2019年3月29日金曜日

モトゥロー

数年前に友だちの犬に言われたことを、今でもよく思い返す。

そのことばは、ぼくの頭の中でテントを張って住み着いているようだ。

ときおり、テントの前をあけて顔をひょこりと出す。こちらを見て何事かジェスチャーをする。気になって仕方がない。

そのことばはぼくの中に長いこと住んでいるうち、見た目が少しずつ変わった。背が伸びた。髪も伸び、無精ヒゲも生えている。けれども、中身はたぶん、変わらない。

こんなことばだ。



「ヤンデル先生には、何か、世界を理解しようとするときに、よりどころにしている言葉、みたいなのがあるんですね。今はさしづめ、『複雑系』でしょうか。」




実際に一語一句こうだったわけではない。

残念ながらぼくの記憶力は皆さんよりも少しだけ悪い。だからこの文章も、今、頭の中に残っているイメージを元に再精製したものだ。ニュアンスはあっているが言い回しは完全に「ぼく作」。そこはご容赦いただきたい。

ぼくは、人の顔、恩義、旅行に行った場所、覚えておくべき電話番号、何もかも、「興味がない」ので、ものすごいスピードで忘れていく。

覚えているのはいつもインデックスの部分だ。インデックス、すなわち見出しや目次の部分だけを忘れないようにしている。その都度、見出しをたよりに、検索しなおすことで記憶を取り戻して補完する。このとき、顔とか、場所とか、イベントの内容などをインデックスとして採用していないので、ときどき信じられないような忘却を果たす。

直近では、タニタ公式の顔を忘れていた。ある会で再会したときに最初わからなかった。勘違いしないでほしいのだがぼくは彼という「実存」自体には強く興味がある。ただし、彼の「顔」に興味がないのだ(なお彼はけっこうなイケメンではある)。

カツセマサヒコの顔も思い出せないが、彼はアイコンに顔が出ているので、ときおり記憶を補強できるから安心だ。さらに言えばぼくはFacebook大賛成派である。顔を出しておいてもらわないと、ほとんどの人の顔を思い出せなくなる。

忘れてしまうのは顔面だけではない。

先ほどのように、犬がかつて言った「ことば」も、細かい節回しについては全く記憶にない。

「ヤンデル先生には、何か、世界を理解しようとするときに、よりどころにしている言葉、みたいなのがあるんですね。今はさしづめ、『複雑系』でしょうか。」

ほんとにこんなことだったかどうかは全く自信が無い。

「ヤンデル先生は、たとえば『複雑系』みたいなキーフレーズを用いて、世界の仕組みを理解しようとしているときがありますね。」

「ヤンデル先生はさあー、何か言葉を手に入れると世界の見え方がグアッって変わるタイプじゃないかなああー。いやーそれはあれだよ、わかるよ、ガハハハ、おもしろいやつだよ。」

「ヤンデル先生は、世界にひそんでいる共通法則みたいなものを、言葉のかたちでピックアップしていこうという気概があるんだピョン。たとえば『複雑系』みたいなキーワードとしてだベシ。」

おわかりだろうか、これらは、ぼくの中では「一緒」である。

犬はかつて、「そういう意味のこと」を、「そういう概念」を、確かにぼくに言った。というか、言ってないかもしれない。概念すらこの数年で少しずつ入れ替わっていった可能性もある。

でも、数年前の犬とのやりとりが、ぼくの脳内で6次産業的に生産・加工・出荷・販売されて、時と共に変質しながら、しっかりとぼくの中に蓄積されていることは事実だ。まるで文芸史とか芸術史のようだなあと思う。今はもう別モノかもしれないが、確かにそこにあった。




ぼくは、どうもさまざまなディテールに対して、「注意」(文字通り、意を注すること)することが苦手だ。かわりに、多くの見出しを自分の中に整理して、その都度確認することで概念自体をまるごと体内に組み立てる。

そのとき、あらゆるディテールの中でぼくが唯一大事に覚えようと心がけている「インデックス」は、「ことば」なのだろう。ぼくはいくつかの少ない「ことば」を頼りにして、あやふやな記憶やあやふやな風景をカタチに仕立て上げている。

犬はそこを見抜いていて、ぼくが数少ないことばを足がかりにして思考を組み立てるタイプの人間だということを指摘したのだろう。




・複雑系、群像劇

・中動態、居場所

・分類思考、系統樹思考

・言祝ぎ、他己顕示欲

・プリコラージュ、SNS




これらはいずれもキーワード、すなわち単語に過ぎない。名言感がないし、座右の銘にすらならないだろう。

けれどもぼくは、秒単位で忘れていく過去どうしを必死で頭の中で組み上げていくために、常にこれらのキーワードたちを「接着剤」にして、あるいは「看板」のように掲げて、なんとか過去と現在と未来を上演するシアターみたいなものを作り上げられないだろうかと、毎日うんうん唸っている。

・シアター

という言葉は、複雑系を世に示す手段として考えた、現時点では最適の「便利なことば」である。

2019年3月28日木曜日

病理の話(308) AI以前に加藤さんが敵

先日の日経メディカルにインタビュー記事( https://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/report/t328/201903/560220.html?n_cid=nbpnmo_twbn )が掲載された。

ぼくの腕の組み方がヘタクソなところが萌えポイントなのでちゃんと萌えて欲しい。



この企画を作り上げた日経メディカル編集部のKさん……とイニシャル処理しようと思ったが記事中にふつうに名前が書いてあるから本名表記でいいか……加藤さんは、2017年に日本病理学会のオープンフォーラムを共同企画した実績で(ぼくの中で)有名な、やり手の記者である。

彼はたぶんぼくを下僕のように考えている。ときどき無茶な依頼をくれる。

今回も無茶な依頼がきた。突貫的なインタビューが敢行され、羽田空港で謎の腕組み写真を撮影されるという嫌がらせをうけた。羽田空港といっても別にベンチャー企業の意識高い風シャレオツ写真を撮ってくれたわけではない。「工事中のブースでたまたま白い壁の場所がありました、その前で写真を撮りましょう」と、第2ターミナル1階到着フロアの端っこ(トイレ前)に連行され、警備員が頭の上にハテナを4個くらい点灯させるのをスルーしつつ、バシャバシャと25枚くらい写真を撮られた。羽田である意味は全くなかった。




ぼくはかねがね、

「病理組織診断なんてものは、AIによってほとんどすべて置き換わってしまってかまわない。ヒトがあえてルーチンの病理診断に従事する必要性を感じない」

ということを述べている。つまりは、「AIはヒトより優れている派」なのだが、加藤さんはそのぼくを、あえて

「AIが発展してもヒト病理診断の重要性は揺るがない派」

の論客に選んだ。まったくひどい。この記事でぼくはひたすら「自分の意に沿わないこと」を言わされているのである(笑)。




でも、まあ、ディベートというのは、自分の普段考えていないほうに肩入れしてしゃべるほうが、絶対おもしろい。

「自分が内心思っていることと反対側の立場で、必死でつじつまを合わせ、論理を組み立てる」

という作業がやはりとても楽しかった。加藤さんの思う壺。ぜひ本文を読んでほしい。あ、でも、日経メディカルに登録しないと読めない記事な気がする。となると、非医療者にはハードルが高いだろうな。ごめんね。

というわけで、概略の一部をここに漏洩する。怒られたら謝って消す。今のうち今のうち。




ぼくがこの記事の中で書いた内容は主に4種類の理論から成り立つ(数えてみてほしい)。なかでも一番大きな柱は、

「AIが出してきた結果は必ずしも人間の意志決定(判断)を強制しない」

というものだ。

この話はとても大事で、ある意味、医療に限らず、これから来るAI時代にほとんどの人間が必ず直面するであろう問題ではないか、と思っている。





記事中に書いた例えを少し拡充しよう。

AIによる診断は、おそらく、天気予報に似たものになると思う。

「明日の降水確率は60%です」というのと同じように、

「あなたの病が3年以内に命に関わる確率は60%です」

というかんじで予測がなされる(ざっくりとした例えだ。実際にはもっと高度だと思う)。

ここで、降水確率が60%なら傘を持ってでかけよう、というノリで、我々は「命に関わる確率が60%なら、手術しなければ!」と判断できるものだろうか。

この問題は思った以上に難しい。

手術が失敗する確率が0.5%。

手術がうまくいっても病気の進行がさほど遅くならない確率が33%。

手術がうまくいって病気の進行が遅くなる確率が45%……。

あなたはこれらの数字をみただけで、「じゃ、傘を持って出かけよう」のノリみたいに、「じゃ、手術をうけてみよう」と判断できるだろうか?

ぼくはそんな判断は無理だと思う。




AIができるのは、判断をサポートするデータを提出するところまで。

AIが「診断を決定」してくれるような未来は来ない、というのがぼくの論点だ。




ただこの話には続きがある(それも記事中には書いてある)。

そもそも、患者が相手にするものが、AIだろうが、生身の医者だろうが、「患者が判断するときの困難さ」はさほど変わらないのではないか、という話だ。

患者にとって、自分のあずかり知らぬところにある大量の知識が自分に向かって「さあ決めて下さいよ」と詰め寄ってくる状況は、AIの普及以前に、人の医者を相手にする局面でもしょっちゅう発生していた。

このあたりをもう少しまじめに考えた方がいいんじゃないの……という話を最後に書いている。




まあよかったら読んでみてね。お前どっちなんだよ、って、つっこみたくなるでしょうから。そうなったらしめたもの。

「どっち」って決められないのが人間なんだよ、っていう結論が強固になるだけの話なのである。



追記:この記事を執筆したあとに、早川書房の「予測マシンの世紀」を読んでがくぜんとした。ほとんど同じようなことが、ぼくより巧妙な文体で丁寧に書かれていたからだ。まあそうだよな、みんな同じこと考えるよな、それにしてもあとからぱくったみたいでなんだか申し訳ねぇな、そもそも日経メディカルのインタビューを収録したのはもっと前なのにな、加藤さん、加藤さん、そこんとこフォローしてね、とか、そんなことを思った。

2019年3月27日水曜日

サインはもらえました

できあがって書店に並んだ本を、あらためて自分で読もうとトライしているのだが、目が滑ってしまってなかなか読めないでいる。

校正のときに丹念に読み過ぎた。

あまりに何度も読んだから、覚えてしまった。

読んでいても、ちっとも「おっ!」とか「おお!」がない。新鮮な感動がゼロだ!

だから、つまんない。自分の本はつまんない。

「……なんてこというんだ! おもしろいぞ!」

いや、そういうわけではなくて。

せっかく「紙の本」として形になって世に出たものを眺めても、中身はすべて知ってしまっているし、なんだか気恥ずかしいというか、なんというか、長年連れ添った夫婦がいちいち愛を語らない、みたいな、微妙な距離感になってしまう、ということを言いたかった。

ほめるところと言ったらイラストレーターさんとかデザイナーさんとか編集者とか、そういうところしかない。

もう自分の文章についてはノーコメントになってしまう。






先日コーチャンフォーという巨大書店の中で開催された「藤村・嬉野・かわいい子」のトークショーを見に行った。

藤村さん、嬉野さんというひとたちは、北海道のローカルバラエティ「水曜どうでしょう」のディレクターである。

彼らは最近本を出した。「仕事論」という。おもしろかった。

けれども本題は本の話ではなかった。何かというと、「ドラマ・チャンネルはそのまま!」の宣伝なのであった。ディレクター陣は最近、このドラマの製作にかかりきりだった。イベント開催日は、ちょうど地上波放送の前日である。

かわいい子、というのは元SKEで現在オフィスキューに所属している東李苑(あずま・りおん)さんという、まあほんとに顔のちっちゃいかわいらしい方で、この方はタレントでもありドラマにも出ている。

このかわいい子とむさいおっさん二人がとても楽しそうにトークをするイベント。

話題は終始、ドラマのことに尽きる。

本の話はいっこうに出てこない。

イベントが終わったら、本を持って二人の前に並べばサインをしてくれるという、サイン会もあるのに。

本の話にならない。

ぼくはそれをみながら、「あーわかるなーわかるなー」という気持ちでいっぱいだった。

やっぱ書き終えた本の話って、しづらいよな。





実際にはそんなことないのかもしれない。

トークショーの話題がドラマの内容ばかりだったのも、あるいは、会場にドラマ撮影に関わったスタッフが多くいて、その日のムードがドラマ一色だったから、に過ぎないのかもしれない。

けれどもぼくはずっと考えていた。

「自分の書いた本の話」というのは難しい。

「他人の書いた本の話」のほうが100倍簡単で、楽しくて、ためになり、気恥ずかしくないのだ。

2019年3月26日火曜日

病理の話(307) がけの上で犯人の生い立ちを聞くやつ

ある病気を詳しく調べるとき、「その病気が出た背景」というものを、よく気にする。



たとえば、「がん」のことを考えよう。

まず正常の人体に存在する無数の細胞(ブルゾンちえみいわく60兆個)を、「善良な市民」に例える。

ぼくらの体は、人口60兆人の巨大都市だ。シムシティでもここまで人口は増やせまい。すごいよな。

その、60兆人がうごめく巨大都市の中に、ちょいちょい悪人が出現する。これが「がん」。

悪人は最初はチンピラレベルだが、徒党を組んでヤクザになり、武器を調達してマフィアになり、悪の軍隊みたいになって世界を滅ぼそうとする。

ヤクザとかマフィアくらいの段階で、患者や医療者は「あっ、がんだ」と発見することができる。

なかなかチンピラひとりを捕まえてくることは難しい。善良な人々と見分けがつかない時期があるからだ。

でも、できればチンピラに毛の生えた程度の段階で捕まえてしまいたい。そうすれば、ヤクザやマフィアが街に被害を及ぼすことを防げるだろう。

じゃあ、どういう場所に、チンピラが出現しやすいか?

どういう理由で、チンピラは街に現れるのか?

それを考えるのが、「病気の背景を探る」ということである。





まずは治安だろう。

ある地域において治安が悪いとする。

具体的には、警察がうまく働いていない。あるいは、善良な人々の監視の目が行き届いていない。

教育・啓蒙が不十分だ、ということもあるかもしれない。

いろんな理由で、チンピラの芽が出現する。

万引きをしても平気なひとたち。ヤマザキ春のパン祭りのシールだけはがしてもっていってしまうクソガキ。燃えないゴミの日なのに勝手に燃えるゴミをおいていくやから。

こういった地域では、チンピラが発生しやすいのではないか、と予想できる。

そもそも治安が悪い地域で、チンピラの芽みたいなやつがうようよしていると、ほかにも新しくチンピラが出てきやすい。類は友を呼ぶ。




人体においてがんが出現するときも同じようなことを考える。

体内の警察(免疫)はきちんとがんの芽を摘み取ってくれているだろうか。

もともと荒れた地域で、炎症が頻発していたりしないだろうか。

たとえばそれはタバコに伴う刺激がくりかえしくりかえし加わっている人かもしれない。

さらには、DNAのエラー(教育・啓蒙の失敗)。細胞にさまざまなエラーが蓄積していたりはしないか。




この話をするとたいていの人は、こういう。

「なるほど、そうやって背景をきちんと探れば、がんの予防とか早期発見にもつながりますよね。体の環境が荒れた人からがんが出やすいとわかっていれば、環境を整えるにはどうしたらいいか考えたり、がんが出そうな人をピックアップして早めにがんを探しに行ったりできますもんね」

うん、あってる。

けどほかにもいいことはある。





がんの中でもとりわけ頻度が高いもののひとつ、「大腸癌」は、発生する背景によっていくつかに分けることができる。

そして、分けた大腸癌それぞれに、抗がん剤の効きやすさが違ったり、転移しやすさが異なったりするのではないか、と言われている。

もう見つかってしまったがんに対しても、背景を探ることで、「がんの由来から、がんの弱点を探し出すことができる」かもしれないのだ。




ある病気の背景を探ることは、その病気のウィークポイントを見いだす上でも重要なのではないかと考えられている。

大犯罪集団と戦おうと思ったら、得られる情報はなんでも得る。

情報戦こそが近代医学のあるべき姿なのである。

2019年3月25日月曜日

なぜ今日

ホワイトデーにこれを書いている。

うっかり「お返し」を多く買いすぎた。

去年までチョコをいただいていた方が退職されたのを忘れていた。例年通りの個数を買ってしまった。

もはやすでに「もらったことに対するお返し」というよりも、「何かを差し上げる日」となっている。だからもらった数をきちんと確認せずに、いつもの数でお菓子を揃えてしまったのだ。

ま、そこまで目くじらをたてることでもあるまい。お菓子は、自分のために買っていいものだ。余ったら食う。食うために余らせる。




「さようなら」という言葉は元来、「左様ならばこれにて御免」のような長いフレーズの一部であった、みたいな話をずっと掘り進めていくのは楽しい。

けれども、だからといって、「さようなら」には「左様ならば」の意味を今でも込めるべきだ、とは、ぼくは全く思わない。

慣用化したフレーズには慣用化したなりの使い勝手というものがある。

習慣化したイベントは習慣にまかせて駆け抜けてしまっていい。

元は「甘い愛」に関連したイベントであったホワイトデーも、すっかり「甘い物体」の日として定着してしまった。少なくとも、ぼくの中では。

それが悪いとは思わない。ポジティブにとらえていきたい。




恵方巻きはコンビニの陰謀と言った人がいた。

資本主義に踊らされるな、クリスマスは仏教徒として過ごせ、みたいな人もいた。

彼らはあるいは冗談で言っていたのかもしれない。まあ食品廃棄はいけないことだと思うけれど、それは精神的な問題ではなく、どちらかというと需給バランスを読み違えた社会構造をなんとかすればいいという話だ。資源や食料を大切にしている限り、これらはとてもいいイベントだと、ぼくは思う。

ほんとは土用の丑の日だって、需給をきちんと整えておけば、悪くない日だったのにな。

ぼくはうなぎをもっと喜んで食べたかった。そういう21世紀だったら、今よりもうちょっとだけよかったな、と、思わなくもない。

2019年3月22日金曜日

病理の話(306) 顕微鏡をみる仕事ではなく

「顕微鏡をみて病気を診断する仕事です」。

日頃われわれは、病理診断のことを、このように説明する。

実際には、やまほど言いたいことがあるのだが。



たとえば顕微鏡をみていない時間はとても多い。ほかにもみるべきものはいっぱいある。

けれども、一番イメージがしやすく、他と差別化しやすいから、「顕微鏡をみてます」と伝える。まあこれが一番キャッチーだということだ。

すると、たいていの人の脳内には、パッと顕微鏡が出てきて、少し前のめりで接眼レンズにメガネをくっつけた白衣の男が浮かぶようである。

このようにして病理医のイメージが整う。



昔はこれで十分だったのだが、最近は、脳内に顕微鏡を覗き込む白衣男性のイメージを植え付けた人々から、このように問いかけられることがある。

「『みて判断する仕事』ってことですね。ならば、この先AIが発達したら、コンピュータのほうが見て判断するのはずっと得意でしょうから、病理医はいらなくなりますね」

あなたもあるいはこのような物言いを、どこかで目にしたことがあるだろう。




こういう勘違いがちらほら見られるのにあわせて、ぼくらの説明方法も少しだけ進化した。

病理診断ってどんな仕事なんですか、と聞かれたら、

「顕微鏡をみて考えて語る仕事です」

と答えるのだ。




不思議なもので、「考えて」「語る」をつけると、とたんに「AIに奪われるんですよね」とは言われなくなる。

みんなAIが考えないと思っているようだ。

AIは語らないと思っているのだろう。

まあ考えるし語るんだけどな。




ぼくはこのあたりの話を、かつて、「いち病理医のリアル」の中で、「ドラえもんに会う前に」という章を設けて、とつとつ語ったことがある。

この章が一番人気があった。

AIはいずれドラえもんになるだろうか。

ドラえもんといってもポケットから便利な道具を出すロボットという意味ではなく、「のび太と普通に会話をできるロボット」という意味だ。

そんなの無理だ、という人はいる。

けれどぼくはいけるような気がする。

そして、ドラえもんに会えるようになった日、病理医を含めた大半の人間の仕事は「理論上」失われることになる。

理論と現実とはまたちょっと違うのだけれど……。

2019年3月20日水曜日

デンタリスト醍醐味

バラエティ番組の司会をしている人たちに共通する特徴というのがあって、まあもちろんこれはぼくが勝手にそう思っているだけなのだけれども、

「はじけるように、楽しそうに、笑う」

というものである。

有吉、松本、明石家、上田、などなど諸氏。

みな、アップで笑っているところを映されやすい。



さらに持論を続ける。

バラエティのゲストというのは、「笑い顔やリアクションをワイプで抜いてもらう仕事」ではないかと思っている。

これに対して司会者は、「笑い顔やリアクションを全画面で映してもらう仕事」。

ぼくは両者の違いをこのように考えている。



司会者として名をなす人々に共通するのは「毒舌の回数以上に笑っている回数の方が多い」ということ。

毒舌が多いか少ないかはともかく、笑顔>毒舌であることは確実だと思う。



「良く笑う人ばかりが司会者」であることはおそらく、適者生存の論理というか、ある種の「選択圧」がかかった結果ではないか。

視聴率が瞬間的に上がったシーン、下がったシーンみたいなものをじっくり秒単位で検討したところ、これらの司会者が画面に登場して笑ったシーンで軒並み視聴率がよかったのではないかと予想している。

逆に、笑いが少ない、笑い顔があまり映らない司会者のときは、視聴率が秒単位でちょっとだけ悪くなったのではないか。

以上は勝手な予想だ。でも当たってる気がする。根拠はないけど。確信に近い。理由は「勘」。

いろいろなやり方をしている人たちが、さまざまにテレビに映って、結果的に数字が良かった人たちが残るというのを繰り返していたら、よく笑う人が今こうして残っているんだろうな、という想像である。

専門家の人からするとつっこみどころはあるかもしれない。

けれどもぼくはこの件に関しては、別に「真実」に興味があるわけではないのだ。

そう信じたい、ということである。




笑顔というのは一番「作れない」表情だ。

作り笑いという言葉があるだろう。つまりは、「作るとバレてしまう」からこそ、こういう言葉が市民権を得るのだ。

では、どういうときに笑顔が「出る」か。

自分が機嫌良いから、あるいは機嫌良いよと周りに伝えたいから、笑顔。

自分が好きなことばかり目に入ってくるから笑顔。

これらは微妙に違う。

人を笑わせるための笑顔というのもある。

人の笑いに引っ張られる笑顔というのもある。

自分から自然に出てくる笑顔がどの類いのものなのかを知っておくことは、「司会者」という強力なメソッドにチャレンジする上で有効なのではないかと思う。




テレビに出たい人がいるとして。

ゲストを目指すのはいいが、誤解を恐れずいうならば、夢が小さいと思う。

世に何かを届けたいと思うなら、司会者を目指した方がいい。

オリンピックもワールドカップも目指さないサッカー少年というのがいてもいいけれども、そういった場所にたどり着くのは、「目指した少年」だけだ。

同様に、伝えるために必ず司会者になる必要は全くないのだけれども、あの場所にたどり着かないと、おそらく、いつまで経っても「届かない」ことを嘆き続けるしかないのではないか、と思う。

2019年3月19日火曜日

病理の話(305) 役に立ちそうで役に立たない少し役に立つチン毛の話

毛というのはいったい何の役に立ってるのかなあ、と、考えたことはないだろうか。

保温?

防御?

頭にある毛が何やら頭蓋骨を守るためなのではないか、というのはわからないでもない。

寒い地域では毛むくじゃらになって保温したのかもしれない。それはまあいい。

でも南方に生きる人はどうだ。たとえば赤道直下とか。

あんな暑い地域でチン毛生やしてる意味ってあるのか?

少なくともぼくは、意味わかんない。

大事なところに毛ってのは意味わかんない。あなたはわかるか? わかんないだろ?

大事なところだから物理防御? 毛で? 骨はやせよ。なんで毛なんだよ。





人間ってのは猿に比べると毛が少ない、すなわち、今は退化の途中だ、だからそのうち毛は全部なくなる、という仮説なら、わからないでもない……。

けどさあ、だったらさあ、なんでお腹の皮とかの毛が先に退化してるのに、ヒゲとか脇とか陰毛とかは「退化が遅い」んだよ。

なんでチン毛を最後まで残すんだよ。




……不思議だよねえ。




この不思議に、明確な「答え」はない。

ただ、ぼくは髪の毛が単なる「保温」とか「防御」の役割だけを果たしているとは思っていなくて、別にひとつ、答えを持っている。合ってるかどうかはわからない。

ググりもせず、論文も探さずに書いてしまうので、「ほんまでっか!?」くらいの気分で読んで欲しい。





今、人間に生えている毛は、防御とか保湿のため(だけ)ではなくて、「油脂を皮膚に供給するついでに生えている」んじゃないかなーと思っている。





勘違いしないで欲しいんだけど、鼻毛はきっと異物を取り除くために生えているんだろうし、髪の毛があるていど防御の役に立ってるのも間違いないとは思う。いくつかの毛にはちゃんと機能はある。

その上で。

比較的ツルツルに進化(退化?)した人類において、外表に毛が未だに生えている部分がどこかと考えていくと、なんとなくだけど、油脂分の分泌が多い場所かな、と思うのだ。

油脂分というのは、どこから分泌されるか、ご存じか?

毛穴からである。

皮膚は、毛穴以外の部分を「扁平上皮」によって覆われている。扁平上皮は、あまりに完璧な防御機構を持っているため、異物を決して体内に入れない見事なバリアの役目を果たすが、代わりに、体内から何かを外に出すこともできない。融通が利かないガンコな壁だ。

そこで、汗腺と呼ばれる穴を扁平上皮のスキマに開ける。これにより、体内から外に水分を出すルートを作る。ここから油脂分も分泌されている。

で、だ。

油脂というのは、べたべただ。

パイプにべたべたなものを流していると、詰まる。詰まると困る。

だからパイプの中に、「常に外側に向かってゆっくり移動しているベルトコンベア」を配置する。

そうすると、べたついた油脂分が、ベルトコンベアにのって体外に押し出されていく。

おわかりかと思うが、毛髪というのはこのベルトコンベアの役割を、(知らず知らずのうちに)果たしているのではないか、と推測している。



そこで考えるのは脇の下とか陰部だ。

ここでは、油脂分をいっぱい出す必要があるんだろう。

だからベルトコンベアが産毛じゃ足りなくて、けっこうしっかりした毛にしてあるんじゃないか。




となると今度は、「なぜ油脂分をいっぱい出す必要があるのか」を考えなければいけない。

陰部は、なんとなくわかる。排泄や生殖を司る場所だ、常在菌の態度が変わったりするんだろう。だから皮膚の環境を保つためには油脂分を含めた複雑な分泌が必要なんじゃないかなあ。

でも、脇の下はどうだ?

ぼくは脇の下がなぜ特別扱いされているのか、ほんとうに、よくわからなかった。




しょうがないのでちょろっとググる。

「脇の下からはフェロモンが出る」。

ゲェーッ

ほんとかよ!

フェロモン! ここにきてフェロモン!

ヒト医学にはフェロモンという言葉はあまり出てこない(出てくるのかもしれないがぼくは知らない)。

フェロモンは油脂分なのだろうか。それすら知らない。

人は脇の下から発散されるフェロモンで求愛されている、というのか。

うっそだあ。

そんなことないと思うけどなあ……。




まあ知らんけど、ほんまでっか!? くらいの気分で読んで欲しい。

サイエンスだってたまには雑に語っていいと思うので。だって毛だぜ。





※でも今日の話、めっちゃ書くのに時間かかった。雑に語ったとか言っといてこれである。ツンデレかよ

2019年3月18日月曜日

ものすごいくしゃみの擬音みたいなアレ

「こんだけ働かされて今さら時間外もへったくれもあるかよぉ」

なるつぶやきを見て、へったくれとは何なのか、と少し気になった。

ググり続けていると、へったくれの「くれ」は「あらくれ」とか「飲んだくれ」と同じような意味ではないか、みたいな、本質にかすっているのかどうかよくわからない知識がいくつか手に入った。結局「くれ」とはなんなのだ。そして「へったくれ」とは何のことなのだ。

「へちまがまくれたもの」?

へちままくれ へちまくれ へっちまくれ へまっくれ……

へちまがまくれてへったくれになるだろうか?

なんだかウソっぽいなあ。「まが抜けている歴史」ではないか。




さておき。

ネットのなかった時代に、「へったくれとは何なのか」を調べようと思ったら、とりあえず辞書とか辞典のようなものを調べるしかなかったわけだ。それに比べりゃ、今のほうが、まだましか。

昔は辞書とか辞典が全てだったんだよな。

じゃあその辞書というのは、いつからこの世の中に存在しているのであろうか。




辞書 いつから で検索をする。

すると、日本最古の辞書は空海が作ったのではないか、という説が出てきた。漢字のお経をきちんと読むための漢和辞典みたいなものだろう。たぶん。

真贋はともかく、うーん、確かに空海が最初に作ったものというインパクトには心惹かれるものがあるけれど、

「へったくれって何なの」

という疑問に答えてくれているようには思えない。

ぼくが考えている、実学や雑学がたっぷり詰まった辞書とは、ちょっと違うなあと思った。

「いつの間にか世に広まって、広まりすぎて、いつしか語源がわからなくなったけどみんな当たり前のように使っている言葉」の、歴史とか、由来とか、隠れた意義とか、そういうことをきちんと書き記した書物。

いったいいつから歴史に登場したのであろうか?

この疑問は、結局、調べても調べてもよくわからなかった。

Googleは博物的な事象の羅列にはかなり強いけれども、時系列をどんどん遡るタイプの検索には(強いことは強いけど)もろいこともあるなあ。

今この瞬間に世の中にあるモノについては、とても多くの人々が一斉に調べて、書いて、探って、とやっている。

けれども過去に生じたことは、過去の段階で記録していなければ、あとはもう考古学といっしょで、推理して仮説を打ち立てるところまではいけるのだけれど、その先の「こたえあわせ」は決してできないのだった。




仮説形成法(アブダクション)は、ぼくの仕事においてはかなり重要なのだけれど、帰納法や演繹法に比べるとちょっと立場が弱い、脳の使い方。

きらいではない。むしろ好きだ。

「へったくれの由来は、へちまがまくれたものじゃないかな。」

「辞書をはじめて作ったのは、空海さんだと思うよ。」

これらの仮説がどれだけ確からしいのかをじっくり調べていく作業は楽しい。

けれども、うん、Googleには荷が重いなあと感じる。

アブダクションはビッグデータやAIとの相性が、良いようで、悪い。

アブダクションは人間がアナログな脳作業でやっていかなければいけないんじゃないかなあ、と思う。

2019年3月15日金曜日

病理の話(304) 時空間的遠隔操作プログラム

先日、「はやぶさ2」が小惑星リュウグウにタッチダウンしたニュースを見た。すごいねあれ。

だってとんでもない遠隔操作でしょう。

着陸時のプログラムを途中で変更した、とか言ってるけど、その変更したプログラムを届けるのに、どんな魔法を使ってるのか検討がつかないよ。たぶん電波かなんか飛ばしてるんだろうけど。

だってぼくら、ちょっと地下に入ったらスマホ圏外になったりする暮らしをしてるわけじゃん。

星の向こうだぜ。圏外とかどうやって解決してるんだろうな。



それに、ソフトウェアのプログラムは多少なりとも書き換えられるかもしれないけど、ハード……本体のほうは、一度宇宙に飛ばしちゃったらもう変更しようがないじゃない。

どうするんだろうな。たとえば途中でアンテナが一本折れたりしたらアウトでしょ。太陽光とか紫外線とかの影響で表面にダメージ受けてもだめじゃん。

はーすごいなあー。ありとあらゆることを予測しておいて、備えて、最初に作っておいて、送り出したらあとはもう最低限の制御しかできない状態で、小惑星の砂とか小石を拾ったりしてるんだもの。

たいしたもんだよなー。




……ってことを、人体の中で、あらゆる細胞がやっている、と考えられる。

父親と母親から受け継いだ受精卵には、「すべてのプログラム」があらかじめ入っている。この受精卵ひとつが、最初は母親の胎内で庇護を受けながら、あるとき、世に放たれる。生まれたら周りの人はさまざまに、かいがいしく、世話をやく……。

けれどもさあ。

そのお世話はさあ。人体のプログラムを動かすためでは、ないじゃん。

栄養をあたえたり、熱や物理的ダメージから守ったり、排泄を手伝ったり、というメンテナンスはできるよ。周りの大人ががんばってさ。

それでも、たとえば、脳を発達させるとか、手が器用になるとか、胃腸が強くなって食べ物を消化吸収できるようになる、みたいな、「体内でプログラムがうまく作動して、何かを成し遂げること」については、どんなすごい大人であっても、基本、手助けができない。

ぜーんぶ、生まれ持ったプログラムである「DNA」が成し遂げることなんだよな。




そう考えると生命というのは、はやぶさ2よりもさらにちょっとすごい、「遠隔制御前提の超絶プログラム」を搭載しているってことになる。

しかも何十年も継続稼働するんだからたいしたものだ。




で、その、プログラムに、多少なりともエラーが出てくるというのは、これはもうしょうがないことだ。加齢と共に「DNAのプログラムエラー」の結果、「がん」という難儀な病気ができてくることは、ほんとに、悲しいことだけど、避けられないことでもある。

ただそのプログラムエラーすら、人間は今や、なんとか修正できないものだろうかと、考えているのだけれども……。

2019年3月14日木曜日

いんようラジオもひとつのかたち

「病理の話」は300回を超えた。

今までもやってきたが、今後はもっと、昔書いた内容を定期的に掘り返して、今の読者に伝える作業をしたほうがいいと思っている。

 バックナンバーにありますから、というのは不親切だろう。SNS時代なのだから目の前に飛んできた記事にライトにアクセスしてなんぼだ。バックナンバーを掘り返すような奇特な人は、ぼくのフォロワーにはせいぜい1000人くらいしかいない。

昨日の記事にも書いたけど、説明を繰り返すごとに上手になる場合と、説明を繰り返して飽きてしまって雑になる場合があるので、そのあたりはきちんと意識して、丁寧に書き直しをしていこうと思う。

がんの話なんてのは何度語っても語り口が変わってしまう。どれが一番いい、ということもなく、記事によってアプローチするクラスタが少しずつ変わっているのだろうな。




たとえば今日の記事のような、「病理の話の間に挟まっている記事」についても触れておく。

これはつまりエッセイだ。病理の話「以外の話」なので、オールジャンルであり、ノンジャンルである。基本的に本の話が1/3くらい。あとは旅先で思ったこと、自室で考えていることなどが多い。

管理者権限でアクセス数を見ていると、病理の話も、それ以外の話も、アクセス数は毎日ほとんど変わらない。たぶん定期的に見てくれる人や、定期的にRTしてくれる人がいるからだろう。ありがたいことだ。

ぼくはもともと、「病理の話だけでは世に届かないだろう、だから一般的な話やキャッチーな話などを交互に織り交ぜて、幅広い人々に読んでもらいたい」という計算をして、このブログの「書き方」を決めた。

でも一般的な話と病理の話のアクセス数は結局変わらない。そうなのか、おもしろいなー、と思う。

タイトルが毎回「病理の話」のものと、タイトルを毎回変化球気味に設定している記事のアクセス数が変わらないのだ。広告代理店だったら首になるレベルである。



実際のところ、このブログの読者が何を思い、どういうところに引かれて記事を読みに来ているのか、ぼくはあまり「対策」していない。

どちらかというと多くの手数で違ったアプローチを「し続ける」ことに重点を置いている。ぼくの使える媒体がもしブログだけだったら、もう少しいろいろな対策をしたかもしれないが、Twitterもnoteも紙の書籍も、学術研究会での講演や論文執筆、さらには日本病理学会の学術評議員活動もあるわけで、これらにはそれぞれ異なる「読者・視聴者」がいるわけで、それぞれに少しずつ本気を出していくというのが現状、ぼくが信じている「一番広く届く手段」なのだ。



たぶん世の中には「もう少し手段を減らしてリソースをつぎ込んだほうがいいものが出せるタイプの人」がいる。一方のぼくは八方美人であり、単一の手段に依存していると自分が飽きてしまう。

こういうやり方で届く人も届かない人もいる。ぼくのやり方がうまく届かない人に対しては、ぼくとは異なるやり方で、ぼくがいいと思う手段をとっている人を、ツイッターで例えるところの「リツイート」していくのがいいだろうな、と思っている。

そうすれば、望外に集まったこのフォロワー数を、一番活用できるのではないかな、という話だ。




あと3か月ほどしたらnoteをはじめる(追記:この記事を書いたあとに結局すぐはじめました: https://note.mu/dryandel )。書く内容は、三省堂池袋の「ヨンデル選書フェア」に出した本の書評だ。数日おきに125冊程度を紹介する予定である。noteにはバックナンバーを参照しづらいという大弱点があるのだけれど、書評なんてものは日々移り変わっていってなんぼなので、かまわないだろう。もはや病理とは何の関係もない、ある意味ぼくにとっては一番エッセイっぽい企画であるが、もしかするとその書評こそが一番届く奇特な人も、世の中にはたぶんいるだろうな、と思っているのである。

2019年3月13日水曜日

病理の話(303) カナリア研修医

マンガ「フラジャイル」の中に出てくる大月という泌尿器科医の話をする。

彼は研修医・宮崎に対して、ホワイトボードに腎臓の絵を描きながら説明する。

そのとき、彼の描く腎臓の絵が「うますぎる」のを見て、宮崎はこう思う。

「描き慣れている」

「きっと何度も何度も、患者に説明するために描いたんだ……」




医者は同じ説明を何度でもする。

新しい患者が外来に来る度に、その患者が知らない「がんの話」、「感染症の話」、「免疫の話」、「代謝や内分泌の話」、「神経や筋肉の話」、「心臓や血管の話」などをする。

いつだって、新しく来る患者は「知らない」からだ。

昨日やってきた患者に説明したから、今日の患者には説明しなくてもいい、ということはない。




すると同じ事を何度も話すことになる。

そこで、「説明がどんどんうまくなるタイプの人」と、「雑になるタイプの人」がいて……。




……と、思っていた。でもどうやら違うようだ。

同じ人の中にも、「どんどん説明するのがうまくなる領域」と、「少しずつ説明が雑になる領域」がある。

たとえばぼくの場合、病理の話といっても、がんの話については年を経るたびに解説する方法が多くなり、説明した相手の表情も明るくなっているのだが。

免疫の話のほうは、そうでもない。相手がキョトンとしてしまうことが増えたように思う。




同じ事を何度も説明するというのは、メリットとデメリットを両方含んでいる。

わかりやすくなるときも、わかりづらくなるときもある。




さて、病理医として日々働いていると、同じような文面の報告書を書き続けるときがある。

同じようながん。同じような組織所見。となれば、病理診断報告書もまた似通ってくる。

そこでふっと立ち止まって、自分のレポートの文章力を確認できるかどうか。

自分の書いた物ははたして、臨床医にとって、「長年の経験により読みやすくなった、よいレポート」なのか、あるいは「長年書いているうちに雑になり、内容がいまいちわかりにくくなったレポート」なのか、どっちだろうか。




自分のレポート内容がいい方に変わっているか、悪い方に変わっているかを見極める手段が一つある。

それは、初期研修医に読んでもらうことだ。

病院で働き始めて間もない、医学生としての知識はあるが臨床経験はまだほとんどない、フレッシュな研修医たちに文章力をチェックしてもらう。

彼らが理解できないような文章は、汎用性が低い。

だから、病理医は、できれば研修医と頻繁に連絡をとれるようにしておくといいのではないかな、ということを、最近のぼくはよく考えている。

2019年3月12日火曜日

移動する点Y

寝ても寝ても眠い、というのはもはや人間の真理だと思っていた。

でも、ちがった。

40になろうかという頃から、この、寝ても寝ても眠い、という状況が覆った。

話に聞いてはいたが、自分に起こりうることとして、あまり真剣にとらえていなかった。

「寝ても寝ても」ができなくなったのだ。

朝方になり、目が覚めてから、十分に二度寝ができなくなった。寝続けるには体力が必要だったのだ。

あまり長く寝ていると体が痛くなる。枕が外れて寝ていたためか、首が痛い。そろそろ体を動かさないと余計にだるくなる、という感覚にたまに襲われるようになった。

トイレにも行きたいし。

いったん目が覚めてしまうと、その日やろうと思っていたことを思い出して、ああ、もうそろそろとりかかろうかなあ、と気にしてしまう。

するともう眠れない。




寝ても寝ても眠い、という現象は若いときだけだったのだ。

寝続けられないのだから。

今はこうだ。

「結果的に眠い」。

自分で能動的にどうにかできることの数が減り始めている。

「結果として」、どうこうなることが少しずつ増え始めた。




若い頃、いわゆる「積ん読」の人をみて、「なぜ本を積んだままにして不安にならないのだろうか」「なぜすべて本を読んでから次の本を買おうと思わないのだろうか」と、非常に疑問だった。

でも今ならわかる。

本を読み続けるには体力が必要だった。

本は、読み残しているわけではない。いつのまにか残ってしまうのだ。

自分でどうこうできるものではなかったのだ。




能動でできることの数量、質の深さ、それぞれ変質してきている。

あれもこれもとできなくなった。時間をかけられなくなった。

こういうことを言うと、もっと年上の人たちから、「まだいいほうだよ、そのうちもっとできなくなるから」と言われる。

でも彼らはわかっていない。

ぼくが今実感しているのは、数量や深さの「絶対値」ではない。

それが加速度をもって「減り始めた」こと。

関数に例えるならば、点Pの座標そのものではなく、その点Pが加速度を持って落ち始めたという「傾き」におののいているのだ。

絶対値が高い、低い、ということよりも、変化率のほうに、軽い恐怖を覚えている。




恐怖とともに、自分が今「能動的に」どう対処していこうかということを考える。

朝寝ができなくなったというならば、夜は少し早めに休んでおいたほうがいいだろう。

夕方以降にあまり興奮するのもよくないだろうな。

めしの食い方、酒の飲み方。運動の仕方。

そして本を読むタイミング。

こうしたものを少しずつずらしていって、自分が能動で何かをやれる部分を改変していかないとな、と思う。

流されまくって生きていくのも、悪くはないけれど……。

2019年3月11日月曜日

病理の話(302) わからなみが深み

どこか具合が悪くなったときに、病院に行く。

なぜ自分の具合が悪いかはよくわからないが、どこかに痛みがあったり、けだるさがあったり、せきとか鼻水とか下痢などの症状があったりする。なぜかはわからないが、何かが起こっている。

「わからないけれど、いやなことが起きている」。

これで人は病院に行く。



病気の名前を教えてもらい、その対処法も教えてもらう。

病気の名前を聞いても、「わからない」ことに代わりはない。

薬をもらったところで、その薬がどうやって自分に効くかは、「わからない」。

おまけに薬がいつ頃効き始めるのかも、「わからない」。

どれくらいしたら治るのか、あるいはよくなるのか、「わからない」。



病院に行ったあとも、「わからない」は延々と続く。

そこを丁寧に解きほぐしてくれる医療者に出会えば、「わからない」はある程度解消される。

けれども、医療者も、次から次へとやってくる患者を目の前に、すべての人に一から十まで説明をするほどの時間はない。

残念ながらそれは事実。だから、「わからない」は、残る。

でも……。

「わからない」は残っても、治療をすれば良くなると、医者は言っている。

治ってしまえば、今こうして悩んでいたことなんて、きれいさっぱり忘れる。

だったら、多少「わからない」ままでも、いいかな。




人間はわからないものを放置したまま生きていける。

知るために苦労しなければいけないとか、知るために時間がすごくかかるとなったら、とりあえず「わかること」を後回しにできる。優先順位を下げられる。

インターネットがなぜこんなに瞬間的に情報をやりとりするのか知らなくても、ぼくらはスマホで動画を見ることができる。

それといっしょだ!




それといっしょだ!

と書いたから、きっと、これを読んでいる人のうち何割かは、

「違う!」

と勢いよく反応してくれたのではないか。

「違う! 私はやっぱり知りたい! だって自分の体のことだもの!」




当然だ。だから医療情報が世の中にあふれるのである。

そして……。




実は医療者も日々わからないことに直面している。

この薬を使えばこの病気が治るということは、「わかった」。

でも、同じ薬を使ってもうまく治らない人がいるときがある。

治る人と治らない人の違いはなんだろう? 「わからない」。

仮に、「わからない」ままであっても、この薬を使えば一部の人は確実に治るわけだし、治らない人には別の治療をすればいい。理由がどうあれ、やることは変わらないのだ。

だから、「わからない」ままでも、いいのだ!




……よくない! いいわけあるか。

ということで、医療者は常に、自分たちが用いる医学の細かな疑問点……マニアックな「わからない」を、問い続けている。

その問いを掘り下げ、解決法を探る仕事をする人たちの中に、病理医もいる。

だって我らは「病の理」を追い求める医者なのだ。

「わからない」を「わかる」に変えてくれる「理」を探すのがぼくらの仕事。




……ただ病気に名前を付けるだけならAIでもできる。

けれども、「わからない」を「わかる」に変える作業は、今のところ、人間の方がだいぶ得意なのだ。


2019年3月8日金曜日

衝動でshow

ドラマとか映画の宣伝を行うツイッターアカウントは、ドラマの放送が終わり、ブルーレイの販促も終わると、そのままアカウント休止してしまうことがある。

というか、そういうケースはすごく多い。

無理もないとは思う。スタッフは次の創作に向かって走り出さないといけないからね。

いつまでも過去の作品に対してあーだこーだと盛り上がれるわけではない。

視聴者側はいつその作品を見てもいい。けれども制作という活動は、物語が公開されてある程度世に広まったら、もうほとんど付け加えることができない。

だからアカウントも眠りにつく。これはもうしょうがないことだ。



公式アカウントは沈黙するけれど、代わりにファンたちが、いつまでも作品を語り続ける。数年前の大河ドラマ。20年以上前の月9。子どもの頃のアニメ。いつだって、語り続けるのは制作者じゃなくて、視聴者のほうだ。



ぼくは好きな作品の公式アカウントをあまりフォローしない。

そのアカウントが発信をやめ、沈黙する姿に、廃墟のようなさみしさを感じてしまうからだ。

作品についての情報を得たいなら、むしろ、練度の高いファンを幾人かフォローしておいたほうが、情報の量も質も高かったりする。必ずしも公式が一番発信がうまいわけではない。なにより、「公式アカウントの死」を見なくてすむではないか。




……。




と、こういうことを考えているときに、たまに思うのだが、水曜どうでしょうは今でも公式がずっと活動を続けていて、だからファンはうれしいのだな。

「一生どうでしょうします」というのは、そういう意味だったんだ。

2019年3月7日木曜日

病理の話(301) 感情移入病理医のこと

もうだいぶ昔になってしまった、ある思い出話をする。



あるときボスと一緒に顕微鏡をみていた。

すると彼は悲しそうにこう言った。

「若いのになあ」



顕微鏡にわずかな違和感をとらえたボスは、ぼくならば見逃してもおかしくないような難しい診断を、さらりと下した。ぼくはその診断にたどり着いたボスを尊敬した。

ところが彼は自らの会心の診断を全く誇らなかった。

むしろ、悲しそうに、いかにも残念だ、という表情だった。

その病気は、治療が難しいことで有名だったからだ。診断がうまくできたことはいいとして、患者にとっては決して朗報ではなかった。

ボスは、患者の年齢とこれからの運命に対して瞬間的に思いを馳せ、「まるで素人のように」感想を述べたのだった。




ぼくはその姿に心を打たれた。




ボスの苦悩は「ポーズ」などではなかった。あきらかに彼の人間性がもたらした、「厳しい病気の人を目にしたときの、自然な感情の発露」だと思った。

自分の仕事が常に「悲しみを宣告する」という側面を持っていること。

わかってはいた。わかっていたつもりだった。

けれどもボスの嘆息する姿をみて、ぼくは果たしてそこまで患者に想像力を働かせているだろうか、と、疑問に思った。

病理医は年間5000人くらいの患者とすれ違う。

ざっくりと計算して、普通の医者の5~10倍といったところか。

ただし、すれ違うのは患者のごく一部分だけ。患者から採取されてきた組織片や、小さな細胞のかたまり。これらを肉眼や顕微鏡でみたり、遺伝子検査を行ったりして、患者の病気の本質に迫る。

つまりは患者と会話しない。患者の生活を共有しない。あくまで病気と向き合えばよい。だからこそ臨床医が出会う患者の何倍もの患者と「瞬間的にすれ違う」ことが物理的に可能となるのだ。

多くの病理医は、そして、大量の患者とすれ違う際に、いちいち患者の人間的な部分に興味を払うことはしない。

というか、できない。物理的に多すぎるのだ。

札幌ドームで野球が開催されるとき、受付でチケットをちぎる人は、客一人一人の表情をみて、連れ立って歩いている家族や友人を眺めて、彼らの感じていることや抱えているものを想像しているだろうか?

普通は無理だと思う。多すぎる相手と一瞬だけすれ違って仕事をしていく関係というのはそこまでウェットではあり得ない。

けれども、ボスは、どうやら、ひとりひとりの患者に、想像力を働かせているようなのだった。

ぼくはなんだか呆然とした。





ひとりひとりの患者に感情移入していたら、年間5000件の診断はやっていけない。

それは負担が大きすぎる。病理医の精神がつぶれてしまう。

けれども、「するな」といって、「やめられる」ものでもない。

だからたいていの病理医は、多かれ少なかれ、患者に対して「ちょっとだけ」心を投げかける。それは一方的かもしれない。けれども、投げかける。

その「ちょっとだけ」が、ぼくから見て、ボスの場合は、どうもずいぶんと、大きいなあと思った。

果たして、ぼくはどこまで患者のことを想像できるものなのだろうか、と、そのとき思った。




もう10年以上昔の話だ。

昨日のことのように思い出せる10年前のできごと。

ほかには、ない。このことだけを強く覚えている。我ながら、よっぽど「悔しかった」のだろうな、と思う。なぜだろうな。

2019年3月6日水曜日

突然のヒロイン化

ノートパソコンに向かってのめり込むようにキータッチをしていると疲れてしまうので、ちょっと前からワイヤレスの外付けキーボードを購入して、パソコンから体を離して入力するようにしている。

ところが今度は手首が痛くなるようになった。

キーボードの高さに対して手首がわずかに「鎌首をもたげる」ので、手の甲側が疲れてしまった。今日はっきり感じた。

出勤してきて最初にメールを入力した瞬間からもううんざりしてしまったくらいだ。手がつらい。

ノートパソコン本体のキーボードで入力すればこの痛みはなくなる。

しかしノートパソコンのキーボードだと画面が近すぎるのだ。ちょろっと数分入力するならばともかく、数時間以上ノーパソに集中すると首から上が大戦争状態になってしまう。



なんでこんなことに。

だいたい、ぼくは確かにキータッチしている時間が長いけれど、世にはもっと長くキータッチしなければいけない職業の人がいっぱいいるではないか。

プログラマとか。

SEとか。

プログラマとSEの違いがよくわからんけど。

あとシステムエンジニアとか。……それSEだな。




で、いろいろと調べてみると、キーボードといってもいろいろあるらしい。

ぼくが使っているbluetooth外付けキーボードはとても安い奴だ。キーが一個一個でかくて、高くて、入力のたびにバカスカ音がする。

けれども少し値段の高いのを探ると、あるわあるわ……

メンブレン型というキーボードが一番安いらしい。けど指への負担も一番強い。

パンタグラフ型というキーボードはノーパソにも搭載されているタイプのやつだ。薄くて長時間の入力に向いているという。ぼくは昔、VAIOのキーボードを打鍵しすぎて壊したことがあり、そのときパンタグラフ型の「パンタグラフ」の部分を直に目にしたから、なんとなくああいうやつだというのはわかる。耐久性には問題があるなあ。

静電容量なんとか型というのが一番高価だ。ほかのキーボードと比べて値段が一ケタ違う。




……迷った末にパンタグラフ型を注文することにした。値段は3000円程度。静電なんちゃらだと30000円くらいするし、まあしかたなかろう。





Amazonでワンクリックするとき、先日タイムラインで見かけたツイートをふと思い出す。

「最近の大学生は、新書一冊も高いといって買わないくせに、スタバでフラペチーノを飲みまくっている」――

言いたいことはわかるが、やめてやれや、と思った。

きっと、ぼくのキーボードに対する投資も、色々言われるのだろう。

「いいねえ、ノーパソのキーボードをそのまま使えばいいのに、そこであえて3000円足して買う姿勢!」

「ノーパソなんて買い足したことないわ、カネ持ってるねえ」

「3000円ったらけっこうな額だぜ」

たぶんスタバでフラペチーノを飲みながら新書をあきらめる大学生も同じように言われているだろう。

「そのフラペチーノ毎日飲むのをやめれば新書なんてすぐ買えるべや」




ぼくは言い訳ができる。キーボードは仕事で使うんですよ。毎日何時間も向きあいますからね。3000円で数年分の仕事の効率を買えるなら安いもんです。

一方、フラペチーノは言い訳がしづらいのではないか。

必需品ではないから、とか言われてしまうかもしれない。

けれどもぼくは、なにくそ、と思うし、てやんでぇ、とも思うので、今回のキーボードの購入に対して、あえてこう言わせてもらおう。





フンパツして、買っちゃった! いいでしょ!

2019年3月5日火曜日

病理の話(300) 日本人ってひとことでまとめるなよ

「同じ名前であっても、実際にはまるで違う病気の集合体」の代表をご存じだろうか。

知らない人はいない病気を2つあげよう。

それは、

・かぜ



・がん

である。





かぜというのは正しくは「ウイルス感染症」だ。ウイルス、すなわち外から体内にやってくる小さな小さなエイリアンが、我々の中でいろいろと悪さを起こす。悪さというのは「せき、鼻水、のどの痛み」などだ。

この「せき、鼻水、のどの痛み」を引き起こすウイルスは一種類ではない。何種類もある。

ライノウイルスとか。コロナウイルスとか。RSウイルスとか。パラインフルエンザウイルスなんてのも。ほかにもいっぱいある。

これらは本来、ウイルスごとに、「ライノウイルス感染症」とか、「コロナウイルス感染症」と名付けるべきものだ。だって原因が違うんだからね。

でも、まとめて「かぜ」としてしまう。

なぜか?




それは対処法がほとんど変わらないからだ。

ライノウイルスだろうがコロナウイルスだろうが、かぜにかかったらやるべきことは、

「無理をせず、寝て、ほどよく水分や栄養をとりながら、時間が過ぎるのを待つ」

しかない。

ライノウイルスに対する特効薬がなく、コロナウイルスに対する特効薬もない。

またこれらを安価に、迅速に見極める検査というのも存在しない。

だからまとめて「かぜ」として取り扱うのだ。




対処方法がいっしょである病気、そして見た目にも、社会的意義を考えても、分けて取り扱う必要がない病気を、まとめて同じ名前で呼ぶ。

これはとても合理的なのである。





一方、「がん」のほうはちょっと事情が異なる。

たとえば膵臓がんという病気には多くの異なる病気が含まれている。

・浸潤性膵管癌

・腺房細胞癌

・神経内分泌腫瘍

・腺扁平上皮癌

・ほかにもいっぱい。

これらはすべて、推測される将来像(ほうっておくとどうなるか)が少しずつ異なる。治療の利きやすさ、使える薬なども異なる。

ところが世の中では「がん」とひと言でまとめられている。

おまけに、おなじ「通常型膵管癌」も、その進行度合いによって治療方法は全く違う。

「ステージ1の浸潤性膵管癌」と、「ステージ3の浸潤性膵管癌」では、医療者や患者が取り組む内容はまるで別モノなのだ。

となると、「がん」という言葉で、それぞれ異なる病気をまとめて呼んでしまうことには無理がある。

「かぜ」ほど合理的ではない。少なくとも、患者にとっては。

でも、行政とか教育においては、「がん」という存在をまとめて扱うことには、ある程度納得できるだけの価値がある。






病気の分類とか名付けというものは本当はとても難しい。

難しくて、気を遣う。

いったい誰がそんな難しい作業をしているのか、というと……。

まあいろいろな人が関わるんだけど、病気の名付けに関しては、病理医が関与するケースはかなり多い(このことは普通の医者すら知らないようだ)。

病理学とは分類と名付けの学問だ。名前がもつ「強さ」や「効果」をよく知り尽くした上で、丁寧に扱う必要がある。




……世の中に、「丁寧に扱う必要がないもの」なんて、そうそう存在しないとは思うけれど……。

2019年3月4日月曜日

四面体まであと一歩

毎日、気づけば、応援をしている。見知らぬ人の応援。

いいねをおしたり、リツイートをしたりして、応援をしている。

顔も知らない人の、たかだか80文字程度の何かを読んで、そうかあがんばれ、うまくいくといいね、とつぶやき、応援をしている。



自分が生きたかもしれない人生、そして自分のものではない人生に、心の投資をする。

そうすることでぼくは、

自分が何かを成し遂げていないとき、

「人が何かを成し遂げる過程に絡んでおこう」とする。



他人の喜びは自分の喜びではない……。

でも、他人ががんばっているときに自分がいっちょかみしていれば。

その他人が成功したときに、自分も、成功の立役者のひとりとして、1%くらい、あるいは、0.1%くらい、成功者の気分のおすそわけをもらえるかもしれない……。





こんな底意地の悪い発想が自分にあるのではないか、と、しばらくの間、心を探っていた。

「情けは人の為ならずという言葉を都合良く解釈してはいないか?」

「その応援、一味になりたいという下心あってのものではないか?」





応援される方もよくわかっているのだ。そんなことはとっくにわかっているのだ。

ぼくらは大人だから、自分たちの利己的な一面をよく知っている。

応援することで気持ちよくなるなら何よりじゃないか、と、人の応援を見ながら考えることもある。

だったら自分だって、どこまでも利己的でいいじゃないか、どんどん自分のために誰かを応援していけばいいじゃないか。

ぼくは「自意識サーキット」で耐久レースをする。

何周も何周もしている。

自分のため? 他人のため? 自分のため? 他人のため?

自分の「いいね」が持つ、きれいな意味と汚い意味を、ときどきピットインしながら、何度も通過していく。




ぼくがすでにいいねを押した回数は多い。ツイッターだけでも87000回くらい押している。

ぼくは87000回のおすそわけを期待していたのかもしれない。

けれども、どれだけの数のいいねが、実際におすそわけとしてぼくに帰ってきたのか。

もはや全くわからない。




この世にはおすそわけの曼荼羅みたいなネットワークが張り巡らされている。

とっくにわかっていたことだ。

どちらかがどちらかに一方的に与える関係など、観察しようもない。

いいねを押す人と押される人、みたいな、

「与える人ともらう人」という関係は、

実は元々存在しないのではないか……?




サーキットを離れて空に飛ぶ。

「いいね」はもしかするとケアのかたちなのではないかと思い立つ。

「居るのはつらいよ」を読みながら、ケアについてずっと考えていた。

ケアはする人とされる人に分かれる……と、こないだまで思っていた。

けれども、「勉強を教える生徒のほうが教わる生徒よりも勉強になる」ことがあるように、

ケアもまた、「ケアをしているほうが癒やされる」こともあるのだという。

「する」ではなく、「ある」「いる」という医療。

「ただ、いる、だけ」の、重み。そして、力。




「いいね」もまたケアなのか。

押す人も、押される人も、「いいね」の両端にいて、共に「いいね」を支えているだけなのではないか。




ぼくは診断・治療・維持でいえば、診断畑の人間だ。

診断・治療・維持。

デシジョン、セラピー、ケア。

医療におけるさまざまな「評価と分類、決定」(診断、デシジョン)を司る場所にいて、

患者に能動的に何か変化を与える「介入」(治療、セラピー)に強く影響を与えながら、

今、ずっと気になっているのは、「居続ける」(維持、ケア)。




ケアのカギは「いいね」にある。

ぼくはこのピースをきっちり深めていきたい。

その先に、ぼくの仕事が今よりずっと迫力をもって立ち上がってくるのではないかという気がしているのだ。

2019年3月1日金曜日

病理の話(299) バーでカズレーザーに会うということ

「芸術・無意識・脳」という本を読んでいてさまざまなおもしろみがあった。

人間の目というのは「絶対的な色調」を判断しているのではなくて、周囲の色とのコントラスト(相対的な色合い)を見ているのだということ。

世には有名な錯視があり、あなたもみたことがあるだろう。このタイルとこのタイルは違った色に見えますけれど同じ色なんですよ、みたいなやつ。Googleで「錯視 タイル」とやればいっぱい画像が出てくる。


で、このことを説明するのに、「芸術・無意識・脳」はなかなかおもしろい例を出していた。

白いワイシャツの上に赤いネクタイをした人と、昼間に太陽の下で出会うと、「あっ、赤いネクタイだ」とわかるのだが、夜に薄暗いバーで出会っても、「おっ、赤いネクタイだ」とわかるというのだ。

そんなこと考えたこともなかった。

けれど、確かに、言われてみれば、昼間に見たネクタイと、夜に見るネクタイ、周りの明るさが違えばまるで違う色に見えてもおかしくないのに、ぼくはそのいずれも、「赤いネクタイだなあ」と連想してしまっている。

これはつまり「白いワイシャツとの差」を目と脳がきちんと認識して、「白いワイシャツの上にこれだけの差を放つならば赤ですね」とうまいこと補正して知覚してくれているからなのだ。

そして、暗闇の中で、赤いワイシャツに赤いネクタイを着けている人の「ネクタイの色」は、きっとよくわからなくなるだろう。

ぼくはこの最後の「赤いワイシャツに赤いネクタイだと色がわからなくなる」という現象を、実際に試してみたくてしょうがない。

でも赤いワイシャツも持ってないし、赤いネクタイも持ってないのだ。カズレーザーと友だちになるしかないのだろう。




で、ぼくが目下、知りたいこと。

それは、「AIによる病理診断」で、コンピュータが病理組織像を認識するときには、画像の何を認識しているのだろう、ということだ。

一昔前は、画像をピクセルに分解して、その形態とか色調のパターンを読む、ということをやっていたと思うのだが……。

形態でいいのだろうか。

色調でいいのだろうか。

コントラストは読まなくていいのか?

画像全体から得られるゲシュタルトな雰囲気は読まなくていいのか?

人間の左脳的な認識だけでいいのか? あるいは右脳的な認識だけでいいのか?

人間を超えるためには人間と同じ事をやっていてはだめな気もするが。

とりあえず画像の認識と解釈について、人間の目と脳がやっていることを、コンピュータがどこまで「追試」してるのか、そのへんを知りたいなと思っている。




もはや病理の話はAIの話だ。知能の話。そして脳の話につながる。

そういえばぼくの出た大学院って「脳科学専攻」だったなあ、と、懐かしく思い出す。