッタイト文明。じゃあアッテムトってのはなんだ。

ググりなおすまでもない。

アッテムトというのはドラクエIVに出てきた鉱山のある都市の名前だ。

高校よりはるか昔にやったドラクエの町の名前が混線したのだ。たぶん、「鉄」と「鉱山」あたりもフックになってしまったのだろう。





高校までの知識をこれだけ忘れておきながら、なぜ、えらそうに、「医学部を出ました」などと言えようか。

ぼくが医学部で習った知識のうち、最近使っていないものはほとんどすべて忘れてしまっているはずなのだ。

「ブドウ売る美貌の猿もカエル大」というごろあわせがある。

食中毒の原因微生物を、発症が早い順にならべたものだ。

ブドウ球菌、ウェルシュ、ビブリオ、ボツリヌス、サルモネラ、カンピロバクター、エルシニア、大腸菌……。

摂取して数時間で発症するものから、2,3日のタイムラグがあるものまで順番になっている。

これを覚えているからといって、ぼくは、あの学部時代の、感染症講義を全部覚えていると言えるだろうか?

言えるわけがない。

こんなもの、「リアカー無きK村、動力借りとう するもくれない 馬力」とか、「閣下スコッチバクローマン、てこにドアがゲアッセブルク」などと一緒だ。脳の中で、知識の本質はとっくに風化してしまい、ごろあわせの部分だけがまるで外骨格のように楼閣を形成している。




だからか、ということを、最近よく考える。

ぼくは昔よりも、人と群れるようになった。

たぶん、自分が何にも覚えていられないことを、わかってしまったからだろう。

覚えていることにしか、アイデンティティがなかったあのころ、ぼくは群れなかった。

2019年4月23日火曜日

病理の話(317) コナンくん最近バーローって言わない

病理とは病の理(やまいのことわり)と書くわけだ。

すると、「病理をやる人」と言った場合、ほんらいであれば

 「病気を解明する人」

を意味しそうである。



しそうであるということはそうではないということだ。




実際には「病理をやる人」というと、病理診断という医療行為を担当する人のことを指している場合が多い。体の中からとってきたものをプレパラートにして、顕微鏡で観察して、細胞をみて、病気の正体に名前を付ける仕事。





というわけでぼくも普段はプレパラートをみたり、臓器を直接目で見たり、直接臓器はみられないけれどCTとかエコーとか内視鏡を介して見たりしている人と会話をしたりして給料をもらっている。

ただ、やはり、ときには、「病の理」について思いを巡らせたりもするのだ。






病気というのはなぜ起こる?

昔から人々はこのことにとても興味があった。

まあきっと、人々が一番最初に思ったのは苦痛が取れればいいとか、緩和できればいいとか、昔の健康だったころに戻りたいとか、そういう素直な感情だったろう。たぶん最初は「治したい」のほうが先に来たはずだ。けれども、病気を治すためにはどうやったって、病気そのもののことを良く知らないとお話にならなかった。「治すために知りたい」が生まれ、その後、「知りたい」がめきめきと具体的になっていったのではないかな。

敵を知り己を知れば百戦危うからず。

病理を知り生理を知れば百戦危うからず。





それでだ、病気の正体とか原因というのもさまざまである。

骨折みたいに「物理でこわれる」というのも立派に病気だ。こういうのは因果がわりとわかりやすかったから、昔から解析が進んだ。

いっぽうで「がん」みたいな病気はわりとわかりづらい。

そういう「わかりづらい病気」というのが目の前に残ると、病の理を研究しようと志す人たちは、やっきになって「わかりづらい病気」を解析した。




そしてある頃から、「どうも細胞というのは、DNAというプログラムがあって、そこから生み出されるタンパク質によっていろいろ機能を果たしているらしいぞ」ってことがわかり。

そこからすぐに「タンパク質に異常があれば病気にもなるのではないか」という発想が生まれたのである。




細胞を大工さんに例えよう。

この大工さんにひたすら「木材を切る仕事」を担当してもらいたい。

すると、木材を切るためのノコギリが必要だ。だからDNAは「ノコギリ」というタンパク質を作る。

こうして大工さんはノコギリを手に持つ。木が切れる。機能を果たす。




で、ある解析の結果、ノコギリというタンパクがカナヅチになってしまう異常を見つけた。

おかげで木が切れない。なんだかベコベコ殴ったりしている。


あっ、これが病気の原因だ! とわかる。

こうして、DNAやタンパク質の研究がめちゃくちゃに進み、さまざまな病気が発見(というか再定義)された。




けれどもあるとき、別の解析で、この大工はきちんとノコギリを与えられているのに、木を切らないという現象が見つかる。

DNAとタンパク質を解析しても、ノコギリはきちんとノコギリなのだ。

なのに病気になってしまっている。

これは難しい。原因がわかるようでわからない。

こういうタイプの病気ばかりが、「原因がわからない難病」として、今に伝えられている。





そしてあるとき、研究者たちは気づくのだ。

「ノコギリができてるかできてないかの話ばっかりしてたけどさあ、そのできたノコギリを、大工が、背中に背負ったままだったり、頭のうえでバランスをとってたりしてたらさ、木は切れないよなあ。」

そう、ノコギリがあるかないか、だけではなく、ノコギリが大工の手にきちんと握られているかどうかを解析しないとだめじゃん、ということに気づいた。

今までの解析手法では、大工とノコギリをとってきたら、それらをエクストラクト(横文字イエーイ)の中でとろかして、バラバラにして、解析していた。

けれどもバラバラにして成分だけ解析していると、これらの位置関係とか使われ方はわからない。




さまざまな苦労を経て、大工とノコギリをいっしょに解析する手法ができあがった。これでまた新しい病気が次々定義できる。




ところが今度は、大工がノコギリを持っているのに木を切らないという病気が見つかって……。

「おい、手には持ってるけど、こいつ、歯の方を持ってるぜ、みたいなことがあんのかなあ……」

研究者はまた考える……。






ノコギリが体の中では丸まってしまっている異常(取り出すと一見きちんとしたカタチにみえるから、今まで実験室では認識されていなかった)。

ノコギリに鞘がついたままの異常(取り出すと鞘がどっかに落ちて正常のノコギリにみえるから、今まで実験室では認識されていなかった)。

ノコギリを持った大工が4人集まるとお互いにおしくらまんじゅうをはじめて仕事をさぼってしまう異常(1人1人を取り出すと口をつぐむので、今まで実験室では認識されていなかった)。





病気の原因を探る研究の根幹にあるのはいつも推理の繰り返しだ。

推理といっても、安楽椅子探偵のようにずっとイスに座ったまま考えていれば解決できるタイプのものもあれば、ホームズのように仮説形成したあとで「現場百遍」して解決するかんじのものもある。

生命科学の基礎研究はどちらかというとホームズかな。

「病理」の理は、「推理」の理でもあるからな。

なおLANねぇちゃんがないと仕事にならない点からすると、ホームズってよりコナンかもしれない。

2019年4月22日月曜日

自重

ブログの記事ストックは、最近はだいたい5日分くらい用意してある。そう、ぼくのブログは、その日に書いて公開しているわけではない。あらかじめ書きためて、日時を指定して予約投稿。

むかしは10日分くらいストックしていた。平日だけの更新だから、10日分のストックがあるとだいたい2週間先まで「もつ」。

5日のストックを持っておくと、たとえば風邪をひいたときにブログを書かなくてよい。2,3日寝込んでも安心だ。出張が連続しているようなときも、出先でブログを書かなくてよい。安全装置としてべんりである。5日分もあれば用は足りる。

けれども、ほんとのことをいうと、10日分くらいはストックしたいと思っている。

なぜかというと、5日のストックでは、公開時にぼくが新鮮味を感じられなくなるからだ。1週間くらい前に書いた内容はたいてい覚えている。これではつまらない。

一方、2週間前に書いた記事であれば、てきめんに忘れている。

これ、ほんとに俺が書いたのか? くらいの印象は醸し出される。自動投稿で公開された記事を早朝に告知ツイートする際に、世界で最初の読者となって、自分の記事を新鮮に読むことができる。

ぼくはそういうことをするのが好きだ。

昔から好きだった。



最近ぽつぽつと本を出すようになったが、本は出版までの間に何度も何度も読み返す必要がある。ゲラがどうとか校正がどうとかいうやつだ。

だから本が出るころにはすっかり飽きてしまっていて、発売に湧く関係一同にお礼をしながらも自分では全く読み返せなくなっていることが多い。

愛着が足りないとか心構えがなってないとか言われてもしょうがない。けれどもそういうものなのだ。




これだけ手をかけて丹念に読みまくった自著でも、2年もすれば忘れる。

ぼくはそろそろ、「いち病理医のリアル」を読もうかと思っている。

あれ、実はすごくいい本だったのではないか、と、今さらながら思い出す。

内容は覚えていないので新鮮だろう。さあいつ読むか。




読みたい本は山ほどあり、一度読んだ本はどんどん後回しにせざるを得ない。

こうしてぼくは自著を読む機会を少しずつ失っていくことになる。

2019年4月19日金曜日

病理の話(316) 語り部のプライド

病理医の中には、「ストーリーを勝手に語っちゃう人」というのがいる。

たとえばこうだ。

「ここに癌細胞がいるんですけれどね。

正常の粘膜にまぎれて。ほら。いるでしょう。わかります?

癌細胞は、まず他の場所で発生して、いったん粘膜の下に潜ったんです。しみこんだ。

で、粘膜の下を這っていって、この場所で、再び粘膜に顔を出した。

昔、逆噴射、って言った人がいました。まさに下から上に噴き上げてますよねえ。」




……いかにも、がんの動きを見ていたかのように語っているが……。

実際にプレパラートで観察される像は、時間を止めた「静止画」である。写真で撮影したようなもの。

細胞がぐりぐりと「潜ったり」、「這ったり」、「噴き上げたり」する動きを観察できるわけではない。



かの病理医は、見たものを解釈して、ストーリーに仕立て上げて語っている。

そもそも癌細胞のことを「ある」ではなく「いる」と擬人化している時点で、がんに何か意志のようなものを感じ取ろうとしていることがわかる。





この、「そこに黙って存在しているものをみて、ストーリーを想像する」という思考は、考古学に似ている。

貝殻がいっぱい捨ててあったから、側に集落があって、人が海から食料を得ていたことがわかる、とか。

土器の中に種籾がはいっていたから、この時代には稲作が行われていたはずだ、とか。

これらはいかにも「ありそうなストーリー」として市民権を得るが、実際には、「ほかのストーリー」もあったはずだ。

同じ貝塚をみても、「貝からカルシウムを抽出して道具にしたのかもしれない!」と予測する人がいてもいい。

複数の仮説がある場合には、それぞれの仮説のどちらが「より、ありそうっぽいか」を探ることになる。

そもそも正解は確認できないのだ。大昔のことだから。

でも、ほかの資料を発掘することで、より確からしいストーリーを絞り込んでいくことはできる。

貝塚の側に、貝をまとめて熱する道具のようなものが出てきたら、「貝から何かを抽出したかもしれない」ことがより強く立証されるだろう。

でも、そういう道具がないならば、「貝は普通に食って捨てたんじゃね?」のほうが、より、「もっともだ」。





考古学がストーリーを考え出す学問という側面を持つように、病理組織学もまた、顕微鏡というマニアックな道具で、組織像という限られた情報から、「より適切なストーリー」を紡ぎ出すことが必要とされる。

そこに存在するがんは、どこからやってきて、どこへいくのか?

止め絵から流れを予想することで、たとえば……

「どこからやってきて」をつぶせば予防に役立つアイディアが出るし、

「どこへいくのか」を先回りすれば効果的な治療ができるかもしれない。





仮説形成法(アブダクション)という論理は、帰納法や演繹法に比べると、学術としては正確性が足りない、と思われがちだ。「そんなの、お前の妄想だろう」と言われる危険をいつも抱えている。

けれども、アブダクションこそは、医学をより奥深い科学に変貌させるアイディアを秘めた、学問が本来もつクリエイティビティそのものだ。




なお、AI(人工知能)も、アブダクションを途中まで進めることはできる(できないと考えている人もいるが、ぼくは、途中までならできると思う)。

けれども高レベルの仮説形成をAIが単独で行うことは、今のところ不可能だ、

人間にしかできない仕事というのは、けっきょくのところ、アブダクション=観察した事象にストーリーを与えて、学問を拡充しようとする行動

に、あるのではないかと考えている。

2019年4月18日木曜日

だいぶ育った

安く容量が多いペットボトルを買いだめておき、職場に持っていって日中飲んでいる。

水筒にお茶をいれてもっていけばいいじゃないか、という考え方も大変よくわかるがぼくは買って飲む飲料の味が好きなのだ。

麦茶を飲みたい日ばかりではない。

緑茶にしたい日もある。

紅茶を選ぶときもある。

いちいち違う茶葉を買いそろえて、ときおり作り分けてストックするのがめんどうだ。その分、脳がカロリーを使って疲れるだろう。

だから買った方が経済的だ。ぼくはそういう言い訳を用意している。




こうやって書くといかにも毎日違うお茶を飲んでいそうなふんいきにみえる。

しかし、実を言うとだいぶ長いことジャスミン茶ばかり飲んでいる。

かつて、息子と沖縄に行って、現地で買って飲んださんぴん茶がうまかったなーと思って検索をした。

なんのことはない、ペットボトルのさんぴん茶はジャスミン茶とほぼ同じなのだ。

知らなかった。それ以来、セブンやローソンでよくジャスミン茶を買う。





ジャスミン茶は、沖縄の思い出の味がする。

うそだ。しない。

ぼくは、そこまで思い出がしっかり残るほうではない。

ジャスミン茶を飲みすぎたせいで、さんぴん茶の記憶はかえって薄れてしまった。

写真を撮ると、写真の画角で記憶されてしまい、実際に網膜に映っていたときのイメージがどうやっても思い出せないのと似ている。

五感が瞬間に捉えたニュアンスは、あとから振り返るごとにどんどんダイナミックに変化していく。




息子に聞いてみたことがある。

「覚えてる?」と。

すると彼はいう。覚えてるよ。

何を覚えてる?

それは忘れちゃった。

でも覚えてるの?

そうだね。沖縄行ったなってのは。




記憶とはそういうものだと思う。

2019年4月17日水曜日

病理の話(315) 風評に負けると負けというゲーム

今日は、病理の話ではなく放射線診断科の話です。

でもまあ病理の話でもある。





以前にRad Fan(ラドファン)という名前の、前前前世が好きそうな名前の雑誌に原稿を載せてもらった。

ラドというのはRadiologyすなわち放射線科の意味だ。

ぼくの寄稿した原稿は、画像と病理の関係について。

http://www.e-radfan.com/shop-radfan/69073/
「病理診断は画像モダリティのひとつに過ぎない ~臨床画像・病理対比~」

けっこうがんばった。本文はいろんな人にほめられた。

ところが、表紙に載ったぼくの原稿タイトルに誤植があったらしい。表紙なので校正原稿をみることもなかった。言われなければ気づかなかったし、なかなか笑える誤植だったのだが、編集部は青くなったようだ。いろんなお詫びの言葉が届いて、かえって恐縮してしまった。

その後、翌月の号が送られてきた。誤植訂正を掲載したので見て欲しい、とのこと。

律儀だなあと思いつつ、翌月号に目を通した。

こうして偶然読んだ雑誌の中に、なかなか興味深い特集が載っていた。

http://www.e-radfan.com/shop-radfan/69508/
「到来する激動のAI時代。放射線科存亡の危機?」




医療系の人間なら、誰もが少しは気にしたことがあるだろう。

AI(人工知能)によって人間の仕事が奪われるとか、逆に仕事がラクになるから歓迎だとか、まあいろいろ、のんきな未来予想図が描かれまくっている昨今。

病理医のぼくもこの話題には何度も晒されてきた。

しかし医療職の中でもっとも人工知能が気になるのは、放射線診断部門だろうと思う。

CTやMRIはコンピュータ解析との相性が抜群にいい。なにせ元からデジタルデータ。アナログ画像を取り込みする手間がないだけでも他部門よりはるかに(AIにとって)有利なのである。

RadFanというくらいだから、放射線科好きの人間達が読む雑誌だ。

そこに、「放射線科存亡の危機」というタイトルで対談を組まれたら、読まずにはおれまい。




内容自体はさほど新しくはなかった……というかぼくもさんざん勉強したので大部分のことはわかっていた。確認作業、といったかんじ。

ただし、1箇所、あーそうだよなーと納得する内容が書かれていた。




・将来、AIが医療現場に入ってきたとしても、やはり従来から言われているように、プロの放射線科医の仕事を完全に代替することはないと思われる。

・けれども、放射線科の仕事をどこまでAIにまかせるか、という問題を実際に考えて決断するのは、おそらく放射線科医ではない。

・放射線科医とAIを比べて、どちらを選ぶかと考えるのは、病院の経営側や、放射線科医たちと一緒に働いている臨床医たちだ。

・放射線科医は知っている。AIよりも放射線科医のほうが、細かく診断にニュアンスを込めることができるし、説明も非常に上手に行える。しかし、その恩恵を、臨床医たちは理解しているだろうか?

・現実に、今、中小の病院では常勤の放射線科医が不在である。そもそもプロの放射線科医を雇えない病院では、バイトの放射線科医が診断をしていたり、あるいは放射線読影という作業自体がほとんどなかったりする。

・つまり、多くの病院で働く臨床医や経営者にとって、放射線科というのは、プロの放射線科医が考えるよりも「安易」で、「雑」かもしれない。

・もともと放射線科にあまり依存していない病院において、AIが登場すると、現場の人々にとっては単純に「プラス10点」が得られる。

  放射線科医なし 0点 → AI 10点。

・これに慣れた人々は、そこからさらに、放射線科医あり 15点 という状態へのステップアップをはかるだろうか? はかってくれるだろうか?

「人件費とか、効率とかを考えたら、プラス10点で十分だわ」

と、経営側に言われてしまったりは、しないか? 臨床医だって、「まあ細かく読んでくれたらそれにこしたことはないけど、AIが基本的なところを読んでくれるなら、人間の放射線科医がいなくてもいいよ」と言い出さないだろうか……?





まあだいたいこういうことが書いてあった。完全にぼくの考えと一緒であった。

そして病理医も、きっと同じだろうな、と思った。




AI時代において、放射線科医や病理医が「今のまま働き続ける」ということはあり得ない。

ただ、これについては、現在60代以上の医師ならばとっくにご存じだったはずだ。

そもそも放射線診断学は30年前とはまるで別モノである。単純X線の使用価値が漸減し、HRCT, MRIの発展が著しく、撮影枚数が増え、造影検査も豊富になり、読影内容だってかつてとは比べるべくもない。

病理学も、電子顕微鏡の使用頻度が減り、免疫染色が隆盛となり、遺伝子診断が導入され、WHO分類などは次々とうつりかわった。

そもそも30年前の病理医の仕事なんてのは今ほとんどなくなってしまっている。

もともと、診断部門というのは、そういう分野なのだ。新しい機械が登場するごとに、仕事が新しく変わっていった。




だから今回も大丈夫、というのはちょっと話を簡単にとらえすぎている。

AIによって無くなる仕事内容というのは、今まで我々が「一番頭脳を使ってきた部分」かもしれない。

つまり、「もっとも飯の種になっていた部分」であり、「病院経営者が金を払う部分」だったのだ。

放射線科医や病理医が、いくら「自分たちは診断学に必要ですよ」と叫んでも、病院経営者の側が、「AIまでで十分だな」と判断されたら、

ぼくらの仕事はなくなっていないのに、給料はなくなってしまうのである。





てなことをこの2、3年ずっと考えてきた。

放射線科医も病理医も、「研究的な側面」を大事にすることで、今後もきちんと価値を発揮し続けていける。それは間違いない。

研究的、というのは、開拓者精神をもって新しいジャンルを切り開いていくという意味だ。ある意味、クリエイター的と言い換えてもいいかもしれない。

その上で、ぼくのように、市中病院に勤務していて、大学ほど研究を求められない立場にいる病理医、あるいは放射線科医たちは……。





うん、危ないと思う。だから今のうちに、クリエイターの視点、ケアの視点、コミュニケーターの視点、さまざまな視点を自分に付加しながら、AI時代にどうやって職業を変えずに生きていくかを、考えておかないと、もったいないんじゃないかなーと思うのだ。





これほど将来性があって野心的でチャレンジしがいがある分野もそうそうない、と、ぼくは思うのだが……。ま、とらえかたは人それぞれである。

2019年4月16日火曜日

脳だけが旅をしない

お気づきだろうが少し前に、このブログで2日に1回更新している「病理の話」シリーズの記事すべてに副題を付けた。

1日でガッとやってしまったら、調子がすべていっしょになった。なんとなくへらへらしているかんじである。

タイトルそのもののクオリティはともかく、いざインデックスを付けてみたら、まあ、やっぱ、こっちの方が見やすいかな、と思う。今まで無骨に「病理の話」だけで通してきたが、最初から副題を付けておけばよかったかもしれない。

まあいいんだけど。




副題を付ける際に記事をすべて読み返した。300本程度の記事には、ある程度のパターンがあって、ただそのパターンは思ったよりも流動的であった。書いたぼく自身はもっと同じ事ばかり何度も書いているのかと思っていたが、それほどでもなかった。

学問の話というのはネタがつきないものなのだな。

どちらかというと、病理の話以外の、合間の話のほうがネタ被りしているかもしれない。





先日「不労所得で生きていく話」になったとき、その場にいた4人のうち3人までが、

「働かずにカネだけ入ってくるような暮らし、いつまで耐えられるんだろうか」

と気にしていたのがおもしろかった。ぼくも全く同感だった。

働かずに食えるという状況から得られる安心は確かにデカいだろう。

ラクでもあろう。

でも、自分が何もしていなくても自分の生活が回っていくことに、ぼく自身が耐えられるだろうか。

何もしていない自分が生み出せる発想なんてほとんどないことに、耐えられるだろうか。

ぼくは無理ではないかと思った。

ブログがいい例である。

「病理の話」があるからこそ書けるのだ。病理がなければぼくはこんなにブログを書き続けられない。




「働かずに食うメシはうまいか?」という質問がある。

働くこととメシのうまさとを混同している。あまりいい表現ではない。

どうせ聞くならこうだろう。

「働かずに脳をはたらかせられるか?」

よいとも悪いとも言わないが、ただ想像してもらいたい、

「脳をはたらかせられない状況」

それにあなたは耐えられるか。ぼくは耐えられない。おそらく誰も耐えられないと思う。

まあそんなことは実現するわけがないので、杞憂なのだけれども……。

2019年4月15日月曜日

病理の話(314) 病理おじさん肝臓を味見する

先日、ポートメッセなごやで開催された、健康未来エキスポ2019。

日本病理学会はここにブースを出した。「まなびのまち」と称された黄緑色の……ぶっちゃけキムワイプみたいな色合いの一角に、看護師、臨床工学技士、臨床検査技師、整形外科医などといっしょに「病理医」というブースが設けられた。


ここでぼくらは子ども達に顕微鏡を見せて遊んだ。

その際に説明した内容の一部を、今日はここに記す。




”はい、これはオクラです。食べるオクラだよ。ふつうこんなものを顕微鏡で見ないよね。おじさんもオクラを顕微鏡で見たのははじめてだ。びっくりするね。

こうやってオクラの断面をみることができる。すごいだろ。オクラ、というか植物は、きちんと細胞でできているってことがわかるね。

動物も、植物も、まるでレゴブロックを積み重ねたみたいに、いろんな細胞が組み合わさって、膨大な量の細胞によって、できあがっているんだ。

ほらね、オクラの表面に生えている小さな毛にまで、細胞があるのが見えるね。




さて、今度はいよいよ、人間の細胞を見てみよう。

といっても。

ここでちょっと考えて欲しいことがある。




さっき、オクラをみるときには、ぼくらはオクラをこうやって真っ二つにしてさ。

プレパラートという、向こうが見えるくらい半透明のものを作るために、カンナみたいな道具を使って、まるでカツオブシを削るみたいに、オクラを薄く薄く切るんだ。

でもね、同じようなやり方で、人間を見ることができるだろうか?




たとえばさあ、ぼくがさあ、風邪を引いたとするよ。

ノドが痛くて、鼻水が出て、咳が出て、熱だってちょっとある。

具合悪いなーって言って病院に行ったとするじゃない。

そこでさ、お医者さんが、ではノドを調べましょうって言ってさ、

おじさんのノドをバッシーって斬ってもってっちゃったら大変じゃないかな。

ノドが痛いよって病院に行って、死んじゃうよね。ノドなんか持っていかれたらさ。




さっきオクラは真っ二つにしたけれど、人間の体をみるときには、真っ二つにするわけにはいかないじゃないか。じゃあ、どうしたらいいだろう。




ちょっと例え話をしようかな。

おじさんはね、病理医っていうんだけれど、実は料理もする。

たとえばね、とん汁を作る。おじさんは上手だ。おいしいとん汁ができるよ。

で、これをね、味見しようと思ってね。

お鍋に入っているとん汁を、全部飲み干しちゃったら、だめだよね。

味見だって言ってさ、全部飲んじゃったら、味見の意味がないわけだよ。

とん汁の汁を全部飲んじゃったらさ、それはもうとん汁じゃなくて、トンじゃん。

じゃあどうすればいい?




そう、一部をすくって、ほんのちょっとでいいんだよ、味見をすればいい。




だからたとえばおじさんがどこか具合が悪くなったとしてさあ。

そうだな、肝臓っていう臓器がここにあります。この右側のあたり。

だいたい1300グラムくらいかな。1500グラムってとこかな。

牛乳瓶1本よりちょっと重いくらいの、立派な臓器だよ。

これの調子が悪くてさ、これから調べようとね、そういうときにだ。

検査しまーすって言われて、肝臓を全部バッシーって取られちゃったらね、おじさんはもう明日には死ぬよ。そんなことしちゃいけない。

だから、このように、小さな針を刺すんです。

で、取れてきた、肝臓のほんのちょっと、一部分が、これ。

見てごらん。このプレパラートの上。

おじさんの小汚い親指の、爪の白い部分とだいたい同じくらいの大きさだ。たったこれだけでいいんだよ。

牛乳瓶1本ちょっとの肝臓を「味見」しようと思ったら、中年の爪の先くらいとってくればいい……

たったこれだけを、顕微鏡で見るだけでね、驚くほど多くのことがわかるんだよ。”





だいたいこんな感じの説明をしました。おもしろかったよ。いい子たちがいっぱい来た。

2019年4月12日金曜日

溜飲の下がった先に幽門輪

別にぼくにとっては3月が4月になったからと言って何か変わるわけでもないのだが、妙に忙しい。

ぼくは変化していなくても、ぼくの周りが変化していれば、ぼくはやはり変わっていかざるを得ない。

中動態である。悪人正機でもよい。

このあたりの考え方……自分を形作るものは自分ではなく、周りとの「かねあい」なのだということ……が、ようやく複数のことばで腑に落ちるようになってきた。

まあ腑に落ちたからといって、すべてが消化・吸収されて栄養になるわけではないのだけれど……。




さんざん人の口から聞いていた言葉をなかなか実感できず、自分で体験してはじめて納得する、ということはしょっちゅうだ。

よくある「定番の観光地」に行く度に思う。

あるいは、「誰もが感動した映画」を見たときも思う。

あまりに多くの人々がよい、よいと言う、人気の、混雑した、有象無象の感想が行き渡りすぎたコンテンツ。ぼくのようなあまのじゃくは、「すっかり有名になったそれ」を消費することに二の足を踏んできた。

でも最近は違う。

世で人気を博するものはたいていいいものなのだ。それがわかってきた。

人がいいぞと言う言葉だけでは腹オチしない。

だったらなるべく自分でも味わってみる。

体感して、実感する。




別にぼくにとっては3月が4月になったからと言って何か変わるわけでもないのだが、妙に忙しい。

そしてぼくはこの一文を見て、ああ、だから世の中の人々は、年度替わりに忙しい忙しいとこぼしていたのかあ、と、ようやく納得する。

ぼくはたったこれだけの納得を得るために40年生きなければいけなかった。

他人の考えていることがたいてい妥当なのだと気づくのに、40年もかかってしまった、ということだ。

2019年4月11日木曜日

病理の話(313) 本もDNAも大事に読みましょう

人間の体を形作っている「レゴブロック」がある。

何かというと、「細胞」のことだ。

細胞の中にはほとんどの場合、「核」がある。

核は細胞のコントロールセンターだ。核の中には、細胞の働き方を決定するプログラムが入っている。

プログラム、すなわちDNA。

このDNAを、細胞の中にあるさまざまな装置が読み取って、さまざまなタンパクを作り上げる。タンパクは武器であり防具であり、服飾雑貨でもある。DNAに書かれたタンパクをいかに作るかが、細胞の挙動を決めていく。




さてこのプログラムだが、あらゆる細胞の中に「フルセット」で入っている。

ぼくはこのプログラムをよく広辞苑に例える。

広辞苑にはさまざまな言葉が収録されているが、これを買った人がみな、広辞苑を通読するわけではない。広辞苑の一語一句をすべて読み切って活用している人はめったにいないだろう(まったくいないとは言わないが)。

おのおのの細胞がもつプログラムは「フルセット」だが、実際にそれぞれの細胞が使うプログラムは「ごく一部」に過ぎない。

自分が使うプログラム以外のページは、のり付けされている。

墨で塗りつぶされていることもある。

逆に、ある細胞が頻繁に使わなければいけないページについては、しおりが挟んであって、しょっちゅう開きやすいように工夫されている。



すべての細胞はプログラムをフルセットで持っているのだが、この、しおりの場所が異なり、のりづけの場所が異なるから、それぞれ違うプログラムだけを発動して、仕事を分担し、棲み分けることができる。

膨大な情報をもつ広辞苑のどこを開きどこを閉じるか。

ページの開き方を制御するシステムを、エピジェネティクスと呼ぶ。





生命はDNAという4進法(A,T,G,C)のプログラムで動いている、という概念は正確には正しくない。

エピジェネティクスによる制御で、プログラムのどこを読むかが別に制御されている以上、生命は4進法以上の情報を使いこなしていることになる。

エピジェネティクスについてはこちらも詳しい。一度読んでみるといい。

https://www.1101.com/gakkou_darwin_yokoku/2019-04-03.html

さすが仲野徹先生は本職であるなーと思う。

2019年4月10日水曜日

食えなかったひつまぶしと食えたひまつぶしの話

「先日の名古屋出張ではおいしいものを食べられなかった、コンビニでカレー買って食べた」

という話をしたら、

「出張のときはおいしいものを食べる、っていう前提がしみついてるタイプの人だね」

と言われた。ぐうの音も出ない。

まったくだ。別に出張したからって、おいしいものを食べる義務などはない。




最近食べて一番うまいなーと思ったものは、コープで買った見切り品の春巻きだ。つくられてからだいぶ時間が経ち、シナシナになったやつを、温め直して食ったら意外とうまかった。全く期待していなかった分「うまいなー」と声が出た。

でも、翌日に、同じように春巻きを買ってみたら、皮にアブラがしみ込みすぎている気がして、ちっともうまくなかった。

たぶん「期待してしまった」からだろうなーと思った。




出張のときにうまいものを食うぞ、と期待してしまうと、コンビニで容易に手に入り衛生的でシンプルかつおいしいご飯に文句をつけるタイプのいやな人間になってしまう。

いつもそうだ。

ぼくは実を言うと今一番おいしいと思って飲んでいる酒は金麦の75%オフのやつである。あれより濃いビールだともう味が強すぎてつらい。

それなのにぼくは、先日の名古屋出張で、名古屋駅新幹線口徒歩6分のビジネスホテル13階の自動販売機でスーパードライに浮気した。期待して飲んだそれは味が強く、ぼくはローソン特製銀座中村屋のカレーをほおばりビールの味をわからなくした。ちきしょう名古屋のうまいもの食いてえ、名古屋のうまいもの食いてえと連呼しながら、ビールとカレーを交互に食った。ベッドと壁のすきまにかろうじて張り出す程度の狭いテーブルの上を、コンビニの袋とパソコンとで占拠して、スマホで「言の葉の庭」を見ながらぼくは無心にカレーとビールを腹の中に納めていった。期待したのに、期待したのに、残念だ、残念だとつぶやきながら。





今思い返してみるとこの半年で食ったメシのうち、あのカレーはかなり上位に食い込んでいた。

「言の葉の庭」はすばらしい作品だった。

スーパードライもうまかった気がする。もう覚えていないのだけれど。

期待していない場所にあるものが、振り返ってみたときに、一番輝いている、ということは、ある。

今この瞬間のぼくが、あとから振り返ったときに、もっとも輝いている、ということは、あるだろうか。

2019年4月9日火曜日

病理の話(312) 病気の定義と欠陥だらけのぼくら

実は人間の体には重大な欠陥がある。

それは、人体と酸素の関係を見てみれば、すぐにわかる。




まず、酸素を手に入れるためには、口もしくは鼻という、たいしたサイズではない穴から空気を吸引しなければいけない。このとき、横隔膜や胸の壁を外側にむけてググッと開くことで、胸の中を陰圧にし、空気を流れ込ませる。

ポンプとかないのだ。

ふべんである。陰圧で吸引するってどれだけ原始的なのか。

おまけに、酸素だけを選り分けて取り込む機構もついていない。

空気ごと吸わないといけない。

窒素やら二酸化炭素やら、いろんな分子が混ざった空気中から酸素だけをピックアップするのは、肺胞という「肺の一番奥」ではじめて行われる。

最初に口の辺りで分けておけばいいじゃないか。まったく非効率だ。

さらに、口や鼻から水が流れ込むと大変なことになる。

フィルターくらいあればいいのに。そういったものはもちろんない。

極めつけとして、人体はとても「燃費が悪い」ので、8分とか10分というあいだ、酸素が手に入らないと、途端に大事なところがダメージを負ってしまう。

特に一番重大な脳が真っ先にやられる。

こんな酷い話はないだろう。

関ヶ原の合戦で徳川家康が最初に死んでしまうようなものではないか。もう少しほかに、先に死ぬべき人がいるだろうに。




すなわち……。

今ちょっと語っただけでも、人体は重大な欠陥を抱えていることがありありとわかる。

欠陥1: 酸素の集め方へたすぎ

欠陥2: 酸素を集める場所もろすぎ

欠陥3: 酸素に頼りすぎ

欠陥4: もろすぎ




これらの欠陥は、即座に、「生命の危機」に直結する。




さあ、この欠陥を、あなたは、「病(やまい)」と呼ぶか?




呼ばないのである。

「だって、みんなこうだから。」

誰もが等しく抱えた欠陥は、もはや、欠陥とは呼ばない。

呼んでもいいのかもしれないけれど、あまり利用価値がない。





おわかりだろうか。

病気の定義というのは、「欠陥であること」とは関係ない。

そもそも生命は欠陥を多く抱えている。欠陥というよりウィークポイントかな。

そういったものをいちいち「病気です」と定義しては話が進まないのだ。





病の理を考えていると、こういう、「定義」みたいなものも気になり始める。

「老化」は病気だろうか、みたいなことも考える。

すると、思考の果てに、「がんってほんとに病気なのかな。がんは老化とはどう違うのかな」なんてことを考えなければいけなくなる。

まあがんは病気でいいんだけど……。

この問い、実は、あなたが思っている以上に奥深く、難解だ。ちょっと禅の公案みたいな雰囲気すら纏っている。





がんがなぜ病気なのかについては、うーん、そうだな。

またいずれ語ろう。群像劇の話は時間をかけて語らないと、大河ドラマにならない。

2019年4月8日月曜日

山脈とも人脈とも違う心象風景

今日も今日とて本の話をする。

というか、本と自分の相性の話をする。



すっごい期待して買った本があんまりよくなかったということは今でもたまにあるのだけれど、先日、さらにその発展系といえるできごとがあった。

「昔、わくわくしながら買ったのに読んでおもしろくなくて、そのまま本棚にささっていた本」に目が留まった。あらためて読み直してみたら、なんと、おもしろかった。貴重な読書体験になってしまったのである。



昔のぼくが間違った判断をした、というわけではなくて、本を買った当時はまだ「その本を受け入れられるだけの素地が自分になかった」ということではなかろうか。




ぼくの場合、「すっごい期待して買った本」というのはたいてい、誰か名のある本読みが薦めていたので急いで手に入れた、というパターンが多い。

ところが、名のある本読みというのはたいていぼくより読書量が多い。本を相手にする間口も広いし、本を語る言葉の数も多い。すなわちぼくよりも、本の能力を引き出すことに長けている。元々の読書レベルが高いのだ。

今までのぼくは本を読んでつまらなかったらすぐに、「ぼくには合わなかったなあ」とあきらめてしまっていた。

でも、実際には、ぼくがきちんとレベルアップしていれば太刀打ちできるし楽しめる本、というのも、あったのだろう。

今まで手放してきた「期待外れに終わった本」の中には、今読むとまた違った感想を得られるものが混じっていただろう。きちんととっておけばよかった。惜しいことをした。

本がマスターソードでぼくがリンクだとすると、本を買ったときはまだハートの数が10個くらいしかなかったのだ。

今は昔より多少ハートの数が増えたから、抜いて使える剣の種類も豊富になった。

きっとそういうことなのだ。




あまり普段気にしてはいないが、本というのがマンガであっても、テレビドラマであっても、バラエティであっても、同じ事だ。

ある創作物を自分に取り込むためには、体験者自身が、自分の中に何か経験のようなものをきちんと蓄積していないと、創作物を十分に楽しめない。

このとき、創作物というのは、小説とかフィクションの類いには限らない。

エッセイだってそうだし、科学雑誌だってそうだろう。

創作物を味わうためには、文脈が必要だ。

自分の中に、何かを吸収するための文脈を構築するには、時間がかかる。

たとえば創作物が、世の大多数の人がなるべく理解しておかなければいけない事項だとしたら、文脈は義務教育の中で組み上げておかなければなるまい。

そして、学校という場では後回しにされてきた文脈を用いないと楽しめない、満喫できない、利用できない文脈、というものが、世の中には大量にある。



文脈を作る人というのが、結局、一番「つよくて、たのしんでいる」のではないかな、と思う。

2019年4月5日金曜日

病理の話(311) 普通はいつか不通にかわる

人間は誰もが「ふつうの暮らし」を定義している。

ふつうにメシ食って、ふつうに活動して、ふつうに笑って、ふつうに寝て。

で、この「ふつう」に、何か普段と異なるものが入ってくると、まずは怪しんで、いぶかしんで、拒否しようとする。

これは本能だ。

社会学的な本能。

集団生活の中に、異物が入ってくる場合、それが敵か味方かをきちんと判別しなければ、集団に危険が及ぶ。

敵だとしたら、排除しないと、自分たちがあぶない。

味方だとしたら、排除する必要はない……のだが、実は、異物が味方だったとして、それを排除しても短期的には大きな問題は起こらない。

だって、それまでの「ふつう」を変化させなければ、「ふつう」の暮らしは続けていけるのだから。

そう、基本、異物は「排除」で問題ない。



ところが、時間と共に、「ふつう」は変わっていくということに、注意が必要だ。

時間が経てば人々は年を取る。

活動量が変わる。

生殖に適した時期というのもある。

脳だってだんだん衰えていく。

時と共に、実は「ふつう」が変質する。



ぼくらがもし、「ふつう」を守るためには敵も味方も全排除すればいい、そうすれば「ふつう」は守れる、という錯覚をしていると……。

「ふつう」はいつしか壊れて、中期的・長期的には、「異物を排除したにも関わらず」、非日常へと変わってしまう。




実は、社会学的な本能は、単に入って来たモノを全排除せよというふうには作られていない。

「原則、やばそうなやつは排除するが、それが自分たちの『ふつう』を多少変化させても、ある程度秩序を保ちながら助力してくれる存在であれば、味方として受け入れる」

「人間は、社会のゆるやかな変質を受け入れ、『ふつう』が少しずつ移り変わっていくことを前提として、ある程度の変化に耐えられるだけの精神構造を持つ」

なんだかフクザツな言い方だが、ここまでが「社会学的本能」である。




そして実は、人間がもつ「生命科学的な本能」も、これと似ている。

たとえば、

「同じモノばかり食べていると飽きる」という現象があるだろう。

これは、

「少しずつ違うものを摂取することで、栄養学的な偏りをなくす。あるいは、それまでふつうに食べられていたある食べ物が変質してしまったときに、その食べ物に頼らなくても生きていけるようにする」

ことにつながる。

「ふつう」に対して、凝り固まった、一種類の考え方をあてはめ続けるのは、社会学的な側面だけではなく、生命科学的にも、リスクが大きい。

ぶっちゃけていえば、「ふつうは変わっていくものだ」と理解しておかないと、時間と共に生存の可能性が下がるのだ。





複雑系である人体を保つためには、数少ない食材、数少ない健康法にどっぷり依存しているとリスクが高い。

せいぜい数十年の経験、あるいは他人の経験もあわせて数百年分くらいの経験で、少ない食材や栄養食品に強く頼って生きていくと、「ふつう」が変質していくときに耐えられない。

むしろ自分の「ふつう」はどんどん変わっていくものだ、ということを、本能とともに、ありのまま、受け入れたほうがよいのではないか、と考える。

2019年4月4日木曜日

ドリフの大爆笑と同じリズム

車輪の再発明という言葉をはじめて知った。

Wikipediaにも項目がある(大して長い記事ではない。興味があったらググってみるといい)。

「すでに発明されており、広く受け入れられているもののやり方や作り方を(意図的に、あるいは気づかずに)無視して、先人の業績に頼らずにいちから自分で作ろうとすること」




たとえばぼくが今、「タイヤという便利なものを発明しました!」とツイートしたら、「は?」となるだろう。

タイヤなんてもうあるでしょ、と笑われるだろう。

でも、ぼくはそこで突っ張る。

「似たようなことを考える人はいるものですね、でもこれはぼくが一から考えたものです。たとえばタイヤといっても単なるリングではないんですよ、衝撃を吸収するためにゴムで覆っているのです! しかも普通のタイヤは中に空気を入れているそうですが(先ほどはじめて知りました、偶然ですね)、今後ぼくは、空気以外の媒質を入れていろいろ試してみようと思うんです。空気を入れたタイヤよりももっといいものができるかもしれないですよ!」

……世間はあきれる。タイヤメーカーも肩を落とす。

「そんなこととっくに試したよ……」

「タイヤの中身が空気なのにはそれなりの理由があるだろうに……」

「ていうか空気以外のものを充填したタイヤもすでにあるけどな……」

ぼくはあくまで、我を張り続ける。

「もう一度ぼくが試すことにきっと大きな意味がある。他の人がダメだと思ったことでも、ぼくがやればいい結果が出るかもしれない!」

「昔試してダメだったものでも、今の技術を使えば、再発明できるかもしれない!」

これでうまく行くことがないとはいえない。

けれども、もう少し先人のやり方を「勉強」してからのほうが、効率はいいだろうな。




車輪といいながらタイヤの話にしてしまったが、ぼく、このパターン、まじでめちゃくちゃ見る。




「旧来のメディアがやっている情報発信はクソだ! ぼくならもっとうまくやる」といいながら、インタビュー記事を作って、いろいろ苦労している人がいた。

その苦闘の内容の一部は、きっと、各種のオールドメディア内ではとっくにやりつくされていた部分である。

腹を割って経験をわけてもらえば、わざわざ同じことを違う場所で試さなくてよかったかもしれない。




歴史を知り、他者の思考を知ることが、我々の役に立つかどうか。

これはもう、あきらかに、役に立つ。

文学とか芸術、社会、政治だけの話ではないのだ。

科学においても、歴史を学ぶと、効率が上がる。

ぼくらが今「はじめて」思い付いたことは、歴史の中で何度もほかの人によって「はじめて」思い付かれている。そういうものだ。

先人がそれにどう取り組んだのか。

全部は解けなかったとしても、部分的に求められた解があるかどうか。

そういったことを、ぼくらは、歴史から学ぶことができる。




水平方向にどこまでもカッ飛んで行けるSNSでは、時間軸方向の掘り下げが難しくなる場合がある。情報に鮮度があり、古い情報はかなり選別されて、大半が消えていく世界だからだ。

横を広く見渡して、自分しか考え付いていないアイディアがあるとか、自分だけが見とがめたポイントを鋭く突こうとか、そういったことを考えるのは、わりとラクにできる。

けれどもその着眼点は、歴史の中で、実は繰り返されてきたものではなかったか?

ぼくが今「新規に」やっていると思っている行動は、実は「車輪の再発明」ではないか?

2019年4月3日水曜日

病理の話(310) カニなんてすたれさせてしまえばいい

何度か書いてきた話なんだけど、たまたまツイッターでカニに関する高度な話を見たので、今日は「がんとカニのこと」を書く。



ギリシャ時代ころ、人々はまだ「がん」という病気の全貌を把握していなかった。

当然だ。そのころ、手術はなかった。解剖という習慣も存在しなかった。そのため、お腹の中にできる、胃がんや大腸がん、肝臓がん、肺がんなどは、認識しようがなかった。

ところが、当時から「がん」という言葉はあった。Cancerとかcarcinomaという言葉は、ラテン語に端を発するとても古い言葉である。


(※余談だが、ギリシャ時代くらいから認識されている病気には、単語一語のいかにもオリジナリティあふれる名称が付けられている。たとえば喘息 asthma は非常に古くからある病名で、一語でスッキリとしている(独特なスペルだ)。反対に、つい最近認識された病気は、複数の説明的な単語を使った名称が付けられていることが多い。たとえば潰瘍性大腸炎 ulcerative colitis はいかにも説明的な病名だ。この分け方でいうと、carcinomaは「古くからあるほうの名称」に属する。)


では、当時の人々は、お腹の中をみる方法もない時代に、いったい何を「がん」と呼んだのだろうか?




すぐに答えを言う前に、もう一つ、大事な前提知識について語っておかなければいけない。

昔は今と比べて、平均寿命が滅茶苦茶に短かった。

理由はあきらかだ。感染症が多かったからである。

今より衛生環境が悪い。ワクチンだって存在しない。ケガをしたら破傷風のリスクが高いし、流行病も今よりずっと激しかった(ワクチンというのは偉大なのだ)。

そして、数ある細菌感染症に対して抗生剤が使えなかった。コレラ、赤痢、結核。すべてに対して人類はずっと無力だった。

人々はみな、成人する前に、ころころ亡くなっていった。

平均寿命は(きちんと調べてないけど)、おそらく30代とか20代くらいだったはずである。

中には長く生きる人がいた、といっても、60歳とか70歳を越えて生きる人は今よりずっと少なかったろう。長老というのは本当にレアキャラだったはずである。

すると、高齢者がかかる病気である「がん」には、そもそもなる人が少なかったと推測できる。



すなわちギリシャ時代とは、がんになる人自体が少なく、がんにかかってもそれを見ることができない時代であった。

そんなころから、がんという言葉だけがある。これは不思議ではないか。

いったい、当時の人は、何を「がん」と呼んだのか?




これはおそらく乳癌であろうと言われている。

乳癌は、女性ホルモンの影響下に出現しやすいがんである。発生しやすい年齢は40代後半から50代前半。30代くらいから出現する場合もある。ほかの臓器のがんと比べると、患者が認識できるサイズに育つ年齢が、やや若い。

そして、体の表面にあるというのも見逃せない。胃や大腸、肝臓、肺などと違って、乳腺は自分で触ることができる。しこりを感じることもできる。




つまりギリシャ時代の人が考えていた「がん」とは、今のように全臓器に出現する病気ではなかった。おそらくはがんイコール乳がんだった。

(あとは皮膚がんも認識されていただろう。けれども、皮膚がんのうち、わりと若い年齢から出現するものには、別の名前が付けられた。悪性黒色腫 melanoma である。あらゆるがんの中で、悪性黒色腫がメラノーマというとりわけオリジナリティあふれる名前を付けられている理由はきっとそこにある。)



では、乳がんは、当時の人にとって、どのように観察されていたのか?




周囲に浸潤して、固く引きつれる、かたまり。

それまで元気だった人の一部に、まるで取り付いたかのようにあらわれる、局所的な違和感。

浸潤するようすをカニの足に、固く引きつれるようすをカニの甲羅にたとえて、カニの悪魔もしくはカニの精霊のようなものが乳房に宿ったと考えたのだろう。

ギリシャ時代、がんには、カルキノスという名前が付けられた。ここから現代のcarcinoma(カルチノーマ)やcancer(キャンサー)という言葉が生まれている。いずれも、がんという意味と共に、カニという意味を含んでいる。十二星座占いのかに座はキャンサーと表記されている。雑誌で占いのページを見ている人や、聖闘士星矢に詳しい人は、ご存じだろう。




古くから認識されていた病気の「名称」には、さまざまな由来が隠れている。その由来にはしばしば、当時はよく観察されたが、現代ではいろいろな理由で観察できなくなった現象が含まれている。

医療というのは時代と共に、人々の努力と共に、移り変わっていく。

たとえば現代において、乳がんが、「まるでカニの悪魔かと見まがうほどに」成長することは比較的珍しくなった。理由はいろいろあるだろうが、乳がんという病気のことを国民が周知し、少しでも違和感があったら病院に行くようになったから、というのは無視できない理由だろう。

古い言葉が、文字通り「すたれていく」ところを見るのは、医療者と患者の願いでもある。




なお、医療用語のうち最も古いものはなんだろう、というのを考えていた。

「ケア」かな。ほかにもあるかもしれないけど、「ケア」は古いだろう。昔のことばで「心配」とか「悲しみ」、さらには「配慮」とか「お世話」を意味するとのことだ(ググりました)。ほんとかどうかは知らない。けれども、もしこれが本当だとしたら、ケアという言葉は、はるか昔から、ほとんど含意を変えていないのだな、ということがわかる。



2019年4月2日火曜日

吉本新皮質

先方のミスで、ぼくのメールが見逃されていた。

「迷惑メールに入っていたのかもしれません」などと言われたが。

それがウソだというのははっきりわかった。

ぼくのメールが迷惑メールに入っていた可能性は、確かにゼロではない。

でもぼくは、先方が単純に間違えたのだろうと思った。

根拠はない。

けれども、しいていえば、電話がかかってきたこと。それが根拠だ。

電話口でもわかるくらいに汗ばんだ人から、あわてた声で。

ああ、この人は、間違えたのだろうと思った。




ぼくは、

「確かに、迷惑メールとして判定されたのかもしれませんね」

と答えた。つまりは怒らなかった。




どういう対処が「正解」なのかはわからないなーとも思ったが、

「責めたり、なじったりして、状況をいい方に持っていけることはめったにない」

という格言のような文章が、最近ぼくの脳内に掲げられており、ぼくはそれに従った。




人間活動を俯瞰すると、数パーセントの人為的なミスというのは絶対に防げない。

誰かを怒っても、けなしても、今後につながることなんて、ない。悪い人なんていないのだ。

最近そういうことをよく考える。





ぼくはデフォルトだともっと怒りっぽい人間なのだと思う。

でも最近は、大脳の表面による抑制がうまいことかかっている。あんまり怒らなくなった!

……ただ、見る人から見ると、ぼくは怒りを抑えているつもりなのに、ぜんぜん抑えられていないのだという。

「今、怒ってるでしょう。」

「口数が少なくなっていると、ああ、怒っているなあと思いますよ。」

難しいな、機嫌が悪いときに黙り込んでもいけないのか。

そこでぼくは一計を案じた。「なるべく怒らない」だけで通じないと言うのなら、なるべくニコニコしていることにしよう。




名実ともに中年になって、よかったなあと思うことがひとつある。

バカみたいにずっとニコニコしていても、不自然に見られなくなったこと。

ぼくは、最近、ずっとニコニコしている。

万が一にも不機嫌を悟られることのないように。

……そもそも、不機嫌で居続けるほどの体力も、もうないのだ。

残された選択肢はそんなに多くない。

2019年4月1日月曜日

病理の話(309) 病理の説明ありがとうございます

「体の中から細胞を取ってきて、顕微鏡で調べると、何がわかるんですか。」

「その病理という検査は、やらなければいけないものなんですか。」


こういう質問を、ぼく自身は、受けたことがない。

なぜか? それはぼく(病理医)が、直接患者に会わないからだ。



患者が「病理という検査」に疑問をもったとき、たずねる相手は主治医、あるいは看護師だ。臨床の現場で、患者と直に接しながらはたらく人たち。

患者から出る「病理に対する疑問」に、病理医が直接答えることはない。

では、直接答える機会がある人たち……臨床医や看護師たちは、患者から病理について尋ねられたとき、いったいどのように答えているのだろう。

いわばぼくらの「代わりに」答えてくれているわけだが……。




幾人かの臨床医に尋ねてみた。

「別にそんなこと聞かれたことないな」という人が一番多かった。

医者って質問されづらい職業である。「先生」と呼ばれる人間には2種類あって、学校の先生のように生徒(?)からの質問を常に受けるタイプの人と、芸術家や政治家のようにちょっと恐れられるタイプの人。

医者はどっちかな。どっちのこともあるな。

後者のときは、患者も質問しづらいと思う。




「これで診断を確定させるんですよって言っといた」みたいな答え方をするという人もいた。

まあそうだな。

診断を確定、なんて、新たに熟語を二つも使っている。堅苦しいなーとは思う。ぼくもよくやるけど。

そもそも「診断を確定」することが、病気を治したり病気と付き合ったりする上で、どれだけ大事なことなのか、というところから説明しなければいけないから、シンプルだけどそう簡単なやりとりではない。臨床の人たちは大変だ。





「がんかがんじゃないかを見ます」と答えている人が複数いた。ぼくも、これが一番シンプルだと思う。実際にぼくらが細胞をみて判断しているのは「二択クイズ」ではないんだけれど、本質的にはこの「がんか、そうでないか」のところにかなり力量が割かれている。おおむね、あってる。

けれども、病理に検査を出す目的が毎回「がんかどうか」ではない。

たとえば、胃炎とか腸炎の度合いを調べたり、原因を探ったりするときにも病理を使う場合がある。ときと場合によるな。





臨床医がしっかり丁寧に説明をする場合には、最初から「なんのために細胞を取るのか」をきちんと話しているようだ。

「あなたの病気は、今のところ、腸炎だと考えています。それも、感染性腸炎といって、ウイルスが腸にとりついて、悪さをしているものだと思うのです。その可能性が一番高いです。ただ、現時点で可能性が低いと思っていますが、潰瘍性大腸炎という別の病気かもしれない。ほかにも、低確率でありえるような病気があります。

これらを見極めるのは私の仕事ですが、病理という部門にもお手伝いをしてもらおうと思います。大腸カメラでのぞいた場所から、小指の先ほどの粘膜をつまみとってきて、病理医という別の医者に、顕微鏡で見てもらう。そして意見を聞きます。

そうすることで、今わたしが内視鏡でみた以上の情報が得られることがあります。大腸の細胞や、その周りに増えている炎症細胞というもの、あるいは、粘膜を作っているさまざまな構造が壊れているかどうか。

これらを総合して、あなたの病気の正体を、もう少し慎重に探らせて下さい。」

ここまで説明している臨床医であれば、もはや患者から病理についての質問を受けることは少ないだろう。だとしたら、「病理についての質問? 聞かれたことないな」というリアクションも、まあ、わかる。




ぼくの説明はだいたいこうだ。

「病気の正体を探ったり、どれくらい病気がすすんでいるかを調べるのに、医者はいろんな道具を使うんです。CTもそうですし、血液を見たりもします。そして、一部の病気は、病気を形作っている細胞を直接みることで、ほかのどんな検査よりも本質がよくわかる場合があるんです。おまけに、細胞をみる人は、細胞をみる専門の医者です。

病理に検査を出すと、主治医が2人に増えるんですよ。1人はいつも見てもらっている医者、もう1人は細胞をみることで、今までの主治医とは違った確度から病気に迫る医者。ですから病理はけっこう贅沢な検査です。信頼度も高いですよ。」

でも、こう説明したらどうか、と知人たちに言うと、だいたい笑われる。

「なんか病理かっこいいな(笑)」





そうだよ。かっこいいんだよ。なにか文句あんのか。ちぇっ。