2020年9月9日水曜日

病理の話(452) めんってなんすか

手術で胃とか肝臓とか肺とか乳腺などの臓器を一部切り取ってきたあと。


その中に含まれている病気を、肉眼で、あるいは顕微鏡を用いて、見て見て見まくる。このときうっすらと湧き出てくるのはリサイクル精神みたいなものだ。「とにかくあるものは全部すみずみまで活用してやるぜ!」という気持ち。


あるいは、「どうせ体の中から採ってきたんだ、体の中にあるときにはたどり着けなかった本質までとことん迫ってやるぜ!」という強い意志。


手術をする前に、臓器を体から取り外す前に、医者たちはよくよく検査して、よく考えて、「おそらくこういう病気であろう」という推測を、9割9分くらいの精度でゴリゴリ進めていく。


「胃がんだろう、漿膜下組織まで達しているだろう、リンパ節には2個ほど転移しているだろう、がん細胞が作る形状は『低分化腺癌』と呼ばれるものだろう……」


これらは本当にズバズバあたる。今の医学はすごいのだ。




それでも、実際に採ってきた病気を顕微鏡で診ることで、上の推測が、わずかーに修正されることがある。



「胃がんだった、漿膜下組織まで達していた、リンパ節3個に転移していた、がん細胞が作る形状は『低分化腺癌が95%で、高分化型管状腺癌と中分化型管状腺癌が5%だった』」



ただこれだけの変更であっても、その後の治療方針にわずかーに影響する「かも」しれない。まあ実際にはこの程度だとあまり影響はないんだけど……。

でもそこを見極めるのは病理医のとても大事な仕事のひとつである。




微弱な修正をくり返す。ほんのちょっとのずれを直し続ける。調理実習でガミガミうるさい家庭科の先生の気分で。とめはねはらいだけで1点減点する国語の先生の気分で……。




この修正が20年くらい積み重なると、その病院、その専門領域、さらには医学の「底」が少しだけ上がる。少しだけ進歩する。少しだけ確度が高くなる。




サッカーグラウンドの芝をメンテナンスする気分で。


出版前の本の誤字を探し出す気分で。


動物の爪を切りそろえるで。




メンテナンスをする。人は一生、自分の体をメンテナンスしながら暮らしていくものだが、我々は医学の体をメンテナンスし続けていく。