2020年10月30日金曜日

毛玉

職場にはいてきたパンツの毛玉がすごい。最近寒くなってきたので、ワタが入ってあったかいやつを引っ張り出してきたのだけれど、あらためてじっくり見てみると毛玉がすごい。人前に着ていけるような服では無かった。……と、以前なら赤面しただろう。


今は人に会う機会が減っているからあまり問題ない。機能があれば、見た目はわりとなんとかなる。


「ソーシャルディスタンシングによって、モノを大事にすることができる。」


すばらしい。




ちょっと今写真を撮ってみたんだけどグロかったので載せない。なぜだろう。肉眼だとそこまでひどい感じはしないのだが、スマホで撮ると光量の関係か、解像度の関係か、毛玉の凹凸がエモ散らかして、綿の荒野に一揆集が決起したみたいに見えてしまう。お見せできない。


「スマホカメラによって、毛玉はグロくなる。」


また所見を得た。






こういったことを少しずつ書きためていって行を埋めることでブログになる。そういう書き方があることは事実だ。ぼくもこれまでに何度かやっている。ただまあ、ぼくのレベルでやると、スッカスカになる。


「一人井戸端会議」において、会話のお題をこうと定める理由はいらないし意味もない(こうやっていうとマツコデラックスを目指すタイプの人が「意味はある」などとつっこんでくるかもしれないが)。


ただ、その小さくて無意味な話題はある種の静電気みたいなものを持っていることがあって、そこにポンと置いてしばらく眺めていると、周りのホコリがよってきてピトピトとくっつく。すると少し話題の質量が増える。


そうやって黙って置いておくうちに、いつのまにか話題の周囲に最初のタネよりはるかに大きな別の話題がくっついていることがあって、あっ、なんでこんな話題を思い付いたんだろう、なんて思って、後から出てきた話題のほうを手に取って眺めていると、とんでもなく長い文章になることがある。そういうことがある。


このことを「氷山の一角」という表現を用いて書いてもよかったのだが、なぜか今日の場合は、一つのコアとなる無意味ななにかを置いて、そこに静電気でもっとでかいものがひっぱり寄せられる、みたいなニュアンスになった。たぶんぼくはそういうことを普段言語化せずに考えているのだろうと思う。


で、その、ぼくが言うのもあれなんだけど、一流の小説家とか一流のエッセイストというのは、最初のコアも大きく育て、寄ってきた別の玉もしっかりと育てて、ふたつが融合したようなテキストを作り上げるのがとても巧みだと思う。逆にぼくは最初のコアにいつまでもいつまでもかかずらう。こだわる。ホコリまみれになった最初の玉を何度でもチラチラとみている。それはもはや他人から見ると毛玉でしかない。ぼくの布地から湧いて出た汚い毛玉。

2020年10月29日木曜日

病理の話(469) 勉強のめやすに4つの分類

「疾患を学ぶ」と言ってもいろいろな方法がある。

あの医者の勉強とこの医者の勉強を比べてみるとまるで違う、ということをよく経験する。

今日の話は医学の勉強法についてなのだけれど、あくまで一部の医者(病理医含む)を想定して書く。それ以外の人にとっては、うまく活用できないかもしれない。念のため、おことわりしておきます。なお、内科医・國松淳和先生がよくこの考え方をなさっていると思われるし、ぼくはそれに影響を受けている。





実地臨床で遭遇する疾患の勉強をするとき、頭の中に4つの分類項目を用意する。

1.コモン×コモン

2.レア×コモン

3.コモン×レア

4.レア×レア

コモン(common: よくある)と、レア(rare: めったにない)の組み合わせである。これだけではなんのことかわからんので、もうすこし細かく説明する。

1.コモン(遭遇頻度が高い)×コモン(典型的な見え方をする)

2.レア(遭遇頻度が低い)×コモン(典型的な見え方をする)

3.コモン(遭遇頻度が高い)×レア(非典型的な見え方をする)

4.レア(遭遇頻度が低い)×レア(非典型的な見え方をする)


つまりは、医者として患者に出会って診察をする際に、「その病気にはどれくらいの頻度でお目にかかるか」と、「その病気として典型的なかたちで診断できるかどうか」で分けておくのだ。ひとつずつ見ていく。




1.コモン×コモン の例:

 「かぜ」、中でも「ウイルス性の上気道感染症」の患者には、医者をやっている限り相当な高確率で遭遇する。「せき、鼻水、のどの痛み」という3つの症状が揃ったパターンが典型的である。
 よくある疾患の、最も典型的な「表現」(どういう症状で医者のもとをおとずれるか)をきちんと勉強する。このことは医者をやっていく上でほんとうに役に立つ。
 きちんと頭に入れておけば、毎日のように使う。

 病理医でいうと、たとえば、胃がんや大腸がんの細胞の特徴を覚えるようなことだ。
 


2.レア×コモン の例:

 「クローン病」という、小腸や大腸などに炎症をくり返す病気がある。発生頻度は高くない疾患である。ふつうに医者をやっていても経験する機会は多くない。しかし、この病気には典型的な症状・所見がある。なかなかよくならない下痢や腹痛、発熱どの症状を見て、内視鏡を行い、「縦走潰瘍」や「スキップする潰瘍」などのいかにも特徴的な所見をみつけると、クローン病ではないかと疑うことができる。
 「クローン病」のことはきちんと勉強しておく必要がある。ただしクローン病の勉強方法がかぜといっしょではうまくいかないんじゃないかな……と思う。なぜなら、「めったに遭遇しない」からだ。たとえば、「下痢や腹痛が典型的」と言っても、下痢や腹痛をひきおこす病気はほかにもいっぱいある。クローン病よりもっと頻度の高い病気が山ほどある。そういったものの中から、「これはレアなクローン病に違いない」と決めるための勉強は、やや特殊だ。「ほかとの差をより意識しなければならない」とでも言うか。

 病理医でいうと、たとえば、Whipple病のPAS染色所見や、ニューモシスチス肺炎のGrocott染色所見を覚えるようなことだ。



3.コモン×レア の例:

 「心筋梗塞」という、大変有名で、かつ重い病気がある。運動や食事の重要性がこれほど一般に知れ渡っても、発生頻度はいまだに高い
 典型的には「すぐにはおさまらない、強く胸をしめつけられるような痛み、焼け付くような強い胸の苦しさ」で発生する。
 ただし、この病気はまれに、「胸が痛くならない」こともある。
 糖尿病などの持病を持っていて痛みに鈍感になっている場合や、本人が胸の痛みではなくお腹の痛みとして知覚する場合、アゴや肩の痛みがメインで胸の苦しさがあまりよくわからない場合などが、まれに起こる。
 よくある病気レアな発症様式。当然、診断するのはむずかしい。しかし、ここで診断にたどり着くのが遅れるとたいへんだ。レアな症状を呈することもあるということを医者が知っておく必要がある。
 えーそんなの無理だよーと思うか? はっきり言って、専門の病気を相手にするプロなら、「コモン×コモン」を勉強したあとで、「コモン×レア」にも守備範囲を広げておくべきである。また、自分の専門外の病気についても、「あれ、コモン×レアか!?」と、気づくくらいの訓練はしておいたほうがいい。

 病理医でいうと、たとえば、E-cadherinが陰性とならないinvasive lobular carcinomaを覚えるようなことだ。



4.レア×レア の例:

 正直に言うけれど、これは基本的には後回しである。ほかの3象限をある程度のレベルまで学んでからでないと、字面だけ、写真だけで学んでもまずうまくいかない。それはそうだろう、「めったにない病気」の、「非典型的な見え方」を学んでもしっくりこなかろう。

 ところが、落とし穴がある。学会や雑誌の中で「症例報告」されているケースの一部は「レア×レア」なのだ。だって、病気自体が珍しくて、しかもその見え方も珍しいとなれば、関わった医者は積極的に学会で発表し、論文にまとめるだろう?
 ただ数を稼ぐように論文を読んでその内容をきちんと吟味していない人は、知らず知らずのうちに「レア×レア」を蓄積してしまっているかもしれない。このことに自覚的でなければならない。論文を読み学会報告を聞くときには、意図的にその他の3象限を取り入れるようにしなければいけない。

 病理医でいうと、たとえば、転座型腎細胞癌のあたらしい染色体転座が見つかったという論文を読んで、その転座に特徴的な所見を覚えるようなことだ。






……今日の記事は、さすがにピンとこない人が多かったかもしれない。

なぜなら、「病理医」というレアな職種の、「疾患の勉強」というコモン……いや……比較的レアなジャンルについての記事だからだ。レア×レアはむずかしいのである。ま、でも、記事にはしやすい。

2020年10月28日水曜日

脇目をきちんとふる

ムスカがシータに「流行りの服はおきらいですか」と問いかけるとき、あーなるほど、ムスカくんもこれまでいろいろな人間と付き合ってきたなかで、流行に追われて常に新しいデザインばかり買い求める人にも出会ったし、あるいはその逆に、「流行っている服なんてつまらないでしょう」とばかりに逆方向にすすんでいく人にも出会っていて、きっといろいろな人間に振り回されてきたんだろうなあ、そうじゃないとそのセリフ出ないよなあと、なんだかかわいさを感じてしまうのである。


”「流行りの服がおきらいな」人ってへんくつだよね。自分の好みが他人の好みよりも優れているという「好みマウント」が、言葉のはしばしから出てくるタイプに多いじゃん。ぼくそういうの苦手だ。”


ムスカもきっと、場末の居酒屋の小上がりで、焼酎をウーロンで割って飲みながら、サークルの後輩相手にそうやって恋愛観を語ってうっとうしがられた過去があったんじゃないかと思う。ほら思い出話がはじまるぞ。シータは逃げてほしい。でもそんなあぶない逃げ方はしないほうがいい。






脇目をふる。脇に目をやる。自分から見て、脇。


自分が世の中心にいるわけではない。脇目こそが本道に近いかもしれない。というか、脇目をふるとき、左右のどちらかはおそらく世の中心である。自分の向かう前が中心ということはまずない。


そして世に中心はない。分散型ネットワークには中心点がないのだ。地球の表面において「中心」がどこにもないのといっしょだ。3次元を2次元の地図に展開して、真ん中を日本にするから、ぼくらは日本が真ん中だと思い込んでしまうし、太平洋とか日本海を「右」「左」などと呼ぶんだけれど、本来の地球の表面には「中心」なんてない。そこには球を網羅するネットワークがあるだけだ。右も左も前も後ろも区別がつかなくなるのが、分散型ネットワークの特徴である。宇宙空間に出てしばらくすると、「高さ」と「遠さ」の概念が区別できなくなるように。球面上を歩いていると、どっちが「脇」でどっちが「前」なのかわからなくなっていく。そういう迷い方をする。


脇目をどんどんふる。脇目をきちんとふる。ネットワークの中で何度か同じパルスが通っただけのけもの道を「本道」などと呼ぶことをせず、自分が歩いている道を「本道」だと思い込むこともせず。脇目をふりつづけるなかで、なお、自分の首が自然に戻る部分は、「本道」ではないかもしれないが、自分がなんとなく進んでいきたい方向なんだろう。座頭市のように。ベッケンバウアーのように。草食動物のように。脇目をふりつつ、「前」に向かう。

2020年10月27日火曜日

病理の話(468) 未来の病理診断が今ここに

「Scientific reports」という学術雑誌はなかなか特殊な、いかにも今風の雑誌である。


論文掲載には「査読」といって、複数の人間の審査を経なければいけない。ただし、掲載が決まるまでの時間は早いほうだと思う。すべての論文が「オープンアクセス」といって、誰でもウェブで無料で閲覧できる。


ぼくの勝手なイメージだが、「けっこうよさげな結果を、急いで世に出したい」ときに重宝されているような印象がある。


さてそこにこういう論文が出た。


https://www.nature.com/articles/s41598-020-71737-w


"3D histopathology of human tumours by fast clearing and ultramicroscopy"


”3D histopathology of human tumours...

(訳:3次元組織学 オブ 人間の腫瘍……)


...by fast clearing and ultramicroscopy."

(訳:……迅速組織透明化技術と、ウルトラ顕微鏡によって。)




すごそうな言葉ばかりが並んでいて、そのじつ何が起こっているのかよくわからないと思われるので、ちゃんと解説する。


ふつう、病理医が細胞を評価するときには顕微鏡を使うわけだが、この顕微鏡、虫メガネと違って、そのものにただ近寄っていけば細胞が見えるというわけではない。拡大を上げ続けていくと2つの障害にぶつかる。


1.「拡大をあげればあげるほど、視野が暗くなる。」


小さな面積を拡大していくので、周囲をいくら強く照らしても、構造がよくみえなくなっていくのだ。このことは非常に大きい。


2.「拡大をあげても、細胞の外側ばかり見えてしまい、中身が見えない。」


きわめつけはこれ。細胞というのはゆで卵みたいなものだ。周囲にカラがあり(細胞膜という)、なかに白身と黄身があって、黄身の部分を「核」と呼ぶ。こいつを外からにじりよって観察したところで、見えてくるのはカラばかり。内部を見るのはなかなか大変だということが想像つくだろう。



そこで、これらの問題を一気に解決する手段として、人間はほんとうにかしこいことを考え付いた。


輪切りにするのだ!


タマゴを輪切りにする!


しかも、そのスライスをペラッペラに薄くして、下から強い光をあてる!


こうすると「1」と「2」が一気に解決できる。下から強い光を当てることについてはまあ上から当てても実は一緒やんけと思わなくもないのだが、「スライスする」ことで断面にすれば、カラの内部の構造だって一目瞭然だろう。


そこで「薄切」という技術を使って、組織をペラッペラにする。カンナのおばけみたいなものを使う。


ところがここでひとつ問題が生じた。ペラッペラの組織というのはほとんど透明だったのですよ。だいこんのかつらむきすると向こうが透けて見えるでしょう?


下から光をあてても、薄すぎてなんだかよくわからん、という事態がおとずれた。あちらを立てればこちらが立たず。


で、人間、さらに工夫して、いろいろと細胞を染める技術をためして、最終的に、のび太さんのエッチイー染色というのを考え付いた。正確にはHematoxylin and Eosin (HE)染色という。のび太さんと覚えていい。しずかちゃんだけど。


これを使うと、タマゴの黄身の部分をきっちり染めることができて、なんならカラの部分も繊細に染めることができる。ペラッペラのスライスであってもだ!


というわけで、「薄くペラペラにする」+「色を付ける」+「下から光をあてる」の三位一体攻撃で、わたしたちは普段、細胞をまるはだかにしているのである。エッチイー。





ところが今回のScientific reportsの記事……というか実はそのずいぶん前から、そうだな、10年以上前から、人間達はまったく別の技術開発にとりくんでいたのだ。そこにはあるモンダイ意識があった。いわく……


「薄く切ったら立体構造が見えないじゃん。」


や、ま、そうなんだけどさ! でもそれはもうしかたなくない?


みんながそう思ってたんだけど、いろいろな業界のひとたちが、「組織をまっぷたつにせずに、そのまま透明にして、そこに色をつけて、なんかすごい顕微鏡で見るワザってねぇの?」という開発をはじめたのである。


いやいやそれってすごいぜ。だってまず「組織を切らずに透明にする」ってことだろう。そうしないと光が奥まで届かない。タマゴの中が見えない。


でもこの技術、まじでずーっと開発され続けていた。ぼくが知る限りでも10年弱前にはすでに日本病理学会で発表があったと思う。


そしてこのたび、「めちゃくちゃかんたんに、しかもすばやく組織を透明にできる試薬の組合わせ」がわかったというのだ。それが上記の論文である。


おまけにその透明になったスケスケ組織に、今までのようなHE染色であるとか、各種の免疫染色をそのままやることができるという。さすがにその発想はなかった。


するとどうなるか? 特殊な顕微鏡(ここにも血と汗と涙の歴史がある)をもちいることで、組織をペラッペラのかつらむきにせずとも……まあ実際には完全に切らないというわけにもいかなくて、ブタの角煮の厚さくらいにはしたほうがいいんだけど……組織の構造をみることができるようになった、というのだ!


ぎょえーすごい。3次元構造がみえる! という論文である。この技術をまず発表しておかないと特許とられちゃうだろうから、論文作成者は発表を急いだんだろうな。Scientific reportsに投稿するのもまあわかる。




ただまあ実際に論文を見てみると、これ、「核の中身」まではなかなかみえないね。やっぱり精度はさほどではない。けど、実際の人間の「がん」が、どのように3次元的に進展しているのかをきちんと表現することができている。


これ、たぶんAIと組み合わせると、人間の診断能力を超えると思うよ。それくらい情報が多い。


よーしぼくもこれからは3次元病理医だ。人間の欲望ってのは果てしないな。病理医のエッチイーである。

2020年10月26日月曜日

体幹を鍛えよう

仕事で首や肩周りが重くなるのはまあわかるのだが、最近、家でマンガを読んでいてもあちこちがだるくなる。つまりは体を黙って支えていることがしんどいということだ。


一番らくなのはふらふらしていることである。所在なく歩き回ったり、意味も無くたたずんでいたり、寝っ転がるにしてもキングサイズベッドくらいのソファがあれば便利なんだけどなーと思いながら床の日が当たるところでずっとごろごろ回転している。定常状態でいると必ずどこかの筋肉に負担がかかる、だからいつも加重のかけかたをずらして、ひとつのところに留まらないようにするしかない。


多彩なくらしをすることで、「人生の床ずれ」を起こらなくする。まあかっこよく(?)言うとそういうことになるだろう。しかし、冷静に考えて、これらの面倒な気配りは、「体幹や四肢近位の筋肉をきちんと鍛えておけば必要なくなる」のである。


腹筋と背筋を。体の横側の筋肉を。ふとももや腕を。ムッキムキにしなくてもいい、人並みに鍛えておけばいいのだ。維持できるだけの体力があればいいのだ。そうしたら、また、何時間でも本が読めるし、何も考えずに一日日向に座っていることもできるだろう。


のんびりするためには運動がいる。心を無にするためにも筋肉がいる。




テレビに「20年前、スポーツチャンバラで世界一になった人」が出てきて、ウレタン製のチャンバラ刀を振り回していたのだが、駄々っ子のそれと変わらないように見えた。


ぼくも剣道をしなくなって18年ほど経つ。つまりはああなっている。もはや、していなかったのと同じ状態、いや、「俺も本気を出せばあの頃に戻れる」と感じているぶんだけタチが悪いようにも思う。とりあえず昨日、鬼滅の刃を1巻から読むときに、V字腹筋を足してみた。

2020年10月23日金曜日

病理の話(467) がん細胞を更正できるものなのか

がん細胞は、正常の細胞の性質をある程度兼ね備えたまま、その挙動がおかしくなっている。


たとえば白血病というがんは、「白血球」というだれもがもつ細胞の性質を持っているのだけれど、ちゃんと白血球としては働いてくれず、どこかしら異常になっていて、必要以上に増えたり(増殖異常)、本来の仕事をしなかったり(分化異常)、不死化していたりする。


で、このことを何度かブログに書いているうちに、ある感想をいただいた。


「それぞれの細胞の性質を持っているならガン細胞の記憶をなくして普通の細胞として更正してほしいみたいな気持ちになりました」


まったくそのとおりである。ぼくはよく、がん細胞をチンピラとかヤクザ、マフィアに例えるのだが、彼らを真人間に戻す方法は無いのだろうか?


この発想をおおまじめにすすめて、がん治療に活用できないだろうかと考えている研究者は実際に世界中にいる。ただ、あらゆるがんに「更正」が有効ではないようだ。というかそもそも多くのがんは「更正するには悪事をおかしすぎてしまっている」のである。映画の終盤、更正した悪人が結局死んでしまうシーンを思い出して涙する。レオン一度しか見てないのに覚えてるな。


がんが「悪事をおかしまくっている」というのはどういうことか。これをもうちょっと科学的に書くと、「がんの持っているDNAは異常だらけ」となる。よく、DNAの変異によってがんになる、という言葉があるのだけれど、がん細胞というのはDNAが1,2個変異したようなナマッチョロイものではない。


がん細胞には、少なくても20箇所、多ければ100箇所以上のDNA異常、すなわち「目に見えてやばいプログラムエラー」が存在する。ちいさなミスを入れれば限りない。


一度カンチョーをした小学生を不良とは呼ばないだろう、先生ときちんと話し合えば十分真人間に戻れる。しかし、リーゼントモヒカンにチェーンのついた財布と短ランボンタン、タバコ3本を同時に加えて両手にサバイバルナイフをぶらさげ、マリファナとコカインとハッピーターンを同時に吸引しながら書店で万引きをする高校生がいたらこいつはさすがに更正不可能ではないかと考える。もちろんこれが1名だけだったら児童相談所に連れて行くなり鑑別所に行くなりして一人の人間としての人生をもういちど考えてみようぜと説得するところだが、150万人いたらどうか? おそらくトランプ大統領ではなくても空爆を考えると思う。


そう、がん細胞というのは、異常を数多くもち、徒党を組んでいる。だから薬や放射線などをうまく用いて更正するというのが非常に難しいのである。


ただ研究者というのはあきらめがわるい。完全にマフィア化したがんについては、更正という手段はほとんどあきらめムードなのだけれども、「まだがんになる前の細胞」の、「悪事を起こす予兆」みたいなものだったらなんとか更正できないだろうか? と考えている人はいる。


それはたとえばDNAの異常そのものではなく、その異常を引き起こしがちな「DNAのメチル化」と呼ばれる、DNAの周辺にある異常を人為的に元に戻せないか、みたいな研究だ。まどろっこしいね。言ってみれば、高校生の男のコは多感な時期だけどまだまともなカッコウをしている、しかしその家ではしょっちゅうテレビでVシネマがかかっていて、毎日暴力・淫靡・R-150指定くらいのヤバヤバ動画が放送されている、となるとこれはいずれ高校生もぐれるかもしれないだろう。そういうときに、「テレビ消しましょうねー」と指導を入れる、みたいなイメージだ。


えっこれ難しいんじゃない? と思っていただきたい。その直感は重要である。なにせ、この高校生の周りの家にも多くの住人がいて、彼らもまたテレビを見るのだ。ただしみんなが見ているのはイッテQだったり復活した徳井だったり、あるいはテレビではなくYouTubeやネトフリであったりするのだけれど、町内放送で「お前ら全員テレビ消せ」とやるわけにはいかないだろう。そう、がん細胞の周りには通常の細胞がいるので、これらをまとめて調整しようとするとなかなか大変なのである。


ただそれでも、マフィア化したアホどもを真人間に戻すよりは可能性がある。このため今の日本では、「エピジェネティクス」とよばれる、DNAそのものの異常ではなくてその前段階、あるいは周辺にある情報の異常についての解析がとても進んでいるのである。

2020年10月22日木曜日

じりじりと溜めている

先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたことなのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものをあらかじめ決めておくそうだ。そうしないと途中で話がうまく転がらなくなる、とのこと。

それに対して、ぼくはとにかく一行目を置き、そこに連結させて書くタイプの書き方をする。

たとえばこのブログは完全にそうだ。具体的に言うと、今日の記事もそうだ。頭の中に何も無い状態から、先ほどたまたま「じりじりと溜めている」という文章がポンと出てきて、同時に、言語になっていないモヤモヤとしたものの手触りが浮かんだ。こういうことが一日の中に何度かある。で、そのとき偶然PCの前にいれば、ああこれはブログでいけるやつだな、とわかるので、浮かんだ10文字程度の謎フレーズ+モヤモヤの感触から「連想」される文字を、何も書かれていないブログ記事入力欄にキータッチする。今日はそれがたまたま

「先日先輩といんよう!で話していたこと」

だった。

この書き出しは、さきほどの「じりじりと溜めている」や「モヤモヤ」とは一見つながらないように思われるかもしれないが、ぼくの脳内ではシナプスの連携のふんいきが近い。たぶん似た場所で駆動している。もう人には説明しづらいんだけれど、ぼくの中ではなんとなくわかる。だってぼくの脳だから。

フッと連想されたフレーズに、カギカッコをつけてカッコをつけて、文章的な体裁を整えているうちに、あ、やっぱ書けそうだな、という気持ちになって、次の文章を連想ゲーム的につなげる作業に入る。

「先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたこと なのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものを」

このあたりで実は思考がスパークしており、モヤモヤが目の前で無数に凝集して、集まった点が全部光って言葉やフレーズになって具現化して、地面にポトポトとおちる。モヤが雲になってあられが降って地面に積もっていくかんじ。霧のつぶひとつひとつがエピソードや単語になったら、思考のピントをそのつぶつぶに順番に合わせていく。手に取れそうなものをゆっくり組み立てていくと文章になるし、モヤモヤ全体をぼんやり見通すと文章のオチもなんとなくわかる。今日の場合、「じりじりと溜めている」というフレーズと「先日先輩と」が先に結晶したあられであり、これらを見て、ああそうか、ぼくは今日、文章の書き方についての話を言語化するのだな、と俯瞰して納得する。この時点で今日の記事を作る部品の一覧はだいたい思い浮かんでいる。ただし、構成はまだ思い浮かばない。

構成が思い浮かぶということは目次が思い浮かぶということだ。商業的な文章を書くときは、とりあえず一行目を書いて、イメージが具現化してあられが降り出したら、その時点でいったん文章を作る手を止めて、目次を作る。

あるいは、この段階で編集者に目次を与えてもらうこともある。というか最近書いた本は基本的にそうやって作っている。ぼくの中でひそかにモヤモヤがあられになった時点で編集者と本の雰囲気を相談し、目次をもらって、あられの中から使えそうなものを拾って組み立てると一冊の本になる。そうやって作った本はもはやぼくの単独作品ではないが、多くの人に読まれることを意識してきたプロの編集者が作った目次は必ずいい本に結実する。



本格的に書く前に目次を作るってのは、「あらかじめ何を書くかを決めてから書き始める」ことと同じじゃないの、と思われるかもしれない。

けれどもぼくの中では微妙に違う。とにかく最初の一行やワンフレーズが唐突に出てこないと、そこからつなげていくという感覚がないと、ぼくは本能的に……というか嗜好性として自分の書いた物に飽きてしまうのだ。

執筆中に思考の衝突がない文章を書きたくない。あらかじめ文章の展開を完全に考えてしまうと、それはもう書かなくてはいいではないか、と思う。だってぼくの中では結論して解決してしまったのだから。プロットが練られすぎたものを書こうと思ったことが何度かある、たとえばそれはSNS医療のカタチのnoteなどで一度やろうと思った。しかし、執筆のモチベーションが急激に低下して途中で消してしまった。「展開が完全には決まっていない文章」じゃないと、楽しく書けない。楽しく書けないものは続かない。もちろんあくまでこれはぼくの場合ではある。世の中にはぼくじゃない人のほうが多い。

むかし、「ミシシッピー殺人事件」というゲームがあって、非常に難易度が高く理不尽なクソゲーだったのだけれど、あのゲームでは登場人物に話を聞いた後、なんかよくわからなかったなーと思ってもう一度尋ねると「さっきはなしましたよ」「もういいました」とにべもなく断られ、重要な情報が二度と手に入らない。なんてひどいゲームなんだ、と笑ってしまうわけだが、実際ぼくの脳というのはしょっちゅう「さっきはなしましたよ」「もういいました」「けつろんはでました」「それはもうすんだはなしです」と言う。ヘンな話だが自分の思考相手に自分の脳がそう語る。先が見えた話をそれ以上深掘りしているひまがあったら、まだ見ぬモヤモヤを言語化するほうに脳のリソースを使いたい。究極的には本能のレベルの話をしており、ここはおそらくなかなか変えようがない。

おそらくぼくの文章というのは、エッセイはおろか教科書や論文を含むあらゆる学術的な文章もすべて、誰よりも自分のモヤモヤを解決するため、自分のために書いているごく私的な日記の延長に過ぎない。だから仮に今の病理医という仕事をやめてしまうと、文章だけでは食っていけないだろう。「誰かがよろこんで読むために」「誰かがくるしんで読むために」「誰かがにやりとしながら読むために」「誰かがぐっと考え込むために」書く文章には、もっと丁寧で重厚な計算と下準備、やさしさ、ふんばる力があったほうがいい。プロットをきちんと汲んで、「こうお膳立てをすればあなたにはこの豊潤な世界がすべて伝わるのではないか」と考える作家の仕事を、ぼくは心から尊敬している。「ああ、そうやってあなたのすばらしい脳内風景をぼくに見せてくれたんですね」と、おかざき真里先生とか恵三朗先生とか、ああマンガ家ってみんなそうなんだよな、きりがない、作家もエッセイストも哲学者もみんなほんとうに字の一画一画にまで魂が籠もっていて感動してしまう、一方のぼくはやはり作家ではない。仕事として文章を書いているかどうかとは関係なく、性根の部分がどうしても、「自分のモヤモヤのためにだけ文章を書いている」。



田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。」という名著があり、自分もまったくこれをやるべきだなと感心した。しかし、ぼくの場合はさらにもう少しひねくれてしまっている。自分が書きあげたものは、すでに自分の中のモヤモヤが文章になっている、文章化することに成功したプロダクトなので、できあがった瞬間からもはや読みたくない。ぼくは自分の書いたものをあとから見直すのが好きじゃない。執筆中は、「こんなことが書いてあったらぼくなら読みたくなるだろうな」と思って書いている、それは確かなのだ、その意味では「読みたいことを、書けばいい。」の精神をがんばって突き詰めているのだけれど、「心の中にあって読み解きたいけれど読めない状態のものを、読める状態にするために書く」こと自体が目的だったため、書き終わったら別にもう読まなくていいやと思う。だってそのはなしは、「もういいました」。





頭の中で言語化されていないモヤモヤを溜めている。じりじりと溜めている。言語化された順番にぼくに飽きられていく。だからとにかくモヤモヤを溜めておく。ときおりそこからポンと生まれてくるフレーズがあり、そのフレーズに手を出せば芋づる式に、「先日先輩と」みたいな単語がボロボロボロボロ具現化して、それらをつなぎあわせていくと文章になり、書き終わって、飽きて、次のモヤモヤを探す。じりじりと溜めているから、まだ書ける。じりじりと溜めている。能動的に? いや、中動態的に。じりじりと溜めらさっている。一行目を書くとスッと出て行く。便秘に浣腸みたいなもんだ、と、後藤隊長は言った。なんだこれ浣腸か。

2020年10月21日水曜日

病理の話(466) 教えてもらわないとわからない

ベテランの小児科医が、大量の論文を持ってデスクにやってきた。人間は察する動物である。何も言われなくてもまずは論文の束を受け取って頭を下げる。


「ありがとうございます! 読みます!」


説明を受けながら、年代順に並べ替える。ぼくはある領域の論文をまとまった量読むとき、発行された時系列順に読むことが多い。まあ、時と場合によるけれど。


8本ほどあった論文を並べ替えている間、小児科医は次のように言った。


「この患者さん、この患者さん、あとこの患者さんの病理所見を、この論文に書いてあるポイントを見ながら、もういちど見直してほしいんです」


○年前、△年前、1○年前。むかしの患者さんたちの病理番号が次々とリストアップされている。


ぼくは答える。「わかりました! 勉強して見直します」


「どうもすみません、お忙しいところ……よろしくお願いします」





病理医は患者から採取された小さな組織を元に「診断」をする。このとき、細胞をどのような見方でチェックして結論を下すか? それは個々人の裁量による……わけではなく、多くの先行研究者たちが「たぶんこの項目を見ておくとよいよ」と調べてくれた意見を元に行う。主観バリバリで評価してはいけない。もっとも、完全な客観というものはこの世の中には存在しないのだが。


先達がすでに開発したチェック項目を見る。臓器ごとに異なる。病気ごとに異なる。膨大で、それぞれに細かく決まっている。「だから」、病理診断医という専門職が存在する。


さて、このチェック項目、時代とともに変わる。増えていく。

「これまではみんながあまり着目していなかった、細胞のこのような変化や、出現している細胞の種類、量などを、もうちょっと違う観点でみたほうがいいよ。」

このような論文が、今この瞬間にも出続けている。

科学というのは基本的に後退しない。あとになればなるほど診断が鋭く、かつ細かくなる傾向にある。


すなわち、細胞をみる病理医は、もちろん、全身のありとあらゆる臓器について、細胞の見方を時代とともにアップデートしていかなければいけない!


建前はそうなんだけどぶっちゃけそんなの無理だ。全身にどれだけ細胞があると思っているのだ。頭皮から目、鼻、耳、口、くちびる、口の中、舌、舌のうらにある唾液腺、歯茎、のどちんこ、扁桃、のどの粘膜、うー本当はこうやって全身のあらゆる臓器の話をしようと思ったけれど、まだ口の段階ですでに飽きてしまった。そもそも目だって鼻だってもっと細かく分けられるし……。


では病理医はどうするか? ある時点で自分が勉強した項目に満足して、そこからは時代がどう動こうが、自分の信じた診断方法で延々と細胞を見続けるのか?


平成15年の基準で病気を診断しても、99.9%くらいは病気の本質に迫れる。しかし、令和2年の基準で病気を診断することで、99.99%くらいまで確度が上がる。平成15年の知識でいつまでも診断していることは、0.09%分、患者の不利益になる……。


微々たるもんじゃん、と言ってはいけない。


ときには、平成15年の基準で行う診断が、40%くらいしか病気の本質をえぐっていないこともある。こういう難しい病気は、令和2年の基準を用いても、43%くらいまでしかパワーアップできていないものだ。しかし、この3%を積み重ねていくこと、解像度をいつまでも上げ続けていくことで、昨日は治らなかった患者に対して、明日もう少しましな治療ができるようになるかもしれない。


すなわち病理医はアップデートを怠ってはいけない。しかしこのアップデート、膨大である。ウィンドウズアップデートよりも項目が多い。じゃあどうしたらよいか?



一緒に仕事をしている臨床医たちに手伝ってもらう。もうこれしかない。自分の努力でがんばれる度合いには限界がある。ほんとうに専門的な、マニアックな、高度で難しい部分については、あらかじめ臨床医に


「何か進展があったらいつでも教えてください、その領域の最新の論文をぼくに教えてください」


と言っておく。これしかない!!


先ほど小児科医がもってきた論文はいずれも、病理学の論文ではない。小児科系の雑誌のうち、ある特定の病気の、さらに込み入った病態について述べられた、小児科医向けの論文ばかりだ。さすがにそういうところまでぼくは普段カバーしていない。


だからありがたい。これを小児科医がぼくに持ってきたということは、「この領域の最新の診療をするために、病理医はここまで知っておいたほうがいい」ということだからだ。






8本の論文を読んでいく。難しい。知らないことが書いてある。それを知るために別のものを読む。難しい。病理のこともちゃんと書いてある。ここは見覚えがある。聞いたことのないチェック項目がある。えっ、そんなとこまで見たほうがいいのか。いやまてよ。論文の著者たちも、あまり言い切っている雰囲気でもない……つまり、これは、「試しにやってみました」ということか。


一年に一度診断するかしないか、くらいの頻度のマニアックな診断について、100年分くらいのボリュームを一気に勉強する。少し目が変わった気もする。さあ、この目を用いて、もう一度、過去に診断した標本を見直そう。



……うーん……この論文、ほんとうなのかなあ……。あまりそうは見えないなあ……。


あっ、この所見は、大事かも知れない。本当だ! でもこれって意味がある所見なのかなあ……。





一週間後に小児科医と話す。おもしろい論文だった、実際に顕微鏡も見てみた、あまりそのまま受け取れるような内容ではないのだが、この項目とこの項目については引きつづき検討する価値があると思う、ただし過去の診断をひっくり返せるほど力のある論文ではないようにも思う……。


小児科医が頭を下げる。ぼくはそれより低く頭を下げて論文を持ってきてくれたことへのお礼を述べる。最後は土下座合戦になる。

2020年10月20日火曜日

ほめられが発生

書いたっけ?


書いたかもしれない。


まあいいか。ほめられた。それも、声を。


ある企画で、ぼくはナレーションを担当することになった。オープニングとエンディング部分で少ししゃべる。その収録を先日やったのだが、どれもこれも一発OKであった。よかった。


で、ほめられた。


「いやーいいですね、すばらしいですよ」


そこで反射的に謙遜しそうになり、そこからハンドルを切って、このように答えた。


「いやーそれほどでもな、……


……


はい、これでみなさんのお役に立てれば何よりです」






これはたぶん成長だと思う。これまでのぼくは誰かといっしょに仕事をするときに謙遜ばかりしていた。


謙遜しないのは本職の病理診断と画像・病理対比のとき。ここでは自分の仕事に自信があることを前に出さないと診断自体の価値が下がるから、「ぼくの診断は100%(の責任を負う覚悟で発言しているもの)です。」とはっきり言わないといけない。


しかしそれ以外の、物を書くとか、人前でしゃべるとか、絵を描くとか、なんでもいいんだけど、もろもろに対しては謙遜で何重にもくるんでいた。


それをやめた。今回、瞬間的に思ってやめた。これからはやめる。




お金をもらっていないから。


本来の仕事じゃないから。


訓練をしたことがないから。


自分に自信がないから。


そういうのとは関係なく、ほめられたら、「ありがとうございます」と返す。そこからはじめたほうが、中年のぼくの周りはどうやらうまく回るのだ、ということをばくぜんと考えた。



ただそれだけのことにたどり着くにも膨大な試行錯誤が必要だった。振り返って、あそこで気づいていれば、と思うことが、なくもない。


でも無理なのだ。ぼくはほかにも「ぶつかって、気づいて、変えること」をいっぱい通り過ぎてきた。すべては順番だったのだと思う。ほかに変えるものを次々変えている中で、今回たまたま、「謙遜の使い方」を少しアレンジした。まあ、ようやくだなあ、というところである。

2020年10月19日月曜日

病理の話(465) サイズをはかってください

依頼が来た。「脂肪肝」の肝臓に含まれている、脂肪のサイズを測って欲しい、という。


うわあーと笑ってしまった。なるほどなあ。言いたいことはわかる。




脂肪肝という病気は、肝臓の細胞に脂肪が少しずつたまって、肝臓そのものの機能をわるくしてしまう。この「脂肪がたまる」というのがわかりにくい。コップに水を満たしていくようなイメージとは異なる。


いつものごとく例え話をする。肝臓は人体の中では加工工場として働いている。みなさんも考えたことがありそうなことを言うが、たとえばリンゴを食べたとき、そのリンゴがただ細かく砕かれて体のあちこちに栄養として配分されるわけではない。そのままではリンゴに過ぎない。人間はリンゴではない。リンゴちゃん以外は。なので、リンゴから摂取した成分を、人体にあわせて加工しなければいけない。


そこで登場するのが漁協に隣接した缶詰工場……じゃなかった肝臓である。腸管からやってくる血液をいったん引き受けて、中に含まれている栄養成分をさまざまな形に加工する。肝臓は人体という究極のヤベェロボが持つ最高の臓器のひとつなので、実は加工だけではなく、生産も廃棄もいろいろ担当するのだけれど、本項ではとにかく加工を行うこととする。


で、さらにここを細かくいうと、肝臓は正確には工場1個ではなくて「工業地帯」である。肝臓に含まれている数百万個か数千万個か、知らんけど、とにかく大量の「肝細胞」のひとつひとつが工場なのだ。だから肝臓は工場の寄せ集めである。人体ってのはとかくこのように、機能をもつ細胞が寄り集まってひとつの臓器を作って、効果を上げる。


で、だ。肝臓に詰まっている無数の肝細胞それぞれで、加工の作業が行われるのだが、このとき、加工しきれなかった分の脂肪が「不良在庫」として、工場の中にたまっていくことがあるのである。


工業地帯をドローンで見てくれ。


工場が無数に寄り集まっている。


そこをぐっと拡大してくれ。


敷地内に、「脂肪」を詰めたポリ袋がうずたかく積まれている。


このポリ袋、長い間放置していると、やぶれるのだけれど、脂肪は液体というよりもスライムに近い形状をしているので……


工場の敷地内にある脂肪スライムがたまっていくと、そのうち「合体」してキングなスライムになる。すなわち肝細胞内の脂肪はだんだんサイズがでかくなっていく。


……といっても! あくまで、工場の細胞の「中で」増える。


だからドローンで上から見ると、工場一つ一つの色合いが、だんだん変わって見えるかんじだ。山々の紅葉が点々と色づいて、いつしか全体が紅葉するように……。




現代、脂肪肝というのは、肝臓の細胞のわずか5%が脂肪をもちはじめた状態で「気を付けましょう」と言われる。山の木々の5%が色づいても普通は紅葉とは呼ばない? いや、風流な人は、わずかな色味の変化をみて、「ああ、もう秋が来るなあ」としみじみするだろう。脂肪肝というのはけっこうやばい状態なので、早めに秋を予測するように、早めに捕まえることが大事なのである。




さてと冒頭の質問だ。ある画像検査をやっている人から依頼が来た。


「脂肪肝」の肝臓に含まれている、脂肪のサイズを測って欲しい、という。


うわあー。どこから説明しようかな。


工場の中にはさまざまなスライムがあることを説明するか。脂肪肝といっても木々の色合いは5%から80%以上まで幅広いんだけどどのへんを説明したらいいだろう。


質問の主は「画像検査」に役立てるためにぼくに質問をしているのだから……。






「承知しました。ではまず、何%くらいの脂肪肝の話にしましょう。脂肪(スライム)のサイズが大きいバージョンで測りますか? ちいさい方も測りましょうか。」


こうして、病理を人の役に立てていく。

2020年10月16日金曜日

圧を逃がし血流を確保し少しだけ風を通すということ

 デスクで使っているパソコンは2台あって、1台は公費購入のデスクトップ。こちらは患者の個人情報が大量に入っている診断用のもので、インターネットには接続されておらず院内ネットワークにしかつながらない。


そしてもう1台はノートPCでこっちはインターネット用、さらには院外での仕事のすべてを叩き込んである。論文、研究会の解説、雑誌や単行本の原稿など。バックアップは3重にとってあって一部はクラウドにも保存してあり、今ギガンテスに踏み潰されてもデータは生き残る(ぼくは死ぬだろう)。



ノートPCに向かっている時間が長い。デスクトップPCよりも長いと思う。別に病院の仕事をないがしろにしているというわけではなくて、診断用のPCというのはつまり「診断を入力するとき+α」にしか使わないからだ。情報検索、考えること、外部からのコンサルテーションに答えることなど、多彩なノートの仕事にデスクトップが追いつくわけがない。というわけで自然とノートPCの細部にこだわることになる。



昔はとにかくPC本体のスペックを高くすることに必死だった。そうしないと仕事にならなかった。でも今の時代はパワーポイントを何個開いても、超音波や内視鏡の動画をいくつ再生しても、動作にほとんど支障がない。正直、家電屋で売っているお仕着せのPCを適当に買ってきても十分に仕事になる。こういうことを言うとセミオーダーのPCを選んだ方が安いですよ的なおせっかいが飛んでくることがあるが、ぼくはPCを選んだり作ったりしている時間を省略してその分長く働いたほうが得だと考えるタイプの人間だ。多少割高でも置いてあるものを買ってすぐ使えるならそのほうがいい。ただしマウスとキーボードだけは別で、この2つは買い足す。けっこう頻繁に買う。デスクワークが長い人はみんなそうだろう。外付けのキーボードを使うことでノートPCのモニタから距離を離して、目や肩、背中への負担を減らす。


今日気づいたのだが、ぼくはこの外付けキーボードを、毎日微妙に違うポジションで使っている。今日はモニタを正面において少し左側に傾いたかんじで入力をしているし、昨日は逆に右側に10度ほど傾けていた。ときどきはひざにのせてしまうこともある。前後の間隔も毎日異なる。


まるで牧場の牛が毎日少しずつずれた場所で草を食むように、ぼくはデスクの上で「昨日のキーボードの痕跡」や「昨日の手垢」をかわすようにポジションを少しずつずらしている。そうやってもくもくもくもく、毎日少しずつ違う手の角度、少しずつ違うクビの角度、椅子の角度、腰の角度で、昨日とほとんど同じようなことを違う角度から眺めてみたらどういうことになるだろうかと、それっぽく傾いて自分の目線を変えているのだと思う。でもやっていることは、褥瘡をふせぐために体位交換をしているのと同じではある。

2020年10月15日木曜日

病理の話(464) 薬が違うんです

 血液の中にまぎれて流れている細胞、有名なものが3種類ある。


白血球。赤血球。血小板。


で、この、「白血球」というのにもまたいろいろある。こういう話をすると人が逃げていくので、あまり詳しくは語らないが、好中球、リンパ球、好酸球、単球(マクロファージ)、NK細胞などがあって、このうちリンパ球は更にTリンパ球とBリンパ球に分かれ、さらにTリンパ球はキラーTとヘルパーTとレギュラトリーTに分かれる。なおNK細胞はTリンパ球とどこか似ていて



まあいいわ、これじゃあまりにひどいだろう。もうちょっとわかりやすくする。



血管の中には3種類のスポーツ選手がいて、それぞれ「サッカー」「ラグビー」「相撲」である。


で、この、「サッカー」選手にはいろいろいて、フロンターレ、グランパス、セレッソ、ガンバ、レイソルなどがあって、このうちレッズの選手はさらに攻撃陣と守備陣に分かれ、さらに攻撃陣にはフォワード、ウィング、ミッドフィールダーなどに分かれる。なおセレッソはガンバとどこか似ていて


余計にわかりにくくなった気もする。そもそもラグビーは1種類しかいないし。




さて、これらがいっぱいあるというのは、それだけ人体の仕組みがフクザツであるということなんだけれども、今日はここから「がんの話」につなげてみたい。


「がん」というのもまたひとつの病気ではない。胃がんと大腸がんと肝臓がんではそこにある細胞が異なる。胃がんはたいていの場合、胃にもともとある細胞の「ふりをしている」がん細胞が増えるし、大腸がんは大腸にもともとある細胞の「ふりをしている」がん細胞が増える。


そして、「白血球のふりをしている」がん細胞もあるのだ。それが白血病や悪性リンパ腫と呼ばれるがんである。


これらは「白血球の性質をもったがん」だ。先ほど書いたように、白血球といってもいろいろあるので、つまりは、


・B細胞の性質をもった悪性リンパ腫


・T細胞の性質をもった悪性リンパ腫


があるし、もっといえば、


・キラーT細胞の性質をもった悪性リンパ腫


・NK細胞とT細胞の性質をもった悪性リンパ腫


というのもある。さらにさらに、


・B細胞の中でも形質細胞といわれる細胞の性質をもった悪性リンパ腫


もあって、究極的なことを言うと、


・B細胞になるかならないかというまだ幼いかんじの性質をもつ白血病


というのもある。




めんどくさい! なんで! がんはがんでいいでしょ? と思うかもしれないが、これを必死で分類するのには明確な理由があるのだ。


医学は進歩を続けることでどんどんオタク化している。


「悪性リンパ腫のうち、B細胞の性質をもっていて、しかもCD20という物質をもつものにだけ効く薬」や、「悪性リンパ腫のうち、B細胞もしくはT細胞の性質をもっていて、さらにCD30という物質をもつものにだけ効く薬」が開発されているのだ。


これは例えて言うならば、「サッカーJ1リーグの、セレッソ大阪に所属する、攻撃的ミッドフィールダーの選手が罪を犯したときにだけ出動する警察官がいる」みたいなものである。この警察官は、横でフロンターレのゴールキーパーが軽犯罪を犯していてもいっさい取り締まらないし、なんならセレッソ大阪の守備コーチが特別背任などを犯しても(つまりは同じセレッソだったとしても)一切関与しない。あくまで、


”セレッソの”


”ミッドフィールダーの”


選手でなければ捕まえようとしない。もっと言えば、今の医学は、さらにこれだけの分類では飽き足らず、


”セレッソの”


”ミッドフィールダーのうち特にツートップのシャドー的ポジションで動きがちな選手が”


”ワークマンで購入したロープを使って人を転ばせたときに”


のみ逮捕する、みたいな「細かすぎてつかまらない選手権」を開催している。




と、このようなことを逐一説明していると外来で日が暮れてしまうので、医者はよく、

「ちゃんと病気のことを調べます。薬が違うんで」

とだけ話して、あとは病理医に分類仕事をまるなげすることになる。

2020年10月14日水曜日

積み動画に罪はない

積み本が苦手で、買い漁った本はなるべく早く読みたいと気が競る。


でも本って飛ばし読みするとまったく頭に入らない。一割だけ役に立つ読み方、みたいなのって、ありそうに思うけど、時間に耐えられない。「最初の数章だけ読んだよ」みたいな本は、一ヶ月もしないうちにほとんど忘れてしまうことのほうが多い気がする。だから、あせらず、じっくりと読んでいくしかない。


そういうとき、積み本の表紙や背表紙のことを、なんとなく覚えてしまう。ぼくは未読の本を決まった場所に積む(本棚には挿さない)んだけど、本棚にあるときよりも積んでいるときのほうが、表紙のデザインやフォントなどを何度も見るためか、印象に残る。


順番を後回しにした本の表紙のことをずっと覚えている、ということがよくある。厚めの哲学書とか、網羅系の医学書に多い。


その意味では「積ん読も読書」なのだな、と思う。たしかに本というのは、買ってしまえば読まずとも、その人の心の中に居場所を得るものだ。「買うまでが読書」とはよく言ったものである。




しかし同じようにはいかないものがあって、それは何かというと、動画だ。


YouTubeをはじめとする動画サービス。


見ようと思った動画をチェックして、チャンネル登録をしても、未視聴のままでいるうちは、サムネや動画のタイトルが頭に残るということはない。


「積み動画」はうずもれていくだけなのである。……あくまでぼくの場合、だが。


動画は見たいものをすぐに見ないとすぐに過去になる。テレビ番組の録画もしなくなった。


積み本は急いで消化しようと思いつつ、その実、読まなくてもどこか安心している部分があるのだけれど、動画はそうはいかないのである。


積み動画というのはできないんだなと思う。




もちろん世の中には積み動画をするタイプの人もいると思うのだが、それはたとえば映画のブルーレイであったりサブスクであったりするのだと思うけれども、人気のYouTuberの動画をまとめて見ようと思う人というのはそれよりはるかに少ないような気がする。


だってYouTuberというのは常に新作を撮っているからね。過去を見ていない人でもすぐに見始められるような動画を、毎週、毎日のように。



未読の本から得ているナニモノカを、未視聴の動画から得ることは難しい。


そしてぼくは今日も、「どうせ見られないだろうから」と言ってYouTubeのチャンネル登録を一つ解除し、本を一冊買うことになる。

2020年10月13日火曜日

病理の話(463) めじるし良品

ぼくらの仕事の中に、手術でとってきた臓器を切って病気を観察するというものがあるのだけれど、このとき、


「とった臓器のどこに病気があるのか」


というのを探すのがそれなりに難しい。


臓器を表面からみても病気のありかがわからないことは、ままある。




わりと見やすいのは胃とか大腸、あるいは食道。これらは細かい違いはあるけれど、基本的にはパイプ状をしていて、病気の大半はパイプの内側にへばりつくように存在する。だから、パイプを切って展開すれば、直接病気を見ることができる……。


けれどもときには、その病気がよく見えないこともある。だから目印を必要とする。


王道のやり方としては、胃カメラや大腸カメラなどで、事前に医者が病気を観察したときの写真を振り返る、というものがある。手術の前に消化器内科医が撮影した写真をみながら、どのへんに病気があるのかを頭の中で組み立てる。地図をみながら現実の風景と照らし合わせるかんじ? いや、逆か、胃カメラや大腸カメラの映像は洞窟探検みたいにパイプの中に入り込んでいるけれど、病理医がみるのは「展開図」なので、「実際の風景をみながら地図でどこにあたるのかを考える」感じだ。



見づらいのは肝臓とか膵臓といった、「中が詰まっている臓器」。この場合、展開のしようがないので、直接切り開いて病気を探すしかないのだけれど、へんな切り方をすると取り返しがつかなくなる。細切れにしてしまっては元の病気の形状が読めないだろう、だから、最初から「あとで評価がしやすい断面がえられるように」病気をまっぷたつに切らなければいけない。イメージとしては、そうだな、竹取のおじいさんがかぐや姫をまっp……だめだ、かわいそうだ。光っているところにはかぐや姫がいるから、光っていないところを切る、そしたらそこにはかぐや姫が大事にしていた熊のぬいぐるみが……だめだ、かわいそうだ。


とにかく間違ったところを切ってはいけない。目印として何を使うか? この場合、CTの断層画像(わぎりにした画像)と、実際の臓器の形状とをてらしあわせて、だいたいこの断面だとどういう「切り出し図」になるかというのを予想して切るのだ。たとえば肝臓の場合、患者の体型にもよるのだけれど、「周囲にある門脈などが肝臓を通過する部分のへこみ」が「目印」になりやすい。あるいは、「肝臓の周囲についている靱帯」などだ。


目印のことをメルクマールと呼ぶ。なんだこの眠くなーるみたいな単語は、と思ってあらためて調べたらドイツ語だった。ドイツ語ってもっとゲッテルフンケンみたいな強い発音が多いのかと思ってたけどもうちょっと柔らかい単語もあるんだねトホテルアウスエリュージウム。


メルクマールはほかにもある。肝臓や膵臓の中を貫通するパイプは血管だけではない。胆管とか膵管といった管がある。この管のなかに、ゾンデと呼ばれる細い棒をつっこんで、それに沿って切ると、「事前に胆管や膵管の走行を確認していた場合には」どのあたりをどう切ったかがわかるだろう。ただ、棒をつっこむとまわりの組織がぶちこわれがちなので、あまり乱暴に扱うべきではない。ゾンザイにしてはだめだ。ゾンデでゾンザイにしてはいけない。なので、実際には棒をつっこむのではなく、「棒をつっこんだ気持ちで」実際にはつっこまずに胆管とか膵管の走行を頭に思い浮かべる、ということをする。


あとは……勘かな。勘は大事。勘は経験と理論に駆動される。ぼくは臓器の切り出しの勘に関しては研修医には絶対負けないし、今70歳くらいのボスたちには絶対にかなわない。医者が訓練をする理由のひとつは勘を身につけるためなのかもなと思ったりする。ベテランの勘はほんとうにフロイデ(すごいで)。

2020年10月12日月曜日

南極の氷を使ってもよい

ぼくが「同じ小説を何度も読むことはほとんどありません」という話をすると、もったいないなーという顔をされるのだけれど、その人に、たとえば同じマンガを何度も読むか、同じ音楽を何度も聞くか、同じ運動を何年やっているのか、とたずねてみれば、ぐっと唸ってそれっきり黙ってしまうのである。

だから、ぼくは「同じ小説を読み返さないこと」を、べつに気にしなくてよい。

あるいはぼくも、そのうち同じ小説を何度か読む日だって来るかもしれない。これはこだわりというよりめぐりあわせ、偶然の積算物であって、必然性をまとわない話題なのである。



とかく人は、自分の生き方を肯定するために人の生き方のエラーを見つけることに専念しがちである。「なんでそんなに忙しく過ごしているの、体壊しちゃうよ」みたいな言葉は、多くの場合は純粋に心配だけから出た言葉ではないと思う。かなりの高確率で、「もっとうまくやれよ、この俺のように」という自己アピールメッセージをスパイス程度に含んでいる。「私も昔はそうだったんだけどね、コントロールを覚えたら人生楽になったよ」。

知るか、何の武勇伝だよ。



このようなフレーズを純粋に心配としてぶつけることができるのは、「家族」くらいだ。カギカッコつきの「家族」。余計なことを何度言っても「家族だから」という理由でそれをポジティブに変換できる装置。もちろんここで家族の定義なんてそれぞれが勝手に決めればいいのであって戸籍にこだわる必要すらないのだが、ぼくはほとんどの他人とあまり距離を詰めたくない、つまりは家族を拡張する気がないし、ぼくのことを知りもしない人が「なんでそんなに忙しいの」というと「それは暇なときのぼくに興味がないお前の一方的な判断だろう、勝手に見るな、勝手に評価するな」と急に具合が悪くなる。



さて、

ぼくはもう40をこえた大人なので、具合が悪くなるからといってそれをそのまま言葉にすることはしないし、なんならそのようなできごとをすぐにブログに書くこともない。たまにぼくはある「やり方」をする、それは、「昔すごくいやだったことを、すぐに書かずに待って、待って、とにかく待って、忘れそうになるぎりぎりまで粘ってから文章にする」ということだ。「出会いたてホヤホヤのいやなこと」をすぐに文章にしてしまうと、関係者がそれを読んで微妙な気分になったりする。今日のブログについてもそうで、あくまで最近だれからも「体壊さないようにね」と言われた覚えがないからこそ書ける内容だ。もしTwitterやFacebookなどで安易に「体お壊さないでくださいね」と話しかけられた日だったらぼくはこの記事自体をお蔵入りさせてしまうだろう。


他人との距離を中途半端に詰めてくるタイプの人がこのブログを読んだら、「私のひとことのせいでこんな記事を書かせてしまった」と気に病んでしまうかもしれない。それは申し訳ない、ぼくと全く関係がない人間をぼくの言葉で傷つけるのはだめだと思う。自意識過剰という言葉があるけれど、過剰な自意識を喚起する触媒に自分がなってしまうのはなんか配慮の底が浅い気がする。




いちおうここまでが前段でここからが今日の本論なのだけれども、最近のぼくは「最近思ったこと」をすぐ反射させて文字にするのを控え気味にしている、少なくともブログでは活きの良い話題をとりあげないほうがいいのだろうなという気持ちが日に日に高まっている。外部から飛び込んでくる情報を自分の表面でだけ反射するリツイートスタイル、これはツイッター上などでは特殊な滋味があって悪くはないのだが、どうも今のぼくは内部に屈折して飛び込んできた粒子的情報をそのまま体の内部でさんざん乱反射させて減衰させて、しばらく時間を置いてから最終的にそのチェレンコフ光のログをとって、入ってきた粒子の質量を分析する、カミオカンデ型の文章を書いたほうが、自分のためにも他人のためにもいいのではないか、と考えている。

対極的に一番だめだな、自分に合わないなと思うのは引用リツイートだ。どんな話題を出しても「それ俺も知ってるよ」「そこ俺も行ったことあるよ」「それ俺も昔食ったよ」「それ俺も考えてたよ」と自分の話題に転換するような雑談、そういったものがいやだったからぼくは現実の世界でだんだん飲み会に出なくなった。人との距離感がぼくと似ている人は基本的に引用リツイートはしない。ぼくは人とあまり似ていないのでこのことを言ってもあまり共感はされないし、少なくとも共感の声が引用リツイートで出回っていくことはない。

2020年10月9日金曜日

病理の話(462) 創傷ならばそうしよう

「創傷治癒」というのは病理学で学ぶのだが、医学生も医者も、それを最初に学んだのが病理学だったということをたぶん覚えていない。けっこう序盤に習う。ほんとは病理学なんだよ! 病理のこと、わすれないで!


いや別にわすれてもいいけどな。



……創傷治癒と書くと漢字四文字のプレッシャーがすごいので、漢字を使わずに言い換えると、


「キズがなおる」


である。これでいいじゃねぇか。伝わる。




「キズがなおる理論」については、外科医をはじめ多くの医師が日頃からめちゃくちゃ真剣に考えている。そもそも、人体は「キズがなおるしくみ」を自前で備えているのだけれど、そこを医療で手伝おうと思うとこれがとても難しいのである。生半可な手助けをするとかえってこじれる。イメージとしては……


「めちゃくちゃ仕事ができる神マンガ家の元にアシスタントとして雇われた」とするじゃん。そこで、雇い主の神が描いた絵に、アシスタントが「こうすればもっとよくなるよね」といって、勝手にキャラを書き足したり背景の雰囲気変えたりしたらそれって重罪でしょう。万死に値するよね。


人のキズのなおりを手伝うってのはそういうことなんです。


キズって子どもから大人まですごく身近だから、かえって自分のやりかたで適当に治そうと思っちゃう。余計なことをして失敗する。これ、あなたやわたしに言っていることではなくて、人類の歴史に対してそう言っている。




キズの種類や深さによっていろんな対処法があるのでここでは多くは触れないけれど、大事なことは2つ。


「清潔」と、「血の巡り」。


清潔にしていないキズはなおらない。なおってもじくじくと膿んで、それが長引いてしまう。またキズがひらく。


血の巡りが悪いとキズはなおらない。血液にのって、人体のさまざまなお役立ち物質が流れてきて、キズのなおりを手伝うのだけれど、血が流れてこないとそれができない。


シンプルでしょう? でもこれが奥深いのよ。




たとえば傷口の消毒について。まず今の医療では、傷口に消毒薬を使うのは「専門家のみ」で十分です。素人が傷口に消毒薬を塗ってもいいことがない。


浅い傷なら、「消毒」よりもとにかく流水で洗い続けることです。キズの原因となった場所に応じて、付着した砂とか泥とか水とかを、清潔な水で洗い流すこと。それ以上はマジで必要ない。イソジンもマキロンもいりません。


深い傷なら? それは自分でなんとかしようとしないでくれ。



あと、これは外科医のための本を読んでいてなるほどなとおもったのだけれど、外科医がキズを縫うときに、皮膚の中のところをあまり強く縛ってしまうと、血液が途絶えてかえって治りが悪くなるって言うんだよね。ぼくなんかは、「きちんと閉じないと汁が漏れる!」と思って、なんとなく強く縛るのかなーなんて思ってたけど、そうではなかった。血液を保つほうが大事なんだ。



清潔と血流。これ、大事なんです。




むかし、日本では「湯治」というのがあった。温泉がキズとか病気を治す、ってやつね。あれはなんなんだろうなというのを考えていたんだけど、たぶん2つの「効果」がある。


ひとつは、むかしのひとびとは「清潔な水」を用意することが難しかったということ。「煮沸消毒」についてはお産の際などに用いられていたかもしれないのだけれど、上水道がない時代に、キズを十分に洗えるようなきれいな水なんてなかったんだよね。川の水? 実はあんまりよくないんだよね、生活排水だって流れているし、自然に住むさまざまな病原菌もいる。山奥ならまだしも。つまり、昔の人がキズを洗うと、それが原因でかえって悪い菌にやられてしまうことがあったと思うのだ。


ところが温泉は……熱くて菌が死ぬし、イオウの成分とかでも菌が暮らしにくいし、源泉かけ流しなら、「ほかの水」よりは清潔だったんじゃないかなー。だから、「相対的に」、温泉以外で洗うのに比べると、悪い病原体がキズに付きづらかったんじゃないかなあ。


つまり、きれいな上水道が完備されている現代において、「温泉で洗う」ことにはもう意味がないんですよね。


あともうひとつ。温泉って血流がよくなるでしょ? これ、いちぶのキズにはよかったのかもしれないんだよね。創傷治癒……じゃなかった、「キズがなおる」を促進して。昔は暖房も冷房もなかったから、特に冬は、寒い床にペラいふとんで療養していると、どんどんとこずれもできただろう。そういうときの温浴ってのは今よりはるかに意味があったんじゃないかなあ。




あれ、創傷の話をしていたはずが、いつのまにか温泉論になってしまった。温泉っていいですよね。また温泉旅行に行きたいな、いつかいこう、そうし(略)

2020年10月8日木曜日

欠落の呼吸

踏切、背の高い植物がはえた畑、そして橋。


「あっ」と声が出る風景。いがらしみきおはかつて「なんでみんな橋があるとすぐ『あっ橋だっ』っていうんだよ、バカみたいだぞ」とアライグマくんに言わせたが(ぼくはこのネタが好きでブログにも何度か書いている)、ほかにも線路や踏切、ひまわりや菜の花が群生する丘なども同様の現象を引き起こすことを知った。


あっ沼だ! はちょっとマニアックである。あっ湖畔だ! というのもちょっとやりすぎな感じがする。あっ廃屋だ! もあざとい。


単に風光明媚ならよいというものでもなく、ましてやインスタ映えとも関係がない。



ぼくにとって、この「見たら思わずあっと言ってしまう風景」には、絶妙のさじかげんで「かつての人間の意図」が含まれているように感じられる。踏切や橋というのは、昔だれかが作ったものであり、かつ、最低限のメンテナンスが必要なものでもあり、そして、「今この瞬間の、人の不在」を感じさせるものだ。


ではひまわり畑はどうか?


自然に群生するひまわり畑というのを見たことがない。菜の花畑も整備されたものしか見ない。けれどもおそらく自然の世界には、人がいっさい手を入れていないのに人の心をうつような、息を呑む群生というのがあるのだろうとは思う。


ただしこれらもやはり、なぜだろう、「人がいた痕跡」、そしてめぐりめぐって「人の不在」を感じさせる風景だと思うのだ。遠い記憶とかデジャブとか、そんなチャチな話をしたいわけではないのだけれど。





引き上げられた小舟にまとわりつく古い網。


せみのぬけがら。


奥が見通せる程度の狭い洞窟。


人が不在であることを「思わされてしまう」モチーフのことをと最近よく考える。誰にとってもそうだと言うつもりは無い。ぼくにとって、なぜか、「誰もいないなあ」という言葉とセットになっていて、だからこそ人目もはばからずに「あっ」と言ってしまう風景がある。欠落の圧によって横隔膜がおされている。陰圧によって吸気し、陽圧によって呼気し、声帯に圧をかけて、「あっ」と言う。

2020年10月7日水曜日

病理の話(461) ブラウン運動という有名だがいまいちよくわからんアレ

ブラウン運動ってご存じですか?


ひげそりの立場を認めるためのボランティア? いやそういうことじゃない。


中学校くらいで習うんだけど。


https://www.youtube.com/watch?v=SGOfu24RzlA


この動画を1分くらい見るとなんとなくわかる。液体に浮かぶ小さな粒子を顕微鏡で観察すると、ブルブルジワジワふるえてるよね。


液体にマイクロメートル単位の小さなものをうかべると、それに四方八方から、いきおいよく「水分子など」が激突してくるので、粒子があちこちにはねとばされるのです。これをブラウン運動という。


ブラウン運動でだいじなのは、牛乳の脂肪滴みたいな比較的おおきな物質がブルブル小刻みに触れることではなくて、それをふるわせている「小さな小さな物質たちの猛烈な飛び交いかた」のほうです。つまり液体の中には、目に見えない高速の飛びはねが必ず存在しているのだ、ということ。



このイメージ、実は生体の挙動を考える上でとても大事。



細胞の中にはさまざまな物質が含まれていて、これらはときに、「結合」することで情報のやりとりをする。急にわかりづらいことを言ったのでまた例え話にしよう。


ルンバとその充電器のことを思い浮かべる。ルンバがあちこち駆け回って(?)、さいごに部屋の片隅にある充電器にガチャンと接続するとピカッと光って(?)充電モードにはいる。


このとき、ルンバを「リガンド」とよび、充電器を「レセプター」とよべば、細胞の中で起こっていることを説明しやすい。


ルンバリガンドにはさまざまなものがある。たとえば……EGFという名前のルンバリガンドがある。


これが、EGFR(RはレセプターのR)という名前の充電器レセプターに、ときどき結合するわけだ。ガッチャン。


これで情報が細胞内にジャーンと伝わる。ルンバが充電されるだけじゃなくて、コンセントを通じて家中に必要な情報が伝わって、細胞が機能を変えたりする。


この「結合」、いったいどうやって起こっているのか? ルンバは自走するけれど、細胞内のさまざまな伝達物質は自走しない。じゃあどうしているのかというと……。


先ほどのブラウン運動の説明を思い出すのだ。もともと液体の中にある物質というのはだまって静止していない。ものすごいスピードで飛び交っているのである。イメージでいうと、ぼくが今いる12畳くらいの仕事場のスペースに、50万個くらいの色とりどりのルンバを行き来させるかんじだ。


足の踏み場もない!?


いやごめん、ルンバに例えたのがわるかった。実は、床だけでなく空間を自在に飛び回るんだ。ルンバドローンである!


えっそんなことになったらぼくの頭にぶつかって破裂するよね。


でも細胞内ってのはつまりそういう環境なのだ。これだけの密度で、多様な物質が、エクストリームモードのスカッシュみたいな状態になって、じゃんじゃん飛び回って衝突しまくっている。その先にときおりレセプターがあってガッチャン! ってする。





で、今日のお話はイメージ喚起できればいいかなと思うし、これで終わりでもいいんだけど、最後に。


人間が用いる「薬物」の薬効成分もまた、細胞の内外で、何かに結合して活躍する場合がある。でも、細胞内にはもともと、とんでもない数の「先行ルンバ」たちがいる。


ここで薬効を効かせるためには、ものすごい調節が必要だってこと、わかるだろう?


微量じゃ効かないよね。弱いものじゃ効かないよね。そもそも細胞内にどうやって輸送する? 大きさも調節しないと。ていうかレセプターが本当に存在するの? そのあやしい薬は……。


細胞に何かを与えるにはとてつもないハードルをクリアしなければいけない。だから、世に出ている信頼できる薬は、「臨床試験」のようなめんどくさいハードルを何度も何度もクリアしたものばかりだ。




それを横から出てきてとつぜん、


「このキノコにふくまれる成分は体にいいんですよ~」


なんて言われても、ブラウン運動からはじまるあれこれを知っているぼくは、「そのキノコの薬効成分がどうやって細胞内にとどいて、どうやってルンバに勝つんだよ」としか思えないのである。このイメージ、持っておいてほしい。医者が出す薬ってボス猿ルンバみたいなエリートばかりなんだ。

2020年10月6日火曜日

最後だけが実話

このあとお惣菜を買いに行こうと思っているのだが、もう少し待つと値引きのシールが貼られそうだなと思ったので、あと15分ほど待つ。この間にブログを書くことにする。


そうやってタカタカと打ち始めたがどうもスピードが出ない。爪が伸びているからだ。さっそく爪を切る。これで3分ほど使った。あと12分。


ここから話題を考える。今日は、飲み会の話をする。


ぼくは飲み会がきらいだ。人に会うのもきらいになってきている。何が一番きらいなのだろうとしばらく考えた。2分使った。


たぶん名刺がきらいなのだ。名前に興味がない。顔が覚えられない。話題は覚えている。だから関係を結ぶためには長く話をするしかない。でも名刺はそこを一瞬で詰めようとする。ほら、これで話題が増えるよね、という圧があの小さな紙の中に満ちている……。





話題がこれ以上ふくらむ気がしない。そもそも飲み会がきらいな理由を名刺というアイテムひとつにおっかぶせることに無理があった。なので話題をかえよう。1分考える。





最近は、よく知らない人の本を読むのが楽しい。特にエッセイ。知っている人のエッセイは知っていることが書いてあってつまらない。でも、義理と人情で、知っているつもりの人のエッセイを読んで、「この人のことずいぶん知っているつもりだったけれど実はあまり知らなかったんだな」という驚きに衝突することもある。つまりそう簡単に言えることではない。上手なエッセイストというのは、ほんとうによく「ぶつかってくる」。その衝撃がたのしい……。




あと6分くらいある。まあいいか、お惣菜じゃなくて冷凍食品にすれば、値引きシールとか関係ないもんな。さっさと買いに行き、さっさと食って、「もう、何もやらなくていい時間」をそのぶん5分くらい伸ばした方が、今日のぼくにはちょうどいいのかもしれない。「あれをやるためにあと〇分」の生活からはやめに逃げ出したほうがいい。もうでかけることにする。そういえば先日、すべての腕時計をなくした。

2020年10月5日月曜日

病理の話(460) 診断学における誠実さとは

本稿でいいたいことはシンプルである。病理医は誠実でなければいけない。診断は誠実でなければいけない。

そのために、具体的にはどうあるべきか。箇条書きにしておく。



・病理診断を書く際には「誰がいつ読んでも筋道が通っている文章」を目指す。時と場合によって読み方が変わってしまうような日本語を使ってはならない。


・自分の判断基準のうち、他人に言葉で説明できない部分はいわゆる「主観」と考える。「他人を言葉で説得できる」ならば、その説明には客観性がある。病理医はできるだけ客観的に診断をするべきである。ほかの医者が主観で判断する余地を残すためにも、病理医はできるだけ客観的でいるべきである。


・楕円が年を経て正円になることがないように。三角形が年を経て四角形になることがないように。「誰がいつ読んでもその通りだと言える部分」をきちんと押さえておく。これは形態診断のキホンであり日本語力を要する部分でもある。


・背景の知識を多数もっている病理医にしかわからないような文章はクソである。知識でけむにまかない。誰も得しない。


・「保身のために断定を避ける」のは絶対にやってはならない。「断定すると間違っていたときに訴えられるから」という理由で診断文の確度を下げるような病理医は医師免許を捨てるべきである。


・逆に、「科学的に断定できない」ならそのことをまっすぐ書くべきである。「病理医がわからないというならばその時点では絶対にわからないのだ」ということを懇切丁寧に解説できること。


・「これで十分です!」と言われてからさらにもうひとつ深められないかどうかをいつも考える。「勉強になりました!」と言いたくなったらさらにもうひとつ勉強できることを探す。


・揶揄をしない。意図を汲む。事情までを見通す。


・患者のために学問をする。自分のために休息をとる。同僚のために配慮をする。息子のために誠実でいる。

2020年10月2日金曜日

ある編集者に送ったメール

医書業界について。

「筆者」として多動的で情報量過密なタイプを、

ぼくら(医師側)は少々もてはやしすぎたかな、

ということを最近はよく考えています。

 

医師は何かあればすぐ表、すぐチャート。

とにかく情報がめったくそに多い、図鑑みたいなものを作れば、

それが「業績」になると思っています。

けれども、それを解説する医師の文章力はわりとクソなままですね。


編集者のように国語的な力が高い方々はよくがまんしているなーと思います。

要は読めたもんじゃないんですよ。これじゃ読者は離れます。

 

文脈を共有する人間どうしは、

クソな文章でも内容が濃厚なら勝手に読みとるというか、

表面に置かれている字の向こうの情報を勝手に探るというか、

説明が少なく考察点の多いアニメを見る感じで楽しんでいるので、

それはそれでいいんですけど、

初学者とか、あるいは

自分の専門領域と微妙に違うところにこれから興味を拡張しようと思っている人、

これはたとえば雑誌のメインターゲットだと思うんですけど、

そういう読者に対するにあたって、

筆者のほうがきちんと「育ってない」、と思うわけです。

これはもう切腹しながら書いています。

 

一方そんな中で、編集者というのは、この先、

独立独歩の開業経営者みたいな存在になっていくのかもしれません。

SNSで編集者たちが目立つようになって幾星霜ですが、

けっきょく彼らはすべて「自分で育つしかなく」、

自分で世界と接続していくことを選んでいます。

 

鋭い批評家や鋭い哲学者ほど、われわれ医師はものを考えてないなと思う昨今です。

私たちは使いづらいコマですね。

でも、そこから鉱脈をほりあてることはわりとできちゃうんです、

医学書というのはそういう世界だろうと思っています。

鉱脈に潜む原石は「研磨する」ことで宝石になる。

筆者のほうはまだまだ磨かないといけません。


編集者は全員がゴールドハンターみたいなものです。

そんな人間たちをかんたんに促成栽培できるわけもなく……


筆者は育てるもの。

編集者は勝手に育つもの。

これを逆にすることはできないのかもしれません。

医者の大半は「自分は勝手に育つ」と思っていますけどね。

育った結果がこの程度でしょう?

たぶんもっと育てたほうがいいと思います。


そして、編集者というのは、育てることが難しい。

勝手に育ってもらうしかない。

ゴールドハンターは育成するものじゃないですよ。

思って狙って自分で伸びるものです。


どこかで勝手に育った若い才能と巡り会うまで、

あなたは代わりに全部を引き受けて、

多忙で死ぬしかないんだろうなーと、

けっこうマジで心配しつつ応援しております。

 

市原拝 

2020年10月1日木曜日

病理の話(459) そこでもうひと粘りする

雑然と書く。

○○歳、ながびく下痢。診断がつかなくて、大腸カメラから粘膜をつまむ。病理医~たのむよ~なにか見つけてくれよ~。主治医も祈るようだ。患者ほどではないかもしれないが。あるいは、患者よりも、か?

そして依頼書に丁寧に書く。A病? B病? C症候群? D病? E感染症? どれもしっくりこない! そう書く。


すると、病理医はまず顕微鏡を見る。とりたててそこに何も見えていないように思ったとしても、主治医の思いが届いていれば、そこでもうひと粘りする。

具体的には、染色方法を変えてみる。ひとつの染め方では見えてこない特殊な病態だったら? 珍しい染色を使わないと普通の病理医ではまず気づかないような病気が隠れていたら? そうやって、掘り進む。




これが難しい!




「もうひと粘り」というのがとにかく難しいのだ。プロの医師なんだからいつも粘ればいいじゃないか、というツッコミはむなしい。なぜなら、医師は基本的に必ず粘っているからだ。そして、わりと頻繁に、

「これは検査で見つかる病気ではない」

ということを経験する立場にもいる。けっこうあるんだ。検査で何でもわかるわけではない。この検査は陰性、それでもほかにやることがまだある、というケースがあるんだ。

だからつい、検査で一通り粘って何も見つからなければ、診断書に


「何もなし。」


と書きたくなる(実際にそうは書かないがそういうかんじのことを書く)。





けれども、主治医が、そして患者の思いが伝わってくるとき。

そこでもうひと粘りする! 技術もいるし経験もいる、膨大な知識もいる、そしてけっこう運がいる。

で、粘った末に、あっという叫び声と共に、思いもよらない病気のひとかけら、氷山の一角が指先にひっかかってくることがある。




どれくらいの頻度であるかというと、そうだな、月に……年に……1度くらい。








30年はたらけば30人救える。そういうレベルの「もうひと粘り」。

言うほど簡単ではないよ。ぼくだって毎日折れそうになっている。でもやるんだ、それが仕事だから。