2020年7月31日金曜日

そういえばモンゴル

「らおやのラジオ」をよく聴く。

https://www.youtube.com/channel/UCvbYsh8D4EczEjzQo0u_WQg

第5回のなかで海外旅行の話がでてきた。

パーソナリティのらおやさんが、「ヨーロッパやアメリカ方面に行ったことがない」と言っていて、ぼくは(他人事ながら)うんうんとうなずいた。ラジオは他人の話を自分事のように聴くのが楽しむ秘訣である。



ぼくはアメリカに2度しか行ったことがない。1度は子どもの頃なのでほとんど記憶にない。なにせVHSビデオですらない「8ミリ」の時代の話。

もう1度は大学院時代に先輩の発表を見に行った。いちおうニューヨークをふらふら歩いたはずなのだが、あまり記憶に残っていない。ヤンキースタジアムは試合をやっていなくて閑散としていた。

そしてヨーロッパには一度も行ったことがない。

なかなか海外に行く機会がないな。パスポートも「取っただけ状態」だな……。もっと海外に行っておけばよかったな。

しかしその後らおやさんが、「いつかアラスカやチベットに行きたい」と言っているのを聞いて、あっと思った。

ぼく最近、仕事でモンゴル行ったじゃん。それも2年連続で。




モンゴルはぼくの中では「海外枠」に入っていないのだろうか?

仁川空港で乗り換えて半日がかりで入国して、あのときは確かに「海外だなあ」と思ったはずだ。

でも誰かが海外旅行の話をしているとき、そこに「ぼくもモンゴルに行ったときにはさあ」と自分の話題を共有することを忘れてしまいがちである。

たった今思いだしたけれどぼくはシンガポールにも行った。あれも今の話の中では完全に記憶の外だった。おかしいな。けっこう海外行ってるじゃん。




別に気取ってるわけではない。ほんとうに忘れてしまうのだ。誰かが語った話題に、「ぼくもそういうことあるよ!」と乗っかることを忘れてしまうのだ。




ある宴会で数人がパンケーキの話をしていて、そんなおしゃれなもの食べたことないよ~と言った日の昼飯がパンケーキだった、ということがある。出張先で、小腹が空いたときに入った喫茶店でパンケーキを出していたので昼ご飯にした。そしてけっこうおいしかった。なのに夜にはその記憶が完全に飛んでいた、

あのときはさすがに自分の海馬がニフラム食らってるのかと心配になった。

どうもぼくは他人が楽しそうに話している「ここぞという話」を自分のエピソードと照らし合わせるのが苦手なのだろう。

小さい頃からずっと野球をやっていたんですよと語る外科医に話を合わせて、「確かに体力ありそうですもんねーぼくなんかそういう経験はぜんぜんないからだめだな」と言った5分後に、その外科医から「そういえば市原くんは剣道やってたんじゃなかったっけ? 大学時代。」と話をふられ、ええ小学校からずっとやってましたねと答えたところ「俺より長ぇじゃん……」と言われて場の空気がチルドくらいの温度になったことがある。





かつてはこうじゃなかった、自分が経験してきた数少ない「武勇伝」のどれが他人との会話に使えるのかをむしろ必死で探すタイプだった。がんばって想い出そうと思えばいくらでも出てくる、高校生クイズの敗者復活戦での話とか、修学旅行の自由行動であんなに遠いところまで行ってしまった話とか、大学時代にドライブでどこまで行って何をしたのかとか……。

でもそういう話が日常会話でスッと出てこなくなった。単なる忘却というよりももう少し強い、「自分の思い出を人前で楽しそうに語るのはやめておこう」という呪いがかかっているかのようだ。





呪いという言葉を使ってしまったがぼく自身そこまで問題視してはいない。ただひとつだけ不安になるのは、ぼくの中にそれなりに楽しくしまってあるはずのアレコレの思い出たちが、他人との会話目的はともかくとして、自分をなぐさめるために引っ張り出すことすらできなくなったらいやだなあ、ということ。それはちょっともったいないなあ、と思う。カメラロールを見返していて思う、モンゴルは本当にいいところだったのだ。

2020年7月30日木曜日

病理の話(438) また来たくなる病理検査室

今日のはどちらかというと日記に近い感想文みたいなところがあるので、最初にお断りしておこう。狭い観測範囲からの結論ですみません。





ぼくは今年で医師免許取得後17年目だ。ただし、常勤の病理診断医としての経験にしぼると、13年目ということになる。医学部を卒業後、すぐに大学院に進んで博士号をとったのだがこれに4年かかった。

24歳から28歳まで、大学の病理学基礎講座に所属していた。学部も大学院も北海道大学だったから、母校には10年通ったことになる。義務教育より長く大学にいた。

この4年間、研究ばかりをやっていたわけではない。マイクロピペットを持つかたわらで、病理解剖や病理診断をけっこうやった。だから大学院を出てからすぐに現場で働き始めることができた。

大学院時代は、(我が事ながら)若いなりによくやってはいたと思う。それでも、「けっこうやった」はあくまで「あのころなりにはやった」だったし、「ほぼわかった」は「あのころなりにはわかった」だった。そんなものだろう。これからもきっとそうだ。

大学院を出てから現場ではたらいて干支が一周した今、病理診断というものに対して、院を出たばかりのときにはわからなかった複合的な思いが心に蓄積している。現場には複雑なうまみがある。多少の味見では隠し味に気づけない。




あのころ、何に気づかなかったのか?




大学院にいたころ、病理診断について、「一定のスキルがあればクオリティコントロールできる事務作業」に思えることが多かった。

顕微鏡を見て考ええて診断を書く。大学に跋扈するエライスゴイ病理医たちに教えを請いながら、なるほどこの細胞像をみたらこう考えればいいのか、この細胞が出ていたらこのように診断書に書けばいいのかと、ひたすらくり返していけばそれで十分仕事になる。そう思っていた。

誤解のないようにいうと、もちろんそれで仕事になる。細胞を見て考えて書く、これは行ってみればコアスキルだ。

病理医という職業はたまに、「ほかにやりたいことがある医者」がお金稼ぎのために選ぶ職業として語られる。淡々とこなせる仕事だという印象がある。実際、そのように病理医人生を終えることも可能だ。一種の高度な事務作業としてやっていける。それで十分に患者の役に立つ。




大学院時代のぼくはぼくなりに、病理診断医が立脚する場所はどこか、両足ですっくと立って胸を張る場所はどこなのだろうか、と考えていた。

そして立つべきは「見て考えて書くこと」だと思った。

考えるためには学問が必要だから、基礎研究をやることは役に立つ。

顕微鏡を覗いて診断を書き、分子生物学の基礎も勉強して、これでまあ両足を置く場所が見つかったな、と思っていた。だから大学院を出たらすぐ病理医として働けるような気がしていた。




でもこれはたぶん「しょせんは人間の発想」だった。

そもそも世にある椅子もテーブルも足は3本以上ある。陸上生物の足は4本だったり6本だったりするだろう。2本だけで立とうなんて甘いのだ。ヒトじゃあるまいし。

顕微鏡を覗き込んで何かを思うほかにも、立脚すべき場所はあり、置くべき足はあった。

あっ、ほかにも足がいるな、と感じたのは大学院を出てすぐのこと。

その足の置き場がわかったのはそれから数年してから。

そこを言葉で言い表せるようになったのがついさっきである。





病理医としてやっていくとき、おそらくだが、ほかの臨床医と同じように「外来」を持つ感覚、というか覚悟が必要なのだと、唐突に思った。





そもそも病理医に限らずあらゆる医者は、医学や病気と向き合う仕事ではない

患者や患者を取り巻く人々と向き合う仕事である。

臨床医たちは病気の勉強をするし、患者の体に起こっている症状をどう解釈してどう解決するかを学ぶ。それに何年もかかるし一生を費やす。しかし、「外来」で医者が使うのは、病気の辞書的知識や治療のさじ加減だけではない。そこでは常に患者との会話があり、コミュニケーションがある。

病を診て人を診ずでは、患者は次からその医者のもとに通ってこないだろう。

優先順位として、「人を診るために病を診る」。ここまでは当然のことだ。

ただし病理医は特定の患者をもたない。患者の一部(臓器や細胞)、あるいは患者の全部(ただし死体)を相手にするけれども、生きた患者と話すことはない。これは、医療全域において、「誰かが病の専門家として特化しておいたほうがチームとしてうまくまわる」という必要性があってのものだ。

「病理外来」というのも一部の特殊なケースを除いて存在しない。

だからなんとなく、病理医は人相手の仕事ではないよな、という気になってくる。そういう専門職だよな、患者と合わない医者だよな、外来に出ない医者だよな、と。

そこが勘違いだった。

よく考えたら病理医は、患者の臓器を手に途方に暮れている臨床医と対話する。毎日のように。こちらの都合とはおかまいなく。

病理医は「(患者のやってくる)外来」は持たないが、「(医者のやってくる)外来」をオープンしている職業なのだ。






月曜日の朝、手帖をみたら、次のプレパラートが仕上がってくる午後までにやらなければいけない仕事はひとつもなかった。やったあ珍しい、午前中はヒマだな、医局でコーヒーでも飲むかな、と思って出勤した。

けど職場についたらメールが入っていた。学会発表を控えた臨床医からの問い合わせ、共著論文の手直しを相談してくる長文、あたらしくZoomではじめた研究会の相談。

片っ端から返信をしていく。顕微鏡をみる仕事ではないから片手間に? いや、これらのメールはいずれも、「ぼくの顕微鏡をみる能力を頼って、ぼくの元を訪れたクライアント」からのものだ。つまりは外来患者……じゃなかった、外来医者たちである。

外来というのはその日にどんな患者が来るか読めないところがある。予約をして訪れる再来と呼ばれる部分についてはある程度計算ができる? いや、患者自身の体調がどのように変化しているかは毎回予想がつかない。それに、飛び込みでやってくる、完全に初対面の患者というのも多く訪れるものだ。

そして病理外来も同じ事である。約束をして、今日のこの時間からじっくり研究の相談をしようねとアポイントメントを取り付けている医者ばかりがやってくるわけではない。

「ご無沙汰しております、○年前の学会でお目にかかって以来ですね。突然ですが胃の少し珍しそうな病気を一例見て欲しいのですが……」

こういうのは外来に飛び込んでくる新規の患者、じゃなかった医者だ。このような人たちにどのように知恵を出して仕事を進めていくか、ここに、一日の半分くらいの時間と、ストック量の半分くらいの知性を割く必要がある。毎日。日替わりで、予測不能なままに。




ちょっとマニアックなことを書く。

患者にゼロリスクの安心を与えることは、医者が本来やるべきことではない。医療とは不確実性の上にあり、現場で「絶対安心ですよ」を言えることはまずあり得ない。なぜならば、診断の本質は未来予測であり、治療の本質は複雑系への介入であり、患者の満足尺度というのは主観に左右され、運と偶然が彼我の解釈を左右するからである。

しかし、不確実性を患者と医者の双方が「呑んだ」状態であれば、無根拠な安心とは別に患者と医者が共有できる別の感情がありうる。

それは、偶然を理解した上での「信頼」だ。

「未来は読めない部分があるよ、当たったり外れたりする部分は最後まで残るよ、それでも、この主治医と一緒に歩いて行くならば、多少見えない部分までのみこんでもなお、大丈夫だと言えるよ」

これってたぶん理想の医療の一形態だと思う。まあ安心だとか信頼だとか、言葉の細かい部分にこだわるのは本意では無い(言霊的にももっと複雑だと思う)のだけれど、何が言いたいかというと、

わからないことまで含めて一緒にのみこんで歩こうという関係

はぼくの考える最強の外来の姿なのである。





さてこれを病理にあてはめることができるかどうか?

どうもぼくはできるんじゃないかな、と思っている。多くの医者たちとの間に信頼を築き上げながら病理医を続けていくために必要なのは「外来スキル」かもしれない。つまり病理医もまた、ほかの医者と同じように外来に出る覚悟が必要なのではないかと思うのだ。

2020年7月29日水曜日

鉄人があちこちにいるからなあ

「殴り書きのもの」と、「多数の人の手が入った文章」というのを読み比べている。

基本的には、後者のすごさを感じる毎日だ。




たとえば、学術誌で複数の専門家から指摘を受けながら論文を書いていくとき。

さいしょに一人で書き終えたときの「これで完璧だ」という自信が、いろんな人からバキバキ折られていく。あれ、しんどい。

「ここは学術的に証明されていないように思える」「これを昔言った人がいたからちゃんと引用した方がいい」「この写真の解像度だと細胞が見えない」。

「査読」の末に、直して直して直しまくって、受理された論文を最初に自分が書いた初稿と読み比べると、確かに読みやすく、学術的にもより妥当になっている。

悔しいがありがたい。



あるいは一般向けの書籍、文章、ブログ記事など。こちらは専門誌の「お手入れ」に比べると口調も手段もマイルドだけれど、実際、自信を折られるというより根こそぎ引っこ抜かれるようなショックを受けることがある。

「これでは一読してわかりづらい」「ここはダラダラ書きすぎ」「もう少し詳しく」「もう少しシンプルに」

言われたとおりにヒイヒイ右往左往したあげくにできあがった文章は、要点がつかみやすく、流れが途切れない爽快なよみくち。さすが文章のプロがみると違う。

ありがたいしへとへとになる。




で、まあ、このブログのように、なるべく一発書きで思ってることを書いていくほうの話。

重複表現はバンバン出てくるわ、句読点のバランスが前半と後半で乱れるわ、少し時間をおいてから読むと要点が省略されていてわかりにくかったりするわ、やはり人の目を通さない文章というのは荒くていかんなあと思う。

かつ、そういうところに、ぼくという人間のコアにあるざらざらとした凹凸みたいなものが現れているのだ、ということを強く感じる。

料理でいうと「調理せずに素材の味を楽しんでもらう」みたいなことになるのか?




世の9割9分の食品は、必ず加工している。たとえばおすし屋であってもそうだ。食材選びを吟味して、一番舌触りがよいように、味が伝わるように切って、加工した米と工夫したわさびを添えて、程良く握って、ときには上から何かを塗って、それではじめて「素材のうまさ」にたどりつくようにしてある。

素材の味をそのまま食う機会なんてぼくらにはめったに訪れない。海にもぐってとったウニをその場で割って口に放り込むことが許されたのは数十年前までだ(今やったら密漁)。野いちごだって何がついているかわかったもんじゃない(そもそも甘くない)。とりたてのトマトを丸かじりなんてしない(ワイシャツに飛ぶじゃないか)。



それでもぼくは文章だと、なぜか「素材」をときどきそのまま並べる。子どもが野山でとってきたまつぼっくりを並べて喜んでいる風景に近いかも知れない。採って出しの楽しさ。本人がよければそれでよい、たぶんこの表現を許されているうちは、ぼくはまだ文章という料理を楽しんでいられる、遊んでいられるような気がする。気がするだけなのかもしれないが。

2020年7月28日火曜日

病理の話(437) 細胞の何をみるのか

病理医は何をする仕事ですかと言われて、いろいろとひねった答えをしてきた。

「ぼくらは、主治医という孤独なファイターに専門的な知識で寄り添う参謀役。臨床医が将軍だとしたら病理医は軍師ですよ。」

フゥー! カッコェェー!

しかしまあそれはともかくたいていやっていることは「顕微鏡で細胞を見ている」のである。細胞を見てどう考えて、それをどう主治医に伝えていくか、という伝達部分について語ることが多いのだけれど、肝心の「細胞の何をみるか」「細胞をどのように評価するか」についてはたまにしか語ってこなかった。

だから今日はフゥー!とか言ってないで細胞の話を書く。




細胞は、ぷるんぷるんのスライム的存在としてイメージするといい(スライムベスでもいい)。

いろいろな形態を取りうるが、基本的にはスライムで考えてもらって構わない(バブルスライムのときも、スライムつむりのときも、スライムナイトのときもある)。



スライムの表面を細胞膜と呼ぶ。

スライムの中にはいくつかの構造が透けて見える。ただし、細胞は相当小さいので、顕微鏡でみるときには中身のいくつかをはっきり際立たせるために、色素を使って色を付ける。逆にいえば、色をつけていないものも細胞の中には入っている。この話はあとでちょっと触れる。

細胞を評価する上でとっても大事な「中身」はと呼ばれる。英語ではコアとよばずにヌクレウスnucleusと呼ぶが、まあコア的存在だと思えばいいだろう。なぜこの核がだいじかというと、これが細胞そのもののコントロールセンターにあたるからだ。中にはプログラム(DNA)が含まれており、このプログラムが適宜稼働する。

コントロールセンターの中には大量のプログラムがあるが、ひとつひとつのスライムが人生(スラ生)を送っていく上で、そのプログラムの全てを使う必要は無い。

たとえるならば、ぼくは今Googleで検索することで配管工事のやり方とかモチモチのパンケーキの焼き方とかクリスタの使い方などを調べることが可能だが、おそらく生涯にわたって配管工事をすることはないし、パンケーキもたぶん焼かない。「手に入るけど使わないハウトゥー」が世の中にはいっぱいある。

これと同じで、細胞……あらゆるスライムも、核の中に入っているプログラムの一部だけを稼働させる。具体的には、DNAをある方法で「読み込んで」、それに対応するタンパク質を作る。このタンパク質がほんとうにいろいろあって、各スライムはタンパク質を組み合わせて自分の体を作ったり、目や口を作ったり、毒を作り出してバブルスライムとなったり、ナイトを背中に乗っけたり(?)する。



さて、ぼくらがスライムを……細胞を顕微鏡でみるとき、まずざっとみるのは細胞の輪郭、形状。そもそもスライムなのかバブルスライムなのかスライムナイトなのかくらいは、輪郭をみれば予想がつくだろう。形態は、そのスライムの役割と対応している。スライムナイトはやはり何かを守りたいのだろうな、ということがパッと予想できるし、実際そのとおりの役割を果たしているものなのだ。

もっと詳しく見ていこう。

たとえば正常に働いているスライムナイトは、スライムの上にのっかったナイト部分が剣をもって、カブトを被っている。

しかしこのスライムナイトが「悪行三昧をはたらく超絶悪い奴」だったときには、剣がなんだかでかくてトゲトゲして凶悪な毒まみれの棍棒みたいなのにかわっている。

スライムの中にある核、その中にあるDNA=プログラムに異常があるために、タンパク質にも異常が現れる。タンパク質という部品をつかって体を作っているスライムは、異常なタンパク質によって形を変える。

剣がどくどくトゲ棍棒になってるぜ!

これを見つけることが病理医の仕事のひとつとなる。細胞そのものの形だけではなく、細胞の一部にあるタンパク質がおかしくなっていないかにも目を向けるのだ。

本当は剣は1本のはずなのに2本もってるな、とか。

ナイトをのっけているスライムも剣を持っているな、とか。

形態の異常にはさまざまなバリエーションがあるのでそこを細かく見ていく。



と、いうのを細胞学用語でいうと、

・細胞の輪郭(丸いか細長いか、切れ込みが入っているか)
・細胞膜の形状(膜がはっきりしているか見えづらいか、膜の厚さに不均一さがあるか)
・細胞表面にみられる構造の有無(細胞間橋があるか、線毛が生えているか)

と表現される。



ほか、コントロールセンターに異常があることを見るためには「核」をみればいい。サイズが大きいとか、DNA量を反映する色調が濃くなっているとか、切れ込みがあるとか、異常に分裂しているとか。



そして、スライムナイトが持っている剣や、スライムつむりがかぶっている貝がら(?)の、細かな部品の違いやエラーをみるためには、特殊な染色を駆使する。

免疫染色といって、スライム全体ではなくて部品だけをハイライトする特殊な染色を使うわけだ。

剣のツカの部分だけを染めるとか。

貝の突起の部分だけを染めるとか。

そういった工夫をして、スライムを丸裸にしていく……。





スライムはたいてい丸裸だけど……。まあそういうことをやっているのが、「病院の軍師」である病理医です。はゎゎ、ご主人様、色素が来ちゃいました!

2020年7月27日月曜日

電話まででよかった

スマホがふるえたのでDMかと思ったが、最近使いはじめたGmailだった。

いちいち仕事のメールがスマホに来ては充電が夜まで持たない。だから、たいていのメールはPCにしか届かないようにしている。ただ、最近は、四六時中確認しておきたいたぐいのメールをやりとりすることが稀にある。封印していたGmailを稼働させはじめた。一部のメールを厳選して、やりとりをGmailのほうに流す。

Gmailのスマホ通知をオンにする。これでもう、LINEといっしょだ。




なるべく土日は仕事のメールは見たくないので、ゴリゴリの仕事関係のメールはGmailではやらない。

でも、遊びが半分入っていると、土日であっても、夜中であっても、見ておかないと気が済まない。もしかすると、どうやらこれは、損な性分だ。

遊びだって仕事みたいなものなのに。




メールの相手は礼儀正しい人だった。とあるイベントにぼくらが参加するにあたり、ある公式アカウントを使って発信するツイートに「指導を受ける」ことになった。

告知・展開のツイートくらい好きにすればいいじゃないか、という気もした。でも今回は、ほかの人たちと足並みを揃えたいかんじのイベントである。だから、素直にしたがう。ぼくはこう見えてけっこう、従うタイプだ。

従うってのはけっこういいことだよ。ぼくはときどき、世の一部の人に向かって、そう伝えてあげたいことがある。




案の定、従ってみたらなかなかおもしろかった。そうかそうか、商売とかイメージ戦略とかでツイッターを使っている人たちは、こういうところにも気を配るんだな。

ハッシュタグの入れ方。文面。

ちょっとぼくのこれまでの感覚とずれていて、うまいこと脳の一部に衝突して、またぼくのかたちが少し変わった。




Gmailがスマホを鳴らす。そのときどんな仕事をしていてもすかさずPCに向き直る。

ぼくが作ったツイートをこう直した方がいいんじゃないか、と教えてくれるメール。これに5分で返事をかえす。

数時間経つとまた相手からメールが入る。5分で返事をかえす。

4往復ほどして、「祭りに参加するためのツイート」が完成した。

朝からのやりとりだったが完成したのは夕方であった。




おもしろかったけど、これって電話の方が早かったんじゃないかな?



インターネット時代だからってなんでもかんでも文面でやることなかったよな……?




わかっている、もちろん、相手にも複数の仕事があって、複数のクライアントがいる。その全員と同時に電話できるわけでもないから、最終的にはこうしてメールでやりとりするしかないだろう。わかっている。わかっている。





でもぼくらは電話まででよかったんじゃないかなあ!





突然そういうことを考えた。「何に」とか「何が」とかは考えずに、雑な思考のまま放り投げておいた。

こんなにメールに生かされているぼくが、言うべき言葉ではないかもしれない。けれどもぼくは、なんとなく、「電話まで」でも十分だったんじゃないかな、という気持ちがしてならないのだ。

2020年7月22日水曜日

病理の話(436) 病理診断における決まり文句

誰しも「よく使う言い回し」があるだろう。特に、ある特定の単語に冠される形容詞や副詞には、なんとなく定番のセットみたいなものが存在すると思う。

ハンバーガーに付けるのはポテトでなくても、ナゲットでも裂けるチーズでもブロッコリーサラダであってもいいはずだ。しかし多くの人がポテトを付ける。お決まりの、お約束の、あまり考えなくてもいいときの、組合わせ。

そんなイメージで以下を書く。

なお今日の話はよーく探すとたぶんこのブログで過去にも書いている。「くり返し」ではある。




「きっちり」送りバント、とか。

「けだるい」昼下がり、とか。

「外側がカリッとしてるのに中がフワフワの」フレンチトースト、とか。




こういう表現を安易にくり返すテレビレポーターとかアナウンサーなどは、こっそりTwitterで叩かれていたりする。あいつ、陳腐な言い方しかできねえよな、みたいに。



でも別に悪いことばかりではない。「定番のセット」には利点がある(というか、利点があるから汎用されるのだろう)。

たとえば、読んだ瞬間になんとなく背景にある風景とか事情とかをまとめて思い浮かべさせる効果がある。




さて病理の話だ。病理診断報告書にも定番の言い回しがある。

それはたとえばこのようなものだ。

「臨床所見と併せて」ご検討ください。



このフレーズをみると臨床医や病理医は「あぁー……」とヘンな声をもらす。病理診断でパキッとした診断がつかなかったとき、レポートの最後に付記されているお決まりの文句だからだ。





よく考えると「ご検討ください」だけでも十分意味は伝わる。主治医がなにかを検討するときは、臨床所見(主治医が主治医なりに集めた証拠の数々)と病理の結果を合算するのは当たり前だ。

主治医に考えて欲しいならば、いろんな書き方があってもいいはずである。

「病理所見の結果を踏まえて」ご検討ください。

「ここまでの臨床診断と大きな矛盾はないと思われますが」ご検討ください。

「懸念事項があればお問い合わせください。」ご検討ください。

ニュアンスごとに毎回書き換えてもいいくらいだ。



でも病理医は(というか、ぼくは)、たいていの場合、決まり文句として書く。

「臨床所見と併せてご検討ください」。





ぼくはこのフレーズに対し、テレビレポーターみたいにバリエーションを出す必要はないと思っているのだ。

ここで妙な色気を出して、




「臨床所見と病理所見の合わさった先にきっと答えがあります」

とか、

「あなたの放った光線と私の放った光線が影を消す角度を探しましょう」

とか、

「ひとりはみんなのために。」

とか書かれたら、主治医はぎょっとすると思う。



ニュアンスとしてはこれらは全部おなじことを言おうとしていて、それはなにかというと、

病理診断というのはそれまでの数々の証拠に積み重ねて使うものだよ

ってことなんだけど、これを毎回違う表現で詩的に・ブンガク的に表現しても主治医は困る。



なぜぼくは病理のレポートをいつもだいたい同じように書くのか?

それは、ここぞというときに違うことを書いて、臨床医の目を引くため……な気がする。




病理医がいつもと違うことを書いたときには敏感に反応する、というのが大半の主治医の思うところである。決まり文句が書いてあるところはぶっちゃけみんな読んでない。そんなことは知っていて、それでも書く部分というのがある。「お決まり」には安心があるし、逆に「いつもと違う」にはアラームを鳴らすのが臨床医。

ぼくは、「オオカミが来た!」と叫ぶタイミングをはかっている。




文末の「臨床所見と併せてご検討ください」をそうそういじってはだめだと思う。それがなんだか、定番のセットメニューの付け合わせみたいに見えたとしても、ぼくらは何度も何度も食べたポテトをかじって安心するという性格を確かに持っているし、ポテトが急にオクラになったとしたらぎょっとして手元をまじまじと見るだろう。この本能を利用してレポートを書く。それくらいのことをする。

2020年7月21日火曜日

決まってない

休み明けが一番元気か、それとも休み明けが一番だるいか、という話をしていた。

土日にたっぷり休めば月曜の朝が一番元気に決まってるじゃん、と誰かが言った。

これから一週間の仕事がはじまると思えば月曜の朝が一番だるいに決まってるじゃん、と誰かが言った。

そこでぼくはふと思った。

「決まってるじゃん」って最初に世の中に流行らせたのはだれだ? たぶん全国共通で使う言い方だな。でも、そんなに古い言い方ではないだろうな。

たとえば、江戸時代の人間も言っていただろうか。

「ここは切腹するに決まってるでござる」

言わなかったろうなーと思う。言ってたのかなあ。

春はあけぼのに決まってるわ。

みたいな訳文をみると確実にイラッとする。

「決まってる」というフレーズの軽薄さがやけに気になる。



誰が決めた? 何を決めた? 誰にとって確定? どのような状態が確定? 常識? 当然? 必然? 



つまるところ、決まってないよなあと思う。誰かが「決まってるじゃん」というときは本質的に決まってないときだ。これは逆説の慣用句なのではないか。

たいていのことは決まってない。だからこそ「決まってる」と言って自分のアゴをクイっと持ち上げるのである。




実に雑なフレーズ。見れば見るほど、ゲシュタルト崩壊する前に「なんてテキトーな日本語なんだろう」という気持ちがヒタヒタ浸みだしてくる。

話し言葉と書き言葉を一致させようとして、フランクな書き言葉にチャレンジしはじめたのって夏目漱石だっけ? 二葉亭四迷だっけ? もう忘れてしまったけれどなんかそのあたりだった気がする。明治時代、たぶん、軽佻浮薄と深謀遠慮の境界線にポテンヒットをおっことすような日本語がめちゃくちゃ模索されたと思うんだけど、あるいは「決まってる」みたいな雑に生き残った日本語もそのころ作られていたりはしないか。

吾輩は猫であるに決まってるじゃん、とか書いてあったかな。

「言いませんかった。」みたいな言い方を試したけど流行らなかった文学、みたいな話を昔どこかで読んだんだけど思い出せない。

「言いませんかった。」は今なら流行りそうだけどな。





ぼくは「月曜朝が一番疲れるに決まってるじゃん」と「月曜朝が一番元気に決まってるじゃん」に挟まれて、「そんなの人それぞれに決まってるじゃん」とツッコみたくてしょうがなかった。今日の髪型も昼飯のメニューも夜帰れる時間も寝る前に読む本も、何も決まってない。

2020年7月20日月曜日

病理の話(435) 名医迷医どちらでも

病理の世界においても名医と迷医というのはいるように思う。たまにそういう話になる。

ただし、ここでしっかり確認しておきたいのだけれど、医療というシステムにおいて、名医であればいっぱい患者を救う、迷医にあたると患者は基本的にやばいことになる、みたいな構造があってはそもそもだめだ。

医療のクオリティを個人の優秀さに依拠させてどうする。あぶなっかしくてしょうがない。

その人が疲弊したら患者にダイレクトに迷惑がかかる、とか。

たまたま世界一優秀な病理医がいた病院で、その人が引退したら次から患者がぼろぼろ誤診で死に始めたとか。

そんなことになっていたらみんな困るだろう。

はっきり言うけど、「たとえ迷医にあたったとしても患者のデメリットがさほどない状態」を作ってなんぼ。

「誰が病理医をやっていても役に立つ状態」まで構造を仕上げてはじめて、商売(コマーシャル)で病理診断をやっていくことができる。




非常に丁寧に言葉を選んで言う。

ぼくは名医かどうかわからない。自分ではよくやっているほうだと思うが、クライアント(臨床医)によってはぼくを迷医だと思う人もいるかもしれない(それは個人の反省として本当にもうしわけないと思っている)。

けれども、ぼくの仕事は常に人の役に立っている。それは医療がそういうシステムをきちんと作っているからだ。

ここ、本当に慎重に書くけれど、

「ぼく個人が名医かどうかとは関係なく、ぼくが病理医として1名こうして勤務することで、システム的に患者の役に立つ」

ということが、病理診断科の根底を支えている。




その上で。

その上で、「迷医のままでも患者のためにはなるし、給料をもらう資格もあるんだけれど、個人的に反省をくり返して名医になりたい」という気持ちがある。




この順番をはき違えるとちょっとまずいんじゃないかなーと思うのだ。医学の話でも病理の話でもないように聞こえるかもしれないけれどこれはおおまじめに病理の話である。

2020年7月17日金曜日

苦行

学会や研究会がぜんぶなくなったけど、代わりにZoomをはじめとするWeb会議がいっぱいはじまった。

とりあえずZoomには課金した。

医者や技師たちと集まって研究会をやるとき、40分で切れてしまうと困る。誰も課金しないならぼくが課金するのが一番ラクだ。一番安いプランを年間で支払った。

病理医は多くの医療者たちとつながる仕事であり、医療のハブ空港みたいな性格をもつ。ハブ空港はどんどん便利になるべきである。多少の負担は給料に織り込み済みだと考える。このお金がまた新たな出会いを生んだりするので必要経費でもある。



みんなはテレワークだと言って自宅からZoomに接続するケースも多いようだが、ぼくはもっぱら職場でZoomだ。結局、医療者はテレワークできない。病院に出勤せずに医療を完遂できる日が来るとしたら、それは患者の肉体がすべて電子化したあとの話になるだろう。プレパラートだけは電子化できるかもしれないが、病理医の仕事相手は究極的にはプレパラートではなくて生身の臨床医だ。いっそ臨床医がAIになってくれればぼくは家にいても仕事ができる日がくる、でも当分はむりだろう。だいいち臨床医がAIになったら病理医も早晩AIになっていると思う。

……逆では? と言う人がいるのだがぼくはAIに駆逐されるのは臨床医が先だと考えている数少ない人間だ。臨床医が人でなければできないと考えている仕事の多くは医者でなくてもできる。「AI+医者以外の医療者」でほとんどの臨床知は回る。まあ完全に臨床医がゼロになる日はこないだろう、既得権益があるからね、でも総数は減る。あるいは未来の臨床医は今の臨床医とはおそらく違う存在になっている。どちらかというと病理医に近い存在になっているはずだ。うける。

いまのところぼくは人間相手に仕事をしていい人間だ。そして出勤はしなければいけない。

Zoomが増え、仕事は減らず、出勤は続き、金はかかる。負担ばかりが増える。4月から6月までに4キロやせて、これはもしや病気か、と思ったが、その後体重減少は止まり、しかも現在ベスト体重である(BMI 23)。なんかうまくやせた。これくらい働かないとぼくは太って不健康になるということなのだろう。今がちょうどいいんです。



さてZoomについてもう少し。

とにかく、参加者がみな手前を向いているのが耐えられないので、ぼくは最近なるべくナナメを向いたり横を向いたりしている。可能であれば後ろに猫が通ったりするといいのだが、残念ながら職場で猫を通すことはできないのでかわりにうしろにサボテンを置いたりぬいぐるみを置いたりする。なるべく参加者の視線が無駄に散ることを望む。けれども参加者が10人を超えてくると、あの、モニタリングとかがよくやっている、全員がちっちゃい画面でなんだか下の方をうっすら見ているつまんねぇ構図になる。あれがマジで耐えがたい。きもちわるい。

ひとまずぼくはしゃべっている人の方を(画面上で)向くようにしようと思った。しかし参加者はそれぞれ画面設定をいじっていたりするし、もっと言えば参加順やホストとの関係によって人々の表示される順番や配置が違うらしいので、ぼくのPC上ではうまいこと発言者の方を見ているように映っていても、他人のPCからみると逆に反対側を向いて議論から逃げだそうとしているように見えることもあるという。

人のPCの画面上までは責任を持てない。でもYouTube Liveのときにはなんかうまいことできないかな、という気持ちがあった。SNS医療のカタチONLINEでの話。

大塚や堀向のPC上でぼくがそっぽを向いていてもかまわないとして、YouTube連携している山本のPC, さらにはYouTube LIVEの画面上で、ぼくがうまいこと発言者のほうをみていたらかっこいいなと思った。

Zoom連携したYouTubeの配信がはじまると、リアルタイムにだいたい30秒遅れてYouTubeに画像が飛ぶ。

ぼくは、PCの横に自分のスマホを置き、スマホでYouTubeを再生しておく。PC画面にはリアルタイムでしゃべるSNS医療のカタチの面々や、毎度のゲストの講師などが映っている。最初はその話をまじめに聞き、YouTubeのコメント欄のコメントを拾ったり返事をしたりする。そして、演者の講演が終わってパワポの画面共有が終了され、SNS医療のカタチのメンバーと演者が一同に画面上に表示されたら……孤独な戦いがはじまるのだ!

PCに表示されているZoomの画面は「偽り」である。視聴者がみているのはスマホに映っているYouTubeのほうだ。これが30秒遅れであることに気を付けつつ、スマホの画角をみながらぼくの顔を演者のほうにむける。くり返すがPCは当てにならない。そのときリアルタイムでしゃべっているのが大塚だった場合、スマホで大塚がぼくの左下に映っていれば、PCの画面上で大塚がどこにいようともぼくはPCの右下のほうに目線をやる(鏡とは違うので左右が逆になる)! そこには何もない。虚無だけがある。あるいはマウスなどがあることもある。30秒遅れのスマホをちらちら見ながら、ぼくは虚空に流し目した自分の表情、自分の目線が、視聴者から見てちゃんと大塚のほうに向いているかどうかを確認する。

(あたかも左下の大塚に向けて手を差し伸べるように虚空に手を出すぼく)


よし、これでOKと思った矢先に今度は堀向が発言! ただちにスマホ画面上で堀向のいる場所、すなわち真下に目をやる。あまり下を向きすぎると作為が感じられてつらいからこのときはPCのキーボードあたりをふんわりと見るようにする。もはや演者の表情も声もコメント欄もTwitterも何も見えていない。ぼくにはただ、自分の顔の向きが適切かどうかしか見えていない。あっ山本が不規則発言だ! 自分の本を売ろうとしているぞ! ぼくはただちにのけぞり笑いの姿勢をとりながらすばやく後ろの本棚に挿してある山本の本を手にもって戻ってくる。このときスマホYouTube画面で山本の位置を確認しつつ、ぼくと山本の姿勢があまりかぶったものにならないように、画面全体のデザインを気にしなが





正直ぼくZoomが楽しいです。体重は1キロリバウンドしました。

2020年7月16日木曜日

病理の話(434) 老化を走ってはいけません

たまに本に書いてあること。

「なぜ生命は老いて死ぬのだろうか」。




たまに見かける答え。

「それは遺伝子を守るためです。時間と共に、遺伝子には傷がついていきます。もし生命に『老い』がなくて、何百年経っても子孫を残せるシステムだとすると、後年になってうまれた子孫はみんなボロボロの遺伝子を受け取ることになる。そういうタイプの生命はけっきょく代を重ねていくうちに、ボロボロの遺伝子によって生き残る確率が減ってしまう。だから滅びちゃう。

老いがあるということは逆にいえば若い時期があるということ。若さがあるということは、ざんこくな言い方になりますが、生殖可能な年齢が見極めやすいということでもある。若いうちだけ子孫を残せるシステムにすれば、遺伝子の傷が増えるまえに誰もが子孫を作る。すると、あまり傷がついていない状態で、子孫に遺伝子を伝えることができる。

老いがなければそうはならない。老いがあるからこそ人は子孫に整った遺伝子を伝えられるんだ……」





気にくわない答えだよね、科学的にはそうなんだろうけど、なんか心情的にむかつく。手段と目的が入れ替わっているときのような。

ぼくの答えは違う。

老いがなぜ存在するのか?



それは、なんか、たまたまだ!







……すみません。いろいろあるけど書き切れないからまたの機会にする。






アメリカとか屋久島あたりに生えている、樹齢何百年もの巨大な樹。あれって寿命がないからいつまでも大きくなるんだよな。いつまでも遺伝子伝え続けてるじゃないか、と思ったことがある。

何かの本で読んだのだけれど、大きくなりすぎた樹って中が中空になっていたりする。あれ不思議だよね。なんで中だけ枯れちゃうんだろう。中だけ燃えちゃうときもあるという。

その話を調べていた。すると、樹ってのは、外側で生きてる細胞と、中の芯の部分に生きてる細胞が、「同じ生命」とは言えない……という考え方があるらしい。大きな樹というのは単一の生命ではなくて、例えるならば「街」みたいなものだというのだ。複数の生命が寄り集まって、あたかもひとつの生命のように協力し合ってやっている。

2丁目の買い物通りの八百屋も魚屋もずっとそこにあるけれど、店主はそれぞれ2代目と3代目だといったとき。お店ではたらく人はとっくに入れ替わっているのに、ぼくらはそれを「代わらない街」として認識する。

あるとき八百屋と魚屋がつぶれてそこにパチンコ屋ができた。残念だなあ、と思うけれど、街が滅んだわけではない。「街はそこにある」と認識する。

どうも植物にもそういうところがあるんじゃないか、という考え方があるそうだ(生命科学的にどこまで正しいのかは知らない)。

で、ぼくはこの話を読んだときに、真っ先に、人間は老いて死ぬけど、人間がいっぱい集まって組み上げる社会とか世界とかは不老不死であり得るんだろうか……ということを思った。

樹が枯れるように社会が死ぬこともあるので不死とは言えないかもしれない。

けど、不老は……いけるのかもな……と、よくわからない期待をしてみたり。

2020年7月15日水曜日

やれるけれどやらない

ぼくは、かしこい人にもかっこいい人にもツイッター上で会える。

ただし、なんというか、そこにいると空気が落ち着く人とか、やわらかい印象の人とか、そういうのと出会うのがなかなか難しい。これはぼくの個人的な感想である。



ぼくが同じ空間にいて「落ち着くなあ」と感じる相手はそもそも今、ツイッターをやっていないかもしれない。

難しそうな本を背伸びして読んで居眠りをしている子ども。

あまり動かない犬。

せわしなく動いているがこちらをまったく気にしていない猫。

そろそろバスの時間なのにまだ足の爪を切っている大人。

こういった人たちを見て「落ち着くなあ」と感じるが、ツイッターではそういう人を見つけることが難しい。ニセモノの子ども犬猫大人がいっぱいいるけれど、ホンモノにはなかなか出会えない。




「やわらかい印象」の人もツイッターの中ではあまり見ない。たぶんそういう人はインスタグラムの片隅にいる。

晩ご飯までの短い時間に居眠りをしている子ども。

毛の長い犬。

高い所に座ってこちらをまったく気にしていない猫。

車のエンジンを切ったのにまだシートベルトをしている大人。

こういった人たちを見て「やわらかいなあ」と感じるが、ツイッターではそういう人を見つけることが難しい。ニセモノの子ども犬猫大人がいっぱいいるけれど、ホンモノにはなかなか出会えない。



とりあえずぼくは、「そういうクラスタ」の中で暮らしているということだ。

ひとことでツイッターと言っても、使う人によってまるでフォローする相手は違うし会話する相手も異なる。

ぼくとは違い、かしこい人もかっこいい人もまるでいないけれど、落ち着く人とやわらかい人だけがいるツイッターを使っている人も、たぶんどこかにいるだろう。




ぼくはその人のスマホを盗み見てみたい。

裏垢を作って、その人とまったく同じようなフォローをして、落ち着いたやわらかいツイッターを数日楽しんでみたい。

たぶんやれると思うのだ。でも、やろうと思うと、かしこい人が「やめとけ」といい、かっこいい人が「もっとほかにやれることがあるよ」という。それがわかっているからやらないだけである。

2020年7月14日火曜日

病理の話(433) あらためて病理の話

そうか。

これまで432回も病理について書いていたのか。

でもまあ、またいちから書こう。何度もくり返すのがいい。何度も積み重ねるのがいい。

なぜならくり返しと積み重ねは病理診断の奥義であり、医療そのものだからだ。







5月に書き終えて、7月に直した教科書がある。

編集作業がはじまっている。

発売までにはまだけっこう時間がかかるだろう、いつ出るかはわからない。けれども内容はもうそんなに変わらないはずだ。ぼくの単著だから、ぼくがこのさき文章をいじらない限りは、ほぼこのまま世に出ることになる。

内容は病理学。対象は医学生や研修医。初版発行部数はほとんどない。刷ってもそんなに売れないはずだし、病理学のど真ん中を語る本なんてのはそこまで売れなくてもいい。

今回の本は超本気で書いた。

今までのどの本も、あるときはエンタメよりに、あるときは噛んで含めるようになるべくわかりやすく、あるときはみんなで手を取り合って協力できるように、多様に本気を出してきたけれど、今回の本気はちょっと毛色が違う。

職能の全力を出した。

完全に専門的に書いた。

けっこうハラハラしている。

一般向けに病理とはなんぞやと語るのとは違う部分の脳を使った。




その中で、ぼくが何度も、くり返しくり返し使った言葉が……

「くり返し」

という言葉だった。

病理学はくり返しの中にある学問である。

というか医療はくり返しの中で生まれていくものだという確信を得た。





ここまで抽象度が高いことを書いたから、ちょっと最近の例をあげて説明してみる。

患者が病院に来るとする。そこで看護師が「今日はどうしました?」とたずねる。これこれこんな感じで具合が悪くなって……と患者は告げる。

診察室に通される。医者は尋ねる。「いつからどんな感じですか~」。患者はさっきも看護師に伝えたけどなと思いながら、今度は医者に向かって語りかける。

医者は話をよく聞いて、診察をはじめる。このとき、患者はもう同じことを言わなくてもいいんだと思って体を医者に預けるのだが……

このとき実は医者は、「患者が言ったことをまたあらためて自分の目や手や耳で確認しようとしている」。

診察というのは、かたちは違うけれども、大きな意味では「患者の声を聞く行動」である。患者自身が言葉にしていない部分、できない部分、気づいてもいない部分を探るために診察がある。

だからこれはいってみれば「くり返し」なのだ。

「手を変え品を変え」と言ってもいい。




そして医者は血液検査を出すだろう。このとき、血液の中に含まれる様々な物体の量を見たり、性質を確かめたりするわけだが……。

察しのいい人は気づくだろう。これも、「問診や診察では聞けなかった、患者の体が発する声」を聞く作業だということに。




X線をとるのもいっしょだ。CTをとっても同じ事だ。

患者の体が発するメッセージを、くり返しうけとめて積み重ねていくということ。



実はこれが医療の根幹である。患者が言ったことをうのみにするだけの医者は無能に違いない。「かぜだと思うんですよね」のひとことで、「じゃかぜだと思います」と答える医者がいると、なんだかヤブ医者っぽくないか? それはくり返しが少ないからだ



で、えー、みなさんが喜ぶことを書くと、

「PCRをやれば新型コロナウイルスだってわかるんですよね?」

の一文にはくり返しがない。つまりこれは医療としては不完全なのである。患者の体の中で起こっていることをできるだけ丁寧に探ろうと思う時、PCRだけで何かを決めるなんてことはありえない! 何かをくり返す。何かを積み重ねる。

患者の症状は? 熱はどう? せきや鼻水は?

周囲の状況は? そもそも今の社会にどれくらいの患者がいると予想される?

これまでの時間経過は? 患者は昨日どうだったか、おとといはどうだったか?

周囲に同様の症状を示した人はいたか?

こういった内容を逐一確認して、患者を十重二十重に取り囲むように、くり返し、くり返し、情報を多彩にとりこんで、積み重ねていく。とことん積み重ねていく。

そこにひとひら乗っかるのがPCRという「いち検査」であるということ……。





ウフフこんな感じで、医療ってのはくり返し、積み重ねるものなんですけどね、病理学もまさにそうなんですよね、みたいなことを、17万字かけて書いた本がいずれ出るので、ブログの読者は興味があったら図書館に申請してください。医学書だから買う必要はないよ。

2020年7月13日月曜日

沢の水派

人格が変わったとまでは言わないけれど、ぼくはこの3か月でだいぶ変質した。必要に迫られて。

思えば「何かのために書く」ばかりやっていた。

そしてその「何か」に目処が立った。デスクの横に積んであった「書くべきものリスト」をひとつずつクリアして、ほとんどなくしてしまった今、あらためてぼくの心は元に戻ろうとしている。

どこから何に向けて戻ろうとしているかは言いがたい。ただ戻ろうとしていることだけがわかる。




今は書きたいことが川のように出てくる。「山のようにある」わけではない。川の源泉から水がちょろちょろ出てくる感じで、次々と書きたいことが出てくる。

この源泉を、3か月の間、濾過したり煮沸したり、逆に何か味を付けたりフレーバーを付けたりして、「飲める水」にするための作業ばかりやっていた。上水道商売をやって暮らした。

刺激的で、今までにない生活だった。楽しかった……とは思わない、単純に大変だった。でもやっぱりおもしろかったかな。



今こうしてブログに帰ってきて、指先からタカタカ文字が吐き出されるのをそのまま眺めていると、ぼくはやっぱり沢登りをしてそこで飲む水が一番おいしいと内心思っていたんだなということに気づく。

時制が狂っていたり、句読点が不十分だったり、回りくどかったり味が足りなかったりもするんだけど。

ぼくはこういうのが一番キンと冷えていてうまいと思う。





沢の水にはたまにエキノコッカスが含まれていたりもするのでそのまま飲んではダメです。

2020年7月10日金曜日

ブログ:脳だけが旅をする 再開のお知らせ

やあみなさん、3か月ぶりです。

ほんとうに3か月ぶりでした。休止したのが4月9日ですからね。



平日、毎日必ず更新していたブログをいったん休止してまで、

#SNS医療のカタチTV

の活動に専心してきました。だいぶいい感じだと思う。

ここからどんどん盛り上がっていきますよ。

本番は8月23日(日)。あと1か月半!



多数のゲストとのゆかいなトーク。

書店と医書出版社を巻き込んだでかい書籍フェア。

そして、まだ仕込んでいる最中の、追加ゲストと、追加のお祭り。



スタッフ達はこれから忙しさのピークとなるでしょう。



一方で、ぼくはなんだか安定してきました。残りの期間でやることはだいたい見えてきた。



もうそろそろ力を抜いても大丈夫かもしれない。まだ早いかな? 



でもいいや。そろそろ、このブログを再開していこうと思います。




前とおなじように、平日の朝5時台に更新して、その後告知ツイートをします。

ほんとうにこの3か月、激動だったから、このブログ更新と告知の習慣も、最初は忘れてしまうかもしれない……。

でもいいよね、のんびりやっていきます。




こちらにいなかった3か月の間にぼくは出世しました。

あと論文が4本ほど出ました。

といっても筆頭で書いた論文は1本しかない。英語論文も1本だけ。あまり自慢はできないけれど、ま、サボってたわけではない、ということで許して下さい。




そういえば教科書を1冊書き終えた。病理学、病理の哲学について書いた本です。来年くらいに出るかな。今まで書いたものの中で一番ぼくらしく、一番読みづらくて難しくて、一番きつい執筆でした。でも楽しかった。

これで一段落。





これからまた、課金のない世界でぼくを積み上げていくことにする。