2020年7月30日木曜日

病理の話(438) また来たくなる病理検査室

今日のはどちらかというと日記に近い感想文みたいなところがあるので、最初にお断りしておこう。狭い観測範囲からの結論ですみません。





ぼくは今年で医師免許取得後17年目だ。ただし、常勤の病理診断医としての経験にしぼると、13年目ということになる。医学部を卒業後、すぐに大学院に進んで博士号をとったのだがこれに4年かかった。

24歳から28歳まで、大学の病理学基礎講座に所属していた。学部も大学院も北海道大学だったから、母校には10年通ったことになる。義務教育より長く大学にいた。

この4年間、研究ばかりをやっていたわけではない。マイクロピペットを持つかたわらで、病理解剖や病理診断をけっこうやった。だから大学院を出てからすぐに現場で働き始めることができた。

大学院時代は、(我が事ながら)若いなりによくやってはいたと思う。それでも、「けっこうやった」はあくまで「あのころなりにはやった」だったし、「ほぼわかった」は「あのころなりにはわかった」だった。そんなものだろう。これからもきっとそうだ。

大学院を出てから現場ではたらいて干支が一周した今、病理診断というものに対して、院を出たばかりのときにはわからなかった複合的な思いが心に蓄積している。現場には複雑なうまみがある。多少の味見では隠し味に気づけない。




あのころ、何に気づかなかったのか?




大学院にいたころ、病理診断について、「一定のスキルがあればクオリティコントロールできる事務作業」に思えることが多かった。

顕微鏡を見て考ええて診断を書く。大学に跋扈するエライスゴイ病理医たちに教えを請いながら、なるほどこの細胞像をみたらこう考えればいいのか、この細胞が出ていたらこのように診断書に書けばいいのかと、ひたすらくり返していけばそれで十分仕事になる。そう思っていた。

誤解のないようにいうと、もちろんそれで仕事になる。細胞を見て考えて書く、これは行ってみればコアスキルだ。

病理医という職業はたまに、「ほかにやりたいことがある医者」がお金稼ぎのために選ぶ職業として語られる。淡々とこなせる仕事だという印象がある。実際、そのように病理医人生を終えることも可能だ。一種の高度な事務作業としてやっていける。それで十分に患者の役に立つ。




大学院時代のぼくはぼくなりに、病理診断医が立脚する場所はどこか、両足ですっくと立って胸を張る場所はどこなのだろうか、と考えていた。

そして立つべきは「見て考えて書くこと」だと思った。

考えるためには学問が必要だから、基礎研究をやることは役に立つ。

顕微鏡を覗いて診断を書き、分子生物学の基礎も勉強して、これでまあ両足を置く場所が見つかったな、と思っていた。だから大学院を出たらすぐ病理医として働けるような気がしていた。




でもこれはたぶん「しょせんは人間の発想」だった。

そもそも世にある椅子もテーブルも足は3本以上ある。陸上生物の足は4本だったり6本だったりするだろう。2本だけで立とうなんて甘いのだ。ヒトじゃあるまいし。

顕微鏡を覗き込んで何かを思うほかにも、立脚すべき場所はあり、置くべき足はあった。

あっ、ほかにも足がいるな、と感じたのは大学院を出てすぐのこと。

その足の置き場がわかったのはそれから数年してから。

そこを言葉で言い表せるようになったのがついさっきである。





病理医としてやっていくとき、おそらくだが、ほかの臨床医と同じように「外来」を持つ感覚、というか覚悟が必要なのだと、唐突に思った。





そもそも病理医に限らずあらゆる医者は、医学や病気と向き合う仕事ではない

患者や患者を取り巻く人々と向き合う仕事である。

臨床医たちは病気の勉強をするし、患者の体に起こっている症状をどう解釈してどう解決するかを学ぶ。それに何年もかかるし一生を費やす。しかし、「外来」で医者が使うのは、病気の辞書的知識や治療のさじ加減だけではない。そこでは常に患者との会話があり、コミュニケーションがある。

病を診て人を診ずでは、患者は次からその医者のもとに通ってこないだろう。

優先順位として、「人を診るために病を診る」。ここまでは当然のことだ。

ただし病理医は特定の患者をもたない。患者の一部(臓器や細胞)、あるいは患者の全部(ただし死体)を相手にするけれども、生きた患者と話すことはない。これは、医療全域において、「誰かが病の専門家として特化しておいたほうがチームとしてうまくまわる」という必要性があってのものだ。

「病理外来」というのも一部の特殊なケースを除いて存在しない。

だからなんとなく、病理医は人相手の仕事ではないよな、という気になってくる。そういう専門職だよな、患者と合わない医者だよな、外来に出ない医者だよな、と。

そこが勘違いだった。

よく考えたら病理医は、患者の臓器を手に途方に暮れている臨床医と対話する。毎日のように。こちらの都合とはおかまいなく。

病理医は「(患者のやってくる)外来」は持たないが、「(医者のやってくる)外来」をオープンしている職業なのだ。






月曜日の朝、手帖をみたら、次のプレパラートが仕上がってくる午後までにやらなければいけない仕事はひとつもなかった。やったあ珍しい、午前中はヒマだな、医局でコーヒーでも飲むかな、と思って出勤した。

けど職場についたらメールが入っていた。学会発表を控えた臨床医からの問い合わせ、共著論文の手直しを相談してくる長文、あたらしくZoomではじめた研究会の相談。

片っ端から返信をしていく。顕微鏡をみる仕事ではないから片手間に? いや、これらのメールはいずれも、「ぼくの顕微鏡をみる能力を頼って、ぼくの元を訪れたクライアント」からのものだ。つまりは外来患者……じゃなかった、外来医者たちである。

外来というのはその日にどんな患者が来るか読めないところがある。予約をして訪れる再来と呼ばれる部分についてはある程度計算ができる? いや、患者自身の体調がどのように変化しているかは毎回予想がつかない。それに、飛び込みでやってくる、完全に初対面の患者というのも多く訪れるものだ。

そして病理外来も同じ事である。約束をして、今日のこの時間からじっくり研究の相談をしようねとアポイントメントを取り付けている医者ばかりがやってくるわけではない。

「ご無沙汰しております、○年前の学会でお目にかかって以来ですね。突然ですが胃の少し珍しそうな病気を一例見て欲しいのですが……」

こういうのは外来に飛び込んでくる新規の患者、じゃなかった医者だ。このような人たちにどのように知恵を出して仕事を進めていくか、ここに、一日の半分くらいの時間と、ストック量の半分くらいの知性を割く必要がある。毎日。日替わりで、予測不能なままに。




ちょっとマニアックなことを書く。

患者にゼロリスクの安心を与えることは、医者が本来やるべきことではない。医療とは不確実性の上にあり、現場で「絶対安心ですよ」を言えることはまずあり得ない。なぜならば、診断の本質は未来予測であり、治療の本質は複雑系への介入であり、患者の満足尺度というのは主観に左右され、運と偶然が彼我の解釈を左右するからである。

しかし、不確実性を患者と医者の双方が「呑んだ」状態であれば、無根拠な安心とは別に患者と医者が共有できる別の感情がありうる。

それは、偶然を理解した上での「信頼」だ。

「未来は読めない部分があるよ、当たったり外れたりする部分は最後まで残るよ、それでも、この主治医と一緒に歩いて行くならば、多少見えない部分までのみこんでもなお、大丈夫だと言えるよ」

これってたぶん理想の医療の一形態だと思う。まあ安心だとか信頼だとか、言葉の細かい部分にこだわるのは本意では無い(言霊的にももっと複雑だと思う)のだけれど、何が言いたいかというと、

わからないことまで含めて一緒にのみこんで歩こうという関係

はぼくの考える最強の外来の姿なのである。





さてこれを病理にあてはめることができるかどうか?

どうもぼくはできるんじゃないかな、と思っている。多くの医者たちとの間に信頼を築き上げながら病理医を続けていくために必要なのは「外来スキル」かもしれない。つまり病理医もまた、ほかの医者と同じように外来に出る覚悟が必要なのではないかと思うのだ。