2021年12月29日水曜日

病理の話(612) はしっこまで切れてるかい

体の中から採りだしてきた細胞を顕微鏡で見る「病理診断」。

このとき、細胞をうまくガラスプレパラートに乗っけないと、ちゃんと見えない。だからいろいろ工夫がいる。


たとえば、プレパラートの上に、採ってきた臓器を「なすりつける」と、表面から細胞が数個ずつパラパラとはがれてくっつくので、それを見ることができる。これには用語があって、「捺印細胞診(なついんさいぼうしん)」という。捺印というのは印鑑を押すことだが、あんな感じでグイグイ押しつけると細胞がひっつくのだ。ただし、あんまり強く押したら細胞がこわれるので、ほどよく加減する必要があるけれど。

この捺印法には重大な弱点がある。くっつけてなすりつけて剥がしてくる、というやり方では、ほんらい、細胞がどのように配列していたかを見ることができないのだ。

病理診断は「細胞の顔つきを見る」検査であると例えられることがある。しかし、細胞1個を見てその性状を判断するケースはじつは少ない。より正確に言うと、「細胞同士の位置関係」や、「多数の細胞がつくる構造」を見て診断をすることが多いのだ。組み体操のパターンで細胞の性格を読み解く、と言えばよいかもしれない。


したがって、臓器をハンコのようにガラスにぐいぐい押しつける以外の方法を編み出さなければいけない。ここで開発されたのが、薄切(はくせつ)という技術だ。

木材にカンナをかけるように、あるいは、大根の皮をかつらむきにするように、臓器を薄く、向こうが透けて見えるくらいに薄く切る。その薄片をガラスプレパラートに乗せて、染色をして、下から光を当てて透過光で見れば、600倍くらいまでならふつうに光学顕微鏡で観察することができる。



さて、このとき、じつは意外な落とし穴がある。



病理診断の大切な仕事のひとつに、「臓器の中に発生した病気が、臓器のはしっこまで及んでいるかどうかを見る」というのがある。はしっことはすなわち、「病気の先進部」だ。病気という名前の敵軍が、どれくらいまで進軍しているかをチェックする=戦況のマッピングをするのは病理医である。

このマッピングをする際に、プレパラート上に、「臓器のはしっこ」がきちんと観察されるかどうかが、地味にむずかしい。

さきほど、カンナがけ、とか、かつらむき、などと言ったが、たとえば見た目も太さもほぼゴボウのような臓器があったとして(ないけど)。

ゴボウを切って、楕円形の割面を出す。この楕円の部分を、カンナでけずって薄くピラピラの1枚を手に入れるわけだが……。

ちょっと想像してもらいたい。カンナというのは、「はしからはしまで」けずるのが意外と難しい。

ゴボウの切り口の楕円が、ちゃんと全周、皮まで含めてけずれるのではなく、真ん中あたりでシャッと途切れてしまうことがある。これはよくある。

ここで、けずれてきた薄片をプレパラートに載せると、はたして検体が皮まで切れたのか、それとも楕円の中心部あたり(ゴボウの芯の辺り)で中途半端に削り終わってしまったのかが、なかなかわかりづらい。

すると、どうなるか? 病理医が顕微鏡でみるとき、「あっ、病気がはしっこまで及んでいる!」と思っても、じつはカンナがうまくはしまでかかっていなかっただけ、ということがあり得る。



「病気が切り口のはしっこまで及んでいるかどうか」というのは治療方針に直結する。手術で病気が「採り切れているかどうか」にかかわってくるからだ。「検体のはしっこにも病気がありましたので、この手術で病気は採り切れていません」となると、患者も主治医もみんながっくりするだろう。

しかし、その「はしっこ」というのが、カンナがけの失敗によるものだったらどうする? 誤診になってしまう。



そこで病理検査室の技師は工夫をする。ゴボウのたとえに戻ろう。皮の部分にあらかじめ、外側からインクを塗っておけばよいのだ。そして、カンナがけをしたあとの検体をみて、「ちゃんと全周にインクが見えるかどうか」を確認する。これによって、カンナで「断面すべてをうまく削り通せたか」がわかる。



なんだそりゃ、ずいぶん細かい話だなあ、と思われることだろう。でも、この細かい話は、日本の病理検査室の技師たちが優秀だから達成できることであって、けっして「当たり前」の技術ではない。

ぼくはけっこういろんな国のプレパラートをみるのだが、技師のレベルが低い国だと、細胞はすごく見づらい。検体の固定、染色などいろいろ問題はあるのだけれど、さきほどのゴボウでいうと、「皮まできちんと削れていることのほうが少ない」。

また、日本国内であっても、診断ではなく実験で細胞を観察する人たちの細胞写真(たまにツイッターで流れてくる)をみると、あきらかに、「ちゃんとした技師が作っていない標本」であるとわかる。ゴボウの皮の部分がボロボロになっていたりするからだ。

いやー技師さんは偉いなあという話で雑にしめくくるけれどマジで感謝してます。


(年内のブログ更新は今日までです。再開は1月4日から。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。)

2021年12月28日火曜日

実際どっちでもいいんだけどどっちかに決めたほうが盛り上がるからさ

人生において「選択を迫られる場面」というのはおもいのほか少ない。めったにないから、逆に希少価値として、テレビドラマや映画、小説などでは「選択」の場面が描かれる。ところがそのせいで、「選択」こそが人生であると勘違いしてしまい、いつか自分も「ここぞという場面で大事な選択をする」のだと信じ込んでしまう人がいる……いや、「人がいる」どころではないかもしれない。ほとんどの人がそう信じている。


たとえば、映像のプロが四六時中カメラを肌身離さず持ち歩いたところで、これぞという事件はそうめったに起こらない。リアクションがおもしろい一流どころの芸能人を同じ環境に詰めこんで何日待っても、目を見張るようなハプニングなど起こるはずもない。だからこそ、昔のテレビでは「ヤラセ」が横行した。そうとう仕込まないと、人は「選択」までたどり着けないから、台本として用意する必要があったのだ。そして、多くの視聴者たちは、「ヤラセ」をわかっていながらも、それはそういうフィクションとして楽しむ、くらいの気持ちで、半ばあきらめ、半ば共犯者になって、エンターテインメントをいっしょに作り上げていった。


「選択」がキモだという勘違いに一生おぼれたままであってもかまわない。


本来は波風の少ない人生に、「フィクション由来の選択」が与えられることで、我々は擬似的に強調されたアップダウンを満喫できるようになる。べつにいいじゃん、演出だよ演出、という話。



ただし、作られた「選択」の概念がうまくハマらない部分というのもじつはある。それが何かというと、たとえば、人体という精巧な機械の経年劣化にどう対応するか、という話だと思う。

日々暮らしていくと血管とか筋肉が弱っていくし、胃腸がしんどくなる人もいる。これは何かを選択することで解消できる類いのものではない。「トシのせいだから」、そういうものだと受け入れて対処していくしかない。しかし、「選択」という名の幻想にどっぷり浸かっていると、

「今日、この料理を食べたか/食べなかったかで、自分のこれからの健康が変わりかねない!」

みたいなことを心の底から信じ切ってしまう。そういう問題ではないのだけれど。


では、エンターテインメントに毒された我ら人間が、「選択」という幻想のせいで、健康や老化についていつも間違えて「選択」して、結果的に損をしているかというと……。じつはそうでもない。ここにはおもしろいメカニズムがもうひとつ隠れている。

たとえばとある日に、マメが健康にいいらしい、と聞いて、マメ料理ばかり「選択」すれば自分はよりすこやかに生きられるはずだ! と信じた人がいたとする。そういうのは栄養の偏りにつながるから、あまりやらないほうがいいのだが、人間はつい「選択」したほうがいいと感じがちだ。マメばかり食べようと「選択」してしまう人は現実にいっぱいいる。マメは一例だ。これが糖質制限であってもコエンザイムQ10であってもササミ&ブロッコリーであっても青汁であっても同じことである。

ところが、数日すると脳の奥がこのように言う。


「飽きた」


これ、ものすごい機能だ。人間が同じ事を続けられないというのは生存戦略だと思う。一度はこうと決めた「選択」を、「飽きた」の一言で一時的なブームに落とし込んでしまう。人間は、飽きることができるからこそ、多様な行動の中に埋もれるほうに進んでいくし、「選択肢をどれかひとつだけ選ぶ」というフィクションに本能で抵抗できている。


逆に、心の底から響いてくる「飽きた」の声に、中途半端な理性で対抗してしまって、毎日マメ料理しか食べない、みたいなことをすると、長い目で見たときに体の不調が出やすくなる。「選択」を無理強いするせいでかえって偏ってしまう。



「ヤラセ番組」に代表される、この世のどこかには波乱があり、人間は何かを「選択」していくものだという虚構においては、ここぞと言う場面の「選択肢」が人間にとって決定的な影響を与える。しかし、人間は「感動にも飽きる」生き物である。ひとつの選択だけで人生が変わったと信じることまではできるが、実際に変わることはまれなのだ。正確には、ほとんどの人びとが、ひとときの「選択」に感動しながらも、少し時間が経つとさっさと飽きて、次の選択を……いや「微調整」をくり返している。

アロエがいいと言った次の朝には納豆がいいと言われ、昨日はアロエを選択しました、今日は納豆を選択します、と、毎日違うところを選び続けていく。毎日の「ちっちぇえ選択」、さらに言えば、「選択してもすぐにそれを捨てられること」によって、多様な行動ができて、食事を例にあげるなら結果的にいろんな栄養をとってうまいこと健康になっている。



選択こそが人生だという嘘に、みんな心のどこかで気づいているのだと思う。あるときふと、緊張せずに選んだ道を、歩みながらぐいぐい修正し続けて、最初に選んだ方向とはいつの間にかすごくずれている、みたいなことのほうが多い。

結婚した場面でエンディングを迎える恋愛ドラマの「その先」を語ったほうがおもしろいのではないか、と昔の人も気づいていた。最近の恋愛ドラマを見ていると、「結婚する前と結婚したあとの話」を両方書いていたりする。ひとつの「選択」に向けて盛り上がるような番組の嘘っぽさが、古びて感じられる。「選んだってこだわらなくていいんだよ、選び直したっていいんだよ、なんなら選ばなくたっていいんだよ」というメッセージを感じることもある。少なくともぼくは、そういう今のテレビのほうが圧倒的におもしろいなと思っているタイプの人間である。この「タイプ」というのも選択をほうふつとさせ、なんというか、ぼくも立派にフィクションに影響されてここまでやってきたのだなあと感じて、また自分の心の感じ方を微調整する。

2021年12月27日月曜日

病理の話(611) 早い段階で見つけたほうが診断は難しい

「悪の芽は早めに摘むに限る」。この考え方は、人体においても通用する。たとえばがんのような病気は、育ち切ってしまうと大変なことになるから、なるべく「できたばかりのタイミングで見つけて、さっさととってしまう」のがいいだろう。「早期発見」の考え方だ。


ただしこの「早期発見」にはいくつか技術的な問題がある。とくに、「病気ができて間もない頃は、まだ病気らしさがはっきり出てこない」というのが、病気を早期に発見することを難しくしている。


たとえば、がん細胞。


進行したがんで、あちこちに転移しているような細胞は、(言い方は悪いけれど)医学生が顕微鏡をみるだけでもなんとなく「ああ、普通の細胞とは違うなあ」とわかりやすい。さらに、教科書と見比べることで、「あ、これはAというタイプのがんだな」「こちらはBというタイプのがんだな」と、分類までできたりする。

このようながん細胞は、通常の細胞からかなりわかりやすく、かけ離れているから、素人に毛の生えた程度の医学生でも見分けることができるのだ。ちなみにこの「形態が正常からかけ離れていること」を病理用語で異型(いけい)があるとか異型性があるという。


(※子宮頸部などの病気である「異形成(いけいせい)」とは漢字が違うので注意!)


一方で、まだ「がんになりたて」の細胞や、「もうすぐがんになる」くらいの細胞は、正常の細胞からのかけ離れが少ない。異型が弱い、と言う。



これらはたとえ話でイメージするとよいだろう。破壊の限りをくりかえし、たくさんの人に迷惑をかけるマフィアの構成員と、高校に入ってからちょっとグレて上靴のカカトを踏み潰すことで社会に反抗したつもりになっている若者とでは、「かけ離れ」が違う。カカトをふみつけ、髪型をいじり、校舎の裏でタバコを吸い、カツアゲ、万引きと犯罪に手を染めるごとに顔つきは悪くなっていき、カツアゲのあたりで一線を越えて補導されることになるわけだが、これが細胞においては「異型が強くなっていく」と呼ばれる。



今回の話は「がん」を例にあげたが、じつはこれと同じようなことは、がん以外の多くの病気でも認められる。たとえば、関節リウマチやSLEなどの膠原病(こうげんびょう)と呼ばれる病気、あるいは、潰瘍性大腸炎(かいようせいだいちょうえん)などの炎症性腸疾患、さらには肺炎などでも、病気のごく初期には「どんな名医でも診断できない」時期がありうる。

病気は、出始めには見極めにくく、名医がお金と機材を揃えて必死に探せばどんな病気も早くに見つけることができるというのは幻想なのである。

もちろん、最初からトップスピードで悪くなるタイプの病気というのもあって、これはもう、ひとことで「こういうものだ!」と断定できるほどのことではないんだけれど。

たいていの病気は、「超・初期に見つけられれば治療も楽だろうが、超・初期だと今度は診断がしづらい」というジレンマをかかえているものなのである。

2021年12月24日金曜日

夢試験解答用紙

夢の話をする。寝ている時に見る夢の話だ。


ただし、夢の内容についての話ではない。


「さっき見たぼくの夢は、きっとこのようにして作られているのではないか」と、メカニズムをひとつ思い付いたのだ。



夢の中でぼくは学校の廊下のような病院の廊下を歩いていた。うしろでひそひそと声がしたので振り向くと、20メートルくらい向こうで、名前を忘れてしまった高校時代の同級生、背が高くひょろっとしていて髪の毛はほとんど坊主頭に近い、声が甲高く、遠くで会話をしていると彼の声がきわだって聞こえてくるような、そして高校3年間でおそらく数度しか会話をしていない、名前を忘れてしまった男が、ぼくの同僚と何かを話ながらぼくの方を見ている。同僚は病理検査技師だ。


なにか悪口を言われている、と思って彼のもとに歩み寄り、胸ぐらをつかんで、おい、何か言いたいことでもあるのか、とすごむ。このセリフは、ぼくが「なんとなくこのシーンではこういうことを言うのがしっくりきそうだ」という連想で、あたかも空欄にはめ込まれるように、一連のフレーズとして空間に浮かび上がってくる。一瞬、実際にしゃべっているように知覚するのだが、正確には「脳に響く、もしくは浮かび上がっている」ものであり、しかもそのセリフは、出所は思い出せないのだがおそらく「テレビやアニメなどで目にしたことのある、他人のセリフ」である。


ぼくはその男の名前がどうしても思い出せない。そうだ、「名札」がついているだろうと思って胸元をあらためて凝視する。そこには、いわゆる名札としては大きすぎるプレートが貼ってあり、「なんとなくこのワク内にはこういうことが貼ってありそうだ」という連想で、あたかも空欄にはめ込まれるように、顔写真と名前、プロフィール、一言コメントが浮かび上がってくる。顔写真はなぜか「カイジの横顔」のようなアニメ調で、名前のところはよく読めないのだが「ああ、そういうやつだよな」という印象だけが書いてある。たぶんそこを凝視し続ければ、その「印象」という名の空欄部分に、「なんとなくこのワク内にはこういう名前が貼ってあるだろう」というのが浮かび上がってきそうなのである。





目が覚めて、メガネをかけ、身支度をし、実家から送られてきた少しいいパンを切って焼かずにかぶりつき、ふとんをたたんでから着替え、妻と一言ふたこと今日の予定を確認して、家を出て、車に乗っている途中、ずっと考えていた。


ぼくの夢には空欄がある。夢の中で、自分が注目する場所は瞬間的に、試験問題の回答欄のように「何かをはめ込む準備」がされている。そこに、「たぶんこんなことがハマるだろう」というのを、脳が、あまり理屈をこね回すことなく適当に、形や雰囲気が合うものを生成してはめ込んでいく。そうやって、抜き打ちテストを勘で埋めていくようなやり方で続いていくのが夢だから、目が覚めたあとには、「なぜそこにあれが出てくるのだ?」という破綻が感じられる。


日中、起きている間、ぼくが何かを知りにいくべく、見て注目したり、聞いて考えたりするときも、おそらく脳は無意識に、「そこにはこういうものがあるかも」という、仮の回答みたいなものをはめ込んでいる。ただし、日中は脳がもう少しきちんと補正をしていて、目に何かが映った途端に、観測したものの姿できっちりと事前の予想を上書きして消してしまう。そのように考えると、「目に意外なものが飛び込んできたときの、あの二度見する感覚」がよく理解できるし、予想を裏切り期待は裏切らないタイプの広告が持つ魅力みたいなものも肌感覚としてよくわかる。


しかし夢では、脳が「仮留め」したものがそのまま答えとして話がつながっていくので、細部は妙にリアルだが全体としては破綻している風景ができあがる。ああ、少なくともぼくのこの日の夢は、そうやって、「予測するも観測なし」「予感するも補正なし」で進んでいったのだろうなと、腑に落ちたところで職場についた。夢でぼくの悪口を一緒になって言っていた検査技師の机を蹴る。夢と現実を混ぜる。

2021年12月23日木曜日

病理の話(610) とりあえずこれだけは覚えておきなさい

研修医の勉強会に出席していると、上級医たちがいろいろとワンポイントアドバイスをするところを耳にする。


「血液データがこのタイプの異常を呈する患者がいたら、ただちに何をしなければいけないか、調べているヒマはないから、きちんと覚えておきましょう」


「心電図がこのタイプの波形を示したら何をする? 今すぐ答えられないのはまずいよ、患者が死ぬからね。だからこの会が終わったらすぐに自分で調べましょう」


「この病態でマスクされた別の病態があるかもしれない。こういうときは腎機能も気になるけど、最低でもプレーンCTをとるなどして消化管の評価をしておきましょう、イレウスを見逃したら良くなるものも良くならないよ」


まったく、大変だなあと思う。研修医たちは毎日毎日、「これだけは覚えていないとだめだ」という「これだけ」を無数に浴びせかけられる。


だから、医師免許を取得して3,4年くらい、後期研修の中頃くらいまでは、ほとんどの研修医は自信を喪失している。


ほとんど、と書いたが、まれにそうでもない人もいるにはいる。たとえば、毎秒救急車がやってくる、みたいな超絶怒濤の救急病院で研修をはじめた若い医者は、脳を使わず肉体で働くモードに入っている場合があり、そういう研修医は妙に自信満々になっているものだ。そうやって「脊髄反射」で仕事をしているうちは不安も感じないのだけれど、残念ながら、落ち着いて患者に向き合おうと思ったとたんに結局、「自分はまだ何も知らない」ことに気づいて、遅まきながら自信を失っていく。


でも大丈夫。吉高由里子みたいな声で言っておく。みんなそうなのだ。5年目くらいから少しずつ、自信は付かないにしても「これだけは覚えておこう」の蓄積が目に見えて増える。「これだけ、がどれだけあるんだよ!」とうっとうしくなるのもわかる。けれどもいずれ、「これだけは覚えたなあ」という状態になる。だから最初はがんばってほしいなと思う。




さて、「病理の話」なので、せっかくだから「病理診断における、これだけは覚えておくべきだ」を書いておこう。


・患者の名前と検体の瓶に書かれている名前が違っていないことを確認しよう。同姓同名のパターンもあるから生年月日などもきちんとチェックしよう。


これだけ! これだけは忘れないでほしい! まじで! 取り違えがすげえやばいから! 検査において取り違えは全ての努力を無にして患者に多大な迷惑をかけるから! 


あ、まだあるな。


・悪性リンパ腫や軟部腫瘍など、遺伝子検索を外注する必要がある検体を提出するときには、ホルマリンに付ける前に病理に確認しましょう。ホルマリンに付けずに凍結しなきゃいけない場合があるからね。


これだけ! これだけは忘れないでほしい! 「いつもホルマリンに付ければいいんだべ」のノリでジャボンとやったが最後、できなくなる検査もあるので、そこ、気を付けて! 患者にも不利益が及ぶから!



あとは……えー……ほかに「これだけ」は何かあったかな……ぜんぜん「だけ」じゃねぇけど……。


2021年12月22日水曜日

ゲラは死海文書

年内締め切りの原稿書き仕事は、もうない。レジデントノートの連載は5月号の分まで書き終えた。論文も先日ひとつ投稿して、今は次の論文の準備をしている。こちらにはまだしばらく準備に時間をかけなければいけないが、今回は前回ほど急ぐものでもないので、ま、ゆっくりやろうと思っている。

ヨンデル選書のnoteやこのブログは、仕事ではないし、負担でもないので、このまま年末まで書き続けていくとして。

「ゲラ」が、あとひとつ残っている。この記事がアップロードされるころには、すっかり手入れを終えて出版社に返送しているか、あるいはちょうど最後の手入れをしているころではないかと思う。



ふと思い出した。かつて、ぼくの名前が入った雑誌記事や本がはじめて出たころ、「ゲラ」や「赤字校正」の意味がわからず難儀したことを。

ゲラとは、ぼくがパソコンで書いた原稿を、実際の本のデザインに似た感じで、きちんと文字組みして印刷したものである。「本番リハーサル印刷物」みたいなイメージだ。このリハーサル印刷物は、けっこう手直しが許されている。著者はゲラを見て、「ここには誤字があるな」とか、「ここの表現が少し硬いな」とか、「この写真は位置がずれているな」みたいなことをチェックして、本格的に印刷されるまでに調整をかけていく。ゲラの取扱いに関しては、独特の決まり事も多い。

そんな「ゲラ」は明らかに出版業界の専門用語だが、紙媒体の原稿未経験だったころのぼくに、最初から用語の説明は一切なされなかった。それまで、ありとあらゆる相談に優しく乗ってくれて、細やかに説明をしてくれていた編集者たち(複数)が、「ゲラの手入れ」に関しては全員ノー説明だったので、けっこうびっくりした。ありとあらゆる版元の編集者が、なぜか「ゲラ」の説明だけはしない。書く仕事をはじめて2年くらい経ったときにそれに気づいて笑ってしまった。


たとえば、ぼくは徹頭徹尾マイクロソフト・ワードで原稿を作っているのに、「ゲラの直し」のときはいきなり印刷物に赤ペンを入れることになった。えっ、そういうものなの、だってこれパソコンでやったほうが早いじゃん、と思ったので、あるとき、「これってパソコンで直せないんですか?」とたずねたら、なんとあっさりパソコンでいいですと言われて、それ以来PDFが送られてくるようになった。


あるいは、このゲラというのは、どれくらい手直しが許されるのか、ということに関する説明もなかった。誤字脱字のチェックだけして返せばいいのか、それとも全体的にもっさりとした雰囲気を調整するくらいのことをしてもいいのか。ぼくは小説を書いていたわけではなかったので、幸い、「ストーリーを変えてもいいか」と悩むことはなかったけれど。


複数の版元と付き合うにつれて、ゲラの形態が紙の印刷物か、PDか、Dropboxでの共有がいいのかメールがいいのか、何度まで修正が許されるかなどのバリエーションがけっこうあるということがわかってきた。しかし、とにかく共通して、「ゲラのことだけは教えてくれない」のがおもしろかった。


さらに。「ゲラの直し方」をググると、「ゲラゲラ笑うタイプのリアクションを治すにはどうしたらいいですか」というQ&Aが見つかるばかりで、いわゆるゲラの手入れ方法についてまとめたページというのはなかなか見つからない。なんと、編集者だけではなく、インターネットすらも、ゲラの扱い方に関しては教えてくれないのであった。



そんなぼくも今はゲラに対する「わからなさ」はだいぶなくなったが、不思議なことに、「ゲラのことを全く知らない人」にどうやって手入れの方法などを教えたらいいかはよくわかっていない。ああ、ぼくも編集者たちと同じだ。ゲラの直し方だけはわからない。ゲラの直し方だけは教えられない。ゲラの手直しというのは、声に出したり文章に出して伝授することが難しい、秘匿された技術だ。だから数多の編集者たちも、ぼくにゲラのことを教えることができなかったのだ。ゲラは神秘。ゲラは秘宝。ゲラの秘密を漏らしてはならない。

2021年12月21日火曜日

病理の話(609) ディスカッションを書く

タイトルを見て、「ディスカッション(議論)は『する』ものであって『書く』ものではないだろう」とツッコみたくなる人もいるかもしれないが。


これは学術論文の話である。もっとも、論文と言ってもいろいろあって、人文系の論文だと必ずしもディスカッション discussion という項目があるわけではないようだが、生命科学系の論文では後半部に必ずと言っていいほどディスカッションがある。


生命科学系の論文は、新発見・新知見をわかりやすくまとめて世の中に蓄積するために書かれるのだが、誰もが好き勝手に書くのではなくて、ある程度きまったお作法がある。論文を投稿する雑誌ごとにお作法は微妙に異なるけれども、だいたいの場合は、


1.「はじめに」的な部分に前置きを書く。この研究を思いついたきっかけだとか、この研究が世の中から必要とされてきた経緯などを語る


2.「材料と方法」を書く。どのようなターゲットに、どうやって研究をすすめたのかを丁寧に書く。


3.「結果」を書く。ここはできるだけシンプルに、かつ、図表なども用いてわかりやすく結論を書く。


4.「議論(ディスカッション)」。ここで思いの丈を爆発させる。


という形式になっている。ディスカッションは論文の最後にあって、研究の結果をもとに著者がいろいろと考える大事な項目なのだ。


考えるというのは、何を考えるか?


まず、「結果」として示された実験結果・研究成果・データ解析結果を分析する。「なぜそうなった?」「なにを意味している?」みたいな部分をきちんと考察するわけだ。「結果」の部分は誰が見ても同じ解釈ができるようにデータをきっちり客観的に書く。これに対し、「ディスカッション」の部分では多少なりとも著者の思いが含まれていることが望ましい。ただし、何を言ってもいいわけじゃなくて、「科学者として考えるべき道筋」に沿っていなければいけないけれど。


ある意味、「ディスカッション」というのは議論というよりは「考察」なのだ。でも、ひとりで沈思黙考して独善的に書けばいいというわけでもない。実際に「議論」する相手もいる。それは誰かというと、「その論文を読んだ人」なのである。「あなたが科学者で、この論文を読んだとしたら、きっとこういうところに疑問を持つだろう」という部分をしっかり予想して、「反論があるとしたらこうだろう、それに対する私の答えはこうだ」と、「ひとり議論」をする。だからディスカッションというのだ。


すぐれた論文というのは発行されてから実際に議論が巻き起こる。衝撃的な結果ならば全世界の人々がそれを元にモノを考えて、著者たちの結果が妥当なのか、考察の筋道が通っているのかどうかを検証し続ける。そして、本当にすぐれた一部の論文というのは、「全世界のどこかにいる人が考え付くかもしれない細かな疑問や懸念点」について、ディスカッションの項目ですでに取り上げているのだ。ジョジョの奇妙な冒険でと次におまえは〇〇というッ!」いうのがあるが、論文のディスカッションでもこれと同じことをする。次に読者はこの結果に不備があるというッ!」とばかりに、あらかじめ論文によって巻き起こるであろう議論を予測することで、ああ、この研究者はちゃんと科学をやっているのだなあ……と読者に思わせることが大事なのだ。



「ちゃんと科学をやる」というのはあいまいな言い方なので少し捕捉をしよう。「ちゃんと科学をやる」というのは、あるひとつの研究結果をもって「真実を見つけました!」とか「正解を当てました!」みたいな短絡的な思考をせずに、ある結果を現在進行形で「よりよい形」に向けて微調整をし続ける、その覚悟のことを言う。去年「解明」された科学的な現象が今年はさらにいいものに変わっている、というのが科学の本来の姿だ。そしてこの微調整は、科学が常に「議論をし続けている」ことで成し遂げられつづけているのである。

2021年12月20日月曜日

レガシィ

車の備品がこわれたのでディーラーに来ている。タイヤ交換のピークは数週間前に終わったから、さほど激混みというわけではないが、事前に予約がない状態での修理なので、しばらく待たされている。車のパーツなんてものは、壊れるときは急に壊れるから事前予約できなかったのも仕方ない。歯の詰め物がとれたときに予約がなくても歯医者に行くのと一緒だ。もっとも、いまどきの子供たちは小さい頃からフッ素を歯に塗っており、虫歯はさほどないようだけれど。


ロビーに人はまばら。外でみる車よりも一回り大きなサイズ……に見える車が室内に数台留まっている。小顔効果の逆、みたいな技を使っているのではないかと思う。シーズンがシーズンなのでクリスマス装飾があちこちに施されている。いつもなら冷静に相づちを打ってくれる妻が今日は仕事でいないから、ぼくは「クリスマスっぽいねえ」みたいな感想を口に出さずに脳内で練ってちぎって捨てている。




今から15年以上前、はじめて自分の力で買った車はレガシィツーリングワゴンだった。 担当の営業はTOKIOの国分太一に似ていた。たぶん新人だったのではないか。若いぼくと若い国分太一は互いに車を買う喜びも車に乗る文脈もさほど持ち合わせていなかった。パンフレットを見れば書いてあるカーアクセサリー情報と、保険会社の提示したままの任意保険のオプションを、ぼくらはワクワクもハラハラもせずにやりとりした。北海道で車に乗るなら四駆以外はありえない、という、それなりに根拠があるがライフスタイル次第では別にそこまで気にしなくてもよいような「柱」のまわりでぼくらはぎこちなく笑っていた。ワゴンにしたのはスキーが積めますよと言われたからだ、でも前の妻とぼくが二人でスキーに行ったことはたぶんなかった。


こうして思い出してみるとぼくはおそらく買い物がへたなのだと思う。というか、世にまばらに存在する「買い物に満足したと公言するのがうまい人々」がSNSでことさら強調されているだけで、おそらくぼくのように根本のところで買い物にさほど大きな喜びを見出ださないタイプの人間はいっぱいいるのではないか。今より安い給料で必死で買った車なのだから、もっと迷って、もっと選んで、そしてもっと喜んでもっと記憶していればよかった。


レガシィの記憶はおぼろげである。色は何色だったろうか。何度ぶつけて何度修理したのだったか。前の妻がチャイルドシートをつけた日に満足そうな顔をしていた記憶がわずかに残っているのだけれど、それも後付けのようにプロットに付け加えられた偽物の記憶かもしれない。いい車だった、と言いたいぼくの脳が作った偽物の記憶かもしれない。

2021年12月17日金曜日

病理の話(608) プロが見るとたった3秒

その病理診断は、とても難しかった。


まず「依頼書」に書いてある内容が複雑である。レアな主訴(患者自身のうったえ)、特筆すべきことの見出せない血液検査データ。CTやMRIを得意としている放射線科医が、読影レポートに「腫瘍だと思うが、腫瘍ではないかもしれない」なんてことを書いている。つまりは何も言えていないのと同じではないか。


複数の医師が困惑している。となれば、病理医にとっても、間違いなく難しい病気だろう。


「いかにも難しそうなオーラ」がビンビンに感じられる中、おずおずとプレパラートを見る。



……なんっにもわからない! 心のそこからびっくりしてしまった。いやいや、「ひとっつもわからない」なんて、ここ何年もなかったぞ。



こう見えてもぼくは医師生活もうすぐ18年目。若手と名乗ってはいけないレベルだ。しかも、診断してきた量もおそらく一般的な病理医と同じかそれ以上である。ぼくの勤める札幌厚生病院は、少なくとも北海道の中ではトップクラスの病理診断数を誇る。単純な「場数」についてはぼくはそれはもう、かなり積んできている。さらには各種の学会や研究会、ウェブの勉強会などにもまじめに出席し、「希少がん講習会」のようなものにもコツコツ参加して勉強はしている。


それでも、ぜんっぜんわからない。場数が通用しないのだ。ほとほと参った。




病気というのは本当に、信じられないくらいの種類がある。細胞の示す姿も10とか100といったオーダーではなく、1000でも足りないくらいのパターンがありうる。でも、それでも、その「たくさん」を全部みることが、ぼくら病理医に求められた仕事だ。

人間の体の中には、とにかくたくさん臓器がある。脳、目、気道、口腔、咽頭・喉頭、唾液腺、耳、皮膚、甲状腺……こうして頭の上から順番に数え上げていっても、クビのあたりでもうやめたくなったし、読んでいるあなただって読み飛ばしてしまうだろう。この下にまだまだものすごい数の臓器があり、その臓器ごとに固有の病気がある。そんなこと、わかっている。だからちゃんと勉強するんだ。

そこまでわかっていて、歯が立たないのだからがっくりする。

しょせん、ちっぽけな一個人にすぎないぼくが、10年がんばろうが、20年がんばろうが、「見たことがない病気」はあるし、どうやっても太刀打ちできないこともある……。




……と、ここであきらめたら患者は途方にくれるだろう。だからぼくは、「あっ、歯が立たない」と思ったら、すぐに「ほかのプロ」に頼る。


病理医の世界にはとんでもないエキスパートがうようよいる。ほとんど無限ともいえるくらいに細分化した病気の、すべてに精通した病理医というのはさすがに「ほとんど」いないのだけれど、「ある臓器については超詳しい」みたいな人なら複数いる。


「あっ、これはぼくの手に負えないかもしれない」と思った瞬間に、その分野のエキスパートへの「コンサルテーション」の準備をする。躊躇してはいけない。だらだら時間をかけてはいけない。


まずい、と思ったらすぐにメールをする。メールの相手は日本病理学会であったり、個人的に存じ上げている一流コンサルタントその人であったり、いろいろだ。臨床医からもらった情報をなるべく早く、読みやすい状態にまとめ、患者名をマスクした特殊なプレパラートを作成し、「相談」するための体制を爆速で整える。


返事がきたらすぐに、エキスパートあてにプレパラートを送る。もしそのエキスパートが、たまたまぼくの住んでいる札幌にいる人ならば、向こうの指示にしたがって、日中だろうが夜中だろうが、相手の指定した時間に万難を排してかけつけることも辞さない。とにかく最短で診断に近づくためのあらゆる努力をする……。


ただし。


「まずい、と思ったらすぐにメールをする」とは書いたが、実際には、「ぼくが本気で、細胞をしっかり見て、悩みに悩んだ経験」がないと、うまくいかない。ちょっと見て難しいなと思ってすぐ相談、では、相談の切れ味があがらないのだ。ここにはさじ加減がある。


ろくにプレパラートを見もしないで、「この分野は難しいから最初からプロに聞こう」だと、相談はうまくいかない。なぜ、と言われると難しいのだけれど、感覚でいうと、「患者に対して真剣に向き合ったことがないと、患者にまつわる細やかな情報をとりこぼすので、誰かに相談しようにも相談するための情報がとりきれない」というかんじである。

わかる?

「これはぼくの手には負えない」と判断するのは、早ければ早いほどいい。

でも、「これはどうせぼくの手には負えないだろう」と、早めに見限ったりさぼったりすると、それはそれで、うまくいかない。





というわけでこのときのぼくは、まず、徹夜をした。一晩考えたのである。日にちはかけられないが徹夜すれば12時間くらい考えて調べることができる。


そして翌朝にはコンサルテーションの準備をした。考えられる可能性をすべてつぶして、それでもわからない、ぼくには診断ができない、と思ってはじめて、あるプロの手を借りることにした。そのプロはたまたま札幌に住んでいたから、朝、メールを送った。すると「昼に来てください」と言われた。なんて仕事の早い、そして話の早い人なんだ。ぼくはただちにその日の仕事をぜんぶ調整して、自分の車でその人の勤める場所にかけつける。満を持してプレパラートを診てもらう。



そしたら、なんと、3秒だ。



たった3秒で、



「これはあれだね。あのめずらしいやつ。A病だと思うよ」



度肝を抜かれた。プロすぎるだろう。なんてすごいんだ!



そこから4日かけて、さまざまな追加検査を行った。そのプロの言ったとおりの診断にたどりついた。


エキスパートってすげえ。病理診断って奥が深ぇ。全身が総毛立つくらいに興奮しながら、ぼくはとりあえず、自分が最低限の「現場の病理医としての義務」をはたせたことに安心した。自分ひとりでは診断にたどりつけなかったけど、少なくともこのプロに相談しようと決めることができた、そのことをまずはほめよう。


そして、これからもまた努力して成長しよう。自分ひとりで診断できなかった事実は消えないのだから。またゴリゴリ勉強する日々に戻る。そうやってずうっとやってきている。しんどいけれど、しんどいだけじゃない。

2021年12月16日木曜日

ごくごく私的な相性の話

真っ正面からツイッターの話をする。ツイッターをやっていく上で、けっこうはっきりと「ルール」にしていることがある。それは、

「ぼくのことをフォローしていないし、ぼくからフォローもしていない人から、リプライが来ても返事をしない」

ということだ。

もちろん単なる自分ルールなので、めちゃくちゃ強い決め事というわけでもなくて、たまに返事をすることもあるのだけれど、経験的にあまりいいことは起こらない。



理由はシンプルである。「フォロー関係が一切ないにもかかわらず、いきなり会話をはじめようとする人は、人との距離のとりかたがおかしい気がするから」だ。……この場合、「おかしい」というのは完全にぼくの主観であって、「いや、別にそれは普通だよ」と思う人がいても一向にかまわない。でもこれはぼくのコミュニケーションの話なのでぼくの主観で語ってよい話だと思う。

喫茶店で一人で本を読んでいるときに、隣に座った人から「その本おもしろそうですね」と突然話しかけられたら、ぼくは返事をしたくない。そんな距離の詰め方をする人が隣に座っているのがいやで、すぐに席を立って店をあとにしてしまうだろう。これと同じことをツイッターにもあてはめている。



ただし、付け加えておくと、喫茶店でいきなり話しかけられたときに「つい返事をしてしまう雰囲気の人」というのも、確実に存在する。

具体的にどういう感じの人、とは言えない、性別とか年齢だけでは語れないニュアンスがある。話しかけること全般がだめ、とは思っていない。さらに、他人が他人に話しかけているのを見ても「やめろよ」とまでは思わない。

しかし、割合の問題として、一人で座っているときに話しかけてくるたいていの人は妙に攻撃的だったり、妙になれなれしかったり、どこか「へんだ」と感じることが多い。だから原則的には警戒してしまう。



この話には多数の例外があって、たとえば医学にかんするツイートをしたあとに、フォローしてもされてもいない人から「質問」があったらなんとなく答えてしまう。きっと困っているのだろうな、と思うからだ。しかし、これがまた本当にふしぎなことに、そうやって例外的に質問に答えたときに限って、途中から妙な距離の詰め方をされたり、あるいはよくわからない内容の会話にスライドしたり、ひどいときは中傷がはじまったりする。

これまでもここからもすべてぼくの主観なのだけれど、「誰かに話しかける」という行為に対して、「でもなあ、これまで絡みがない相手だからなあ」と、躊躇できない人と根本的に性格が合わないのだろう。すべての人に資質として持っていてほしいとか、これが世の中に必要な倫理だとは全くおもわない、単に、「ぼくとの相性」という切り口でのみ今日の話をしている。誰かとの距離を詰めるときに躊躇がない人とやりとりをして良かった記憶がない。完全にプライベートな話だ。しかし、一部の人にはわかってもらえるのではないかと思う。

2021年12月15日水曜日

病理の話(607) つれづれなるままに勉強の話

今日はいつも以上にぼんやりとした結論に向かって書き始めるので、覚悟してください。つまりあなたは振り回されるかもしれないということだ。


「何を思って毎日病理学の勉強しているか」ということを書く。


はじめに書いておくとぼくは毎日勉強している。ぼくのやっている病理医という仕事は、


・患者に会わず、治療も処置もしない代わりに、勉強をする


ことが求められているからだ。つまりは職務の一環である。


医療者というのは概して忙しい。多忙の理由は「マルチタスク」にある。職員ひとりが患者ひとりのために働くのではなく、常に5人、10人、ひどいときには1日100人といった規模の人びとのことを考えて動くのだから忙しいに決まっている。看護師をイメージすればわかりやすいだろう。たくさんの患者を相手にするときに、「流れ作業」的にこなしてしまうと一人一人のトラブルに目が行き届かなくなる。かといって、たった一人の患者にずっと向き合っていると病院という場所はうまく機能しない(病院に限った話ではないが)。

医者もこれといっしょで、外来にやってくる患者、たった今入院している患者、両方のことを考え、診断のこと、処置のこと、治療のこと、家族との面談のこと、複数のことをずっと考え続けている必要がある。だから忙しい。


でも病理医は診断と研究のことしか考えなくていい。なぜなら病理医は「勉強に特化することで誰よりも賢くなること」を求められた特殊な職業だからだ。治療をしなくていい、処置をしなくていい、看護をしなくていい、当直をしなくていい、外来で患者と話さなくていい、病棟の管理をしなくていい。その分、「勉強して診断のプロになること」を求められている。


つまりぼくらは勉強するためにほかの仕事を免除されている。そういう職種だ。


さて、本題に入る。勉強で何を学ぼうとしているか?


「世の中のできごとを雑学的に仕入れてくる」とか、「自分の興味があることを芋づる式に学んでいく」といったことのは趣味でやるべきことで、本職のためにはもう少し明確な目標を立てなくてはいけない。これらは何種類かにわけられる。


1.一緒に仕事をする臨床医の使う言葉を学ぶ

2.「最新の病気」を知って脳内の図鑑をアップデートする

3.病気の見極め方に関する知識を得る

4.病理診断報告書を書くときの「語彙」を増やす


だいたいこんなとこかな。それぞれ見ていこう。


「1.一緒に仕事をする臨床医の使う言葉を学ぶ」はとても大事だ。これをやっていない病理医は病院内での評判がどんどん下がっていく。医療の世界は毎日レベルアップしており、前の年にはなかった治療法がばんばん開発される。すると、病理医がみる臓器の「手術方法」とか、病理医がみている患者に「投薬されている薬」が変わる。これを知らなければ病理診断はできない。消化器内科医、呼吸器内科医、感染症内科医、肝臓内科医、血液内科医、さまざまな外科医、産婦人科医、泌尿器科医、耳鼻科医、皮膚科医、放射線科医……。それぞれの世界ごとに生み出され続ける最新情報を知る。


「2.最新の病気」を知るのは病理医にしかできない仕事である。医療者は、あたかも昆虫の新種を発見して命名するかのように、「この症状を呈する病気はひとまとまりにして考えよう」「このような患者にはこういう治療をすると効くぞ」みたいなことを日夜発見し続けている。病理医の大事な仕事のひとつが「患者に病名を付けること」なので、最新の分類を知っておかなければいけない。病院で勤める99.99%の人が知らない病名であっても病理医だけが知っていればそれでその病院はなんとかなる。そういうことがよく起こる。月に何度か、「この珍しい病名はどういう意味なんですか?」と、医療者から呼び出されて解説をすることがあるくらいだ。


「3.病気の見極め方に関する知識を得る」というのは、ざっくり言うと「顕微鏡で何が見えたらどの病気と診断するか」を知るのだ。ネコの種類を見極めるようなものである。マンチカンとアメリカンショートヘアとスフィンクス(すべてネコの種類だそうです)を見極めるには何に着目する? 耳? アゴ? しっぽ? 同じようなことを細胞診断においても行う。腺癌と扁平上皮癌の見極め方では核や細胞質、細胞どうしの配列をチェックすることが肝要だ、みたいに。付け加えて言えば、そのネコは今屋根に飛び移ろうとしているのか、これからご飯を食べようとしているのか、みたいなことも見抜くのが病理医の仕事だ。おなじがんという病気であっても、このまま一箇所に留まっているのか、もうすぐ転移しそうなのか、あるいはもう転移してしまっているのかを見分けないと適切な医療はできない。「病名を見極める」のに加えて「病気の挙動を予測する」のも細胞診断の大事な仕事である。病理医の部屋にある教科書の9割くらいは「細胞の何を見ると病気の何がわかるか」が書いてある。


「4.語彙を増やす」というのは少し特殊で、これをやらない病理医もけっこういる。病理医の仕事は、自分だけわかっていればいいというものではなく、主治医に伝わらなければ意味がない。「なぜこの細胞を見てこの病気だと思ったのか」が、主治医、さらには主治医を通じて患者に伝わらなければ、病理医が給料をもらって専任で働いている意義は失われる。したがって、診断をした「根拠」をわかりやすく書くために日本語の勉強をしなければいけないとぼくは思っている。とはいえ国語の教科書で勉強するとか小説を読むという意味ではない。病理の教科書や講習会などで、エキスパートたちが「どういう根拠で診断をするか」をきちんと日本語にしてくれているから、そういったものを「輸入」しながら自分なりの語彙を毎日増やしていく。複数の病理医同士で相談するのも大切なことである。ウェブカンファレンスによってこれらはすごく簡単になった。



こうして書き上げてみると、病理医に限らずあらゆる医療者、あるいはあらゆる職種の人が「同じようなこと」を勉強したほうがいいだろう、という当たり前のことに気づく。ただし、病理医は、この勉強を「絶対に毎日やるべき」である。なぜなら治療も処置も看護も当直もメンテナンスもしていないからだ。ほかの医療者がやっている仕事をすべて免除されている以上、ほかの医療者たちと同じくらいの勉強量では「サボっている」ことになるというのがぼくの考えだ。ほかの医療者たちの勉強量の10倍、20倍、あるいはもっと、100倍とか1000倍というオーダーで勉強をし続けることで、ようやく病理医はほかの人から、「あいつ雇っとくと、うちの病院にとってトクだよな」と思われるようになる。……逆にいえば、それくらい、病理医以外の医療者たちの仕事(治療、処置、看護、当直など)はたいへんで、尊いものなのである。ワークライフバランスという言葉があるけれど、ほんとうは、ワークライフスタディバランス。スタディしなくていいのはワークが大変な人だけだ。ワークを半分にしてもらっている分でスタディするのが病理医である。……まあ、「半分」にはなかなかならなくて、せいぜい五分の四くらいなんだけど。

2021年12月14日火曜日

未来の話

今書こうとしたこと、それは「もうすぐ久しぶりの道外出張だなあ」ということ。この気持ちを書き残しておこうと思ったけれど、やめた。なぜやめたのかというと、おそらくぼくは、出張している最中に「今、久しぶりの道外出張中だなあ」という気持ちを書きたくなるだろうからだ。「もうすぐ出張」と「今、出張」だったら「今」のほうがいい記事になりそうである。だから先に書いてしまうともったいない。そう思って、将来の自分に記事を書く権利を譲渡した。


ところで。


たった今○○の最中、というときの気持ちよりも、もうすぐ○○だ、の気持ちのほうが強いということはないだろうか。


ものごとがはじまっていなければ、そこには大きな期待がある。勝手な期待と言ってもいい。あんなこともあるかもしれない、こんなことが起こるかもしれないと、基本的に自分に都合のいい妄想ばかりを積み上げていけば、期待はどんどん高まっていく。


でも実際にものごとがはじまると、そこには予期していなかったトラブルがあったり、お金や時間を消費して何かを成し遂げなければならなかったり、思ったより楽しくなかったり、あるいは特に心を動かされない瞬間があったりするものである。


よく考えたらなんだってそうだ。「修学旅行前夜」にしても、「幕末」にしても、「クリスマスイブ」にしても、当日・真っ最中より、直前・夜明け前のほうが人をわくわくさせるものではないか。




……と、ここまで考えてからふと、ぼくはおそらく何かが起こる前にああでもないこうでもないと楽しんでいる状態を、自分のために満喫するのはいいとして、他人と共有することにさほど魅力を感じていないのかもな、ということに気づく。そういえばぼくが好きなエッセイスト、それは沢木耕太郎だったり椎名誠だったり須賀敦子だったりするのだが、この人たちは「これからどうしたい」という内容をほとんど文章にはしなかったように思う。彼らはたとえ遺言について書くとしても、未来ではなく過去から現在について書いていた。旅の途中で、あるいは旅の後について書くものばかりをぼくは読んできて、それがよいと思って今ここにいる。ああそうか、なぜぼくが自己啓発本のたぐいがつまらないと思うかという理由の一端がここにはある、自己啓発本はたいてい「他人の未来の話」を書いている。他人の話を勝手に書くのも許せないし、未来の話でカネをとるのが許されるのはSFだけだとぼくは心の中で硬く強く信じ込んでいるのだろう。

2021年12月13日月曜日

病理の話(606) 人体を守る壁のオプション装備

町があり、善良な人びとが暮らしている。そこに敵軍が攻めてきたとき、敵を町の外で迎え撃つことができれば、町を壊さなくてすむ。しかし、町の中に入り込まれてしまうと、家も人も被害を受けざるをえない。

おなじことが人体にも言える。からだを守るために大事なのは、まず、敵を体内に入れないことだ。

では、外から入ってくる「敵」にはどんなものがあり、それに対して人体はどう対処しているか?


1.物理的な刺激。ボールが飛んできてぶつかる、歩いていて木の枝に刺さる、こういったトラブルに備えて、人間はわりとしっかりした防壁である皮フを持つ(つまんでも破けないってすごいことだよ)。さらに、場所によっては「頭蓋骨」のように、皮フだけに頼らずしっかりした骨で身を守る。まずは外側の壁で守るというのが大切だ。水分や油分などもはねかえすぞ。


2.ケミカルな刺激。衝撃はさほど大きくなくても、酸などがかかると人体を守る壁はとけてしまうリスクがある。だから皮フには「そっと・ぺとっとくっついたものを感じるしくみ」も付ける。この点、いわゆる「城壁」よりも高度である。


3.温度の違いによる刺激。異常に熱いものや逆に冷たすぎるものは体にとって害である。だから、壁には「くっついたかな? と感じる能力」だけではなく、「くっついたものが熱いか冷たいか」を感じるしくみも付ける。オプション装備が多彩である。


4.微生物の侵入。寄生虫とか。菌とか。ウイルスとか。こういったものは、そっとやってくるし、熱くも寒くもない。ではどうやってこいつらをはねのける? ……皮フを内側から新陳代謝させて、定期的にはがれおちるようにするのだ。こ、これは高度である。2と3のことも考えて欲しい、この壁にはセンサーが内蔵されているんだぞ。かなり高度なしくみを持っているんだ。その上で、表面がはがれて、でも穴は空かないという……。



どうだろう、人体の外側の「壁」は、壁ということばで軽く表現するにはエグいくらいの機能を持っている。たとえばマイホームの壁が経年劣化しないように、じわじわと外側がはがれて再生したら便利だろうが、そんなことを達成できた建築会社はひとつとしてない。大和ホームもタマホームも壁を新陳代謝させることはできないのだ。


ていうか冷静にかんがえて、人間の寿命が80歳を越えている今、「一戸建ての家」よりも人のほうがふつうに長持ちするもんな。人ってすごいな。

2021年12月10日金曜日

アブラは折れない

以前、いまよりももっと体がナイーブだったころ、忙しくなると首や腰が痛くなっていた。一番苦しんだのは30代の前半である。最初は運動不足による「こり」なのだろうと思っていたのだが、ひどいときには手や指がびりびりしびれてくる。これは筋肉ではなく神経じゃないかと疑い、案の定、頚椎症と診断されてさもありなんと思った。これだと長時間のパソコン仕事はきついなあと感じた。


しかし、幸いなことに、神経内科医と相談して背骨との付き合い方を覚えていくにつれて、年単位で症状は少しずつおさまっていった。今では、昔と同じくらいのストレスをかけても首も腰も痛まないし、しびれも出ない。適切な姿勢で働くことがいかに大切なのかということだ。


正しい姿勢で長時間働けるようになった結果、仕事の量は着々と増えた。


そして近年は、仕事が忙しいときに限って腸の調子が悪くなるようになった。


野菜を欠かさず、過剰に糖質制限をかけることもなく、米もタンパクも食物繊維もきちんと同じように採っているのに、仕事の量に応じて腸が急降下していく。そういえば、小学生のころのぼくは今思い返してみると腹痛型の過敏性腸症候群だった。たまに夜にお腹が痛くなって、トイレの前でうずくまって寝ていた(ふとんに入ってもまたトイレに行きたくなるからトイレの前で寝ていたのだと思う)。あの頃と今では食べているものもタイミングも違うのに、腸の反応だけは似ている。トイレの前で寝っ転がることはなくなったが、心はときおりうずくまっている。


首と腰のトラブルを乗り切った結果、それだけストレスに耐えられるようになり、より高度の負荷を体にかけ続けたことで、今度は腸が耐えられる閾値を超えてしまった。なまじ地方予選で勝ち残ってしまったために、甲子園球場でボコられる、みたいなことだろうか。


高負荷の連鎖から降りる必要がある。もしくは、ストレスで体が反応するラインと戦わなくてもいいような働き方にシフトすべきなのだ。


ここで自分の体力と気力をたのみにして、今回の腸も乗り越えたぞ! とやれば、次にどこにトラブルが起こるかはだいたい想像がつく。「代謝」か「血管」だろう。そろそろこのあたりで引き返すことを考えておこう。


43歳の今、ぼくは、「まかせる」ことの難しさを思う。「自分でやったほうが早くて正確だ」というのはおそらく後付けされた理由であり、本質ではない。積み上げた専門知を用いて、自分だけ疲労することなく、周りを巻き込みながら大きな仕事をこなしていけばよい。体がそうしろと言っているし、社会もそうあれと願っている。


いくつになっても元気に働いている人たちは、自らを機械のパーツではなく、潤滑油のように使う。パーツは摩耗するが、潤滑油は摩耗することがない。若いころのぼくはパーツでいるしかなかったし、できるだけコアなパーツになろうと思ってがんばっていたけれど、きしみがひび割れにつながる前に、自分を社会のグリスとして用いるやりかたに変えていったほうがいいのだろうな、と思っている。


2021年12月9日木曜日

病理の話(605) 論文が掲載拒否されたときの話

ある論文を投稿し、掲載拒否(リジェクト:reject)された。よく言う話だが医学論文は投稿しても5割とか7割といった割合で掲載を拒否される。これにはさまざまな理由があるが、端的に言うと、


A)論文のできがわるい

B)単にその雑誌との相性がわるい


のどちらかである。同じ内容のままで投稿先を変えるとすんなり受理(アクセプト:accept)されることもあるので、一般的には(B)のほうが多い。


さて、今回のぼくの論文であるが、(A)とも(B)とも言えた。雑誌を変えればすぐにアクセプトされる気もする一方、やはり(A)の問題が少し気になっている。


当たり前だが投稿するときには「この論理は筋道が通っている」と思って執筆している。しかし今回の論文については、途中、数多くの専門家たちの意見を聞いて、内容をどんどん付け足し、あるいは変更していったために、最終的には結論がけっこう突飛なものになっていた。「これが本当ならばすごいことだ、本当ならばね。」みたいな感想をもらっても無理もないのである。はたして、論文リジェクトの際のコメントを読むと、


「この症例はおもしろいね。でもこの名付け方は違うんじゃないか」


のような、ぼくが最初の論文でそうとは書いていなかったんだけど直しているうちにだんだんそういう表現になった、みたいなところを的確につっこまれていて、「うっ、『(A)み』があるな」という気持ちになった。


では次にどうするか。これも医学研究の世界ではよくやられていることなのだけれど、論文をちょいと手直ししてすぐに別の雑誌に投稿する。ただし今回に関しては、ぼくは「ちょいと手直し」じゃなくて大幅に手直ししてもよいかもな、というのを考えている。今回は雑誌の形式にあわせて「文字数制限」を厳しくかけて、そのせいでニュアンスがそぎ落とされた部分もあったので、今度はもう少し長文を載せてくれる雑誌を選んで、そこで丁寧に解説を増やして勝負したほうがいいのではないかと思うのだ。この作業には早くても2週間はかかるだろう。こうして論文投稿は数ヶ月の単位にわたる長い仕事となる。


これから論文を手直ししていくにあたっては、「共著者」全員にいろいろ確認していかないといけない。ひとつの論文にさまざまな協力者がいる(今回のぼくの論文にも10人の名前が書き連ねてある)ので、そういう人たちを差し置いてぼくだけの意見で論文の内容を入れ替えてしまってはいけない。昔の医学論文のように、たいして貢献していないのに同じラボだからというだけで名前を載せるようなことは今はまずあり得ない。名前が載っているからには働いてもらうし、名前が載っているからには全体の進行に納得していてもらわないといけない。


あと、細かいけれども、今回リジェクトされた雑誌はイギリス英語を推奨しており、次に投稿する雑誌はアメリカ英語で書くよう求められているので、英語を見直さないといけない。有名なところでは腫瘍という単語があり、tumour(英)をtumor(米)に直す、みたいな感じだ(※なお今回のぼくの論文に腫瘍は出てこないのだけれど)。言い回しなんかも微妙に違う(らしい)ので、ネイティブ・スピーカーに見てもらって、「英語を米語に直す」。こういう細かい作業にお金と時間が少しずつ消費されていく。やれやれがんばらないと。

2021年12月8日水曜日

ハイアリナイズドスカー

仕事場のPCの横に、無節操にキーホルダーをぶら下げている場所がある。近江神宮のお守りはいつかのクラウドファンディングでもらったやつだ。実際に行ったことがない神社のお守りが一番目立つところに飾られているというのもなかなかキワい光景である。その裏にケロリン(銭湯の桶のあれ)、丸山動物園のWe ♥ Polar Bearグッズ、宮古島のまもる君、マリオのコイン、奈良の鹿、稚内の鈴、さるぼぼ、ヒグマキティ、USJの蜘蛛、モンゴルの馬などがぶらさがっている。動物が多いなあ、無意識に動物を集めていたのか、と思うけれどUSJの蜘蛛は動物というよりは人間なので(※スパイダーマン)、一般化するにはちょっと無理がある。まもる君は動物ではなくあれは……えー……人形だ。


ほか、デスクの周りを見直すと、幡野さんの写真(額装、2枚)、ROROICHIさんのボールペン画、おかざき真里先生のイラストのジークレーなどがあって、幡野さんの写真のうち1枚をのぞけばほかはきちんとお金を払って手に入れたものである(1枚は幡野さんからもらった)。


自分の家に、何かを買って飾ることはない。しかし、職場は相変わらず「こう」。こっちがぼくの本来のやり方なのかもしれないなとはよく感じるところである。


20年以上前、はじめて一人暮らしをしたとき、部屋の中に何を置こうかウキウキと雑貨屋を巡って歩いたことを昨日のように思い出す。自分に文脈の紐が結び付いていないようなヘンプ(大麻)模様のグッズやhighway 66のロードサイン、知らない風景の絵はがき、観葉植物……。そもそもこういうグッズは壁紙や天井のランプなどをすべて整えた上で配置してはじめてそれっぽく居場所を手に入れるものなので、単発で買っても「単発で買ったなあ」としか思えないからなかなか部屋になじまなかったし、引っ越しするたびに特に思い入れもなく捨て続けたのだけれど、なぜか今けっこう鮮明に思い出してしまう。ぼくが最初に大学のそばに借りた部屋は家賃なんと17000円、シャワーとトイレは共同で、共用の廊下には絨毯がしいてあり、部屋のドアには「親指で押し込むタイプのカギ(昔のトイレによくあったやつ)」しかついていなかった。8畳一間、木造2階建ての2階、冬に部屋に入ると下の住人の熱ですでに部屋が暖かい。そんな築50年の骨董アパート(ぼくはここをよく「木造平屋2階建て」と呼んでいた。平屋なのに2階建てはおかしいだろ、と言う人はみな、実際に部屋を見ると納得した)の中にコタツがひとつあり(灯油ヒーター1つでは容易に凍死できた)、それ以外には本当になにもない部屋で、前の住人たちが無尽蔵にあけた壁の穴のひとつを拝借して釘を差し込み(打たなくてよい)、そこにHighway 66を飾ったところで、高速道路どころか道道(※北海道の県道にあたるもの)すら騙ることはできないのだ。弱い子犬のマーキングであった。「滑稽にもがくこと」が一人でやっていくことだと勘違いしていたころの話である。


その後さまざまな部屋に住むたびに小物を捨てては買い換え、捨てては買い換えしていた。最後に一人暮らしをした部屋は家賃35000円だったと思う。ツイキャスをやったときに部屋の中に映っていた光景がぼくの居住空間の7割くらいであったのだから、学生時代から「住み方」の基本は変わっていない、あそこも相当狭かった。ただし、置くものについてはさすがにスレていた。壁際にどこかのリサイクルショップで買った「棚のついた姿見」を置いてはいたけれど、特にそこにオブジェが並ぶことはなく、冷蔵庫にはもうマグネットは貼っていなかったし、壁にもポスターの類いはなかった。すでにぼくの部屋にも、あるいはぼくの体そのものにも、かつて虚勢が析出して既存構造を破壊しながら浸潤し、そのまま固着して器質化していつのまにか個性となってしまったものがべっとりと沈着していて、いまさらショップで手持ちのコインの限りを注ぎ込んだぶかっこうなアクセサリーを買い求めてアバターをデコる必要などなくなっていた。その後、家族ができて引っ越ししたとき、ぼくの部屋には何もなくなった、というか、ぼくは部屋自体を持たなくなった。


そうやってぼくの周りはだんだんそぎ落とされていったのだが、「職場のデスク」だけはなぜか昔のままである。大学生のときから大学院の講座には自分のデスクがあり、そこもおそらく今と同じようにさまざまなクッズ(グッズではなくて雑貨の屑(くず)のこと)が並んでいたはずで、結局そういう部分だけが残ってしまった、瘢痕という言葉を思う。たくさん無くしてきたのにまだ残っている。エアグルーブのぬいぐるみはどこに行った? ブラッド・サースティ・ブッチャーズのコースターはどこに行った? 膨大なノイズが失われた先でまだ雑音を抱えている。そういう場所でぼくは今日も仕事をしている。




2021年12月7日火曜日

病理の話(604) プレゼン下手を救ったZoom学会

各種の医療系学会・研究会がZoom中心になって、便利なことは山ほどある。

札幌に住むぼくはいちいち東京に移動しなくてよいので本当に便利だ。お金も時間も節約できている。

そしてなにより、パワポによるプレゼンが格段に見やすくなった。これまで、多くの発表は「広い学会会場のスクリーンにプロジェクタを通してPC画面を投影するスタイル」で行われてきた。このとき、パワポスライドのデザインが込み入っていたり色の使い方が下手だったりすると、発表の要点がよくわからなくなることは頻繁にあった。

しかしZoom学会だと、発表者が映したパワポスライドを、視聴者はそれぞれ自分のPCで高解像度・適切な色彩で見ることができる。これだととても理解しやすい。

ぶっちゃけ、「これまで学会発表がヘタだと言われていたような医者のプレゼン」がすごく見やすくなった。なぜだろう。



……ゆるやかに切腹をしながらここからの文章を書く。リアル会場の学会で映えなかったプレゼンが、Zoomの共有だと見やすくなる理由は、おそらく、

「多くの発表者が、巨大スクリーンを見上げる人びとのことを想像せず、自分のPC上での見栄えだけを確認してパワポを作っていた」

からだと思う。

長時間かけてPCと向き合ってプレゼンを微調整し続けるとき、どうしても、パソコンのモニタの明るさ、解像度、自分の眼との距離の範囲内で「最適化」をしてしまう。この空白がもったいないから画像をひとつ追加しておこう、みたいなことが起こる。このとき、発表者は、「スクリーンに投影されると見え方がどう変わるか」というのをつい忘れてしまう。

おまけにZoom学会では、発表している自分の顔が常に映し出されるというふしぎな効果もある。自分の顔を意識しながら人前でしゃべるということに、苦手感を表明した人の数はすごく多いと思う(ぼくもいやだった)が、これが続くと、なんというか、「人から見られていること」をいやでも意識するので、プレゼンテーションのスキルのようなものを考えるいいきっかけになる。




さらにさらに。Zoom学会では、しばしば、通信障害によって発表者と会場との接続が切れてしまうことが起こる。「発表7分、質疑応答2分」のように、発表者が与えられる時間が極めて短い一般のセッションで、発表者が3分くらい「落ちて」いると学会の進行がめちゃくちゃになるから、最近の学会はたいてい「発表者は事前にパワポに音声を吹き込んだものを学会事務局に送り、当日はそのパワポと音声を学会事務局が再生する」というやり方をとる。この間、発表者は、自分が作り自分が声を吹き込んだパワポスライドを「Zoom上でじっと眺めて待っている」ことになる。プレゼンが終わって質疑応答のところだけリアルタイムで発言するのだ。

この「自分の発表を自分で聴く時間」というのがエグいくらいにフィードバックにつながる。「なんでここでこんなに平板にしゃべってしまったのだろう」とか、「なんかこのスライド1枚だけやけにビジー(込み入っている)だな……」とかをぐいぐいと気づくことができるのだ。



こうしてZoom学会の普及によって、医者や研究者は……いや、少なくとも「ぼくは」、自分の発表を客観的に見直す機会をたくさん得ることになった。これじゃ伝わらないよなーみたいな部分を細かく直すのに忙しい。これをやらずに40代を通り過ぎていたら50代、60代でだいぶポンコツな発表をしていたかもしれないな、とすら思う。瓢箪から駒とはこのことだ。しかしまあ毎日反省ばかりして疲れる。





あ、それと、今まで「プレゼン上手」とされていた人たちがZoom学会だと急に下手になっている現象もけっこういっぱい観測されている。慣れないとそうなるよね。あたりまえだな。みんながんばろう。

2021年12月6日月曜日

嫌いを毎日書く人にだけはなりたくない

内容は非常によいのだが日本語訳が「硬い」本を読んだ。


……と、かんたんに書いてしまったけれど、実際には原文(英語)がそもそも「硬い」のかもしれない。となれば、日本語翻訳は十分に本来のニュアンスを汲み取っていることになる。もしそうなのだとしたら、「悪い」のは翻訳ではない。


今、思わず「悪い」と書いたけれど、「硬い」文章の本は読みづらいが「悪い」わけではない。硬さが必要だと思って硬く書いている本はむしろ「良い」。






形容詞を使う度に、それはほんとうに適切なのだろうかというのをくり返し考える。形容詞こそは主観そのものだ。

「白い」も「熱い」も相対判断である。「広い」も「狡い」も感じ方次第だ。「細かい」ことを言えば、「あの人は努力している」のように、形容詞がなくても主観的な表現というのはいくらでも作れるが、ともあれ、形容詞が多い文章を書けるときは自分でも調子が「良い」と感じる。最後の「良い」は形容詞ではなかったかもしれない。



作家のイーユン・リーが『理由のない場所』で、副詞と形容詞に別様のこだわりを持つくだりを描いていた。本筋とは関係なく……いや、それこそが本筋だったのかもしれないけれど、本を読み終わってからもそのあたりがずっと気になっている。言葉で何かを修飾することについて、ぼくはこれまでさほど頓着してこなかった。


論文や教科書を書く際には形容詞を使うのが難しい。程度を表現するには比較対象を設定して根拠を述べなければいけないからだ。「俺がそう感じたのだからそう書いていい」が一切通用しない世界で、形容詞を用いる機会は減る。そうして少しずつ言葉との関係がぎくしゃくしはじめる。


論文のような特殊なケースはともかくとして、このブログのように思ったことを適当にちょちょいと書いていい場所でも、ぼくはこれまでさほど形容詞のことを気にしていなかった。そういうのを気にする人が作家として食っている、と言われればその通りなのかもしれない。ただ、そもそも形容詞が多い文章をぼくはあまり好んでいないのかもしれないなとは思う。読み手に、形容詞の奥に隠れた不定形を感じとれるような文章、形容詞の部分が余白になっている文章のほうが、今のぼくは好きなのだと思う。


「好き」というのは形容詞ではないが動詞なのだろうか? ググってみたら「好く」という動詞の連体形であると書いてあった。でもときには形容動詞のこともあるという。どうも読んでいてもしっくりくるようなこないような、煙に巻かれたような感覚はある。「好きな食べ物」「好きな音楽」として使うならまだしも、「フガジ? ……好き」とつぶやくときの「好き」の品詞が動詞とか形容動詞だというのは、体のどこかが納得しない。


「好き」の品詞はよくわからないままだけれど、それは置いておいて、主観をあらわす言葉に対する抵抗感が強いときにぼくが書く文章はあとで読み返すと「硬い」し「悪い」。「好き」をやわらかく書き続けることにはあこがれがある。「好き」をうまく書くために大量の文章を書いている。ひとつの文章だけで「好き」が書き切れることはなく、いくつもいくつも書いているうちに相対として「ああ、こいつはなんかこういうものが好きなのかもしれないな」と、読み手にローンを返すような感覚で少しずつ積み上げていってようやく「好き」が書ける、あるいはまだ書いている途中だなと思う。

2021年12月3日金曜日

病理の話(603) 病理専門医試験

マンガ『フラジャイル 病理医岸京一郎の所見』の第89話が月刊アフタヌーン2022年1月号(2021年11月25日発売)に掲載された。これはもう涙なくしては読めない回でぼくは職場で読んでその日の仕事をする気が一切なくなったしでもこれを読んでこの仕事をする気がなくなるというのはちょっと変な話だなと思って、結局は普通に胸を張って仕事をした。2014年からずっと読み続けてきて良かったと思える回である(いつもだけど)


単行本になるまでネタバレしないでほしい人がいっぱいいるだろうから、最新話についてはこれ以上書かないことにするが、それはそれとして、今日は「病理専門医試験」の話をする。


病理医になるために必要なものは医師免許だけだ。じつは、ほかに何も持っていなくても病理医として働くことは可能である。とはいえ、たいていの場合、「死体解剖資格」という国家資格と、もうひとつ、「病理専門医」という日本専門医機構の資格がないと一人前の病理医としては見てもらえない。

このうち前者の死体解剖資格は、病理医の大事な業務のひとつ、「病理解剖」を主執刀者として行うために必須! である。当然のように国家資格だ。

すごく厳密に言うと、一部の検査センターとか、解剖がぜんぜん行われない独特な病院、あるいは近隣の大学から多数の応援病理医がやってきて代わりに解剖をやってくれる病院などで、一切解剖をしなくてもよい顕微鏡診断専門の病理医としてひっそりはたらく、みたいなレアな勤務形態は可能である。この場合は解剖をしないので資格も必要ない、でも、そんな病理医を雇おうという病院はあんまりない。

で、まあ国家資格は取るとして、その次の病理専門医。こちらは本当に必須ではない。正直な話、これがなくても病理医として病院に勤務して診断を行うことは十分可能である。より正確に言うと、この資格は「病院に勤務して継続的に病理診断を行ってきたことの証」だ。ポケモンのジムバッジみたいなものである。取らなくてもポケモンを集めて戦うことはできるけれど、レベルを普通に上げて、順当に戦えば取ることができるし、レベルが上がってるならジムリーダーに負けることもまずない。取らないことにメリットがほとんどないので(試験のお金を払わなくていい、とか、書類を書かなくていい、くらいか)、わざわざ取らないままでガマンするものでもない。

むしろこれを取らないと、「病理専門医なんて普通に病理医やってれば絶対に落ちない試験なのに、あえてこれを取らないってことは何かちょっと性格的に偏屈なところがあったりするのかしら?」と邪推されてしまうタイプの資格でもある。別にそこまで言うことはないんだけれど、印象としてそういうところがある。

ぼくは病理専門医を取得する際に試験勉強をしていない。書類を揃えた記憶もおぼろげだし、当日どこでどのように試験を受けたかもほとんど覚えていない。「絶対に受かる」と言われていたので対策をしなかったし、本当に受かった。それはぼくが病院の病理部に常勤して、毎日ふつうに病理診断をしていたからである。


では、病理専門医をとる人がみんなこういう状況で試験を受けるのかというと、そうでもない。


病理医には「診断ばかりする人」もいれば、「大学で研究をしっかりやるタイプの人」もいる。研究は病理医のだいじな仕事のひとつだ。専心してしっかりやらなければいけない。この診断と研究のバランスというのは、病理医ごとに異なる。一方で、病理専門医になるための試験はもっぱら「診断」の部分だけを問われるので、ぼくのように「診断だけやっている期間が4年ほど続いた」人間にとっては本当に楽な試験だったけれど、研究に軸足を置いている病理医にとっては、サブでやっている仕事に対してテストを課されるようなものですごくしんどいらしい。


逆に言えば、現在は研究者をやっているにもかかわらず、資格として病理専門医を持っている人というのは、キャリアのどこかで一度まじめに診断と向き合ったことがあるよ、と名刺に書いているようなものである。偉い。研究ばかりやっているのによく専門医取れたね、努力家なんだな、という感想が自然とわきあがる。病理研究者はほとんどの場合、脳腫瘍なら脳腫瘍だけ、食道がんなら食道がんだけ、肝臓がんなら肝臓がんだけ、子宮がんなら子宮がんだけ(それも例えば子宮頸がんだけ)を研究しており、それ以外の臓器についてはまるで触れる機会がないし病理診断もほとんどしない。でも、病理専門医試験では頭の頂点から足の指の先まで、あらゆる臓器の病気、細胞が出題される。これ、言うほど簡単ではないよ。病理専門医資格をもっている研究者たちはみんな(少なくとも受験当時は)勤勉だったのだ。そして、これがおもしろいところなのだけれど、たとえば食道がんしか扱っていない病理研究者も、たまに、「全身の勉強をしておいてよかったな……」と感じることがあるらしい。研究者というのは深く鋭く切り込むものではあるが、脳のどこかに手広く雑多にアイディアを集めておく資質も必要で、そういった「俯瞰するための力」を養う上では病理専門医という資格はそれなりに役に立つのかもしれない。




長くなったが最後にひとつ。病理専門医試験に落ちる人には2種類いるという。

・本当に研究ばかりしていて診断をあんまりやりたがらなかった人

・大学の上司や同僚などから適切に情報収集ができず(自分で何でもやろうとするタイプに多い)、書類に不備がありまくった人

・なめすぎていた人


3種類だった。すんません

2021年12月2日木曜日

AIの寿命の話

早朝や夜中、つまりは時間外。まわりから話しかけられたり電話がかかってきたりすることがないのを良いことに、仕事のかたわらよく音楽を聴いていた。オルタナ、エモコア、インストゥルメンタル。懐ゲー(※懐かしいゲーム)のBGMや、Lo-fi hiphopを聴くことも多かった。

では音楽にじっくりとひたりながら仕事をしているのかというと、どうもそういうわけでもなかった。高度の集中を要する仕事の最中は、「音楽が鼓膜の手前で引き返すような感覚」に入る。つまりは耳の外で何かが振動していることだけはわかるのだけれど、その音楽の記憶が飛ぶのである。気づいたら好きなアルバムの好きな曲が終わっていた、みたいなこともよくあった。

ところが最近そういうのがぜんぜんできなくなった。音楽を聴きながら何かをすることがすごくつらくなってきたのである。半年ほど前に、偉い人から突然舞い込んだメールの返事を書こうとして、「音楽聴いてる場合じゃねえ!」と思ってイヤホンを耳からはずしたとき、あれ、俺って前はメールの返事も音楽聴きながら書いてたんじゃなかったっけ……と気づいて驚いた。

実際、ぼくがはじめて書いた一般書である『いち病理医の「リアル」』の中には、イヤホンを片耳に入れてバックグラウンドで小さく音を鳴らしながら仕事をしているので、メールの着信があったときにそれにすぐ気づいて、すばやく返事をする、みたいなくだりがある。でも43歳になってこれができなくなった。




なんとなく連想したのは、「Windows update」であった。パソコンのOSはしょっちゅうアップデートをするが、たまに大きな更新があり、デスクトップのデザインまで変わることがある。Microsoftはすぐに「これからはもっと便利に!」みたいなことを言うのだけれど、そして実際、Windowsは年々便利に進化しているのだけれど、更新が終わって再起動を2回ほどかけると、それまでふつうに動いていたはずのメモリがなぜか足りなくなり、挙動が不安定になったり、動きが遅くなったり、ソフトウェア(アプリ)を同時に立ち上げるのがつらくなったりする。

これを思い出した。つまり、ぼくはupdateによってメモリを食うようになってしまったのではないか、と思った。今のぼくが以前のぼくより衰えたとはあまり思わない、むしろ、仕事にしてもプライベートにしても、できることの幅を少しずつ地道に広げてきて今があるとは思っているのだけれど、ここに至るまでに脳内では膨大な量の並行処理が更新され続けていて、「音楽を聴きながら概念を扱う」ために必要な脳内メモリが不足しはじめたように感じる。

このメモリばかりは増設するわけにもいかない。




大好きなマンガ『空に参る』の中で、AIロボット的な存在であるリンジンに「判断摩擦限界」というものが設定されていたことにとても感動した。外環境の情報を取り入れて学習をくり返していくうち、AIの判断の挙動が遅くなる、それが一定より遅くなると人との関わりが困難になり、いわゆる「AIの寿命を迎える」。この設定にぼくはのけぞって感動した。遠い将来、ドラえもんのような人工知能が開発されたとして、きっと「持ち主・飼い主」が寿命を迎えたあともドラえもんは生き残らなければいけない、その本質的なさみしさにオールド・マンガファンは密かに涙していたはずなのだけれど、冷静に考えて、Windows updateのように、電子の知能は更新をくり返して複雑性が増すと急激に使いづらくなっていくものなのだ。つまりAIにも寿命がある。過適応みたいな状態になってハングアップするのだ。それはきっとAIにとっての「痴呆」のような、あるいは「超越した仙人」のような、もしくは「仏」のような状態なのではないかと思う。もし将来のAIに意思が発生するとしたら、そのときAIたちは、自らの脳に寿命を設定して定期的にフォーマットするか、もしくは情報のアップデートをやめてそこまでの知識で生き続けるか、あるいは第三のまだ想像もつかないなにか、を選ぶことになるのではないか。ぼくは仕事をしながら音楽を聴けなくなった。AI、君にもいずれこの感覚がわかる日がくる。

2021年12月1日水曜日

病理の話(602) なぜそれがA病だと思ったのですか

超音波検査をやっている技師さんがいっぱい参加する勉強会に、よく顔を出す。みんなで一緒に勉強をするのだ。


勉強会と言っても、塾に並んで座って教科書を読んだり問題集を解いたりするわけではない。社会人には社会人なりの勉強方法がある。


たとえばとある勉強会では、参加者が持ち回りでホストを勤める。ホスト役の人は、自分の職場で撮像した「超音波画像」をみんなに見せる。先月はA病院のBさんが画像を出しましたね、では今月はC病院のDさんに画像を出してもらいましょう、みたいな感じだ。


ホストは会の最初にこのように言う。


「○○歳男性、健康診断で肝臓に病変を指摘されました。精密検査の超音波画像を供覧(きょうらん)いたします。」


供覧という言葉はほかでなかなか見る機会がないが、要は、「これをみんなで見て考えようね!」ということである。


ホスト以外の出席者は、出された画像を見て考える。超音波検査技師さんたちは皆、日ごろは自分で超音波のプローブ(端触子)を手にして患者にあて、超音波画像を撮っているのだが、勉強会のときは他人が撮った画像を見て考えることになる。


そこで何を考えるか?


映し出されたものが何なのか。診断は何か。それを知るために、どうやって画像を撮ったらいいか。超音波検査は技師の実力によって見え方が変わってくることがあるので、勉強会に出て、上手な人の撮り方を真似するのはとても大事なことである。




出席者たちは次々に発言する。


「この肝臓の病変ですが、私は○○病だと思いました。」


でもこれだけで終わってはいけない。なぜ○○病だと思ったのか、それを、他人がわかるように説明しなければいけない。


画像を見て考えることを一般に「読影(どくえい)」という。レントゲンという「影絵」方式の画像検査があることから、画像を見て考えることを「影を読む」と呼ぶ。超音波検査は超音波を反射させる検査だし、MRIは磁気をあててスピンの変化を見ているので、正確には影を読む検査ではないのだけれど、慣習的にすべて「読影」という言葉を用いる。


そして、勉強会では、読影する際には「根拠」を述べなければいけない。○○病だと思ったから○○病なのです、では通じないのである。個人の頭の中でだけ完結するストーリーで画像診断をしてはいけない。勉強会のキモがここにある。


「なぜ○○病だと思ったのですか?」


「病変のふちの部分がギザギザとしているから、周りにしみ込んでいる(浸潤している)のではないかと推測し、それならば『がん』であろうと考えました」


「病変内部の模様がわりと均質で、ムラがないので、全体が一様な成分から構成されているだろうと考え、それならば『がんではなく良性よりの病変』ではないかと考えました」


読影の根拠をぶつけ合う。参加者がもし、「もう少し違う写真も見て根拠を探したいな……」と思ったら、次の超音波検査の際に、「他人が見ても考えが進めやすい画像の写真を撮ろう!」という気持ちにつながっていくだろう。こうして、他人の撮った画像を見ながら診断を考えて、勉強する。



なおぼくの役割は、最後のほうで出てきて、手術で採取されてきた病気の正体を「病理学的に」あばきだし、超音波画像でなぜ「あのように」見えたのかを解説する役目である。「ホストを除けば一人だけ回答をしっている男」みたいな立場になることが多い。でもそればかりだとつまらないので、ときどき、病理診断をあらかじめ教えてもらわずに、みんなと一緒に超音波画像を見て考えるようにしている。こういうのもいずれ病理診断の役に立つ。