2020年7月29日水曜日

鉄人があちこちにいるからなあ

「殴り書きのもの」と、「多数の人の手が入った文章」というのを読み比べている。

基本的には、後者のすごさを感じる毎日だ。




たとえば、学術誌で複数の専門家から指摘を受けながら論文を書いていくとき。

さいしょに一人で書き終えたときの「これで完璧だ」という自信が、いろんな人からバキバキ折られていく。あれ、しんどい。

「ここは学術的に証明されていないように思える」「これを昔言った人がいたからちゃんと引用した方がいい」「この写真の解像度だと細胞が見えない」。

「査読」の末に、直して直して直しまくって、受理された論文を最初に自分が書いた初稿と読み比べると、確かに読みやすく、学術的にもより妥当になっている。

悔しいがありがたい。



あるいは一般向けの書籍、文章、ブログ記事など。こちらは専門誌の「お手入れ」に比べると口調も手段もマイルドだけれど、実際、自信を折られるというより根こそぎ引っこ抜かれるようなショックを受けることがある。

「これでは一読してわかりづらい」「ここはダラダラ書きすぎ」「もう少し詳しく」「もう少しシンプルに」

言われたとおりにヒイヒイ右往左往したあげくにできあがった文章は、要点がつかみやすく、流れが途切れない爽快なよみくち。さすが文章のプロがみると違う。

ありがたいしへとへとになる。




で、まあ、このブログのように、なるべく一発書きで思ってることを書いていくほうの話。

重複表現はバンバン出てくるわ、句読点のバランスが前半と後半で乱れるわ、少し時間をおいてから読むと要点が省略されていてわかりにくかったりするわ、やはり人の目を通さない文章というのは荒くていかんなあと思う。

かつ、そういうところに、ぼくという人間のコアにあるざらざらとした凹凸みたいなものが現れているのだ、ということを強く感じる。

料理でいうと「調理せずに素材の味を楽しんでもらう」みたいなことになるのか?




世の9割9分の食品は、必ず加工している。たとえばおすし屋であってもそうだ。食材選びを吟味して、一番舌触りがよいように、味が伝わるように切って、加工した米と工夫したわさびを添えて、程良く握って、ときには上から何かを塗って、それではじめて「素材のうまさ」にたどりつくようにしてある。

素材の味をそのまま食う機会なんてぼくらにはめったに訪れない。海にもぐってとったウニをその場で割って口に放り込むことが許されたのは数十年前までだ(今やったら密漁)。野いちごだって何がついているかわかったもんじゃない(そもそも甘くない)。とりたてのトマトを丸かじりなんてしない(ワイシャツに飛ぶじゃないか)。



それでもぼくは文章だと、なぜか「素材」をときどきそのまま並べる。子どもが野山でとってきたまつぼっくりを並べて喜んでいる風景に近いかも知れない。採って出しの楽しさ。本人がよければそれでよい、たぶんこの表現を許されているうちは、ぼくはまだ文章という料理を楽しんでいられる、遊んでいられるような気がする。気がするだけなのかもしれないが。