2018年1月31日水曜日

病理の話(165) CPC劇場

医療はひとすじなわではいかない。

臨床医が考え込んでいる。画像診断にたずさわる診療放射線技師が悩む。臨床検査技師がしっくりこないと首をひねる。看護師たちがいつもと違うといって悪戦苦闘する……。

病気は複雑だ。

ときにわからないことがある。納得できないことがある。

病理診断は確定しているけれども、その後の経過が典型的ではない。

そもそも病理診断自体が確定しないなんてこともある。



そんなときどうするか。



臨床病理検討会というカンファレンスを開く。

英語になおすとクリニコ・パソロジカル・カンファレンス。略してCPCという。

診断や治療に悩むとき。あるいは、悩んだ後に。

臨床医と病理医ががんがんやりとりをしたい、と思うことがある。そんなときにはCPCだ。



……けどまあ実際には、多くの多忙な医療者たちを一箇所の会議室に集める手間、さらには時間調製のモンダイがあるので、えー、CPCは普通は定期開催である。建前と本音というのがある。



CPCをはじめよう。

まずは、悩みの深い症例を担当したドクターが、「プレゼンテーション」をする。

症例プレゼンテーションというのは、だいたい以下のように行う。

・ID(患者の名前、年齢、性別)

・主訴(しゅそ)。患者がそもそも病院にかかった理由

・現病歴(げんびょうれき)。患者が今回悩んでいる症状、そこに至る経過を説明する

・生活歴。飲酒や喫煙の状態、ふだん元気でぴんぴんしているのか、それとも寝たきりなのか。渡航歴(最近海外に行ったかどうか)。ペットを飼っているか。最近引っ越しをしたか

・既往歴。過去に大きな病気にかかったことがあるか。そして、その病気をどのように治療したか、あるいは今もしているか。どんな薬を飲んでいるか、どんな手術をうけたのか

これらはいずれも「患者の歴史」みたいなものだ。ドクターのプレゼンを聞いて、患者の姿がありありと見えてくれば、まずは成功である。




続けて、ドクターがどのように患者に介入したのかを説明する。

・診察したときのようす

・血液検査

・CT・MRI・超音波・内視鏡など画像診断の結果




これらを説明したあとに、問題点を述べる。「何が気にくわないのか」ということだ。カンファレンスでみんなに聞いてもらいたいということは、何かがしっくり来ていない、ということだから、それをしっかり説明する。

「CTの画像があまりみたことのない形態をしていた」とか。

「おそらく細菌感染しているはずなのだが感染場所がはっきりしない」とか。

「がんの転移した場所はわかったのだが、もともとがんがどこから来たのかがわからない」とか……。




これらの長いプレゼンによって、会場のみんながドクターと同じ気持ちになる。

なぜだろう。

ふしぎだ。

むずかしい。

そこで、今度は病理医の番となるわけだ。あたかも、答えを与える役のように。




でも本当のことをいうと、疑問すべてに、病理医が答えられるわけではない。

たとえば、血液検査の異常については、病理医がとくに臨床医より詳しいとは限らない。病理医というとあらゆる検査に詳しい印象をもっている人もいるかもしれないが(たぶんフラジャイルの影響で)、実際にはプレパラート診断以外は苦手な病理医も多い。

病理医は、「すべてを知るもの」ではない。

それでも、臨床医の役に立つことができる。



病理医のプレゼンテーションは、主に、「病気が確認された場所」や、「病気を構成している細胞そのもの」、また「病気によってどの臓器が壊されているか」などを説明する。

特に、がんをめぐる医療においては、病理医がみたものに非常に多くの情報が含まれている。







実は、病院・施設ごとに、CPCの「盛り上がり方」は少し異なる。

CPCが盛り上がらない病院というのは実際にある。なんとなく慣例で開催されるカンファレンス。人数があまり集まらない会議室。看護師も技師もカンファレンスに興味がなく、担当医のプレゼンはおざなりで、疑問点ははっきりせず、病理医もまた臨床の疑問に興味がない。「病理からいえることはこれだけです」。疑問が解決したのかしてないのかもわからないままに、それではまた来月……。

一方、CPCがとても盛り上がる病院もある。そういうところではたいてい、担当医が事前に病理部に足をはこび、カンファレンスではこのような疑問を提示したいと、事前に病理医に情報を出してくれる。カンファレンスは喧嘩するためにやるのではなく、これからみんなで難しい症例を解決しようと意気込んでやるためのものなのだから、事前の打ち合わせはいくらあってもいいのである。的確な疑問が提示され、十分に準備された病理のコメントが出ると、カンファレンスはいやおうなしに盛り上がる。やがて、出席する医療者たちは、単に情報を共有するにはとどまらず、担当医の「感情」をも共有することができる。この患者はたいへんだったろうな。自分が担当していたらどう考えたろう……。




CPCがおもしろくなる条件。それは臨床の医療者たちが、病理と連携してくれることだ。

CPCがつまらなくなる条件。それは病理医が、臨床の疑問にちっとも答えずに核とか細胞質の話ばかりして終わってしまうことだ。

有用なカンファは臨床のおかげ。クソカンファは病理医のせい。

ぼくはわりと本気でそう信じている。

2018年1月30日火曜日

建前と前立腺ってよく考えると兄弟

ごっそり消して書き直したものが今日の記事である。

「建前」についてつらつら書いたら、いろいろ透けて見えてしまった。タイトルはそのなごりである。




具体的に書かないと伝わらないだろう。多少具体的に書こう。ぼくは消す前の記事で、本の「謹呈」とか「献本」についてのあれこれを書いていた。

今までこういうことでお世話になったから本を送りたいとか、今後一緒に何かをしたいから本を送るとか、前に本を送ってもらったお礼だとか、そういうことを、本を送る人、送らない人、ひとりひとりについてずっと考えていて、そこにまつわるあれこれを、ダラダラと書いた。

できあがったものを一端寝かせて、時間をおいてから読みなおした。いいわけだらけだった。

うーむとうなってCtrl+Aで全選択して消した。




誰にメールを送るとか送らないとか、文面をどうするとか、そういうことを気遣わなければいけないのは社会人のたしなみであり、摩擦を減らして交流をスムーズにするための技術である。

でもぼくは、この技術を使うことがしばしば「目的」になっている。

本来は「手段」でなければいけないメールや手紙などの技術を知るうちに、いつしか、「気づかいが行き届いている自分が気持ちいいからこれからも気づかいをしようと思う」みたいに、技術が目的にすりかわっている。




建前をぶつけられる相手の気持ちになってみればいい。

その建前、発する自分は思いやりのつもりなのかもしれないが、めんどくさくて重い槍となって相手につきささっている。




仲の良い人、会ったことのない人。

仕事でつきあいがある人。遠くでみていただけの人。

会ったことがないから、会って話をしたら幻滅されてつらいかもしれない人。

会ったことがあるけど、あまりよくわからない人。





さまざまな人との会話をふぁぼって終われるツイッターこそはぼくにとって最高のツールだった。

メールや手紙の文化に戻らなければいけないことは、けっこうなストレスであるなあ。

2018年1月29日月曜日

病理の話(164) 人はなぜだいたい決まったサイズになるのか

背の高い人もいれば低い人もいる。身長は主に骨格によって決まる。

体重もバラエティにとんでいる。ざっと世間を見渡して、成人男性だけを比べてみても、55キロと110キロくらいならすぐ見つかる。軽く2倍くらいの差があるわけだ。

だったら、脳のサイズだってもっと多様であってもよかろう……と思うのだが、成人男性の脳のサイズはそこまで大きな違いがない。男性であればだいたい1500グラム弱と決まっている。人によって頭蓋骨の大きい小さいがあるにも関わらず、脳の容積はせいぜい100グラム程度の差しかない。

「総体としてのヒトのサイズ」は多様であるが、「内臓もそれぞれも好き勝手なサイズで楽しんでいる」というわけではない。よく考えるとこれはふしぎではないか。



ふしぎだけどあたりまえのことでもある。

たとえば肝臓という臓器が、たまたまある人においてはふつうの3倍くらい大きかったとしたら、限られたお腹のスペースを占拠してしまい、腸とか膵臓とかがせまくてしょうがないだろう。

脳がたまたま3000グラムくらいまで育ってしまったとしたら、限られた頭蓋スペースでおしくらまんじゅうされてつぶれてしまって、けっこうまずいことになるだろう。

臓器のサイズは「ほかの臓器との関係」とか、「腹膜や胸膜、ホネなどの仕切り板との関係」によって、限界が決まってくる。



だったら、臓器というのはそのサイズ調整をどうやって行っているのだろうか? 誰かが目で見て指示を出しているわけではない。ここまで育ったらストップ、みたいな信号をどうやって与えているのか。

実はぼくはこれに対する確固たる答えをもっていない。いろいろ調べてみても、途中まではわかっているようなのだけれど、最後のところがいまいちわかっていないように思う。







自然現象を思い出す。

トリがいっぱい空を飛ぶとき、なぜかきれいな編隊を組んでざぁっと飛ぶことがあるだろう。

サカナが群れて、大きなカタマリとなって、自分より大きなサカナから身を守るシーンが記憶にある人はいないか。

外国のどこかで、ホタルが木に群れて、まるで同期しているかのごとく一斉に明滅する場面を知っているだろうか。

アリが隊列を組み、ハチが巣を作る。

あれは別に神様がああ並べと命令しているわけではない。

動物の生態とか行動科学を研究している人はいろいろ詳しいだろう。

個別の虫や鳥や魚たちは、全体のことを考えてよかれと思って動いているわけではない。

自分の周りを見ながら、自分はこうしようと、なんだか流されるように本能のままに動くだけで、総体がなにかの形になっていくのだ。何かがシンクロしていくのだ。



きっと細胞でもそういうことが起こっている。

ぜんぶは知らないのだけれど。

パラクライン。間質誘導。栄養の上限と細胞増殖活性。増殖帯の分布。血管新生。

これらが好き勝手に動いた末に、なぜか脳のサイズが決まり、肝臓は腹の右上に落ち着く。

病理医が細胞1個をみていてはわからないことがある。マクロの目線とミクロの目線を交互に用いなければわからない構造がある。がんは秩序を打ち壊す。秩序を知り、混沌を知るために、ぼくらは何を見ていけばよいのだろうか?

2018年1月26日金曜日

脊髄だけが旅をする

葉物野菜を煮て食べたところ、ほどよく歯ごたえがありほどよく柔らかかった。おいしいおいしいともりもり食べた。

ヒトの味覚というのはもともと、自然界にあるもののうち、食べて良いものを美味と感じ、食べてはいけない毒を苦いとか酸っぱいと感じるように進化してきたんだと漠然と思っていたのだが、「ほどよい歯ごたえ」に至ってはそれがどれくらい体のためになるのかわからない。硬すぎたら消化できないというのは理解できるが、柔らかすぎて体に悪いことがあるわけでもなかろう(アゴが弱るとかそういう話はいったんおく。自然界に生きていて柔らかいものだけを連続で食べる機会などないのだから)。

しゃきしゃきとしてそれでいて噛みきれる快感、なんて、進化の過程で副次的に得られたバグみたいなものなのではないか、と思わなくもない。それが何の役に立つのだ。



そういえば先日、「マツコの知らない世界」でウメボシのことを取りあげていたのだが、翌日ある人と話をしていたら、

「うちの子供がさあ、ウメボシ見ても口の中に唾液が出てこないっていうんだよ」

といわれて思わずのけぞった。そのお子さんは小学生くらいだったと記憶しているが、生まれてこのかた、おにぎりに入っているウメボシも弁当にたまに入っているウメボシも、そこまですっぱいと思って食べたことがないらしい。あれか、はちみつに漬けたタイプのウメボシが全盛だからか。お弁当用のウメボシはときに甘めに調製されているとも聞く。

ウメボシがすっぱいという経験をしないままに小学生くらいに育ってしまうと、ウメボシを見てもパブロフの犬的な反射が発動せず、口の中に唾液をためることもない、ということなのだろう。

こんなことでジェネレーションギャップを感じることになるとは思わなかった。




そのことを思い出して、そうか、しゃきしゃきおいしい野菜なんてのは、もしかするとぼくが今までの人生において「このしゃきしゃき野菜を食べると、味付けとか、一緒に食べているものの味とか、ビールとか、いろいろおいしいなあ」という記憶を積み重ねてきた末に、「このおいしい野菜を食ってるときにはときおりしゃきしゃき感じるなあ」というあたりがパブロフ化して、ついでにいうと途中の複雑な過程を忘却した結果、「しゃきしゃき野菜=おいしい」という連想につながっているのかもしれないなあ、などと考えた。ウメボシを見て唾液がたまるように、しゃきしゃき野菜を噛むとおいしいという感情がたまっていくのではないか。




なーんてことを書き連ねているうち、ブログ投稿欄のスクロール・バーが50%より短くなってきたので、そろそろ書き終わろうと反射的に思った。これもまたパブロフ的ななにかなのだろう。ぼくはときどき脊髄反射で生きている。

2018年1月25日木曜日

病理の話(163) キャーのび太さんの

ぼくらが細胞をみるとき、一番頻繁に用いるのはHE染色だ。ヘマトキシリンという青紫色の色素と、エオジンというピンクっぽい色素を使って細胞を染め上げる。

世界中の病理医や研究者がHE染色をもっぱら用いる理由は、数ある細胞の染め物の中で、

「HE染色が一番、細胞の中にある核という構造が見やすい」

からだ。

きれいだからとかあざやかだからという理由だったらおもしろいのだが、役に立つからという理由。まあほんとに役に立つんだからしょうがない。

ヘマトキシリンは、細胞の核に染まる。核という構造をただべっとりと塗りつぶしてしまうのではなく、核の外周である核膜と、核の中にあるクロマチンというDNAのカタマリが丁寧に染まり、輪郭とか形状を評価することができる。

細胞の核って小さいものだと2~3μmくらいなんだけど、その2μmの中にちゃんと模様が浮かび上がるのだ。しかもDNAだよ、DNA。

なんと! HE染色を使うことでぼくらはDNAをみることができるのだあ!

……ただしクロマチンとはDNAが様々なタンパク質とからみまくってごっちゃごちゃになってダマになってしまったカタマリなので、それほどすごくよく見えるわけではない。もちろん塩基配列がわかるわけもない。けれどそれでも十分役には立つ。

核が青紫色に染まってハイライトされる一方、それ以外の構造……細胞質とか、細胞と細胞のあいだに存在する液状のものとか、線維とか、血管とか、筋肉とか、とにかくあらゆる「核以外のもの」は基本的にエオジンというもうひとつの色素によって染まる。

核だけを特別扱い。ほかはぜんぶ、ピンクの濃さで見ようという染色。それがHE染色だ。エオジンで繊細に描かれた水墨画のあちこちに、ヘマトキシリンで画竜点睛。核だけは特別扱いである。ちょっと1枚写真を出そう。



これが何とはいわずにとにかく1枚。

「なんだかピンクと白と、あとにごった紫でできているなあ」と思って眺めたあなたは何も間違っていない。病理医だって同じことを思って眺めている。

ただし、病理医の場合は、

「核が青紫で特別扱いだ」

という格言が、あなたがたよりもう少しだけ強く、脳と目にしみついている。写真をみるときには無意識に「青紫の登場頻度」を数えている。

核の数とか、密度。どれくらい核があるだろうか。核の形は。DNAの量がどうなっているのか。

その上で、ピンク色の部分を、あぁーただピンクだなぁーで終わることなく、濃いとか薄いとか、筋張っているとか何かを取り囲んでいるとか、水墨画に秘められたメッセージを読み解くように、細かく見極める。

おまけで、染色液にさんざんつけ込んでいるのに白い部分というのはつまりなんなのだろう、そういう目で、白い部分も見る。

一般人と病理医とでは、つまりこの程度の差しかない。ちょっと学べば誰でも顕微鏡像を見て考えることができるようになる。



……なんかプレパラートの見方みたいなものをまともに説明したのはじめてな気がする。

ぼくは日頃、マクロ(肉眼で臓器をみること)や、各種の画像診断と病理の対比みたいな話ばかりをするので、顕微鏡で400倍とか600倍に拡大した組織像のことはめったにしゃべらない。

けどほら、実は、いまさらだけど、こういうミクロの世界も好きなんだよね。マニアックでオタクな変態って思われたらいやだから今まで言わなかったけど……すでに思われてるからもういいかなって……。

2018年1月24日水曜日

完全体になれさえすれば

医療系の雑誌の名前はもう少し何とかならんのかというくらいシンプルだ。「病理と臨床」とか「臨床病理」はまだいいほうである。「胃と腸」とか「肝臓」とか「胆と膵」。そぎ落としの美学であるな。正直ダサい。けどそこがいいともいえる。

思い起こせば、世の中でいちばん有名な科学雑誌のネーミングがNature(自然)とかCell(細胞)とかScience(科学)なわけである。これらの英文誌にあやかって日本の雑誌も真似したのかもしれない。

今届いたばかりの「胃と腸」の最新号を読みながら、そんなことをふわふわと考えていたところ、記憶のだいぶ下の方に埋もれている薄暗い情景のなかから、ぼうっと、とある「沖縄料理屋」の風景が浮かんできた。

うーむこの記憶はなんだったろう。

連想の理由がすぐには思い付かない。雑誌をめくる手をしばらくとめて、目を閉じて記憶を掘りにいく。




ネイチャー……サイエンス……。




あれはぼくがまだ医学生か、もしくは大学院生だったころだ。すすきのか大通か忘れてしまったが、沖縄料理屋があって、ぼくはそこでラフテーとかトウフヨウなどをつまみながら泡盛を飲んでいた。札幌にも沖縄料理屋があり、そこはベトナム料理とかロシア料理の店とおなじように異国情緒を売りにした店だったように思う。ぼくはひとりではなくて、誰かと一緒にいたはずだ。全く覚えてはいないのだけれど、そこに置いてあった一冊の雑誌を見てゲラゲラ笑って発した自分の言葉が、断片化した記憶の海からかすかに浮かび上がった。

「ネイチャーサイエンスてwwwwインパクトファクター高ぇwwwwwwwwww」

ぼくは確かにこう笑った。全部ではないけれど思い出した。

その沖縄料理屋には、沖縄の自然を特集する「ネイチャーサイエンス」なるタイトルの雑誌が置いてあったのだ。直訳すれば「自然科学」、別にどこに出しても恥ずかしくない雑誌名ではあるけれど、ぼくは当時、病理の大学院で研究する気まんまんの才気走りクソ野郎だったから、めちゃくちゃ有名なイギリスの科学雑誌ネイチャーと死ぬほど有名なアメリカの科学雑誌サイエンスのあいのこみたいな日本の雑誌名を見て大笑いしたのだ。

あれ以来、ぼくは本家Natureとか元祖Scienceの表紙をみるたびに、なぜか沖縄料理屋の風景だとか泡盛の味を思い出すように条件付けされる日々が続いたのだった。もう15年くらいの月日が流れて、最近はそんなことすっかり忘れていたけれど、なぜかこのタイミングで思い出した。




ほんとにそんな雑誌があったのかなあ。

Google。

ネイチャー サイエンス 沖縄

だめだ、出てこない。沖縄のコテージサイトとか、自然食品とか研究助成金の話しか出てこない。

もしかしたら英語表記だったのかもしれない。だから余計に笑ったのではないか。そう思って検索語句を変えた。

Nature Science 沖縄




まさか本当に出てくるとは思わなかった。国立国会図書館の、雑誌バックナンバーがひっかかったのである。
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I010146895-00



これをもとに検索語句を追加してみた。もはやどこの国の何のためのサイトだかわからなくなってきたが、この雑誌に間違いない。




雑誌「NATURE SCIENCE」は確かに存在した。なんと角川書店ではないか。「沖縄大特集」の日付は2002年6月号、ぼくが医学部を卒業したのが2003年の3月だから時期的にもしっくりくる。やはりぼくは、医学部の6年生もしくは大学院の1年目くらいに、「沖縄大特集」が掲載されたために沖縄料理屋の店主の目をひいて購入されたのであろうNATURE SCIENCE誌を確かに見ていたのだ。



検索して顔がほころぶのを抑えられなかった。読み終わっていそいそと「胃と腸」を読む作業に戻ったが、脳内メモリの半分くらいを「胃と腸」の読書にあてながらも、残りの半分、あるいはそれ以上の部分を使って、あの沖縄料理屋がなんという店名だったろうかと思い出そうとした。

すすきのでかつて何度か行ったことのある「星空料理店」だったろうか。細いビルの10階にあったこの沖縄料理屋は今も営業しているようで、食べログやホットペッパーのサイトで店内をみることができ、ああこんな店もあったなあ、すすきので15年以上続いてるなんて立派な店だなあと感動もした。しかし、ぼくがネイチャーサイエンスを見かけたのはこの店ではなかったような気がする。

店の名前を思い出すことができないまま、記憶を深く深く掘り進めていくうち、息子といっしょに旅行したとある島の風景とか、こないだ訪れたモンゴルの草原の風景とかが、発掘場所に周囲から流れ込んでくる土砂のようにぼろぼろと堆積し、記憶の地層は次第に混沌としてしまって、ぼくの記憶考古学はそこで中止せざるを得なかった。

2018年1月23日火曜日

病理の話(162) 研修医が病理の勉強をする意味について正面から考える

断続的だったのが次第に連続的になってきた。

何の話かというと、うちの病理に研修医がやってくるようになった、という話だ。しばらくの間は数年おきに1人くらいの頻度で研修医をお迎えしていたのだが、最近はもう連続で来る。研修医用に用意した小さなデスクがずっと埋まっている。

ありがたい。うれしいのである。

頼りにされているんだなあと思う。まあ頼りにされているのはぼくそのものではなく、病理という分野が積み重ねてきた歴史と信頼であり、ぼくよりも上のスタッフ達のほうであって、ぼくは信頼という波に乗っかって飛んだり滑ったりしているだけなのであるが……。

医師免許取得後0か月~2年目までの、初期研修医。

3年目~5年目までの後期研修医。

病理を学ぶタイミングや期間はいろいろだ。

「週に1度のペースで1年間お願いします」という人もいる。

「毎日居着いて2か月間」という人もいる。

各人がさまざまなレベルで、思い思いの勉強をしていく。研修中、1回くらいは晩ご飯を一緒にたべて話をする。男性のときは二人で飲みに行くことが多い。女性のときは気遣うので、ほかの女性を何人か誘うことになり財布も切なくなる。

あんまり飲みたくない人もいるだろうから、さそうときにはとてもナーバスになり、しばしばこれで胃がしめあげられる。誘ってみるとたいていはOKしてくれるのだが、彼らは帰ってから枕を殴っているのではないかと気が気でない。

彼らは、必ずしも病理医になりたいわけではなく、というかまあ、たいていは普通の臨床医になりたがっている。普通のと書くと語弊があるな、一段上の臨床医になるために、研修中にちょろっと病理を勉強しておこう、というコンタンでやってくる。

目の色が違う。まじめだ。

ぼくらも本気でお相手をする。





かつてぼくが半年だけ勉強しに行った国立がん研究センター中央病院(当時はただがんセンターといった。いつのまにか「研究」が付加されていた)には、病理医が15人以上いた。レアキャラである病理医がそんなにいるなんてさぞかしすごい施設に違いない、と興奮して訪れてみたら、病理部には30人くらいの臨床医がひしめいていた。病理医よりも臨床医のほうがいっぱいいたのである。何をいっているのかわからないかと思うが、つまり、病理部とは病理医がのんびり暮らす公民館ではなく、臨床医にとっての学校であり進学予備校であり闘技場でもあるということを、ぼくはそこではじめて知ったのだ。

うーん今になって思うと、当時のがんセンターの臨床医たちは酔狂だった、と思わなくもない。だって彼らの熱意は異常だった。

30代半ばとかへたすると40代の、普通ならもはや各分野でエースとしてばりばり働いている人たちが、3か月とか半年という期間、患者と触れあわない病理の部屋に籠もって、なにやら激しく勉強しているのだから。

その勉強方法もかわっていた。

がんセンターでは多くの手術が施行されている。たとえばある日、集会場のような広い部屋に、10個とか15個くらいの「切除された胃」が、「ヒラキ」にされた状態で、ずらーっと並んでいる。

この胃はどれもこれも胃がんによって切除された胃だ。水を入れる革袋のような形をした胃が、はさみによって切り開かれて「ヒラキ」となって、粘膜のがわを上にして、机の上に並べて置かれている。ちょっと小ぶりな博物館とか美術館を思い浮かべるとイメージが近い。

陳列された胃の周りを、ひとりの病理医が、きりふきを片手に持ちながら、ぐるぐるずーっと回っている。

きりふきを時々ヒラキにシュッシュとかける。

そうしないと、ヒラいた胃が乾いてしまうからだ、という。ヒラキをずらっと並べているとは言っても干しているわけではない。乾燥してしまうと粘膜にひびがはいったり、病変がぼろぼろ崩れてしまったりするから、うるおいを与え続けなければいけない。そうまでしてヒラキを展覧する理由はなにか? 

それをじっくり、時間をかけて見たい人がいるからだ。

ある曜日の午後に、「見たい人がこころゆくまで胃をみるために」。見たい人とは誰か。そう、臨床医である。

胃を見に来る人は胃カメラの専門家(消化器内科医)が多い。胃を手術する人(外科医)も混じっている。彼らは普段、胃カメラの画像で胃をみている。直接自分の目で胃の粘膜をのぞきこむ機会はあまりない。

だから3か月間の病理部での研修中は、これ幸いと必死になって、ヒラいた胃をダイレクトに見ているのである。

5分とか10分というレベルではない。2時間とか、3時間とか。ひたすらだ。納得するまでみる。

7,8人の内視鏡医が身を寄せ合って胃の周りにむらがっている。目を近づけて、粘膜の模様を丹念に観察している。なにやらメモしている人もいる。一人はノートパソコンを手に持って、その胃がまだ患者さんの体の中にあったときに行った胃カメラの画像をチェックしている。

胃カメラってのはあれだ、出川哲朗がヘルメットにつけてるカメラみたいなかんじで、対象にぐぐっと近接することができる便利なカメラなんだけど、狭い胃の中で動けるようなサイズしかないし、魚眼レンズの効果だって加わっている。

だから胃カメラで見た画像と、実際に目でみた像とはちょっとだけ違いがある。当然、この違いを頭の中に入れてある医者は、よい診断ができる、という寸法である。内視鏡医たちはだからこそ必死で、自分が胃カメラでみたときの印象を、自分の目でみた印象と照らし合わせる。「答え合わせ」をするのだ。

「あぁーここもう少し盛り上がってると思ったんだけど意外と丈が低いな」

とか、

「うーんこの癌がここまで伸びているか、ここで留まっているか悩んでたんだけど、やっぱり伸びているように見えるなあ」

とか言っている。

自分が胃カメラで覗いた胃の中にあったがんを、切り取られた後の胃でも観察して、その後、プレパラートになった胃の病変も観察して……。

とことん病気を見まくるために病理で研修をしているのであった。




病理にやってくるのは胃カメラが得意な内科医だけではなかった。

大腸カメラで生きていこうとしている下部消化管内科医。

膵癌を撲滅させたい膵臓内科医。

肺癌と闘う呼吸器内科医。

肝臓を切ることが生きがいの肝臓外科医。

多くの科からやってきた臨床医たちが、3か月間で「自分が一生つきあっていく臓器」の病理を学ぶ。

”たった15人しかいない病理医”たちをひっぱりまわして、ああでもないこうでもないと、臨床の画像と病理の画像をつきあわせている。できれば3か月で、一生学び続けるための手段(メソッド)を手に入れたい。彼らは必死であり、本気であり、極めて楽しそうであった。(15年前の話です。今はどうなっているんでしょうね。)









今、うちの病院には、病理専門医がぼくを含めて3人いる。1人は一度定年退職をして、現在は嘱託再雇用されて働いている。加えて、病理専門医をもっていない病理医が1名。合計4名の所帯である。

がんセンターの15名とは比ぶべくもない。けれどもまあ複数いるだけで御の字である。

ここにときおり、臨床医がやってくる。研修医がやってくる。1名とか、2名とか。

ぼくはいつも、あの広い部屋できりふきを持ちながら、にこにこと臨床医を見守っていた病理医の顔を思い出し、さて、今の病院でぼくはどういう顔で臨床医と接したらいいだろうかと考える。

検体量も病理医の数でも劣る市中病院である。それでも彼らが充実した学問を修めるために、ぼくが持っているべきものは何か。

きりふき……。

ではないだろうな。

2018年1月22日月曜日

2倍にするとらいらいぶらりぶらりあんあん

ばりばり原稿を書いている。

「ほすぴたる らいぶらりあん」という季刊誌に全4回の連載をすることが決まった。春夏秋冬で1年分である。掲載は少し先だと言われたのだが、もう2回分書いて今は3回目の原稿を書いている。およそ400部くらい刷られている雑誌で、購読者は「病院図書室の司書さん」。専門誌なのだがぼくの原稿は学術論文ではなくなんとエッセイだ。専門誌にエッセイを書くなんて、またまた偉い人に怒られるだろう。偉い方々はぼくがツイッターをやめてもいくらでもぼくのことを叩ける。ぼくはいつも叩かれるだけのことをしている人間なのだ。ぜんぜん関係ないけど、オモチャのワニのかわりにウニがぴょこぴょこでてきてそれをハンマーで叩く「ウニウニパニック」とか、カニバージョンの「カニカニパニック」みたいなパチモン製品はどこかに存在するのだろうか。嫌煙家の皆様方にタバコをハンマーで撲殺していただく「ヤニヤニパニック」があると売れるんじゃないかなと思った。売れないだろう。

話を戻そう。「ほすぴたる らいぶらりあん」は病院図書室の司書さん向けの雑誌。そう、病院には図書室がある。

「患者が読む本を置いている図書室のこと?」

うんそれもあるけど、それだけではない。ちょっと大きめの病院にはたいてい、患者用の図書室とは別に、職員専用の図書室がある。といっても看護師さんが夜勤あけに宮部みゆきとか東野圭吾を借りて帰るわけではなく、ふまじめな病理医が仕事の合間にフラジャイルを読む場所でもない。医療者が読む専門誌とか雑誌を集めてある場所。業務用図書室というやつだ。

病院図書室の仕事は思った以上に多彩で、図書室内の業務に加えて病院中の購読雑誌の管理をしてくれるほか、ぼくらが仕事で使う文献(論文)のとりよせを行ってくれたりもする。知性のアスガルド(集う場所)だ。いきなりアスガルドなんてかっこいい言葉を使った理由はついさっきまでワンピースのゲッコー・モリア編を読んでいたからなのであまり気にしないでいただきたい。なぜここを読んでいたかは2月に出る「いち病理医のリアル」を読めばわかります。よっしゃー宣伝した。

なんでもかんでもネットでできる時代、文献もすべて電子化してしまえば図書室なんて必要ない……と思ったら大間違いだ、仕事で使う文献の取り寄せを個人のPCで、オンラインでやろうと思うと、けっこうなお金がかかってしまう。たかだか数ページの論文を読むために数十ドルとか中には100ドルオーバーかかることもざらだ。個人で負担すると泣ける。というわけで、重要な医学雑誌については病院でまとめて購入していたり、図書室どうしの横の繋がりを利用して学術文献を合法的にやりとりしたりするシステムがある。ぼくはそこまでいっぱい論文を書いたことがあるわけではないのだけれど、去年3本ほど論文を書いた際にはほんとうに病院図書室の方にめちゃくちゃお世話になった。200本以上の文献の取り寄せを手伝っていただいた。自分でやっていたら破産して発狂してツイッターでふぁぼが20個くらいついただろう。わりにあわない。

ということでお世話になっている病院図書室。だから原稿依頼はふたつへんじで承知した。ご期待下さい、くらいはメールに書いたかもしれない。あとでやべぇなって思った。どうしよう、何を書こう。舞い上がりながら、3月末日までに原稿をください、第1回の原稿は7月号に掲載予定です、と言われていたのにも関わらず、1月アタマに第1回の原稿を送ってしまった。もう少し寝かせるとか読み直すとかすればよかったのに。早漏である。

そしたら、

「はやくいただけたので予定を早めて、3月号に掲載します!」

といわれ、結局は第2回の原稿を3月末日くらいまでに書かなければいけなくなった。締め切りより余裕をもたせたつもりが何も変わらなかったのである。しかしぼくはこりず、数日で第2回分を書き上げて送信した。もちろんその後の展開はご想像の通りで、つまり今書いているのが第3回分の原稿であり……このブログの記事が掲載されるころにはきっと第4回の原稿を書いているのではないかと思う(記事公開日註:第4回の原稿も書き終わりました)。もうそういう性格なのである。

早く原稿を仕上げても次の原稿が前倒しになるだけだが、ぼくの場合、ある瞬間にある程度のキーフレーズが思い浮かんだらさっさと書いてオチまで辿り着いておかないといろいろまずいのだ。ある原稿を依頼され、アイディアを思い付いたのだがそのまま書かずに脳内で推敲を続けたことがあった。大切にあたためておくうち、どの原稿のために温存しておいたアイディアなのかをころっと忘れてしまって、ある日ブログに内容を綿密に書いてしまった。いざ、原稿を書く段になって、「あのネタはもうさんざん書いたから今さら書けねぇじゃねぇか」と悶絶した。アホである。思い付いた順番に書いたほうが精神衛生上いい。学術論文の場合にはいつか書こうと思ったネタをすぐ書かないと世界のだれかが書いてしまうというパターンがあるそうだが、ぼくの場合はいつか書こうと思ったネタをぼくが別のところに書いてしまうのだから始末が悪い。

まあ実際には、書籍とか雑誌の原稿のほとんどは一度ツイッターやブログでちょろっと書いた内容で、練り直して焼き直して原稿っぽく仕上げているだけなので、完全初出のアイディアなんてのはめったにない。けれど、

「このアイディアはあとで何かに書いて説明しよう、そのためにも自分の脳内を整理する目的で、とりあえずツイッターとかブログにパイロット版を書いてみよう」

と意識して書くのと、

「アァー今必死で丁寧に書いてある原稿が半年前のブログに激似~~~↓↓」

と肩を落とすのとでは脳の受けるダメージがまるで異なる。

ぼくの場合はたいてい後者だ。



ブログの記事が過去のと似通っているときには2つの場合がある。大事な内容だと思って何度も伝えたいから、あえて似通らせているとき(読者もいれかわるからね)。もうひとつは「書いたことをすっかり忘れてオチまで辿り着いて、読み返したらすでに書いた記憶があったけれど、でももったいないしブログだからいいかなってそのまま出しちゃったとき」。前者と後者の比率はどれくらいだと思う? 答えは1:9くらいである。ミスター残念というあだ名ステッカーがPCに貼られる日も近い。



エッセイはもうさんざん書いたので今後はやはり学術論文の世界で勝負していきたいと思った矢先に飛び込んできた「ほすぴたる らいぶらりあん」の原稿は、初出のネタを織り交ぜながらぎりぎり専門誌であっても読めるような内容に調整するのに苦労した。初出ネタがもう尽きかけている。たかだかいち病理医なのだからそもそもそんなにリアルなネタの引きだしが多いわけではなくて、しかもそのネタは大半を、2月12日に出版される「いち病理医のリアル( https://www.amazon.co.jp/dp/4621302396/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_zRsyAbWA47452 )」に書いてしまっているからもう書くことがないのだ。よっしゃー宣伝した。あっこれはもう書いた……。

2018年1月19日金曜日

病理の話(161) 創傷治癒しようそうしよう

切り傷を作ってしまったとする。

ナイフで指をちょっと切った、くらいを考える。考えるだけでいやだよね。

主にぼくらは痛みそのものと、血が出ること、さらにもうひとつ、審美的な理由で傷をいやがる。しかし人体にとってはもうひとつ、重大な「いやなこと」がある。

それは、「皮膚の細胞が欠損してしまう」ということだ。

欠損するとなにがまずいか?

皮膚はすなわちバリケード。強固な防御力を表現する日本語に「水も漏らさぬ」という表現があるが、文字通り、皮膚のおかげでぼくらは風呂に入っても水分が体内に入ってこない。これは実はすごいことである。

このバリアが部分的に欠けてしまうのは、とてもまずい。刺激物、毒、病原菌などさまざまなものが入ってきてしまうし、血液や組織間液のような体内のものが漏れ出てしまうことにもつながる。

バリアの欠損部は直ちにふさがなければいけない。まずはスピードを重視する。クオリティは二の次で、すぐに穴をふさぎたい。ここで登場するのが、かさぶた(血小板プラスいろいろ)。

かさぶたなんて、よわっちい。子供が指ではがしてしまえる程度に弱い。

けれど、いいのだ。まずはすぐに穴をふさぐことこそ肝要だから。

そして、今日の話は、その後……。創傷治癒のセカンドステージの話をする。



少し時間の経ったかさぶたをはがしてみたことはあるだろうか?


そこには、まだ少しじめじめしているような、じわりと血がにじんできそうな(でもピューッとは出てこない)、赤みがかっていかにも「肉々しい」、ふだんあまり目にすることのない肉が見える。

これを肉芽という。ATOCだと「にくが」と入力しないと出てこないが、医学用語では「にくげ」と発音する。

肉芽は、土嚢(どのう)の役割を果たす穴埋め物質だ。生体がダメージを受けて欠損部ができたときにしか登場しない。かさぶたよりもしっかりした硬さをもち、組織の足りない部分を補ってくれる。

どのうと書いたが、実は単なるどのうではない。

赤いというのはつまり、血流が豊富な証拠。肉芽には、細かい血管が非常に高密度に含まれている。大量の毛細血管に潤沢に血液が流れ込み、組織の再構築に必要な物資を次々と運び込む。

単なるどのうではなしに、「災害復旧ボランティアが集まってくるキャンプ」にもなっている。それが肉芽だ。

肉芽の中や周りには、時間とともに線維芽細胞(また「芽」だ)という細胞がたくさん現れる。線維芽細胞はタケノコだ。いずれ強固な竹(線維)になる。この竹で、バリアはさらに強固に組み直される。線維は弾力があるので、周囲の組織をひきつれさせて、穴をふさぐ手伝いをしてくれる。傷がひきつれて痕が残るのはこの線維のしわざであり、審美的には困ったものだが、人体にとっては穴を一刻も早くふさぐために大変役に立つ。


かさぶたによる一時的な穴埋めから、肉芽による物資供給、そして線維による盤石な硬さ、ひきつれ。

線維が完璧に防御しているあいだに、失われた組織がほぼ完全に元の構造を取り戻すことができれば、線維は最終的には吸収されて消えてなくなる(なんて都合のよい物質だろう!)。穴が大きすぎて元通りの復旧ができなかったときには、線維はそのまま居残って、硬さとひきつれを残す。これがいわゆる「古傷」である。


以上の創傷治癒は、ケガだけでなく一部の病気でも起こっている。炎症が起こり、臓器の破壊がある場合には、再生の段階で切り傷と同じように肉芽が作られるのだ。

ただし、組織破壊があれば100パーセント肉芽による再生がおこるわけではない。例えば結核菌や寄生虫などによる炎症では、なぜか肉芽がうまくできてこないことが多い。

ああ、読者諸氏も、いよいよ難しい話になったなあと思ったろうか? 申し訳ない、細かいことはともかく、「災害復旧ボランティアが集まりにくい病態」というのがあるのだ、くらいの理解でよいかもしれない。

実は今日の記事はちょっとした私信なのである。これを勉強している人がタイムラインにいたのだ。参考になればいいなあと思う。彼はきっと、今回の記事で少し視点を増やしてくれるのではないかなあ、と思う。

2018年1月18日木曜日

年々歳々いささかささい

SFだと思って読んだ本がミステリだったのだが、なんだこれミステリじゃねぇか、しかも設定のわかりにくいやつだ、と思ってがっかりしながら巻末の解説を読むと、「これは立派にSFである」という堂々たる宣言があった。

なるほどたしかに。

解説者が専門的な目で中身を肯定してくれたから、読書の時間が無駄にならなくてすんだ。ああよかったなぁー、ぼくの中途半端な読み方だったら、この本は永久にクソミステリに分類されて二度と言及しなかったろう!



なーんてことがあったので、「解説」というものの功罪をじっくりと考えている。

まだ考え中だから、どういうことを思っているかについてはあまり書かないけれど。ちょっとだけ書いておく。

解説者というのはできれば悟っていてほしい。自分のいうことに自信がなくても、根拠があいまいでも、だれかに怒られそうでも、そのときのあなたの立場をそのままぶつけて、解説の対象を盛り上げたりくさしたり、とにかく一本スジを通してさえくれれば、こちらはあなたの解説を読んで、右に曲がろうか左に曲がろうか、それともまっすぐ進もうかと、三叉路で少し胸を張って選択できるかもしれないのだ。





話はかわるがちかごろ引っ越しを考えている。けれど、結局はしない気がする。もうなんだか引っ越しという作業にあこがれる年でもない。模様替えにも心がおどらない。新しい住み処のまわりにあるコンビニの種類が今までと変わったといって浮かれることもないだろう。本屋はどのみち札幌駅まで行かないとない。いい感じの飲み屋が1軒あったくらいではぼくの生活はもはや何も変わらない。たぶん今のぼくは、選択肢をどっちに動いたらすごく変わるとか、あの案件を拾ってあの案件を捨てたことで人生がひどくおもしろくなるとかつまらなくなるとか、そういう、「選択次第」の段階を少し抜け出したのではないかと思う。



だからこそ、これからの選択については、あまり大勢に影響がなく、多くの人に迷惑をかけることもなく、ただひたすら、自分の過ごす2時間のために少しいいか悪いか、くらいの、マイニュートな気持ちの浮き沈みのためだけに慎重に選んでいきたいんだよなあ、とかそういうことを考えている。

マイニュート、ということばを「些細な」から書き換えるまでに20秒ほど考えて選択をした。

この選択で誰かがとても悲しむわけではなく、ぼくがとても大喜びすることもないが、ぼくはこういう選択を次々と繰り出しながら、何も変わらなくなりつつある自分の人生に対して些細な勝負をしかけていくことになるのである。

2018年1月17日水曜日

病理の話(160) おそうじのシステム

ちょっときたない話をする。……なーんて書くといやがられるので書き方を変える。ちょっと、「きれいにするための」話をする。

何の話かというと、垢の話だ。ツイッターアカウント(垢:アカ)のことではない、皮膚から出る垢(あか)のことだ。

垢とはつまり、細胞の死骸である。細胞は新陳代謝をしており、産まれて、育ち、役割を果たし、そして死んでいく。

皮膚の細胞がつぎつぎとターンオーバーし、最後は死んではがれたものが垢である。

この垢、めんどうでばっちい嫌われ者であるが、実はお察しの通り、「機能」がある。

その機能とは、皮膚の表面についた汚れを、細胞の死骸ごと捨て去るということだ。汚れくらいいいじゃん、というわけにはいかない。皮膚は人間の最外層でヒトを守る防御ラインであり、そこにつく汚れというのは、マッキーの赤インクやエンピツの黒鉛に留まらない。

細菌がついている。病気をもたらすものも、もたらさないものも、まとめて。

カビもつく。

毒もつくことがある。現代に限った話ではない、植物由来の毒とか、動物由来の毒だってご存じだろう。生命は生きていると、なんらかの毒に接することがあるのだ。

これらが皮膚の表面にずっと留まって、体の内部に悪さをしないよう、皮膚の壁が垢となって、まるごと落ちていく。

つまり生命は、廃棄処分するゴミにも機能を割り当てているわけだ……。



鼻からハナクソが出る。

耳からも耳垢がでる。

では、口の中は? 食べ物のとおる、消化管は?

口から肛門までの消化管、その「垢」は、便の中にまぎれこんでいる。便を構成する物質の1/3は、いわゆる消化管の垢だという説があるそうだ。

うーむ、いたるところで「垢」が仕事をしている。

でもここで、ふと思うわけである。

皮膚の奥にある、筋肉とか脂肪とか、あとは……たとえば肝臓とか腎臓の細胞なんてのは、あれ、新陳代謝のときに、垢をどうしているんだろう。

これらの「奥に潜んでいる臓器や器官」は、パイプを通じて外界とつながっていない。

だったら垢をどこに捨てるのか?



その答えは、その場で「おそうじ細胞」がやってきて、古い細胞を壊して、取り込んで、溶かして、あるいはカケラをどこかに運んでいって捨ててしまう、だ。

体の中で垢がぽろぽろ落ちるというのは、皮膚の表面から落ちて外界にちらばっていくのとはわけが違う。口とか肛門みたいに、外部に開口する入口(あるいは出口)があるならそこに捨てればよいが、完全に密閉された臓器の中であれば、ゴミがそこら中に蓄積してしまうだろう。人体がゴミ屋敷であっては困る。

だから、体内の新陳代謝においては、「剥がして捨てる」のではなく、「おそうじ細胞」を用いるのだ。

おどろくほどによくできている。

「おそうじ細胞」にはさまざまな種類がある。マクロファージ、と呼ばれるものがその代表だが、ほかにも様々な細胞がある。以前にノーベル賞をとった東京工業大学の大隈先生が研究していた「オートファジー」という機能も、広い意味ではおそうじ細胞に関連した話である。ファジーとかファージということばは同じ語源だそうで、食い荒らすとかめちゃくちゃに食うという意味をもつらしい。



生命は、体内ではゴミを食い尽くし、体外ではゴミを汚れといっしょに振り落とすシステムを身につけた。ほれぼれする複雑さだ。

で、この、複雑さが「狂う」ときがある。その代表が、がんだ。

体の外にいる、皮膚の細胞は、ばんばんはがれおちてもいい。外にそのまま消えていける。

体の中にいる細胞の場合には、死ぬときにおそうじ細胞がきてくれないとこまる。

がんでは、これらの法則が乱れてしまう。

CTやMRIといった画像システムで「がん」をみると、がんが作るかたまりのなかが「異常に死んで、ゴミまみれになっている」ことがある。「壊死(えし)」とか、「壊死物質の蓄積」などという。がん細胞が異常に増える過程で、新陳代謝した古いがん細胞を捨てるシステムがないから起こることである。

正常の組織の中に壊死があらわれることは基本的にありえない。だから、放射線科医をはじめとする「画像をよみとく医療者」は、この「壊死を読み取ろうとする」。

がんそのものだけではなく、「異常に細胞が死んでいるところ」を見極めることが、診断にも役立つわけである。



垢は死んでも何かを残す。まるでツイッターのだれかさんのようではないか。

2018年1月16日火曜日

デカルトの話ばかりではいカント

「居場所の話」というのはじわじわ難しく、許される・許されないみたいな切り口だとシンジ君とか中二病のふんいきが漂うし、しっくりくる・しっくりこないみたいな切り口だとミサトさんとか吉高由里子さんのふいんきが漂うし、探す・探さないみたいな切り口だと沢木耕太郎……にあこがれてSmartのふろくについてきたバックパックでトルコやチュニジアあたりを半年間放浪する青山学院大学2年の大学生みたいなふんきいが漂ってしまう。

書きにくいし語りにくい。居場所について考えているんだよね、といえばそれだけで「またそうやってすぐ自己顕示欲みせびらかすんだから、もー」と相手を考える牛にしてしまう。我思うゆえに我在り、我ときどき考えるゆえに我ときどき存在する。誰かに考えさせてはだめだ。存在させてしまうことになる。ヴァレリーみたいなタイプが友達にいるときっと毎日めんどうくさいだろうな。「考えるな、感じるんだ」の脚本はどれくらい考えた末に生み出されたのですか?



ここにいていい、いてはだめだ、みたいなセリフをぼくはどこで使うかというと、実は病理診断のときに一番使う。

「おっ、固有筋層の中に上皮……ここにいていい細胞じゃないんだけどな……どういうことかな……」

みたいなかんじである。

細胞というのはよくできていて、居場所ごとに役割ががっちり決まっていて、「いていい場所、いてはいけない場所」というのがあるのだ。一番わかりやすい例を出そうか、これでわからなかったらあなたは人間ではなくおそらく妖怪であろう、という例。

全身のいたるところに毛がはえているだろう。産毛レベルまで含めればそれはもうけっこうな量だ。

けど、この産毛、もしまぶたのウラに生えていたら大変なことになるだろう? かゆくてかゆくてしょうがない。さかさまつげのひどいやつ、みたいになってしまう。けれど人間、まぶたのウラには毛が生えないようにできている。眼球の黒目の部分にも、毛は絶対に生えてこない。

「毛をつくる機能をもった細胞は、眼球の表面やまぶたのウラには決して分布しない」ということ。

この「場所の規定」がくずれてしまったら、あらゆる人間はうまく生きていけなくなる。

眼球の上に、たまたま1個だけ、胃酸を作る細胞が紛れ込んでいたらどうなる? 胃酸というのは胃だから許される物質であって、あれはつまり塩酸であり劇薬だ。胃には、塩酸で胃の壁自体をとかさないしくみがある。胃酸のほかにきっちりと粘液がでて、胃の壁を保護してくれるからいいのだ。

うっかり、眼球の上に、胃酸を作る細胞が1個あってみろ。目がとかされてしまうだろう。夕日が目にしみるどころの騒ぎではない。そうならないように「場所の規定」をしている、これが人体のたくみさである。

だから病理医はしばしば、「ここにこの細胞がいるのはおかしい……」という視点で細胞をみて、「つまりこれは、配置のエラーがある。配置のエラーをもたらす理由は2つ。先天的な間違いと、後天的ながん。今回はおそらくがんだろう」という考え方をするのだ。



そんなぼくが、早朝、仕事場にひとり、顕微鏡をみながら、「ぼくはここにいていいのかな」とか言っている場合ではないのである。シンジ君が拍手をしている。ミサトさんが拍手をしている。トウジだけは「おめでとさん」とか言っている。ここにいていい、いてはだめ、を語って良いのは病理診断学だけなのだ。ぼくはがん細胞ではないから、ここにいていいも、悪いも、ない。

社会のガンという言葉もかつては使われていたけれど、あれはやっぱり不謹慎だから使われなくなったのだろうな、とかそういうことを考えていた。そういえばぼくは、「深夜特急」の最終章も好きだったけれど、一番好きなのはどこかのユースホステルにうっかり腰を落ち着けてしまい旅を続けられなくなっていた若き「ぼく」が、何かのきっかけでついにそのユースホステルを出て旅の続きに出るシーンが一番好きだった。一番好きだったはずなのに、内容をまったく覚えていないというのが、なんとも極めて人を食った話だなあと思うし、今日のこのエントリを「病理の話」にしないで一般の話題に紛れ込ませてしまったぼくの性格は、我ながらあまり好きではない。きもちわるい。最後のはアスカで読んでもらうことになる。

2018年1月15日月曜日

病理の話(159) がんと戦うための横綱技は

ぼくは昔考えた。

60歳くらいになったら、毎日少量の抗がん剤を点滴してみてはどうなのか、と。

そうしたら、まだ小さくて人体に影響を及ぼさない時点でのがん細胞を、未然に倒すことができて、結果的にがんを予防できたりはしないのか……と。


結論からいうと、ま、そんなことはむりなのであった。

理由をいくつか書く。





まず、抗がん剤って、種類がいっぱいあるのだ。がん細胞の種類によって、効きやすい抗がん剤というのが異なる。

だから、あるAという抗がん剤をずっと使っても、ある種のがんにしか効果がない。

万病に効く予防薬というのがそもそもありえない。




次に、抗がん剤というのはある程度の濃度を用いないといけない。

がん細胞が少ないなら抗がん剤も少なくしていい、というものではない。

少なく入れては意味がない。




さらに、がん細胞が「出始めたころ」には、あらゆる抗がん剤の効きが悪いのではないか、という仮説がある。

特に、がん細胞の「女王バチ」ともいえる存在……「がん幹細胞」は、細胞分裂の回数が少なく、かつ抗がん剤が効きにくいらしい。

抗がん剤というのはそもそも、ある程度進行したがんにしか効かない可能性すらある。

がんの初期に用いて意味がある抗がん剤、というのはまだ開発されていないのだ。




おまけに、出始めたころのがん細胞というのは、体内の警察システム(免疫)によって、ぼくらが何もしなくても、ほとんどの場合は未然に倒されている。わざわざ抗がん剤を飲むまでもない。そういう免疫を宝くじなみの確率ですり抜けたやつだけが、ぼくらの目にみえるサイズのがんに育つ(だいたい10年くらいかけて)。




そうそう、金だってかかる。

でも、仮に、ビルゲイツみたいな大金持ちが、毎日大金を投入できるとしても、毎日抗がん剤を投与することには意義がないのだ。

もう少し医学的な用語を解禁すれば、まだまだ「がんにかかる前から抗がん剤を飲むことに意味がない理由」を語ることができる。けれど、医学的な用語を使わなくても、いくらでも理由が思い浮かぶのだった。





ぼくは、医学生のときの自分の考えを、こうして覚えていて、覚えた知識を使って、「ああー無理だなあー」と納得したりする。

かつて、「あれ? 実はこうしたらいいんじゃね?」と夢想していたことのほとんどは、医学的に検証してみるとどこか穴があり、破たんしている。

今、ぼくが信じているがん理論も、後の世の優れた医学者から見れば、どこかは破たんしているのかもしれないけれど……。たぶん、大多数は合っている。これらはぼくの一存ではなくて、医学が積み上げてきた歴史だからだ。多くの人々の目を通り抜けてきたことがらばかりだからだ。




今、とりあえず「真実だと思うよ」といえることがある。それは、「がんと戦うときに、裏技というのはありえない」ということだ。

がん理論には統計と確率というのが必ず存在する。この治療が効く確率、この治療薬が効果をもたらす割合……。

これらをすべて乗り越えた、何にでも、どういう状態にでも作用する夢の薬というのは、理論上ありえない。

いかにもな裏技、マル秘テクニックなどで、今の健康生活を何倍にも延ばすことができるかというと、そんなものは存在しない。

一個一個、これはここまで役に立つ、これはこういう人に役に立つ、と、地道に詰めていくしかない。診断も治療もオーダーメードだ。層別化しなければいけない。患者ひとりひとりにタイプがあり、病気ひとつひとつに種類があり、進行度があり、確率がある。

それらに個別に対応していくのに必要なのは誠意と知恵と少しの運であって、ウルテク(©ファミマガ)ではないのである。

2018年1月12日金曜日

VOBファイルみたいな規格を今後はいっさい作らないでほしい

正月にはモンハンをやりまくった。アトラル・カをソロで狩れた。やったーと声が出た。

何をいっているのかわからない人はほうっておいて次の話をする。

紅白歌合戦をずっと見た。ぼくは実家にいた。両親といろいろ話をしていた。

その中で、「ああ、ブログ読んでるよ あれはいいね」というセリフがあった。母だったか父だったか。

そうか、ツイッターをやめたことには触れないでいてくれたのだな、とそのとき思った。



正月はカズオ・イシグロを1冊だけ読んだ。「日の名残り」。すばらしかった。

この本を読んだきっかけが、両親が録画しておいてくれていたNHKの番組、それも2本。

2本それぞれ、カズオ・イシグロがインタビューに答えたり講義をしたりしているやつだった。これを、本より先に見ておいた。

番組の中で、「日の名残り」の映画版の映像が数秒使われていた。ブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作は映画になっていたのだ。イギリスの牧歌的な風景の中を古いフォードがすーっと横切り、後ろには破壊的に美しい夕日が瞬間的に映り込むシーンだった。

ぼくはその場面が目に焼き付いたまま、本を読んだのだ。3時間半で一気読みであった。なんとすばらしい情景か。なんと美しい叙情か。感動しながらあっという間に読み終わった。本を閉じる最後の瞬間まで充実していた。



充実をふりかえりながら、ああ、ぼくの感動の半分くらいには、あのテレビで一瞬みた、イギリスの夕暮れにフォードが走るシーンが、まるで和食に対しての醤油のように、ずーっと降りかかっていたのだなあ、と気づいた。



映像というのはすごいし、文章を飛び越えてしまうなあ。




帰省時にみつけた、とても古いDVD-CamをPCにつないで、10年以上前のビデオを数分間分だけサルベージした。

そこには産まれて間もない息子が写っていた。映像というのはすごいなと思った。ぼくは人よりだいぶいい正月を過ごしたのだが、そのほとんどが映像によってもたらされたものであって、文字や音声は少ししょぼんとした顔でこちらを見ていたように思う。また文字と音声との毎日に戻るよ、と声をかけたところ、文字も音声も少し機嫌を直してくれたようだった。

2018年1月11日木曜日

病理の話(158) 診断と所見それぞれあれこれ

病理医が臓器を目でみて、顕微鏡でさらに深くみた結果、最後に得られる結果が、

病理診断

である。



この病理診断を伝える方法は、シンプルだ。書く。文書として残す。

結果を急ぐときには、直接担当医に電話することがある(けっこうある)。けれど、口で伝えたあとも、必ず文字に残す。

病理診断報告書、の形式の文書をつくる。病理レポート、などという。



(※ちょっと話はずれるけれど、病理レポート、と書くと校正から「リポート」に直される場合がある。確かにお天気予報はウェザーリポートだし、報道関係者が現場からするのもリポートである。けれど、病理の現場はレポートと発音されることが一般的だ。なぜかはわからないけどたぶんノリとドイツ語の名残ではないかと思う)




病理レポートの書き方には決まったスタイルがない。法的に定められてはいない。

けれど、しっかり仕事をする病理医であれば、だいたいスタイルは似てくる。




がんであれば、「がん取扱い規約」の書式にのっとって記載することが一般的だ。

「規約事項に沿って書く」などという。

全身あらゆる臓器のがんには、それぞれ「規約」が設定されている。胃癌なら胃癌取扱い規約、大腸癌なら大腸癌取扱い規約、乳癌なら乳癌取扱い規約という。そのまんまだ。

規約が定める評価項目をすべて埋める。ウェブアンケートに答えているようなかんじだ。内容の1つ1つがやたらと重いアンケートに粛々と回答するイメージ。老いも若きも、病理医であれば、まずはこれが基本となる。

アンケートの項目。

・病気のサイズ。

・形。

・どれくらい深く広くしみ込んでいるか。

・増えている細胞の種類。

・病期分類(ステージ)。

ほかにもいろいろ。どんどん、箇条書きにしていく。



アンケート方式でひたすら穴埋めをすることだけで病理診断を終えると、レポートはわりと無味乾燥なものに仕上がる。

無味乾燥でもけっこう、学術的に厳密であるほうが大事だ……と、考える病理医も多い。

それに、アンケート形式のレポートは、無味乾燥ではあるが、いつ読んでも同じ形式で書かれている分、読みやすい。リーダビリティが高い。

やはり病理レポートの原型は箇条書きであったほうがよいように思う。




……けれど、病理診断が常にアンケートだけで終わるわけではない。

そもそも、アンケート形式のレポートが書けないときだってある。

どういうときかというと、それは、「生検」のときだ。



胃カメラの先っぽから出したマジックハンドでつまみとってきた、小指の爪よりまだ小さいくらいの小さな粘膜のカケラ。内視鏡医が、「ここが病気の一部分に違いない」と、氷山の一角よろしく、わずかに採取してきた検体をプレパラートにして、病理医に診断をゆだねる。

「生検」という。なまけんではなく、せいけん。

「生検」でみる細胞の量はとても少ない。

観察できる範囲も非常に狭い。

そうなると、箇条書きの項目を埋められない。

病変のサイズ? 全体像を見てないからわかりませんね。

病気がどれだけしみ込んでいるか? 全体像を見てないからわかりませんな。

箇条書きは空欄ばかりとなる。

しかし、空欄ばかりだからと言って役に立たないわけではない。

「生検」によって、病気の一部をつまんでくることで、それがどういう病気なのかをある程度判断して、これからどのように治療を進めていくかという戦略を立てることができる。

端的に言えば、「がんか、がんじゃないかがわかる」。



アンケートの項目は非常に限定されるが、とても重要な質問の回答が得られる。

それが生検だ。

では、生検のレポートには、非常に少ないアンケート項目だけを箇条書きにすればよいのだろうか。



うん、それでもいいとは思う。

けれど、ぼくは、あるいは多くの病理医は、「できればもう少し、箇条書きのほかにニュアンスを伝えたい」と思ったりするのだ。

「病理医が目でみて、顕微鏡でみて、考えたこと、感じたこと」を書く。

イメージとしては……ほら、たいていのアンケートの最後に、「自由記載」欄があるだろう。「その他」でもいい。

あの自由記載をどう使いこなすかが、病理医としてのウデのみせどころ……な気がする。

最後に書いた一文が、臨床医をぐっと納得させることは、ある。

よくある。




いくら自由に書くとはいっても、主観が入りすぎていたり、その人しか使わない表現があふれていては、読む人が困る。

だからある程度、病理学独特の用語というのを用いる。

病理学的に普遍的なやりかたで。

病理学的にわかりやすく。

いつ、だれがプレパラートを見直しても、納得できるように。

いわゆる「所見」を書く。




例をあげよう。

診断名: Adenocarcinoma.

 (これが、いわゆる「箇条書き」だ。がんだ、と書いてある。短い。一行で終わる。)

所見:

左肺上葉TBLB検体 4片:

末梢肺組織、及び細気管支壁が少量ずつ採取された検体です。
一部の末梢肺組織内において、肺胞上皮を置換して増殖する腫瘍細胞を認めます。クララ細胞やII型細胞に類似した形態を示し、いびつで濃淡のムラがある核膜と明瞭な核小体を有する腫大した核を有する腺系の異型細胞です。腺癌 adenocarcinomaと診断いたします。

 (これが、「所見」。別に書かなくてもいいけれど、書きたくて書く。読みたい人もいる。)




所見を書くといくつかいいことがある。病理医がまじめに取り組んでいる証拠になる。病理学を勉強したい人にとって役に立つ。診断の根拠を知ることができる。

さらに。

診断という箇条書き項目は、時代を経るうちに「変わる」可能性がある。

その一方で、所見というのは時代を経ても「変わることがない」。

診断は可変だが、所見は不変である。だから、所見を書いて残しておくことに意味があるのだ。

たとえば、肺のとある癌がとある状態を示すとき、現在の医学では adenocarcinoma in situ という名前で記載する。

この病気を、昔は bronchioloalveolar carcinoma と書いていた。

ほとんど同じ病態であっても、まるで違う名前だ。偉い人はいろいろ考えたのだろうが、それにしても、昔と今とで呼び名がまるで違うと、ぎょっとする。

「分類」が変遷すると、箇条書きの項目ががらっと変わってしまうことになる。

しかし。

たとえ箇条書きの項目や、診断名そのものが時代とともに変わろうとも、所見の欄にきちんと「非浸潤性の増殖を示す腺癌です。」と書いておけば、「ああ、今でいうとあの病気なのだな。」とわかる。




フラジャイルというマンガにはサブタイトルがついている。

あれを、「病理医 岸京一郎の診断」とせず、「病理医 岸京一郎の所見」としたのはほんとうにすばらしいと思う。岸京一郎の診断する病気には、その時代ごとにさまざまな名前が付けられているかもしれない。岸京一郎がAと診断したものは後の世でBと呼ばれているかもしれない。しかし、岸京一郎が見て表現した「細胞のかたちや配列、ありよう」は後世の人が見ても不変であり、たぶん絶対なのである。なあ、すばらしいと思わないか。ぼくは思う。

思うのだがあんまりみんなわかってくれない。くやしいので今日こうして残しておく。

2018年1月10日水曜日

まとめておへんじするとこうなる

ツイートをしなくなったらメールの返事が遅くなった。

なにを突飛な事を、と思われるかもしれないが事実なのだ。

今までは、脳の中にある執務室の壁に、ある額縁が飾ってあった。

「リアクションは秒で」という筆文字である。

デスクにいる間はずっとイヤホンを耳に挿しているが、メールの着信音がiTunesの音楽にまぎれて聞こえた途端、ただちに作業を中断してメールを読み、意味をのみこんだらすぐに返事を書くようにしていた。

秒でいろいろ回さないとすべてが山積みになる気がして、とにかくあらゆることに急いで取りかかることを至上命題としていた。



ツイートをしなくなったとき、いろいろと部屋を整理しているうちに、この書をまちがえて捨ててしまったようで、なんだかあらゆることに対するリアクションが遅くなっている。

今まで、仕事と仕事の合間にあったツイートは、ぼくの中では「小休止」ととらえていたはずだったのだが、これが実際には休止どころか、ぼくの歯車をぐるんぐるん回していた加速装置だったらしい。

ツイートがなくなると、1日の時間が1.1倍くらいに増えたけれど、脳のスピードが1.3倍くらい遅くなった。結果的に、メールの積ん読が増えてしまっている。




人間をやっていくというのはままならない。一面を見ての解釈もむなしいことだ。

食べれば食べるだけ太る。そうでもない、食べる量を減らしても太ることはある。

運動すればするだけ体にいい。そうでもない、やりようによっては知らないうちに腰や膝を傷めていたりする。

ツイートを減らせば仕事がはかどる。そうでもない、ツイートをしなくなっても仕事の回転はむしろ落ちてしまった1例。






人間は思い込む生き物であり、思い込みとは常に真実とは遠いところにあるのだが、なぜか思い込みには強い力がある。

「ツイートをしている人間は仕事をしていない」

と思い込んでいる人の前で、「ぼく、ツイートやめたんですよ。」と言ってみよう。

「ん、そう。それが普通だね。じゃあこれからは人並みに働いてがんばれるね」

と言われる。これはもうほとんど100%こうである。

はげましのメールがたくさん届いていたが、年を越してもいまだに一部のメールには返事をしていない。

こんなことは今までになかった。

あえてポジティブにとらえるならば、ぼくはずいぶんと慎重になったのだ。

2018年1月9日火曜日

病理の話(157) 運動会カメラマン的に病理診断

顕微鏡でぼくらが見ているもの。

細胞だ。

ぼくらは細胞をみている。

これは間違いがない。

ただし。

ぼくらは細胞をみているけれど、実際には細胞1個1個をじっくり観察しているだけではない……細胞どうしが作り出す高次構造を観察している時間のほうが少し長い。





細胞を「運動会の小学生」に例える。

親であればだれもが、ズームレンズで愛する我が子の顔ばかりを眺めたいと思うだろう。

子供ひとりに着目をして、今日はどんな顔をしているだろう、目をキラキラさせているなあ、口元がにこにこしているなあ、背が大きくなったなあ、ちょっと日焼けしたんじゃないか、と見るのと同じように、

細胞を観察するときには、「核」はどうなっているだろう、核小体が目立つなあ、核膜の厚さにムラがあるなあ、胞体が幅広だなあ、ちょっと好酸性が強くなっているんじゃないか、と観察することができる。



けれど、細胞の観察は、細胞1個だけを観察していてはだめだ。

ぼくらは細胞の優しい親ではない。

どちらかというと教師である。それも鬼教師のほうだ。

細胞が「組体操」をしたり、「マスゲーム(表現)」でフォーメーションを組んで踊ったり動いたりする様子、その全体像をきちんと観察して、どこがおかしいか、どこが普通と違うかを見出すところからはじめる。



子供たちが組体操をする。扇形であるとか。ひざの上にのっけてなんかタイタニックみたいにするやつとか。

細胞たちも組体操をしている。腺管というダクトを作っていたり、腺房というカタマリを作っていたり、乳頭状と呼ばれる飛び出た構造を作ったり。

子供たちが音楽にあわせて表現をする。周りとシンクロしながら隊列を組み、ウェーブをしたり、左右に手をふったり、ジャンプをする。音楽とぴったり合うと喝采がおこる。

細胞たちも生態環境にあわせて表現をしている。腺房から外分泌される液体を腺管の中に通して消化管に流し込む。食事のタイミングとぴったり合うと消化が決まる。


これらはズームレンズではうまくみられない。

広角レンズでしっかりと、全体像を把握する。

校庭をのぞくカメラも、生体をのぞく顕微鏡も、いっしょなのである。



鬼教師は広角レンズで校庭をチェックしている。

扇形でなければいけないところで寝転んで3DSをやっているガキどもがいる。

なんだあいつらは。運動会の最中だぞ。学校だぞ。いったい何をやっとるんだ。ばかもの。

そこではじめてレンズを望遠に変える。

おかしな挙動をしている小学生……小学生?

リーゼントがすごい。服がへんだ。タトゥーが入っている。あきらかに顔つきがやばい。

こ、こいつ、うちの生徒じゃない!



病理医は弱拡大でプレパラートをチェックしている。

ダクトを形成しなければいけないところで細胞が不規則に増えてレンコンの穴のような構造を作っている。

なんだこのやろう。消化管の内腔側だぞ。粘膜だぞ。いったい何をやっとるんだ。ばかもの。

そこではじめてレンズを強拡大に変える。

おかしな挙動をしている腺上皮……腺上皮?

核がすごい。細胞質がへんだ。核小体が目立っている。明らかに核異型が強い。

こ、こいつ、がん細胞だ!




確率的には、おかしな高次構造ができあがっている領域では、細胞の異型(顔付きのやばさ)もまた強い。逆もまたしかりである。

ただ、たまに、

「明らかに善良そうな、上流階級のおぼっちゃんみたいな整った顔をしていながら、挙動だけはがん」

という種類の病気もある。これには気を付けなければいけない。

また、逆に、

「リーゼントにボンタンに鎖のついた財布にくわえタバコなんだけど被災地のボランティアをしている」

みたいなタイプの、がんではない状態というのもある。これも要注意だ。

鬼教師とはいうが、冤罪でこどもを叱ることは許されない。

先生はたいへんなのである。




そういえば教師も病理医も先生と呼ばれるのだなあ。

2018年1月5日金曜日

臨床検査医学会の分をまだ払っていない

「郵便局の払込書」での送金が、いちばんめんどくさい。

昼休みに職場の近くにある郵便局まで歩いて行かなければいけない。

郵便局のATMは閉まる時間がはやいのだ。札幌市内のどこかを探せば、夜までやっているATMもあるだろう。けれど、ぼくの通勤経路のATMはどれもこれも17時ころに閉まってしまう。

ふつうの銀行のATMだったらもっと長いこと空いているのだが。

払込書の挿入口がついた、郵便局のATMはなぜあんなに早く閉まってしまうのか……。



払込書を用いた送金というのは、意外と頻度が高い。

日本病理学会。日本臨床細胞学会。日本臨床検査医学会。

どれもこれも、会費を払うには払込書を使えという。

IAP(国際病理アカデミー)まで郵便局で払えというのだ。なんだかおもしろくて笑ってしまう。

昔所属していた大学院の講座に、同門会費を払うときも、払込書だ。



まあ実はこのうちどれかは銀行口座が別に設定してあるので、別に払込書にこだわらなくても大丈夫なのだけれど、けっこうな頻度で郵便局に行く必要があるから、そのときについでに払込書で払ってしまうことになる。

仕事の合間、昼休みに、病院にほど近いサッポロファクトリーか、あるいは永山記念公園の横にある郵便局に歩いていく。

まだ仕事中なのに歩いていく。

白衣を着ずにスーツを着ているから、さらっと外出することができる。

患者にあわせた外来を持っていなくて、仕事の時間を自分で選ぶことができるから、ちょろっと外出することができる。

一日中デスクに向かいっぱなしで腰を壊してしまったが、郵便局まで歩くだけでもだいぶいい運動になる。

公園の緑が目にしみる。紅葉もきれいだった。雪に覆われてしまうとちょっと寒いが。

四季も感じることができる。ほんの少しの間だけれども。




「郵便局の払込書」での送金が、いちばん体にいい。

おそらく、これと一緒で、多くのめんどくさいことも、めぐりめぐって何かのためになっているのだろうなあ、と思う。

2018年1月4日木曜日

病理の話(156) 徒弟制度教育のおわり

あけましておめでとうございます。

新年なので信念の話をしましょう。

お題は「現代の医学教育の特徴」について。

医学教育だけではないかもしれない。もっと広く、教育全般の話と考えてもよさそうだが、ぼくはとりあえず医学の世界にいるので、医学教育に話を限定させてもらう。




医師が知性を修得しようと考える際には、いちどでよい、「徒弟制度」についての自分の考え方を確認しておくとよいと思っている。

徒弟制度とは、単一の師匠についていって、弟子となって、技術や観念を学ぶことである。

誰かの弟子になる。何かの派閥に所属する。そうしてワザを継承する。

利点と欠点があり、賛辞と批判とを浴びる。



まず、徒弟制度の利点を語ろう。

「体に覚えさせなければいけない技術」を学ぼうと思った場合には、師匠につきっきりで勉強するのが一番かんたんだ。

誰かの背中についていく。実際に手を動かしながら指導を受ける。聞いて納得し、疑問があったら伝え、ときに見て盗む。

これができるのが徒弟制度の利点。

あと、師匠が使っているインフラをそのまま継承することができる、というのも地味にでかい。専門的な機器とか、資料とか。



次に、徒弟制度の欠点を語ろう。

徒弟制度では、師匠次第で自分の限界が決まってしまうときがある。

言語化できていない領域を背中で示せる人ばかりではない。行動があまり教育的でない人もいる。

黙ってついていったら、その先が、地獄かもしれない。

相性の問題もある。万人にとっての師匠、ということはまずない。相性が悪いといろいろめんどうだ。

これが欠点。




医学生達は、だからこそ、「キャリアパス」を気にする。

自分がこれから歩いて行くであろうキャリアの道筋(path)を思い描く。

どんな師匠について歩けば、どんな師匠を超えようとすれば、自分がより遠くへ羽ばたいていけるのかというのを考えて進路を選ぶ。



で、だ。

徒弟制度は、最近ちょっとずつ、利点が薄れてきたかもしれない。

「たったひとりの師匠に人生をゆだねること」についての評価は、かつてよりも厳しくなっているように思う。

なぜか。

たぶん理由はインターネットのせいだ。





デジタルネイティブ世代は、すでに小学生くらいの頃から、無数の師匠を持っている。

顔も名前も知らない、師匠。いつも一緒にいるわけではない。生涯でたった一度しか関わらないときもある。そんな師匠。

あるひとつの路線について詳しい。ピンポイントで困った点を、ピンポイントで解説してくれる師匠。

ファストフード的に自分の前を通り過ぎていく、無数の小粒な、しかしぴりりと辛い師匠。

そんな師匠達の居場所は、もちろんインターネットの中である。




インターネットは虚構の世界と呼ばれるが、実際には完全な虚構ではなく、現実の一部を秒で切り取ったリアルの断片をランダムに組み換えたものである。

無数の師匠たちもまたリアルの断片だ。

若い医学生たちは、断片化したリアルを絶え間なく摂取して、要素を組み換えて同化代謝し、自分の中で新たなリアルを構築することで、今を生きている。



ブログ記事で救急のピットフォールについて語る顔も知らない教授。

臨床のちょっとした診断にとても役に立つ画像の見方について毎日更新しているツイッターアカウント。

iPadですぐにダウンロードできる、数百キロ離れた大学の講師が公開している講義のパワーポイント。

無料お試し版だけでジーニアス英和辞典なみの記述量を有している医療辞書。

病院で毎日感じたことをおもしろおかしく書き連ねているはてなブログ。

自分の大学の教授が大喜びで出した業績の数十倍の業績を出している、アメリカの期限付き特任助教のウェブサイト。

これだけの師匠(の断片)が、自分のすぐそばにいる(ある)。




そんなすばらしい世の中で、あえて「ひとりのボスにつく」ことに、どんな意味がある?

すでに無数に師匠がいるのに、今さら、「生涯をかけるに値する師匠を選ぶ」ことなど、できるのだろうか?




ある想像をしてほしい。あなたは医学生である。

地元の中規模の民間病院に、見学に来ている。

性格もよく、優秀そうな、消化器内科の医師に会う。

彼は言った、「ここで研修するならじっくり教えてあげられるぞ」。いい人そうである。優秀そうでもある。

けれど、あなたはこう思うかもしれない。

この内視鏡医よりも、さらに有名な人の名前を、ネットでいっぱい見ているんだよなあ。

あの大学にも。あのハイボリュームセンターにも。教科書で有名な人。テレビに出るくらい有名な人。雑誌でしょっちゅう名前を見る人。

キラ星たちをいっぱい知ってしまった今、この「ふつうの師匠」を、尊敬しきれるものだろうか……。









ま、そうは言っても、大多数の医学生は、結局、現実世界で少数の師匠を探すことになる。

これには理由がある。インターネット師匠には、苦手なジャンルがあるからだ。

ネット師匠がうまく伝えられないこと、断片ではないまるごと師匠でなければ伝えられないもの、とはなにか?

それは「医術」である。



医者になるための訓練では、「医学」と「医術」の両方を学ぶ。

「医術」とは、さまざまな処置、処方の仕方、立ち居振る舞い方、診察方法など、本で読むだけではなかなか覚えられない、手を動かして修得するスキルのようなものをさす(ことにする)。

一方、「医学」のほうを学ぶときは、手がメインではない。脳だ。

脳をどれだけ動かすか。脳をどれだけ外部に接続するか。

無数のネット師匠が脳に接続してくれることは、「医学」を極める上で、とても役に立つ。

けれど、ネット師匠は手取り足取り教えてくれるわけではないので、「医術」を身につける上では信頼感が落ちる。

動画をみるだけで胃カメラを動かせるようにはならない。YouTubeもVRも、ないよりはあったほうがずっと役には立つ。けれど、やっぱり足りない。

手の動かし方を学ぶためには、現実世界にも師匠を設定しておいたほうが便利である。

いかにデジタルネイティブ世代の医学生であっても、最終的には自分の師匠をどこかに設定する。

医学と医術、どちらか一方だけでは医者はできない……。




けれども、病理医だけは。




病理医は、医術を用いない。治療をしない。処置をしない。手術も採血も診察もしない。傷を縫いもしなければ人工呼吸もしない。

医学をひたすら学ぶのが病理医なのである。

だったら。

「病理を学ぶとき、現実世界の師匠は必要だろうか?」



まあたいていの人は、「何言ってんだ、師匠もつけずに病理を学べるわけないだろう」って怒る。

けれど、ぼくは、デジタルパソロジーの底力を知れば知るほど、この先どこかで病理教育に革命が起こるのではないか……起こさなければもったいないのではないか……起こすべきではないか……と考えている。

もう怒られてもいいや。ツイッターもやってねぇし。





デジタルネイティブ世代が、これから、どうやって病理診断を学ぶのがよいか。

徒弟制度でよいのか。

今まで考えもつかなかったような、もっとはるかに高度な学習の仕方があるのではないだろうか。

ぼくなりに考えている。

「AIを用いた次世代形態解析と統計処理が病理診断の一角を占める未来に、医学と医術を兼ね備えた病理医が必要であり、そういう病理医をどう育てるのがよいのか」について、ずっと考えている。

また、「病理医のもつ医術とはなんだろうか」についても、少し考え始めている。




けれど今日はやめておこう。だいぶ長くなってしまった。

新年から語る信念としては重すぎたようだ。まあいっか。