2023年10月31日火曜日

病理の話(832) 一緒になって怒りたかったけど

ある研究会に出ていた。その会の代表をつとめる画像診断の達人が、ちょっとした日常の愚痴を言う。


「先生に言ってもどうにもならんのですが、うちの病理はなんかなー、信頼できん」


それはたしかにぼくに言われても困るなと思いつつ、あれ、そこの病理、けっこういい人だったけどなあと思い返しながら続きを聞く。


「一番偉い○○先生だけなんですよまともに話してくれるの。下がだめだ。ぜんぜん聞いてくれん」


あーうーんそれはわからんけどやっぱコミュニケーションだよな、診断とか研究の実力以前にこういう、「臨床医とのコミュニケーション」がうまくいってないと、病理診断ってのはほんとずれていくからなあ。たぶん信頼の積み重ねに失敗してるんだろうなあ。


「ちょっと聞いてくださいよ、そいつ、ぼくらの学会の仕事の手伝い頼んでも、偉そうにそんなのできませんとか言ってくるんですけどね」


ふむ


「まあそういう偉そうなのは百歩ゆずってしょうがないにしてもね、こないだね、こんなことがあったんですよ」


ふむ


「出てきた病理診断を見てね、こっちから、『いやいやこの人はそんな臨床経過じゃないし、その病理診断はおかしいと思う、別のこの病気の可能性はないでしょうか』って言ったらね、『そんならもう一度見直してみます』とか言うんですよ。おかしいでしょう? 細胞見ていったん診断したものをね、こっちが違うんじゃないかって言ったら、見直して、それで違う診断になるって、それ病理診断の精度としておかしいんじゃないですか」


ああ、うーん、それは、うーん、確かに臨床医から見ればそういう気分になるんだろうけど、病理診断の本質的なことを考えると、いや、その病理医の言いたいこともわからなくはないんだよなあ。

そこまでの話は「はい」「ええ」「ひどいですね」「ダメ病理医ですね」とうなずきながら聞いていたぼくであったが、ここに至って、手のひらを返さざるを得ない。

「いえ先生、それについてはですね、あっいや、その病理医はなんとなくお話しをおうかがいする限りハズレの方かもしれないんですが、それはともかくとして、臨床医から情報を得ることで病理診断が変わるってのはわりとあるあるなんですよ」

「えっ……先生もそう思うの?」

「思いますね。すべての病理診断がそうだというわけではないんですが」



「……なんでさ 細胞見てるんでしょ。病気のそのものずばりを見てるんだから、こっちの情報なんかなくたって、確固たることを言えるのが病理診断のいいところなんじゃないの」

「うーん、そうですね、たとえば、皮膚疾患、膠原病、造血器系腫瘍なんてのは、病理診断が見ているのはあくまで病態の一部であったり、病気の原因そのものではなくて原因から導かれた結果のひとつだったりするんですよ」

「うん、ああまあそうか。検査学やな」

「あとは……そうですね、たとえばダイイングメッセージってあるじゃないですか」

「突然だな」

「はいすみません、ええと、ダイイングメッセージで、13って書いてあったとするじゃないですか」

「うん 13」

「でもその上下に、A と C が書いてあったら、これ13じゃなくて『B』の縦棒が離れただけじゃないか、っていうふうに解釈が変わるじゃないですか」

「ん? ああ ん? ああなるほど」

「細胞の形態って、読み方を変えることができるんですよ。好酸球がいっぱい出ているところにおかしなリンパ球が出ているとして、それはホジキン病かもしれないし反応性リンパ節炎かもしれないしIgG4関連疾患かもしれないしT細胞性リンパ腫かもしれない」

「おお、良性か悪性かすら決まらないってことか」

「それらは、病理だけで決めるのではなくて、臨床情報とあわせて決めるべきものなのです」

「なんだ思ったより病理って使いづらいんなあ」

「ええ、それはほんとそうで、だからこそ、『併せ技』とか『解釈』をうまく機能させるためには、病理医は臨床医ときちんとコミュニケーションとらないとだめなんで、結論としてはその病理医はだめですね」

「お、おう、いきなり結論が厳しいほう行ったけど、そしたら先生はもう少しこっちの言うこと聞いてくれるいい病理医ってことでいいね」

「いえそれは時と場合によりますけど」

「ケッ」




実際には、臨床医の話を聞けば聞くほどいい病理医かというと、そんなわけもないんだけど、まあ、なんか、仕事で付き合う程度には、仲良いほうがいいなとは思う。病理診断に限らず、医療は、誰か一人の豪腕でなんとかできるほど甘いものではないのだ。

2023年10月30日月曜日

イギェァアン大学でギャァアッラァビールを呑みながらウオオオ

「エールを送る」のエールって何語なんだろうと思って調べる。英語だった。Yellと書く。

日本ではもっぱら応援の意味で用いられるが、英語圏だと応援の声だけじゃなくて、歓声や悲鳴なども含まれるらしい。

もとを辿ると、古英語の「giellan」や古ノルド語の「gjalla」に由来する。鳴き声や叫び声を意味しているという。

Yellの字面だとあまりわからないけれど、giellanをローマ字読みすれば「ギェァアン」だし、gjallaに至っては「ギャァアッラァ」だ。たしかに応援というより悲鳴とかときの声とか、どっちかっていうと絶叫系だなということがよくわかる。

というわけで、エールを送るには大声でウオオオオとやるのが一番いいようだ。

なぜそんなことといきなり調べたのかというと看護学校の授業に端を発する。「実習が終わったのでエールをください」と感想欄に書いてあったのだ。エールを送るっていまどきの子も使うんだな、と思っておもしろかった。とはいえ学生たちはやはり、ぼくらの世代とは言葉のセンスが違うので毎日のように驚かされている。たとえば「やりらふぃー」って知ってる? パリピとかチャラい人たちのことを言うそうである。びっくりした。まったく字面から想像できない。それを言ったら、「エール」もわからなさという意味では似たようなものだけど。

先日読んだ本に、「わからない間はコミュニケーションが続く」と書いてあった。仲の良い時期をとうに過ぎてしまった夫婦が「はいはいわかったわかった。」みたいなあいづちを打つでしょ、付き合いたてのカップルだと逆に「あなたのことが知りたい(まだわからないから)」と言うでしょ、そういうことだよ、わからないほうが長続きするんだ、とあってハハァなるほどなーと思った。上手な考え方だなと思う。

最近、インターネットにはどうでもいい行動、害のある行動ばかりが目につくが、そんな中でいちおうみんなにも自分にもおすすめできる行動が「推し」である。「好きなものを応援する言葉をTLに流して、世の中に存在する推しへの愛の総量を増やすのだ」みたいなことを言われる。確かにその通りだ、どんどん推していこうと思ってぼくのSNSの使い方は少しずつ本などの推しを語る場になっている。ただし、その副作用というか副反応として、ぼくは最近、推したいコンテンツのことを「わかろう、わかろう」としすぎていなかったろうか。わかりたい、わかれるはずと、前のめりで知ろう知ろうとしすぎてこなかったろうか。

その点『ハンチバック』は違った。あれは「わかってたまるか」の本だ。読者がどの角度からにじりよっていったとしても、「このジャンルの詳細をお前がわかるわけないだろう」という拒絶の風圧でおしもどされてしまうような本。「わからないこと」と「断絶」を書き切った文学にぼくはひどく感動してしまったのだった。わかってたまるか、を忘れてはいけないのだと思う。わかりたいという感情と、何も矛盾しないままに、抱えていていいものなのだ。

2023年10月27日金曜日

病理の話(831) まわらないおすし屋さんの心

自分が得意にしている……とまでは言えないような、とある臓器の病理診断学についての講演を頼まれた。

こういうとき、ちょっと悩む。



病理診断学は臓器ごとにまるで違う。たとえば、食道と子宮頸部と皮膚にはすべて「扁平上皮癌」と呼ばれる病気が出現するが、同じ名前がついていても診断のやりかたは異なる。

「食道病理の専門家になったら、子宮の病理診断をしないほうがいい」という格言があるくらいだ。

どんな病理医にも、自分が得意とする臓器と、「やれと言われればプロとしてやるけど、まあ、そこまで得意とは言えない」臓器がある。

それは経験の差からくるものであったり、あるいは「好み」とか「クセ」によるものだったりする。あと、自分の勤めている病院で多く扱われているかどうか、すなわち「勤め先の偏り」にもよる。



このような病理の話にピンと来てもらうにあたって、イメージしていただきたいのは、「鮨」である。

たいていの鮨にはシャリがあってワサビがあって、いわゆる「おおわくの構造」では共通しているが、ネタが違えば味はべつものだ。

聞くところによると中トロとタコではワサビの量も違うらしい(そうなの?)。大将はネタに合わせて握り方を変えるという。

食道の病理診断と子宮の病理診断も、「顕微鏡を用いる」というシャリと、「細胞質や細胞核に着目する」というワサビは共通している。しかし握り方や味わいは別だ。

病理医は鮨職人。どのネタでもおいしく握るのが勤め。しかし、所在地や季節によって仕入れるネタが変わる。ネタに偏りがあれば当然、「得意な握り」の種類も異なる。

もちろん、素人から見れば、どんなネタを握ってもおいしく仕上げてくれるが、本人の中では、あるいは業界の中では、「やっぱあそこの大将のエンガワはうまい」とか、「あの鮨屋で光り物を食べると絶品だ」みたいな差がある。



鮨屋のたとえを出したところでふと思った。日常の病理診断を「にぎりずし」だとすると、研究領域で用いる病理学は「刺身」であり、臨床医などの前で講演する仕事は「ちらしずし」である。

なんだその例えは!

……と驚いたりおびえたりしなくていい。要は、同じオサカナを使った料理で、いずれも鮨屋で提供されるという共通点こそあれ、人様にサーブするときの勘所がまるで違うということだ。

病理診断は、ネタにあわせて一貫ずつ「パッケージとして完成された答えをスッと出す」ことに真髄がある。

研究はキレ味と鮮度と盛り付けだ。市場で仕入れる段階でかなり決まっていて、提供順序を間違うと客がピンとこない上に、切り口ひとつで味がだいぶ変わる。

講演には「全乗っけ感」がないと満足してもらえない。「お得感」も必要だ。そして見た目がお祭り的でなければ成立しない。ご家庭でつくる「なんちゃって海鮮丼」と鮨屋の「海鮮ちらし」は別ものだ。漬けの手間を惜しまず、お魚以外の食材をほどよく混ぜ、歯ごたえや弾力については「にぎり」とも「刺身」とも異なるバランスで出す。なにより、お腹がすいている人にしか出せない。



以上を踏まえた上で、冒頭の文章を書き足す。



自分が得意にしている……とまでは言えないような、とある臓器の病理診断学についての講演を頼まれた。

こういうとき、ちょっと悩む。

ぼくはこのネタを日頃からよく「にぎって」いる。自分の病院では何度も何度もにぎる機会がある。「刺身」でも出すことはあるが最近はもっぱら「にぎり」だ。しかし、「ちらしずしにしてほしい」という依頼が来た。このネタを「ちらし」にするのはあまりやったことがない。

こういうとき、ちょっと悩む。ちらしかあ……。仕込みが大変だなあ……。

2023年10月26日木曜日

やっぱりぼくは博士だから

ガッちゃんの鳴き声(?)に「クピポ」をあてた鳥山明は天才だ。ガッちゃんは文明が間違った方向に進んだ際にそのすべてを食い尽くして終了させるため、神が古代に派遣した天使だという設定を、アラレちゃんWikipedia的なもので読んだことがある。背景情報のボリュームがすごい。それほどでかいものを背負ったキャラクタに、「クピポ」「クピプ」しかしゃべらせないディスコミュニケーション性を付与した鳥山明に畏怖を覚える。

神と人とは語り合える余地があるのかもしれないが(たぶんないが)、天使と人とはおそらく語り合えない。神の善性を引き継ぎつつも神ほどの完全性がない天使は、神よりよっぽど怖い。天使に対する根源的な恐怖。たとえばギャルは気軽に神という単語を使うが、天使というフレーズはあまり使わない。そのあたりの抽象的なおそろしさをギャルもわかっているからだと思う。

「ギャル」という和製英語ひとつでヤマもオチももたらしてしまうことに罪悪感を覚える。神や天使を語ることに抵抗がないのにギャルを語るときだけ圧を感じる。神も天使もディスコミュニケーションの象徴であるが、ギャルはlessnessを前提としたコミュニケーション過剰状態の象徴であるから、無理もない。

ぼくはギャルよりシャッターを下ろしがちな人びとのほうに興味がある。

コミュニケーションにかんなをかけて削りおろしていくタイプの人の心性。

昔から怖かった、いまだにそこに惹かれている。一番興味があるのはそこだ。

誰かと協働してなにかをするという場面になったとたんに「めんどくさいの檻」の中にみずからを収監させるタイプの人。

発するばかりで受け取ろうとせず、誰もが目をそらした直後から何かを受け取り始めるタイプの人。



ギャルにオタクを対置させる技法が当たり前になりすぎてしまったせいか、ギャルと真逆の行動をする人たちのことが十把一絡げに「オタクっぽい人でしょ」と語られるようになってしまった。でもそうではない。オタクかどうかは関係がない。だいいちギャルは40%くらいオタクなので対置になっていない。「オタクに優しいギャル」なんてのはふつうに同族・異家系どうしのコミュニケーションの話でしかない。

ぼくが怖くて興味があるのはディスコミュニケーションだ。くり返しになるが天使が怖い。ぼくは天使のような人が怖い。そこに一番興味がある。

天使のような人はネットには出てこない。

現実でまれに遭遇する。その話を今こうしてネットに書いている。

ネットで出会う人は天使ではあり得ない。シャッターを開けたことがある時点でそれはすばらしいことに、人なのだ。



最近のオタクはコミュニケーションをよくする。オタクイコール人付き合いが苦手な人びとというレッテルは、SNSの存在しなかった昭和における誤謬で、オタクにマッチする通信手段が少なかったから不便で困ったというだけの話にすぎない。ぼくの興味の対象はオタクではない。

会話で、ネットで、SNSで、とにかくシャッターを下ろす人。

そういう人びとが交流という光から距離をとったあと、自分の中で何を光らせることで間接照明のように部屋の中を薄ぼんやりと明るくして、そこで何を見て何を思っているのかということ。



「最近の若者はすぐ居場所探しという。居場所なんかどこでもいいじゃないか。今いる場所でがんばればいいんだ。すぐ死にたいとかいう。それは安直だ。生きていればいいじゃないか」

久々に聞いた。話してくれただけ良かったと感じる。いまどきこんなことを人前で言ったら世間から殴られまくるから絶滅したのかと思っていた。でも、いまだに、多くの人がそう感じているのかもしれない。口に出せないだけで。

ギャルにもオタクにも優しい世界が最後に見放しているのが、みずからを「めんどくさいの檻」の中に閉じ込め、檻の隙間からけだるい熱量でぎりぎり世界をのぞき見しているタイプの人。

そういう人に対して社会は未だにうまく言葉をかけられない。

教師もコンサルタントも弁護士も、医者も臨床心理士もカウンセラーも、自分の領域に引き付けながらうまいことをいうばかりで、本当のディスコミュニケーションの人たちを「ほどよく突き放したまま、それでも関わる」ということができない。

「ディスコミュニケーションの人たちからそう望まれているのだから仕方ない」というエクスキューズを、よく耳にする。

ぼくはそこが怖くて興味がある。クピポしかしゃべるつもりがないガッちゃんとアラレちゃんが仲良くしているのはまだわかる。しかし、則巻千兵衛がガッちゃんとコミュニケーションできているのはすごいなと思う。ぼくは則巻千兵衛になりたい。おそらく、ガッちゃんのなりそこないでしかないのだけれど。

2023年10月25日水曜日

病理の話(830) 写真何枚あればわかることができるか

むかし受けた「希少がん病理診断講習会」のテキストを読み直している。とある難病についての項目だ。

遭遇頻度が低く、日常の診療の場面ではなかなかお目にかからない病気である。病理の教科書を見ればだいたいどんな細胞かは書いてあるが、これだけ珍しい病気だと、写真数枚で「わかった気持ち」になることはとうていできない。

そこで、むかしの講習会のテキストを引っ張り出してきて、教科書に載っている写真と見比べながら勉強をする。


ちょっと考えてみてほしい。

あなたは「ゾウ」という動物をそれなりに知っていることと思う。

ゾウとキリンとカバを見分けてみてください、と言って失敗する人はまずいないだろう。

それどころか、「ゾウのシッポの長さってどれくらいだっけ?」と人に聞かれたとしたら、頭のなかでもやもやとゾウを思い浮かべて、あてずっぽうで「ぼくらの腕くらいじゃない?」などと答えることもできるのではないか。

ただし……ゾウのシッポは本当に腕くらいの長さだろうか。

そこは少し心配だ。

さすがにそこまで詳しく覚えているわけではない。

そこで写真を探す。ググってもいい。図鑑を見てもいい。

するとゾウのシッポは思いのほか長いことがわかる。平均して150センチと書いてあるホームページが見つかった。小柄な成人くらいのサイズはあったのだな。へぇ。

このとき、写真の枚数は、「シッポがきちんと写り込んだ1枚」があれば足りる。欲を言えば、なにか、長さのわかるような比較対象物が近くにあればもっといいのだけれど。



では次に、「ヒメカンテンナマコ」のことを考えよう。

あなたはこの不思議な動物のことをご存じだろうか。大きさ、形状、色合い、どこに住んでいるか。テレビやネットで見たことがある人がいるかもしれない。しかし、まるで聞いたことないよという方が多いのではないかと思う。

さあ、ヒメカンテンナマコのことを知るにあたって、写真1枚で足りるだろうか?

1枚あれば十分だろ、とお思いかもしれないが。

写真1枚で、カンテンナマコとクロナマコとイカリナマコとシイナマコトの区別をつけられるだろうか。

私なら、ちょっと自信がない。シイナマコトくらいはわかるかもしれないが。

ナマコのように「普段、見慣れない生き物」だと、写真1枚くらいではよくわからない。

サイズ感とか。どういうところに住んでいるかとか。ちょっと角度を変えて見たときの感じとか。

ゾウくらい知名度があれば写真は少なくて済む。しかしナマコはたくさん写真がないときつい。

もっと言えば、写真だけではわからないことだってある。

じつはヒメカンテンナマコは光る。

あと、どうでもいいけど、ヒメカン・テンナマコ ではない。ヒメ・カンテン・ナマコだ。




ぼくは顕微鏡で細胞を見て診断をする。細胞の色や形を見て判断するわけだから、教科書の写真と見比べれば、たいていの細胞はわかる。そのわかりやすさが「形態診断」の良さであろう。

しかし、「よくある病気」ならばよいのだが、珍しい病気ともなると、教科書に載っている写真だけでは足りない。「ゾウ」なら図鑑程度でいけるが、「ヒメカンテンナマコ」だと図鑑数冊見比べてもまだ自信が持てないのと似ている。

教科書を執筆している人はその筋のプロフェッショナルだから、写真も選び抜くことに関しては定評があるし、「その病気の特徴をよく表した写真」ばかりを本に掲載する。しかし、誌面には限りがあり、枚数はどうしても少なく、普段みないような珍しい病気をわかるにはいかんせん足りない。

個人的には、一生の間に1、2回くらいしか出会わないような珍しい病気の場合、写真は100枚くらいないといけない。それだけの枚数を見比べてはじめて、その病気の「らしさ」が伝わってくる、という感覚がある。しかし、教科書1冊につき、珍しい病気の写真はせいぜい3枚だ。へたすると1枚、あるいは写真がないということだってある。

そういうときは、延々と論文を検索して、自分が納得するまで写真を集める。



もっとも、ヒメカンテンナマコだろうなあと思ってヒメカンテンナマコの写真ばかりを100枚集めて、よくよく見てみたら、これはヒメカンテンナマコにちょっと似てるけどハゲナマコではないか……みたいなことが診断の世界では起こる。今度はハゲナマコの写真を100枚集める。エンドレスだ。

ヒィヒィ言いながらずっとデスクで検索を続ける時間のことを、「働き方改革」の人たちは、「それは残業ではなくて自己研鑽ですので、残業代の対象ではありませんね」みたいに言う。まあそうだね、自己を研鑽しないと診断なんてできないからね。

2023年10月24日火曜日

ひとかけらの罠

職場の近くにあるコンビニでお茶を買おうと思ったら小さな書籍スペースに呪術廻戦の新刊といっしょにワンピの106巻が大量に入荷していた。そうかそうか新発売かと思ってさほど確認もせず買った。仕事がはじまる前にさっさと読んでしまおうと思い読み進めていく。ジャンプで一度読んでるから記憶に新しいけどやっぱ単行本で読むと違うなあ。まとめて読んだほうが頭に入ってくるなあ。すいすい読み進めていく。読者からのお便りに尾田栄一郎が答える「SBS」というコーナーがあるのだがその内容もなぜか読んだ記憶がある。マルコが「よい」って答えるところ、あきらかに読んだ記憶がある。ウッ。まさか。これは。新刊ではないのでは。そして家にすでに買ってあるのでは。おそるおそる奥付を確認する。「2023年7月」の発行と書いてある。新刊じゃないやんけ! なんでいまさらコンビニに山のように入荷するんだよ! 悲しい罠であった。罠ピースである。


新しく購入したPC。以前よりもひとまわり小さいものを主力とする。ただし外付けモニタを購入してデュアルモニタシステムにしたから小さくても大丈夫だ! よぉしこれからバリバリはたらくぞ! と思ったらモニタを釣り上げるアームがうまくデスクに固定できない。ぼくの使っているデスクはかなり古いもので、側方ぎりぎりまで引きだしの壁が迫っており、万力を固定する天板として使える場所が少ないのだ。デスクの手前側にうまく固定することができず、しかたなくデスクの奥側にアームを固定すると、ノートPCとデュアルモニタの位置が微妙に離れて使いづらくなってしまった。まったく使えないわけではないので当分このまま運用していくのだけれどままならないものだ。結局、ただPCの画面がひとまわり小さくなった状態で普通に使っている。罠PCである。


外付けのキーボードを使って画面から目を離して入力するので、今こうして書いている文章もまめつぶのように小さく見える。まめつぶ。豆粒。豆ひとつひとつをまじまじ見ることは滅多にないがニュアンスとして伝わってしまう「まめつぶのような」というフレーズに、条件反射で選ばれていく語彙の安直さを思う。ところで「滅多に」というのもすごい漢字を使うものだ。思考がどんどんわき道にそれていく。わき道? 違うかもしれない。わき道というといかにも主たる道があるかのようだが、どちらかというと今の脳は広場の真ん中で方角を見失って呆然としている感じに近い。そういえば今朝、車を運転していて、交差点で信号を待っていたとき、自分の思考が一瞬完全にばらけている時間があったことに気づいた。隣に人がいたら、きっと、「どうしたの? ぼーっとして」と言われるようなやつだ。「いや、なにも考えてなかった。」などと答えると、「なにも考えてないってことはないでしょう。なにか心配ごとでもあるの?」とたずねられるようなやつだ。そんなたずねられかたをしたことは一度もないが。『宙に参る』でいうところの判断摩擦限界のような状態なのではないかと思った。中高年がたまに、なにをするでもなく窓の外などを見ながら陶然とした顔をしていることがある。あれはたぶん脳内で長年にわたって蓄積して増えすぎた情報をうまく処理できずにハングアップしている状態なのだろうと思っていた。まだ先のことだと思っていた。今のぼくはたまにそういう状態になる。どこにもピントをあわさずぼうっとしていると、なんとなくのどかな見た目になってしまう。争いには向かないスタイルだから悪いことではない、と言えるかもしれないが、さすがに運転中そうなるのはあぶないので気を付けなければならない。罠ピースである。

2023年10月23日月曜日

病理の話(829) 診断を信用してもらうためのくだらない小手先の技術のこと

今度、テレビに出る。もう少し先の話だけれど、今、そのテレビの出方を考えているところだ。「2002」があしらわれたメガネでもかけていこうか。ウサギの耳をつけていこうか。わかりやすく白衣にすべきか。


職場で白衣なんて昼食のとき以外には着ていないのだが、医者といえば白衣、わかりやすいモチーフで一気に説明を省くというのはいかにも大切なことだと思う。マリオに数ドット分のデザインを増やし、具体的には「帽子のつば」をつけることで、今マリオがどちらを向いているのかを瞬間的にプレイヤーに把握してもらう、みたいな話。白衣を着た人が画面に映れば瞬間的に「今からなんとなくテレビの人たちがそれなりに信じている医者っぽい人が出てきて人体の話をするんだろう」ということがナレーションなしで伝わる、それはとても大事なことだ。プレゼンテーションの「デザイン」として、われわれはもっと、白衣を効果的に使ってよいのだと思う。


ところで「白衣高血圧」という言葉がある。患者が家で測った血圧とくらべて、病院で測る血圧はだいたい10くらい高い。それは白衣の人びとを目の前にして緊張するからだ、という話。ちなみに「白衣脱水」というのもあると思う。中高年は誰もがだいたいおしっこが近くなるものだが、病院に着くまでにいくつもの交通機関を乗り継ぎ、病院の待ち合いでもいつまで待たされるかわからない状態で、あまりトイレにばかり行くわけにもいかないから、病院を受診する患者はいつもより水分の摂取を控えてしまいがちだ、だから診察室ではいつもより少しだけ脱水傾向にある……のではないかと思っている(白衣脱水という言葉は今ぼくが考えたもので、一般には特に言われてはいない)。


「医者」らしさが前面にデザインされた場において、患者は緊張し、ときに萎縮し、あるいは興奮し、何なら少しだけひからびることすらあるということ。

さて、ぼくは果たして、テレビでなにがしかのメッセージを発するときに、見る人に微弱なストレスを与えてでも「今から医者がしゃべるのですよ」というデザインを採用すべきだろうか?


ここから病理の話。病理診断においては、「診断者名」を記載する欄がある。当たり前だろうと思われるかもしれないがけっこう重要なポイントである。この診断が誰によって書かれたか、という情報は、主治医が診断書を読む際の事前情報として、知らず知らずのうちに主治医の価値判断、その後の診療方針に影響を与えるからだ。あの病理医が診断したなら信用できる、あの病理医は信頼ならない、みたいなレベルの話ではなくて、「この病理医が難しいと言っているからにはいつもと少し違う病態だから気を付けたほうがいいかもしれない」みたいな、けっこう長めのニュアンスが、診断書の署名ひとつから匂い立ってくるものなのだ。

ぼくはそういうのを一時期くだらないことだなと感じた、まるでバラエティ番組で適当なダイエット情報を語る美容外科医がきれいすぎる白衣を着ているときのようなマイルドな不快感を覚えたものだ。しかし今はわかる。膨大な量のコミュニケーションをくり返して医療を為していく我々は、ときに、「前提をいちいち言葉で説明しなおすことなしに、なるほどそこはそっちできちんとやってくれているんだよねと、お互いにのみこんで、プロセスの前半をふっとばしていく」というショートカットを必要とする。そのために「署名」は必要なのだ。同じことは「専門医資格」にも言えることだし、おそらく「博士号」にも言えることで、そもそも論としては「医師免許」にも言える。これらはすべて前提情報であり、あうんの呼吸を途中からスタートさせるためのロケットスタート用ターボなのだ。ぐだぐだ言ってないですべて取っておいたほうがいい。

2023年10月20日金曜日

医者には怒られるだろうが

出張から帰ってきてスーツを脱いだらすぐ職場のデスクに向かった。金曜日の夜にやりのこした外付けモニタの組み立ての続きをする。アームに取り付けてデスクの横に「生やす」。これで小さいノートPCの画面を拡張できる。が、先日買ったばかりの小さいPCはまだ接続できない。職場に新しいPCを持ち込むときにはいろいろと制限がかかる。「登録」の「申請」をするのにまだしばらく時間を要する。最終的にデスクが前より2段階くらいパワーアップするにはあと数日必要だろう。デスク周りの小仕事はここまで。出張帰りのカバンを整理しよう。いただいた名刺をフォルダにしまっていく。紙を手渡すこと自体におそらくなんらかの癒やし効果がある。癒やし効果だけある。中年をお互いに癒やすための紙のやりとり。その紙をしまいこむことで失われていく関係があり熱量があり、だから火照らずにやっていける。出張帰りにシャープの書いた本を読んだら、目次のところにわずか2,3行程度、Twitterが2023年のあるときからXと名称変更したのだけれども本書ではいろいろ考えてTwitterとかリツイートといった表記をそのままにしておくよ、という断り書きがあって、ああこれは編集者が入れたものかもしれないと思った。実際にはシャープが入れたものかもしれないのだけれどなんとなくそういうのはわかるよなあと感じた。領収書を捨てる。使わなかった指定席券を捨てる。ひととおりの紙ゴミを処分してインターネットを開くとトークイベントの告知がはじまっていた。11月14日(火)に京都の書店で大塚篤司教授と対談することになっている。彼の新刊『皮膚科医の病気をめぐる冒険」は大塚の臨床における問題意識がものすごくきちんと反映されたいい本だ。問いが強い。一対一対応するような答えが存在していない話ばかりを扱っている。それなのに一つ一つの話が「そこそこ軟着陸する」ことがすばらしい。これを問いとして放り出して終わっていたら読後感はだいぶ違っていただろう。ぼくは今回、茶化すでもなく盛り上げるでもなく司会に徹するでもなくきちんと「対談」をする。豆塚エリさんとのトークイベントやYouTubeにも言えることだが、ちかごろはとにかく、自分の全力を出せる場所があってうれしい。やれるだけやっていいよと言われていることがうれしい。全力を出してもどうせ足りないのだ。それがいいよ、それでいいよと言ってくれるのがありがたいと思う。


新しく届いたサブモニタを古いPCに接続してみる。画面が明るい。デスクが狭苦しく感じる。輝度を一気に「10」まで落とした。顕微鏡を見るときも明かりはだいぶ暗くしている。脳に届く刺激の総量を少しずつ絞るようになっている。先日、古い方のTwitterアカウントの新規フォロワー確認をまる2日忘れていた。そういえば血圧の薬も1日分飛ばしてしまった。それくらいでいいのかもしれない。医者には怒られるだろうが、ぼくはこれで十分、全力でやっていて、それでも取りこぼすものはもう、こぼれてしまってもしょうがないものだと割り切っていくしかないのである。

2023年10月19日木曜日

病理の話(828) 研修医の発表の予行演習を聞きながら思ったこと

大学を出て、医師免許をとって、すぐに医者になれるかというと、最近はそうでもない。「研修医」というシステムがある。まあ法律上は医者なんだけど(医師免許があればね)、病院の仕組みや医療のノウハウをつかむのにだいたい2年はかかるでしょ、ということで、最初の2年は「初期研修医」として勤務する。

この間、研修医だけで患者をどうこうするということは原則的にない。研修医の横に、あるいは壁をへだてた隣に、必ず「指導医」が控えており、耳をそばだてていたり、カルテをチェックしたりしている。だから患者さんも安心してください。「俺を診るのが研修医ってどういうことだ! ドン!」と机を叩く必要はありません。必ず上級の医者が指導してますからね。



さて。

研修医はいろいろな勉強をする。患者と話して情報を集める方法。血液検査のデータの解釈。CTやMRIの見かた。キズを縫ったり血管にカテーテルを入れたり尿道にバルーンを入れたりする手技。外科手術のサポート。麻酔の勉強。点滴の選び方。薬の処方について。カルテの書き方、ほかの病院の医者に手紙を書くときのコツなんてのも教わる。

そして、「学会発表」、「論文執筆」、すなわち研究の仕方についても学ぶ。

医者を続けていく上ではとても大事なことだ。患者とたくさん触れあって共感しながら薬を出して喜ばれればいい医者になるなんてことはあり得ない。「それで医者が勤まるんだったらどれだけラクな仕事だったろう」と、はっきり言う。もっともっと勉強しないと、病院の中にわざわざ医者という職種を置いている意味がない。コミュニケーションができる人はほかにもいっぱいいるのだ。「勉強」をするのが医者の大事な仕事なのだ。

診療の中で見つけた小さな疑問、あるいは小さな発見を、その場だけで終わりにせず、きちんと考えて他の人と共有して、医学の進歩にちょっとだけ寄与しつつ、自分の診療のレベルもちょっとだけ上げる。それが研究である。



学会で発表するとき、ぼくらは「パワーポイント」などを用いて紙芝居的なプレゼンを作成する。一例をあげると、こんなかんじだ。

患者がどうやって病院にやってきたか、何を困っているのか、これまでにかかった病気があるか、家族構成は、生活スタイルは、海外旅行に行ったことはあるか、今ほかの理由で病院にかかっているか、薬は何を飲んでいるか。

そういったデータをきちんとまとめて、わかりやすく提示する。

でもこれだけではないぞ。血液検査のデータだって羅列する。CTやMRIなどの画像もダウンロードして(個人情報山盛りだから許可がいるぞ!)パワポに貼り付けるし、超音波や内視鏡の場合は写真ではなく動画を用いることだってある。

そうやって揃えたデータをまとめて「考察」をする。自分はこのように考えた、ただしこれまでの常識と比べるとちょっと疑問に思うところがある、だからこういう追加の検討をして、紆余曲折を経て、最終的にこんな珍しい結果にたどりついた、といった風に、ストーリーとして語るのである。治療の結果がうまくいったかどうかもあけすけに話す。

医者は自分の体験した「患者との二人三脚」を、自分の心の中だけで留めておいてはだめなのだ。いや、個人の尊厳にかかわる部分は、守秘義務として誰にも話しませんよ、そうではなくて、患者の困り事の根っこにある「医学」の部分だけを取り出してきて、ほかの医者と共有するのである。

そうすることで、ほかの医者から、さまざまな意見が飛んでくる。そこはこう考えた方がよかったのでは? そこで別の薬を使ったらどうなったろうか? もっと早くこの病気に気づくことができなかったか? 現場でも悩んだ話をあらためて他の医者から指摘される。けっこう緊張する。自分はもっとよくやれたのではないかという後悔をすることもある。

でも、それ以上に、「医療の現場にはこれぞという正解がないこともある」ということがわかったりする。誰もが頭を悩ませるような難しいケースをみんなで考え抜くことで、お互いの知力が少しだけ高まる。そして、患者のためにフィードバックされる。

ね、研究って、とても大事だ。



さて、研修医は「学会発表」や「論文執筆」を、研修期間のうちになるべく経験したほうがいい。

ただ、経験の少ない研修医が、いきなりぶっつけ本番で、学会でしゃべるというのはいかにもしんどい。

そこで、勤める病院で予行演習をする。

うちの病院の場合、研修医が発表の予行演習をするときには、科に関係なく、さまざまな医者が集まってくる。神経内科医、循環器内科医、リウマチ・膠原病内科医、化学療法内科医、血液内科医、消化器内科医、呼吸器内科医、外科医、そしてぼく(病理医)。

自分と多少専門が違っていても、研修医の発表をみるといろいろと得られるものがあっておもしろいし、研修医に対していろいろな角度からアドバイスができる。




これまで研修医の予行演習を見てきた感想をちょっとだけ。

まず、パワーポイントのスライド(紙芝居)のデザインは、ぼくら中年より上手だ。PCを使い慣れてるなーというかんじ。

ただ、紙芝居の中に出てくる言葉の使い方が、まだ医者じゃなかったりする。そこは直す必要がある。でも些細な問題だ。みんな優秀だからすぐに覚えてくれる。

考察をすすめていく「思考の回路」はまだまだ発展途上である。それはそうだ。医者は一生勉強。経験を積めば積むほど、より広く深い思考ができる。知識の量も大事だが、思索を走らせた本数も大事だなと感じる。才能よりも努力が必要だし、できれば後天的に才能まで伸ばすことができたらもっといい。

そして、しゃべり方。

しゃべり方!

しゃべり方……!!

これが! ほぼ例外なく! 未熟!

一番訓練したほうがいいのはしゃべり方だ。これはいつも思う。

思考の訓練はぶっちゃけ医者は得意だ。なんとでもなる(ならない人もいるけどそういう人はそもそも学会発表や論文執筆などの研究をぜんぜんしてないし、きちんと指導も受けていないのだと思う)。

ただしゃべり方……こればかりは、かなり意識して訓練しないと、医者だというだけではうまくならないと思う。あきらかにみんなヘタなのだ。

アナウンサー的に、上手に発音できる研修医はいる。

YouTuber的に、魅力ある滑舌を披露する研修医もいる。

でもそういうことではない。

発音や声色の良さが大事なわけではないのだ。「医者としての語り方」が足りないのだ。まだまだぜんぜん、がんばってもらわないとなあ、と感じる。

当院の研修医に限った話ではない。全国どの学会に出ても、若い医者のしゃべり方は総じて「まだまだ」。ここが一番経験の差が出るように思う。

まあ歳を取ってもいまいちな人もいっぱいいるけど。プレゼンについてまじめに考えて訓練していないと、いくつになってもしゃべり方はうまくならない。



念のため書いておくと、学会発表の際には、まず思考を鋭く整えることが大前提だ。アホが上手にしゃべってもだめである。ただ、その上で、どれだけ美しい臨床医学を構築したとしても、しゃべり方がいまいちだと、うーん、「伝わらなくて惜しい」とかではなくて、もっと根本的に、「あっ、だめだな」と感じる。

極論すると、しゃべり方は思考の鋭さと表裏一体だ。「よく考えているなあ」と思ってもしゃべらせてみたらいまいち、というのは、申し訳ないが、「まだ考えが足りない」のだと思う。




ではどうやってしゃべり方を訓練するか?

研修医を見ていると、途中でしゃべり方があきらかにうまくなる人と、そんなに伸びない人とがいる。

その差はどこにあるだろう?



どうも、「しゃべった経験」も大事だが、「人のプレゼンをたくさん聞いた人」の伸びが一番いいように思う。これはぼく個人の感想だが、わりと誰に言っても納得してくれる。

「しゃべった回数」ではなくて、「しゃべった回数+聞いた回数^n(nは経験年数)」くらいの数値がたぶんしゃべりのうまさを表しているのではなかろうか。

たくさん受信して、よく吟味して、自分を振り返って発信のやり方を磨く、というのが一番よいのだろう。

そういえば、剣道の世界には昔から「見取り稽古」という言葉がある。見て取るのは大事なんだよなあ。

2023年10月18日水曜日

アニマの国の人だもの

パソコンを買い換えようとしている。じつはもう買い終わっていて手元にもあるのだが、いろいろとあってなかなか引っ越しがおわらない。

これまで大きめのノートPC×1台と、出張用の軽いPC×1台を使い分けていた。でも最近のPCは大きさの違いイコールほぼ値段の違いくらいしかないので、2台分の仕事をサイズが小さくてハイスペックなPC1台にまとめることにして、外付けモニタとアームを購入し、職場では大きめの画面に接続、いざというときはPCだけ取り外して出張、という形式に変えることにしたのだ。

というかいまどきのデスクワークビジネスマンはたいていそうだろ、と言われたら返す言葉もないのだけれど、16年間ずっとPC2台体制だった「自分のしきたり」みたいなものを変えるのにけっこうな運動量を必要とした。慣性に抵抗するのが一番疲れる。

現在、1TBの外付けSSD内にほぼ満タンに入ったデータを整理して、4TBの外付けハードディスクにうつしているところ。あれこれ選びながらの作業なので、別に仕事をしながらかれこれ10時間くらいかかっている。まだまだかかるだろう。

16年前に築地で研修していたときのファイル。20年前に大学院で使った勉強記録。医学部生時代に病理の地方会に連れていってもらったときの資料なども見つかる。「部屋の整理をしていたらアルバムが出てきて手が止まるアレ」をやっている。

これを書いている翌々日くらいから「ロード日程」がはじまる。研究会や学会はだいたい以下のような順序で参加することになる。明日からZoom、名古屋、Zoom、Zoom、東京、東京、俱知安、Zoom、Zoom、網走、札幌(あっホームだ!)、東京、Zoom、Zoom。だいたいこれで3週間。ほとんどの場所で画像もりもりのパワポを使って話をする。PCのデータが重くなるわけだ。




ほんとうは、1枚絵で1時間しゃべれる人が一番強い。あるいはイラストも写真もなしに、ソラで、講談師か落語家のように15分でビシッと笑わせて泣かせて何かを持ち帰らせる人が一番偉い。

「でもそれを科学でやるのはむりでしょ?」

いや、どうやらそういうわけでもない。先日から読んでいる羊土社『ストーリーで惹きつける科学プレゼンテーション法』の中にはこんなやり方が紹介されていた。

Flash Talks:制限時間3分、スライド使用不可、小道具使用不可。

Three Minute Thesis:制限時間3分、スライド1枚、小道具使用不可。

Three Minute Wonder:制限時間3分、スライド1枚あるいは動画、小道具使用可能。

TameLab:制限時間3分、スライド使用不可、小道具使用可能。

Perfect Pitch:制限時間90秒、スライド1枚。

これらはいずれも名のある学会や大学で、若手研究者が短い時間に自分の研究内容を手短に、並み居る専門家たちに語って聞かせるセッションの名前だということだ。

うーん、こんな訓練を頻繁にやっていれば、そりゃあ欧米の科学者たちはプレゼンがうまくなるよなあ。鍛えられる。

なお、科学者がしゃべって科学者が聞く取り組みだけではない。科学者が一般の方々に、短くサイエンスを語って聞かせる場もあるらしい。Science ShowoffにBright Club、さらにはStand up Science。これらは一般向けのコミカルな科学トークの場なのだそうだ。

日本ではほとんど聞くことがない(か、やっているのかもしれないが大衆に知られるほどの知名度はない)。手前味噌だけどSNS医療のカタチのYouTubeでの10分講座みたいなのって大事だよね。でも、ぼくも含めて、日本の科学者はどうしても、パワポのプレゼン枚数を増やす傾向になりがちだ。

くり返すけれど、本当はもっと、一枚絵でぐっと語って聞かせるくらいがいいのだろう。それこそがコミュニケーションのスキルなのではないかと、ぼくも思う。でも……それでも……ぼくらはアニメの国に暮らしているから……無数の画像でパラパラやって「ほとんど動いているかのように」「まるで生きているかのように」、アニマをほとばしらせながらしゃべるやり方に、惹かれてしまうし、そんなことだから、引かれてしまうのだ。


2023年10月17日火曜日

病理の話(827) スキーマの違いによる診断のずれ

「そこにあるものをそのまま見ること」は、極めてむずかしい。

今日は最終的に、人間の細胞を顕微鏡で見る難しさについて語ることになる。しかしいきなりそれを語り始めるといろいろ大変なので、まず、例え話から始める。


富士山といっても人それぞれ、脳内に思い浮かべるイメージが違うだろう。静岡から見るのと山梨から見るのとではそもそも輪郭が異なる。ただしそのような「立ち位置の違い」による変化だけではない。山梨県南都留郡山中湖村平野3222番地先にある長池親水公園のフォトスポットの、まったく同じ足形の場所に立って富士山を見たとしても、その日の天気や時刻によって見え方は違うはずだ。さらには、天気も時刻もすべて揃えて条件をまったく一定にしたとしても、

・それまでに富士山を見たことがあるかどうか

・それまでにほかの大きな山を見たことがあるかどうか

・雲や植生など、富士山のまわりにあるものについて詳しいかどうか

といった、その人がそれまでにどのような体験を経てきたかによって、見え方は変わるのではないかと思うのだ。



ビデオで撮影するのとは違う、視覚情報が脳に混ざり込んで思考と一体化することではじめて「見えた」という気持ちになる脳のしくみのために、「同じ場所に立てば全く同じ見え方になる」ということはあり得ない。



今井むつみ『学びとは何か』(岩波新書)の中で、著者の今井は、幼少期の言語習得について以下のようなことを言う。

「言語というのは、単語を覚えればすぐにしゃべれるというものではない。断片的な知識を積み重ねても役に立たない。平べったい肉の小片をペタペタ上から貼り付けて大きくしていくドネルケバブのようなやりかたではだめである」

イマイチな例示だなとは思うのだが、言いたいことはわかる。


写真引用:「ターキッシュエア&トラベル」のホームページより

https://turkish.jp/turkishfood/%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%90%E3%83%96/

あたらしい知識というのは、すでにその人の中にある思考回路のさまざまな事象と関連付けられる。たとえばぼくがセパタクローという競技を目にすると、それはバレーボールやサッカー、ドッジボールといった、すでに知っているスポーツと自動的に比べられ、「どこが同じでどこが違うのかな」「セパタクローだとほかのスポーツと比べて何がおもしろいのかな」みたいな感じで知識として蓄えられる。セパタクローを広辞苑で調べて、ほかの知識と連携させずにそれ単独で、脳の表面にぺたっと貼り付けても、セパタクローを本当に理解したことにはならない。

今井は「すでにその人の中にある思考回路」、すなわち何かを見て考えるときに用いる前提情報のことをスキーマと呼ぶ。

私たちが何かを見て考えるときに、そのものを単独で見て脳内にしまいこむのではなく、すでに持っているスキーマに組み込むかたちで、「新たな知識はすでにある知識のどことどのように関連するのか」といった感じで考えて配置するというわけだ。



話を一段戻すと、我々が富士山をみるとき、それぞれの人の脳内には、特有のスキーマが存在する。人それぞれに異なるスキーマに、視覚情報としての富士山が入り込むとき、たとえ物理的には同じ現象を観察しているのだとしても、各人のスキーマにどのように取り込まれるかはてんでばらばらだ。従って、「同じ富士山であっても人によって受け取り方が違う」ということが起こる。


話をさらに一段戻して、今日の本題はここからである。


病理医が顕微鏡で細胞をみるとき、「まったく同じ細胞」を見たとしても解釈が変わることがある。たとえば、食道がんのエキスパートで、食道の病変ばかり見ている人と、皮膚がんのエキスパートで皮膚病理専門医を名乗っている人と、婦人科病理の専門家で子宮頸部の病変に詳しい人がいたとして、この3名が「同じ咽頭の扁平上皮病変」を見ると、全員が異なる診断をする。

もちろん、一人が良性と言うものをもう一人が悪性と言う、くらいの(文字通り致命的な)ずれではないのだけれど、「前がん病変の診断基準が微妙に異なる」くらいの差が出てくる。

病理医は、そういう差がなるべく出ないよう、臓器ごとに「異なるスキーマ」を用いて細胞を見る訓練をする。しかしこの訓練は、日本語を母語とする我々があとから英語を学ぶのに似て、非常に難しい。きれいな英語を発音しているつもりでも、どうしても「日本人っぽいなまり」が出てしまうように、なるべく客観的に病理診断をしているはずが、ちょっと「なまっている」というか、ちょっと「偏っている」診断になる。

このずれをどう補正するかを極めているうちに、診断人生45年がゆるやかに過ぎ去っていく、というのがこれまでの病理医のキャリアであったように思う。

しかし今後は、もしかすると、AI診断技術がここを補正してくれるかもしれない。画像診断技術にはスキーマなんてものはないからだ! 完全に客観的な診断ができる日がくるかもしれない……!




……いや、待てよ。

AIが学習する「教師データ」に偏りがあれば、AIの判断もずれてしまうだろう。この「教師データ」とはすなわちAIにとってのスキーマなのではなかろうか?

2023年10月16日月曜日

ヤンデル先生

昨日は9時に寝てしまった。だんだん持たなくなっている。2時半ころに一度目が覚めた。もしや中途覚醒かと思ったが、異様に早く寝たからいつもどおり5時間半くらい寝たところで朝だと思って目が覚めてしまったのだろう。二度寝までに30分くらい使っただろうか。次に目が覚めたのは5時半で、通算8時間くらいは寝ているはずなのだが、途中でばっさりと睡眠を断ち切られたことでなんだかあまりお得感を味わえなかった。


ヒゲを剃っていると唇のまわりになにかできている。ヘルペスだろうか。中学のとき、体調が悪くなると口の周りになにかできるのだということを担任に話して、「ヘルペスでしょうか」って言ったら、担任は顔をまっかにして「えっ! そんなわけないじゃない!」とおろおろ否定した。今にして思うとあれはおそらく「ヘルペスといえば性病」だと思っていたのだろう。学校の教師が家庭の医学に精通しているわけもないので当然の反応といえば当然だ。その担任にはずいぶんといい話を教わった。しかし後年になって、「不完全な大人がよくもまああれだけ子どもにいろいろ十分に教えてくれたものだなあ」という、ワンクッション経たあとの感想のほうがむくむくと大きくなってきた。


とんでもない教師、とんでもない弁護士、とんでもない医者、とんでもない政治家、どれもひととおり出会ったり見聞きしたりしてきた。とんでもない先生連中というのは何をもって「先生」を名乗っているのかというと、それは当然「先の生を見せてくれる存在」ということである。どこで何を学ぼうが、誰にどう接していようが、善性だけで成り立っている先生などいないし、欠落だって偏りだってやまほどある、そういうものだという「少し先の人生で待っている小さな失望と安心感」を見せてくれる存在、それが先生であった。周りの大人はすべて本質的には先生であったが、そんな、自分の足りない部分を子どもに見せてよしと思うおひとよしなどめったにいないわけで、普通は取り繕い、隠し、作り込んで、見せかけようとするわけで、そこに「先生」という呼称がコショウのように作用することで突然「見せたくない大人」が「見せつける大人」へと変貌するのだからよくできている。


ぼくらはおそらく「先生」と呼ばれなければやりたくない仕事というのをたくさん持っている。陰口を叩かれる、後ろ指を指される、後年になって間違っていたと思い返される、それをわかった上でなおエイヤッと「ここはこうです。こちらが正しいです」と存在するはずもない正義を頭上に仮固定して、反駁される前提で先の生を見せてやる、そういう存在としてある程度の時間、輪郭を維持するために必要なコショウこそが「先生」という呼び名だった。


昨晩はたくさんの夢を見て、その中には未来を予感するようなものも含まれていたはずなのだが、二度寝する前に多少なりとも覚えていたものを今はすっかり忘れてしまった。先を見るために必要なのは能力や努力ではなく、誰かの献身、傲慢、反復、懐古、それを他者の視点から俯瞰して心がすっと冷えるときの熱エネルギーの遷移によって駆動されるなんらかのモーターのようなものにつながった燃費の悪いカメラのシャッターをけっこうな指の力でしっかり押すということではないか。その誰かというのが、先生なのではなかったか。

2023年10月13日金曜日

病理の話(826) 病理だとあんまりはっきりしないすね

胃カメラとか大腸カメラで、内臓の「粘膜」だけを切り取ってくる手術というのがある。イメージとしては、ピーマンのタネだけをスプーンでけずりとるかんじだ。ピーマン自体に穴は開けずに、中のいらないものを取り出す。英語の略称で恐縮だが、ESD(endoscopic submucosal dissection)とかEMR(endoscopic mucosal resection)などという名前がついている。なんでいきなり英語にすんだよ! と怒る人もいるだろう。でも粘膜下層剥離術って書くよりESDのほうが早くてラクじゃん……。


けずりとってきた粘膜は、小さいものだとUSBフラッシュメモリの端子部分くらい、大きいものだとマウスとか外付けテンキーパッドくらいの大きさになる。なぜPC周辺機器でたとえたのかは、この記事の執筆環境による。

テンキーパッド大の検体の表面には、凹凸がある。主治医は、この粘膜の厚みや模様などをハイビジョンのカメラ(むかしファイバースコープと呼ばれていたが今は単にカメラと呼ぶ)で拡大・縮小しながら巧みに観察し、盛り上がっているのはきっと中にコレコレの細胞が詰まっているからだろうとか、へこんでいるのは病気が下に潜り込もうとしているのだろうといったように、あれこれ考える。

すごく簡単に言うと、カタチの変化をとらえて病気を見抜き、そこをくり抜いてくる、という手順である。

そうやって取られてきた検体は、ホルマリン固定された後に、病理医の手にわたる。

病理医はホルマリン検体を見て、顕微鏡標本を作製し、内部に何が起こっているかを見極める。



このとき、たまにあるのが、「主治医が胃カメラや大腸カメラで見たときほど、粘膜の凹凸がはげしくない」という現象だ。

はっきり盛り上がっていたはずの病変が、実際に取ってくると「そうでもない」というのは、悩ましい。ホットペッパーや食べログで見たときにはいいお店だったのに、実際に入ってみるとなんかしょぼかった、みたいな感じ。いや、もっと悪い。なにせ取ってきたのは患者の病気なのだから。

「話が違う」は一大事である。

フラッシュメモリ端子大の粘膜片を見て、「なんか思ったほど派手な病変じゃないね」と心配になり、ほんとうにここに病気があるのかな? と悩みながら、顕微鏡をみる。

するとそこにちゃんと病気がある。

まずはホッとする。主治医の見立て通り、病気がきちんと取れていたからだ。よかったなー。

しかし、次の瞬間、「じゃあなんで見た目が変わったんだ?」ということが気にかかる。



この現象に対して、現代の病理組織学はある程度の答えを用意している。

一番有名なのが、「体の中にあるときと、切り取って体外に出してホルマリンに漬けたあととでは、検体の水分量が違う」というものだ。

人体のあらゆる組織は血流によって酸素と栄養を受け取っている。このとき、酸素や栄養だけではなく、同時に「水分」をも調整されている。血管内の液体は、そのつど細胞の間に流れ出したり、逆に回収されたりして、うまいこと循環して体を潤す。

この循環のはたらきは、手術で切り取られてしまえば当然ストップする。おまけに、検体をホルマリンに漬けると、検体から水分が抜けて代わりにホルマリンが浸透する。

するとどうなる? 端的に言うと「むくみ」がとれるのだ。

だからお腹の中のものを外に取り出すとカタチが変わることがある。



粘膜がゴツゴツと盛り上がったりべこんと不整にへこんだりした場所には「がん細胞」があるはずだ、という内視鏡診断学はシンプルでわかりやすい。しかし、実際に粘膜を盛り上げたりへこませたりしているのは、がん細胞などの病的細胞「だけではなく」、間質の水分量だったり、まわりにある正常の細胞の変化によるものだったりする。

究極的なことを言えば、がんがなくても、「炎症」があると水気は増える。蚊に刺されるとその場所が腫れたりむくんだりするだろう。そう考えると、単に粘膜が盛り上がっているとかへこんでいるというだけで、がんだろうと疑うのは「やりすぎ」だということがわかる。



主治医が、「あれーここに確かに病気があると思って取ってみたんですけど、ホルマリンにつけてみると、あんまりはっきりしないすねー……」と心配そうな顔をしているとき、組織から水分が抜けて見え方が変わったのだということ、そして、水気がない状態でなお「がんがありそうな所見」をいかに指摘するかということを、顕微鏡を見ながら解説する。

すると主治医は、「なるほどなー、じゃあ普段おれたちが見ているあの腫れは、がんじゃなくて水分によるものかもしれないわけか……」などと、自分の商売道具と見慣れた風景に対して、マニアックな思索を深めていくことになる。

2023年10月12日木曜日

バーレイデイズ

ローソンの一番安い麦茶を飲むと後味に独特の風味が残る。なにか記憶の奥底にあるものを引っ張ってくる。

最初は剣道部時代に道場で飲んだ麦茶の思い出かと思ったが、どうも違う。

昔の麦茶の香りはもう少し草っぽかった。ローソンの麦茶は上あごと鼻腔を冷やしにかかるような、もっと冷たく突き放した香りだ。

しばらく脳をなでまわしているうち、この香りは夜の風景を呼ぶなあと気づき、そこからはたと思い付いた。かつて、すすきのにあったバー。20年以上前に移転してからも何度かおとずれたが、その後次第に足が遠のいた、あの店だ。



ぼくはまだ20代だった。マスターバーテンダーは若造にも分け隔て無く接してくれていた――と当時のぼくは思っていたが、実際にはそうでもなかった。今はわかる。

たぶんぼくにはわりと適当な酒が出されていた。

ややレアで値段はそれなりに張るが、人気があるわけではないので棚の飾りになっている、そんな酒。

しかしぼくはぼくで、「埒外の酒」が出てくるその店のことをかなり好きだった。需要と供給がマッチしているとき幸せな商売が成り立つ。



ぼくはカクテルよりモルトが好きだった。おきまりのマッカランや山崎から入って、グレンフィディック、グレンリベット、グレンモーレンジ、クライヌリッシュ、バルヴェニー、ハイランドパーク、エドラダワー、ボウモア、アードベッグ、ラガヴーリン、ラフロイグ、タリスカ、ロングロー、カリラ(BARレモンハートにはカオル・イーラと書かれていてぼくは最初そう頼んだはずだ)……。ド定番のモルトを飲み分け、こっちのほうがヨード臭が強いとかこっちはバニラっぽいとかシェリー樽熟成だから香りが独特だとか、いわゆるスノッブを気取る「修行」をしていた。

味はひとつも思い出せない。今飲んでも何もわからない。

あのとき飲んでおいてよかった。名前に詳しくなったからではない。今はあんな度数の酒を飲んで起きていられるほど体力がないからだ。

人生で唯一、ウイスキーを(わからないなりに)楽しめていたのが20代だった。モルトだけではなくブレンドも、バーボンもカナディアンもアイルランド・ウイスキーも、もちろん日本のウイスキーも、片っ端から飲んでいた。ラムやジンもよく飲んだ。テキーラはほとんど飲まなかったがグラッパは飲んだ。

バイトも剣道もやっていたのにどうやって時間をやりくりしていたのだろう。当時は今よりはるかに多動で、多感なわりに鈍感で、始終ぴょこぴょこ首を伸ばして新しい自分が見つかりそうな場所にくちばしを突っ込んでいた。「この若さでバーの常連であること」「マスターからすすめられた酒は何でも飲めるということ」が若いぼくの自慢だった。マスターにとってはさぞかしかわいいカモだったろう。唯一このころのぼくが鋭かったなと評価できるのは、これをぜんぶ一人でやっていたということだ。デートでやっていたら相当気持ち悪かったに違いない。それくらいの分別はあったらしい。



モルトを片っ端から飲んでいくうち、マスターのおすすめは「古酒」や「限定ボトル」になっていった。ソムリエでもないぼくからすれば定番の酒が一番うまいはずなのだが、シングルモルトウイスキーソサイエティの樽だと味が違うとか、加水してない原酒(カスク)のほうが味が強いとか(それに水を足すと香りが際立つなどと教えられてまた喜んでいた)、はては○○記念ボトルだけ味わいがいいのだなどという話を全部真に受けて、変わった酒ばかり飲んでいた。そんなある日、マスターが棚の奥から出してきたボトルがあった。

「古いブレンドなんですけどね……」

そういって置かれたボトルはキャップもラベルもかなり古びていて全体的に赤黒い印象。たしかROCKET、もしくはROCKET BLANDとラベルに書かれていたと思うのだが、今日ググっても見つからない。

そのロケットはどういうお酒なんですか、とぼくはたずねた。

「もう手に入ることもないとは思うんですがクセがあります。どうします、ハーフで飲みますか?」

マスターはぼくの質問にきちんと答えていないが、ぼくは即答した。飲みます。ハーフで? はい、では味見としてまずはハーフで。

注がれたウイスキーはやや薄い琥珀色、だったと記憶しているがあいまいである。口を付けて数秒、おどろいた、味も薄い。ブレンドウイスキーだからモルトに比べるとマイルドに調整してあるのかと思った次の瞬間、飲んだノドの奥から強烈な戻り香が鼻にやってくる。その香りはまるで有機溶媒のようでぼくはびっくりしてしまった。

「うわっ……独特ですね」

言葉を選んでそう伝えると、マスターは苦笑うように言った。

「テイスティングの用語で、私があまり普段から使わないものがひとつあるんですが、このウイスキーはそれだと思うんですよ」

「なんですか?」

「……プロパン臭、です」

のけぞった。一度聞いたらもうその臭いにしか思えない。たしかにプロパンガスの臭いだ。何かの間違いかと思ったが、ウイスキーのテイスティングをするプロはたまに「ピート、バニラ、わずかにプロパン」のような言い回しをするのだとそのとき教えてもらった(今検索しても出てこないが、当時書籍でも確認した覚えがあるから、少なくとも当時は使われていた言葉なのではないかと思う)。本来はウイスキーの奥に潜む香りのひとつなのだろう。しかしこれは……。

「プロパン臭って聞いたらもうこれプロパンガスにしか思えなくなってきました」

端的に言ってまずい。マスターは何も言わなかった。ぼくはこの日、うまくもない酒のハーフに確か2000円くらいの金を払った。



それ以来、ぼくはウイスキーを飲むたびに、「プロパンガスの臭い」を探すようになってしまった。一度経験するとわかるようになる。シーバスリーガルやジョニーウォーカーなどの有名なブレンドウイスキーではあまりわからないが、もう少しマイナーなブレンドウイスキー(あえて名前は挙げない)だと、飲みやすい味の奥にほんのわずかにプロパンの影を感じることがある。

花の香りとかチョコレートの香りとか樽の香りを探し当てるならまだしも、プロパンばかりわかるようになってもあまりうれしくはない。なんとなく、その日を境に、ぼくのウイスキー狂いはなんとなく熱を失っていった。



20年以上が経過して、そのことをすっかり忘れていた今日、ローソンの安い麦茶を飲んで思いだしたのは、記憶のはるか遠方で手を振っているプロパン臭だった。

もちろん、麦茶からガスの臭いを感じるわけではない。しかしこの香りは程度の差はあれどあの日のプロパンと同一線上にあるのではないかと思われた。

原材料を見て納得する。麦茶ってなんの麦かと思ったら大麦なのだ。ブレンドウイスキーの成分のひとつであるグレーンウイスキーにも大麦が入っている。そこが共通点だ。たぶん、大麦の風味なのだろう。たいして保存状態のよくない、アルコールも少し飛んだ古いブレンドウイスキーの、大麦の香りが悪いほうに変性したものがあのプロパンだったのだと思う。


仕事場で麦茶を飲みながらぼくは若い夜の思い出にひたろうとした。しかし、アルコールのせいなのか、その後の人生でさまざまなノイズがブレンドされたせいなのか、マスターの顔、店の場所、当時それを飲んでいたぼくの顔、ほとんどを、どうがんばっても思い出すことができなかった。

2023年10月11日水曜日

病理の話(825) よかったけどよくはない

病理医が、ある病気を見つける。いわゆる「生検」と呼ばれる検査で。

食道、胃、大腸、肺、子宮頸部、子宮体部、胆管、膵臓……。

臨床医がいろいろな場所からちょっとだけ細胞をとってきて、それをぼくら病理医が見て考える。

この細胞はがんだな、とか。

この細胞は良性だろう、といったふうに。



臨床医が細胞をとるのはどういうときか?

診察や画像検査などをたくさん行い、よく吟味した結果、医者が「たぶんがんだろうな」とか、「がんじゃないと思うけど、できれば念のため細胞を確認したいな」と感じたときに、ここぞというタイミングで、細胞をとる。

つまり病理医に求められているのは、最後の確認だ。

病理医のひとことが決定打となる。

そのタイミングで病理医が「誤診」すると、たいへんなことになる。



臨床医が○○がんを疑った。病理医が細胞をみて、「おっしゃるとおり、がんですね」と言った。臨床医は納得! すぐに治療をはじめる。手術をしたり、抗がん剤をしたり。

ここで、手術でとってきた臓器の中に、がんがなかったら……。

大変なことだ。

とらなくていい臓器をとってしまったということだ。

あわてて、生検の細胞を見直す。

あのときはがんと思ったはずなのだけれど……よく見ると……非常に難しいが……これだけでがんと決め打ちするのは怖いかもしれない……。

これがいわゆる「病理医の誤診」である。書いていてぞっとする。



……「腕のいい病理医ならば誤診なんてしないはずではないか」?

理想をいえばそうだ。しかし、経験の長い病理医ほど、「検査の限界」を知っている。ちょっとした情報伝達のミスによって、ここまではっきりした誤診はしないまでも、ヒヤッとするような判断のずれが起こることは、……めったにないけど……ありうることだ。



「生検」というのはとても小さな組織片をとってくる検査である。小指の爪の切りカスよりも小さい。だから情報が少ない。病気の確定診断に使うには、本来、心もとない。それでも病理医はプロとして、わずかな検体から診断をする。

そんな事情のもとに、ときに病理診断においては、「がん疑い」という診断名が付けられる。

「細胞まで見ておいて、疑いとは、ずいぶんと弱気だなあ」。

たしかにそうかもしれない。でもぼくの意見は逆だ。そこで「強気」になることで、誤診が起こってしまうのだから。

「疑い」という診断名には一定の価値がある。

でも……価値があるのは間違いないけれど、やっぱり「疑い」というのは困った診断名である。

「疑い」どまりだと、臨床医は治療に踏み切れない。

ここはジレンマである。

臨床医も病理医も、とにかく慎重だ。患者に負担をかける治療、手術や抗がん剤や放射線などをする際には、なるべく確定した情報をもとに話をすすめたい。

「疑い」までしか病理診断できなかった場合には、たいてい、「再検」が行われる。

もういちど検査をくり返すということ。

「はっきりしたがんが見える」まで病理診断をやり直す。

当然の慎重さだ。

しかし。

誰もがじりじりとする。

患者はもちろんだが、主治医も、そして病理医も、「がんかがんじゃないのか、早く決まってくれ!」と感じる。



幾度目かの再検で、これはもう誰が見てもがん細胞だ、という細胞が検出される。このとき、病理医は思わず、

「やった! はっきりしたがんが出てきた! 良かった!」

と言いたくなる。そして1秒後にすかさず否定する。

「がんが出たのだから……良かったってことはないわな……うん……良くはないわ……」



でも、診断がつくかつかないかの宙ぶらりんで、いつまでも体の中に病気を抱えたまま、治療がストップしている状態にくらべたら、やっぱり、思わず「良かった!」と言いたくなってしまう。このへんの事情やニュアンスを、どうか汲んでほしい。がんで良かったってことはないんだけどさ。





ところで、ぼくがこれまでに習ってきたボスの一人は、生検でがんが検出されるたびに、「大変だ……」とか、「うーん、かわいそうに」とか、「出ちゃったねえ」と、悲しそうな顔をした。

それを見たぼくは最初、年間に何千人もの患者の細胞をみている病理医が、主治医でもないのにいちいち患者に感情移入しているなんてどれだけ情に篤いのかと、ずいぶんびっくりした。

しかし、医師として長くはたらくうち、自分が細胞をみて「がん」と名付けたあとにどれだけの人たちが苦労して対処していくのかを具体的に知るにつれて、いつしかボスとおなじように、「あちゃあ」とか「うーん」とか言うようになった。

そんな当時のボスも、むずかしい症例を「疑い」「疑い」で診断し続けたあと、ついに出てきたがんの「本体」を前に、思わず「良かった……捕まえたな。」と言ったことがあった。そしてやっぱりすかさず、「いや、良くはないけどな。」と言った。ああなるほどそうなんだなあと思った。




※本日は話の流れ上、臨床医がこれはと思った人からしか細胞をとらない、という語り方をした。ただし「健康診断」は別である。ぜんぜん具合が悪くない人から細胞をとってくる。この場合、病理医が仮に「がんだ」と言ったとしても、臨床医はまだその患者をきちんと見立てていないので、「病理医ががんだと言っているのであらためて検査をしますね」というように、いちから診察を組み立てる。病理医ががんだと言ったら即手術、とは限らない。

2023年10月10日火曜日

アシスタントが変わることで背景が変わる

伊藤園のリラックスジャスミンティーのラベルに「はなやぐ香り 花1.5倍」と書いてあった。なんのこっちゃと思ってあちこちひっくり返してみると、

「伊藤園オリジナル原料は一般的なジャスミン茶の1.5倍の花を使って香りづけしています」

とある。ジャスミンティーの原料はジャスミンの花だけではないのか。原料欄をみると、「ジャスミン茶(花、緑茶)」。緑茶にジャスミンの花で香りを付けていたんだな。

そりゃそうかと思いつついろいろ調べる。かつては烏龍茶よりもジャスミン茶のほうがいっぱい輸入されていたとか、ジャスミンというのはアラビアの言葉だとか、ジャスミン茶は結局のところ緑茶メインだからふつうにカフェインが含まれているよとか、あんまりこれまで意識していなかった系の情報がぽろぽろ出てくる。昔、息子と沖縄に行ったときにさんぴん茶がおいしいなと感じ、それ以来頻繁にデスクでジャスミン茶を飲むようになった。たしかこのブログでも前に書いたことがある。



――「このブログでも前に書いたことがある」が指から打ち出されている最中、精神の奥に両面宿儺のように控えているもう一人のぼくが、(「前にも書いたけれど」というエクスキューズは無意味だからやめたほうがいいぞ)と言う。確かになあと納得しつつ、そのまま打ち終わり、「無意味だから」でブレーキがかかることってそんなにないんだよ、と、ぼくは振り向きながら奥にいるぼくに伝える。奥のぼくは確かになあと納得してうなずいている。


これまでどこに何を書いたのかがよくわからなくなってきた。書評、ミニコラム、散逸する。検索もうまくワークしない。紙媒体だと絶望的だ。同じ事を何度も書いてしまっている。たぶん。検証ができないから推測でしかない。前に書いたときにどのように展開したかを記憶していない。うろ覚えで前回はこんな感じで書いたから今回はちょっと違うことを書こう、みたいに無理矢理調整している。いっそ、「前回と全く同じように書いてみる」というのをやってみたい。でも覚えてない以上はまったく同じにも書けないのだ。文章のにおいが似通っていて、あっこれ書いたなってニュアンスだけはわかるのだけれど、それ以上には深まっていかない。事実という緑茶にニュアンスの香りをつけたものを飲み終わると、事実はふっとんで香りだけが残り、その香りも次第に鼻の奥から消えていって、最後には事実に含まれたカフェインがにぶく精神を撫でて終わる。


あだち充は過去に描いたマンガの筋をどれだけ覚えているのだろうか。じつは毎回、「まったく同じものを記憶のままに描き直している」のだけれど、記憶がうすれてしまっているために細部から崩れて、最終的には別モノになっている、という可能性はないだろうか。もしくは、担当編集者がうつりかわったり、チーフアシスタントが入れ替わった結果、微細な反応の違いがカオス的にふくらんで結果として別の物語になっているだけ、ということはないのだろうか。

2023年10月6日金曜日

病理の話(824) 形態からロジックを進めていくタイプの病理診断とロジックによりあらかじめ形態を予測するタイプの病理診断

病理診断は「形態診断」である。こむずかしい言葉を使ってしまったが、ずばり「細胞のかたち(形態)を見て診断をする」ということだ。

病理医にとっては、

「虚心坦懐に細胞のかたちをながめる」

ことこそが仕事の本質といえる。


病院にやってきた患者は、自分の言葉でいろいろと悩みを語る。主治医は診察や検査を通じて患者の内部に何が起こっているのかを推測する。患者と主治医(はじめさまざまな医療スタッフの)二人三脚ならぬ「n人 n+1脚」の奮闘の過程で細胞が採取され、病理医のもとに届く。

その細胞にはさまざまな「経緯」がまとわりついている。

病理診断の依頼書に、「この患者はこれこれこういう流れで病院に来て、今のところこれくらいの検査を終えており、主治医であるワタクシはこのような病気を考えていますよ」という情報が書いてある。これが「経緯」。

病理医は「経緯」を見て、しかし、いったん見なかったことにする。そして精神の重心をゼロ座標に置き直し、虚心坦懐に細胞をながめる。事前情報なしで純粋に細胞をみる。そこから得られる純然の形態学的情報を精査する。臨床の流れからは独立した、病理医だけの、病理医にしかできない判断。ここに病理医の強みがあり存在意義がある。

臨床現場が見落としたもの、臨床現場が勘違いしているもの、臨床現場が解像度的に到達しえないものを、病理という孤高の部門が独自に見出し、育て、アナザーストーリーに編む。「細胞からしかわからない情報」を患者や主治医に渡す。


ある日、患者と主治医が「これは臓器Aに発生したがんだろう」と考えて細胞を採ってきた。しかし、病理医はその「経緯」を完全に無視して、純粋な「目の力」だけで細胞をみた。すると、Aのがんとよく似ているのだが、じつはBという臓器のがんの転移だということに気づく。細胞のかたちがほんのわずかに違ったのだ。「Aに発生したがん」と、「Bに発生してAに転移したがん」では、治療法がまるで違う。その違いを見極められるのは病理医だけ。

主治医と一緒になって、「どうせAのがんだろう」と思い込んでいると、Bからの転移という診断にたどり着けなかったであろう。細胞のかたちの違いは微弱だからだ。主治医たちが99%の確率でAの病気だと思っているときに、それをひっくり返せるのは、一切の経緯を無視して虚心坦懐になれた病理医だけ、なのである。


これが本質。


そして、しかし、この話と矛盾することなく、病理医はもう一種類の思考も行う。じつは病理診断の本質は二本立てなのである。


もう一本の思考は、端的に言えば「経緯を無視しない」ことによってなされる。

患者・医療スタッフ連合がこれまで積み上げてきたストーリーを捨てない。脇に置かない。それにしっかりと乗る。先入観をたっぷり抱えて細胞をみる。

いかなる「経緯」で細胞が採られてきたのか、その背景をじっくり吟味する。当然、主治医の思考をなぞることになるが、なぞって同じ中間地点で立ち止まっては意味がない。「主治医が考えた先に病理医として歩むと、細胞はどのように見えるはずなのか?」というところまで考える。主治医よりも長く考える。「経緯がこうなのだから、こんな細胞がとられているべきだ」という目。色メガネをかけると言ってもいい。

「こういう細胞が見えるはずだ」と、思い切り重心を移動させ、勢いをつけて細胞をみる。臨床医の動きを察知してそれを乗り越えていく感覚。剣道でいうところの「後の先」に近い。後から動き出したのに先に打突する。

こちらもまた病理医の仕事の本質ではないかと考えている。



以上の二つの思考を整理する。

(1)「形態をみる→ロジックを思い浮かべる」という思考と、

(2)「ロジックを組む→形態で確認する」という思考。

この両方が病理診断において走っている。


たとえば上部消化管内視鏡生検(一般的に胃カメラと呼ばれるもの)で細胞が採取され、病理診断を行う場合、私はこのように考えている。

【形態→ロジック】(無心で細胞を見て)「核異型があるがフロント形成が甘い。背景に炎症細胞が多数認められることを加味すると、炎症に伴う再生異型だろう。ただし粘膜の深部で化生腺管とするにはやや違和感のある涙的状の小構造物があるのが気にかかる」

【ロジック→形態】(依頼書を読んで)「ピロリ菌現感染の患者、胃角付近の小弯に発赤陥凹局面。炎症性でよいと思われるが単発のため、念のため生検。十中八九は炎症性の所見が出るだろうが、横這い型の胃癌が中層や深部に這っているとしたら気を付けて見なければいけない」


この両者は同じ検体を見つつ「違う脳の使い方」をして走らせた二本のプログラムである。これらのプログラムはいずれも同じ帰結へと導かれる。

「標本を切り直し、深切り切片も作成して情報を増やし、極小のがんを見つけるための努力をもう少し加えるべき」。



最後は、病理医以外には何を言っているかよくわからなかったかもしれないが、雰囲気だけ掴んでいただければと思う。


A→B→Cという思考と、B→A→C'という思考を、なるべく互いに独立した状態で走らせて、それで結果的にC=C'だったら診断がすごく強固になる。

さらに言えば、振り返り・学習や、研究会での発表、学会での講演などの際には、「結論(診断)がついている症例からふりかえり、臨床現場ではどのようにロジックを組み立てたらこの結論にすばやく・正確にたどり着くことができたか」をなぞっていくこともある。

C→A→B、もしくはC→B→A的思考ということになろう。

なんなら、この思考も診断の際にちょっとだけ走らせている。二本のプログラム+バックグラウンドにうっすらと三本目のプログラム。

「細胞を虚心坦懐に見つつ、主治医と伴走する思考回路も走らせつつ、脳内の数%では理屈を越えた部分から超然と湧き出た診断C、C'、C''、C'''……を思い浮かべており、それぞれのCだったらどのような細胞が『見え得るか』、どのような臨床像を『取り得るか』をぼんやりと考えている」



最後のやつは余計だったかもしれない。気を付けないと誤診の元にもなる。意図的にこれをやっているうちはいいが、無意識で「理想の診断」に引っ張られているようだと危ない。そういう話を研修医にする。ぽかんとされることが多い。

2023年10月5日木曜日

クオリティからぼく降りてぇぃ

おはようございMAX。おやすMINIMUM。睡眠が足りていない。日中だるい。寝ている時間自体はきちんと7時間とか8時間とかもうけているはずなのだが、いわゆる、「睡眠の質が悪い」というやつなのかもしれない――。

この「睡眠の質」という言葉が、難儀だなと思う。つい使ってしまうが。


睡眠に質があること自体は医学的にもまちがいない。体感的にも質があると感じる。しかし、質がいい・悪いと口に出した途端に、シェフとかパティシエの気分で睡眠を吟味しなければいけない圧がかかってきて、それがしんどい。

質を客観評価することによる副反応。

なるべくいいほうにもっていかなければいけないムードが発生するということ。

中くらいの質なら十分だよ、というスタンスが取りづらい。それなりでいいんだよ、が言えなくなる。本来は「そこそこやりくりする」くらいでいいはずのこと。睡眠なんてのは「その日できた限りの睡眠でいいし、それでやっていける範囲で日中すごしていこう」くらいで語り終えてしまってよいものではなかったか。人体とはそれくらいの活動幅を担保してくれるシステムではなかったか。しかし、世の中に「睡眠の質」というワードが広がって以降、睡眠に対する半端な姿勢が許容されなくなったように思う。

いい睡眠をしたい、はわかる。

睡眠をよくしましょう、にはうるせぇなと感じる。




先日から札幌駅周辺で何度か飲み食いしているのだが、選んだ店がどれもいまいちだった。これは単にぼくが感染症禍の間に飲食店の情報をアップデートできなかったためなのかと思ったけれど、どうやらそうでもないらしい。同世代の友人・知人にたずねてみたところ、札幌駅まわりの再開発に伴い、周辺の居酒屋がだいぶごちゃごちゃ変化している最中のようで、ホットペッパーなどで安易に探さないほうがいいという結論になった。

さすがに駅・地下街直結のでかいビルに入ってるような、やや高めのド定番の店は盤石のようだが、土日は観光客まみれでオペレーションがぐだぐだになってしまい居心地が悪かったりするし、かと思えば平日は異様に人が少なくて店側が仕入れをサボっていて料理が出てこなかったりもする。まるで観光地のようではないか(内地の人間は札幌を観光地だと思っているが、北海道が観光地なだけで札幌は違うと思っていた。でももう違うのだろう)。

ホットペッパーだけを見るとどこもすごくきれいだ。しかし単に写真の加工がうまいだけ。魚介の品揃えが少なく、現地のお酒はぜんぶ売り切れ。東京で仕事をした夜に、予約をとらずに混雑する町をぶらつき、空席があるというだけで適当に入ったチェーン店の残念感がフラッシュバックする。「札幌なら何食ってもうまい」というのは幻想になってしまった。

……というようなことを話していたら、一人が言った。

「ネットで店を選ぶとはずれる。インスタならいわゆる口コミだから大丈夫、みたいなライフハックも通用しなくなっている。インスタが上手なだけの店が増え、ステマも巧妙で、検索には手間とセンスが必要だ。実際に体験した人から直で聞く口コミの価値が相対的に上がっている」

はーなるほど。

「あと、これは俺の印象なんだけど、『質で勝負』を声高にいう店は今全体的にヤバい」

ああ……ぼんやりしてるけど言いたいニュアンスはわかる。

産地直送、朝市直結、魚介に自信! みたいな店の、メニューの品揃えのしょぼさや接客の雑さ、掃除の行き届いてなさを見て、「質で勝負」ほど安易な売り言葉もない、ということをふわっと味わった。彼もそういうことを言っているのだろう。

なにかの質の良し悪しを語ることは「手品師の左手」だ。なにか派手な動きをすることでほかのすべてから目線をそらすためのテクニックである。

以上の話の裏を返すと、最近のぼくがいかに「質のいい店」を探そうとして失敗しているかということでもある。




「なんとなく感じがよいところ」というのをもっと大事にしたほうがいいのかもしれない。いい店に出会いたければ自分で足を運ぶ。当然のことだがネットになれすぎていた。インスタのうまさに騙されない。料理、接客、店内のきれいさ、みたいな「ステータス」を各個に思い浮かべてひとつひとつ採点しはじめた時点で、ぼくはいい店に出会う縁を失っていた。「まーまーいい感じのラーメンを食べた」みたいなことをエッセイに書く、燃え殻さんのやりくりは上手だな、とあらためて思った。

2023年10月4日水曜日

病理の話(823) 病理医のインストールとDLC

いつも以上に主観的なことを書く。

だいたいひとつの職場に15年いると、その職場で体験しがちなシチュエーションや、求められる職能・スキルの「インストールが終わる」。


たとえばぼくの場合、当院でかなり頻繁に施行されている胃や大腸の「生検」と呼ばれる検査について、あれこれを習熟するのに10年ちょっとかかった。内視鏡医がどういう場面で、どういう患者からどのように検体を採取して、それをぼくらがどのように診断すると患者のためになるか、という「セット」がまるまる身につくのにそれくらいは必要だった。

正直、こんなにかかるとは思っていなかった。

なにせ、「胃生検標本の見かた」みたいな本はたくさん出ているし、「大腸の炎症性腸疾患の考えかた」みたいな雑誌の特集もいっぱいあるわけで、これらをさっさと極めれば、もっと早めに独り立ちできるだろうと考えていた。

じっさい、教科書と首っ引きで顕微鏡をみる訓練は、せいぜい3年とか5年もやれば一定のレベルに達する。ぼくより座学が得意なタイプだったらもっと早かったかもしれない。1年も経たずにある程度標本が見られるようになる病理医も多い。もともと情報処理能力が高い人たちが病理医になるのだから、当然といえば当然だ。かんたんに言うと「頭がいいんだから頭を使う仕事はすぐできるようになるはず」である。

しかし、顕微鏡像を見て考える知識自体は5年で手に入っても、それを病理診断というかたちに落とし込む仕事や、さらには「主治医とコミュニケーションをとって病理診断をよい医療に結びつける仕事」を自然にこなせるようになるのに、もっと長く時間がかかった。

ぼくは5年目くらいのときに、「よし、これでなんとか病理医っぽく働けるぞ」と思った記憶がある。しかしそこからの道は険しかった。

主治医が悩んでいる難しい症例では、病理診断も難しくなりがちだ。教科書にあるような典型的な細胞像や細胞の配列を来していない。そのため、「主治医が悩んで病理医に電話をかけてきたときほど、病理医であるぼくも悩んでいてなにも言えない」みたいなことがよく起こった。

これにずいぶんと悩まされた。

臨床医が悩んでいるときに一緒になって悩む病理医なんて、「存在価値」がないのではないかと感じたからだ。

レベルアップの必要性を感じ、ぼくの場合はそこから臨床医のものの考え方(臨床医学)を追加で自分にインストールすることを選んだ。追加コンテンツである。

ただ、それらの追加のおかげで今しっかり働けるようになったのかというと、どうもそういうわけではないんじゃないかな、と思うのだ。そもそも、5年の段階でインストールが終わっていたというのが「誤認」ではなかったか。


教科書に載っている細胞の写真と向き合うのに5年。しかしそこでじつは「専門知基本セット」のダウンロードはまだまだ終わっていなかった。現実にいる患者からひとつながりになった先にある「生きた細胞」(※採取した時点で死んでいるのだが)を見ることには、問題集や写真集から得られる情報量と比べてかなりの差があった。その膨大なデータを処理するためには、

・現場特有の、主治医の考え方

・現場でありがちな、細胞の見え方

・あるバックグラウンド(背景)で、ある選択圧がかかった状態でやってくる患者の傾向と、それにあわせて出現する細胞のニュアンス

などを、「リアルに経験して」学んでいく必要があった。ダウンロードもインストールも5年で終わるわけはなかった。



そして、これらのインストールがようやく終わった今、思うことがある。


アプデがめちゃ多い。毎週のようにバージョンが更新されていく。追加ダウンロードコンテンツ(DLC)も豊富だ。現在現場生活16年、医師生活20年(途中大学院に行っている)で、ようやく基本セットをコンプしたかしてないかといったところ。先は長い。奥は深い。課金……ウッ頭が……。

2023年10月3日火曜日

ストーキングバロメーター

ツイッターのフォロワーが毎日減っている。ツイートの表示回数もあきらかに減っており、ツイート回数が少ないせいというのもあるかもしれないが、おそらく認証していないアカウントだと今までほどの閲覧数は得られないということだろう。「課金勢へのひいき」がはじまっている。運営側の当然の権利だし、みんなもそれをわかって課金をしているのだから極めて健全なことだ。

ぼくが発信力をもはや持たないことを、ぼくの周囲にいる人たちも感じ始めたらしく、いままで頻繁に飛び込んできた「拡散を手伝ってください」系の案件がぱたりと止んだ。数字という価値でつながっていた人びととの縁が少しずつ切れている。

それは悪いことだとは思わない。ぼくだって「数字」のない人には仕事を頼まないのだからお互いさまである。

先日こんなことがあった。ある金曜日に、ぼく宛の連絡を代わりに受け取った人が、週末をはさんで月曜日にぼくにそのことを伝達してきた。土日が休みだというのはわかるが、だったら金曜日のうちにメール一本入れておけばよかったのに、と思う。まあ、金曜日の夜、時間外に受け取った案件を消化するのに土日を挟んでしまったということなのかもしれない。ならばしょうがない、社会人としては十分対応してくれている。でも、そのスピード感を当然と思っている人と仕事をすることで、土日もフルに使って診断以外の研究・教育・社会へのコミットをしているぼくの案件は渋滞する。その人が悪いわけでは全くないがぼくとの相性がよくない、具体的には「日数に対するセンスが噛み合わない」。なので申し訳ないがもう一緒に働けない。

これだって要は「数字」で人を切っているということだ。いい人だから一緒にはたらく、悪い人だからはたらかない、みたいな基準を採用していない。ぼくがツイッターにおける影響力を失って、そこを頼りにしていた人たちが離れていく、それと全く同じことを、ぼくも人に対してやっている。



ずいぶん前から一緒に仕事しましょうと言われていた人の案件をツイートするために、たまにツイッターを起動していくつかツイートをした。散発的に人が見に来て、かつての期待値ほどではないけれど幾人かの元に届いていく。それを見たのだろう、ふだん沈黙しているストーカーたちが元気になって、ぼくがエゴサするであろう単語をこれでもかとしのばせた誹謗中傷のツイートをして、法的処置を怖れて数時間後に消す。わりとどのストーカーもそういうことをする。ストーカーが沸くのは数字が見えるときだけだ。ぼくの声がどれだけ世に届いているのかのバロメーターのひとつが変質者の数である。

数字からは逃れられない。勉強をした時間、覚えている病気の数、診断してきたプレパラートの枚数、出してきた論文の本数、これらを元に給料をもらっているぼくが、いまさら、SNSでは数字以外の価値を求めていきたいなんて、往生際が悪いのかも知れない。ストーカーすらぼくの数字しか見ていないのだ。さもしいことである。

2023年10月2日月曜日

病理の話(822) 時代とともに見たり見なくなったりするということ

時代はうつりかわる。


むかし、私が産まれる前の話、肝臓のがんは、「見つかったらもう全身に転移している」か、「亡くなってから解剖によって発見される」ものであったという。肝臓は俗に「沈黙の臓器」とよばれ、病気があっても症状として出にくい。

さらに悪いことに、当時は、肝炎ウイルス(B型肝炎とかC型肝炎とかいわれるあれの原因)が肝臓がんのきっかけになるということがわかっていなかった。そもそもこれらのウイルス自体が発見されていなかった。

どういう人に肝臓のがんが出やすいかがわからないと、「早めに検査する」ことができない。国民全員に毎年肝臓の検査を受けさせるわけにもいかない。


しかし、医学は少しずつ進歩した。肝臓にどういう病気をもっているとがんになりやすいかが、少しずつ突き止められ、肝臓のがんになりそうな人を集めて検査できる態勢が少しずつ整っていった。

そんな肝臓の医療の歴史において、ひとつめの大きなブレイクスルーが、「AFP」という腫瘍マーカーの発見だ。血液でAFPの値を調べることで、肝臓がんの多くがなんとなく見つかる。これはすごいことだ。

しかし、AFPの値が高くなってから見つかるようながんは、治療があまりうまくいかないことも多かった。AFPは今でも用いるけれど、がんの早期発見のためではなく、がんの経過をみるときに使うことがほとんどだ。

その後、決定的な変化がおとずれる。超音波検査の登場だ。近年は妊婦健診で赤ちゃんの手足や顔を見るときに使う、あの小さな装置が、肝臓のがんを見つけるのにかなり有利だということがわかった。

それまでは血管造影とよばれるレントゲン系の検査が主流で、登場して間もないCTやMRIも用いられつつあったが、とにかく大がかりで、気軽に行える検査ではなかった。その点超音波はとても気楽な検査だ。患者への負担もほとんどない(お腹を出して横になるだけだ)。

こうして、1970年代の後半から1980年代にかけて、肝臓のがんを「なるべく早くみつけて、早く治療する」というモチベーションが巻き起こった。



このころ日本では、千葉や久留米の大学から、「肝臓に針を刺して細胞をとる装置」が相次いで開発・改良された。超音波で肝臓を検査し、あやしいカゲが映っていたら、病気っぽいところを注射針のようなもので刺して、細胞をとってくる。それを病理医が見てがんの診断を付けてから手術で病気をとる。

流れるようなシステムによって、2 cmに満たないがんが次々と発見された。それまでの時代に見つかる肝臓がんの多くは5 cmを越えており、ときに10 cm以上で、見つかったときにはもう破裂してしまっているなんてこともあったから、非常に大きな進歩だ。

この時代、病理医は次々と肝臓がんを検査した。多くの知見があつまり、専門的な研究会がいっぱい開催された。

がんだけでなく、たくさんの肝臓の病気が同時に調べられた。

超音波、CT、MRIにどんなふうにカゲが映っていたら、細胞はどんな感じなのかという、「照らしあわせ」が猛烈な勢いで進んでいったのだ。


そして医療の進歩はさらに、思いも寄らない方向に進む。

画像診断のキレ味が上がりすぎて、特にMRIを用いると、「事前に細胞を採取しなくても、それががんかがんでないかがほぼわかる」というすさまじい精度が達成された。そうなるともう、肝臓に針を刺して細胞をとってくる必要がないのだ。もちろんすべての病気で細胞の検査を省略できるわけではないので、ここぞというときには病理医も細胞をがんばって見るのだけれど、肝臓の針生検の件数は激減し、その結果、「肝臓の病気が得意な病理医」の数も少しずつ減り始めた。

そして……今ではなんと、画像だけでがんと診断したあとに、手術をせずに病気の部分だけを焼いて直してしまう、「ラジオ波焼灼療法(RFA)」という治療が存在する。使い所がある程度限られているので、ぜんぶの病気を焼いて倒せるわけではないのだけれど、一部の典型的な肝臓がんなどは、


・MRIで確定診断 → RFAで焼いて治す


という流れでコントロールできるようになった。すばらしいことだ。

そして、がん手術の件数が減るので、いよいよ病理医は肝臓の病気をみる機会が減る。


令和の「肝臓病理診断」は非常に高度である。特殊ながん、教科書にはあまり書いていないタイプのがんを見ることがけっこう多い。50年前にいっぱいあった、「普通の肝臓がん」は、検査もせず、手術もせずに治してしまうことが増え、「診断が難しい肝臓がん」の比率が相対的に高まっている。

そして、細胞をみることなく診断と治療を進めていくことで、「細胞のことをよく知らない主治医」が増えた。肝臓がんを観察した超音波の白黒画像が、なぜ特定のパターンを呈するのか、説明できないドクターが増えている。余計なことを覚えずに、PythonやAIの勉強をしたほうが将来の役に立つのだから、それはそれで、効率がよくてすばらしいことではある。


そしてぼくはときどき昔の論文を読む。

「細胞を見る回数が減った分、学びきれなくなった話を、先輩たちの研究を通して確認しておくため」である。

現代の肝臓病理学は中級編以上しか存在しない。初級編がない。日常的に診断をしていても難しい症例ばかりと出会う。「かつての典型例」はだんだん論文の中にしか存在しなくなる。勉強でそこんところを補う必要がある。医学が進歩すると勉強が難しくなるのだ。これはどんなジャンルでも起こっていることである。